奴は暗闇から私を見つめている。
その赤い瞳が月光に照らされたとき、静かな森に誰かの叫び声が響き渡るのだ。
そう、それは――私の声。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
草木や羽虫すら寝静まる夜の森が、時折オレンジ色に照らされる。
木々の間から漏れだす熱気は、正確に私の足取りを追ってきていた。
『気をつけろ! 右からくるぞ!』
「ほい!」
「うわっ!」
とっさにしゃがんだ頭の上を、炎の柱が通り過ぎる。
「あちっ!」
髪の毛が焦がされるのは、これで何度目だろう。
ぱたぱたと頭をはたいて火を消しながら、私は再び走りだす。
まるで目印のない森の中を、無我夢中で駆け抜ける。
もうどこをどうやって走っているのかすらわからなかった。
だというのに、胡桃は私の足取りをまるで透視しているかの如く追いかけてくる。
ただ単調に後ろから追いかけてくるわけではない。
正面で待ち伏せしたり、岩の陰から飛び出たりと、同じ登場の仕方はないのではないかと思えるくらい様々な方法で胡桃は私を追ってきた。
「意外と素早いね! どこまで逃げられるかなー?」
まるで鬼ごっこでもしているかのような呑気な台詞が森に響き渡る。
しかし足を止めるわけにはいかない。
口調はふざけていても、襲ってくる槍は確実に私の急所を狙っていた。
「はーっ! はーっ!」
体全体が、悲鳴を上げている。
脇腹が激しく痛み、私は木を背に休憩をはさむ。
『まだか⁉』
(ま、待ってくれ、弥怒……。槍に刺される前に、肺が焼けて死んでしまいそうだ)
『大丈夫だ。人はそれしきでは死なん。さあ、走れ!』
(む、無茶だ……)
私が震える膝を叱咤し、どちらへ行こうかと顔を上げたその時だった。
がさり、と頭上から葉を揺らす音が聞こえ、何かが私の目の前にぶら下がる。
それは、さかさまになった人の顔。
「逃げても無駄だよ?」
「ぎゃぁああああ!」
叫ぶよりも先に足が出ていた。
蜘蛛の巣が顔に張り付き、ぬかるみで足が泥だらけになっても私は足を止めない。
これは私がお化けツアーで求めていた恐怖とは明らかに違う。
私はもっとこう、心理的なヒヤッとしたやつを楽しみにしていた。
まさかこんな物理的な恐怖に心臓がバクバク音を立てる未来など、まるで想定していなかった。
『おい、先ほどから同じ場所をぐるぐる回っておるぞ!』
(そう思うなら道案内してくれよ!)
『その必要はない。このような低木の森、星を見ながら木の上を走れば、なんてことはない』
(んなことできるかっ‼)
ここまで全速力で走っていると、弥怒との会話にすらエネルギーを割きたくなかった。
もう、限界が近い。
私は小さな沢を見つけ、近くの岩壁に身を寄せる。
人一人が通れるほどの洞窟に体を押し込み、その陰から周囲の様子を窺う。
土の香りに包まれながら、私は息を殺してじっと待つ。
しばらく待ち続けても胡桃は現れなかった。
「撒いた……か?」
額から際限なく落ちてくる汗をぬぐいつつ、私は安堵のため息をつく。
すると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「なんだ私は今忙し――」
「ばあっ!」
「ああぁぁぁぁあああああああ!!!」
森に野太い絶叫がこだました。
穴からはい出した私の目の前に、鋭利な切っ先がつきつけられる。
胡桃はあきれたようにため息をつく。
「ねぇ、ここをどこだと思ってるの? 平安さんが隠れている場所なんて、すぐにわかっちゃうんだよ?」
「ど、どうして……」
「ん? そんなの聞けばいいだけだよ。どっちに行ったの、ってね」
にやり、と笑った胡桃の顔が、青白く照らされた。
私はその光源に目をやり、ぎょっとする。
人魂だ。
青白い炎がふよふよと宙に浮かんでいる。
ひとつだけではない。
何十という数の人魂が、私と胡桃を中心に集まってきているではないか。
私はまばたきするのも忘れて、周囲を見回す。
「あわ、あわわわわわ」
体が震え、いうことを聞かない。
『おい、しっかりしろ、平安!』
「む、無理だ、に、逃げられない‼」
『あきらめるな! さあ立て‼』
「無茶言うなよ、もう、身体に力が――」
がちがちと歯を鳴らしながら、匍匐前進で私は逃げる。
がしかし、私のか弱い心ははとうに折れかけていた。
むしろ、よく持った方だと思う。
「はい、もう追いかけっこはおしまい。これで遠慮なく……ふたりそろってお葬式ができるね……? お代は……親族の方たちから頂こうかな……?」
じりじりと迫ってくる胡桃に私は手を振り乱し牽制する。
「く、来るなっ」
わかっている。
こんなことをしても、武器を前にすればまるで意味がないことくらい。
私は心身ともに、絶望の色に染まっていた。
胡桃はふっと軽く笑うと、槍を構える。
『おい、平安! 構えろ! 来るぞ‼』
「も、もうダメだッ!」
『平安ッ‼』
弥怒の怒号と同時に、胡桃のしなやかな腕から槍が飛び出す。
周囲には木も岩も何もなく、逃げも隠れもできない。
もはや、一巻の終わりだった。
私はただ、痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だと頭の中で祈りつつ、両手で顔を覆った。
両目をぎゅっと強くつぶり、私は身体を固くする。
しかし待てども待てども、槍が私の体を串刺しにする痛みは、やってこなかった。
私は恐る恐る、目を開ける。
そこには、眉をひそめ、苦虫を嚙み潰したような胡桃の顔。
伸ばされた腕、あと少しで届きそうな槍の穂先。
だが胡桃がどれだけ力任せに押そうとも、槍がそれ以上先に進むことはなかった。
なぜならそこには――黄金色に輝く障壁が立ちふさがっていたからだ。
「こ、これはっ!」
驚いた私の目が、自分の右腕を見てさらに大きく開かれる。
「なっ⁉」
腕が、光っている。
弥怒の札を初めてみた時と同じように、私の右腕が輝いていたのだ。
(み、弥怒! 何かしたのか!?)
とっさに私は、この状況を作り出せるであろう人物に問いかける。
『あ、ああ。ま、まさかこれほどに岩元素がお主の体をよく通るとは……』
珍しくも弥怒ですら動揺している。
視線を戻せば、胡桃は歯を食いしばり、さらに火力を増していた。
足元の草は完全に灰となり、黒い煙をブスブスと上げている。
周囲を舞う蝶の数も格段に増え、森が赤々と照らし出された。
それでも私と胡桃の間に張られた薄い膜は、びくともしない。
「くっ」
とうとう胡桃はあきらめたのか、槍を引く。
びゅんと槍が大きく振り払われた後には、穂先を覆っていた火炎も、舞っていた蝶も幻の様に姿を消した。
あたりは静寂を取り戻し、人魂の青白い光だけがゆらゆらと揺れている。
「まさか、神の目もないのに、元素力を使うなんて……」
胡桃は大きくため息をついた。
「やっぱり仙人の幽霊は、私じゃダメかぁ……」
申し訳ないほどに肩を落とす胡桃。
(なんだかよくわからないが、助かった、弥怒)
未だ淡い光を残す腕を見て、私は思い出したかのように弥怒へ礼を言った。
『ああ、それは構わぬが、妙だな』
弥怒は上の空で訝しがっている。
(どうしたんだ?)
『その、だな。最初にお主の体に入った時、お主の体は普通の体だった。ここまでの共鳴が起こるなど、考えすらしなかったものだ。しかし、ここに来るまでの途中、急に岩元素がお主になじむような感覚があった。そうだな、望舒旅館に止まる前と後ではまるで違う。お主、己れが酔いつぶれている間に、何か変な物でも食したか?』
そんなことを聞かれても、私もあの時同じように酔いつぶれていたのだ。
わかるはずもない。
右手の光は徐々に収まっていき、今はもう掌がほんのり光を放つだけとなる。
手のひらをくるくると裏返してみても、特に光っている以外変わった様子はない。
私は弥怒と同様に、うーん、と首を傾げた。
「あのー、いいかな?」
見れば、胡桃がこちらをジトッとした目で見つめている。
「おい、私は自分から棺桶に入るようなことは決してしないぞ!」
私は身構えるも、胡桃は肩をすくめる。
「もうそっちはあきらめたよ。はぁ」
それを聞いて、私はほっとした。
「じゃあ……!」
あきれめてくれるのか、と言いかけたところで、胡桃は槍を置き手近な石に腰掛ける。
「こうなったら最後の手段。お話をしよう」
だめだ。
全然諦めていなかった。
だが、話し合いなら大歓迎だ。
こぶしとこぶしのやり取りは、苦手だからだ。
あ、いや、拳と槍か。
今考えても、明らかに不公平である。
私は嘆息し、目頭を指で押さえつけた。
「話し会いで何とかなるなら、最初からそうしてくれよ……」
「まあまあ、まあまあ。で、私の用があるのは、平安さんじゃなくって……その中にいる弥怒さんの方」
『ぬ?』
呼ばれて弥怒が反応する。
胡桃は先ほどまでと打って変わり、真剣な表情で訪ねてくる。
「弥怒さん、あなたは本当はこうなるかもしれないとわかっていたんじゃない?」
『……』
弥怒は押し黙った。
ん?
どういうことだ?
私は軽く混乱した。
こうなること?
胡桃に襲われるってことか?
弥怒が、わかっていた?
まさか。
私を置き去りにして、会話は進む。
「なんでそんなリスクを冒してまで、ここまで来ようと思ったの」
『おい、平安。すまぬが、通訳をしてくれ』
(あ、ああ……)
訳が分からなかったが、私はとりあえず弥怒に従い、弥怒の言葉をそのまま胡桃へと伝える。
「その昔、伐難と言う仙人がいた。伐難や他の夜叉たちが未練を残していたらと思い、ここまで来た」
胡桃はそれを聞いて、わずかに表情を曇らせ、あごに手を当てる。
「伐難、ね」
しばしの沈黙。
まるで何かを知っているそぶりの胡桃を、私と弥怒は固唾をのんで見守った。
やがて胡桃は大きく深呼吸すると、何かを決意したように小さくうなずく。
「あんまりお客さんの個人情報を話すのはよくないことなんだけど、今回は仕方ないか。うん」
そしてこちらへと向き直ると、私の目をまっすぐ見つめてきた。
正確には、私の瞳の奥にいる、弥怒を見つめていたんだと思う。
「あのね、弥怒さん」
「なんだ」
「もし私が、その伐難って子を知ってるって言ったら、考えを変えてくれる?」
『何だと⁉』
私は通訳することも忘れ、驚嘆した。
胡桃が、伐難を知っているだって?
そんなはずは。
数百年以上前の話だぞ。
『とりあえず、話を聞こう。おい、平安』
弥怒に促され、私は弥怒の言葉を伝える。
「とりあえず、話を聞くと言っている」
「わかった」
胡桃は目を閉じ、何かを思い出すように考え込むと、ゆっくりと語り始めた。
「その子と出会ったのは、私が往生堂を継いで、間もない頃だった――」