護法戦記   作:ほすほす

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私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

取材のため、私は弥怒と層岩巨淵にやってきた。
とてつもなく大変な道のりだったが、まあ何とか頂上までやってこれた。
休憩したいのもやまやまだが、早くこの辺りを見て回らないとな。
帰り道のことは、もう考えたくもない……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


護法戦記 28話 影

 

「んぎぎぎ……! ぷはぁっ! はぁっはぁっ」

 

 

 何とかよじ登った岩山の頂上で、大の字になって寝転ぶ。

 

 ギラギラと照り付ける太陽に伸ばした右手は、土で汚れていた。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、額に浮かんだ汗を袖口でぬぐう。

 

 ふう、とひと息ついたのも束の間。

 

 強い風が吹き砂埃が巻き上げられると、油断していた私へ何ともまあ見事に降ってきた。

 

 

「うえっ! ぺっぺっ」

 

 

 慌てて体を起こし、口の中の砂利を吐き出す。

 

 愚かしいことに、ずいぶん前から私はこの過ちを何度も繰り返している。

 

 おかげで全身砂まみれだ。

 

 

「休憩したところばっかり狙わなくたっていいじゃないか……」

 

 

 ため息交じりにまくっていた袖を下ろすと、さらさらと内側から溜まっていた砂が零れ落ちる。

 

 

『……その、平安。本当に、よかったのか?』

 

 

 いつになく申し訳なさそうな弥怒の声が頭の中で響いた。

 

 

「だからいいって言ってるだろ。私が来たくて、ここにいるんだ」

 

 

『しかしな……。やはり申し訳ない。まさかこの場所が禁域に指定されていようとは。お主がここへ来たがらなかった理由もよくよく分かった。己れは、本当に知らなかったのだ』

 

 

「なんだ、いつになく言い訳がましいじゃないか」

 

 

『……』

 

 

 ちょっとした冗談のつもりだったが、弥怒は黙り込んでしまった。

 

 少しイヤミが過ぎただろうか。

 

 まあ確かに弥怒の言う通り、ここに来るまで大変だことは間違いではない。

 

 何度も何度も、壁にぶち当たったのだから。

 

 まず手始めに、街道沿いに進んでいると道は千岩軍によって大々的に封鎖されていた。

 

 物々しい雰囲気だったが、これは想定の範囲であったとだけ言っておこう。

 

 

 層岩巨淵は璃月の国境近くにあるため、群玉閣の目も届きづらい。

 

 宝盗団も多く出没すると聞く。

 

 関係者以外立ち入り禁止、というのもうなずける警備だ。

 

 私は大きく迂回し、岩壁伝いに層岩巨淵へ侵入するルートを選ぶことにした。

 

 層岩巨淵は非常に巨大な壁を周囲に形成する地形だが、突破が難しいわけではない。

 

 モンドのドラゴンスパインのように崖がまっすぐにそそり立っているわけではなく、斜めに突き立ちとぐろを巻いているのだ。

 

 つまりその流れに沿って登りさえすれば、時間はかかるが踏破は可能。

 

 予想していなかったことと言えば、私の体力のなさぐらいだろうか。

 

 

 なんにせよそんなわけで、私は何時間もかけてやっと層岩巨淵が織りなすカルデラの頂点までたどり着いたというわけだ。

 

 少しくらい休憩させてほしいと思う気持ちもわかってほしい。

 

 砂埃が付いたままの口元からは苦笑が漏れる。

 

 

「はは、こんなところ千岩軍に見つかったら、注意だけじゃすまないかもな」

 

 

 そう口ではつぶやいたとて、腹のうちは決まっている。

 

 これは愚痴なんかじゃない。

 

 思ったより大変で、心が折れそうで、泣き言を言わないとやってられないなんてことは、決してなかったとだけ約束しよう。

 

 

 ……たぶん。

 

 

 とまあそんなわけで、今私は普段想像もつかないような場所に立っていた。

 

 頬を叩き気合を入れ、改めてぐるりと周囲を見渡すと眼下に広がるはまさに絶景。

 

 植生の違う層岩巨淵の内側と、今まで歩いてきた璃月港へ続く街道が、ここからだとどちらも一望することができる。

 

 璃月の大地が持つ2面性を私は目に焼き付けた。

 

 

 来ないという選択肢を取っていたら、こんな景色を見ることは、一生なかったかもしれない。

 

 この壮大な景色を見て、胸が震えないものはいないだろう。

 

 私をこれほどまでに感動させたのは、何も景色だけが理由ではないと思う。

 

 この光景はひとりで見たとしても、きっと面白くはなかったはずだ。

 

 絵描きが描いた絵画を見た時とさほど変わらぬ反応をしたに違いない。

 

 これは、得難い体験を弥怒と共有していると思えばこその喜びなのだ。

 

 それが目に映るすべてをより特別なものにしているに違いない。

 

 私は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 

「なんと言うか、こんなに気持ちがいいのは、久しぶりだ。だから、それでいいじゃないか。うん。それでいいんだ」

 

 

 ややわざとらしく自分に言い聞かせてみるが、弥怒は反応すら寄こさない。

 

 

『……』

 

 

「なんだ。いつになく不服そうだな」

 

 

 私が口を尖らせると、やっと言葉が返ってくる。

 

 

『……そういうわけでは。いや、うむ……』

 

 

 なんだか張り合いのない会話だった。

 

 こうもいつもの切れ味がないと、どこか居心地の悪さを感じる。

 

 弥怒はこの場所に来てからずっとこの調子だ。

 

 調子が狂うったらありゃしない。

 

 私たちのちぐはぐ具合など、お構いなしにもう一度強い風が前から吹いてくる。

 

 風は体を突き抜け、青空へと消えていった。

 

 ロケーション的には、最高の場所なんだけどなぁ。

 

 仕切り直しに大きく背伸びをする。

 

 

「さてさて。ここからは下り坂だな……って、ん?」

 

 

 崖下を覗き込んだちょうどその時。

 

 私の目に、不思議なものが写り込んだ。

 

 

 赤、青、紫……。

 

 

 小さな斑点のようなものが、採掘口付近にいくつも散らばっている。

 

 

「おい弥怒、見えるか?」

 

 

『ん……いや、ここからではよく見えぬな。だが何かがある。気をつけろ、平安。何かあれば、すぐに逃げるのだぞ』

 

 

「はいはい」

 

 

『ぬう……』

 

 

 弥怒が次の句を言う前に、私は崖を滑り降りる。

 

 こんな時でも心配性は健在だ。

 

 しかも若干いつもより念を押してくる。

 

 この場所に危険があるかもしれないというのは、重々承知しているつもりだ。

 

 そんなこと、来る前からわかっていたはず。

 

 弥怒の小言にまともに取り合えば、一日などあっという間に過ぎてしまうだろう。

 

 夜になると、危険度は高まる。

 

 何より、私が怖い。

 

 先を急いで損はないはずだ。

 

 

 一つ目の岸壁を滑り降りた先には、また同じような岸壁が佇んでいる。

 

 層岩巨淵の名にふさわしく、岩が何層にも連なっているのだ。

 

 地道に一段ずつ降りていくしかないだろう。

 

 層岩巨淵は巨大なクレーターのような地形で、中心地までかなりの距離がある。

 

 そこまでたどり着くためには、幾度も急な岩場を降りていく必要があった。

 

 私は細心の注意を払いつつ、岸壁の傾斜に沿うように、一段、また一段と壁面を下っていく。

 

 昇降機をいくつか経由し、やっと炭鉱の入り口までたどり着いた。

 

 

「これは……!」

 

 

 思わず絶句した。

 

 

 そこにあったのは、おびただしい数のトリックフラワーの死骸、死骸、死骸……。

 

 

『面妖な……』

 

 

「確かに、気味が悪い」

 

 

 トリックフラワーは群生している場合でも、3、4匹いればいい方だ。

 

 これほどの数が集まっているところなど、見たことがない。

 

 

 

 仮に誰かがここに集めたとて、その理由は?

 

 

 

 何のために?

 

 

 

『平安! ボーっとするな!』

 

 

 鋭い弥怒の声が私を現実へ引き戻した。

 

 

「……‼」

 

 

 振り返るより早く、視界へ影が差す。

 

 首筋がぞくりと危険を訴える。

 

 私は素早くしゃがみ込み、前方の空間へと飛び込んだ。

 

 砂地に転がる私の視界の端に、鮮やかな紫色の触手がちらつく。

 

 舞い上がった砂埃に身を隠しつつ、受け身を取り即座に起き上がる。

 

 そして先ほどまで自分がいた場所に佇む、荒っぽい訪問者へとにらみを利かせた。

 

 雷元素を纏うトリックフラワーだ。

 

 

「警戒していてよかったよ。まだ生きている個体もいたんだな」

 

 

 ちらと退路を確認しつつ、身を引き締める。

 

 

 

 大丈夫だ。

 

 

 

 不意打ちさえ避けきれば、決して逃げ切れない相手ではない。

 

 トリックフラワーは首をかしげると、足元に獲物がいないことに気が付き、わなわなと震えだした。

 

 怒っているのだろうか。

 

 魔物の気持ちは私にはわからない。

 

 

 砂埃が薄くなり、トリックフラワーもやっとこちらへ気がつくと、頭の葉を逆立てた。

 

 そのままくるりとその場で一回転し、バチバチと小さな雷で威嚇を始める。

 

 それはトリックフラワー種特有の、次の攻撃へつなげる有名な予備動作だった。

 

 

『今だ! 走れ、平安ッ!』

 

 

 弥怒の掛け声とともに、踵を返す。

 

 トリックフラワーは大技を放とうと元素を収集するのに必死で、まだこちらの動きに気付いていない。

 

 

 元来、それほど目が良い魔物ではないのだ。

 

 

 私は全速力で駆けだした。

 

 周囲に目をやれば身の丈ほどある岩が所狭しと並んでいる。

 

 落ち着け平安。

 

 いくらでも身を隠す場所はある。

 

 少し距離を取り、縮こまっていればいいだけなのだ。

 

 そうすれば、トリックフラワーも私の姿を見失うだろう。

 

 走っているとふと前方に、私の肩ほどの高さの岩があった。

 

 

 好都合だ。

 

 

「よっと」

 

 

 岩肌に手をかけ、勢いそのままに飛び越える。

 

 向こう側へ着地すれば、あとは身を低くして移動すればいい。

 

 そう考えていた。

 

 が、次の瞬間。

 

 

 私は事態を甘く見過ぎていたことを、後悔することとなる。

 

 

「なっ⁉」

 

 

 着地した目と鼻の先には、赤と水色の鮮やかな球根たち。

 

 仲がよろしいことに、着地音に反応して一緒にこちらを振り返る。

 

 背後に1体、前方に2体。

 

 大丈夫だ。

 

 

 まだ慌てず冷静に対処すればいい。

 

 

 私は着地と同時に足裏から駆け上ってくるしびれを叱咤しつつ急旋回。

 

 岩と岩の隙間をかき分けるように進み、追っ手を振り切ろうと必死に走る。

 

 だが、開けた場所へと飛び出したが最後、足が、たたらを踏んだ。

 

 

 

「くそ、こっちもか!」

 

 

 通路の先で飛び出した広場には、また1匹、別のトリックフラワーが待ち伏せていた。

 

 ぎり、と奥歯を噛み締めながら背後に目をやるが、時すでに遅し。

 

 わらわらと4匹の球根たちが、わさわさと葉音を立てながらうごめいている。

 

 退路は既にふさがれていた。

 

 

『まずいぞ。囲まれている』

 

 

「わかってる。わかってるさ」

 

 

 精いっぱい口に余裕を含んだつもりだったが、声色はわずかに上ずっている。

 

 

 

 

「……なあ弥怒」

 

 

 

『なんだ』

 

 

「少し、手伝ってもらえたり……しないか?」

 

 

 頭に響く深いため息とあきれ声。

 

 

『平安。相手は羽虫のような存在だぞ? もう少し粘れないものか?』

 

 

「だー! 仕方ないだろ! 私はこいつらを駆除しようとして、火傷したり指先凍らされた苦い思い出しかないんだ!」

 

 

『まったく……そんな調子では、先が思いやられるな……』

 

 

「おいおい、御託はいいから早くしてくれ‼ もう背中のあたりがビリビリして来たぞ! おい弥怒――」

 

 

 とうとう我慢できずに大声を上げたその時だった。

 

 

 

 眼前をサッと黒い影が横切る。

 

 

『むっ?』

 

 

「なんだ⁉︎」

 

 

 土煙と共に踊る赤褐色の髪に、ほのかに鼻孔をくすぐる線香の匂い。

 

 一拍遅れて空気を焼き切るような熱風が、まつ毛の先をチリチリと焦がした。

 

 黒い帽子に、梅の花。

 

 黒装束の槍使い。

 

 私はその出で立ちに見覚えがあった。

 

 

「も、もしかして――胡桃か⁉」

 

 

「気を付けて平安さん! こいつら、普通のトリックフラワーじゃないから!」

 

 

 息継ぎもせずに言い切った胡桃めがけて、ピュンピュンとしなる触手が襲い掛かる。

 

 胡桃はくるくると槍を器用に振り回し、襲い来る触手を片っ端から跳ね返していく。

 

 その度に、異様なほど甲高い金属音が周囲に響き渡った。

 

 

(私の聞き間違いか……? 触手と槍がぶつかり合った時の音、まるで鉄でできた鎖か何かを叩いているみたいじゃないか……)

 

 

『うむ。多少質量があるようだな。今まで逃げに徹していて、命拾いしたらしい。あれをまともに食らえば、お主の体だと骨折どころじゃすまぬ』

 

 

(えぇ……嘘だろ……)

 

 

 改めて前を向けば、あの飄々とした胡桃が、爪の先ほどもふざけることなく戦っている。

 

 それだけで敵が決してか弱い小物ではないということが、痛いほど私にも伝わった。

 

 とはいえ、相手は所詮植物。

 

 

 胡桃の槍さばきに次第についてこれなくなり、じりじりと距離は縮まっていく。

 

 トリックフラワーたちが、息を合わせたようにすべての触手を持ち上げたその時。

 

 しなやかに伸びた足が、大地を強く蹴飛ばした。

 

 

「たぁっ!」

 

 

 渾身の一薙ぎが、胡桃を中心に集まっていたトリックフラワーを順番に捉え、火花を散らし四方八方へと吹き飛ばす。

 

 まるで鉄塊でもはじいたかのような音が連続して反響した。

 

 激しく岩に叩きつけられたトリックフラワーたちは球根をしぼませると、やがて動かなくなる。

 

 

「くっ!」

 

 

 胡桃は肩で息をしながら地に膝をつき、疲労困憊と言った様子でこちらへと顔を向けた。

 

 

 双眸の下には、深いクマが刻まれている。

 

 

「平安さん逃げて。ここ、普通じゃない。幽霊を追いかけてやって来たけど、ここの魔物、集まった幽霊の怨念を取り込んで、信っじられないくらい強くなってるの」  

 

 

 照り付ける太陽に顔をしかめる彼女の姿をよく見れば、服の至る所にほつれや破れ、泥や魔物の血液がべったりとこびりついていた。

 

 

「まさか――、ここに散らばっている魔物の死骸は全部胡桃が……? それにそのクマ……あの日から、一睡もしていないなんて言わないよな⁉」

 

 

 胡桃はゆっくりと首を横に振る。

 

「そんなことはどうだっていい。早くここから離れて。お願い」

 

 

 訴えかける彼女の瞳に嘘はない。

 

 

 周囲は静寂を取り戻していたが、次いつまた奴らに襲われるかわかったものではない。

 

 ここら辺が、潮時だろうか。

 

 層岩巨淵にやって来てまだそれほど時間はたっていないが、撤収するほかないようだ。

 

 

「わかった」

 

 

 私はため息交じりに頷くと、胡桃に手を差し出す。

 

 

「一緒にここを出よう、胡桃。ここの正規の入り口付近には、千岩軍の駐屯地があるはずだ。そこで異常を伝えて助けを求めるんだ。きっと何とかしてくれる」

 

 

 そう誘ってはみたものの、胡桃は動かなかった。

 

 座り込んだままの姿勢で、胸元にきゅっと槍を引き寄せる。

 

 帽子で影になった表情は、ここからではよく見えない。

 

 堂主の維持と言うやつだろうか。

 

 だがそんなものこだわっていては、彼女の身が持たないことは明白。

 

 やはり誰かが引きずってでも強情な彼女を止めなくては。

 

 

「な、そうしよう?」

 

 

 私は胡桃に向かって、一歩踏み出そうとした。

 

 が、しかし。

 

 私の体はビタリと、全身に杭でも打ち付けられたように固まってしまった。

 

 

 頭の理解が追い付かず、は、と小さく声をこぼす。

 

 脳内に低い声が響いた。

 

 

『……平安』

 

 

 やや遅れて、体の芯から冷え切るような寒気が背中から全身を貫く。

 

 

『まずいことになった』

 

 

 胡桃が、ゆっくりと手を帽子に掛け、持ち上げる。

 

 その表情は見たことがないほど、強張っていた。

 

 目は驚愕に見開かれ、浅い呼吸を繰り返している。

 

 何かが、いるのだ。

 

 私の、後ろに。

 

 とてつもなく嫌な予感がした。

 

 ゆっくりと首だけを静かに動かし、振り返ってみる。

 

 

 

 目の端が、何かをとらえた。

 

 ここから2,30メートルほど先。

 

 

 

 そいつは、いた。

 

 

 

 降り注ぐ太陽の下、不自然に浮かんだ黒い影。

 

 私は瞬きを繰り返し、もう一度同じ場所へと目をやる。

 

 間違いない。

 

 人影だ。

 

 だが、確実に人ではない。

 

 それだけは、鈍感な私でもすぐに分かった。

 

 揺らいでいるのだ。

 

 輪郭が。

 

 

 影の輪郭がゆらゆらと揺らぐことなど、人の影だとすれば絶対にありえない。

 

 

 しかもそれが地面に投影されているのではなく、向こうが透けて見えないほどの密度をもって、空中に浮かんでいるのだ。

 

 

 魔物か、あるいは幽霊か。

 

 

 ただそんな魔物の話は、生まれてこの方聞いたことがないし、幽霊だとすれば胡桃があんな表情をするはずもない。

 

 

 胸元のざわつきが最高潮に達した時、その答えが静かに降ってきた。

 

 

『魔神の、残滓』 

 

 

 思わず、口の中で同じ言葉を繰り返す。

 

 その言葉自体は、以前弥怒から聞いたことがあった。

 

 人の怨念など比ではない、怨嗟の塊。

 

 大地を蝕む、凝縮された負のエネルギー。

 

 それが、魔神の残滓というものらしい。

 

 

「嘘……、食べてる……」

 

 

 胡桃が背後で息をのむ。

 

 

 眼前で行われている光景が、信じられないとでも言いたげに。

 

 そう、私たちの目の前に現れた人影は、食事をしていたのだ。

 

 

 うろの様な大きな口を開け、トリックフラワーの死骸をむさぼるように取り込んでいく。

 

 こちらで見ている私たちに見せつけるかのように。

 

 

『平安、胡桃を連れて、早く逃げろ……今すぐにだ!』

 

 

 私は弥怒の焦った声を、初めて聞いた。

 

 いつもと立場が逆転している。

 

 弥怒は私がどれだけ取り乱しても、一定以上の冷静さを保っていた。

 

 

 だが今は違う。

 

 

 この場にいる誰よりも、弥怒が一番取り乱している。

 

 それがどれほど恐ろしいことか、私は考えたくもなかった。

 

 

「……胡桃、どうやら弥怒によると、かなりまずい相手らしい。ここはいったん撤退して――」

 

 

 小声でそうささやきながら、肩越しに振り返った私は、目を疑った。

 

 

 

 

 胡桃が、忽然とその姿を消していたのだ。

 

 

 

「なっ⁉」

 

 

 慌てて周囲に目線を走らせる。

 

 おかしい、さっきまでここにいたはずなのに。

 

 

『愚かな……!』

 

 

 脳内に響く弥怒の声と、大地を揺るがすほどの振動が襲ってきたのはほぼ同時だった。

 

 続けて、腹の底まで震わせるような、轟音。

 

 顔を向ければそこには、黒い影に槍を振り下ろした胡桃の姿があった。

 

 槍の穂先は、すんでのところで影から伸びた細い腕のようなものに阻まれている。

 

 

 

 気がつけば火炎の蝶が、あたり一面に舞っていた。

 

 火の粉を纏う羽ばたきは、決して始めてはならない戦いの火蓋が、勢いよく切り落とされたことを如実に物語っている。

 

 

 私はごくりと、唾を飲み込んだ。

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