取材のため、私は弥怒と層岩巨淵にやってきた。
突如現れた魔神の残滓に、胡桃が戦いを挑んでしまった。
弥怒は逃げろというが、トリックフラワーだらけのこの場所を一人で切り抜けるのは少々不安だ。
なんとか、胡桃に戦いを中断してもらわないと……。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
「かっっっっったいなぁ! もう!」
まるで鉄柱でも叩いているのではないかと錯覚する音が、層岩巨淵にこだまする。
胡桃の猛攻に影は最初に数回被弾するもかすり傷。
徐々に動きを覚えているのか、その回数は目に見えて減っていき、もはや完全に見切られていた。
ガードの隙を突く作戦から一転、胡桃は勇ましいことにそのガード上から叩き切る方向へ舵を切る。
しかし、異様なほどの硬度を誇るその触腕に、槍の刃は通らない。
『止めさせろ、平安!』
脳内で弥怒の怒号が響き渡る。
(さっきから何度も叫んでいるだろ! 胡桃は聞く耳を持たない!)
『それでも何とかするのだ! このままでは共倒れだぞ!』
(しかし、相手は反撃する気配がない。もしかしたら何かのきっかけで倒せたりはしないのか?)
私は素朴な疑問を弥怒に投げかける。
確かに相手は固い。
だが、見る限り大きな脅威は感じられない。
反撃をしてこないのであれば、ここいらに散らばるトリックフラワーたちを食べられてしまう前に、倒しきってしまうほうがいいのではないか。
胡桃の戦闘を見ているうちに、私の考えはそちら側へと寄っていた。
『愚か者‼ 夜叉ではないお主たちは、魔神の残滓の恐ろしさをまるでわかっていない! 確かにやつらは単体では空中に漂う毒ガスのようなものだ。だがな平安。やつらは物体や思念にとりつき、時には肉体さえも自ら形作る。それがどういう意味か分かっておるのか!』
(……つまり、どういうことなんだ?)
『あやつが取り込んだものを、思い出してみるがいい!』
(トリックフラワーか?)
『違う! トリックフラワーが強化されていた理由を思い出すのだ!』
私ははっとした。
そうだ。
影が取り込んでいるのは、トリックフラワーだけじゃない。
トリックフラワーの中にある、幽霊の魂――。
私は思わず顔を上げ、影を見る。
その瞬間、胸元が大きくざわついた。
ほんの一瞬。
ごくわずかな時間だが、影の中に、人の顔のようなものが浮かんだ気がした
その顔は、苦悶の表情にゆがめられている。
『莫大な負のエネルギーに、怨念や無念の心を持った人の魂。掛け合わせとしてこれ以上厄介なものはない! やつはまだ生まれたばかりの赤子。やつの中で情報の統合が完全に終わる前に、避難すべきだ! いくら己れとて、今の状態では二人同時に守ることはできぬぞ! もう時間がない‼』
さすがに事の重大さを理解した私は、慌てて胡桃に呼びかける。
「胡桃! 早く逃げよう! 弥怒に聞いたが、そいつはかなりまずい相手らしい! 幽霊の魂を取り込んで、どんどん賢くなっている! 逃げるなら今しかないんだ‼」
ギィン、と槍の横振りを弾かれた胡桃は、その反動を使いくるくると回転しながら私の目の前に着地する。
私の胸中に安堵が広がった。
「よし、今すぐここを――」
「逃げるなら一人で逃げてよ、平安さん」
「なっ⁉」
あろうことか、私の言葉をさえぎり彼女の口から飛び出してきたのは、明確な否定の言葉だった。
「なんでだ、胡桃! 危ないって言っているじゃないか!」
驚きとなぜ、という疑問。
切迫した状況のせいでつい、私の語調も強くなる。
胡桃は横目でこちらをキッと睨んだ。
その瞳は、普段の胡桃からは想像もつかないほど鋭い。
「目の前で苦しんでいる魂たちがいる。本来境界の向こうへと旅立つはずだった魂たちが、助けを求めてる! 私が! 今ここで引いたら! あの影の中にいる幽霊たちの気持ちはどうなるか考えたことある⁉ 呼び出されて、取り込まれて、暗くて怖いところに閉じ込められて、誰かに助けを求めながら今にも泣きそうな幽霊たちを、放っておけない! 私は、往生堂七十七代目堂主の胡桃。私の目の色が黒いうちは、あんな死を冒涜するようなまね、絶対に……ぜっっったいに許さないッ‼」
言い終わる前に、胡桃は大地を蹴り飛ばし、槍を大檀上に構える。
「はぁぁぁぁああああ‼」
すさまじい気迫と共に放たれた一振りは、影の触腕とぶつかり、激しく七色の火花を散らした。
そのまま止まることなく、目にも止まらぬ連撃が息継ぎなく繰り出される。
「弥怒、だめだ! 胡桃は意地でもここを離れないつもりだ!」
影と胡桃の戦いから目を逸らせないまま、私は声を張り上げる。
しかし、弥怒の返事はない。
「聞こえているのか! 弥怒‼ 私は、どうすればいい⁉」
『平安』
やけに落ち着いた弥怒の声が頭に響いた。
そのゆったりとした口調に、思わず苛立つ。
「おい、もったいぶるな! 緊急事態なんだろ⁉ 何か策を一緒に考えてくれ! このままじゃ……」
『平安、よく聞け』
「~っ‼ なんなんだ!」
『――もう、遅い』
「………………え?」
頭が真っ白になった。
今、弥怒は何と言った?
理解が追い付かない最中、ひときわ大きな金属音が前方からやってくる。
反射的にそちらへと顔を向けた時、私の目は点になった。
青空高く、何かが舞っている。
棒状の物体が、激しく乱回転していた。
その形状には見覚えがある。
「胡桃の……槍……」
思わず息をのんだ次の瞬間。
血肉を引き裂く鈍い音が、戦場に響き渡る。
見れば、空中で大きく体をのけぞらせた胡桃の体が、血潮を吹いていた。
「胡桃ッ‼」
私が叫ぶのと、降ってきた槍が地に落ち甲高い音を立てたのはほぼ同時だった。
胡桃は一拍遅れて地面に叩きつけられ、ゴロゴロと砂利の上を転がる。
「おいっ!」
『馬鹿者! 近づくな!』
「うるさい! 今それどころじゃないだろ!」
頭に血が上り冷静さを失った私は、弥怒の制止を振り切りうつぶせに倒れる胡桃へ向かって駆け出した。
走り寄る途中、視界の中で胡桃はぐぐっと体を起こす。
よかった、まだ生きている!
その事実にほっと胸をなでおろすも束の間。
私は目に飛び込んできた光景に言葉を失う。
胡桃が倒れていたはずの場所には、べっとりと赤黒い血液が、胡桃の服の皺すら写すように広がっていた。
「胡桃っ!」
駆け寄ると胡桃は焦点の合わない眼で笑っていた。
「えへへ……邪魔しないでね。今めちゃくちゃにハイだから……」
「馬鹿言うな! こんな、こんな状態で戦うと死んでしまうぞ!」
胡桃は浅い呼吸を繰り返しながら、とろんとした声で答える。
「大丈夫だよぉ、平安さん。ちゃんと、視えてるから……」
「見えてるって……なにが……」
私が見守る中、胡桃はゆらりと立ち上がる。
「ごめんね、その辺に転がってる槍を私に取ってくれない? 視界がぼうっとしていて」
「おい! さっきと言ってることが真逆だぞ! 全然見えてないじゃないか!」
「視えてるよ……生と死の境目が。私は境界近くに長くいすぎたせいか、時々視えちゃうの。私自身が瀕死の重傷を負った時なんて特に、ね。そしてその天秤にかかっているのは私の命だけじゃない。敵と私、どちらかが必ず、境界の向こう側へ落ちるの。でも安心して。火炎の蝶には治癒の力がある。へまをしなければ私が死ぬことはないから……」
「しかし――」
「いいから早くッ‼」
突然放たれた一喝に、肩がびくりと跳ねる。
胡桃の血走った両目は、本気だった。
その剣幕に圧され、私は足元にあった槍を胡桃に手渡す。
「へへ……ありがと」
胡桃は一度こちらへ振り向き、乾いた血を頬につけたまま、弱々しく微笑んだ。
「胡桃……」
「安心して。私は、負けない」
私に背を向けた胡桃は、触腕を鞭のように振り回す影へと向き直る。
そしてそのまま、身を低く構えた。
「離れてて……」
言われるがまま数歩後ずさると、私は胡桃の空気が先ほどまでと明らかに違うことに気が付く。
彼女の周囲を陽炎が覆いつくし、ゆらゆらと揺れる空気の向こうで、小さな舌がぺろりと顔を出す。
手に握る槍は赤熱し、白い蒸気がもうもうと立ち上っている。
(なんて熱量だ……!)
胡桃の周囲に生えていた雑草たちが一斉に炭化し、白煙と共に風に舞った。
背中にある神の瞳がひときわ強く輝いたかと思った次の瞬間。
胡桃の姿が、大きくブレた。
あとに残された大量の火の粉が、音を立てて弾け飛ぶ。
目にもとまらぬ速度で戦場を疾走する胡桃に向かって、触腕が何度も襲い掛かる。
しかしそれらは胡桃の速度に追いつけずに空振りし、地面に細長い傷跡をつけることしか叶わない。
「ぁぁぁああああああッ‼」
岩の間を垂直に駆け、影の懐にもぐりこんだ胡桃。
勢いそのままに大きく振りかぶった槍を薙ぎ払う。
刹那、触腕と槍が戦場を交差した。
ザン、と軽い衝撃波が空気を揺らす。
両足を八の字に開き急停止した胡桃の背後には、平坦な切断面を見せながら回転する大量の岩石と、影の上半身。
あの一瞬で胡桃は、周囲一帯の岩ごと、影を切り伏せて見せたのだ。
「やった……!」
私が喉の奥からかすれた声を出したと同時に轟音が鳴り響き、大量の砂埃が爆風と共に押し寄せてくる。
「ぶっ」
慌てて両腕を交差するも、頬を焼き切るような熱風が勢いよく通り過ぎて行く。
音と風が止んだ後には、白っぽい砂埃が厚く舞っていた。
「胡桃っ!」
声を上げるが、煙幕の向こうから返事はない。
私は咳き込みながら、口に袖を当てて最後に胡桃が立っていた場所まで勘を頼りに歩いていく。
一面砂色に染まった世界の中で、瓦礫の間に咲いた小さな梅の花が、わずかに動いた。
胡桃の帽子に取り付けられた、彼女のトレードマークともいえる梅の枝の先端だ!
私は駆け寄り、積もった瓦礫を持ち上げ放り投げる。
「大丈夫かっ! 胡桃ッ!」
「ケホッ、ケホッ! だ、大丈夫よ……。この通りぴんぴんしてるって……」
体に積もった石や砂を払い落とすのもおっくうと言った様子で、這い出てきた胡桃がゆっくりと体を持ち上げる。
肩口から腰まで斜めに走る傷口は火炎の蝶で覆われており、治癒が進んでいることがわかった。
「よ、よかった、無事だったんだな!」
「まあね……。私は往生堂七十七代目堂主、胡桃だよ……。当たり前でしょ……って言いたいところだけど、さすがにもう、眠さのげんか……い……」
槍を支えに立ち上がろうとした胡桃の体が、ぐらりと崩れた。
私は慌てて手を伸ばし、彼女を受け止める。
その体は信じられないほど軽かった。
「この体のどこに、これほどの力を……」
私は改めて戦場を見渡す。
まるで巨人が暴れ回ったかの如く荒れた大地に、バターのように切られた岩たち。
以前胡桃に無妄の丘で追われたことがあったが、あの時はまるで本気を出していなかったのだと今更ながら理解する。
腕の中でもう寝息を立て始めた少女へ、私は改めて心より感謝を告げた。
彼女は言葉の通り、全身全霊をもってして、逆境を覆し窮地を脱して見せたのだ。
「はは……こうやって寝顔を見ると普通の女の子なのにな。彼女はすごいよ。なぁ弥怒」
興奮冷めやまぬ中、弥怒に共感を求めたが、頭の中はシンと静まり返っている。
「……弥怒?」
再び尋ねた私は、何やら嫌な予感が胸元をよぎるのを感じた。
慌てて顔を上げてみる。
砂埃が晴れた先には、上半身と下半身に分かれた影の体。
目を凝らしてもピクリとも動かない。
「あ、焦らせるなよ、弥怒。影はちゃんと倒した。それに、これだけ派手に暴れたんだ。トリックフラワーもびっくりして近づいてこないさ」
砂の混じった冷汗が額から滑り落ち、やけどを負った頬に沁みると、微かな痛みを伝えてくる。
何を不安がっているのだは私は。
何も問題ない、そうだろ?
自分自身にそう言い聞かせ、無理やり心を落ち着かせる。
深呼吸を繰り返していると、弥怒がようやく口を開いた。
『すまない。考え事をしていた』
「は、はは。焦ったぞ、弥怒。心臓に悪いからそういうのはよしてくれ」
『すまない。だが、平安よ。やはり、すぐにここを離れたほうがいい。何やら嫌な予感がする』
これにはひどく賛成だった。
私は静かに頷く。
「そうだな。なんだかここは不気味だ」
『それもそうだが、何かが引っかかるのだ。去る前に一つ頼みがある。あの影の方を、もう一度よく見てはくれぬか』
「ここから見るだけなら……」
私は弥怒に言われた通り、影の死体へと目を凝らす。
影の体は先ほどと同じ場所に変わらず横たわっている。
『……』
弥怒は押し黙ったまま、何やら考え込んでいた。
「ちょっと、どうしたんだよ」
不安に胸を突き動かされ、思わず口が勝手に動く。
そして、返ってきた言葉に私は戦慄を覚えた。
『言ったはずだ。魔神の残滓そのものに、実体はないと』
聞いた瞬間、まさか、と、私は首がねじ切れんばかりの勢いで影の死体へ振り返る。
影は胡桃の槍を防ぎ、岩と共に切断された。
それは実体を伴う影だったからこそできた芸当。
弥怒の話が正しければ、おかしな話である。
「なぜ影に実体があったのか、という話か?」
私が影から目を逸らさぬまま聞き返すと、弥怒は否定する。
『そうではない。魔神の残滓が実体化すること自体は珍しいことではない。やつらのエネルギーをもってすれば、受肉することは当然可能だ。膨大なリソースと引き換えにな。だが、そうなるとすれば疑問が残る。やつはなぜ、こうも小さく戦いに不利な人影の形状で実体化したのか、という話だ』
「言われてみれば……」
影の体から伸びていた触腕の数は二本。
人間の腕を鞭に変えたような腕の数がもっと多ければ、胡桃は更に苦しかっただろう。
もっと大きな体躯をしていれば、懐にもぐりこまれることもなかっただろう。
私の喉がごくりと音を立てた。
『平安、少しだけでいい。もう少し近くで影の死体を観察してくれ。何かがおかしい。安心しろ、異変があれば己れがすぐさま障壁を張る』
「……わかった」
正直腰が引けたが、私は胡桃の槍を両手で握りしめ、影の上半身へと近づく。
砂をかぶったそれは、焦げた胸元の切断面をあらわにしつつ、触腕をだらりと伸ばしたまま横たわっている。
目立って特筆すべき点は見当たらない。
「どうだ?」
『うむ。こちらは問題ない。あちらも頼む』
少し離れた場所で倒れていた下半身へ私は目線を送った。
あちらも上半身と同じように、沈黙したままだ。
私は警戒を怠らぬよう、槍の穂先を影の上半身と下半身へ交互に向けながら慎重に歩を進めた。
下半身には、切り離された部分を除きやはり目立った外傷はない。
ひざ下の部分は降ってきた瓦礫に覆われている。
『平安』
「あ、ああ」
私は槍の先端を使って、影の足に乗っていたいくつかの石を、脇へと転がす。
そこにあったのは、やはり、傷ひとつない影の足だった。
異常は見当たらない。
「ふぅ……」
妙な緊張が解け、額から汗が噴き出した。
『こちらも変わった所はないらしいな……ふむ』
「じ、寿命が縮むよ……」
はあ、と大きにため息をついた私の目に、何かが映った。
少し顔を近づけてみると、それは細い糸のようだった。
糸くずのようなものが、影のふくらはぎあたりからすうっと地面に向かって伸びている。
影の毛だとすると、ここだけ一本生えているというのは変だ。
そもそも、つるりとした影の体表に、毛が生えているのもなんだか滑稽に感じる。
「ゴミか何かか?」
私は何の気なしに、槍を伸ばし、その糸を払おうと刃を当てた。
わずかな手ごたえが槍越しに伝わる。
プチン、と小さく糸が切れる音。
が、次の瞬間、私は自分の目を疑った。
影の体が小さな泡状に散ったかと思うと、さらに細かな黒い砂塵へと姿を変え、風の中へと消えてしまったのだ。
「え?」
何が起こったのか分からず、ただただ口をパクパクと上下させる。
『おい! 何をした!』
弥怒はその焦りを隠さない。
「わ、分からない! 影の足から伸びる糸のようなものを切ったら、消えてしまった!」
『その糸の切った先はどこだ!』
私は慌てて目線を下ろした。
そしてそれを見た時、心臓が止まるかと思った。
いや、間違いなく、わずかではあるが止まっていたと思う。
それほど、衝撃的だったのだ。
そこには、切ったはずの黒い糸が、うねうねと生き物のように動いているではないか。
糸はまるで細いミミズか何かのようにしばらくのたうち回ると、しゅるりとその先の地面へと潜っていった。
あとには、言われないとわからないほどの小さな穴だけが残されている。
「一体……」
あっけにとられたまま、私が顔を上げると、先ほどまであったはずの上半身が忽然と姿を消している。
周囲を慌てて見回しても、どこにも見当たらない。
「おい弥怒、何が起こっているんだ!」
恐怖で震えた声が、岩間に何度もこだました。
なんだかとてつもなく事態が不味い方向へと進んでいる気がして、大地に立っている感覚さえもおぼつかない。
すると、頭の中でパチンと指を鳴らす音が聞こえる。
『そうか、そういうことか! してやられた‼』
ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえそうなほど怒りをにじませた弥怒の声。
「何か分かったのか⁉」
ほぼ悲鳴のような声を上げると、弥怒は『落ち着いて聞け平安』と前置きし続ける。
『やつは死んでいない。あの影は恐らく、人の魂を効率よく吸収するいわば指先のようなものだ。本体は恐らく、この地面の下にいる。今すぐ、即座に! 胡桃を抱えてここを離れるのだ! やつが目覚めてしまう前に‼』
「わかった‼」
私は大きく頷くと、倒れている胡桃のもとへ駆け寄る。
槍を鞄のベルトに括り付け、胡桃を両手で抱き上げた。
『経路は最短距離でこの場所を離れられる道を選べ! 誰に見つかろうと関係はない。もし声をかけられれば、その者にも避難するよう強く命じろ!』
「ああ!」
私は、層岩巨淵のカルデラを見上げる。
ここから一番近い脱出口は、千岩軍が警備する正門関所だ。
この際、もうお咎めや侵入罪なんてものは関係ない。
命あっての物種だ。
私は早速その方角へ向かって走り出した。
胡桃を抱えたままなので、全速力とまではいかないが、私の出せる最大限の速度で足を前へ前へ出し続ける。
一つ目の昇降機が、岩の間から姿を現した。
「あれに乗れば……」
昇降機のロープを目で追い、これからたどる道筋を確認する。
あと二つほど昇降機を経由すれば、正門へとたどり着く。
ここへ来るときは整備もされていない道なき道を進んできたが、普段工夫たちが使っているこの道を使えば、すぐに脱出できそうだ。
切迫した状況ではあるが、希望が見えて来た。
「よし!」
私が喜びをにじませ、顔を正面に戻したその時だった。
今から使う予定だった昇降機が、目の前で激しい音を立てて瓦解する。
続けて、大きな地揺れ。
「わわ! なんだっ⁉」
思わず片膝をついた私を、耳をふさぎたくなるような轟音が襲った。
先ほどまで昇降機があった場所から、巨大な塔が大地に亀裂を走らせながら天に向かって伸びていく。
かと思えば、背後からいくつも同じような音が聞こえてくるではないか。
振り返ろうとした瞬間、私は周囲がやけに暗くなっていることに気が付いた。
見上げても、空には雲一つ存在しない。
なにかが、私の後ろで太陽を遮っているのだ。
私はぶるぶると体を震わせながら、ゆっくりと背後を確認する。
そこにあったのは、先ほどまでとは一変した、層岩巨淵の姿。
すり鉢状の大地からは先ほどと同じような塔がいくつもいくつも生えている。
その中央には、天を覆うほどの巨大な花弁。
こいつの分厚い花びらが、太陽を隠していたのだ。
爆炎樹など比ではない、空高く見上げるほどの植物に、私はただただ圧倒される。
スンと鼻を鳴らすと、血生臭い鉄の匂いが、周囲に漂っていることに気が付いた。
見れば各所に生えた塔に、いつの間にか毒々しい見た目の黄色い花がいくつも咲いているではないか。
塔だけではない。
大地から、岩から、壁面から、小さな結晶がぽつぽつと斑点のように突き出したかと思うと、それはまるで生きているかの如く成長し、花や葉を形作る。
気が付けば、層岩巨淵は広大な花畑の様相を呈していた。
『呆けている暇はないぞ! 平安! 早く脱出するのだ!』
「だが弥怒、昇降機が!」
訴えに対し、返ってきた言葉に私は耳を疑う。
『馬鹿者! 壁を這ってでも逃げるのだ!』
「おい……それではこの子はどうなる!」
私が目線を下ろすと、胡桃が腕の中で苦し気に小さく声を漏らした。
胡桃がいなければ、私はトリックフラワーや影に襲われ、今頃無事では済まなかったかもしれない。
そんな彼女を、このままここに置いていくなんて……、私にはできない。
『非情になれ、平安! 戦場に犠牲はつきものだ!』
「ら、らしくないぞ弥怒! 夜叉であるお前が、なんでそんなことを口にするんだ!」
繰り返される信じがたい言動の数々。
激しく動揺した私に、歯の間から絞り出すような声が降ってくる。
『お主を守ると、誓ったからだ‼』
私は、はっとした。
そうだ。
自分なんかより、弥怒の方が何倍も歯がゆいのだ。
目に映るすべてを救い、なん百年、何千年と戦ってきた仙衆夜叉。
多くの人々を妖魔から救い、璃月を守り続けてきた英雄。
だが今は、目の前で傷ついた民の一人すら、切り捨てざるを得ない体たらく。
――悔しくないはずがないじゃないか!
だが、彼はそんな自分の使命感や、夜叉としてあるべき姿をかなぐり捨ててまで今、私の身を案じているのだ。
軽く交わしただけの、口約束を守るがために。
影と戦い始めてからというものの、何度忠告を繰り返してものれんに腕押しな、この大馬鹿者の凡人がために。
『っ‼ 伏せろ平安!』
「――っ!」
つい考え事に集中してしまった私は、わずかに一秒ほど、反応が遅れた。
近くの昇降機から伸びた塔が、大きくしなり、目の前へと振り下ろされる。
まるで炎スライム樽の山でも吹き飛ばしたかのような爆音が鼓膜をつんざき、砂埃を含んだ突風と瓦礫の雨あられが私と胡桃へ襲い掛かった。
「わぶっ‼」
嵐のような暴風に吹き飛ばされながらとっさに目をつぶるも、いくつかの小石が信じられないほどの速度で頬をかすめていった。
「があっ!」
地面に叩きつけられた私の傍らに、胡桃と、ベルトから外れた槍が激しく転がる。
「胡桃!」
うつぶせになった彼女を抱き起すと、頬に擦り傷を負っている以外、新たに怪我が増えている様子はない。
ほっと胸をなでおろすも束の間、先ほど振り下ろされた大きな塔がぐにゃりとしなると、今度は横薙ぎにこちらへと迫ってくる。
ゴウッっと低く風を唸らせながら、とてつもない質量が視界全体を覆う。
「だ、だめだ! 逃げられな――」
とっさに胡桃を突き飛ばした次の瞬間、目の前に琥珀色の障壁が姿を現す。
同時に視界が激しく揺れ、突如世界が暗転した。
突然暗闇に包まれた私は、何が起こったのかすら理解できない。
が、まばゆい光を感じたかと思うと、目の前に丸い窓のような穴がぽっかりと開いた。
向こう側には、先ほどまで見ていた奇怪な黄色い花畑が広がっている。
「な、何が……!」
そう言いかけたところで、再び世界が漆黒に染まる。
『ぐうぅぅぅうううう‼』
頭に響く、腹から振り絞るような苦悶に満ちた声。
周囲からビシバシと固い岩に亀裂が入る音が聞こえる。
再び目の前に層岩巨淵の光景が現れた時、穴は大きく崩れていた。
そこで私は自分の置かれている状況を初めて理解する。
私の体は塔のような触手に薙ぎ払われ、層岩巨淵の壁面にめり込んでいるのだと。
未だこの体が形を保っているのは、弥怒が障壁を展開してくれているからだと。
そして今、岩壁ごと、触腕で何度も殴られているのだと。
再び鼓膜を破るような音が周囲に響き渡り、目の前の穴が触腕で完全にふさがれる。
次に触腕が持ち上げられた時、私の体と障壁は岸壁から半分以上露出していた。
私は眼前の光景に、思わず息をのむ。
「嘘……だよな……?」
私の目線は黄色い花の咲き乱れる大地でも、突き飛ばされ岩の合間で難を逃れた胡桃でも、ぼろぼろと崩れゆく周囲の岩壁でもなく、弥怒が張ってくれた障壁へとくぎ付けになる。
そこにはわずかではあるが、ごくごく小さな、亀裂が走っていたのだ。
『平安……限界が近い……! はやく、逃げろ……!』
「そんな、どうやって――うわっ!」
無慈悲に振り下ろされる触腕。
移動しようと立ち上がり、逃げ出そうとするも再度触腕に押しつぶされる。
質量が、攻撃範囲が、襲い来る面積が、あまりに広すぎるのだ。
気が付けば弥怒が張ってくれた障壁は、その全体がヒビで覆われていた。
目の前で、触腕が大きく振りかぶる。
『まずいぞ、平安避けろッ! 次の障壁が、間に合わぬ‼』
そんなことを相手が構うはずもなく、次の触腕の一撃が、無慈悲な音を立て勢いよく振り下ろされる。
私は生まれて初めて、走馬灯というものを見た。