弥怒の言われるがまま、私は札を取り出す。
この札は、この危機的状況を覆す逆転の一手になるのだろうか。
私は不安を抱えながら、札に手をかざした。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
地べたに置いた箱の蓋を開けると、くすんだ色をした札が日の光を浴びる。
「これで、どうすればいい?」
『右手をかざしてみよ。お主の右手は、己れの岩元素をよく通す。掌越しに、札を操作する』
「こうか?」
私は片膝をつき、札の上に手を置いた。
『そのまま、動くでないぞ』
「わかった」
返事をするやいなや、肩から腕にかけてほのかに熱を感じる何かが流れ始める。
札に目をやると、うす茶けた羊皮紙のような紙が、徐々に光を帯びていく。
「おお……!」
数秒後目の前には、弥怒と出会った時と同じ、かつての輝きを取り戻した札が姿を現す。
手をどかそうとすると、弥怒が私に注意する。
『まだ動くな。ここからなのだ』
私は改めて掌を札に押し当て、じっと札の様子を見守ることにした。
『これをこうして、うむ、やはりそうか。あれはあの術式の応用、造作もない』
なにやら頭の中でぶつぶつと聞こえる弥怒の独り言。
と、札の文字がゆらゆらと揺らぎ始める。
「……!」
歪んだ文字はぐにゃりと形を変え、わずかに浮かび上がると配置をひゅんひゅんと変えていく。
やがて配置が終わり、文字の足りない部分に新たな線が引かれた時、弥怒は私に手を放すよう伝えた。
そこにあったのは、荒っぽい字体がびっしりと書かれた、一枚の札。
「これは……どこかで……」
完全に一致しないにせよ、文字の構成にはどこか見覚えがあった。
私は札、札、札……と自分の記憶をたどっていく。
――思い出した!
かつて見た光景が、私の脳裏にありありと映し出される。
完成した札は、白朮先生の弟子、七七が付けていた頭の札とそっくりな書体なのだ。
頭に弥怒の得意げな声がこだまする。
『ふふん、お主もこれに見覚えがあるであろう?』
「……ああ! 間違いない。七七さんの札にとてもよく似ている。だが、いつの間にこんな芸当を」
『なに、ただの古い仙術の応用だ。基本さえ理解していれば、真似することは容易い』
「しかし、なぜ、こんなものを?」
『肝心なところで鈍感だな、お主は』
「言ってくれるな。時間も惜しいから、さっさと教えてくれよ」
『む……そうだったな。コホン、今からお主には、生ける屍となって戦ってもらう。ただし、屍となるのはその意識のみ。まあなんだ。頭の中にいる己れの立場とお主の立場が入れ替わるととらえてもらって構わぬ』
「な、なるほど」
とりあえず、私の体を弥怒が直接操作するということだけは分かったので、うなずいてみせる。
『だが、身体に直接貼り付けるとなると、非常に負荷が大きい。というわけでだ。お主、鞄の中にちょうど良いものが入っているだろう。それを出してみよ』
「ちょうどいいものって……」
私は鞄の中をのぞいてみる。
そこにあったのは、かつて私が人をだまし、詐欺を働いたときの戒めの仮面。
手に取ってみれば、いつでもあの黒歴史が呼び起こされる。
「これを使うのか……?」
『不満か?』
「いや、構わない。弥怒がこれを必要とするのであれば、喜んで再び使おう。私はあれから寺を修繕し、弥怒と出会い、短くとも濃い時間を過ごした。同じ仮面をかぶったとて、もうあの時の私ではない」
『そうだ。人も、大地もその速度に違いはあれど、移ろい前へ前へと進んでいく。例え過去に縛られたとて、縛られた者は気づかぬだけで同じ場所に立っているわけではないのだ』
「確かにな……」
私はしみじみと仮面を見つめる。
改めてみると、なかなか滑稽な表情をした仮面だ。
よくもまあこの仮面で夜叉を名乗れたものだと、思わず吹き出してしまいそうになる。
いまいち締まらないが、それが私だ。
甘んじて受け入れるとしよう。
私は仮面を顔に装着し、札を手に持ち上げる。
『あとは、その札を仮面の額に張り付け、こう唱えるのだ――』
私は繰り返される弥怒の言葉を、口の中で反芻し、脳の皺に刻み込む。
『準備はよいか?』
「ああ、いつでもいけるぞ」
『それでは、いくぞ!』
私は片手で札を押さえつつ、目を見開く。
大きく息を吸い込み、頭に浮かべた文字を弥怒と共に頭から読み上げた。
「千岩万水、天壌無窮。天下静謐が大義は我にあり。業を背負い刃となりて、魔を滅せすべし。急急如律令!」
『千岩万水、天壌無窮。天下静謐が大義は我にあり。業を背負い刃となりて、魔を滅せすべし。急急如律令!』
ふたりの声がきれいに重なり、世界に響く。
読み上げる途中から、視界がまばゆく輝き始めた。
額に吸い付いた札の先端が、激しい岩元素の炎に燃えているのだ。
高鳴る胸の鼓動を感じながら、私は一言一句間違えぬよう呪文を唱えていく。
最後の一文字を読み上げた瞬間、私の意識はぷっつりと途絶えた。
『ん……ここは……』
気が付くと、私は明るいとも暗いともつかない空間に、自分の体をたゆたわせていた。
光源はないのに、自分の周囲だけがぼんやりと明るく、遠くなればなるほど闇が広がっている。
「気が付いたか」
空間全体に響く私の声。
意識を前方へ向けると、正面に仮面越しの視界が映った。
不思議な感覚だ。
自分が見ている光景をさらに外側から見ている感覚。
まるで水面に映る景色を眺めているようだった。
『私の声でしゃべっているのは……弥怒か?』
「いかにも」
視界が勝手に下へと動き、私の掌が映し出される。
両手は開いたり握ったりを繰り返す。
「ふむ。まずまずの体だ。しかし、久しぶりに吸う生の空気はうまいな」
視界は空を見上げた。
『なるほど。これが弥怒の言っていた、立場が入れ替わるというやつか。今まで弥怒はこうやって私の中から世界を見ていたんだな』
「ああそうだ。なかなか興味深い経験であろう。と、こうして遊んでいる場合ではないな」
弥怒は私の荷物をまとめると歩き始める。
『私の体なのに、私以外の人が操っているはなかなか不思議な感覚だな』
「うむ。そう何度も人が生を終えるまで体験できるものではないだろうな」
少し歩けば、先ほど王を待たせていた関所へとたどり着く。
岩に腰掛けていた王は、弥怒の足音を聞いて腰を上げ振り返る。
「平安さん、もう大丈夫ですか……って、仮面……?」
眉の端を下げ、こちらを心配するような表情が途端に曇る。
それはそうだろう。
ほんの少し前まで、泣いていた男が仮面をかぶって堂々と姿を現したのだ。
困惑するのも仕方がない。
「道を開けよ、王」
私のいる空間に響く、堂々たる声。
王は「えっ?」と聞き返してきた。
聞こえてくる声は自分と同じ声なのに、まるで別人のようだ。
いや、実際別人がしゃべっているのだが。
『って、ちょっと待て弥怒! 王さんは私のことを私だと思っているんだぞ! 変なこと言うなよ!』
「気にするでない」
『おい! それは私に向かって言っているのか? 王さんに向かって言っているのか? どっちなんだ! おい弥怒!』
精いっぱい苦情を述べてみるが、弥怒は返事を返さない。
そこで私は気が付いた。
私は弥怒と脳内で会話する術を身に着けたが、弥怒はそうではない。
弥怒が私に返事をすれば、余計状況がややこしくなると。
結局私は弥怒の行動を見守るしかないのだ。
ひやひやすることこの上ない。
「は、はあ?」
王は訝しがりながら後ずさる。
そのままずんずんと歩を進める私の体。
「あ、ちょっと、平安さん? そっちは危険ですよ!」
慌てた王の声と足音が背後に迫ってくる。
「そうだ」
何かに気が付いた様子の弥怒は、足を止めて振り返った。
そして手に持っていた荷物を、王へと差し出す。
「これを預かってはもらえぬか。お主であれば、平安も信頼しているだろう」
胸元に押し付けられた鞄に手を伸ばした王は、ゆっくりと顔を上げる。
「あの……もしかして、あなたは平安さんではない……?」
混乱した声色ながら、鋭くも真実を突く王。
対し、弥怒は余裕を持った口調で答える。
「そうとも言えるが、そうではないとも言える。ただ、お主たちは黙ってみているがいい。ここからは、夜叉の世界。手出しは無用」
「ど、どういうことですか⁉」
「ふん、見ていれば、分かる」
弥怒は踵を返し、大地を汚す禍々しい巨花を見下ろした。
そして背後に王を残したまま、眼前で手印を組む。
「平安よ、見るがいい。これが正真正銘、心猿大将の戦いだ。――滅妖、儺舞!」
突然、大地が震えた。
舞い上がる砂土が体を中心に渦を巻き、仮面へと集まってくる。
仮面の次は首、肩、腕、腹と続いていき、やがて砂嵐が収まると視界が晴れた。
「あ、あなたは……!」
背後から驚きに満ちた王の声が聞こえてくる。
肩越しにわずかに振り返ると、目を瞬かせ口をパクパクさせる王の顔があった。
その瞳には立派な老猿を模した儺面を被り、琥珀色に染まったローブをはためかせる男の姿が映っている。
「王よ」
「はっ!」
かけられた声に、王はとっさに直立不動の体勢となる。
「お主の先祖、王深は立派な夜叉であった。心猿大将の己れが保証しよう。今この場所に己れが立っていられるのも、奴の功績である。その誇りを胸に刻み、これからもお主の職務に励むとよい」
ゆったりとした私の声とは対照的に、王の目は見開かれ、私の鞄を持つ手はぶるぶると震えだす。
「は、はい!」
「うむ」
弥怒は満足そうにうなずくと、顔を正面へと戻す。
そしてすぅと息を静かに吸い込むと、低く響く声で言い放った。
「……猿写心鏡!」
言葉と同時に、身にまとうローブが形を変える。
それはさらさらとした砂に戻ると、私の体にぴったりと密着し、ぎちぎちと締め上げていく。
『熱っ!』
私は自分のいる空間の気温が、急激に上昇するのを感じて身をすくめる。
頭の中の空間が熱くなるとは一体どういうことだろうか、と私は混乱を隠せない。
何もない空間に突如表れた、熱源。
思わず顔を向けると同時に、私の顔は驚愕に染まった。
そこにいたのは、仮面を被った、ひとりの女夜叉。
すらりとした肢体に、鋭い剣を携えている。
火炎のようにうねる髪が印象的だった。
その夜叉がわずかにこちらを向くと、仮面の奥の瞳と目が合った。
深紅に燃えさかる瞳は、憤怒に満ちている。
『まさか、あなたは――』
その答えは、他でもない弥怒の口から放たれる。
「火鼠大将、応達。お主の鎧、借りさせてもらうぞ!」
私の本体にまとわりついた細かい砂は、まるで筋肉のように筋を描いて盛り上がる。
キラキラと光を浴びて輝く周囲の砂粒は、立ち上る陽炎にも見えた。
それはまるで、砂で模した応達の炎鎧。
「行くぞ――」
弥怒はぐっと身を低くしたかと思うと、大地を思いっきり蹴飛ばした。
瞬間、大地が爆ぜる。
視界が大きく揺さぶられたかと思うと、あんなに遠かった敵の姿が、一気に大きくなる。
その脚力に私は開いた口がふさがらなかった。
関所から今立っている地点までで、もう半分以上も距離を詰めてしまったのだ。
突然現れた獲物に周囲の触腕たちが反応し、私めがけて襲い掛かる。
が、私の体は踊るような滑らかな動きでそれらをかい潜っていく。
「安心しろ、平安。お主の体はこの己れ、心猿大将の名に懸けて傷ひとつつけさせやせぬ!」
暴れ狂う触腕の波を抜けた先には、青い空が広がっていた。
空中に跳躍した私の体がくるくると舞うように回転し、音を立てずに着地する。
見れば、いつの間にか右手には岩で作られた無骨な剣が握られていた。
背後に響くすさまじい轟音。
続けて唸るような地響きを体幹で感じる。
ちらり、と弥怒が振り返れば、ばらばらに刻まれた触腕たちが無残な姿で転がっていた。
まるで息を乱す様子もない弥怒。
私は自分の体がこの光景を作り出したとはにわかに信じられなかった。
頭の中で驚嘆する私に、弥怒はゆったりと語り始める。
「かつて、この地の山深くに、老いた仙猿がいた。その猿は、非常に好奇心が強く、時折山へ訪れる人に対し興味を持った。始めは言葉を真似た。次に、服装、容姿を真似てみた。そして満足のいったところで、その成果を試すべく老猿は人前にその姿を現した。だが、結果は散々であった。ただただ気味悪がられ、人の子に逃げられてしまったのだ。そこで老猿は過ちに気が付いた。ただ、動きや言動を真似するだけではだめなのだと。本当に真似をすべきは表面ではなく、その者が持つ本質、つまり魂なのだと。平安よ。己れは本を書いたことはないが、真似をすることに関しては他の追随を許さぬ。よって、一つ助言を授けよう」
私はごくりと喉を鳴らした。
隣へと目を向ければ、応達もこちらへ振り向く。
あれほど怒っていた応達の目は、優しく微笑んでいるように見えた。
空間全体に、弥怒の芯を持った声が反響する。
「心を鏡のように平定し、人物の魂を写し出せ。さすれば文字の上であろうが、演劇の舞台であろうが、描いた人物は命を得、やがて自然と動き出す」
弥怒はゆったりと散歩でもするように歩きながら、襲ってくる触腕を一つ、また一つと切り伏せていく。
『ああ……。その言葉、心に刻むよ』
私は胸に手を当て偉大な友人が放った、私だけに向けられた言葉の数々を噛み締める。
ちょうどその時、周囲に鳴り響いていた激しい金属音が途切れた。
弥怒が顔を上げると、頭上高くに打ち上げられた人影が、こちらへ向かって勢いそのままに落ちてくる。
剣を大地に突き立て両手を広げ、弥怒は降ってきた人物を受け止めた。
「ぐっ……!」
傷だらけになった降魔大聖の顔から、仮面の最後のひとかけらが崩れ落ちる。
弥怒は少年の青白い顔に影を落とし、わずかではあるが仮面越しに笑顔を送った。
次の瞬間、苦痛に歪んでいたはずの双眸が、これでもかと大きく開かれる。
「お前は……!」
「待たせたな、降魔大聖。かつてお主と交わした古き約束、果たしに来たぞ」
「まさか……弥怒、弥怒……なの……か……」
焦点の定まらなくなった目が泳いだかと思うと、降魔大聖は意識を手放す。
がくり、と腕を垂らした降魔大聖。
包帯が巻かれた腕からは、もうもうと黒い業障の霧があふれている。
「よくぞ、こんな状態になるまで戦った。あとは、己れに任せるといい」
歯の間から絞り出すようにそうつぶやくと、弥怒は降魔大聖を岩陰に寝かせ、半開きのままだった瞼をそっと閉じる。
そのままこぶしを握り締め、仲間を痛めつけた花の魔物を見上げると、憎々し気に声を張り上げる。
「やってくれたな、妖魔ぁ……!」
弥怒は立ち上がり先ほど突き立てた剣の場所まで戻ると、勢いよく引き抜いて切っ先で花弁の中央を捉える。
「大地に仇なす者よ。血海に……沈むがよいッ‼」
怒りに満ちた言葉が届いたのか、花は標的をこちらに定める。
細い鞭のような大量の触手が、空気を切り裂きながらこちらへと向かってきた。
「戦いの、始まりだ――」
面の中で、私の口角がわずかに上がる。
額にぶら下がり風に揺れる札は、五分の一がすでに焼失していた――。