弥怒と二人……いや。
彼は体を持たず私の頭の中にだけ存在するので、一人半が正しいだろうか。
とにかく彼との共同生活が始まった。
しかし、なかなか慣れないものだな……。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
『阿呆、まだ汚れがとれておらぬぞ。よく磨け』
「……」
『そこの角、埃があんなにたまっておる。いつから掃除しておらぬのだ?』
「……」
『もう掃除は終わりか? 次は何をするのだ』
「……途中だった本の続きを書く」
『まだあちこちが汚れておるし、整理もできていないというのにまったく……まあいいだろう』
「……」
『おいお主。手前のページ、二つ目の行。文字を間違えておるぞ』
「ぐぬぬ……」
『ううむ、なんだか……これでは話の流れが不自然ではないか? 先ほど消してしまった内容の方がよかったぞ』
「だーーー‼」
私は筆を放り出し、頭をわしゃわしゃとかきむしった。
『どうした、頭に虱でも湧いたか? そう言えば沐浴はいつ行うのだ』
「違います! あなた! あなたですよ!」
『ん? 己れは体がないので常に清潔だぞ?』
「違う! そうじゃなくてですね!」
私は机を両手でバンと叩く。
手の届かぬ頭の中から弥怒のゆったりとした口調が響いてくる。
『なんだ、言いたいことがあるならはっきり言うといい。己れも昔仲間内で言いたいことを我慢していた時期があったが、あれは体に良くない。心のよどみは業障のように蓄積していき体にまで影響を及ぼすものだ。己れが言いたいように言っているのだから、お主もそうするがいい。あと、敬語はいらぬ。己れはもう護法夜叉でもなければ戦うこともできぬただの幽霊のようなものだからな』
ふふんと得意げな弥怒の声。
平時は気にも留めないだろうが、今は私の感情を逆なでしただけだった。
「じゃあこの際はっきりと言わせてもらう。確かに私はあなたの眼となり手となると誓った。だがこうも小言を頭の中で毎度毎度ぶつけられては生活に支障をきたす。ここは私の家で、掃除も何もかも私のやり方でやらせてもらいたい。すこし気になることがあったとしても多少大目に見てはくれないだろうか! 特に、本を書いているときは‼ 心がよどむ前に私の頭の血管がはちきれそうだ‼」
『お、おう……』
姿は見えなかったが、私の剣幕に弥怒はややたじろいだようだった。
さすがに反省したのか無言になり、私の頭の中に久しぶりの静寂が訪れる。
「コホン」
軽く一つ咳払いすると私は執筆へと戻った。
思わずため息の一つもこぼれるものだ。
実は弥怒に懇願したのはこれが初めてではない。
前回は、弥怒に記憶の閲覧禁止を私は言い渡した。
記憶を読まれたときのぞくぞくする感覚があまりに不快だったからだ。
例えるなら高所から飛び降りた時と高熱にうなされた時のぞわっとした感覚をごちゃまぜにしたような感じ。
弥怒が私の記憶を覗くたび、それが際限なく波のように押し寄せてくる。
もうほんと、たまったものではない。
最初は弥怒もなかなか引かなかったが、私が「このままだと頭がおかしくなって、札を無意識に燃やしてしまうかもしれない」と言ったらやっと承諾した。
その少し前まではこの世に未練はないぐらいのことを言っていた弥怒だったが、私の身体を手に入れた途端手のひらをかえすとはなかなか現金な夜叉もいたものだ。
弥怒が静かにしてくれたおかげでそれから数刻の間、私は集中して本を書くことができた。
今までの進行は弥怒に邪魔をされていたのでかなり遅かったが、それを取り戻す勢いで巻き返すことができた。
私は満足して書きかけのページにしおりを挟み本を閉じる。
ぎゅっと疲れた目を押さえ、筆を机上に転がした。
窓から夕日が差しこみ床をオレンジ色に染め上げ、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。
昼から始めたつもりだったかが、もうこんな時間だ。
少し集中しすぎたかもしれない。
椅子から腰を上げ背伸びをすれば、固まった背中から骨の鳴る音が部屋に響く。
「さて、と」
もう夕餉の時間だ。
私は竈に薪を放り込み、火打石で枯草に火をつける。
息を吹き込めば炎が赤々と燃え上がった。
私は脇に掛けてある鍋に甕から水を汲み移す。
鍋を竈の火にかけ、私は納戸に移動し備蓄している食材を吟味した。
うむ、ちょうどいい塩梅の干物の魚と葉野菜があるではないか。
私は今日の献立を魚のスープに決定する。
食材を炊事場のまな板に広げ、棚から取り出した幅広の包丁で具材を刻む。
それらを次々に鍋へと放り込んでいく。
ひとり分なのでそう大した量は必要ないし、見た目もそこまで気にしない。
いわゆる男料理というものだ。
鍋に入らずまな板の上に余った食材は、瓶や甕の中へとしまい込み明日の分へ取っておく。
調理に使った道具を洗っているとぐつぐつと湯が煮立つ音と共に、おいしそうなにおいが漂い始めた。
洗い終えた最後の器の水を切り立てかけると、一通りの準備は終わった。
私はすることがなくなって、竈の前に置いてある小さな椅子に腰掛ける。
見れば炎が鍋を包み込んでいた。
ああ、すこし火が強かっただろうか。
火加減を調整するために金箸で薪をつつけば、ふわりと火の粉が舞い踊る。
干物の出汁がスープにいきわたるまでもう少し時間が必要だ。
私は金箸を立てかけ、パチパチと音を立てる薪と揺れる炎をただただぼーっと見つめる。
いつもと何一つ変わらぬ光景がそこにはあった。
穏やかで、平凡で、ありきたりな私の日常。
そんな日々に疑問を持ったことなど一度たりともなかったし、むしろそれを望んでいた節すらあった。
ただ、今は。
なんだかそれがむずがゆい。
私はその理由を知っている。
ずっと一人であると自分に言い聞かせていたが、実際は違う。
姿は見えずとも、常に私のそばには常に誰かがいるのだ。
それは今までの私の生活にはなかったことだった。
そして、この状態が不自然なことぐらい、誰にだってわかるはずだ。
私は気が進まなかったが、意を決して口を開いた。
「なあ、弥怒」
パチッと薪が爆ぜる。
返事はない。
「先ほど私は……少し言い過ぎた、かもしれない。多少小うるさいと感じたのは事実だが、こうも静かだと逆に落ち着かないものだな。弥怒を私の身体に招き入れたのは私だ。もう少し我慢すべきはこちらだった」
鍋から少し湯が吹きこぼれ、鍋のふちでジュッと音を立てる。
「だからこんなことを言うのもなんだが……。その、機嫌を直してくれないだろうか」
『ん? ああ、すまない。何か言ったか? 少し考え事をしていたものでな』
いつもと変わらぬ穏やかな口調で、弥怒の声が頭の中で反響する。
どうやら怒っているわけでは、なかったようだ。
私の取り越し苦労と言ったところか。
顔が見えないというのはこうも不便なものだと痛感する。
「……それならよかった」
私は安堵と共にふっと鼻から息を漏らすと、鍋の蓋に手を伸ばす。
蓋を開ければ白い湯気が視界を白く染め、大きく膨らみながら天井へと昇っていく。
湯気が切れた先には、ちょうどいい塩梅に煮詰まれた魚のスープが完成していた。
私はふと、弥怒の一言が気になった。
「先ほどはその、何を考えていたんだ?」
私は椀にスープをよそい、食卓へ移動しながら弥怒に尋ねる。
『ん、ちょっとな。これからのことを考えていた』
「というと?」
『お主の記憶を見て、この時代は己れの生きていた頃よりずいぶんと時間がたっていることがわかった』
私は席に腰掛け、湯気が立つスープに息を吹きかけながら弥怒の声に耳を傾ける。
「私にかまわず続けてくれ」
『うむ。そうだな。しかし、なのだ。現状己れの得た情報はあくまでお主の主観をもとに構成されている。にわかに信じがたい点もあれば納得のいく部分もある。決してお主の記憶を疑っているわけではない。だがそれを考慮したとしてもお主の記憶で見た今の璃月をそのまま受け入れることは私にとって難しい。そこでだ』
私はぐっと椀を傾けスープを喉の奥へと流し込むと、食卓に空の椀をコトリと置いた。
「そこで?」
『己れに、この時代の璃月を――見せてはくれないだろうか』
弥怒の声はいつになく真剣だった。
そこからは確固たる意志が読み取れる。
ただ私はそのあまりにも簡単なお願いに、肩透かしを食らった気分だった。
正直もっとハードなものを想像していたからだ。
「……そんなことをこの数時間、悩んでいたのか?」
『そんなこととはなんだ』
少しムッとした声色が返ってくる。
「ああ、いや、気を悪くしたのなら謝る。お安い御用だと言いたかったんだ」
『それを聞いて安心した』
私は椅子の背もたれに体を深く預け宙を眺める。
「もともと弥怒に今の璃月を見せたいと思っていたんだ。あなたたち護法夜叉が守り抜いたこの地がその恩恵を受けたのち、どんな風に発展したかを見せたかった」
『……そうか』
弥怒は少ししんみりした様子で言葉を返す。
私は少し声のトーンを上げて、話題の変更を試みる。
「本の執筆も片付けもだいぶはかどった。明日は一日、璃月を散策しよう。それでどうだろう」
『恩に着る』
腹ごしらえが済んだからか弥怒の声を聞いて安心したからか、睡魔がどっと襲ってきた。
「明日も早いし私は寝るとするが、弥怒は私が眠っている間は同じように眠るのか?」
『己れは精神体のようなものだ。睡眠は必要ない。だがお主が起きるまでは静かにしておくから安心しろ』
「助かる」
私はそう短く返すと竈の薪を金箸で奥へと押しやり、寝ている間に火事にならぬよう軽く水を振った。
そのまま私は倒れこむようにベッドへなだれ込む。
『いい夢を見るといい』
意識を手放す直前、弥怒がそう言ったような気がした。
※
「ん……」
目を開けると、そこは深い竹林だった。
幾本もの高く伸びた竹が日光を遮り、細長くなった木漏れ日が地面の上で揺れている。
私は平たい石の上で胡坐をかき、肘をついて考え事をしていたようだった。
体は私の言うことを聞かず、ひとりでに動く。
首が勝手に左右を見回すと、竹林が少し開けた一角に誰かがしゃがみこんでいる。
私は石から腰を上げると、ゆったりとした足取りで近づいていく。
しゃがみこんでいたのは、背中から四本の腕をはやした大男だった。
その大きな体を小さく丸めて、子供が砂遊びをするかの如く土をひたすらかき集めている。
私はその男に何か声をかけたようだった。
自分の声だというのに、よく聞き取れない。
男は私の声に気が付いたのかさっとこちらを振り返る。
私はため息をつきながら、同時に男が作っていたものへ目線を送った。
あれは墓、だろうか。
ややいびつに盛られた土の上に、小さな石が置かれている。
よく見れば男が作っていたもの以外にも、周囲にはいくつも同じような盛り土があった。
私はもう一度男へと向き直ると、男の体を見て何かに気が付いたのか、突然きょろきょろと周囲を見回し始める。
男はその間、ばつが悪そうに後ろ頭をかいていた。
私はがっくりと肩を落とし、盛大にため息をつくと片膝をついてしゃがみ込む。
大地へ片手を添えたまま、私は目をつぶった。
すると不思議なことに、掌からいろんな音や振動が伝わってくるではないか。
それは竹の間を通り抜けていく風の音だったり、動物の足音だったり、川のせせらぎだったりと様々。
その中で何かがはためくような音をとらえると、私は目を開けて立ち上がった。
二言三言男に告げると、男は得心したようにポンと手のひらを打つ。
私は目頭を押さえつつ、先ほどの音を感じた方向へと歩き始めた。
しばらく竹林を歩いていくと、岩の間からちょろちょろと湧水が湧いている場所へとたどり着く。
見上げればまだ背の低い竹の先に、紫色の羽織が風にあおられぱたぱたと音を立てていた。
それをやや乱暴に掴み取ると、つかつかと私は来た道を戻っていく。
男のいた場所へと戻ると、男は墓を完成させ私の帰りを待っていた。
手に持つ羽織を指さし、何やら私は説教を始めた。
男は怒られながらも二本の手を腰に手を当て、片手で服を受け取りつつ最後の一本の手で手刀を切り謝罪の意を示す。
四本腕があると二つの動作を同時にできるのでさぞ便利だろうと私はぼんやりした思考の中で感心した。
男は四つの腕を器用に操り服の袖に腕を通す。
その時、男が何かに気が付いたようだった。
私もつられて男の目線の先を追う。
すると竹林の陰から二人の女性がこちらを見てくすくすと笑っている。
先ほど私が目覚めた時に腰掛けていた岩の上には、いつの間にか槍を抱えた緑髪の少年が代わりに座っていた。
四本腕の男は何かを取り繕うように腹を抱えて笑いだす。
私はあきれた様子で腕を組んだ。
男はひとしきり笑い終えるとそれぞれの顔をじっと見つめていき、最後に私の顔を見た。
そして少し寂し気に先ほどの墓を一瞥すると、おもむろに口を開く。
私の目に狂いがなければ、彼はこう言っていたように思う。
「浮生は散り、万般を舎す。さあ行こう、我が兄弟たち」と。
※
カーテンの隙間から差す朝日が瞼を照らし、私は眉間にしわを寄せながら目を覚ました。
体を起こして目をこすり、周囲を見まわす。
開けっ放しの寝室のドアの向こうには昨日食べっぱなしにしてしまった食器と、火が消えた竈が薄暗い中佇んでいた。
「夢、か」
かさついた声で私はぽつりとつぶやく。
このような夢を見るのは二度目だ。
初めては弥怒と出会った日だった。
だんだんと輪郭を失っていく夢の中で、大男の口元の動きだけが鮮明に頭に残っていた。
「浮生は散り、万般を舎す、か……」
あの夢は、弥怒の記憶なのだろうか。
あの者たちは、弥怒の仲間たち、伝説の護法仙人なのだろうか。
今でもあの安らかな雰囲気だけがはっきりと感じられ、無性に胸を切なくさせる。
あの場に流れていた空気は勇ましく戦う夜叉のイメージからは程遠い。
彼らはむしろ、ごくありふれた普通の仲のいい……そう、まさに兄弟のようであった。
『おう、起きたか。どうだ、いい夢は見れたか』
私が目覚めたことに気付いた弥怒が声をかけてくる。
「いい夢、なのだろうか。私にはよくわからなかったが、どことなく穏やかな夢を見た気がする」
『それは重畳。顔を洗ってこい。そして昨日の片付けをするのだ。少し冷えるから何か羽織るといい』
「ふふっ」
弥怒の矢継ぎ早に繰り出される言葉に、私は思わず吹き出してしまう。
『ん? どうかしたか?』
「いや、何でもない」
私はひとりでに上がる口角を指で押さえつつ、ベッドから足を降ろして洗面台へと向かった。
顔を洗い昨日の片付けを終え着替えを済ませる。
まさに今から外に出ようと玄関の扉に手をかけたその時、弥怒の声が頭の中でひときわ大きく響いた。
『さあ、行こう』
私はその言葉を聞いてドキッとした。
夢で見たあの大男の口元がフラッシュバックする。
思わず私は動きを一瞬止めてしまう。
『ん? どうした? 行かないのか?』
「い、いや大丈夫だ。少しぼーっとしていた」
『いつまでも寝ぼけていると路肩の石につまずくぞ』
「……わかったわかった」
『わかったは一回で十分だ』
「へいへい」
『へいも一回だ! おい! 聞いているのか⁉』
私は弥怒を軽く流しながら手に力を込め、取っ手をガチャリと回す。
開かれた扉の先には朝露に濡れた草木の垣根と、璃月港へと続く小道がまばゆい朝日に照らされてキラキラと輝いていた。