僕がずっと死にたかったのは。   作:青山葵

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青き春・5

 ただ真っ直ぐ受け止めて、放つ言葉は、僕の苦しみを解きほぐしてくれる光のようだった。

 

 初めて、分かって貰えた気がした。

 

 初めて、理解してくれた気がした。

 

 初めて、醜悪過ぎる今に。

 

 理解してくれる人がいた。

 

 いたのかもしれないなと。

 

 それは、僕がこの世で1番嫌っていた、女性だった。

 

 瞬間、暗闇に一筋の光が僕を貫いた様に、暖かい茉姫奈の両手が僕の冷たい手を握った。他人のエゴに振り回されて、その他人達が無意識のうちに作り上げた汚い海に深く沈められ、その海底で横たわる僕を掬った人魚の様な感じもした。

 

 茉姫奈は僕の手を強く握り締めて離さない、僕は言葉すら失っていた。

 

「分かるよ、ちゃんと分かる。玲依のその誰にも言えない苦しみとか、私も言えない事とかも沢山あるし、この環境とか境遇とか人にあんまり言いたくないんだ。気遣われちゃうから」

 

 確かに、そう言うのも分かる。

 

 どんなに良く振舞ったってこの環境がバレてしまえば皆気を使ってしまうだろう。もし僕が女性不信でなかったら恐らくそうしたはずだ。

 

 今の僕には力が入らず、ただ茉姫奈の話を聞いているだけだった。

 話を聞いて、だが耳から耳に通り抜けずに、ちゃんと耳に浸透していく言葉。

 

 それで正しいのかは分からないが、今は何時も感じるはずの女性に対する嫌悪感を感じないので、聞くだけでも成長と思った。

 

 茉姫奈は僕の眼鏡を外し始め、軈て僕の目を真っ直ぐに捉えて言った。

 

「境遇とか、過去とかに縛られて、自分を見失いたくないからさ、いつか消えてなくなりそうな感情に支配されたくなくて、私はずっと有り触れた幸せを探してるんだ」

 

 茉姫奈の周りには、幸せな色と、辺りにぼやけた、陽炎のような透明な色が混在していた。

 

 築50年は経過している、本当にボロボロの家で僕に語る茉姫奈の言葉には、説得力しか無かった。ずっと苦しかった僕の心がちょっと緩んで、やっとそこに、冷たいながらも血が流れ始めた様な感覚。

 

 普通、女性がこんなに真剣に話をするだろうか、ノリやその場の雰囲気で言の葉を紡ぐ人達ばっかりだ。今まで偏見や容姿だけで判断していた僕が情けなく感じた。

 

 茉姫奈の容姿とは裏腹に僕に優しい言葉をかけてくれるのなら尚更そう思ってしまった。

 

「だからそれをするようになってさ、ちょっと息を吸うのが楽になったって言うか、自分で感じてた息苦しさがちょっとだけ無くなったんだよね」

 

 一瞬、色が消えて、またゆっくり色が浮上する。

 

 冷静に茉姫奈の話を聞いていた僕は、一瞬でその行動が自分を変える為に自然と取った行動だと分かった。

 

「だから、自分がしたい事なら、それの為に自分勝手にいいの、そんなの”自分の勝手“だって助けたりしたい、だから私は私の自分の勝手で、玲依の心を楽にさせたい」

 

 僕とは違って、境遇を盾にしないでそれを家族で手を繋いで乗り越えていく為の1つの、“欠けている”岩海茉姫奈という本質のひと欠片。日常の中で少しでも幸せと感じる瞬間を見つける事は、そうそうできる人間はいない。

 

 そしてあの目、あの目は。

 

「私は“幸せ”だから、玲依に対する憎しみとか、妬みとかの感情なんて無いよ」

 

 変化と自分が怖い片割れ。

 人生と足跡が憎い片割れ。

 

 冷えきった心が自然と熱を込み上げては現れる。

 

「待っててもさ、何かを待ってても何かなんてやってこないんだよ、何も起きないんだよ。だから私は君に問いかけたい」

 

 そう言って茉姫奈は、また大きい瞳で僕の双眸を見据えた。

 

「私は全部話したからさ······玲依、話して? 私が知らない君だった頃、ずっと君が隠してたこと。私は知りたい」

 

「──分かったから、もう少し離れててくれ」

 

 別に彼女に対して変なシンパシーでも感じた訳でも無いのに、あの目を見せられたら自分の境遇を全て吐露するしか無かった。

 

 あの茉姫奈の目、“本当”の目だった。

 

 本当に“幸せな”感情の目をしていた。他の欲なんて全くない、全ての欲を追っ払ったような澄んだ瞳は、僕の影を切り裂いていく。

 兎に角僕は茉姫奈を信じるしか方法が無かった。茉姫奈を信じて自分の全てを言うしか無かった。

 

「僕達の家族は──」

 

 そこから全てを話した。

 

 家庭環境が崩壊していること、タガが外れた様に、狂った様に他人に自分の境遇を全て吐き出した。

 

 僕だけに対する家庭内暴力で母は重度の鬱病を発症した事を引き金に暴力はなくはなったが、尊重されたり優先されるのは母と姉さんになって、僕は未だに理不尽な立ち位置に立っている事。

 

 分かっていた。自分の家族が普通では無いことは、ズルズル罪を被って償ったとしても壊れたままの今は変えられない事は出来ないのは。

 

 自分の存在には何の正当性もなくて、従わなければ杭を打たれる。

 そしてその裏側を全く知らない女子達が僕に金とか権力とか持ってると勘違いして寄って集って僕に媚び売り合戦。僕のことを見ているのじゃなくて玉の輿を見ているのだなと思ったら、嫌でも女性をそういう下卑た目で見るようになってしまった。

 

 それも全て茉姫奈に話しても、顔色ひとつ変えず真剣な眼差しで聞いてくれた。

 

「何か言われれば手を出されて、何も言わなかったら意見を要求してくる······酷い有様だ。まるで生き地獄、何度も死んだ方がマシだと思ったよ」

 

「それは···どうして?」

 

「····終わってる家族に生まれて、間違った環境があって、結果今の僕を作ったんだ。そんなもの、そう思うに決まってる」

 

 僕は続けて言った。

 

「鬱病になった母さんも酷かったよ、ヒステリックになった母さんは色んな理由をつけて喧嘩し始めて包丁を持って『殺してやる』って言って姉さんも『殺してみなさいよ』て言って僕が止めるしか無くなるって言うのが続いたよ、今はずっと部屋にこもりっぱなしだけどたまに意味不明な言動で暴れてる。それを見つけたら僕が薬を飲ませて寝かせてって感じだよ」

 

 空気が漸次、重くなっていくのを感じた。

 

 当たり前だ、こんな胸糞悪い話。盛大に道を踏み外した家庭があって、でも金は持っている。こんな汚れた家族も嫌だったが、それに甘えの感情を持っている自分自身が嫌だった。

 

 ただ過ごしていれば裕福な生活が出来る。母が鬱になった途端暴力も無くなったし、少し家族のいざこざを耐えればなんだって出来た。自分の口座に入っているお金で全てやりくり出来ているし、父は僕の人権を無いものにする代わりに全く減らないほど口座に自動的に金は振り込まれていた。

 

 このまま家族を殺しても、自分自身も殺してもそのまま“裕福”なままで終わる事が出来るからだ。だからこそ怖い。現実を向ける事が、それ以上にその生活によりかかっている自分自身が怖かった。

 

 最初は逃げ出したかったのに、何でこんなに汚れてしまったのか。

 

「私はさ、本当の幸せって言うのは、ただ裕福だけじゃダメだと思うんだ」

 

「·····それは、分かってるけど」

 

「私みたいに裕福じゃなくても家族と仲良かったり、友達も多かったり、喜怒哀楽が豊かだったりさ、そういう人が本当に幸せな人だと思う。あ、私が友達が多いとかそういう話じゃないよ?」

 

「──茉姫奈って、本当に幸せそうだよね」

 

 別に自分には無い感情が羨ましくて皮肉を込めて言っている訳ではなかった。ただただその目に映る光に憧れた。僕が見てきた人間には全く無い感情。彼女の出会いが、僕の青い世界を少しずつ現実の色に変えていく。

 

 最初は最悪だと思った。だけどこの話を聞いて、自分のさらけだしたかった本心をぶちまけてスッキリした気持ちと、産まれて始めて女性に対する信用が生まれた。

 

 少しずつ、立ち止まっていた僕を茉姫奈が歩き出す勇気をくれる。

 

 そんな気がした。

 

 彼女だけならまだ信じる事が出来た。

 

 そして茉姫奈は、屈託なく笑を零して僕に言った。

 

 

「うん、私は幸せだよ」

 

 茉姫奈から滲んだ色は、幸せの色と、なにか透明なモヤが混じっていた。

 

 

 それからは、他愛も無い話をして過ごした。ふざけた口調で今日も父に反抗したりした事とか、茉姫奈も皆勤賞破ってまで本当は疲れてたからただ休んだこと、普通に女性と話しても案外話せるもんだな、と思った。

 

「そうだ、ねぇ玲依」

 

「どうしたの」

 

「お父さんは、家に帰ってこないの?」

 

「あぁ、父さんは家に帰ってこないで、別の家で別の女と不倫中」

 

「え」

 

「ん?」

 

「じ、じゃあ····お姉さんは?」

 

 あまり声を大にして言えない話題なので、僕は携帯を開いて、僕と姉さんのトーク履歴を見せていった。

 

『今日も遅く帰ってきて』『今日は沢山お金入ったから2人でご飯に行こうか』『レイ、今日も遅くに』

 

「いいお姉さんじゃん、お姉さんはいい人じゃないの?」

 

 何が何だか分からない茉姫奈に写真のフォルダを開いて、姉さん自身がホテルについている大きな鏡の前で撮った下着姿の写真を差し出した。

 

「何人ものおじさんと援交中なんだよね」

 

 それを言った瞬間、茉姫奈の顔は一瞬で赤く染まった。爆発寸前の茹で蛸みたいな顔をして頬に手を当てる。

 

「えっ、えっ? それって·····」

 

 この反応を見て、僕はまさかなと思った。こんなスレた格好してて? 

 

 確かにこの格好に変えたのは高校1年生の時って言っていたけど、その時に何か····彼氏の趣味に合わせてずっとそれ、とかでは無いのか。高校3年だよ、さすがに。

 

「ねぇ、まさか──」

 

「言わないで!」

 

「それか岩海茉姫奈の頭の中は少女漫画?」

 

「──そ、それでいいから····それだけは言っちゃだめ!」

 

「意外だな····君が乙女だったとは」

 

「そういう玲依はどうなの?」

 

「······君と同じくだよ」

 

 茉姫奈の恥ずかしそうな顔がいきなり晴れて僕の方を見て喜び始めた。

 

「はい、同じーっ」

 

「はいはい」

 

 もう一度彼女の部屋を少し見る。

 

 今見ると茉姫奈の部屋はまさに殺風景という言葉が似合う部屋で、ベッドと壁に1つの本棚と、その横に椅子と、椅子の上にバケツが置いてあって、あとは時計だけがぶら下げられているだけだった。

 

 本棚に並べられてある本は、色んなものがあった。参考書や漫画、小説もあった。1つの本棚にぎっしり詰まっていたが、それでも僕の本棚よりは全然少なかった。漫画でも小説でも、かなりの数を揃えているので、茉姫奈の部屋を見ても別に驚きはしなかった。

 

 一番下の段は、カーテンカバーがかけられていて、タイトルとか、どんな種類の本なのかは分からなかった。

 

「玲依のお姉さんってさ、玲依に優しくしてくれてると思うよ」

 

 それは、言えている。

 

 家族の中で唯一優しくしてくれていて、何かと気をかけてくれたりしてくれている姉さんの事は、嫌いと思った事は一度もない、だからこそ心の奥底に引っかかる。

 

「····それは分かってる。援交なんてする前は僕の事を守ってくれてたりもしてた。援交をしている時も、度々多くお金が入ったらいいお店に連れてってもらってたりしてるけど、だけど釈然としない。こんな自分を汚してお金を稼いだってなんの意味があるのかなって」

 

「お姉さんの事、いい人って思ってるなら、玲依もお姉さんの事守っててあげないとね」

 

「····うん」

 

 そう相槌で返すと、部屋のドアが開いた。壮年の女性で茉姫奈によく似ている顔立ちとあまり似ていない柔和な表情をしていた。

 

 一目で、茉姫奈の母だと分かった。

 

「あら、茉姫奈のお客さん? お見舞いに来てくれてるの?」

 

「うん、まあそうだよ」

 

「お名前は?」

 

「レイレイ! 桜山玲依って言う名前なんだよ」

 

 またレイレイって言ったなこの人。

 

 少し驚いた顔をして、茉姫奈の母親は、僕のほうを見てお辞儀をした。

 

「改めてこんにちは玲依君、茉姫奈の母の茉莉花まりかです」

 

「あ、初めまして茉莉花さん」

 

 僕も茉莉花さんにお辞儀を返す。

 

「あと聞いてよ玲依君、茉姫奈ったら寝坊したから面倒臭いって言って皆勤賞破ったのよ。なんの風邪でもないのにねぇ? 受験シーズンなのにそんなことしちゃダメよ?」

 

「お母さん!」

 

 茉莉花さんは黒髪に茉姫奈と同じ目の色をしていた。ギャルの格好をしている茉姫奈をそのまま大人にして黒髪にさせた姿そのものだった。

 

 これ程若く見えるお母さんが居るものなのだな、と思った。

 

 確かにすこし茉姫奈と似すぎているのもあって、かなり若く見えた。だが茉姫奈よりは感情の喜怒哀楽がしっかりしていそうな感じで、一言で言えば美人だった。

 

 何故か、この家族は不思議と嫌悪感はしなかった。他の女子から感じる侮蔑の感情や、気持ち悪さなどは感じなかった。

 

「ごめんねぇ、こんな古い家まで来てくれて」

 

 少し心配したかの様な口調で茉莉花さんは僕に言った。別に家の古さや新しさで人の沽券が決まる訳じゃないから、何も気にしてはいなかった。

 

 だがお互いこの家の事はネックに思っている様で、茉姫奈も茉莉花さんも家の事をあまり話したがらないのがその証拠だった。

 

 だが笑顔を欠かさない事や家庭的に綺麗な部屋や、整えられている内装を見たら良い薫陶を受けているのは確かだろう。

 

「いえ、気にしてないので大丈夫ですよ」

 

「この家に入れたの玲依が初めてだよ」

 

「僕が初めてで嬉しいよって言って欲しいの?」

 

「ぶー」

 

 茉姫奈は頬を膨らませて僕の方を見つめていたが、軈てそっぽ向いてしまった。茉莉花さんは苦笑しながら「こういう気難しい性格なの、ごめんね」と言って僕達にジュースと少しのお菓子を出した。

 

 別に頼んだ訳でもないが、とても饗す気遣いなどは出来ているし、本当に茉姫奈も含め良く出来た家庭だなと思う。

 

「ごゆっくりしてってね、玲依君はもう何時でも来ていいよ」

 

「あ、はい。わざわざありがとうございます」

 

 

 あっという間に日も暮れ、姉さんが予定していた時刻に差し掛かり、今日はこれくらいで帰る事にした。初めはどうなるかと思った女性宅訪問だが、茉姫奈のお陰で少しは楽しいものになった。

 

 茉姫奈が僕に歩みよってくれたお陰で、女性に対する嫌悪感や押さえ込んでいた悩み、歩いて来た汚れた道が少し凪いだ気がした。

 十字架のように取り巻いていた黒い足跡が少し薄れた感じがして、足取りが少し軽くなった。

 

「玲依、今日はありがとうね」

 

 薄暗い玄関で茉姫奈は僕に笑顔で挨拶をした。そんなに感謝を伝えられても、僕からは何も出ないぞ。

 

「こちらこそ」

 

「他の友達には秘密ね? どんな家かは言っちゃダメだよ?」

 

「そもそも友達は居ないから大丈夫だよ」

 

「それはそれで悲しいね」

 

 そんな事を言うと、茉姫奈はくしゃ、っと笑った。僕は少し共感してしまい「確かに、そうかもね」なんて言ってしまった。

 

 笑顔は自然と溢れるものだと言うが、茉姫奈の笑顔は本当にその言葉の通りの笑顔だと思った。

 

 別に笑顔にさせる事とかに拘っている訳でも、自分自身が笑顔で溢れている人間でも無いけど、茉姫奈が僕にみせた笑顔は何故か本当に、心の底からの笑顔のような気がした。

 

 一瞬でそう思う僕もどうかと思うけど。

 

 それが自分の滑稽な妄想であることは分かっているけど、初めて他人が見た笑顔に感情が見えた。こんな事他人に言ったら気味悪がられてしまうのは如実に見える事だが。

 

 表情筋は、動くだろうか、笑い方は忘れていないだろうか。ずっと生きづらさを感じていた。笑い方すらも全て。

 

「でも、今日から私が玲依の友達!」

 

 虚構の世界に逃げるしか無くて、照らされない道が照らされかけているこの時、初めて僕は。

 

 息を吸えた気がした。

 

「そうだね」

 

 とても不器用に笑ったかもしれない僕の笑顔に茉姫奈は少しばかり面食らって動かなかった。

 

 本当に汚い笑顔だったのかと心配になって、茉姫奈に「どうしたの」と聞いてしまった。

 

「いや、あー·····玲依って笑ったらやっぱ可愛いなって」

 

「そうなの?」

 

「そうだねから、いきなりそうなの? って疑問形とかネガティブすぎ·····まぁ、うん、思ったよりもね」

 

「初めて、言われたから」

 

「·····そうなんだ」

 

 あまりにも重い言葉が私の胸を締め付ける。冷たい、そして脆い声で放っている温かさが、余計玲依の凄絶な過去をい強くイメージしてしまう。

 

「玲依の顔は、かっこいいよ。眼鏡とかであんまりよく見えないけど」

 

「お世辞?」

 

「私、お世辞言わないタイプ」

 

「そういうの、僕あんまり分からないんだ」

 

「分からないなら、これから分かっていけばいいんだよ」

 

「·····ありがとう、茉姫奈」

 

 1つ、零した感謝の言葉は──波紋が広がるように自分の心に浸透していった。

 


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