2017年11月18日。土曜日。
あんこう祭り、前日。俺は職場にいた。
何故か。リリースが近いからだ。
顧客から尚も繰り返される仕様変更を受け、設計書を修正しなければならない。
ついでに言うとテスト仕様書の作成も始めなければならないし、更に言えばコーディングも進めなければならない。
地獄か。
とはいえ設計書の修正やテスト仕様書の作成なんかは手慣れているので脳みそを空にしていても進められる。
職場に一人しかいないのを良いことに、時折アンチョビとSNSなど嗜みながら仕事に臨んだ。
帰宅は午前0時となった。やあすごい。
「お疲れ様。今日は休日ではなかったのか? 大丈夫か?」
アンチョビに励まされさえすれば大丈夫です。
「できれば、大洗に前日入りしたかったんだけどねえ」
「ん、まあ仕事なら仕方ない」
「あ、いや、仕事は関係なしに前日入りは無理なんだよ。宿がとれないから」
「なんだ、大洗は宿が少ないのか?」
そもそも人が多すぎて予約瞬殺とか色々説明するのが面倒で「まぁそれもありますよねー」と濁す。
アンチョビも何となく俺の疲れを感じ取ってくれたみたいで問答はそこで切れた。
一瞬、間があって、アンチョビが呟く。
「……そろそろわたしも働かないとな。いつまでも甘えてばかりじゃ駄目だ」
「いやいやお金は何とかなってるから良いよ」
「そうはいかないぞ。……どう恩返しをすれば良いのかまだ考えられてないが、せめて少しでも戸庭の苦労を減らさなければ」
アンチョビが働いてくれても俺の仕事は減らないんだなあ。
「一緒に飯食ってくれたらそれで良いよ」
「んー? 今も一緒に食べてるじゃないか」
「だから、それで良いの」
アンチョビの声を聴いているだけで耳が幸せなので、十分に仕事の苦痛は癒やされる。
それに、こんな深夜まで夕飯を我慢して待っててくれているのだ。
心の底から、感謝の念しかない。
「さあ、さっさとご飯食べて今日はもう寝よう。明日は早い」
「ん? 何時に起きるんだ?」
「7時過ぎの電車に乗るから、6時起きかな」
「……早すぎないか?」
「ホントは前日入りしたかったんだって」
納得しない様子でしかめ面を浮かべるアンチョビを眺めながら食事を終える。
俺は歯を磨き、スーツを脱ぎ捨てて床に就いた。
◇ ◆ ◇
2017年11月19日。日曜日。
起床して枕元の時計を見ると、6時20分。
若干の寝坊に慌てて飛び起きると洗面台へと向かう。
がらがらぺーっとうがいしてシャワーを浴びてリビングへ。
ふーっと落ち着いたところで、そういえばアンチョビの姿が見当たらないのに気付いた。
「まだ寝ているのか……?」
いやまさかそんな、と思いつつも、彼女が某戦車道全国高校生大会の決勝戦に現れなかった理由を思い出すとそのまさかだろう。
部屋の扉をノックし「あの、アンチョビさん、朝なんですけども」と声をかけると、低く濁った「んー?」という返答が聞こえた。
「寝過ごしたぁあっ!」
リビングでドラクエライバルズなど嗜みながら彼女の身支度を待ち、出発。
対面からの朝日が眩しかった。
いつもならアンチョビが作る朝食も今日はコンビニ飯で済まし、電車に乗ったのは30分遅れの7時35分となった。
「うう……すまない」
「まぁ俺もよく寝坊するので。気にしなくて良いよ」
朝霞台。新松戸。
何度か乗り換えを繰り返して、柏に到着。
駅のホームで特急券を買って、ときわ53号に乗り込む。
切符は急いでいたので未指定席だったが、特に指定客も現れる様子はない。
アンチョビの横顔越しに窓の外を眺めると、段々と景色が田舎へと変わり始めた。
田畑。その合間を縫った道路。
走る車。並んだソーラーパネル。
今にも倒壊しそうな家屋。溜め池。
鉄塔。発電所。山。林。森。
水戸に近付くにつれ、黄色、赤、緑と木々がカラフルになってゆくのが綺麗だった。
水戸駅。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線。
3分ほどで切符を購入できた(手売りだった)ので「全然待たなかったなあ」と言うと、「そうか?」とアンチョビは不思議そうな表情を浮かべた。
今日のアンチョビは黒縁の眼鏡と深めの帽子で顔を隠しており、新鮮で可愛らしい。
大洗鹿島線の列車は、入り口に段差があったり車内券売機が置かれていたりと、いかにも私鉄らしかった。
一人分の座席が空いていたのでアンチョビを座らせる。
そして再び田畑。並ぶ家屋。
味噌ラーメン屋。川。ボート。
マリンタワーが遠くに見えて、大洗への到着を知る。
「やった! 着いた! 大洗だ!」
「いつになくテンションが高いな、戸庭っ!?」
「いやだって年に一度のお祭りだし」
「地元にも祭りはあるだろう……? まぁ、わたしも祭りは好きだけどな!」
マリンタワーへの大通りにはあんこう祭りののぼりが並び、歩行者天国はすでに通行が困難なほどの賑わいを見せている。
わいのわいのとはしゃぎながらマリンタワー前へ向かうと、ステージの方角からはヒーローショーのお姉さんの声が届いた。
まいわい市場が見えてふいに物販列に並ぼうかとも思ったのだが、列の長さが恐ろしいことになっているようだしアンチョビもいるので、諦めてそのまま広場へ。
密集した人・人・人、漂う屋台の香りと白くたちこめる煙に気持ちが昂ぶる。
「おぉおお、すごい人だな」
「ガルパン人気もあると思うけど、そもそものお祭りが有名だからね。あ、ビール飲んで良い?」
「もちろんだ!」
「よっしゃ」
地元の人間半分、ガルパンおじさん(&お姉さん)半分の空間は妙に居心地が良い。
からあげや牛串や「おぉうまいなーっ!」と笑顔のアンチョビを肴に飲み歩いていると、1時間も経たぬ間に体力が切れた。
「……ガルパンキャストの出演するステージって、何時からだっけ」
「11時半から――20分後だな。戸庭はここで休んでて大丈夫だぞ。仕事の疲れもあるだろうし、付き合わせるのも悪いからな。私一人で行ってくる」
言われて気付いた。
あぁ、これ、移動疲れとか酒で体力を奪われたとかじゃなくて、日頃の疲れが出てるのか。
「……いやいや、そうは言ってもね。こっちこそ悪いよ。説得するんなら人数は多い方が良い。俺も行く」
「そんな赤い顔で交渉になるのか?」
「……仰る通りですね。ごめんなさい」
俺が言うと、アンチョビはにんまりと笑顔で返した。
「おー! 安心して待っててくれ! 回復したらぷらぷら歩いてても良いからな!」
アンチョビが去ると、祭りの喧噪の中でふいに俺の周りだけ音が消えたような気がして、妙に寂しかった。
ぼうっと宙を見上げると空は快晴で、『いい一日』っていうのはこういう日のことをいうのだなと何となく思った。
アルミ製のベンチに座って、屋台でやきそばを焼くおっさんやらビールを手に談笑するおっさんやらを眺めていると、ステージを中心とした人だかりが大きくなってきたのに気付く。
もはやベンチに座っているのもままならず、後方に下がると、マリンタワーの裏から、ステージ右手へと向かった。
アンチョビは首尾良くやっているだろうか。
計画では、スタッフに頼み込んで出演を終えたキャストと面会することになっていた。
無駄かもしれないが、事前に商工会議所側と制作側の両方へメールも送ってある。
「……まぁ、心配しても仕方ないか」
きっとアンチョビなら上手くやるだろう。
俺を説得できたのだから、同じようにやるだけだ。
やがてステージが始まった。
まずバンビジュの宣伝担当が司会進行役として現れ、その後にあんこうチームの声優陣が登壇する。
「みなさんこんにちはー」「みなさんと楽しい時間が過ごすことができて嬉しいです」
「毎年毎年すごいですね」「お元気そうでなによりです」「みなさんおはようございまーす」
最終章に関するトーク、主題歌のライブ、公演やイベントの告知などが行われ、ステージは1時間ほどで終わりを迎えた。
最終章の公開まで残り一ヶ月を切っている。
そのことを楽しみに思いつつも、そういえばアンチョビはその先の未来を知っているんだよなあ、とふいに思い当たった。
後で訊いてみようか……いやでもネタバレになるからなあ。
「あ」
くだらないことを考えていると、人混みのなかにアンチョビの姿を見つけた。
「こっちこっち」
手を振ると、顔を上げた彼女がこちらに気付く。
ひらひらと彼女も手を振って応じた。
合流して、窮屈な人混みを抜け出すとマリンタワーの裏手へ。
「どうだった? 誰と話した?」
「いや、駄目だった」
「え?」
「んー、戸庭の言う通り、信用を得るのは難しいな! キャストの人達と会う前に追い返されてしまった」
あっけらかんと言うアンチョビだが、その内容は暗い。
「ごめん、やっぱり俺も一緒に行ってれば良かった」
「良いんだ良いんだ! 戸庭は悪くない。帰ったら次の手を考えよう」
横目に広場の方をうかがうと、ステージが終わったからか先程の人混みは消えていた。
太陽はいまだ頭上で燦々と輝いている。
「さあ、今日はもうぱーっとあんこう祭りを楽しもー!」
「アンチョビさんがそう言うなら、まぁ良いんだけど」
広場へ戻り、佐世保バーガーや唐揚げで再び腹を満たすと、埠頭の物販を見て回る。
アンチョビの水着フィギュアが並んでいるのを見て彼女は赤面していた。
商店街は去年よりも空いており歩きやすかった。
らくがきバスやコスプレイヤーや戦車を眺め、歩き疲れてカフェでコーヒーを飲んで休憩すると、15時頃に二人で大洗を後にした。
帰りの大洗鹿島線の列車には、側面にでかでかとガルパンのラッピングがされていた。
そのことをアンチョビへ伝えると、彼女は「あぁ、そうだなあ」と気のない返事をかえした。
◇ ◆ ◇
2017年11月20日。月曜日。
あんこう祭り翌日。
非日常にどっぷり浸かって緩んだ脳みそが、一瞬で現実に引き戻される。
束の間の休憩すら許されぬ怒濤の作業量、気付けば時刻は夜中の23時となっていた。
同僚に「帰る」と告げ、帰宅する頃には日付が変わっている。
「おー、おかえり。大変だったな」
アンチョビと共に夕食を食べ、俺は布団に潜った。
◇ ◆ ◇
2017年11月22日。水曜日。
仕事量は増える一方だ。
リリースに向けて少しずつ仕事は減っていくはずが、何故増えるのか。謎だ。
帰宅。やはり日付は変わっており、アンチョビと共に夕食を食べた。
アンチョビが元の世界へ戻るための、次の手を講じなければならない。
結局、あんこう祭り当日はお互い疲れて夕食を食べたら眠ってしまい、それきりだ。
この三日間も、一緒に食事をとってはいるが、取るに足らない話題ばかりである。
「――アンチョビさん、なにか作戦は考えた?」
「ん? 作戦? なんのだ?」
「アンチョビさんが、ガルパンの世界へ帰るための策だよ。そういえばあんこう祭りの時の話も詳しく聞いてないし」
「あ、あぁ、その話か。でも戸庭も疲れてるだろ? 話すのは明日にしよう。明日は仕事も休みだしな!」
「……休み? いや、何故に?」
「明日は祝日だろ?」
「祝日がイコールで休みにならないのがこの仕事の怖いところですよね」
どん引きした表情のアンチョビを置いて、食器を流し台へ持ってゆく。
「まぁ、明日はもう少し早く帰ってくるようにするよ。21時くらいかな。そしたら少し話そう」
そう言葉を残すと、洗い物はアンチョビに任せて、俺は眠りに就いた。
◇ ◆ ◇
2017年11月23日。木曜日。
というわけで、祝日(勤労感謝の日である、ははは)ではあるが出社だ。
出社早々、部下へ「今日は早めにあがるぜ」と声をかけると仕事へ臨む。
昼飯を菓子パンで済ませ、延々とPCの前へ向かっていると、なんとか20時過ぎに仕事にキリがついた。
まだ会社へ残る部下に謝罪しつつも退社し、新宿から自宅へと帰る。
「さあ、始めるか。あんこう祭りの件、よろしく」
「とはいっても、大した話ではないんだけどな」
そう言ってアンチョビが切り出す。
「いきなりテントの中へ入っていくのもどうかと思ったからな、まずは外で仕事をしてたスタッフに声をかけたんだ」
「キャストの人たちと話がしたい。取り次いでくれないかってな」
「うんうん、それで?」
「それで、責任者っぽい人が現れて、その人に怒られた」
「突然現れた不審者を会わせるはずないだろってな」
「はい、以上、それだけだ!」
「食い下がったりはしなかったの?」
「……ん、取りつく島は、なかったと思う」
うーん、厳しい対応だな。
責任者というのが誰なのかはわからないが、やり方が良くなかったのかもしれない。
せめてアンチョビがアンチョビたる証をアピールできれば芽はあったのだろうが、その機会すら与えられなかったわけだ。
「次は、どうしようかなあ」
乾いた表情で告げるアンチョビに違和感を覚えながらも、俺は言葉をかえす。
「方向性を切り替えるのはどうかな。こちらから直接声をかけるんじゃなくて、むしろあちらから声をかけさせる」
「んー、よくわからないな」
「つまり――」
俺が言葉を続けようとすると、アンチョビが「あー」と遮った。
「実は、少し寝不足でな。ごめん、今日はここまでにしよう」
「ん? そうなの? じゃあ、続きは明日また俺が帰ってきてからかな?」
「そうだな。そうしよう」
アンチョビが食器を手に立ち上がる。
それで本日の会議は終了となった。
◇ ◆ ◇
「う」
目覚めると、室内は薄暗かった。
スマホを取り時刻を確認すると、いまだ5時すぎ。夜は明けていない。
疲れは溜まっているから、そう簡単に目覚めるはずはないんだけどな、と思うと、ふいに下半身へ尿意を覚えた。
どうやら原因はこれらしかった。
トイレトイレ――と、立ち上がり、寝室を出ると、廊下の先に明かりが見える。
洗面室から漏れているようだ。
扉が開いているので、ひょいと中を覗く。
髪を解いたアンチョビが、目元を抑えて、俺から顔を背けていた。
「……アンチョビさん?」
「お、ぉお、と、戸庭、どうした」
どうしたじゃないよ。こっちが言いたいよ。
目元から腕をどけ言葉を放ったものの、その声は震えている。
赤みの強い頬と、僅かに血管の走る瞳、そしてなにより、両の眼から直線に涙の跡が残っていた。
「……あー」
涙の理由には、察しがついた。
知らない世界へ放り出されて、知らない男の家にいるしかなく、何とか元の世界へ戻ろうにも一向に上手くいかない。
いくら頼もしくとも、戦車道の隊長を務める彼女でも、一人の女子高生だ。
あんこう祭りの件が決定打となったのか、それとも以前から夜中に隠れて泣いていたのか、どちらなのかは判断がつかないが、しかし彼女の辛さはこんな俺でも理解できた。
「と、戸庭?」
俺は、何をやっていたのだろう。
仕事の忙しさを言い訳にしていたのか。それともこの状況に浮かれていたせいか。
どうしてアンチョビがここまで塞ぎ込むまで気付けなかったのだろう。
「あのさ、俺、トイレ行きたくて起きてきたんだよね」
「ぉ、おぉ、そうなのか?」
俺の言葉に、アンチョビは戸惑った様子で応える。
俺に何か訊かれるとでも思ったのだろう。
確かに、俺が物語の主人公なら、例えば西住みほならば、ここで彼女にハンカチの一つでも渡すだろう。
しかし俺はあいにく現実世界の人間だし、そんなスマートな行動を取れるくらいならこの年で自堕落な生活を送ってもいない。
出来ないことは出来ないのだから仕方ない。
けれど、だからといってこのままで良いのか?
アンチョビが泣いているのだ。
もし仮に、画面の向こう側で彼女が泣いていたならば、俺はただ祈ることしかできなかったろう。
けれど今、彼女は目の前にいるのだ。
現実世界の人間だからといって、境界線を引くのか。
かつて俺は、窮地に陥る彼女たちの姿に、力になりたいと願ったことはなかったか。
今がその時ではないのか。
自己嫌悪に陥るなんて、尽力していない証拠だ。
スマートなやり方じゃなくても、構わないじゃないか。
はーっと息を吐くと、呼吸を整えて彼女へ言葉を返す。
「……アンチョビさん、まだ5時だし寝てなきゃ駄目だよ」
「お、おう。そうだな」
「おやすみ」
アンチョビへ言葉を残して、トイレへと入る。
便座に座っていると、やがて洗面室から自室へと移動する物音が聞こえた。
俺は用を足して寝室へと戻る。
そして床に就くことなく、ただただ思考の海へと潜った。