アンチョビが画面から出てきた   作:とにざぶろう

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2017年12月1日~12月15日

 2017年12月1日。金曜日。

 

「このメール送ってくるってことは、たぶん『冬季無限軌道杯』って単語が最終章のネタバレになってるんだろうな」

 

「ネタバレ? なんのだ?」

 

「そりゃもちろん、今の時期だったらガルパン最終章でしょう」

 

 というかその事実によって俺もネタバレをくらっている。

 そうですか、最終章では冬季無限軌道杯ってのをやるんですね。

 

 これまでの例に漏れず、先方はどうやらアンチョビの存在をかけらも信じていない様子だ。

 文面から怒りが伝わってくる。

 情報を漏らされているのだから当然だろう。

 

「とりあえずホントのことを書いて送るしかないよなあ。メールじゃ絶対に信用されないだろうけど。いやしかし、向こうの怒りを逆撫でするだけだしなあ」

 

 ……あ、そうだ。

 

「アンチョビさん、冬季無限軌道杯について、他に知ってることある?」

 

「もちろんあるぞ。アンツィオも出場したからな。……まぁウチは今回も悲願の2回戦突破は果たせなかったのだが」

 

「じゃあ、それを書こう。アンチョビさんよろしく」

 

「おう! 任せておけ!」

 

 俺はアンチョビの書いた内容を確認(ネタバレのオンパレードだ。辛い)、こちらは本物のアンチョビであることや、情報漏洩の意図はなかったことを付け足すと、送信ボタンを押した。

 

 返信は1時間足らずで帰ってきた。

 深夜1時だというのにどういうことなのかと思ったが、よくよく考えてみれば最終章の公開まで残り1週間だ。向こうも修羅場なのだろう。

 

『正直に申し上げて、貴女が作品内のアンチョビと同一人物であるという話は信用していません』

『しかし、記載いただいた情報がこちらの承知している情報と概ね一致していることも事実です』

『なにか事情があるのではないかと推察いたします』

『つきましては、一度、直接お話をうかがいたいのですが、ご都合いかがでしょうか(とはいえこちらの予定を鑑みると、12月10日以降とさせていただきたく)』

 

「よっしゃあーーっ!」

 

「おぉぉおおおおおおっ! やったな、戸庭っ!」

 

「とりあえず返信、返信しよう!」

 

「うんっ!」

 

『はい、もちろんです。日にちは指定いただいて結構です』

『実は、動画を公開していたのも制作の方に私の話を聞いていただきたいからでした』

『お会いするのが楽しみです!』

 

「こんな感じでどうだ!」

 

「いやー、完璧じゃないですか。送信しよう送信」

 

 アンチョビが送信ボタンを押す。返信は5分後。

 

『では、一旦、12月10日とさせていただけますか』

『予定が変わったらまたご連絡します』

『それと、アンチョビというキャラクターを使うことには目を瞑りますが、未公開の情報を漏らすのは今後やめていただくようお願いします』

 

『了解です。それでは12月10日によろしくお願いします!』

 

 送信ボタンを押したアンチョビがにっと笑う。

 

「結果が出たな。戸庭のおかげだ。ありがとう」

 

「いやいや、俺はほとんど何もしてないよ」

 

「そんなことはないだろー? 動画の編集とかしてくれたじゃないかー?」

 

 アンチョビがぐいぐいと肘でつくので、「やめてやめて」と距離を取りつつ、俺は声色を変えて言葉を続けた。

 

「とはいえ、これで質問に答える動画は終わりかな」

 

「ん? ユーチューバーをやめるのか?」

 

「いやぁせっかくここまできたんだし、それもどうだろう」

「制作陣以外からの情報も欲しいしね」

「しばらく普通のユーチューバーみたいにゲーム実況とかしてみようか」

 

「ゲーム……あんまりやったことないんだがなあ」

 

「下手も下手なりに観てて楽しいもんだよ。ファンならより一層ね」

「まぁとりあえずいつもみたいにツイッターで募集してみましょう。アンチョビにやってほしいこと」

 

「うん、そうだな! そうしよう!」

 

「あぁでも、募集をかけるのは朝にやった方が良いね。こんな時間だし、ツイッター眺めてる人も少ないでしょう」

 

 深夜1時半。夜更かしをしている連中も、徐々に床へつき始める時間だ。

 

「む、確かにな。戸庭も眠った方が良い。明日も仕事だろう?」

 

「俺のことは気にしないで良いよ」

 

 アンチョビに「そうはいかないぞ」と背中を押され、俺は寝室へ誘導される。

 

 まぁアンチョビがそう言うならと俺は眠りにつき、目覚めたのは午前7時だ。

 5時間以上寝られたのなら上出来じゃないでしょうか。

 

 アンチョビへ声をかけ、俺は家を出た。

 

 出社したらデスクへかじりついてひたすら作業だ。

 やっていることは毎日まるで違うのに、作業量が膨大すぎて逆に単調に思えてくるというのは感覚が狂っているのだろうか。

 

 今日は昼食が食べられたので及第点。

 終電で家に帰り、アンチョビと一緒に夕食(もはや夜食だが)を食べて布団へもぐった。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 2017年12月8日。金曜日。

 

 働きづめである。

 いつからかと言えば少なくとも1週間以上休みがなく、どうやら最後の休みは例の5連休らしかった。

 10連勤か、なるほどなあ。

 

 リリースは、12月14日だ。残り1週間を切っている。

 そもそもまだ出来ていない機能すらある状態なので、どう計算をしても間に合う見込みはない。

 不完全なままリリースして問題の少ない機能はどこかという議論がすでに始まっている。

 超上流工程の皆さん、頑張ってください。

 

 家に帰るとアンチョビが優しく迎えてくれるのがせめてもの救いだが、帰宅できるのも二日に一度だ。

 正直もう精神が焼け付きそうだが、我慢も残り一週間と考えると何とかなるような気もする。

 

 仕事が忙しい(忙しいという概念で済まされるのか)なか、動画の投稿も続けていた。

 初めはゲーム実況が良いかとアンチョビと話したのだが、動画編集の難易度が高く、漫画や小説の紹介に切り替えた。

 

 昼のうちにアンチョビが動画を撮影しておき、二日に一度、俺が家に帰った時に二日分まとめて編集を行った。

 

 アンチョビには「なあ、本当に大丈夫なのか!?」と何度も何度も声をかけられ、その度に俺は「大丈夫大丈夫」と答えた。

 

 一度「私に出来ることなら何でもするぞ!」とも言われたのだが、マジで何でもしそうな雰囲気だったので怖くて適当にはぐらかした。

 

 今日は、12月8日。つまり明日は12月9日だ。

 移動中も飯を食っている間も仕事とアンチョビ(の動画)のことを考えていたのであまり意識していなかったのだが、今日はガルパン最終章第1話公開前日である。

 そういえば2日前だったか、舞台挨拶回のチケットが二人分当選していたのを思い出した。

 

「戸庭、明日は映画に行けそうか?」

 

「がんばります」

 

「無理はするな?」

 

「でもまぁ、ファンなので」

 

 心配そうに問うアンチョビへ返す。

 これだけ働いているのだ。映画を観るくらいの褒美はあっても良いだろう?

 

 ◇ ◆ ◇

 

 2017年12月9日。土曜日。

 

 飯を食うと嘘をつき会社を出て、俺は山手線で池袋へと向かった。

 

 映画館のホールではすでにチケットを手にしたアンチョビが待っていて、俺を見つけると笑顔で手を振った。

 

 ユーチューブでの彼女の活躍を知る者も少なくないのだろう、アンチョビの姿に「え、あれ本物?」だとか「アンチョビじゃんっ!」といった声が上がる。

 狭い映画館で目立つのもなんなので、「あ、たぶん人違いだと思いますよ?」と言葉を残し、二人でそそくさと座席の方へと向かった。

 

「いやー、来れて良かったな、戸庭っ!」

 

「たのしみですねー」

 

 電車がギリギリだったので走ってきたのと、あまり体調が芳しくないのとで、コンディションは最悪である。

 万全な状態で臨めないのは残念だが、映画と舞台挨拶を観られるのは素直に楽しみだった。

 

 やがて、舞台挨拶と、映画の上映が始まった。

 

 壮大なオープニングに魅了され、ゴリアテが登場すると体調が悪いのも忘れスクリーンへ夢中になった。

 無限軌道杯の存在は知っていても、大洗の事情など詳細までは聞いていない。展開にも興奮できた。桃ちゃん可哀想。

 

 上映が終わる。

 

 余韻に浸りたかったが、時間がそれを許さず、俺はアンチョビと別れ会社へと戻った。

 

 会社へ着く頃には頭痛と体のだるさが戻っていた。とはいえ休んでいる場合ではない。

 粛々と手を動かし続け、深夜2時頃にカプセルホテルへと入った。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 2017年12月10日。日曜日。

 

 約束の時刻は13時ジャスト。

 アンチョビと共に荻窪にあるガルパン制作会社へ向かうこととなっていた。

 

 朝から体調は最悪だった。

 昨日も最悪だったがそれ以上な気もした。

 同僚も一人高熱でダウンしている。限界が近い。

 

 戯れに熱を測ってみたが、何故か熱はない。

 それじゃあまだ闘えるよねと俺はディスプレイへ向かった。

 

 昨日同様、昼飯を食べる振りをして会社を出た。

 新宿から荻窪までは電車で10分ほどだ。近くて助かる。

 

「顔色が悪いぞ?」

 

「大丈夫大丈夫」

 

 アンチョビとは荻窪駅で待ち合わせ、一緒に会社まで歩いた。

 平和な荻窪の町並みと弾む彼女の声は仕事を忘れさせる。

 

「あぁ、どうも。すぐにわかりましたよ」

 

 案内された部屋には会社の代表が待っていた。

 Blu-rayのコメンタリーで耳にした声だ。

 

「こちらがアンチョビさんかっこかりで、あなたが戸庭さん?」

 

「あ、はい。戸庭です。とはいえ、私はただの付き添いなので、お気になさらず。基本的にはアンチョビさんが話しますので」

 

「ちなみに失礼ですが、戸庭さんはどういう関係で?」

 

「簡潔に言ってしまうとアンチョビさんと一緒に住んでるんですけど、経緯の説明が必要かと思いますので、はい、じゃあ、アンチョビさんお願いします」

 

「おう! そうだな、まずは私が戸庭の家で寝ていたところから――」

 

 アンチョビは威勢良く語り出す。

 

 代表は興味深そうな顔でアンチョビの話に耳を傾けている。

 わざわざ呼んでくれたせいもあってか、ツッコミを入れる様子はない。

 

 やがてアンチョビが語り終えると、目の前の彼女の存在が信じられないのだろう、彼は頭を抱えて呟いた。

 

「これでも立ち上げの頃からガルパンには関わってるから、裏側は全部知ってるんだけどね」

 

「おーっ! それは助かる! ガルパンってどうやって生まれたんだっ!?」

 

 アンチョビの声に、彼は顔を上げる。

 

「監督と飲んでたら、突然企画を持ちかけられてね」

「監督初のオリジナル作品だし、まぁ基本的な設定は監督だよ。軍事考証や話の筋書きはまた別の人間が関わってたりもするけど」

「て、この辺りは調べてるよね」

 

「それじゃあ……私の設定は?」

 

 少し緊張した様子でアンチョビが問うと、

 

「監督がざっくり決めて、あとはキャラクターデザイン原案と脚本が詰めた感じかな」

 

「じゃ、じゃあ」

 

「悪いけど」

 

 代表がアンチョビの言葉を遮る。

 

「……悪いけど、別世界からやってきたガルパンのキャラクターから着想を得たわけでもないし、画面の中からキャラクターが表れるなんて話聞いた覚えもない」

「期待には応えられないね」

 

 アンチョビが息を詰まらせる。

 目を僅かに大きくし、返す言葉が見つからないようだ。

 

 ……せっかく来たんだ。これで終わりにはできない。

 見かねて、俺がフォローに入る。

 

「あの、企画を持ってきたのは監督なんですよね。だったら、監督にも話を聞いてみたいんですけど……どうでしょう」

 

 そうやって俺が問うと、

 

「監督は忙しいですからね。会ってくれるかどうかわからないですよ。ま、馬鹿馬鹿しいとは思いますが僕も信用してしまいましたし、一応聞いてはみますけど」

 

 そこまで言って、彼は「あぁ……でも監督なら喜んで会うって言いそうだな」と呟いた。

 

 あまり芳しくない結果だが、次には繋げられた。悪くない。

 俺は彼に礼を言うと、アンチョビと共に会社を出て、新宿へと戻った。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 2017年12月14日。木曜日。

 

 リリース日だ。

 当然のようにシステムには未完成の機能が残っているが、そんなものは後から対応してどうにかすれば良いのだふはは。

 

 代表とのメールでのやり取りの結果、監督との対面は明日の夜に決まった。

 だから今日のリリースはなんとか乗り切らなければならない。

 

 家には火曜から帰っていない。

 アンチョビは心配そうにメッセージを飛ばしてくるが、毎度のことながら適当にはぐらかしている。

 

「ここの文言、仕様が前のままですけど!」「文言は気にすんなっつっただろ!」

「バグあと何件だよ」「数える時間ももったいないわ50件は残ってるだろ」

「これやばくないですか? ホントにリリースするんですか?」「するつってんでしょうが」

「馬鹿なの」「ああぁあ終わる気しねええ」

 

 現場では怒号が飛び交っている。リリースは14時から。

 サイトの緊急メンテを挟み、終了は15時の予定だ。

 

 怒鳴るのは損だ。時間を無駄にしている。

 淡々と目の前のタスクをこなし、少しでもマシな状態でのリリースを心がけろ。

 

 禅僧のような精神で黙々と取り組んでいると、14時を前にしてリーダーが「一旦チケット投げるのやめろ!」と叫んだ。

 スタッフ全員の視線を集めると、リーダーは「おらおらいくぜえ!」と本番環境へのデータのアップロードを行う。

 

 そうして目標としていたリリースは終わったわけだが、まだ出来ていない機能すらある状態だ。

 作業をストップするわけにはいかない。

 

 やはり作業は深夜まで及び、そこでようやく「みんな疲れてるだろうから今日はもう解散だ!」とリーダーが言った。

 いやお前すでに深夜23時だよ?

 

 ふらふらの状態で家へ帰るとアンチョビに「死にそうだぞ戸庭! 風呂かご飯か!」と迎えられた。

 俺はその両方を終えると、アンチョビへ「寝る」と伝え、寝室でベッドに倒れ込んだ。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 2017年12月15日。金曜日。

 だと思う。おそらく。

 

 目覚めると、体が動かなかった。

 

 目覚まし時計やスマホに手を伸ばすことすら叶わないので日時も確認できない。

 

 かすかにキッチンの方から香ばしい香りが漂って、それでアンチョビがそこにいることがわかった。

 

「アンチョビさん」

 

 喉から漏れた声は驚くほど小さかった。

 そこでようやく「あれ? これまずいのでは?」と勘付いた。

 

 体が動かないのは、尋常でないだるさと痛みが全身を襲っているからだった。

 意識は朦朧とするし、これは死ぬのではないかと思わされた。

 

 ひゅうひゅうと微かな呼吸が寝室に薄く響いた。

 何とか気力を振り絞ると指先がぴくりと動く。

 とはいえ起き上がるほどの筋力はないらしく、ベッドの上でもがくのみだ。

 

「ううう」

 

 覚悟を決めて体を転がす。

 すると、ベッドから落ちた俺の体は床と接触して鈍い音をたてた。

 

 やがて寝室の扉をノックする音と「戸庭?」と俺を呼ぶアンチョビの声が聞こえる。

 

 そこで俺が再び「アンチョビさん」と声をあげると、「入るぞ」と扉の隙間からアンチョビの綺麗な髪が見える。

 

「戸庭っ!」

 

 アンチョビが叫ぶのが聞こえるが、俺にはどうにも遠い世界の出来事に思えた。

 ずぶずぶと暗く寂しい世界が傍にあって、俺はその境界に立っていた。

 

「戸庭! 救急車! 呼ぶからな!」

 

 そう言うアンチョビに、俺はおかしいと思い「会社に行く」と返した。

 そういえば今日は監督とも会うのだ。

 病院へ行っているような場合ではない。

 

 視線を僅かに上げると、そこにいるアンチョビが瞳を震わせていて、今にも泣いてしまいそうに見えた。

 俺はアンチョビが泣かないよう頑張っているのに意味がわからないと思った。

 

 しかし、じきに脳みそが揺れて、視界が揺れて、ものを考えられるような状況でもなくなった。

 気を失う直前、俺は額に柔らかな感触を覚えた。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 初めに見えたのは白い天井だった。

 

 次に「戸庭っ」と声を上げるアンチョビの顔が見えて、首を動かすと室内にベッドが並んでいるのがわかった。

 どうやらここは病院の一室らしかった。

 

「いま先生を呼んでくるからなっ!」

 

 勢いよく病室を出て行くアンチョビに、俺は「元気だなあ」と素朴な感想を抱いた。

 

 やがてやってきた白衣のおっさんに問いかけられるまま答える。

 その課程で俺は、どうして自分がここに寝そべっているのかを知れた。

 

「わかるでしょ。過労ですよ。死にたいの?」

 

 そうやって顔をしかめる医者を、俺は心外に感じた。

 

「死ぬつもりはなかったんですけど……」

 

「冷静な判断が出来ないとそうなるよね」

 

 呆れた様子で医者が吐き捨てる。

 俺は僅かに憤りを覚えたが、脇で申し訳なさそうに佇むアンチョビを見て、感情がおさまった。

 

 なるほど、俺は、過労で倒れた。

 アンチョビはそれを、どうやら自分のせいだと感じているらしかった。

 彼女らしいと思った。

 しかしそれは決して事実ではない。

 

 医者が去って俺が「アンチョビさんは関係ないですよ」と言うと、彼女は「ごめん」と呟いた。

 

「なんで謝るの。関係ないって言ってるじゃん」

 

「関係はある。一緒に暮らしているんだ。『大丈夫』と言う戸庭を、私は信用してしまった。止めることができなかったんだ」

 

 言葉を紡ぐごとに彼女の瞳が潤んでいくので、俺は見ていられなくなって顔を背けた。

 

 医者には『最低でも五日は入院して休養すること』と告げられた。

 その間は仕事もアンチョビの助けになることもできない。

 

「今日、監督と会うの何時からだっけ」

 

「――18時だ。自分も行くなんて言うなよ?」

 

 先手を打たれてしまった。

 

「でもアンチョビさん、一人じゃ厳しいんじゃない?」

 

「大丈夫だ! どうとでもなる!」

 

 ……俺の「大丈夫」って言葉を信用したのを悔やんでるくせに、自分では言っちゃうんだよなあ。

 

「前回、俺のフォロー必要だったよね」

 

「う……っ! で、でも今回は大丈夫だ!」

 

「一人では行かせらんないよ。駄目。俺も行く。だってほら、こんなにも元気」

 

 そうやって右腕を上げてみせると、ついにアンチョビは水滴を頬に垂らした。えええ。

 

「私のせいで、戸庭が体を壊すとか、いやなんだ」

 

 ずがーん、と脳みそに隕石が落ちる。

 そういうのずるくないですか。

 体が硬直し、俺に染み付いたヘタレ根性では、何も言えなくなる。

 

「戸庭。私は、一人で行ってくる」

 

 しかし、嫌だ嫌だという話なら、俺にだって嫌なことはある。

 

「で、でも」

 

 声が震えるのにも構わず、言葉を続ける。

 

「俺は、俺のせいで、アンチョビさんが、向こうの世界に帰れなくなるのが、いやです」

 

 俺が言うと、アンチョビは瞼を強く閉じて天井を見上げる。そして少し間を置いて「んう~~~~」と唸った。

 

「よおし!」

 

 アンチョビが自らの膝を叩く。

 

「じゃあこうしよう、監督と会うのを延期する」

 

「え、忙しい人ですよ。そんな簡単に予定ずらしてくれるかな」

 

「前にも言っただろう。やってみなきゃ、わからない」

 

 にいっとアンチョビが笑う。

 俺はその言葉を否定することはできなかった。

 

「それじゃ、一度家に帰るぞ。着替えとか日用品を持ってこなきゃだからな。他に何か持ってきてほしいものはあるか?」

 

「タブレット端末さえあれば良いよ。あ、着替えってもしかして俺の寝室入る? だったら新品でも良いんだけどなあ」

 

 寝室には脱ぎ散らかした衣類や同人誌が転がっている。

 あまりアンチョビの目に触れさせたくない。

 

「今朝も入ったぞ」

 

 アンチョビは僅かに顔を赤らめてぶっきらぼうに言った。

 あぁ、そういえばそうだった。今更な話か。

 

「また後でな」と言葉を残し、アンチョビが去る。

 

 俺はアンチョビがいなければどうなっていたのだろう、とふいに思う。

 ifの話を考えても仕方がないが、まぁ運が悪ければ、横たわるベッドは病室のそれではなかっただろう。

 

 そういえばアンチョビへお礼を言うのもまだだったと気づき、戻ってきたら彼女にありったけの感謝を伝えようと思った。

 

 枕元にはスマホが置かれていた。

 画面をタップすると、何件も着信が残っている。

 ははあん、上司からである。

 

 こちらから折り返し発信してやると、すぐに応答があった。

 

「戸庭あっ! 出社はどうしたお前! 寝坊か!」

 

「倒れたんで入院することになりました。しばらく会社行けそうにないです」

 

 俺が言うと「なんだと!」と向こうで上司が叫んでいるのがわかる。

 ぐだぐだ根掘り葉掘り訊かれそうでしんどかったので、俺は「詳しくはメールします」と言葉を残して通話を切った。

 

 やがてアンチョビが病室へ戻って、俺に告げた。

 

「監督と会うのは来週の金曜になったぞ!」

 

 俺はアンチョビが「もうやめてくれえ!」と叫ぶまで、彼女へ感謝の念を伝え続けた。

 

 アンチョビが家へ帰り、夕方になって熱がぶり返してくる。

 

 俺は病室のベッドでぶるぶると震えながら眠りについた。

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