ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密の話になります。映画公開直後にpixivに投稿し、脚本が今月出版されたのでパンの種類を明確にしました。
仮に、俺のことはシナモンとしよう。
なぜなら個体の識別のために名前は必要だからだ。
俺はパンだ。もちろんこれは固有名詞ではなく、普通名詞である。つまり、小麦粉の塊のあれだ。豪華なことにアイシングもかかっている。コワルスキー・クオリティ・ベイクド・グッズで、昨日店主のジェイコブ直々に焼かれた美味しいシナモン・パンである。しかし、店頭に並べられた俺は売れ残り、その翌日の開店前の店頭にも埃避けが掛られて、まだあった。
幸い夕方に焼かれたパンだったから、状態に問題が無ければ午前中はまだ並べられていただろう。または、ジェイコブかその弟子のアルバートのまかないとして朝か昼に食べられたかもしれない。
そうやってありきたりないちパンのパン生の終わりを期待していた俺は今、床の端っこに転がっている。しかも、思いっきり掴まれていたように潰され、半分以上まで食べられた姿で、である。
俺がこうなった経緯はこうだ。その日、俺が食べられるか廃棄されるかが決まってしまう運命の日、店主のジェイコブは早朝から開店の準備をしている。明かりを灯し、ブラインドを上げ、かまどに火を入れ、店を掃除する。
飴細工のウェディングケーキの花婿が倒れているのを見てそれを直そうともしていたが、上手く行かなかったのか嫌になったのか、途中でやめて花婿が倒れたままに諦めてしまった。そのまま店の方に出たジェイコブは俺たちのように売れ残ったパンの並ぶ棚を見ながら、何か思いにふけるようだった。
そのうちに彼は目を閉じ、誰かを抱きしめるように手を伸ばし、空虚を前にして結局は自分自身を抱きしめた。手が自らに触れて目を開き、店内を見回していた。我に返った彼は窓の外に人影を見て気まずそうに掃除に戻る。そうやって仕事をしていたが、何度か外をちらりちらりとしているうちに、その方向をじっと見て、箒を投げ出すとフライパンとお玉を持って外へと飛び出してしまった。
俺の置かれていたのが棚の高い位置で幸いだった。おかげでジェイコブの様子がよく見えた。どうやら若い男たちに取り囲まれていた女性を助けに行ったらしい。さすが俺の生みの親というところか。ジェイコブはとても良い男のようだ。
フライパンをお玉で叩きながら威嚇するジェイコブ。しかし暴力を使うような様子もない。素晴らしい。彼の手は俺のような美味しいパンを生み出すものであって、人を傷つけるためのものではない。
俺がやけにジェイコブを褒めるようだが、これも当然だ。人間だって自分たちの祖を土から捏ねくり上げた存在を愛しているだろう。直接作られた俺にとってはその思いは尚のことである。気づけは外では男たちが去っているところだった。我らがジェイコブの勝ちのようだ。
しかし、こちらに戻ってくるジェイコブはどういうわけか、助けた女性が話しかけて来るのを嫌がっているようだ。逃げるように店に戻って来るどころか、彼女を拒絶するかのように扉をバンと勢いよく閉じる。俺の敬愛するジェイコブにいったい何があったのだろうか。悪態でもいいから俺たち物言わぬパンにも分かるように独り言ちてくれればいいのだが──
その時である。
俺はいつの間にか店の中に入っていたその女性に掴まれ、食べられていたのだ。
俺自身もいったい何が起きたのか分からない。まるで魔法か何かでも起きたのだろうか。だが、そうなのだ。俺は気づいたら食べられていた。しかも結構おいしそうにもぐもぐと。
突然のことに俺は驚いた。しかし、まあ、いいのだ──何はともあれ、俺はパンとして正しい、食べられるという最期を迎えられることに一種の安堵と満足感があった。これがパンとして生まれた本能であるのだから当然のことである。ただし、役割を成し遂げる喜びを覚えたのはその時だけの話であるが。
女性はジェイコブと話をするのが第一の目的で、そのために店に入って来たのだ。俺を食べたのはジェイコブのことを知るためかもしれないし、俺があまりにもおいしそうに見えたからかもしれない。けれども話し合いの空気は穏やかなものではなかった。パンを喰っている雰囲気でも無く、彼女は俺を掴む手にぐっと力を入れたと思うと、食べかけのままで後ろに投げ飛ばしたのだ。
弧を描きながら宙を舞う俺は変わらず二人を見守っていた。女性がジェイコブに向かってなにか強く説得しているのが分かった。二人は店から出て行っている──食べられた部分は無事に飲み込まれただろうか。俺は壁にあたって床に落ちた。もう少しで工房の中まで飛んで行ってしまうところだったが、ギリギリ部屋の中に留まる。
ああ、掃除途中の店内。俺の知らない外の世界の土くず発見。平穏な一生の中ではこんなに近づくことなどありえない存在よ。いったいどこから来た客が持ち運んできたものであろうか。だってこんなに雪が降り積もっている季節だ。靴裏の奥に潜んでいたこれはきっと貴重なものに違いない。
少し前までパンとして高みにあげられ人々の視線の上に置かれていた俺。手に取られ、喰われるために人と等しい位置に下ったかと思った矢先にこのように地に落ちるとは。パン生、何があるか分からないものである。俺が重力に負けて見上げる先で、ジェイコブもまた彼女の説得に負けたようであった。外から聞こえる二人の言い争いが終わっていた。
暗がりが降りて来る。明かりが消えてブラインドも下りる。かまどの火の気配も去った。我が世界は一瞬で幕が降ろされた。
場面の転換。俺の悲劇か、あるいは世界はジェイコブと共に移動したのか。主役は誰だ。ただ、俺はそれがジェイコブであればいいということをしっかりと分かっている。
地から見上げたショーウィンドウの外の世界──彼──ジェイコブが何かを決心する様な表情を見せる直前──ウェディングケーキの上に独り佇む新婦の飾りをじっと見たことを俺は知っているからだ。
それから何日か経ってもジェイコブは帰ってこなかった。俺は床に転がったまま、カラカラに乾燥していた。外では雪が降っているらしくとても寒かった。その寒さと乾燥のおかげで俺はカビが生えずにすんでいた。
暗くて、静かな店の中。外からは行き交う人々の声が聞こえるが、それさえも雪に音が吸い込まれているかのようだ。
不本意に、不思議に伸びている我がパン生。俺は普通に生きるパンよりも長い時間を過ごしている。ともに店に残るパンたちの中でも不遇な体験を得ている俺は同じ時を生きるパンたちの中でも最も哲学的なパンになったとも思えるほどだ。たかだかパンが何を語っているなどと言わせはしない。イースト菌がいつから存在して増殖し続けていると思っている。
しかし、確かに俺はジェイコブ・コワルスキーの手によって生まれたばかりの存在だ。彼が育てた酵母も入っているし、彼の手で捏ねられ、成形され、かまどで焼かれた。それまで長きにわたり存在していた俺の要素をこの個体にまとめ上げたのは彼だ。
コワルスキー職人は何か辛いことを忘れようとするかのように、その悲しみに耐えるかのように、硬い表情で俺たちを作って、店に並べた。
初めは硬派で真面目な人物かと思ったものだ。だが、客が入り店先に出た彼は、お客に対してとてもフレンドリーで親切で、ユーモアあふれる優しい店主だった。ただ、彼の表情にはどうしても寂しさとも悲しさとも取れない影がとり憑いたように離れない。その理由は常連が話していた、彼が失恋したという噂のせいなのだろうか。
旅立つ日、ジェイコブは俺を食べていた人物と、クイニ―という女性についての話をしていた。彼はその人をとても信じていたし愛していたということを俺は知っている。物思いにふけるジェイコブを商品棚から見下ろし、俺を食べかけのまま掴む手の中から、その苦難と葛藤と愛情と後悔に満ちた顔を誰よりも近くで見た。その直後には後ろに放り投げられてしまったが。ああ、どうか俺が地に落ちた不幸の代わりに彼の元に幸があらんことを。
俺はもうだめだが、棚に残る仲間の内で長持ちするものならまだ何とか食べられるぐらいの日数が経った。泥棒が入れば俺を踏んで転げてしまえなど考えていると、店先の扉が開かれ、ベルが鳴った。よろよろとした足取りで入って来たのはジェイコブだった。彼は目を回したかのように青い顔をしていて、店に入って灯りをつけたと思うとしばらくはカウンターに両手を着いた。
「ポート・キーは好きになれる気がしないぞ…」
大きなため息をついた彼は、目を閉じて苦笑いをしている。
しばらくそうやって休んでいたジェイコブが目を開いた時、視界の端に俺を見つけてハッとしたようにじっと見てきた。瞬きもしないまま、まるで俺が目を放せばすぐに逃げだす足の早い動物であるかのように慎重に近寄って来る。そっと手を伸ばし、人差し指と親指だけで、すっかり乾燥してカピカピになった俺をつまんだ。
ジェイコブは俺を自分の目の高さまで近づけてじっと見つめてくる。土埃にもまみれ、カビは生えていないが食べることもできなくなった俺。パン職人を前に俺は気まずさを無視できない。当然であろう。食べられるために作られたのが我らがパンであるのだ。
その指先に、ぐっと力が込められた。
「ほんの数日前なんだな」
ジェイコブは俺の硬さを確かめているようだった。乾燥したグラサージュが割れる。だが、パンらしい姿のままだ。
「行ってよかった」
ジェイコブの声は掠れていたが、悲しんではいない。静かだが、どちらかというと喜びを伴っていて、何かをやり遂げたという雰囲気さえあった。その時になって、俺はジェイコブの顔からはもう、あの悲しみの色がなくなっていることに気付いた。
立ち上がったジェイコブは俺を摘まんだまま工房の中に入っていく。俺はそのままゴミ箱に捨てられ、生みの親はもう背を向けてしまう。彼が次に向かった先はすぐ近くで、俺はゴミ箱の中から彼の姿を見ることができた。
そこに何があるのか俺は知っている。彼の広い背中に隠されてしまっているが、ジェイコブが何をしているかはすぐに分かった。
「『何もかもうまくいくから』本当にそうなった。夢じゃなかった」
ジェイコブは呟くと、涙を拭うような仕草をしてから工房の奥へと消えていく。店を開くために、パンを作るために、かまどに火を入れるのだ。
彼の背中が視界の前から消えたことで、俺はそれをゴミ箱からしっかりと見ることができた。
とっても立派な飴でできたウェディングケーキ。その上には、新郎と新婦の砂糖細工が幸せそうに並んでいた。
あとがき。
元々物語中ですぐに去っていく脇役に思いを馳せてしまうタイプです。映画公開時になぜかこのパンのことをよく思い出してしまったため、シナモン・パンをキャラクター化してみました。