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https://syosetu.org/novel/295518/
絵が完成し次第、フキダシの中に台詞を書き込む。
『おい嘘だろ!?』
『えー? おいしいよ?』
四角いコマの中で驚愕する男は、向かいに座った女がカレーライスの上に大量の生クリームを絞り始める様を目の当たりにしていた。
それを描いた私の鼻から、ふふんと満足げな笑いが漏れる。我ながら完璧な冒頭1ページ目のシーン。そこから10ページほど先にある、その男の精液を嚥下した女が「おいしい♡」ととち狂った台詞を吐くに至るシーンまでの完璧な伏線が描けてしまった。いやはや我ながら完璧な描写だろう。
精液だなんて、味覚障害者でもなければ美味しくなど感じるはずがないのだから。
「…………休憩しよ」
今年買ったばかりの、値が張った作業用の椅子の上で伸びをする。過去一度だけ「それ」を口に含んだ時のことを思い出して、なんだかやる気を削がれたのだ。
私の生涯においてそれを口に含んだ回数は、つい最近、物は試しと自作してみた生クリーム乗せカレーライスを実食した経験と同じく、わずか一回である。二度と口にするまいという気持ちとしては、どちらも全く同じものだった。
仕事で液晶画面とのにらめっこをするから、休憩時間はなるべくその類から離れたい。視力低下を防ぐには定期的に遠くの緑を見るのがいいのだと、小学生の頃に保健室便りで読んだな……と思い出しながら、しかし私が手に取った物は文庫本の小説だった。「活字の羅列」はどちらかといえば遠くの緑やブルーベリーではなく、液晶画面の方に近しい存在であることは私も予感しているけれど、美味しい物ほど体に悪いように、面白い物ほど目に悪いのである。
……しかしまぁ緑を眺めるよりマシとはいえ、数日前からチビチビと読み進めているミステリ小説は、百ページを超えてもなお事件が動き出す様子がなかった。さすがに退屈を覚えて、なんとなく壁掛けの時計を見上げる。すると、もうあと数分で正午になるところだった。
「来るか……」
デジタルな仕事道具たちをスリープモードにして、小説にはしおり代わりの遊戯王カードを挟み込む。文庫本の方からしおりを用意してくれないのだから、そういう風にもなるのだ。
冷蔵庫から午後ティーを出して二つのグラスに注いでいたところで、見ていたわけではないけどおそらくは十二時きっかりに家のチャイムが鳴った。ルカトゥは、大抵そういう風にして訪ねてくる。
いらっしゃい、と玄関を開けると、案の定タレ目の美女がそこに立っていた。白いワンピースに目立つ茶髪のウェーブ具合が、どことなくアニメっぽさを感じさせる。
「先生ぇ〜、お久しぶりですぅ。これぇ、差し入れです〜」
手渡されたビニール袋は暖かった。表に描かれている店のロゴでたこ焼きだと分かる。
「お、ありがと。……お久しぶりだっけ?」
「違いましたっけぇ?」
「なんか最近会った気がする」
「あぁ〜、かもですねぇ」
かもですねぇ、などとすっとぼけているが、彼女は何日ぶりにここへ来たのか、密かにカウントしているのではなかろうか……と私は勘ぐっている。何せ今まで一度も欠かさず、昼に会う時は正午きっかりに早くもなく遅くもなく必ずやって来るのだから、そこから多少は並々ならぬ何かを感じずにはいられない。
彼女、ルカトゥという名の女は一言でいえば、漫画家であるこの私のコアなファンだ。……という紹介ではどうしても説明不十分となってしまう彼女の特徴の渋滞に、創作者としていつも仄かに頭痛がするような思いがある。こういうヒロインは絶対に自分の作品には登場させるまい……と、会うたびに決意させられるのだ。
ルカトゥは、私の漫画のファンであり、私の友人であり、業界のトップを行くAV女優であり、そしてサキュバスである。
言い方を変えれば、彼女は人間ではない。私がサキュバスではないことと同じように。
「遊戯王〜……?」
ルカトゥは無遠慮に私の読みかけの小説を開き、挟まれていたしおりの表裏を訝しげに観察していた。
前に一度、彼女に髪のにおいをかがれて、使っているシャンプーを当てられたことがある。それに比べればよほどマシなことだろう。
「今日はなにしに来たの?」
「理由がなきゃ来ちゃ行けませんかぁ……?」
「べつにー?」
適当なクッションを二つ放り投げて座布団代わりにする。今グラスの乗っている小さなテーブルは、ほとんどこうした客人のためにあると言っていい。
いやはやいつも悪いねぇ、いいんですよぉ、なんて恒例のやり取りをしながら、とりあえずは昼食をいただくことにする。彼女が来る日はこれを当てにしている。
「大阪の方だと、各家庭にたこ焼き器があるんだってね」
「へぇぇ、そうなんですかぁ?」
「そして皆が口を揃えて、「各家庭ってほどではないでしょ。うちにはあるけど」と言うらしい」
「ほえぇ〜。……あぁ、でもうちにもありますよぉ、たこ焼き器ぃ。人からもらったんですぅ。まだ使ったことないんですよねぇ」
「自信ある? たこ焼きひっくり返すの」
「えぇ〜、あれって難しいんですかぁ……?」
「私は苦手」
「先生は〜、絵は上手なのに不器用ですもんねぇ」
「お、なんだぁ、マウントか?」
「ちがいますよぉ。わたしだって絵は描けませんもん〜」
「知ってる知ってる」
なんだかそのやり取りにデジャヴを感じて、その由来を思い出す。
以前、それは今と違って夜のことだったけど、ルカトゥが大量の食材を買い物袋に入れてやって来たことがあった。「自炊しましょうよぉ〜先生ぇ〜」とかなんとか言って。そしてピーラーを使わずにあらゆる野菜の皮を剥く彼女を見て私は言ったのだ。キミ私にマウント取りに来ただけだろ……と。
二十分もないくらいの短い時間で、私たちはたこ焼きを平らげた。ごちそうさまでしたぁ、と手を合わせるルカトゥに合わせて真似をしておく。普段の私は、申し訳ないけどそんなにいい子ではない。
……コントローラーを持ち寄る男子小学生のように、家に来たならそれをするということが何か決まっていればいいのだけれど。そういう流れがない場合は、手持ち無沙汰な感覚がいずれ必ず家主へと降りかかる。私は腹を満たし次第、良くないことだろうとは分かっていても、手なりでスマホのロックを解除してしまった。「良くない」とは、視力に対する意味ではない。しかし根がコミュ障なのだ。
「先生ぇ」
きっと男に媚びる時もそうしているのだろうという声音で、ルカトゥが呼ぶ。それが助かる。
「今度の新作は、どんな感じなんですかぁ」
「どんな感じって?」
「うーん、順調に描けてるのかなぁ、とかぁ。どんな内容なんだろぉ、とかぁ」
「順調だよ。下書きは全部出来てて、もう1ページ完成したし、今日はまだ昼でしょ。締切はまだまだ先」
「わぁ、それはよかったですぅ」
彼女の甘ったるい言葉尻の母音を聞きながらだと、元々甘い紅茶もさらに甘くなる気がした。若干やりすぎなくらいに。
スマホをいじるのをやめる。かわりにルカトゥの顔を見ると、待っていましたと言わんばかりの微笑みが寄越された。こんなに好意がだだ漏れの美女が一人暮らしの家に上がり込んで来るのだから、自分が男だったら、とうの昔に押し倒していたのだろうなと思う。いつもそんな風なことを考えてしまうのは職業病なのかもしれない。
「それでぇ〜内容の方は〜? どんな感じなんですかぁ」
「それを聞きに来たでしょキミ」
「えぇ〜、だってぇ、気になるじゃないですかぁ」
「読者としておとなしく発刊を待つ気はないの」
「先生がそうしろって言うならぁ、そうしますけどぉ」
いじらしくそう言う彼女に、私としては愛の混じったため息が出る。私が今まで「そうしろ」と言ったことは一度もないけれど、今初めてそれを言ったとすれば、彼女はきっとおとなしくそれに従ってくれるだろう。
そして彼女は、仮に私が今ここで「脱げ」と言えば、それもその通りにしてしまうような人物なのである。私に従順なのだ、彼女は。
ルカトゥは、ファンであり友人でありAV女優でありサキュバスであり、そして私にとっての資料、情報源でもある。……と言っても、彼女をひん剥いて高級なデッサン人形にするわけではない。
友人がサキュバスであること。創作者としては、それもとりわけエロ漫画家としては、それがすごく魅力的なことなのだ。
「ところでルカトゥ、サキュバスであるキミに聞きたいんだけど」
「は〜い?」
「精液っておいしいの?」
「せ〜えき? ですかぁ?」
それは少なくとも彼女が、アダルトビデオの作品中では「おいしい♡」と笑顔で言ってのけた女であることを知っての質問だった。……私には出来ないことを出来る相手に聞くから意味がある。
サキュバスのルカトゥは、回答に少し迷っていた。本当に少しだけ、おそらくはより良い言葉を探して。
「う〜ん、微妙? ですかねぇ」
「不味い寄り?」
「あぁ〜、はい、ですねぇ。……先生はぁ、アロエをそのまま食べたことってありますかぁ?」
「アロエ? ヨーグルトとかに入れずにってこと?」
「じゃなくてぇ、切り取って皮を剥いて〜、生のままでぇ」
「それはない」
「そういう感じですよぉ」
「へぇー……」
斬新な表現だ。
しかし率直な感想として、当てにはならない意見だと思った。その状態のアロエを食べたことはない。見たこともない。しかし断言できる、いくらなんでも、精液の味が食用品に似てたまるか。たとえば生クリームカレーは確かに不味かったけれど、それとこれとでは「不味い」のベクトルが明らかに違った。当たり前だ、精液は、どこまで行っても食べ物ではないのだから。
「精飲をテーマに描いてるんだよね、次のやつ」
「わぁ、そうなんですねぇ!」
ルカトゥが少し身を乗り出したような気がした。表情が、そう思わせただけなのかもしれないけど。
あざとい好意だ……と思う。悪い気はしない。誰でもそうだろう。……けれどそんな好意を受けた時にこそ、人の中に悪魔的な心は芽生えてしまうものだった。
「詳しい内容は見てのお楽しみだけど、そうだね……。より一層作品を楽しみ、また作者の気持ちを知ることができる、前夜祭的なアクティビティがあるんだけど。……興味ある?」
「アクティビティ〜? ありますありますぅ」
「そうかそうか。ちょっと待ってね」
席を立ち、冷蔵庫を開ける。よく冷えた平らな皿が、あるいはどうしようもない代物が、ラップをかけられてまだその中にあった。
中途半端な良心から、捨てるに捨てられなかった私の罪。出来心で作ってしまった生クリーム乗せカレーライス(食べかけ)を、おいしくいただけるスタッフは果たしてこの世に実在するのか否か……。サキュバスに希望を託してみようじゃないか。
「はい。これを完食すると、次の作品がより楽しめるよ」
「……なんですかぁ、これ」
「カレーライス・オン・ザ・生クリーム」
「先生の食べかけですねぇ」
「光栄でしょ?」
にっこりと、ルカトゥは微笑んだ。強烈な皮肉だろうか。
「これと精飲の作品? が、本当に関係あるんですかぁ」
「あるある、超ある」
「じゃあ〜、いただきますけどぉ。見るからにやばいですねぇ」
ルーと生クリームはほぼ一対一の量であるからして、それはもう見るからにやばいことだろう。……しかし私がスプーンを手渡すと、ルカトゥは何のためらいもなく、顔に似合わぬ大きな一口目を試みた。もちろん、見るからにやばい部分をがっつり含んだ一口である。
……数秒後、濁点の付く音を喉から鳴らし、あわてて手で口元をおおった彼女を見て、さすがの私にも良心の呵責が起こった。サキュバスとて、何があっても平気というわけではないのだ。
私が小学四年生だった頃、大勢のサキュバスが人間界に乗り込んできた。……自分たちの住む世界を「人間界」なんて呼んだのも、そのあたりの頃が初めてだった。
そのサキュバスの襲来に、おそらく私は、全国の小学生女子の中で一番びびった。というのも、彼女らがこちらへやって来た日というのは、私が初めて性的な絶頂を経験したその次の日だったからだ。……親の目を盗んでエロサイトを見て、見よう見まねの末にクリオナを覚えたマセガキが、初めて性感の何たるかを理解したその翌日に、性欲を司る淫魔たちの群れが東京上空より飛来したのである。マセガキ(東京在住)は死ぬほどびびった。彼女らのことを、ヘソを取りに来た雷様とか、舌を引っこ抜きに来た閻魔様の類なのではないかと、わりと本気で思ったのである。
しかし、実際の彼女らがおよそ無害で、むしろあれよあれよという間に人間社会に馴染んでいくような存在であることが分かると、当時の私は逆にわくわくしてきた。その頃から私はすでに、性への興味も創作への興味も、どちらも持ち合わせていたのである。サキュバスは魅力の塊だった。
本物のサキュバスに会って話せる、なんなら触れる。そういう時代が唐突に来た。なんと疑いようもない幸運だろう。彼女らは人間社会のどこにでも紛れ込むのだから、確率的に言って、中学高校と進んで行くうちに、いつか同じクラスにサキュバスがいることだってあり得るかもしれない。そう考えて、サキュバスへの質問リスト……なんて物をノートに書き出していたりもしたのが、当時の私だった。
けれど実際の私の人生は、高校卒業にまで進んでも、一度として憧れのサキュバスと触れ合える機会には恵まれなかった。そのかわりに道中ちょっとしたモテ期が訪れ、本物の性行為を体験し、苦痛にまみれた現実を知って絶望したのである。
けれどそれでも、エロ漫画家として自己を確立したいという気持ちは、なぜだか消えていかなかった。現実のセックスはクソでも、漫画の中のそれにはやはり魅力がある。……そういった現実と虚構のギャップは、私にむしろ新たな創作意欲を湧き与えたのである。
夢や理想と、リアリティの合体。それを成し得た作品は、まだこの世に数が少なすぎる。常々そう感じていた。それを描くべきなのは私だ、とも。
そんな私は夢を追いながら大人になって、幸いにも、自分の描いた漫画をそこそこのペースで商業誌に載せてもらうことが出来るようになった。そうして業界の一員となることで、憧れの先生方に会える機会にも何度か恵まれた。正直、エロ漫画を描いている人ってどんな人なんだろ……と、自分のことを棚に上げた不安が初めの頃はあったけれど、同業者と会うたび会うたび、そういった不安は消えていくものだった。男性にせよ女性にせよ、当然といえば当然、商業漫画家はみんなちゃんとした大人なのだ。そこに関してはエロも何もない。たまにピアスがバチバチに開いている人はいたけれど、それくらいだった。
……そんな順調な人生の中、彼女は突然、青い鳥の中からやって来た。それは昨日会ったばかりの同業者の好青年が、児ポでしょっぴかれたその翌日のことだった。突然通知にフォローの報せを入れてきた「空色月」というAV女優のアカウントを深くは考えずフォロバした瞬間に、DMが飛んできたのである。
それはかなりの長文だった。そしてその反射的に警戒してしまうような視覚的インパクトのある活字の群れが意味する内容は、要約して以下の通りだった。
アマチュア時代からずっと先生のファンです、良ければ今度お会いできませんか?
……縦読みは仕込まれていないクソ長文をどう読解しようとしてみてもそういう風にしか読めなかったので、「え……? 会う……?」とクエスチョンマークが脳内に浮かび続けては消えていかなかった。
ぶっちゃけ名前の読み方も分からないAV女優に突然「会おう」と言われて会う女が(男ならともかく……)、そんな女がこの世のどこに存在しているだろう? と思っていたのも、今は昔。「そんな女」は、そのDMが届いてから約三十日後の私としてこの世に実在していた。
三十日の間に、私は空色月のことを調べあげた。具体的にはウィキペディアを頼ったのち、彼女の出演作を見漁った。そうするだけの興味は湧いたのだ。というのも、パッと調べて分かる程度には、
ウィキいわく、彼女が天才と呼ばれる所以は三つあるらしい。それは類稀な演技力と、当然のごとく整った容姿。そして、徹底して皆無なNGなのだという。その具体例を読み進めていくと、ウィキを読んでいて初めて、心の底から「ホントかよ」と思わされた。
演技力が高すぎて作品ごとに別人じみて見えるだとか、ドラマパートの方が本編と呼ばれることがあっただとか、むしろドラマパートだけの作品が世に出たという逸話だとかについては、まぁそういう面白いこともあるのかな、珍しいことには珍しいけど……という印象止まりだった。容姿の良さについては、それこそ見たままである。……事実かどうか疑ったのは、出演作品の振り幅の方だった。
空色月にはNGがない。本人がツイッターのプロフでそう公言するように、たとえばこんな作品やあんな作品に出演しており……と例に上げられているタイトルをググッていくと、正気を疑う作品の数々が現れる。一度に何十人という男を一人で相手にしたり、虫風呂に落とされたり、どギツいスカトロの類や、もはや性行為ですらないただの暴力を受ける作品も見かけた。一番衝撃的だったのは、度を超えたSM物の中で、爪先がつくとはいえ首を吊ったまま犯されている彼女の姿があったことだ。……そしてその一方で、気持ち悪いオヤジ相手に完璧な「ママ」を演じていたり、普通に感動できる悲劇の純愛ものを演じていたり、ごりごりのレズエッチをしていたり、これはもしかして本物なのでは……とうっかり信じてしまいそうになる素人ものに出演していたりする。時間停止ものについてはなまじ彼女がサキュバスなので、魔法的な何かでマジに止まっていたんじゃないかと思わされる物だった。どうもそういう魔法があったわけではないらしいけど……。
と、たっぷり一ヶ月間かけて彼女の作品を追った私は、それだけ多くの彼女を見ておいて、一つの疑問に行き着いた。
……空色月なんて人物、実在するのだろうか?
実在していなければ今まで見た映像はなんだったのか? という話だけれども、しかし会ってみなければ信じられなかった。いくらサキュバスといえども、そんなに無敵で完璧なはずはないと。
むしろ現代は「サキュバスなんだから大丈夫だろう」という差別意識に対するサキュバスたちの苦言がSNS上で時々バズったりするような、そういう時代なのだから、彼女たちにだって痛みはあるし、気持ち悪いものは気持ち悪いし、傷つく時は傷つき、限界というものがある。それが常識であり、サキュバスとはそういう存在のはずなのだ。
だから私は、あの長文DMを見返した。気付けば一ヶ月間放置していたそれに、今返事をすれば、トントン拍子で天才・空色月に会えるのだろうか? ……私は悔やんだ。空色月を調べるのは、会って仲良くなってからにすればよかったと思った。逃がした魚は大きいどころか、ネッシーのような存在だったのでは……? と。
けれどダメ元で送った(それゆえに短く雑だった)返信には、たった数分で即反応があった。しかもそれは要約して「いつ会う? すぐ会う? 今日会う?」と前のめりな内容だった。
再び現れたネッシーに、その異様な返信速度と内容に、一抹の不安がさっそく蘇る。ストーカー、という言葉を連想した。……しかし私は誘惑を振り切ることができなかった。それまでの人生で一度でもサキュバスに知り合っていれば、そうはならなかったのかもしれない。
あっさり対面することの出来た彼女は、画面の中に見た通りの顔と背丈と声をしていた。脱げばきっと見慣れた体が見えるのだろう……と、初対面も早々に下種なことを思った。……けれど、プライベートの彼女の言葉尻には全て母音がくっ付いて来るのだということは、その時初めて知った。
「空色月〜、本名はルカトゥですぅ。先生ぇ、ウズラ先生ぇ、会えて光栄ですよぉ……!」
感無量といった、泣き顔のニュアンスを含んだ笑みでもって、彼女は私の両手を握った。ハチ公前での出来事だったので私は大いにあわてた。自分ことエロ漫画家のペンネームを呼ばれたからではない。彼女が芸名もろとも本名を名乗ったからである。けれどそれはきっと、こちらへの敬愛の情から来るものだったのだろう。返さないわけにはいかなかった。
「う、ウズラ・メルガルス、本名は卯月雛子です……」
ルカトゥは、私の名乗りに満面の笑みを浮かべてくれた。握った手をぶんぶんと振られながら、もう少しマシなペンネームを考えればよかったと、漫画家になってから初めて後悔したものだった。
ルカトゥが遊びに来る機会には三種類ある。私が作品を発表した直後と、彼女が私からの頼み事を終えた時。そして、暇な時だ。
ただ、今回の来訪は一番目の理由だった。彼女はSNSに(空色月として)感想を書き込むけれど、それはそれとして、直接私のもとまで伝えにも来る。差し入れと共に。
今日の差し入れ(つまり昼食)はドーナツだった。私が昼はおやつ程度の物しか食べないことをよく知っている者のチョイスだ。
「先生ぇ〜! 読みましたよぉ、新作ぅ! 「狂える舌」〜。お口だけの作品を描くのってぇ、初めてでしたよねぇ」
漫画のタイトルはいつも何かしらのパロディにすると決めているのだけど、こうしてルカトゥに音読されるたび、エロ漫画のタイトルを音読するやつは馬鹿だと思う。決して私が馬鹿なのではない。
「うん、初めて。口だけじゃ読者にウケないから」
「えぇ、そうなんですかぁ……? とってもよかったのにぃ」
「ありがと」
エロ漫画の読者たちの多数派は、きっとまだまだ「本番があってなんぼ」の派が占めている。AV女優であるルカトゥだってそのあたりの需要は知っているのではないかと思ったけれど、彼女が知っているのはむしろ、人に秘められた性癖の幅広さの方なのかもしれない。もし彼女から「本番がないくらいで何がマイナーか」と言われれば、誰にも言い返す権利はないのだ。
「あぁ、それとぉ、そういえばあれぇ、本当でしたねぇ〜。カレ〜!」
「あぁ……。その件はどうも……」
例の呪物が記憶によみがえる。結局あれはルカトゥが頑張って平らげてくれたのだった。初めの一口以外、彼女がえずくことはなかったけれど、暗い顔で黙々とあれを食べ進める彼女を見ていて、なんだかカメラを回した方がいいのでは……という気持ちになった。もちろん冗談でもそんなことはしなかったけど。やっていいことと悪いことがあるから。
ごちそうさまでしたぁ……と健気に顔を上げる彼女をどう労っていいのか、あの時の私には分からなかったし、今でも分からない。頭をなでても、ありがとうと言っても、何にせよきっと彼女は喜ぶだろうという予感はした。けれどだからこそ、それはただ好意に乗っかるだけの行いなのではないかという気がして、結局は「お、おぉ……すごいね……」みたいな、どの口が言うんだという反応になってしまった。それでも彼女は嬉しそうにはにかんだので、好意に乗っかるとは、やはりそういうことなのだと思う。
とにかく、思い返すだけで罪悪感が湧いてくることだ。二度と食べ物で無謀なことはしないようにしよう。
「あれを食べたからぁ、先生の気持ちがすっごく分かりましたよぉ」
「というと?」
「先生はぁ、実践派ですもんねぇ? カレー以外のことにも〜」
おちょくるような言い方に、フンと鼻をならして返事とする。知り合ってばかりの頃に、「先生の作品ってぇ、なんだか変なリアリティがありますよねぇ。先生は〜そういう経験ってあるんですかぁ?」と聞かれたことがあって、それに対する回答として大体のことを話してしまったのだ。私の創作に対する方針だとか、モテ期の頃にあったことだとか、そういうことを。
そんなにペラペラと話してしまったのは、私がお喋り好きだったからではない。当時まだ知り合って間もなかった彼女から馴れ馴れしい質問をされて、私は不愉快さを隠しきれなかった。するとそれについて、彼女が意外なほどものすごくうろたえたものだから、思わず安心させようとしてつい口が一つも二つも滑ってしまったのである。
だからルカトゥは暗にこう言っている。「先生の高校時代の彼氏の精液ってぇ、ゲロマズだったんですねぇ〜」。……仕事とはいえ美味しそうに飲んでるそっちの方がイカれてるんだ、というニュアンスは作品からちゃんと伝わっただろうか?
「私はむしろ意外だったよ。サキュバスも、不味いものは不味いんだね」
「あぁ〜先生ぇ、それ差別ですよぉ。い〜けないんだぁ」
「ごめんごめん、訂正する。ルカトゥも、不味いものは不味いって分かるんだね。意外だなぁ」
「もっとひどいですぅ〜。わたしのことなんだと思ってるんですかぁ」
「うーん……」
ほんの冗談とはいえ、なんて答えてみようかと一瞬考える。出来るだけ面白い返しをしたかったけれど、それは思いつかず。適当なことを言う結果になった。
「……私の一番のファン?」
「一番! わ〜い! 先生ぇ〜!」
事実、彼女は一番である。ファンとしても友人としても。
その一番のルカトゥが、わざわざテーブルをまわりこんで抱きついてきた。それで私は、ウィキペディアに書き足すべき一行を思いついたかもしれない。天才ルカトゥの魅力は演技力と容姿とNGの無さ、そして胸のデカさだと。
次の作品は、巨乳特有の苦労を書いた物にしようかな……と構想が浮かんだ。胸にばかり興味を示す彼氏に「もう〜、ホントおっぱい好きなんだからぁ♡」と言うヒロインの幸せそうな顔から話は始まり、以降数ページほど彼女の日常に発生する巨乳がゆえの苦労を描いたあとで、再び冒頭に舞い戻って続きを書くことでエッチシーンを見せるのだ。そうすることで冒頭の台詞に趣が生まれて面白そうだけれど…………採用されるかどうかは微妙だった。この中盤の部分もう少し削れませんか? と言われる未来が見える。
私の創作は、基本的にそうした「趣味」と「読者ウケ」のせめぎ合いの中にある。リアルっぽくあれば良いというわけではない、ということだけは常に頭に入れておかなければいけない。ゆえに「狂える舌」の口淫はめちゃくちゃ頑張って描いた。そうすることが、そっちの方がエロ漫画家としての使命なのだから。
多数派に寄り添った物言いをするなら、好ましいエロ漫画とは、エロ以外の部分が、冒頭かオチに集約されている物のことを言う。中盤に理性的な内容のある物は好まれないのだ。少なくとも男性向け作品では。
「先生ぇ?」
「……あっ、ごめん、妄想してた」
「先生のえっちぃ」
「じゃないと漫画描けないでしょー?」
「あぁ、そうですよねぇ」
ルカトゥはにこにこ顔で向かいのクッションの上へと戻っていく。テーブルの上の食べ物や飲み物は、二人ともまったく同じペースで減っていた。……彼女はいつもこちらに合わせたペースでしか飲み食いをしないことに、私は気付いている。なぜそうするのかを、あえて聞く気になれた日はないけれど。
「先生ぇ。次回作は何を描くんですかぁ?」
「気が早すぎるよ」
「だってぇ、先生ぇ、最近わたしのこと使ってくれないじゃないですかぁ」
「言い方……」
「わたしぃ、欲求不満ですよぉ」
「言い方!」
たしかに私は、ルカトゥのことを作品に「使った」ことがある。それはインタビューから得た情報を取り入れるという意味だったり、あるいは……もう少し物理的な意味だったりもする。
そう、あれは初めて彼女を家に上げた時のことだ。作業スペースに置いてあるお絵描き機材を見て「へぇ〜、これがぁ〜、ほえぇ〜」と唸る彼女に、なんとなく今だと思って聞いてみた。
「ルカトゥってさ、漫画のために脱いでって言われたら脱げる?」
それは出来心から出た問い……ではなかった。NG皆無の空色月としての側面を持つ彼女なら、きっと断るまいという確信があっての言葉だった。あとになって考えれば、仕事中の側面をプライベートに持ち出したのは浅はかなことだったように思う。AV女優と会えた勘違いはなはだしい男でもあるまいに。
しかしまぁ、彼女からの返事は期待通りだった。
「えぇ〜? 先生の頼みなら喜んでぇ」
「いや喜びはしないでよ。……まぁでもそれならわりとマジな相談があるんだけどさ」
ネットの海から拾ってきた一枚のエロ絵を表示して、スマホを彼女に手渡す。それを見た彼女は、さすがに「なにが?」という顔をした。それはそうだ、ただエロ画像を見せられただけなのだから。
「ルカトゥをセックスのプロとお見受けしてお聞きしたいんだけど、……その姿勢でそんな激しい上下運動は可能なの?」
その時スマホに表示されていた画像。それは両腕を後ろに縛られたまま騎乗位の格好になったヒロインが、足の筋力だけで激しいピストンを成立させている絵だった。……とやかく言う方が野暮だという意見も分かるけれど、その絵を見た私の脳に真っ先に思い浮かんだ感想は「無理じゃね?」だったのだ。
「あぁ〜、なるほどぉ。たしかになんかぁ、すっごいスクワットな感じがしますねぇ」
「でしょ? 無理じゃない?」
「う〜ん……どうでしょ〜……。……ちょっとやってみていいですかぁ?」
「え?」
「わたしぃ、家から必要な物持ってきますからぁ」
そう言って玄関へ向かおうとするルカトゥの手首を掴んで止める。思った以上に細くて、内心ちょっとドキッとした。
「え、必要な物ってなに? えっ、男!?」
「ちがいますよぉ、床に貼り付けるタイプのディルドでぇ、……あぁ〜、でも先生に付けてもらって〜の方がぁ、リアルですよねぇ」
「なにが!? いやいやいや、さすがにそれは嫌だよ。ここであれすればいいだけじゃん、その、そういう形のスクワットをさ。いいからディルドとかは」
「えぇ〜? 先生が脱げってぇ」
「いや、いや……、うん、万が一その姿勢で動けちゃった場合は、ちょっとその時の様子がどんな感じになるのか見たいし、多少脱いでもらうことはあるかもだけど……。でもパンツまで脱げとは言わないよ!?」
「そうですかぁ……? ……でもぉ、実際に騎乗位をするのとぉ、ここでピョコピョコするだけだとぉ、全然違うかもしれませんよぉ? 先生ぇ、それでいいんですかぁ?」
いいわけないですよねぇ? と、その時の彼女の目が本気で言っていた。あの時「いいんだよそんなのテキトーで」と言っていたら、ルカトゥは私に失望していたのかもしれない。
そして、もしそうなっていれば、私も私に失望していたと思う。リアリティへの誇りは確かに捨てがたいものだ。それを失ってしまえば、私の創作に残るものは誤差程度のものしかない。……かといって友人に跨られて腰を振られたくはないし、友人が激しめのオナニーをしてるところを真横で鑑賞したくもない!
そこで私はひらめいた。その友人というのはAV女優なのだから、私はいつだって、ルカトゥがあんなことやこんなことをする様を、画面の中に見続けてきたのだから、つまりはそれこそが理想形に違いないと。
私はルカトゥにあえて「これはキミをサキュバスだと思って舐め腐った上でのお願いだけど」と前置きをしてから、それを頼んだ。……もしキミがそれを仕事と割り切れるなら、誰かと「実験」しているところを、映像に取って見せてくれないかと。なんならお金も払うから……と。半ば引くに引けなくなって、私は頭を下げた。どんな理不尽な怒られ方をして頭を下げた時よりも、何やってるんだろう私……と思った。
「いいですよぉ? お金なんていりませんよぉ、先生ぇ」
二つ返事でそう言ってくれたルカトゥから、一週間後に映像データが送られてきた。撮影者はAV関係の知り合いだったのだろうか? 異様によく撮れた映像だった。
「先生ぇ〜。少なくともわたしの筋力だとぉ、腕を縛られたらほとんど動けませぇん。でもぉ、見てくださぁい、魔力で頑張れば出来ますよぉ」
画面の中のルカトゥが男に跨がって、天井からワイヤーで引かれているのでは? というくらい不自然な上下運動をこなしていた。
サキュバスは魔力でもって身体能力を強化できるのだという。それこそ見た目には折れそうなほど細い腕をした女の子が、その見た目のままでワイヤーを引きちぎったりすることが可能なのだと聞く。ルカトゥの上下運動のカラクリも、何かそういったことなのだろう。
しかしあまりに不自然なその動きに、竿役となっている男性は「えっ!? こわいこわいこわい!」と笑いながら狼狽えていた。ルカトゥがそれに「こわくない♡こわくない♡ がんばれ♡がんばれ♡」と声をかけながら腰を振っている。それを撮るカメラマンもずっと爆笑していた。あぁ笑顔の絶えない職場……。
……いやどういうお笑い!? と心の中でツッコミながら、感謝の意を文章にしてルカトゥに送信した。……それからというものだ。私が彼女に、そういった「お願い」をするようになったのは。
ちなみにその時の映像それ自体は漫画化しなかったけれど、それをきっかけとして、強くなりたい武闘家系ヒロインに修行と称してセックスさせる漫画は一つ完成して、無事に誌面に載り世へ放たれた。セックスを通してなぜかラスボスみたいな敵を倒せるほど強くなっても、足の筋力だけで騎乗位が出来るようにはならなかった……というオチの作品だ。タイトルは「俺より強いやつが会いに来る」。竿役の男は格闘技ど素人という設定にした。セックスで強くなれるわけもないし、それが妥当だろう。
その作品を読んだルカトゥは、「わたしも鍛えたらぁ、笑われなくなりますかねぇ……?」と感想を漏らしていた。また変なAVがこの世に生まれる予感がしたけれど、今のところその予感はまだ杞憂となっている。しかしきっと世のどこかにはいるのだろう、マッチョな女性のセックスを見たがっている男たちが……。
「先生ぇ。わたしぃ、先生の漫画の役に立てるとすっごく嬉しいんですよぉ……? 何かありませんかぁ……?」
「うーん、じゃあ使えるネタになるかは分からないけど、胸が大きくて困ったエピソードがあったら教えて?」
「胸ですかぁ? 重いですよぉ」
「見りゃ分かるんだよねそれは……」
思い出の回想から帰ってきて、一つ思うことがある。ルカトゥの資料的な協力者としてのいいところは、私とのやり取りがストレートに漫画に反映されていなくてもまったく不満そうにしないところなのだ。
後日、やはり巨乳ネタはもう少し練り直すことになり、前向きなお蔵入りが決定した。
巨乳ネタをボツにしたあと、しばらく次のアイデアが出て来ずに創作が停滞していた時のことだった。作品を発表したわけでもないのに、まるで新作を見たかのような熱のある勢いでルカトゥがやって来た。
アポはあったけど、そのアポ自体が「ものすごい物を見つけたんですよー!! 明日の昼行ってもいいですか!?!?」という具合に、すでに結構な勢いの物だった。……文章上に母音が付いていないのはいつものことだ。
またしても正午きっかりにやって来た彼女に、今度ばかりは心の底から聞く。
「今日はなにしに来たの……?」
「まぁまぁ〜、まずはお昼にしましょうよぉ」
もったいぶるように落ち着いているルカトゥから、また何らかの食べ物が入ったビニール袋を受け取る。中に入っていた箱を開けると、ホールケーキみたいな大きさのアップルパイが出てきた。
お互いパイ生地の部分を否応なくポロポロと皿の上にこぼしながら食べている最中、満を持してルカトゥが言った。
「先生ぇ、次の漫画はどんなものを書くのかぁ、決まりましたかぁ?」
「いや、実はちょっと詰まってる」
言いながら、ルカトゥの胸元に目が向く。きっぱりと諦めて次のアイデアを模索すればいいのに、どうにかそのネタをものに出来ないかとあがきたくなってしまうから、次のネタが決まらないという向きもあるのだ。
「わぁ、そうだと思いましたぁ」
「エスパーなの?」
「ちがいますよぉ。先生がわたしに何も頼んでくれないのは〜、ネタが決まってないからなのかなぁって」
「当たってるのがむかつくね……」
「そこで先生に〜朗報なんですよぉ」
ルカトゥがおもむろに、傍に置いていた肩掛けバッグを漁り始める。家に来た彼女がそこから何かを取り出すところを見るのは稀だった。
そこから出てきた物を見て、ギョッとする。
「えっ、な、なにそれ……」
「知り合いのサキュバスから〜借りてきたんですぅ」
ルカトゥが握りしめている物は、人の手を模した形のオブジェだった。握手の形をとっている生々しいデザインのそれは青銅色で、しばらく公園にでも飾られていたかのように年季の入った見た目をしている。
正直その時点で、第一印象としてはすでに気味が悪い代物である。……が、そのオブジェの殊更な不気味さは他の部分にもあった。
青銅色の手は、手首の方へ向かうにつれて、強い力で絞られたかのようにねじれて渦を巻いている。そしてそのねじれは、先へ行くほど次第にほぐれて行き、やがてもう一つの手になっていた。握手を求める形の二つの手が、ねじれた手首同士で結びつきあって一つのオブジェになっているのだ。
ルカトゥが握る「手」に対して余ったもう一つの手は、いかにももう一人の誰かに握られることを望んでいるかのようだった。
「……美術系の友達がいるの?」
「いいえ〜普通の人ですよぉ。最近は子育てで忙しいとかぁ」
「へぇー。……で、その不気味な代物は何なの……?」
「これはですねぇ、入れ替わりの手ですぅ」
ずい、と「手」はこちらへ差し出される。
「先生にこれを握ってもらうと〜、わたしたちの魂が入れ替わるんですよぉ」
「はぁ……?」
「つまり先生がサキュバスに〜、わたしが人間になるんですぅ。そういう魔法なんですよぉ」
「マジで言ってんの……?」
サキュバスが魔法を使うという話は、常識レベルでよく聞くものだ。そしてサキュバスの魔法には二種類がある。身体能力を強化したりする「共通」と、各々が全く異なる性質の現象を起こす「固有」。……つまり大抵のサキュバスは、何らかの異能力者なのだという。
けれど私は、サキュバス固有の魔法を見たことがない。ルカトゥがどんな魔法を持つのかすら知らない。本人から話してこないのだからわざわざ聞くこともないだろう……と思っていた。
その結果私の中には、異能力的な魔法の実在に懐疑的な心と、人の身ではあり得ない身体能力を発揮するルカトゥを見た経験から来る「なら異能力もあるだろう」という予感が、矛盾する形で両方存在している。……その矛盾感とお別れする時が、その誘いの手が、唐突に差し出されたわけだ、今。
「マジですよぉ。先生ぇ、スケジュールは空いてますかぁ? もし三日以上空いてるなら〜、ぜひこの手を握ってくださぁい」
「三日? なんで三日?」
「この魔法ってぇ、一度入れ替わったら「72時間後に自動で戻る」って方法以外で〜元に戻れないんですよぉ」
「えぇ……いわく付きか……」
予定を開けられるかどうかで言えば、三日ならまぁ可能だろう。しかしそうであったとして、気心の知れた友人とのことだとはいえ、入れ替わりなんて現象を起こしてしまって本当に大丈夫なのだろうか……という不安は拭いきれない。生まれてからずっと自分のものとしてきた体とのしばしの別れとして、三日はどうも長すぎる気がする。
けれど、ルカトゥが言わんとしていることも十分理解できた。……ネタに詰まった漫画家にとって、これほど光明らしく見える物も珍しいだろう。
「先生ぇ、わたしぃ、先生の描くサキュバスが見てみたいですよぉ」
「それは……入れ替わらなくても描けるんじゃない……?」
「でも先生は〜リアリティを重視するじゃないですかぁ。先生の作品のそういうところが好きなんですよぉ、先生ぇ」
「うむ……」
サキュバス特有の話を漫画にするとして、ただ友人を見て描くのと、自分で「サキュバスの体」を体験して描くのとでは、確かにリアリティに天地の差が生まれるように思う。なにせサキュバスの体を得るということは、たとえば両腕を後ろに縛られたままでも軽々と、激しい騎乗位を行えてしまうということなのだから。そう考えれば、見るのとやるのとでは大違いだ。
あるいは単純に、巨乳の気持ちが分かるかもしれない。見るのとやるのとでは大違いだろう。
「……もし入れ替わりで困ったことがあったら、全面的に助けてくれる?」
「もちろんですぅ」
「なら、やってみようか」
「さすが先生ぇ!」
かつて、男の前で初めて裸になった時と同じくらい軽率に、私はその「手」を握ってしまった。
…………まず鏡を見ているのかと思った。けれど鏡像ならざるそれは、私の顔をして、ルカトゥのように好意的に口角を上げた。
「入れ替わっちゃいましたねぇ、先生ぇ」
「うわ……マジだ……」
骨伝導ではないゆえに聞きなれない自分の声で、まったく似合わない母音の目立つ喋りが聞こえてくる。一方で、今の自分の喉から出る声もまた、私の喋り方には似合わない甘ったるい物だった。
入れ替わりはあっさり成功したのだ。まばたきするよりもさらに短い間でもって、何もドラマチックなことはなく、けれど無事に。
つまりは大成功だ。三日後も同じくらいさくっと元に戻るのだろう。
「あと72時間のうちに〜色々試しましょうねぇ、先生ぇ」
「ねぇ、ちょ、私の声でその喋り方やめて……?」
「どうしてですかぁ?」
「……なんか恥ずかしい」
「えぇ〜? 先生ぇ〜かわいい〜」
幸せな時に鏡のことなんか気にしないせいかもしれないけれど、ルカトゥが私の体で、私でもしたことがないくらい幸せそうな顔をした気がして、なんだか少し複雑な気持ちになった。
しかし数秒後、そんなセンチメンタルな思考は遥か彼方に追いやられる。ルカトゥが自分の……つまり卯月雛子のボディを無遠慮に触り始めたからだ。
「わぁ〜、先生の体ってこんな感じなんですねぇ」
奴は立ち上がり、頬を手のひらでつつみ眉を指でなぞり、尻をなでて、服の裾をめくり腹の肉をつまもうとした。
「うおぉわぁ!? 何してんだバカ!」
同性でもやっていいことと悪いことがある! 思わず実力行使で止めにかかると、わぁっ、という情けない声を出してルカトゥはよろめいた。
……漫画でもあるまいに、結果としては私が彼女を押し倒したような形になった。押し倒される自分の顔を見る機会が来るとは夢にも思っていなかったけれど……。ふと、あぁ彼もつまらなかっただろうなと思った。
冗談ぶってルカトゥが言う。
「先生ぇ、わたしぃ、先生にだったらぁ……」
「ふざけんな人の体でっ」
彼女の上から退く時になって、重っ、と思った。何がって自分の胸が。明確に「ぶら下げている」という重量を感じた。これで肩だの腰だのは本当に大丈夫なのだろうかと、謎の不安が頭をよぎる。
無遠慮のお返しとばかりに、私は今は自分の物となったデカパイをこれみよがしにゆさゆさと揺すって見せてみた。揺するとなお重い……そして思っていたより遥かにやわらかい……。なんだろうこれは、重量感があるのに、マシュマロみたいという例えが適切であるかのような……。
と、学生時代の女子更衣室のノリに参加できなかった陰キャが静かにはしゃぐ間、しかしそこはさすがサキュバスということなのか、ルカトゥはもてあそばれる(かつての)己の体に興味すら示さなかった。彼女は、今度は(かつての)私の指をまじまじと観察しているようだった。それくらいならべつに構わないけど……。
が、次の瞬間に彼女は、その指を口に含んだ。味も見ておこう……とばかりに。
「こらルカトゥ、いい加減にしなさい」
「は〜い」
一応素直に言うことを聞く彼女は、唾液まみれになった指を水道で洗いに行った。……その一挙手一投足に、あぁ別の人物が入っているのだなと実感させられる。姿形は私でも、きっと私だったら、もっと怠そうに動いていたことだろう。
「さて……」
私も立ち上がり、冷蔵庫を開く。出来ればリンゴがよかったのだけど、あいにく用意できていないから他のめぼしい物を探す……。……が、マジで引くほど大した物が入っていなかったから、結局は氷で試すことにした。
「先生ぇ? なにしてるんですかぁ?」
「サキュバスのパワーとやらを使ってみたくて。おらっ!」
固い氷を、渾身の力をこめて思い切り握りしめる。……しかし何も起こらなかった。とても冷たいだけで。
「あれ……?」
人智を超えた握力により粉々に粉砕できるものかと思っていたのに、元の体でやっても同じだろうという感触と結果しか得られなかった。どうして……? なぜ……? 早くも途方に暮れる。もし72時間の入れ替わりがこの調子で全て無意味だったなら、それは結構ショックだ。
「あぁ、手じゃなくてお腹に力をこめるんですよぉ。あと氷ならぁ、たくさん持った方が分かりやすいですよぉ」
「たくさん……?」
言われるがまま、両手で包み込める程度の量の氷を持ってみる。なかなか深刻に冷たい。やはりサキュバスでも、冷たい物は冷たいのだ。
ともかく、ルカトゥいわく、手ではなくお腹に力をこめればいいらしい。まるで喉ではなくお腹から声を……という歌の指導みたいだ。カラオケに行った時の感覚を思い出しながら、私は両手の中の氷を押し潰そうと試みた。
ごりごりごりっ、という音が鳴る。考えてみれば人は、ただ押し潰される氷なんて見たことがないのだということに私は思い至った。
「えぇ……」
すり潰されたようにほとんど粉状となった氷たちを見てドン引きする。それほど力をこめたという感覚はなかった。しかし現に私の手は今、冷たさに苛まれる雑なかき氷機になったのだ。
ルカトゥがおちょくるように拍手していた。
「わぁ〜、出来ましたねぇ」
「え……、なんか怖いんだけど。とんでもない兵器を手にしてしまったみたいな」
「大丈夫ですよぉ、無意識に出ちゃったりはしませんからぁ」
じゃないとセックス出来ないじゃないですかぁ、と続いた彼女の言葉に、目の前にいる友人のことを初めて「こいつは一応、人智を越えた存在なのだ」と正しく認識したように思う。怒らせないようにしよう……と、素朴に思った。
粉になった氷は、シロップなんて常備していないから仕方なくそのまま食べた。衛生的なことひは食べている途中で気づいて諦めた。
「それで先生ぇ、これからどうしますぅ?」
「どうするって?」
「せっかくサキュバスの体に入ったんですよぉ? いろいろ試してみないとじゃないですかぁ、漫画に使えそうなことをぉ」
「あー、そうね……」
無論、覚悟は決めているつもりである。生娘でもあるまいし、それは大した覚悟というわけでもない。……ただ気が進まないのも事実だ。少なくとも人間の体でもってなら、私は現実のセックスのクソさ加減をすでに知っているから。
「信頼できる人〜、紹介しましょうかぁ」
「それって、ちょくちょく実験に付き合ってくれてる人……?」
「そうですそうですぅ」
「そう……。ついに私も、自らを実験台に……」
「イヤなんですか〜……?」
そう言う彼女は、少し心配げだった。人間の体に入っても表情豊かな奴だ。
「うーん……。なんというか、興味半分、気が進まない半分……みたいな」
「頑張りましょう、先生ぇ。漫画のためですよぉ」
「そうだよね……。……やってみないとね!」
「ですですぅ」
実験をするなら一番気になるのは、性欲を吸うという感覚だ。サキュバスは性行為を通して相手の性欲を吸うことで、それをエネルギーにして生きているらしい。せっかく入れ替わったのだからその感覚を体験しない手はない。
……それともしばらく昼寝でもしていれば、自動的に「空腹」になって、苦手意識も何もかも勝手に消し飛んでくれたりするのだろうか?
「じゃあ連絡しておきますねぇ。大丈夫ですよぉ、向こうもプロですからぁ」
「プロね……。プロといえばルカトゥ、まさかこの三日間に仕事入れてたりはしないよね」
「AVのってことですかぁ? あはは〜、そんなわけないじゃ……………………あっ」
「えっ?」
「あれ、ちょっと待ってくださいねぇ」
ルカトゥが、何やらものすごい速度でスマホをいじり始める。そしてすぐにそれをテーブルの上に置いた彼女は、トイレでも我慢してるのか? という変に神妙な面持ちで正座したまま動かなくなった。人の体で見たこともない顔をしないでほしい。
……いや、違う。そんなことは重要ではない。そんなことよりも今、私は、とんでもない真実に気軽に足を踏み入れてはいなかったか……? 仕事入れてないだろうねなんて、完全に冗談で言ったつもりだったのに……。
「あの、ルカトゥさん……? どうしたの?」
「……仕事、入ってたかもしれません」
「……マジで言ってんの?」
マジなのだとしたら、しょうがないなぁ代わりに出演してきてやるよ〜……とはさすがに言えない。私は天才ではないのだから。
「いや、気のせいかも……です」
「そうであってよ……」
「あっ」
通知音がしたわけでも、マナーモードの震えがあったわけでもない。しかしルカトゥはある時ピンと反応して、再びスマホをいじり始めた。
そして、やがてそのスマホがおずおずとこちらに差し出される。何事かと画面を見てみれば……。
『すみません、明日って撮影ありましたっけ?』
『入ってますね。急用ですか?』
……知らない男性の名前相手のLINEに、そのようなやり取りが表示されていた。
「ルカトゥさん、これはどういうこと?」
「こ、こっ、これも見てください」
すっすっと指でなぞられた画面が次に見せつけてきた物は、おそらくは標準搭載のカレンダー機能だった。過去へ未来へ、何やら様々な予定が不規則なペースで書き込まれている。……が、ここ三日間は完全に「白」、フリーな日という表示になっていた。
「スケジュールは何度も確認したんです……」
「つまり……?」
「……明日の撮影予定について、スケジュールに書くこと自体忘れていたみたいです」
ルカトゥは、シリアスな時にはいつもの母音を失う。かつて私が不愉快さを隠しきれなかった時から、その点はまったく変わっていなかった。
「まぁ、うっかりミスは誰にでもあるよね」
「すみません……」
「仮病を使おう!」
そしてその仮病は三日後に完治して、多少の遅れがあったとはいえ撮影は無事に終了する。それでいいじゃないか。何もそんなにあわてることじゃない。
そういえば、例のオブジェはいつの間にか跡形もなくこの場から消えていた。ゲーム風に言えば、使い切りアイテムというやつなのか。
……ルカトゥが、生真面目とも気弱とも取れない声音と面持ちで言った。
「仮病は、あまり気が進みません」
私の見た目をした、私ではないルカトゥが、覗き込むように目を合わせてくる。
「気が進まないって、悪いことだから……?」
「ちがいます。……だって先生は、これから色々試すんですよね」
「はぁ、まぁ、そのために入れ替わったわけだし……?」
「なら、信頼できる男性が必要だと思います。適当な相手を探して……というのは、先生にしても気が進まないことじゃないですか?」
「えっ? ま、まぁ、それはね。……何の話?」
「先生、わたしの知ってる信頼できる相手っていうのは、同じ業界の人なんです。先生の方に他の当てがあるわけでなければ、その……」
「あっ、そうか」
私もようやく話の趣旨を理解することが出来た。
そうだ、ルカトゥの言う通りだ。今は私のものとなっているこの体が撮影を病欠したなら、当然、療養のフリをしなければならない。つまり同じ業界の知り合いに「セックスしようぜ」とは言えないのだ。なるほど確かに困った事態になった。
「え、どうしよう?」
「一つだけ、不幸中の幸いなことがあります」
「ほう?」
「明日の撮影は、素人ものなんです。それも一人あたりの撮影時間は短めで」
「……で?」
なんだか嫌な予感がした。
「まさか私に出てこいなんて言わないよね」
「でもそれしかないじゃないですかっ」
「なんでさ!」
ルカトゥが目に見えて怯む。そんな自分の姿を見るのは妙な気持ちだった。
「たしかにこの三日は無駄になるかもしれないけど、それでもおとなしく仮病を演じておけばいいでしょ? で、またいつか、次にお互い三日間の暇ができた時に、改めて入れ替わったらいいじゃない。違う?」
「だめなんです! 入れ替わりの魔法を持った友達は遠くに住んでいて、直接会わないとあの「手」はもらえないんです。偶然別の用事で近くまで行っただけなんですよ……」
「でも、またいつかは行けるでしょう? 何年先にせよ、そんなに焦ることじゃ……」
「いやです、何年も先なんて! わたし、先生の漫画が早く読みたいです!」
「あっ、こいつ、本性表したな! ふざけたこと言わないのっ。そんなことでAVになんか出られるかって話でしょ! しかも周りの人を騙してまで、替え玉みたいなことして」
「でもそうしないと、先生だってアイデアが出るのはずっと先になるんですよ……? どうせセックスするなら、同じじゃないですか」
「アイデアくらいそのうち出るよ! 同じなわけないでしょ、責任持てないよ私じゃあ……!」
「責任って、そんなこと言ったら、仮病なんて迷惑かかりまくりです!」
「キミのせいでしょ!?」
うっ、とルカトゥの喉に何かが詰まる音がした。彼女は息を止めたまま、何か言葉を探して探して……。
彼女はやがて、大きく息を吐いた。
「……はい、わたしのせいです」
「分かればよろしい」
「…………うぅ、なんでぇ、なんでこんなぁ……」
「えっ」
あのオブジェを見た時より、もしかしたらさらにギョッとしたかもしれない。
……ルカトゥはぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。それは悔し涙のように見えた。
わりと長い付き合いだけれど、画面の中に見た演技を除けば、彼女が泣いているところを私は初めて見た。というかそもそも、自分の友人が泣いているところを見ること自体人生で初めてだ。
「いや、えっ? ちょっ、どうしたどうした……」
「わたしぃ、奇跡だと思ったんですぅ。このタイミングでぇ、わたしも先生も予定が空いててぇ、先生はアイデアに詰まっててぇ、入れ替わりの魔法があってぇ……。なのに、なのにぃ……。奇跡なんてなかったぁ……」
「な、泣かないで……? そんな泣くほど……?」
「わたしだってぇ、泣きたくないですよぉ……!」
言いながらも、彼女の涙は止まらない。感情が一周して母音も戻ってきていた。
恋人でも死んだのか、というくらいの勢いで彼女は泣き止まない。率直な感想として、よくまぁそんなに泣けるものだと思った。私なんか、最後に悲しくて泣いたのがいつのことだったか覚えてもいない。痛くて涙が出たことなら、何回かあったけれど。
ルカトゥはそんなに私と入れ替わりたかったのだろうか……? そんなに自分の体を、漫画のネタにされたかったのだろうか。どんなに体を張ったところで、大した収穫にならないことがあると知らないわけではないはずなのに。何をそんなに期待しているのか、私には分からなかった。
けれど、そこに何らかの熱意があることだけは、さすがの私にも理解できた。友達の涙を目の当たりにするのは良心的にも結構つらいことなのだ……ということもついでに理解した。
「……あーもう! わかったよわかった! 出ればいいんでしょ!?」
「え……?」
「そうだね、キミの言ってることにも一理ある。私が実質の替え玉として撮影に出て、ちゃんと上手く事が回れば、私のネタ探しの問題も撮影の問題も、全部丸くおさまるんだ」
「先生ぇ……?」
「泣くほど出てほしいって言うなら、出てあげるよ! どうせセックスはしなきゃいけないんだから! マジもんの素人が出てやろうじゃん!」
「ほ、ほんとですか……?」
「ただし、何かあった時は関係者の人に全部ネタばらしして、何もかもアンタのせいにするからね。それでもいいの? いいなら出るよ」
「せ、先生……! はい! いざという時は任せてください! でもきっと上手くいきますよぉ!」
彼女のその舞い上がりようを見ると、すでに頬の上にあった涙まで、喜びのそれに変わっているように見えた。……デジャヴを感じる。
あの時だってこんな感じだった。馴れ馴れしい質問をされたあの時、最終的に私は全てを語って、ルカトゥはそれを心の底から喜んでくれているように感じたのだ。またしても似たようなことが起こってしまった。
……まさかそれもこれも全て演技ではないだろうな。と、天才たる友人を疑う性根が顔を出す。何せ、結果としては以前も今も、ルカトゥの望む方へと転がっているのだ。面白くもない下世話な過去話を披露させられたかと思えば、今度はなんだ、AV出演……? いや改めて考えると本当に、どうかしているんじゃないかと思う。
……でも、それの何が悪いのかを私が理解しきれているのかというと、そうでもないような気がした。出演と言っても、映像に残るのはルカトゥの顔、体、声だ。傍から見れば私はどこにもいない。だからなのか、仮に全てが彼女の手のひらの上だったのだとしても、まぁ別にそれでもいいか……と思えてしまった。
「先生ぇ、サキュバスの体ぁ、楽しんでくださいねぇ」
「いや言い方よ……」
現金なことに、ルカトゥはすっかり元気を取り戻していた。そこに不思議とカチンと来させないところが彼女のすごいところだ。
……憔悴。その一言が頭に浮かぶ。少しだけ息がしづらい。
結論から言って、撮影は支障というほどの支障もなくつつがなく終了した。……少なくとも、私の目にはそのように見えた。他人の目から見てどうだったのかは、今は考える余裕がない。
息苦しくなるほど疲れているのは、大勢のスタッフに囲まれていくつものカメラを向けられながらの性行為がこたえたから……ではない。むしろそれに関しては驚くほど楽だった。サキュバスの体というのはこれほどまでに性に対して強いのかと、世界が変わって見えるくらいに。
だからこそ、ものすごく疲れた。
気が滅入らないように、良かったことから考えよう。まずは何より「性欲をエネルギーとして吸う」という感覚を体験できたことだ。これに関しては、今日初めてサキュバスになった私でも自然と感覚で行えてしまうことだった。人間の体では感じ取れなかった「五感の内のどれとも違う感覚」を通して、身の回りに渦巻く性欲を、エネルギーとして確かに感知できた。感知できたそれを自らの中に取り込むことも、ただそうしたいと思うだけで簡単に出来てしまうものだった。何も難しいことはなかった。
また、性欲を吸えるようになってみると、撮影の現場で男優から湧くそれはひどく薄いということも分かった。……いや、何かと比べて「薄い」と言っているわけでもないのだけど、この体が、漠然とそう感じたのだ。こんな仕事としての性行為によるものではない、もっとしがらみから解放されている本来の性欲は、これよりずっと濃くて美味いものなのだと。……そう、性欲には味があった。強いて言えばそれは味覚でも嗅覚でもなく、脳で直接感じるような味だった。
それらの感覚を体験できた時点で、すでに何にも変え難い貴重な経験値を得たと言える。収穫としては十分すぎる大豊作だった。その上もちろん、今日得られた物はまだ他にもたくさんある。
他の収穫といえば、例えば……。……そう例えば、セックスが気持ちよくて仕方がなかったことも、その一つだ。
それは私の知っているセックスではなかった。痛みや苦しさが全く存在しないセックス……。いや、それともあれが痛みや苦しさの派生系だったのだろうか? 行為中の私が感じていたのは、体が芯の方からじんわりとしびれるような感覚だけだった。その痺れがどういうわけか、声が出てしまうくらいに気持ちいいのだ。
とはいえ、それはそこまで激しい快感というわけでもなかった。なんというか、こう、「触覚で感じる多幸感」というか、じんわりとした、……完璧に的確な表現は思いつかないけれど……。つまりは、そうだ、幸せな夢を見ている時みたいな気持ちよさだった。
性感という物がどういうものなのかは私だって知っているつもりだった。小学生の頃に絶頂を覚えたような人間が、大人になるにつれてオナニーを卒業するだとか、そんなことはあるはずもないから。……なのに、今日体験した「快感」は、私の全く知らない感覚だった。気持ちいいか否か以前に、「幸せ」と連動している快感なんていうものは、まったく今日初めて知った。
……それだけが体験の全てなら、今日のことは良い思い出になっていたのかもしれない。「結局あの感覚は、サキュバスの体によるものなのか、それとも単にセックス慣れした者の感覚なのか、あるいはどちらでもなく、ただルカトゥ個人の感覚だっただけなのか。まったく分かったものではないなぁ」なんて呑気な感想を持っていれば、こんなに憔悴することもなかったんじゃないかと思う。
けれど私は今日、もっと多くのことを知った。今だけは自分のものとしてある、この他人の舌で、私は、……私は精液の味を知った。
精液の味に、舌触りに喉ごしに、今日はほとんど嫌悪感を覚えなかった。それが自分にとってこれほどショッキングな出来事になるとは、私は全く想像できていなかった。
ゲル状の水のような味だった。ほんの少しだけ青臭い気もしたけれど、仮に毎朝コップ一杯のそれを飲むだけで健康が維持できるというなら、何の迷いもなく苦もなく、私はそれを飲み続けるだろう……と思えるくらいの、その程度の味だった。……それでは困るのだ。
私は、すでに取り返しのつかないことをして来たのかもしれない……。
「ルカトゥ、ただいま」
家に帰ると、悪さをしているところを見られた子どもみたいな顔で、ルカトゥがこちらを振り返った。入れ替わってからたったの一日で、一度も見たことがなかった自分の顔のバリエーションをいくつも目撃している。それとも常に鏡が見えているとこんな感じなんだろうか。
「おかえりなさぁい、先生ぇ……」
やや引きつった笑顔の彼女に、そのわけを聞いてみることにする。……ある程度の検討はついていた。きっと私と同じなのだと。
「どうしたの、ルカトゥ?」
「え……?」
「なんかあったでしょ。顔に出てる」
演技の天才のくせに、彼女の顔にも憔悴の色は現れていた。……それもさもありなんだ、と今なら思える。
「えっ……と。いやぁ、べつにぃ……、何もないですよぉ……?」
「本当に?」
こちらがじっと瞳の中を覗き込むと、彼女は分かりやすく目を伏せる。言葉にしては強すぎるから、目で伝えてやる。少なくとも今は、嘘や隠し事をされるのは不愉快だと。……こちらにも気持ちの余裕はないのだ。
「……あの、先生ぇ、実は……」
「うん」
「その、……オナニーしちゃいました。先生の体なのに、ごめんなさい……」
「いいよべつに。ルカトゥは、心はサキュバスなんだから」
純粋に情状酌量の見解を述べたつもりだったけど、口に出してからハッとする。差別的ななじりに聞こえてしまったのではないか……と。
「あ、いや別に、あれね。今までずっとエッチ漬けで生きてきたんだから、急にスン……とはならないかな、みたいな。私だって入れ替わっても別にセックスしたいしたいとはならなかったから、そういうものかなって、……そういう意味ね?」
「あはは」
わかってますよぉ。と、ルカトゥが力なく笑う。……私はじれったくて、確信を突いてしまうことにした。
「気持ちよくなかったんでしょ?」
「え?」
「ちがう?」
「……いいえ」
ルカトゥは俯き、目を合わせてくれない。……奇妙な感覚だ。こんな、自分の姿をした相手を詰めるような真似をするなんて。そしてそれでいてなお、その体の中には確かにルカトゥが入っているのだと、直感で確信できるなんて。
「私もびっくりしたよ。何をしても、私が知ってることと違ったんだもん」
「何をしても……?」
「うん、何をしても全部気持ちよかったし、嫌じゃなかった」
それだけ口にしていれば、まるで良いことずくめのように聞こえる。けれど真実はそうではないから、私は聞かなければならない。
「……ねぇルカトゥ、あの「狂える舌」っていう漫画のことは、どういう風に解釈したの?」
「え……?」
「生クリーム乗せたカレーはさ、ルカトゥだっておいしくないって感じたんだよね? ……あの漫画のことはどう解釈したの?」
「どうって……」
憧れの作者から読解力テストを出されればファンは誰でもそうなるだろう……という具合の緊張が、ルカトゥのことを支配しているようにも見えた。もしその見立てが正しいのだとすれば、彼女はなんて呑気なやつなのだろう。
「……間違ってたらごめんなさい。わたしは先生が、「精液なんて、味覚障害でもなければおいしいと感じるはずがない」って言ってるのかと思いました」
「分かってるんじゃん! 全部!」
びくっ、とルカトゥの肩が跳ねる。
罪悪感が湧いた。色々なそれが湧いて、混ざって合わさって、沼のように私の中に広がっていく。……せき止めていた罪悪感を抑えられなくて、声を荒らげてしまう。それで彼女を怖がらせることがまた心苦しい、悪循環だ。
私は、自分が心苦しくなっていることについて怒っているようなクズだったのかもしれない。
「どういう気持ちで「良かった」なんて言ってたの……? ルカトゥ、あんたの舌は、精液のことをほとんど不味いなんて感じてなかった……! ゲテモノ料理の方がよほどゲロマズだった!」
「それは、だって、先生は人間だから……」
「サキュバスの感覚と違っても仕方ないって……?」
「そ、そうですよぉ。だって違うのは当たり前じゃないですかぁ……」
「やっぱりサキュバスの感覚なんだ」
「えっ?」
「この舌は、ルカトゥ個人の特別なものじゃなくて、サキュバスなら普通のものなんだ」
「え……? そう、ですよ……? 個人差はありますけど、サキュバスはみんな、精液のことをそこまで不味いとは……」
「……暗に味覚障害って言われて、傷ついたでしょ?」
ルカトゥが一瞬だけ、キョトンとした表情を見せる。
彼女は、その時初めて安心したかのように微笑んだ。なんだそんなことか……とでもいう風に。
「え〜? ぜ〜んぜん、これっぽっちもですよぉ……? 人間の感覚とサキュバスの感覚は違うんですもん〜、先生だってぇ、わたしが「そんなに不味くないよ!」と言言い張ってもぉ、そんなに嫌ではないでしょう〜? …………嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。嫌じゃないけどさ……」
それでも私たちは、一緒にお昼を食べてきた仲なんじゃなかったのか。あえて口に出して「おいしい」と言うことはお互いほとんどなかったかもしれないけど、それでも二人とも心は大体同じだったんじゃないのか。
……私は、同じ「おいしい」を共有しているつもりだった。
「私は、キミにそんなことを言うつもりで描いたわけじゃなかった。そんな、ひどいことを言うつもりじゃなかった……」
今だけは私の体になっている、サキュバスのこの体、この感覚。これが友達の「常識」なのだと知っていれば、その友達が真っ先に読んでくれると知っていながら、あんな内容の漫画を描いたりはしなかった。いや漫画だけじゃない。私だって全て知ってさえいれば、あのゲテモノを食べきってくれた彼女に、あんなひどいことを言ったりはしなかった
……続くルカトゥの声は、これもまた聞いたことがないような優しいものだった。
「先生ぇ、そんな顔しないでぇ……?」
にこっと笑ってみせたその顔が、狙って作られた表情であることが分かった。体が人間になろうとも、長年サキュバスとして生きてきた彼女ならそういう顔をするのだろう。
私だってサキュバスに生まれていれば、そういう笑顔をすぐに身につけていただろうと思う。薄くて味気ない性欲からしがらみを取り払ってやるために、その笑顔はきっと役に立つから。
「わたしは、先生に見えてる世界が知れて楽しかったし、嬉しかったですよぉ……? もっともっと見たいくらいですぅ。だってわたしは、教えてもらえないと分からないからぁ……。知れるっていうのは、すっごくすっごく楽しいんですよぉ」
「そうなの……?」
「そうですよぉ。だから変に気を遣ったりしないでぇ、先生はいつも通り……ね?」
「……じゃあルカトゥはどうして、オナニーが気持ちよくなかったくらいで、あんな顔していたの?」
「え……」
私が帰ってきた時、ルカトゥは「とんでもないことがバレた」という顔をしていた。とんでもないこととは、人の体でオナニーをしたことだろうか? ……違うだろう。
「私、自分の体のことだから、なんでも分かるんだよ……? オナニーして気持ちよくなかったってことは、ルカトゥ、指入れたんでしょ?」
「う……」
「で、痛くてびっくりしたんでしょ? キミのは、痛いなんて感覚と全然無縁だったもんね。びっくりだよ、人に囲まれてカメラまわされて、覚悟してたはずなのに緊張でガチガチになって……、なのにちゃんと濡れるんだもん。根本的に違うなって思ったよ」
「先生ぇ……」
「……それを「申し訳ない」と思ったから、あんな顔してたんじゃないの?」
私だってきっと、この体で精液を飲み込んだ時に同じようなことを考えた。そしてそれは顔に出たと思う。いつか世に出る今日撮影したAVを視る人たちが、そんな私の様子をどう解釈するのかは定かではないけれど、少なくとも、私の感情にたどり着くことはないだろう。
精液だけじゃない、何もかもだ。口に入れるもの、肌に触れたもの、におい、見た目、熱……。あらゆる物が、なぜだか全く不愉快には感じられなかった。……かつてのそれは、自分に好意を向けてくれた同級生とのそれらは、あんなにも耐え難いものだったのに。
……だから私だって、正直ずるいと思った。
「……不愉快にさせたらごめんなさい」
「うん?」
「先生の言ったことは、当たってます。わたしはサキュバスだから、どうしてもそういうことを、おかしなことを、思ってしまうんです」
「おかしなこと?」
「人間にとってのセックスは、わたしたちが思うほど重要なものじゃないって、分かってるつもりなんですけど……」
「うん」
「…………気持ちよくないって、つらくないですか?」
彼女の中に、割ってしまった花瓶のことを白状するような、いたいけな覚悟を見た気がする。本当は口をつぐんでしまいたかったんじゃないか、「別にそんなこと何も思ってないですよ」と。……実際の彼女は、そうは言わなかった。逃げなかった。彼女は強くて、大人なのだ。
それに比べて私は、ガキだった。馬鹿みたいに、正直な気持ちだけが口から出る。疲れていたのだ。言い訳にもならないけれど。
「……ねぇルカトゥ、つらいに決まってるでしょ……? 私は、人間だって、興味はあるのに痛いばっかりだったら、そりゃ、そりゃつらいよ。痛い痛いって言われた相手の顔、キミは見たことあるの……?」
言葉を吐くたび顔が熱くなっていた。
息を飲む音がわずかに聞こえた気がする。
「…………ごめんなさい」
彼女の消え入りそうな声を聞いて初めて、私は、自分が取り返しのつかないことを言ってしまったことを知った。もっと言い方ってものがあったんじゃないかと、そこでようやく思い至る。でもそれは遅すぎた。
元々は自分のものだった体から、あんな消え入りそうな声が出るものだとは。……自分本来の声なのに、それはひどく遠い存在に思えた。
それきり、部屋は静かになる。ずっと長く、何か冷たいものが染み渡るみたいに……。
あの日、なんでもない風にその場で解散を切り出して、ルカトゥは自分の家に帰っていった。お互い一人暮らしで同居人への説明等の面倒はないから、体が入れ替わっていても別に問題はないと判断してのことだった。……泊まっていけばいいと言える空気ではなかった。
「安心してください先生。何があっても先生の体はしっかり守りますから。ほらっ」
彼女はバッグから何かを取り出して、ハンドサインをするみたいにそれを軽く揺らす。何かと思えば、それはスタンガンだった。
ハッとさせられた。サキュバスに生まれた彼女にとって、身一つで自衛できない体を持つのは初めてのことだったのだ。
……あれから、とっくに一週間以上の時間が流れた。その間、ルカトゥと会ったのは一度だけだ。記念すべき72時間を目前とした時に私たちは再び顔を合わせ、お互いの体が難なく元に戻ったことを確認した。……そして確認が済み次第すぐに解散した。向こうに用事があったらしい。
私はあの日、ルカトゥに「ごめんなさい」と言わせてしまって以来、彼女に対してずっと気まずさを感じていた。あんな言い方をして悪かった、八つ当たりをしてしまって悪かった……と言えればいいのだけど、しかし私は未だ、彼女と会って話す機会すら見つけられずにいる。文章のやり取りに頼るのも手かもしれないけど、それはなんだか、この気まずさを残したままにしてしまう間違った選択のように思えてならなかった。
とはいえ、ルカトゥに会うきっかけを作る方法自体は明白だ。そしてそれは、私が自立した人間としてやらなければいけないことでもある。……新しい漫画を描いて誌面に載せてもらうこと。いつも通り仕事をすること。それだけでいい。漫画が載ればルカトゥに会って話す糸口は必ず見つかる。必ずだ。
……けれどそれが出来なかった。この一週間、ネームの一コマたりとも描き出せていない。創作のアイデアは依然として、いや、むしろより深刻に、私の中から枯れている。
何をおかしなことを……と自分でも思う。だって単純に考えれば、少なくとも一つは話を書けるはずなのだ。一般女性とサキュバスの体が入れ替わり、お互いの違いに驚愕する……というエロ漫画が、私には描けるはずなのだから。
しかしそれは出来る限り避けたいことだった。なぜって、その漫画は間違いなくルカトゥも読むからだ。私は彼女に言った、精飲と味覚の件については、そんなつもりで描いたわけではなかったのだと。……では今、私がサキュバスとの入れ替わりの漫画を描けば、彼女はそれをどんな風に受け取るだろうか? ……私はいくら考えても、その漫画の主人公に「ずるい」と言わせること以外を発想できなかった。だから描きたくない。
そう考えると、せっかくの超体験も直接的な活かし方は全滅している。じゃあ別なアプローチを試すべきだろう……とは考えたけど、それも上手くいかない。体験をそのまま描くのではなく、そこをきっかけに架空の話を創造すればいい。そのくらいの創作、かつて何度もしてきたはずなのに。サキュバスの魔力的な筋力を初めて見た時だってそうだったはずなのに……。
この一週間、頭の中でひたすらアイデアをこねくり回してきた。けれどそうすることで芳しいアイデアにたどり着くことはなかった。……いやむしろ、それどころか私はその過程で気付いてしまったのだ。自分の創作がすでにどうしようもなく後戻りできないところまで来てしまっていたことに、気付いてしまった。
新しい漫画の候補自体は思いつかないわけでもなかった。初めに思いついた話は、入れ替わりの件とは本当に一切何の関係もない物だ。きっとずっと前からアイデア自体は私の頭の引き出しの中に埋もれていて、それが今になって偶然発掘されたのだろう。「冷房もつけずに汗だくでセックスしていたら倒れる」という当たり前のことを描こう……そう思い立った。それでいったん入れ替わりの件は忘れようと。
考えた話はこうだ。暑い部屋で汗だくセックスをしていると、ヒロインが意識を失ってしまう。主人公はあわてて救急車を呼ぶが、彼はその救急車の中で「倒れる直前の状況」を聞かれてしどろもどろになる。……と思ったら、いつの間にか彼を問い詰めていた救急隊員はそのコスプレをしているヒロインになっていて、「いったい何してたんですかぁ?♡」とおちょくりながら、彼女は彼のズボンを脱がせ始め……。……そこで主人公は目を覚ますのだ、病院のベッドの上で。混乱する彼に、安堵した表情のヒロインは言う。「もう、救急隊の人に状況を説明するの、死ぬほど恥ずかしかったんだから……!」。
タイトルは「真夏の昼の夢」にしよう。……と考えたところまではこのアイデアも十分良い物だった。だけどそこまで考えたところで、私はふと気になってしまったのだ。
サキュバスも、暑い部屋でセックスをしていれば倒れかねないのだろうか? ……確証はないけれど、おそらく答えはノーだ。
私は一度己がサキュバスとなって、性欲を吸い取ることを体験している。いくら義務感と緊張感混じりの粗悪な物とはいえ、性欲はそれでも性欲だ。サキュバスの体は、性欲を吸収することで力を得る。それは感覚的に分かることだった。ほんの少しだったけれど、何やら大きな力が内から湧いてくるような感じがしたのだ。人間より遥かに強い生物が動力源を得ているわけだから、そのくらいの感覚はあって然るべきなのかもしれない。もしもより純粋な性欲を吸い取ることが出来ればなおさらだろう。
……何が言いたいのかというと、サキュバス特有のあの内なる力は、それがもっと大きなものであれば、脱水症状くらいで無に帰せるものではないと感じた……ということ。もちろんそれは単なる私の気のせいだったのかもしれない。けれど直感的には、質の良い性欲さえ確保し続けられれば、サキュバスの体は飲まず食わずでも延々と生きていられるような気がしたのだ。
サキュバスにとっての食事とはセックスだという。逆に言えば、人間のような飲食では彼女らは生命活動を維持できない。サキュバスの体は、そもそも人間のような飲食を必要とはしていないのだ。必要はないけど、彼女らも人間の食事を口にすることはできるし、それをおいしいと感じることもできる。それは三日のうちに私も身をもって体験したことだ。……けれどそれはつまり、サキュバスにとっては「水分補給」でさえも純粋な娯楽の域を出ないということを意味しているのではないか……? 生きていく上で必要な全ては、性欲を吸い取ることで確保できるのがサキュバスなのではないか……?
いつも昼食を差し入れてくれるルカトゥは、いつも私と同じペースでそれを食べ、飲み物まで同じペースで飲んでいた。彼女のそういうところは、知り合ったばかりの頃、適当な喫茶店に一緒に入った時からずっとそうだった。相手の食べるペースに完全に合わせること……。それが容易に出来るのは、サキュバスの体がそういう風にできているからなのではないかと、今さらながらに私は思い至ったのである。
つまり「真夏の昼の夢」のヒロインは、サキュバスであった方がより自然なのではないか? ひとたびそう考えだせば、倒れたのがヒロインではなく主人公だったというオチに対して、その方がより必然的であるように思えてくる。しかもそういう風に書けば、三日間の入れ替わりの件を無難に創作へ活かせることにもなる。だから一時は、それが気の利いた名案であるように感じた。
けれど私はそこで、「狂える舌」のことを思い出した。おかしな味覚を持つヒロインがその証拠として、冒頭からさっそくカレーに大量の生クリームを投下し、最終的には濡場でおいしそうに精液を飲む漫画のことを。
ヒロインをサキュバスにした方が自然なのでは? と言い始めたら、狂える舌だってそうだろう。わざわざ味覚障害の描写を入れなくても、ヒロインがサキュバスであれば、精液を美味そうに飲むことに大した違和感はない。ちょっと気の利くサキュバスならそれくらいのことは余裕でしてのけるだろう。そうすれば話はよりシンプルで簡潔になり、そのついでと言ってはなんだけれど、サキュバスに目を通されても失礼ではない内容にだって出来る。まさに一石二鳥だ。……が、そう考え始めると一つ新たな問題が浮上し始めた。
ヒロインをサキュバスにした方が良さそうな話は、狂える舌一つだけでは収まらなかったのだ。たとえば私は昔、「約十人に一人の死にたい子どもたち」というタイトルの、マゾなヒロインが登場する話を描いたことがある。そのヒロインは「痛いことが気持ちいい」という、少なくともフィクション上ではステレオタイプなマゾで、そのステレオタイプに対して私は「そんなこと言うやつはマトモじゃない」というリアリティを足してみたくなったのだ。
ヒロインは女子高生で、竿役は同じ高校の教師にした。教え子に手を出すクズ教師が、マゾのヒロインに散々ハードなプレイを仕掛けるわけだ。……そこで私はヒロインが脱いで以降の全てのコマに、きちんと目立つように、彼女の手首に付いたこれみよがしなリストカット跡を描きこんだ。……タイトル共々、さすがに怒られるかと思ったものだ。
しかし実際には何事もなく、その漫画は誌面に乗った。読者からの反応らしき物もこれといって観測したことがない。どうも皆してあの作品を「よくある教師と生徒の淫行もの(のメンヘラ+ハードプレイ版)」としか認識していなかったようで、当時それがそこそこショックだったことを覚えている。
……それで、はたしてサキュバスは、痛みを快感に変えることが出来るのだろうか? それは私には分からない。例の撮影時、私を抱いた男はみんな優しかった。私が暴力的なプレイに晒されることはなかった。だから分からない、分からないけれど……。……そもそも普通のセックスが「痛いこと」でしかない私からすれば、多少なりともサキュバスにならそれが出来るのではないかと思えてしまう。性格的にマゾなサキュバスが居ればなおさらに。
痛みを快感にするマゾ女が描きたいだけなら、不謹慎なことをせずともサキュバスを使えばよかったのではないか。今の私はそう思う。……しかしそうすると、ほとんどの話が「サキュバスでいい」ということになりはしないだろうか? もちろん例外はある、「俺より強いやつが会いに来る」なんかがそれだ。あの話のオチは、非力な人間だからこそ成立するものだ。
けれど、けれどそれでも、もし大半の作品が「サキュバスでいい」になってしまうのだとすれば、それは私の作風に対する危機だと思う。リアリティは、ただあればいいという物ではない。エロく、そして面白くなくてはならないのだ。あのテーマもサキュバス、このテーマもサキュバス、全部サキュバスとにかくサキュバス……という具合では、「変化球」としての魅力を失ってしまうのではないか……? 自分の漫画が正統派とは、よもや思えるはずもなしに。
ためしに、もう一つ別の話を考えてみることにした。いや一つと言わず出来るだけ多く、サキュバスではなく人間だからこそ成立する話を思いつけば、別に今回くらいサキュバスを使ってもいいと思えるはずだと、私はどうにか別のアイデアを探ろうとした。
けれどそれはそう簡単に見つけられる物ではなく、出来るだけ多くどころか、もう一つとさえ新しい話を発想することは出来なかった。考えてみればそれはそうだろう。入れ替わりのきっかけだって、私がネタ切れに陥ったことだったのだから。
そして、延々と巡らせた思考は、私に別な発想を与えるに至る。……例外として上げた騎乗位の話だけれども、あれは本当にあのオチが一番面白かったのだろうか? と。
ルカトゥが見せてくれた、ワイヤーに吊られたかのような無茶苦茶な見映えの上下運動に、私も当時衝撃を受けたものだ。現場の男優の人たちに至っては爆笑していた。……なら本当に面白いのはそっちだったんじゃないか? 私が漫画に描くべきだったのは、そっちの方だったんじゃないか? 私はなぜあの時、見たままの物を素直に描こうとしなかったんだ……?
そう疑問に思った瞬間、自分の中で何かが変わってしまったことに気が付いた。何がどう変わったのか、上手く言葉で表すことはできない。しかしもう以前のような創作は出来なくなってしまった気がする。これからの私が描く漫画は、きっといつもサキュバスと共にある。……作風にサキュバスが常駐する分、かわりに今まであった何かは押し出されて、作品の味から消え失せる。
ルカトゥは、新しい私の漫画を気に入ってくれるだろうか? ……私個人としては、すでに自分の漫画を「私の創作」と呼ぶことに抵抗を感じている。そう呼ぶにしてはバリエーションと、それ以外の何かを失ってしまったような気がしてならない。
そう思ったが最後、モチベーションは著しく失われて、私は新作を一コマたりとも描けないまま無為に日々を過ごしてしまった。そしてそれは二週間、三週間と続いた……。
ルカトゥは、彼女は私の漫画を好きだと言ってくれた。私も私の漫画が好きだった。漫画を描く自分が好きだった。……漫画を描けなくなった自分のことは、どうだろう……?
ルカトゥとは、あれからまだ一度も会っていない。会う勇気は減る一方だ。
会わないし、これといった会話もしないけれど、ルカトゥの私のツイッターへ対する反応はいつも通り爆速だった。体感としてはどんなツイートにも五割を超える頻度で、三分以内にいいねが飛んでくる。
私もルカトゥのツイートを見ている。けど、そこにいいねを飛ばす勇気はなかった。かつて普通に仲良くできていた頃の私は、彼女のツイートにいいねを付けたことなんか一度たりともなかったからだ。それに関しては特に深い意味はない。私は元々あまりそれをしないタイプだというだけ。だから今さら、いかにもかまってほしそうにそのボタンを押す勇気もなかった。
ルカトゥのアカウントとは、空色月のアカウントである。当然、そこでは仕事上の告知ツイートも頻繁に上げられていた。私はそこから彼女の新作を、働きぶりを知る。彼女の新作はここひと月だけで二本発表されていた。
一本は、いわゆるイチャラブもの。それはサンプルを見るだけでも彼女の演技力が垣間見えるものだった。キスの仕方が、どうにも恋人同士のそれなのだ。サービス精神ではなく「愛」を感じさせるそれは「口づけ」と呼ぶにふさわしくて、それから言葉も表情も何もかもが……、これは惚気を見せられているのではないか? と視聴者に錯覚させる力を、確かに帯びているのだ。
一方で、もう一本は久しぶりに企画者の正気を疑う内容だった。なにやらジョッキ一杯に溜めた精液を、ルカトゥが全て飲まされるらしい。……私の目から見たその企画の印象的な点は、サンプル動画の時点で、ルカトゥが心底苦しそうに嘔吐いていたことだった。
サンプルの最後十秒くらいの彼女は青ざめて、次の瞬間にも胃の中身をひっくり返しそうな様子を見せていた。しかし私は知っている、彼女の体はジョッキ一杯の精液を飲み込んだからといって、絶対にそうはならない。問題があるとすればゲップが出るか出ないか程度のもので、なんなら「まずい、もう一杯!」なんて冗談を言う余裕すらあるはずだろう。もう一度入れ替わることが出来るなら、私だってそのくらいの余裕をもって飲み切れる自信がある。
なのに、画面の中の彼女は苦しんでいた。そう見えるように振る舞っていた。天才の天才たる所以を、入れ替わったことで初めて正しく理解したように思う。ルカトゥは演技の天才なのだ。決して我慢の天才ではなく。
……私は、その告知ツイートに思わずいいねを押した。二本ともに、友人のツイートに、初めていいねを押した。
私と会う時のルカトゥはなんだかほわほわしたキャラクターで、無闇やたらに友好的で、類稀な何かを持った鬼才なんかにはイマイチ見えないような、わりと普通の友達だった。そりゃ彼女にはいろいろ頼んだし、彼女は人間より遥かに強いけど……。それでも、だ。それが彼女の素なのだ……と思い上がることはしないけれど、それでも画面の中にいる時の彼女と私の知る彼女のギャップは凄まじい。だから、画面の中のそれはまさしく「作品」なのだと感じる。
自分はルカトゥの作品が結構好きなんだな。と、今になって初めて自覚した気がする。興味関心があるというレベルを、いつの間にか超えていたのだ。
彼女から久しぶりのDMが飛んできたのは、そのいいねを押した翌日のことだった。お互いLINEだって交換しているのに、それはわざわざDMで飛んできた。初対面の時とは対照的に短いたったの一行が目に映る。
『先生、大丈夫ですか……?』
思わず笑いが漏れた。「何がだよっ」と。
そりゃしばらく連絡していなかったけど、生存確認はツイッターで十分に取れているし、少しくらい会わなかったからって話さなかったからって、心配されるようなことは何もないはずだ。彼女は私のどうでもいい無難な日常ツイートの全てにいいねを飛ばしているのだから、私の日常が無難でどうでもよく続いていることを当然よく知っていることだろう。
……少なくとも彼女の視点からは、そう映っているはずなのだ。漫画が描けなくなったことを、私は誰にも話していない。贔屓にしてもらっている商業誌から来る催促をはぐらかし続けていることも、私は誰にも話していない。どこにも書き込んでいない。お首にも出していない。傍から見れば今の私は、ゲームにのめり込んで仕事をしなくなったような怠け者と、見分けはつかないはずなのだ。
大丈夫? とは、何に対してなのだろう? まさか全てを見透かしているとでもいうのだろうか。……漫画を描けないことが自分にとってどの程度重いことなのか、まだ私自身にも把握できていないのに。
『大丈夫って?』
『最近、元気ない感じがしたので』
『そんなことないでしょ』
『そうですか……? 元気なら、よかったです』
『あれでしょ、早く漫画を描けっていうんでしょ』
ノータイムで飛び交っていた返信が、そこで一度途絶える。次に返信が来るまでのわずか五分間が、やけに長く感じられた。
『はい、先生の新作がはやく読みたいです』
……ため息が出た。自分の情けなさにため息が出るなんて、めったにないことだ。
『そのうち描くよ』
そんな呑気が許されるほどもう自分は子どもではないことを知りながら、私はその不誠実な返事を送信したのだった。ルカトゥからそこにグッドサインが送られて、やり取りは終わる。
……以後、どの雑誌にも私の漫画が載ることはなかった。
載る載らない以前に、一作たりとも描くことが出来なかった。とりあえず汗だくセックスの話でも描いておいて間を持たせればよかったのに、どうしてもペンを握る気分になれず、一コマも形には出来なかった。友人の出演するAVを見ることは出来るのに、仕事をすることは出来なかったわけだ。ついでに、なんだか様々なことが億劫になってしまって、気付けば日に一度しか食事を摂らないことが普通になっていた。風呂と洗濯はサボっていないから、人としては別にかまわないはずだけれど……。
そうして、最後に漫画を描いたのが何日前のことだったのか、いよいよ本格的に忘れかけてきていた頃。……孤独に静まり返った夜更けの時刻に、家のインターホンが突然鳴った。
……さすがに死ぬほど警戒する。お化けよりも怖いものは人間だ。あぁ確かにスタンガンは必要なのかもしれないな……なんて気を紛らわせることを考えながら、私は一人、足音を殺して玄関へと向かう……。
おそるおそるドアの覗き穴を見る。すると外に立っていたのは、お化けでもなければ人間でもなかった。それでも訝しいことには変わりないはずなのに、私は心底安堵して鍵を開ける。
「……どこから逃げてきたの?」
「え……?」
こんな時間にアポ無しで来た人ならざる魔族、サキュバスのルカトゥは、自分から来たくせにキョトンとした顔をしていた。
とにかく入りなよと手招きする。当然そのために来たのだから、彼女はそそくさと靴を脱ぎ始めた。
「匿ってほしいとかじゃないの?」
「えぇ〜、ちがいますよぉ。そんな物騒なぁ」
「そうだね、よかった。サキュバスが逃げ出すような相手じゃ、私もやばいし」
「そんなんじゃないですってぇ」
「……じゃあ何しに来たの?」
「理由がなきゃ来ちゃいけませんかぁ……?」
「時間帯によるでしょ……」
性に生きるサキュバスはもしかすると夜行性なのかもしれないし、私も人間の中では夜行性に近い部類だから、別に困るというわけではないけれど……。でもせめてアポは欲しい。怖いから。
とりあえず手持ち無沙汰感に身を任せて、あるいはルーティーンとして、二つのグラスに飲み物を注いでいく。今日も今日とて午後ティーだ。ルカトゥが、ノンアルコールの中だと紅茶が一番好きなのだという。そんな彼女はミルクかレモンかストレートかは問わない。私はミルクティーが好きだから、いつもそれが冷蔵庫にある。
「で、マジで何しに来たの? パジャマパーティー?」
「う〜ん……。強いて言うならぁ、お喋りですかねぇ」
「こんな時間に?」
「ごめんなさい、迷惑でしたかぁ……」
「いや……」
また謝らせてしまった。決して、そうしたいわけではないのに。
飲みなれたミルクティーが、突然硬水のような飲み口になった。
「先生ぇ、わたし、先生のことが心配です……」
私が飲んだ量と同じだけグラスの中身を減らしながら、ルカトゥはこちらの瞳を覗き込むように、遠慮がちに私のことを見た。
「しばらく会ってなかったもんね。……なんか、きっかけがなかったっていうかさ。逆にいつもどんな風に遊ぶ約束してたんだっけ?」
「……先生ぇ、ちゃんとご飯食べてますかぁ」
「え?」
「ちょっと痩せましたよねぇ」
「そう……?」
毎朝鏡を見る分にはわからなかった。体重計には、もしかすると年単位で乗っていないかもしれない。あれは喜ばしい数値を指してくれないから。
「痩せるに越したことはないでしょ」
「ちゃんと食べてますかぁ」
「食べてる食べてる」
「一日三食……?」
「……………………いっしょく」
己の意思に関わらず、勝手に目線が逸れてしまう。すると視界の隅で、ルカトゥがすくっと立ち上がった。
「もう〜、わたしが作り置きしますからぁ、ちゃんと食べてくださいよぉ。なんでもいいですよねぇ……?」
言いながら彼女は冷蔵庫へ向かって一直線。何の遠慮もなくその両開きの扉を開けた。……そして背中越しにも、その絶句を伴う感情が伝わってきた。漏れ出る冷気に驚いているわけではないと分かる。
「先生ぇ……。サキュバスの家の冷蔵庫と、どっこいどっこいですよぉ……」
「あ、サキュバスも冷蔵庫は持つんだ」
「言ってる場合ですかぁ」
そう、今その中にある物だけでは、カレーライスも作れやしない。食べること自体が億劫なら、料理はなおさら、買い出しはもっとだったのだ。そして現代社会は、そんな人間をも優しく生かしておいてくれる。
「ウーバーイーツって知ってる?」
「知ってますけどぉ、だめですよぉちゃんとしてくださぁい」
「キミは私のお母さんをやりに来たの……?」
「してほしいんですかぁ……?」
「……さぁね」
ウンと頷けば、本当にそういう振る舞いをしてくれそうな気がして、はぐらかすしかなかった。子どもをすることにも、それなりの覚悟は必要だろうから。
「先生ぇ、一緒に買い出しに行きましょう? コンビニなら開いてますよぉ」
「いや、だからウーバーイーツが」
「すぐ手の届くところにご飯があったら、朝昼晩ってちゃんと食べたくなるはずですってぇ。ね? 買いに行きましょう……?」
「……別にいいけどさ」
誘われるがまま、適当に上着を羽織って外へ出る。マンション三階の廊下からは、まるで自分には関わりのない場所であるかのようにアスファルトの道路と駐車場が見下ろせる。コンビニは遥か遠い地のように感じられた。
行きましょう〜、とルカトゥが先陣を切る。エレベーターの下りボタンも彼女が押す。どうか誰も乗っていない箱が上がってきますように……と毎度願わなければならないのが、戸建てに住めないコミュ障のつらいところだ。
幸いにも貸切のエレベーターの中、たった三階を下る短い間にすっぽりとはまるような小話もなく、無言の空間が地表に降りていく。……ルカトゥの雰囲気が、いつもと何か少しだけ違う気がした。
あぁ、なんだか今日の彼女は、いつもみたいに嬉しそうじゃないんだな。……と、降りる頃に違和感の正体に気がつく。
「先生ぇ、最近ちゃんと寝れてますか〜……?」
街灯に照らされた道中、「良い天気ですね」とでも言う風にそんなことを聞かれる。
「寝れてたら、買い出しには出なかっただろうね」
「……心配なんですよぉ」
「なんでさ」
「先生、最近は元気ないでしょう……?」
「だからなんでさ。そんなことないって。……もしかして全然話せてなかったから、すねてるの?」
心なしか俯いた彼女の表情が何を表しているのか、私には分からなかった。街灯の光は、きちんと彼女のことを照らし出しているのに。
と、羽虫が急に顔の前に飛びこんできた。
「うわっ!?」
私は虫が苦手だ。だから思わず大声は出るわ転びそうになるわ、散々な不格好を晒すはめになった。
ルカトゥが、それを少し笑っていた。
「先生、虫苦手なんですか?」
「苦手だよっ。サキュバスは違うの?」
「サキュバスは関係ないですよ。わたしが平気なだけです」
「裸のまま虫風呂に入れられてたことあったもんね」
「えっ、先生あれ見たんですか。虫苦手なのに?」
「だから見たんだよ、いろんな人の正気を疑って」
上を見てみると、街灯の明かりに大小様々な羽虫が引き寄せられていた。気持ち悪いことこの上ない群れだけど、ふとそれのことを不思議に思う。
「ああいう虫って、なんで光に集まるんだろうね」
「月と勘違いしてるらしいですよ」
「え?」
回答を期待して口に出したわけではなかったから、よく聞いていなかった。
「月……?」
「月です」
「どういうこと……?」
「羽虫は元々、月の光を基準に方角を測っていたらしいんです。でも人間があとからもっと強い光を作っちゃうから、その機能がバグって、ああなってる……という説を聞いたことがありますね」
「……博識さんなの?」
「いや知りませんよ? 前にググッただけなので」
ググッて出てきた情報が間違っていたなら、もはや我々一般人にはどうしようもない。けど別にそれでいいと思った。ただでさえ虫は苦手で、大した興味などないのだから。
そんな話をしている間にコンビニに着く。スーパーに比べれば食材の類は申し訳程度にしか置いていないのだから、パンかインスタント系か冷凍食品か、そのあたりの物を買うことになるだろう。作り置きには一歩とどかない、買い置きだ。
……雑誌の置かれている棚が目に入った。漫画雑誌の表紙にグラビアアイドルが載っている。エロ本はどこにも置かれていなかった。それはコンビニから排斥されてしまったのだ。……そのことに感じる一抹の寂しさを「職業柄」と表現することは、今の私に許されるのだろうか……?
「ねぇルカトゥ」
「はい?」
「お酒買っちゃおうか」
めぼしい菓子パンを片っ端からカゴに入れながら、私はすでに久しぶりの飲酒を心の中で決定事項にしていた。なんとなく今の自分を呼んでいる気がしたのだ。ガラス扉のデカい冷蔵庫の中から、酒たちが私を呼んでいる。雑誌コーナーよりこっちだよ……と。
「あ、いいですねぇ」
今日のルカトゥならもしかすると「健康に悪い!」なんて言い出すかもと思ったけれど、そんなことはないようだった。おつまみがいりますよねぇ、と彼女はポテトチップスの棚を物色し始める。乾き物ではないんだなぁ、と思いながら、私は一人酒類コーナーの扉を開いた。
逃げる冷気に気を遣ってせかせかと、適当にピンときたチューハイを三本ほどカゴに入れていく。三本もあれば大体なんとかなるものだ。……それでルカトゥはまだつまみを吟味しているのだろうか? と、いつまでも後を追ってこない友人のことを頭の片隅にとどめながら、冷蔵庫のドアを一度閉める。
ポテチコーナーを見に行くと、もうそこにルカトゥの姿はなかった。かわりに彼女は冷蔵ではない方の酒類コーナーで、ウイスキーの瓶の首を今まさに握りしめているところだった。
「そういえばそうだっけ」
「えへへ」
いつか彼女と飲みに行った時、私だけがベロベロになったことを思い出した。たしか私がその類のことを思ったのはあの時が初めてだったのだ。「あぁ自分が男ならこいつをホテルに連れ込んだのだろうな」と、その類のことを思ったのは。
混みもしないレジを円滑に回す雑な割り勘で会計を済ませ、一つずつビニール袋を持って店を出る。酒とつまみの菓子類と、パンとカップ麺と冷凍食品と、あとついでにレジでからあげ棒を一本買った。しばらく一日一食で過ごしていたから、この出費でトントンだということにしよう。
幸いにもまた貸切のエレベーターに乗って自室に戻る。部屋の電気をつけると、テーブルの上に飲みかけのミルクティー入りのグラスが出しっぱなしだった。
お互いそれを一気飲みして水でさっと洗う。そしてテーブルの上に戦利品を広げ、各々の酒を開封した。ルカトゥは適当な数の氷を冷凍庫からわしづかみにしてきてグラスの中に放り込む。初手ウイスキーロック……。せっかくなら体が入れ替わっているうちに、それが出来る感覚も体験しておけばよかった。
「かんぱ〜い!」
「かんぱーい」
とりあえず冷める物から先にと思ってからあげ棒を一つついばむ。まだ食べづらい段階ではない串をルカトゥに向けると、彼女は緩慢な動きで、しかしばくっと食いついてきた。
「アマプラでも見る?」
「あ、いいですねぇ」
「何がいい?」
「先生の好きなものでぇ」
「……じゃあガンダムかな」
「あ、わたし見たことないんですよねぇ。あれですよねぇ、カボチャの〜……」
「合ってるけど……。……いや本当に合ってる?」
間もなくしてテレビ画面には、カボチャ頭を被ったテロリストが映り始める。彼はべつに主題歌に合わせて踊ったりはしない。
「…………」
「…………」
……しばらくの間、二人して無言で映画を見ていた。黙々とつまみを食べ進め、酒を飲んだくれていく。二本目の半分あたりで、私は自分に酔いが回ってきたことを自覚し始め。一方で、瓶を一本空けようとしているルカトゥは顔の色すら変わっていない。
映画の中では今、戦闘によって花火のような火の粉が散っている。
……私はこの映画をすでに一度見ていた。
「……ルカトゥはさ」
「はい」
「私が漫画を描けなくなったら、どう思う……?」
しばらく降りた沈黙が、初見の彼女が映画に夢中になっていたせいだったのかどうか、私には分からない。……ルカトゥが今何を考えているのかも、私には全く分からないのだ。
ポツリと、映画の台詞に負けそうなくらい小さな声が、やけにはっきりと耳に入ってきた。
「先生の漫画が読めなくなったら、わたしはすごく悲しいです。……あんまり考えたくないですよ」
「……そっかぁ」
「……どうしてそんな顔をするんですか……?」
自分がどんな顔をしているのかなんて分からなかった。私の心情はそんなにも顔に出やすいものなんだろうか……? いっそ、会わなくても伝わってしまうくらいに。
「先生、どうしちゃったんですか、本当に」
「分かんないよ」
「分かんないけど、つらいんですか……?」
「つらい……?」
漫画が描けないから、私はつらいのか? ちがう。自分はそんな、一つのことに命をかけられるような殊勝な人間ではなかったはず。漫画も描かずにだらだらと好きなことだけをして、気持ちとしては、それで生きていられるような人間だったはず……。
そして、だからこそ楽に生きられる自分だったはずなのに。言われてみれば確かに、ここ最近の私はなんというか…………変だ。
……ふと魔が差すように、考えることをやめたくなった。
「あのね、ルカトゥ」
「はい」
「あの時、あんな言い方するつもりじゃなかったの。キミに恨みなんてないんだから」
「あの時?」
「入れ替わって、撮影から帰ってきた時」
「あぁ……」
「八つ当たりしてごめん」
酒を飲んで、映画を垂れ流して、そのどさくさに紛れて……。私はそんな有り様だった。……これが、黙りこくってしまいたくなる気持ちなのかと、あの日ルカトゥが正直に話してくれた時のことを思い出す。今日とこれから先ずっとを、黙って何事もなかったかのように振る舞ってしまえば、彼女はそれを真実「何もなかった」ということにしてくれそうだったから。
ルカトゥが突然訪ねて来てでもしてくれていなければ、私は未だに、どさくさに紛れることすら出来ていなかったのだろう。そのことを彼女はどう思うのか……。ずるい……と、やはり思われてしまうのか。
返事を聞くまでの時間が、一秒ごとの間が、おそろしく長く引き伸ばされて感じた。
「先生ぇ、そんなこと気にしてたんですかぁ……?」
元々優しげなタレ目をやわらかく細めて、ルカトゥは私に笑顔を見せる。……誘惑の笑顔だと思った。「なかったことにする」の誘惑から二段構えの、「許してもらう」の誘惑だ。
続く彼女の言葉は案の定、全然気にしてませんよぉ、だった。……そんなわけはないのに。気まずさは、一人で作れるものではないのだから。
「それに、それを言うならわたしこそ、先生に謝らないとです……。あの時のことは、失言でした」
「そんなことないよ。……そんなことないけど、でも」
「はい」
「……それでお互い様ってことにしてもらえるなら、私は助かるかな……」
「あ〜、先生ぇ。えへへぇ、そうですねぇ。そうしましょう。お互い様ですよぉ」
ルカトゥが空いたグラスに琥珀色を注いで、ほとんど氷もないそれを今日一番美味しそうに飲み干した。私も最後の一本を開けることにする。
やがてその三本目の缶が空になる頃……。映画のクライマックスを待つこともできずに、私のまぶたは徐々に重たくなっていった。そしてルカトゥはそれをよく見ていた。
「先生ぇ、眠いですかぁ……? もう寝ましょう〜……?」
「うん……寝る……」
「明日また、作り置きできる物を作りに来ますからねぇ。コンビニ飯ばっかりじゃダメですよぉ?」
「うん……ありがとう……。……えっ!?」
まったく予期せぬ浮遊感を受けて、閉じかけていたまぶたが見開く。あっという間に、私はルカトゥにお姫様抱っこをされていたのだ。なるほどサキュバスの力にはそういう使い方も……。
そのままベッドまで運ばれる。横たえた私に布団をかけて、ルカトゥは自分のバッグを肩にかけた。
「じゃあ先生ぇ、また明日ぁ」
「えっ、待って」
あわてて彼女の手首を掴む。時計の針はすでに三時に近づきつつあった。
「泊まっていきなよ、こんな時間なら」
「えっ」
その時の彼女の表情を見て私はようやく、あぁよかった、仲直り出来たんだ……という実感を得る。いつもの過剰な好意が、戻ってきていた。
「え、お、お泊まりぃ〜? いいんですかぁ……?」
「まぁ、言ってももう寝るだけだけど……」
「泊まります泊まりますぅ……! あ、えっと、じゃあお風呂入ってきますねぇ……!」
「着替えあるの……?」
「あっ」
「……下着くらいなら貸せるけど」
「えぇっ!? い、いいんですかぁ……!? 先生〜どうしたんですかぁ」
「べつに……? 今までダメとも言ってなかったでしょ」
「そ、そうですけどぉ。……そっかぁ、それもそうでしたねぇ……」
何やらぶつぶつ呟きながら、ルカトゥは浴室に消えていった。私が今日風呂に入ったのは何時間も前のことで湯船は冷めているだろうけど、まぁシャワーを浴びるくらいなら支障もないはずだ。
遠くから聞こえてくる、タイルに水の落ちる音……。それを子守唄にして、私の意識は改めて眠りの世界へといざなわれていく。テレビはルカトゥがいつの間にか消していた。……あぁ、でもそうだ、この家には敷布団なんてどこにも置いてない。その上ソファも置いてない。泊まれと言ったからには、私がこのベッドを明け渡さなければ……。
そう考えたけど、いかんせん眠気も限界に近かった。掛け布団をマントのように身にまとったままベッドを抜け出し、床にうつ伏せになったところで、そこが今日の自分の安住の地であるような気がしてきてしまった。
眠い……。でも、ルカトゥは二枚目の掛け布団がどこにあるのかも知らない……教えなければ……。
「うわぁっ、先生ぇ〜、なんて寝相してるんですかぁっ」
掛け布団はいつの間にかマントではなく、私のことをすっぽりと覆い隠す袋のようになっていた。そこから這い出ると、部屋の照明がやけに眩しく感じる。
……見上げると、素っ裸のルカトゥが私を見下ろしていた。眩しい照明はしかし、彼女のどこをも不自然に白く照らし隠したりはしなかったけれど、それでも不思議とこれといった感情が湧いてこない。同性だからというよりは、見慣れすぎたのだと思う。私は画面の中どころか、一時は自分の体としてその裸を見ていたのだから。
「ルカトゥ……パンツくらいは……」
「先生ぇ、ちゃんとベッドで寝てくださいよぉ。あと、下着の場所が分かりません〜」
「あぁ、そうか……」
鉛のように重く感じる上半身を気合いで起こして、下着の在処を指さす。我ながらダイイングメッセージか何かのようだった。
彼女は指さされた先の物を正しく見つけ、またそれを身につけられただろうか? もはや私にそれを確かめる体力はなかったけれど、ほどなくして部屋の電気が消える。この部屋にも正式に夜が来たのだ。
暗さは睡魔にバフをかける。再びの浮遊感が生じても、私はついにそれを夢と区別することが出来なくなっていた。けれどまだ意識を手放しきってはいない。気配を感じるのだ。
「ちがう……ルカトゥ……」
「は〜い……?」
「ベッドで寝るの……」
「えぇ、そうしましょうねぇ」
「ちがう……ベッド……ルカトゥが……」
「わたしですかぁ……? じゃあ先生は〜……?」
「転がしといて……」
「いやですよぉ」
ベッドに運ばれてみると、床との寝心地は雲泥の差であることを知った。あぁダメだ……もう本当に寝る……と思ったところで、ギシギシと軋む音がして、何かが隣に転がってきたような感じがする。
「……これじゃダメですかぁ」
耳のすぐ近くで、ささやくようなルカトゥの声が聞こえた。息遣いまで聞こえてくるほど、彼女は私の近くにいる。
「いいよー……」
「……夢みたいですねぇ」
彼女がそう呟いた頃には、私は本物の夢の中にいた。
が行のどこに属するのかもはっきりとしない声が、肺のあたりから吐き出される。床に背中を強打して目が覚めた。
「こ、こいつ……」
立ち上がってベッドの上のルカトゥを見ると、彼女はその壮絶な寝相により、何らかの格ゲーキャラのジャンプ強キックみたいな格好になっていた。私はそれに押し出されたわけだ……。友達の寝相の悪さなんて初めて知った。
カーテンの外はすでに明るくなっている。スマホで時刻を確認するとすっかり十時を過ぎていた。ついでに今日は平日だ。サラリーマンなら現実逃避が必要になる。
「ルカトゥ、朝だよ。おーい」
「んん……。先生ぇ……? それキュウリですよぉ……」
「どんな夢……? ちょっと! 朝だよっ、ルカトゥさん!」
「んあ……。……あぁ、先生ぇ、おはようございますぅ……」
「……えっ」
のそのそと起き上がった彼女の姿を見てハッとする。掛け布団を取り払ったルカトゥは、上半身には自分の下着を、下半身には私の下着を身につけるというキメラ装備の状態になっていた。しかしそれは必然なのだ。昨日の寝ぼけた私は忘れていたけど、この家に彼女の胸のサイズに合う下着は存在しないのである。
呆然としつつ、自分以外の誰にも聞こえない舌打ちが意思とは関係なく口内に鳴った。
「ルカトゥ、今日の予定は?」
「特には〜……。……あ、買い出しに行ってぇ、先生ぇのご飯を作りますよぉ」
「それはありがとう。……パン食べる?」
ルカトゥは寝ぼけ眼をこすりながらコクンと頷く。テーブルの上には飲み散らかしたチューハイの缶とポテチの空袋たち、それからわずかに中身の残ったウイスキーの瓶やその他が散乱していた。
私が諸々を片付けてからルカトゥの方を振り返ると、彼女はなんとウイスキーの瓶を自分の口に向かって逆さまに傾けていた。
「はぁっ!? まじ!?」
「えぇ、だってちょっとだけでしたよぉ」
そういう問題なのか? と思う。下着姿で朝から酒をラッパ飲みする美女は、絵面のインパクトが凄まじすぎた。……いやそういう問題でもないのか?
ともかく、どうやら後ろ髪を引く眠気は振り切ったようで、ルカトゥは二日酔いになるどころかすっきりとした目をしていらっしゃった。サキュバスの体とそれとは関係あるのだろうか……? 勘だけど、たぶんない気がする。
新しいグラスを出してきてまたミルクティーを注ぐ。私もルカトゥもメロンパンを食べた。ルカトゥの場合はもちろん、ちゃんと服を着てからだ。
「気になってたんだけどさ」
メロンパンの落ちた欠片をつまんで口に運んでいたルカトゥが、上目遣いでこっちを向く。なんですかぁ、と声に出さなくても聞こえてくるようだった。
「ルカトゥってどんな魔法が使えるの?」
「えぇ、なんですか急にぃ」
「なんとなく気になって。言いたくないならいいんだけど」
「……言ったら嫌われますもん」
「え、なんで」
「秘密ですよぉ」
「じゃあヒントは?」
「むぅ……。難しいこと言いますねぇ……」
もぐもぐと口を動かしながら、ルカトゥは何やら思考を巡らせているようだった。より良い問題作成を模索するクイズ出題者みたいだ。
一方で私もその間に考えてみれば、「言ったら嫌われる魔法」という時点で結構なヒントが出ているようにも思えてきた。「見せる」ではなく「言う」だけで嫌われる魔法とは、相当な内容なのだと思われる。……いったいなんだろうそれは?
「……地味な魔法、ですかねぇ」
「えー、人間から見たら魔法はみんな派手だよ」
「見えないんですよぉ、わたしの魔法は〜。あるのか無いのかも分からないようなぁ、そんな魔法ですよぉ」
「へー……」
当てずっぽうで言ってみる。
「情報系とか? 条件を満たした相手の個人情報を知れる! みたいな」
ゴトン、と重いものが落っこちる音がした。ルカトゥがグラスを倒した音だった。ミルクティーの波がテーブルの上を広がっていく。
「ご、ごめんなさいっ」
「え、もしかして正解?」
こぼれた液体をティッシュの山で吸い取って始末する。ルカトゥは珍しくあわあわしていた。やがて彼女は濡れたグラスの方を拭き始める。
「す、すみません〜……」
「いや全然いいけど、正解? 今の?」
「…………」
「……ごめん、秘密だったね」
ついさっき言った「言いたくないならいい」を、馬鹿な私はすでに忘れかけていた。これ以上この話を掘り下げてはいけないと直感する。せっかく仲直りが出来たのに、余計な地雷を踏みたくはないから。
「はい、秘密です」
「分かったよ。気になるけど我慢する、大人だから」
「助かりますぅ」
とはいえ、気にならないわけではなかった。仮にそれが私の全ての個人情報を網羅できる魔法だったとして、ルカトゥなら「悪用するわけないじゃないですかぁ」とか言いそうなものなのに……。
秘密を持ったルカトゥは、いつもより少し早いペースで朝食を平らげた。彼女にとっての本当の食事は、またどこかで密かに摂るのだろうけど。
「じゃあ先生ぇ、食材を買いに行きましょうか〜。せっかく冷蔵庫があるんですからぁ」
「ん」
「何か食べたい物とかありますか〜……? 保存できる物に限りますけどぉ」
「私が自力で調理できる物でもいいでしょ」
「それはぁ……、まぁ、そうですねぇ」
ルカトゥは、でもそれだとロクなバリエーションがないじゃん、という言葉を飲み込むのが上手だった。ただし飲み込んだことを隠すのは下手だ。
深夜のコンビニに行くこととは話が別だから、私も着替えることにする。クローゼットを開けると、背後から水の音が聞こえてきた。振り向くとルカトゥがグラスを洗ってくれている。それが終わると彼女は自力で瓶と缶の捨て場を発見し、雑に退けてあっただけの残骸を洗って(缶は潰して)捨て、次はベッドの上の乱れた布団を直し……。
「ルカトゥさん」
「は〜い?」
「そんなに頑張ってもらっても、新しい漫画は出てこないですよ」
「ふふっ」
そんなんじゃないですよぉ、と彼女はおかしそうに笑った。
着替え終えた私は洗面台に向かい、そこで今さら「あ、予備の歯ブラシなんてなかったんだっけ……」と気がつく。だからその報告は、シャカシャカと口の中を歯磨き粉で泡立てながらすることになった。
「ルカトゥ〜、歯ブラシがないや」
「……え? あるじゃないですかぁ」
「いやキミのがってこと」
「え〜、もう〜。昨日コンビニ行ったじゃないですかぁ」
「考えてなかった」
「……それはまぁ、わたしもですけどぉ」
たしかに昨日の彼女は、私を寝かしつけたら自分は帰るつもりだったらしい。私はつくづく何も考えずにそれを引き止めたものだ。
……でも、なんだかそれが必要な気がしたのだ。準備が出来ていなくても、そうするべき気がした。きっかけは重要なものだから。それも思っている以上に。
「じゃあ先生ぇ、わたし一旦帰りますねぇ。着替えて歯磨きしてぇ、買い出しはそれから出直しますよぉ」
「ん、分かった」
「は〜い。じゃあまたぁ、お昼頃に会いましょう〜」
家の中を片付けるだけ片付けて、ルカトゥはあっさり帰っていった。
……なんだか、途端に静かになったような感じがする。今までずっと一人で暮らしていたのに、ルカトゥが遊びに来ることはしょっちゅうだったのに、今日はなぜか「一人だ」ということをいつもより強く実感してしまう。そこで気付いたけれど、彼女は家を片付けると共に、自分がいた痕跡を消して帰ったのだ。……寂しさを覚える。
でもその寂しさは、孤独は、悪い意味ばかりとも限らない。両親が出かけたあとの家で一人、初めて漫画を描いた学生時代みたいに、私は久しぶりにタブレットのペンを握った。キュウリではない。
ツイッターに投稿した漫画がちょっとだけバズった。それは私が初めて世に出した全年齢向け作品だった。
あの日、私はルカトゥの買い出しに付き合わなかった。漫画のアイデアが思いついたから描かせてほしいと伝えると、彼女は嬉しそうにこう言ったのだ。
「えぇ〜、荷物持ってくれないんですかぁ?」
「ちょっとお腹に力入れるだけで余裕でしょ」
「えへへぇ、余計なこと教えちゃいましたかねぇ」
そして彼女は機嫌よく玄関を出て行って、パンパンに詰まった買い物袋を両手に鼻歌交じりで帰ってきたのだ。
続いて、私は彼女の料理も手伝わなかった。台所から聞こえてくる物音で「やってるなぁ」と思い、いい匂いがしてきたあたりで「完成かなぁ」などと思いつつも、少しも手伝いはせずに漫画だけ描いていた。ルカトゥはその間私に何も言わなかった。強いて言えば、やはり鼻歌は歌っていたけれど。
冷蔵庫を開ける音と共に、「先生は〜、同じものを何度も食べるの平気でしたっけぇ」と聞こえてくる。せめて二日に一回ペースじゃないと嫌だと答えると、えぇ〜と困ったような声が返ってきた。そしてまた料理の音が聞こえてくる。さっきとは少し違う内容の音だった。
それで、たしか昼を大きくすぎた頃のことだったと思う。何でもないことかのようにルカトゥは言った。
「先生ぇ、私もご飯食べてきますねぇ」
「うん。いってらっしゃい」
「は〜い。鍵、ちゃんと閉めてくださいねぇ」
見たわけではないけれど、たぶんルカトゥは片手にスマホでも持っていたんじゃないだろうか。サキュバスの食事に連絡は必須だから。デートの待ち合わせがそうであるように。
私はしっかり玄関の鍵を閉めてから、再び執筆作業に戻った。……そしてインターホンが鳴ったことをきっかけに時計を見ると、針はすっかり夕方の域にを入っていたのだ。カーテンの外はどうやら夕日に赤い。
訪ねてきた人物は決まっていた。
「先生ぇ、ちゃんとご飯食べましたかぁ」
「いや、まだ」
「もう〜。そんなことだと思いましたよぉ」
だからルカトゥはここへ帰ってきたのだろうか? ……そうだったらいいなと思う。
冷蔵庫を開けると、実家から持ってきたはいいものの出番に乏しかった皿たちが活躍していた。一番取りやすかった位置にある物を手に取ってみると、魚の南蛮漬けが入っていた。
「あ、せっかくだし別な物作りますよぉ。わたし明日は仕事なので〜、それは先生の貴重な食料ですぅ」
「了解です料理長。……手伝えることがあれば手伝うけど」
「え、いいんですかぁ……?」
あからさまに嬉しそうに笑った口元を見て、そういう才能なんだろうなと感じる。演技なら尊敬に値するけれど、そうでないなら、もっと良い。
ハンバーグのタネを右手左手の交互にぺしぺし投げ合ったのは、中学生以来の経験だった。そういえば小学生の頃は餃子だって皮に包むところからやっていたなぁと思い出す。
広くもないテーブルに二人分の夕食を乗せると、パズルゲームを彷彿とさせる雰囲気になった。お互い向かい合って座布団かわりのクッションに座る。こういう時ばかりは、飲み物は麦茶と決まっていた。
「うん、旨い」
「よかったです〜。きっと先生が自分で作ったからですよぉ」
たしか昔の母親も、そんなことを言っていたような気がする。ほとんどの作業は母がやっていたのに、だ。
今日の私は、玉ねぎのみじん切りをおそろしく長い時間をかけてようやく完遂し、タネをぺしぺしして、フライパンの前でルカトゥに「これ焼けてる!? どう!? 焼けてんの!?」と確認しまくっていただけだ。その他の全てはルカトゥがやった。この令和な時代にも、ソースを一から作る女はいるものだ。
そして彼女は私が玉ねぎと格闘している間に、すでに豆腐とわかめの味噌汁まで完成させていた。サラダは冷蔵庫の中にすでにあった。
「自分で、ねぇ……」
「そうですよ〜?」
「私は、ルカトゥが作ったからおいしいんだと思うよ」
「……え、口説いてるんですかぁ」
「そうそう。じゃないと作ってくれなくなっちゃうでしょ」
「えぇ〜そんなことないですよぉ。いいんですかぁ? わたしがここに入り浸っても〜」
「いいよ? 男呼ばなければね」
「呼びませんよぉっ、なんだと思ってるんですかぁ」
そして実際、彼女は今までよりももっと頻繁に私の家へ出入りするようになった。来たら家事をしてくれる。炊事洗濯掃除……こなしてくれる事の種類は次第に増えて、すぐに大体なんでもやってくれるようになった。
ある時さすがに申し訳なくなって、それを手伝おうとしたことがある。けれどあっさり遠慮された。
「大丈夫ですよぉ、先生は漫画を描いてください〜。わたし、楽しみにしてますからぁ」
よほど私の漫画が読みたいらしい。絶対に、そして早く完成させようと思った。彼女を喜ばせるため……ではなく、ただ、彼女にそれを見せるために。
執筆は無計画を極めた。仕事ではなかったからだ。私は、ページ数すら決めずにそれを描いていた。台詞に悩んで手が止まることも多かったけれど、とにかく描いた。プロットと呼べるほどの物は用意していなかったけど、そのかわり脳内には雑なあらすじと、描き切れるという自信が常にあった。
三日に一回は必ず来るくらいのペースになっても、ルカトゥは、一度も作業中の画面を覗きこんでは来なかった。彼女が作業中の私に雑談をもちかけてくることも一度としてなかった。けれど時々こちらから話しかけると、それはもう嬉しそうに返事をしてくれたりする。
やがて、彼女は何度かの来訪に一度泊まっていくようにもなった。じわりじわりと、家にルカトゥの私物が増えていく。ベッドは結局、いつも二人で使った。寝相のことは黙っておいてやることにしている。
……漫画は、何週間目かの深夜に完成した。その場にルカトゥはいなかった。私はそれをツイッターにツリー状にして投稿した。
どこで何をしていたのやら。ツリーのトップにルカトゥからいいねが付くまで、一分とかからなかったように思う。そしてそのいいねは読了を表すかのように、少しずつ時間を空けてツリーの下へ下へと増えていった。
最後のページにいいねが付いてから数十分後。いつの日かのように、またしても夜中にインターホンが鳴った。覗き穴を見ると、外にはやはりルカトゥが見える。……けれども今日は、彼女の様子が少し違った。
私がドアを開けると、その場ですぐ、肩で息をするルカトゥが何度も息継ぎをしながら言った。
「先生ぇっ……先生ぇっ……。わたし……大事なことを……言い忘れてましたぁ……! わたし、先生のこと、大好きですよぉ……! 先生の……漫画よりも……もっとですぅ……!」
「……!」
私は、それを聞いて、いったい感情をどうしてしまったのだろう……?
自分の顔が勝手に、ぐしゃぐしゃになるくらい笑っていた。そこで涙を流せるような、可愛らしい人間ではなかったのだ。
私がツイートとして久しぶりに世に出した漫画、ルカトゥがついさっき読んだ漫画……。そのタイトルは「月光の体験」だ。私が人生で初めて描いた、きちんとしたストーリーを持ちつつも全年齢向けであるその作品のあらすじは、こうだった。
一人暮らしをする漫画家志望の青年は、ある満月の夜、自室の窓を叩く少女に出会った。青年は腰を抜かした。そこはマンションの三階だったのだ。
宙に浮かぶ少女は、月の光と同じ淡い光をその身にまとっていた。青年は彼女の顔を見た瞬間、己の中から不思議と恐れの気持ちを見失う。それは淡い光の不思議な力だったのかもしれないし、それとも彼女が紛れもない美少女で、その美少女の儚げな微笑みが、青年の趣味にドンピシャだったからなのかもしれない。
ともかく、彼は窓を開けた。それが二人の出会いだった。
本人いわく、月光の少女は宇宙人らしい。地球に存在する発音の名前を持たない彼女に、青年はルナと名付けた。ルナは地球の文化に興味があり、適当な観察対象を探していたところ、夜な夜な漫画を描く青年の姿を見つけたのだという。彼女の望みは地球観察の拠点を確保すること……つまり青年の部屋に住まわせてもらうことと、青年に漫画を描いてもらい、それを読むことだった。そしてそのお礼と言ってはなんだけれど、彼女は青年に異星の話をいろいろと聞かせてくれるらしい。
これといって断る理由もなく、青年はルナの望みを叶えてやることにした。というのも、ルナには人類が考えるような「代謝」の概念がなく、まるで人形のような存在だったのだ。喋って動くとはいえ、人形を部屋に置くことに大した不都合はない。そして何より、青年は親切なタイプだった。
昼になると目立たなくなる全身の淡い光と共に、ルナはずっと青年の部屋にいた。青年は初め落ち着かなかった。得体の知れない存在とはいえ、美少女と二つ屋根の下だったからだ。けれど彼はルナに触れることすらできなかった。「何がルナに触れられるのか」は、ルナ自身が決めることだったからだ。その人智をこえた力が青年を諦めの末の紳士にさせた一方で、彼は己の内にある少年の心でもって、ルナのその不思議な力に対して目を輝かせた。
青年の描く漫画とは、異能力バトル物の典型的な少年漫画だったのだ。ルナは彼の描く漫画のことをとても気に入った。青年は初め、自分の漫画は、少女の姿をして少女のような振る舞いを見せるルナのお眼鏡にはかなわないのではないか? と思っていたけれど、実際には「続きは?」「他にもあるの?」とめちゃくちゃに関心を引くことになる。いい気になった青年の執筆ペースは、ルナと出会う以前の五割増となった。五割増といわず倍にしてほしいとルナ本人から頼まれても、それはさすがに無茶だと青年は苦笑いした。
やがて青年の漫画には、ルナから聞いた異星の話の影響が見られるようになっていった。ほどよく少年漫画チックなアレンジの効いたそれをルナはいたく気に入り、新作や続編が公開されるたびにいつにも増して喜んだ。それを受けて青年は、かつて自分が煩悩を持っていたこともいつの間にか忘れるほどに、ひたすらに漫画を描き続けた。
ある日、そんな青年に朗報が入る。賞に投稿した彼の漫画が佳作を受賞したのだ。それは彼にとって初めての快挙だった。舞い上がる青年を見てルナが言う。
「すごい! じゃあキミの漫画は雑誌に載るの!?」
「いや、そういうわけじゃない。優秀賞を取らないと載せてはもらえないんだ」
「そうなんだ」
「次こそはそうなってみせるさ!」
いい気になった青年はそう豪語した。……けれど、彼の漫画が何かの賞に入選したのは、それが最初で最後だった。
どれだけの作品をどれだけの賞に送り付けても、佳作にすらかすりもしない。そんな状況が続くと、青年は次第に摩耗していった。実際、そもそも彼にはそれほど多くの時間が残されていなかったのだ。いつまでもとどかない夢を追いかけていられるほど、彼の両親は無敵の存在ではない。「約束の期限」は迫りつつあった。
そうして追い込まれた彼はある日、部屋に置いてあった単行本を読み漁るルナに八つ当たりをしてしまう。
「面白い漫画が読みたければ他に行けばいいだろ。その漫画の作者、近々新作を書くらしいぜ。ルナならそいつの居場所くらい探し出せるだろ」
「……なにそれ、嫉妬してるの? 安心しなよ。わたし、キミの漫画が一番好きだから」
「そんなこと言って、俺に漫画を描いてほしいからご機嫌取りをしてるんだろ?」
「はぁ……?」
「俺が何も描かなくなったら、すぐにでも鞍替えするくせに。面白い漫画が描けるやつなんて、世の中いくらでもいるんだからな!」
「……わたしのことがうっとうしくなったなら、そう言えばいいのに」
そう言ったきり、ルナは光の粒子になって、青年の部屋から消えてしまった。……途端に広くなった部屋で、彼は様々なことを思い出す。ルナと出会った日のこと、初めて自分の漫画を見せた日のこと。続きを催促されたこと、一緒に遊んだこと、異星の話を聞いたこと、入賞を共に喜んだこと……。
……青年はやがて、何事もなかったかのように執筆作業に戻った。次の漫画のアイデアはまだまだあった。……そのうちの一つ、とっておきに、彼は着手し始める。
彼はペンを握る。コマ枠の線を引く。キャラクターを描く。背景を描く。台詞を書き込む。漫画を描く。漫画を描く……。
やがて日が沈み、部屋の外には月が上った。いつかの日と同じように、窓のカーテンは開いている。……コツコツと、その窓を叩く音がした。地上三階の窓である。
青年は窓を開けた。淡い光と儚げな微笑みの少女は、やはり夜空に立っていた。
「開けてくれてありがとう。……最後にこれだけ言っておこうと思ったんだけどね、わたし、キミの漫画と同じくらい、キミのことが好きだったよ。じゃなかったらキミの言う通り、こんなに長いこと一緒にいなかったと思う」
じゃあね、さよなら、ありがとう……。言って少女が背を向ける。青年は震える声で手を伸ばした。
「待って、ごめん、悪かった! 俺が悪かった! 行かないでくれルナ……!」
ルナの言葉は真実だったのだろう。彼女は、待っていましたという笑顔で振り返ったのだから!
後日、青年は描き上げた漫画をルナに見せた。その漫画のあらすじはこうだ。漫画家志望の男のもとに月の光をまとった美しい少女が現れる。彼女は自らを宇宙人の「ムーン」と名乗り、その男の描く漫画に興味が湧いたから読ませてほしいと言い出した。それをきっかけに二人は一緒に暮らし始める。いつも笑い合って、時々喧嘩もしたけれど、最終的に男は晴れて漫画家デビューを果たし、ムーンとそれをなごやかに祝った。
「これ、お祝いね」
そう言って彼女がキスをした時、彼は自分の作品が誌面に乗った時よりもさらにずっと喜んだのだ。おしまい。
……それを読んだルナは苦笑いをして、「一回だけだよ」と、青年にキスをした。……物語はそれで終わりだ。
……ルカトゥが、おかしくもないのに笑う私を抱きしめた。
「先生ぇ、ごめんなさい、もし先生が漫画を描かなくなっても、わたしは先生のことが大好きです。ずっと、ずっとわたしは言ってなかったんですね……。ごめんなさい……」
「なんでよ、ルカトゥ、謝らないでいいの、キミは何も悪くない。……私の方こそわがままでごめんね」
「うぅ……。先生は全然わがままじゃないですよぅ」
「いや、それは無理がある」
「じゃあ、わがままでも好きですよぅ……!」
より一層つよく抱きしめられる。今度は私も抱きしめ返した。
彼女がなぜそこまで私を好いてくれるのか、私の漫画だけではなく、なぜ私自身を好いてくれるのか、それは謎だ。けれどそこの部分が謎であることと、私が彼女を友達として認識していることは、ほとんど無関係だった。
彼女を家に上げる。私が執筆中にルカトゥが買ってきておいてくれた紅茶のストックはまだまだあった。もう、喉がカラカラだ。
……グラスを握る手が、今になって震えてくる。吐くため息も同じようなものだった。
「いや、でも、よかったぁ……マジで……」
「先生ぇ……?」
「ルカトゥがマジで私の漫画にしか興味ないって感じだったら、私泣いちゃってたかもしれない」
「あぁ……。不安にさせちゃってごめんなさい……」
「謝らないで! 謝らせたいわけじゃないの」
「でもぉ……」
「いいじゃん、おかげで新しい漫画も描けたしさ」
「えへへ〜……。それは、幸せな漫画でしたぁ……♡」
私も貴重な経験が出来たように思う。全年齢向けの話を描いたのは初めてだし、今回は尺も普段よりかなり長く取った物だった。自分はこういう物も描けるんだ……と、ちょっとばかし自信がつかないでもない。
一方で、今後ラブレター代わりに歌を送るような恥ずかしい真似をする輩を見ても笑えなくなったことだけは、今後ずっと引きずる十字架なのかもしれない。自分がこういうことをする人間だとは、いやはやまったく知らなかった……。
……まぁ、何にしてもその漫画を載せたのはツイッターで、多少リツイートされたからといって、一円の稼ぎにもならないのだけど。
「先生ぇ」
「うん?」
「先生は、いつからあの漫画を考えていたんですかぁ……?」
グラスを両手で持ったルカトゥは上目遣いだった。心なしか「ちょっとも教えてくれないなんて」というニュアンスを感じる。
「うーん……。描けるかも、と思ったのは、ここでルカトゥとお酒を飲んだ時かなぁ」
「あぁ……」
「でも元々変だったんだよ、今考えると」
「へん……?」
「漫画のネタを考えてるうちにいつの間にかさ、漫画のことを、ルカトゥに会うためのきっかけとして考えてたりして。今までそんなことなかったのに」
「えっ、え、なんですかぁ、口説いてるんですかぁ……?」
「かもね」
「もう〜先生ぇ……。…………ちゅーしますか……?」
「えっ? いやしないしない! 何のために男主人公にしたと思ってるの!」
「えぇ? あっ、なるほどぉ!」
「二人は幸せなキスをして終了にしたかったからね。女主人公だと、こう、……ごちゃごちゃする」
「なるほどぉ……。面白いこと聞けましたぁ。漫画ってそうやって描くんですねぇ……」
真剣な面持ちでそう呟くルカトゥを見て、私はさっき完成させた漫画の続きの世界を想像した。……ルナはもしかしていつか漫画を描くんじゃないかと。
しかし考えてみれば、むしろそういったことはすでに逆方向で起こっていたのだった。私はルカトゥのAVを見漁り、彼女の体でとはいえ、ついにそれに出てしまったのだから。
それがおかしくてちょっと笑うと、ルカトゥは不思議そうに小首をかしげて私のことを見つめてきた。たったそれだけの仕草からも好意を感じる。
「そういえば、先生とお酒を飲んだのってぇ、すごく久しぶりでしたよねぇ」
「だったね。なんで最近飲んでなかったんだっけ」
「先生が飲みすぎて吐いちゃったからですよぉ」
「え、嘘だぁ。ルカトゥが夜は忙しいからじゃなかった?」
「そんなにでもないですもん〜。今だって夜じゃないですかぁ」
「それもそうか……」
忘れちゃったんですねぇ、それがいいかもしれませんねぇ、とルカトゥがくすくす笑う。私は彼女の痴態を画面の中にはたくさん見てきたけれど、直接見たことは一度もない。しかしそれは向こうの視点からすれば逆だったのか……。
ちびちび飲んでいた一杯のミルクティーを飲み干す。今日こそは私がグラスを洗うことにした。
「今日、泊まっていくでしょ?」
「は〜い、先生がいいならぁ」
「……ルカトゥさ、ちょっと相談があるんだけど」
「なんですかぁ?」
泡だらけの両手と二つのグラス。騒音のせいで聞き返されたくはなくて、水ですすぐことは躊躇った。
冷蔵庫に紅茶を片付けるルカトゥの気配を背中で感じる。顔は見えない。
「私が漫画を描けなくなっても、好きなままでいてくれるんだよね?」
「もちろんですぅ」
「……私が漫画を描けなくなるってことは、働けなくなるってことなんだよね」
「あぁ〜、ですねぇ」
「今日の漫画もツイッターに上げただけだから、一円にもなってない」
「そうですねぇ……。そう考えると、もったいない感じがしちゃいますねぇ」
「……もしもだよ、もしも私が一切新作を描けなくなったりしたら、そりゃあ他の方法で稼げるように、社会に出られるように、頑張ろうとは思うけどさ。……上手くいくか分かんないでしょ、そんなの」
「そうなんですかぁ……? ……まぁ、でも、もしそうなってしまっても大丈夫ですよぉ」
「どうして?」
「わたしが先生のこと、養ってあげますぅ」
「……いいの?」
「いいですよぉ。……ただし、一つ条件を飲んでくれるなら、ですけどぉ」
「条件ってどんな……?」
「先生ぇ、手が止まってますよぉ」
私の真隣に来たルカトゥが水道のレバーを上げる。二つのグラスがすばやくすすがれて行くのを、私は泡まみれの手のままぼんやり見ていた。
ルカトゥの声は、とても近かった。
「わたしと一緒に住んでくれるなら、先生の面倒でもなんでも見てあげますよ……? ……先生がどんな先生になってもです」
「……一緒に住んでたら、もっと漫画のネタにされるかもよ。落書きみたいな、しょうもない日記みたいな漫画にさ」
「願ったり叶ったりじゃないですかぁ」
全てが、本当に心底本気で言っているような雰囲気だった。天才の名演……ではないなら、私は……。
……さっさと両手の泡を洗い流す。濡れた手の水滴は、指先をはじくようにしてルカトゥに向け飛ばした。
彼女は「きゃっ」といいリアクションをした。
「あはは、じゃあしばらくは、もっと自由にしてみようかなっ」
「わっ、もうっ、ふふっ、お好きにどうぞ〜?」
窓のカーテンは締め切られていて夜空は見えない。月の淡い光ではここまではとどかない。当然、外から窓をノックする美少女など存在しない。それらは全てフィクションだった。本物は、目の前にあるのだ。
ルカトゥは、今この部屋の中で幸せそうに笑ってくれている。幻想感の欠片もない白色の照明が彼女を、私たちを、全てを照らし出していた。
私にとっての月光は、ここにある。