結局あっさりとルカトゥに養われる身になったウズラ先生は、約束通り始まった同棲生活の中で、本人の口から秘密と言われていた「ルカトゥの魔法」の正体に、ついに近づいて行くのだった。

※本作は、前作である「月光照明」の続編ですが、たぶんここから読んでも楽しめるはずです。

↓前作のURL↓
https://syosetu.org/novel/293872/

↓次作のURL↓
https://syosetu.org/novel/311728/

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ルカトゥと無数アンテナ(月光照明2)

 たとえば、豚を育てて殺して食べれば、残酷なことをしている自覚も湧くのだというけれど。それはその豚が、見るからに無惨な死を遂げるからなのかもしれない。

 血を流さず、鳴かず、死なない豚を育てて、そのいくらでも蘇る肉を少し剥いでおすそ分けしてもらう分には、我々は、自分たちが今何をしているのかを、ほとんど理解できないのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アニメ映画「あらしのよるに」は、男女の友情と性愛にまつわるメタファーなのでは? という見解が公開当時のネット上に存在していたことを、私は大人になってから初めて知った。当時映画館に行った自分は小学生で、性の知識は多少あれども、そんなことは考えもしなかったのだ。

 しかし、狼によるヤギの捕食と、男による女の性的な捕食を同列に語るのはどうなのだろう? か弱い女が仮に喰われたとして、まさかその場で血を流して死ぬわけでもあるまいに。

「先生ぇ、ウチも家庭菜園してみましょうよ〜」

「えー?」

 テレビの前にぺたんと座り込んだルカトゥからの、突然の家庭菜園の勧め。それは天気のいい朝のことだった。

 分かりやすいことだ。彼女が見ているバラエティ色強めな情報番組では、今まさに家庭菜園のススメ的なコーナーが放送されている。画面は見ずとも作業BGM代わりに私もそれを聞いていた。まさかルカトゥが家庭菜園に興味を持つとは、これっぽっちも予想していなかったけど。

 子どもの頃の記憶がよみがえる。父が家庭菜園を始めたのも、思えばテレビの影響だったはずだ。あの頃の父は家庭菜園を始めたがしかし、真夏の日差し相手の水やりは一日一度では足りず、夜まで仕事のある父に代わって夕方の水やりをするのは私の役目になっていた。

 漫画を描く手を止める。

「面倒だよ? 野菜育てるのって」

「え〜? 楽しそうですよぅ?」

「いや、私やったことあるんだけどさ……。子どもの頃に父親が始めたから、手伝いで的な」

「おぉ〜、そうだったんですねぇ。育てた野菜、食べたりしたんですか〜?」

「食べたよ」

「いいですねぇ」

「なんかね……、農家の人たちのたゆまぬ努力を、間接的に感じるような味がしたよ」

「なるほどぉ……? ……詩的な味だったんですねぇ」

「市販の物の方がおいしかったってことだよ」

 料理に関してもそうだけど、私が「自分で作るとおいしい」という感覚に対して懐疑的なのは、そういうところから始まっているのかもしれない。

「あ〜たしかにぃ。言われてみれば〜素人とプロの違いですもんねぇ。そうなりますよねぇ」

「そうそう。しかも水やりとか、土の用意と片付けとか面倒だし、下手すると虫との邂逅があるし……」

「なるほどぉ、大変なんですねぇ。やめときましょうか〜」

「うん」

 ペンを握り直してモニターに向き直す。早いペースとは言えなくとも、新作漫画は着実に完成へ近づいていた。……その進捗は、生活のほとんど全てをルカトゥに任せきりにした上での物なのだけど。

 ……と、負い目らしき物が再び私の心の中に芽を出した時だった。誰だったのかはもはや分からない……しかし過去の誰かが確かに私へ言ったような、ある言葉がフラッシュバックする。

 

『そうやって、なんでも否定から入る……』

 

 ハッとして振り返る。こちらの動きに反応したルカトゥと目が合った。

 さっきの会話なんて、もう忘れたかのように澄んだ瞳だった。

「ごめんっ。家庭菜園やろうか、ルカトゥ」

「え?」

「やりたいんでしょ……?」

「え、まぁ、そうですねぇ。……いいんですか〜?」

 私が頷くと、ルカトゥの表情はパァッと華やいだ。

「じゃあさっそく見に行ってみましょう〜! ホームセンターとかにありますよねぇ。……先生は〜、進捗の方はどうですか〜……?」

「あ〜、うーん……」

 今の私が、こういった場合で言う「進捗」の良し悪しを答えることは難しい。締切の概念がないからだ。描けている描けていないはあるけれど、スケジュール的にどう……という話は存在しない。

 ……だとすると、私のするべきことは客観的に見ても分かりそうなものだ。ペンを握る手が今まさに好調に動いてるというわけでもないなら、なおさらに。

「そうだなぁ、少し休憩しようかな。散歩がてらついて行くよ」

「やったぁ! じゃあすぐ準備しますね〜!」

 ルカトゥは胸の前で手を合わせて喜んだ。それは油断すると当たり前の物のようにも思えてしまうくらいの、いつも通りきわめて明確な好意だった。

 二十数年を生きてきた私は今さら、物事に否定から入ることが何をもたらすのかを、逆説的に学習したように思う。逃がした魚は大きいなどと言うけれど、過去の誰かが私に苦言を呈してくれていなければ、下手すると私は、彼女の喜びようを逃がしたことにすら気付けていなかったかもしれないのだ……。……心苦しいのは、今までそれを一つも逃がさずに来られたとはとても思えないことだけれど。

 ルカトゥと同棲し始めて、そろそろ一ヶ月が経つ。私は男ではないけれど、現在の自分の肩書きとしてもっともらしい物は何かといえば、それは間違いなくヒモだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何がまずかったのかという話をし始めるとキリがない。

 一番根っこの所までたどって行けば「仕事としての漫画を描かなかったこと」が原因だろうけど、ターニングポイントがどこだったのかといえば「にも関わらず趣味の漫画をウズラ・メルガルス名義で上げたこと」だったのかもしれないし、トドメが何だったのかといえば「その上でなお商業漫画は描ける気がしないと編集さんに言ってしまったこと」のような気もする。

 ルカトゥと無事に仲直りできたあとで数えてみて我ながら頭を抱えたのだけど、「月光の体験」の執筆に私がかけた時間は三ヶ月を超えていた。……いや、ページ数を鑑みればそれはむしろ好タイムだったのだけれど、「仕事をはぐらかし続けた時間」がそれほどになっているとは、当時の私はまったく自覚していなかったのである。

 編集の人たちは死ぬほど温情的だった。こう言ってはなんだけど、よくまぁ「いや〜すいません、もうちょっとなんですよ、もうちょっと……次の号には今度こそ……」と三ヶ月も言い続けたやつの首を繋げておいてくれたものだ。……そこに唾を吐くように、私はプライベートの漫画を作家名義のアカウントで上げてしまったわけだけれども。

 住んでいる場所が近いこともあり、私はあの後いよいよ対面での呼び出しを受けた。「どういうつもりなんですか?」と、婉曲な言い回しを使わずそのまま言われたことで、あぁこれはまずいなぁと改めて自覚したものだ……。

 次の瞬間には怒鳴られるのではないかと思うと、言葉を選ぶための脳みそはフル回転し、情けないことに声は震える。無論すべては自業自得なのだけれど、別に何かの覚悟を決めてやったことではなかったのだ。

 実際には、向こうの人は最後まで優しかった。

「それで卯月さん、新作の構想は出来てるんですか?」

「え……?」

「こちらとしては、また以前までのようなペースとクオリティで漫画を上げてくれるなら、今回のことはまぁ……まぁ……まぁまぁまぁまぁまぁ……と、言えなくもない感じなんですけれども……」

「え……そうなんですか……」

 自分はいつからそんなに偉くなったんだろう、もしかして自分で思ってるより自分の漫画って人気だったのかな! なんて呑気なことを思ったのも束の間、対面のげっそりした顔を見て現実に戻ってくる。人様に迷惑をかけた自覚というのは、視覚で感じるものだった。

 けれどそこから私は、その迷惑をかけた相手にさらなる厚顔無恥なカウンセリングをもちかけることになる。もちかけたというか、勝手に始めたのだけど……。

 思いつく作品がことごとくサキュバスにまみれ、それが自分では納得行かず、結局どうしても描く気にはなれない。そしてその状態がいつ治るのかは、自分にもまったく分からないのだ……という話を、そのまま素直に語った。理由を全く伏せてしまうよりは、その方がせめてもの誠意を表せるかと思ったのだ。

 長い間相槌を打ち続けていてくれた編集さんは、話がひと段落したと見るや否や、殺し屋みたいに抑揚のない声で言った。

「それじゃあ、ツイッターの方に上げた漫画はなんだったんですか?」

「あれは……。あれは、まぐれです。趣味だから描けた物です。実際、エロ漫画にはならなかったじゃないですか。……趣味でなら、ああいう風なこともあるかもしれませんけど……。それだって、定期的に描けるとは約束できませんし……」

「……卯月さんは、今おいくつなんでしたっけ? 言いたくありませんけど、漫画を描くというのは、あなたにとって「仕事」なのでは……? ……不労所得でも手に入れましたか」

 ははっ、と乾いた笑いが付け足される。「そうなんですよね」とはさすがに言えなかった。

「すみません……。でも、もう本当にこれ以上思いつかないんです。載せてもらえるような漫画のネタは、今は一つも思いつかないんです。……いつ思いつくのかも、分かりません」

「なら、分からなくても努力してみる、というのは?」

「それは、今だってしてますよ」

「……なるほど、わかりました」

 編集さんが席を立つ。そうして私は、人に失望される感覚というものを知ったのだった。それは音のしないため息だった。

 いずれ親からも同じ顔をされるのかと思うとさすがに気が重くなる。……だから、今ここであったことは両親には隠しておこうと企んでしまった。それがいつまでも続けられることだとは、私にだって思えなかったけれど。しかし本当のことを正直に言えるようには、同じくらいまったく思えなかったのだ。

 ……エロ漫画家というのは結局のところただの大人なのだと、かつて思ったのは誰だったか。私は知らなかった。本当に知らなかった。自分がこんなにも子どもだったとは……、いや、クズだったとは。

 ヒロインにサキュバスを採用した「真夏の昼の夢」だけは最後に描くと約束して、それが無事に載ったと同時に、私の漫画家という肩書きは一旦……もといおそらく永久に終了する運びになった。洒落にならないレベルで仕事をさぼって趣味の漫画を作家名義で上げたことが、業界でどのように話題になるのか、ならないのか、私には分からなかった。

 しかし何にせよ、いつものように新作の感想を伝えに来てくれたルカトゥに、私が泣きついたことは言うまでもない。

 どうしよう……とは言えても、助けて……とは言えなかった。恥の概念なのか何なのか、言葉が喉につっかえて声にならなかったのだ。……そのこと自体、ルカトゥにはお見通しだったようだけれど。

「大丈夫ですよぉ先生ぇ。わたし、言ったことはちゃんと守りますから〜。……先生も、そうしてくださいねぇ」

「そうするって……?」

「一緒に住んでくれるって話、忘れちゃったんですかぁ……?」

「ううん、忘れてない。一緒に暮らしたいよ。……でも、ねぇ、ルカトゥ」

「なんですかぁ……?」

「……就職活動、しなきゃダメかなぁ」

 その弱音が単なる愚痴ではなかったことを、きっとルカトゥは見逃さなかったのだと思う。

 就活……。それは現状ではロクに勝手も分からない上、明らかに不利を背負った状態から始まる道だ。しかも本当につらいのは、仮に無事に就職とやらができたとして、それは単なるスタートラインに過ぎないということ。

 かつては「漫画家になる」という夢が、多少のつらいことに立ち向かうモチベーションにもなっていた。けれど叶えたはずの夢はいつの間にか色褪せて失われ、失われた部分に代替の夢が新しく入ってきたのかというと、まったくそんなことはない。……それでも結局は、働かなければ生きていけないのだけれど、それがつらいことでないはずはないだろう。

 けれどもし、もしも何かの間違いで、働かなくても生きていけてしまうのだとしたら。もしそんなことがあるのだったら……と、考えずにはいられなかった。だってルカトゥは私に言ったのだ。養ってあげると、確かに言ってくれたのだ。それを思い出してしまうことが、そんなに悪いことなんだろうか……? ルカトゥは今もこんなに近くにいるのに……。

 ……少なくとも、私という人間の心が弱くて仕方のないことだけは確かだった。

「先生は、就活しながらや、社会人として働きながら、漫画を描けますか……?」

「それは、……無理だと思う」

「じゃあ、働かなくてもいいなら、漫画を描けますか?」

「……趣味でなら」

「それなら決まりですねぇ。先生は〜、わたしに面倒を見てもらいたかったらぁ、就活するの禁止で〜す。だから気が向いたら漫画を描いてくださぁい。……先生ぇ、それでいいですか〜?」

 それは私が最も望んでいたと同時に、私に対して最もくれてやってはいけないはずの言葉だった。

「ルカトゥ、私ダメになっちゃうよ。今もだけど……。いいの……? もっとダメになって、就活頑張るって話、こんなにすぐ嘘にして……」

「でも先生は、しばらく自由にやってみるとも言ってましたよ?」

「……言ったね、たしかに」

 まさか切羽詰まるタイミングがこんなに早いとは、ほんの数日前の自分にとっては本気で想定外だったのだ。

 結局私は、密室の中の淫魔に手を引かれた男がそのままそいつを押し倒すことと同じくらい短絡的に、ルカトゥの甘い言葉に乗ることにしてしまった。……今の自分では、とてもその誘惑に逆らえる気がしなかった。

 彼女が正式に引っ越してきたのは、それからすぐのことだった。まるで今か今かと待ち構えていたかのように、それは異様に手際の良い移住だった。

 もしもルカトゥが私に厳しければ、私は意地でも商業誌で漫画を描き続けていたのだろうか? 甘えられる物がなければ、多くの社会人がそうしているように、歯を食いしばって生活費を稼いでいたのだろうか……。

 その日の夜、ベッドの横に布団を敷いて眠るルカトゥを暗い部屋の中で見下ろしていると、そんな考えが頭によぎったけれど、もちろん恐ろしくて口には出せるはずもなかった。それを口に出して、じゃあ厳しくしますねと言われたら、私は間違いなく後悔してしまうから。

 それからもずっと、ルカトゥは私に優しかった。働きもしない私が家で何をしていても、彼女が苦言を呈するようなことはなかったし、いつも今まで通り、まるでただ家に遊びに来た友達のように接してくれる。……そして私が趣味として漫画を描くと、それをこの上なく喜んでくれた。

 アマチュアに戻った私が真っ先に描いた漫画は、読者ウケの観点を理由にボツとなった、例の巨乳の話だった。タイトルは「すべてはFであるがために」。時々ネット上で見かける「巨乳の私生活はここが大変」の話とエロ漫画を魔合体させた代物だ。Fとはもちろんカップ数のことである。

 巨乳知識の監修は当然ルカトゥだったけど、一度体を入れ替わっていることもあって、それはほとんど確認作業の意味合いに近かった。

「ルカトゥ〜、巨乳は下乳が蒸れるってことで合ってるよね? 胴体との接地部分があるから」

「ですねぇ。……あぁ、ただ〜」

「ただ?」

「普段はブラで持ち上げてますからぁ、実はそういうのってあまり関係ないんですよぉ。肩こりの方が問題ですぅ」

「あー、なるほど。言われてみればそうだったのかも。撮影してる時の裸の印象が強くて……。でもあっちの方が例外か」

「上半身が裸の時間が〜、多ければ多いほどそうなってきますねぇ。あぁそれとぉ、お風呂では胸を持ち上げて洗わないとですしぃ」

「あっ、それは私も思った! なんかすごいよね、洗う時がそうなら拭く時もそうだし」

「わずらわしいこと、地味に多いですよねぇ、足元は見えませんし〜……。そういうのは、魔法じゃどうにもならないんですよねぇ」

「えっ、何そのセリフ面白い。……あぁ〜でも魔法ってことはまたサキュバスだ。またサキュバスなのか? もう〜いっつもサキュバスだよ〜人間のヒロインが描きたいよ〜」

「え〜、いいじゃないですかぁ。サキュバス特化の作家になっちゃいましょうよぉ。サポートしますよ〜?」

「まだその覚悟が決まらないんだよ……。いいの? 「狂える舌」はサキュバスの中からは生まれなかった話なんだよ?」

「それはぁ……確かにそうですねぇ……」

 結局、その作品ではヒロインを人間にすることにした。大局を見て、面白いセリフの一行くらいは諦めることにしたのだ。

 そういえば真夏の昼の夢についても、ネームを描き始める前にルカトゥとこんな話をしていた。あっちのヒロインは結局サキュバスになったから。

「実際サキュバスって、性欲を吸収できてれば水を飲まなくても生きていけるの?」

「理論上は〜、水どころかぁ、息をしなくても生きていけますよぉ」

「えっ!? あ、酸素も性欲からまかなえるってこと……?」

「ですです〜。……まぁ現実的ではないんですけどねぇ。性欲を吸い取るには〜、相手に十分興奮してもらってぇ、その上で絶頂してもらわないとなので〜、普通は環境もコスパも合わないんですよぉ」

「あ〜、一円玉一つ作るのに一円以上かかるみたいな話?」

「そうですそうですぅ。でもまぁたしかにぃ、熱中症予防くらいなら余裕で出来ますねぇ。先生ぇ、良い目のつけどころですよぉ」

「マジ? 天才だったなぁ、まぐれだけど」

 ……という流れであれば、サキュバスをヒロインとして作品を描くことに関しても特に抵抗感はなかった。また、だからというわけではないのかもしれないけど、編集からもその作品は概ね好評だった。

 この調子で別にいいじゃないですか先生。考え直す気はありませんか? ……ずっと最低限の業務連絡にしかLINEを使ってこなかった担当さんから、そんなメッセージが最後に届いた。そうまで根気強く引き止めてくれることに驚きと共にありがたさを感じる一方、どうしてそんなに執拗に私の良心をいじめてくるんだ……という気もしてしまう。

 考え直す気はなかった。「この調子でいい」なんていうのは、嬉しい言葉ではあれども、分かり合えない意見だったからだ。……それを言葉にして伝えることは、たとえ一時の痛みとはいえつらいものがあったけれど。

 ウズラ・メルガルス名義で上げた「すべてはFであるがために」については、まったく清々しいほどに数字に繋がらなかった。けれどそれは、商業で描くことを辞めたからこそ上げられた漫画なのだ。悔いはない。

 ……悔いはないけれど、負い目はある。しかしそれは、私を真人間に繋ぎ止めてくれるほどの物にはならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっつい……」

「暑いですねぇ」

 三ヶ月前と違って、日本の外気は人の命を燃料にしているかのような暑さになっている。

 私もルカトゥも車の免許を持っていない。ホームセンターには徒歩で向かった。土や鉢から買い揃えることを思うと、自転車を使ってしまえば積みきれない荷物が帰り道を逆に不便にしてしまうことが分かりきっていたからだ。

 セミの鳴き声がそこかしこから風鈴の逆効果を発揮している。私は、ルカトゥの差す日傘の中に相合傘をさせてもらっていた。こんな日差しをまともに浴びたら、あながち比喩でもなく「焼かれる」と直感で分かる。

「私も日傘買おうかな……」

「この日差しですもんねぇ」

「ほんっと……」

 ここ最近の日差しと気温は文字通り殺人的。私が子どもの頃はこんなに暑くなかったはずだけど、これが温暖化というやつなのだろう。

 この温暖化の最中にあれば、暑さがピークになる時間帯には、今は元気に鳴いているセミの声すら聞こえなくなる。蚊やセミといった夏場の虫類まで、あまりの暑さにどこかへ隠れるらしいのだ。人間だけが生身で助かる理由があるとは思えない。

 では、逆になぜ私が今日まで日傘を持っていなかったのかというと、それは私が、夏の日の高いうちから徒歩で外出するということをほとんどしてこなかったからだった。ルカトゥと会う場所が基本私の家だったのは、彼女と知り合ってから初めての夏を超えて以来の名残という面もあるのだ。

 ……それにしても暑い。昼と呼ぶにはまだ早い時間帯なのに、日傘の下にいても汗が止まらない。顔の上を伝って流れるその不快な雫に、自分が描いた最後の商業漫画のことを思い出す。クーラーのない部屋でセックスなんてやはり馬鹿のやることだ……と。

 そこでふと、すぐ隣にいるルカトゥの顔を見てみた。彼女の額にも滲んでいる汗の粒を見て、そりゃそうだよなと思う。サキュバスだって汗はかくのだ。

 ロクに雑談をする気力もなくなって久しい頃、ついに我々は目的地に到着した。野菜の苗は外で売られていたけど、お互い言葉を交わすまでもなくまずは店舗の中へ入る。この暑さの中ではたとえ男子中学生だって、裸の美女と天秤にかけてでも冷房の効いた屋内を選ぶだろう。

 店内は引くほど涼しかった。快適な一方で、もうそこから動きたくなくなる。この圧倒的な文明の力が、しかし温暖化を呼んでしまったのか。

「あー……なんかもうこのまま寝れそう……」

「分かるかもですぅ……」

「ここから外の売り場に行かないといけないってマジ……?」

「しばらく涼んでからにしましょうよぅ」

「だね」

 散歩がてらなんて言って出てきたけど、まともに散歩と呼べるのはむしろここからのような気がした。家から店までの道中は、あれはほとんど、方角と距離のはっきりしている遭難だ。

 特にあてもなく店内を歩き回る。照明コーナーと時計コーナーには、いくつになって見ても空間に異世界じみたインパクトを感じるものだった。子どもの頃はなんとなくそこが好きで、スーパーでの買い物よりは退屈せずに親のことを待てていた覚えがある。

 と、そんなノスタルジーに浸っていると、奇遇にも季節の売り出し物コーナーに懐かしい物が置かれているのを発見した。

 夏の日にここぞとばかりに売られている、やけにごつい見た目の水鉄砲。子どもの頃と違って、最も注意を引いたのはお値段の方だった。たかだか水が出るだけの玩具になんて値段をつけるんだ……。

「なんか、懐かしいな」

「水鉄砲ですかぁ」

「子どもの頃はこういうのを持って走り回ってたんだよね。まだそんなにインドアじゃなかった頃」

「へぇ〜。今でもやったらいいじゃないですかぁ」

「やだよ。暑いのに」

「まぁたしかにぃ……、身の危険を感じる気温ですよねぇ……」

「……ルカトゥはこれで遊びたい?」

 ふふっ、とおかしそうな笑い声。

「子どもじゃないんですよぉ」

「たしかに」

「……あ、でもあれはちょっと興味あるかもです〜」

 ルカトゥが商品棚の前を移動して行く。えらく隅の方まで行くから何かと思えば、レジ付近に置かれていたそれは手持ち花火のセットだった。

「これなら夜ですし、暑くないですよぅ」

「どこでやるの?」

 住んでいるマンションに庭のようなものはない。

「適当な公園とかですかねぇ」

「怒られない……?」

「怒られるなら、きっとこんなに売ってませんよぉ」

「……それもそう、なのかな」

 たしかに各種様々な花火たちは、その一角に所狭しと豊富に並べられていた。

 言われてみれば、野球やサッカーの道具が「オモチャ」として売られているところはあまり見たことがない気がする。それの意味するところが、ルカトゥの言う通りのことなのだろうか? ……ちょうど今近くに売られているような、二の腕程度の長さしかないアンパンマン柄の子ども用プラスチックバット&ゴムボール等もその一環なのか?

 ともかく、適当な花火をさくっと買って、そろそろ本題に向かうことにする。自動ドアを抜けるともわっとした空気に晒されて、家を出た瞬間にも味わったような躊躇を覚えた。ゲームで毒沼地帯に足を踏み入れた時みたいな感じだ。ここは人の生きていける場所ではない。

 園芸品類は、店の軒先を伸ばしたような屋根の下にこれでもかという種類と量が並べてある。ただの苗であってもいろいろな種類をたくさん並べて置かれるとそれだけで見応えがあるものだった。野菜以外にも様々な植物がある。花、観葉植物、サボテン、グラス類。種から育てる物や、すでにある程度形になっている物。木になる物。

「へぇ〜。こんなに種類があるんですねぇ〜」

 サニーレタスだのカリフラワーだのといった物を見ながらルカトゥが感心している。一方私は、ハエトリグサを模したような奇怪な形をしたサボテンを見つけていた。ブレイン・カクタスという名前らしい。ということはつまり、サボテンのことは英語でカクタスというのか……? 一つ賢くなってしまったな。

「先生ぇ、先生は経験者なんですよねぇ」

「え? うーん、まぁ、半分くらい……?」

「どの野菜がおすすめですかぁ」

「難易度的な話?」

 こくこくと頷きが返される。私は経験則から、おすすめに当てはまる物を指さしながら答えた。

「間違いないのはトマト、キュウリ、ナスあたり。あと小ネギとピーマンといんげんも大丈夫かな。そいつらは大きく失敗したことがなかった」

「おぉ〜」

「それから、ブロッコリーはやったことないけど……。一つはっきり言えるのは、フルーツ系と根菜系と葉物類はやめとけっていうこと。かつての我が家でそれは全滅したか、採れてもしょぼかった。あえてやってみたいわけじゃないならオススメはできない」

「へぇ〜、そうなんですねぇ。勉強になります〜!」

 スイカだメロンだイチゴだと、昔の父はなぜかフルーツ系を育てたがっていた。そして何一つ成功しなかった。……いや、失敗とはいえ自由研究としては良い題材だったのかもしれない。中身のほとんどが白い拳大のスイカなど、見ようと思って見られるものでもないだろうから。

 同じく、大根だニンジンだカブだ里芋だという面々も、失敗とまでは言わないけれど、スモールライトを当てたような代物にしかならなかった。けれど味はよかったことを覚えている。特に里芋は、あれが私の人生で初めて食べた里芋だった。ファーストコンタクトが美味だったのは幸いだ。……長い時間をかけて小さな物がたった一個育っただけだったから、あれを成功と呼べるかどうかは微妙なラインだったけれど。

 葉物類は、成長させるだけなら難しくはない。勝手にどんどん大きくなってくれる。しかし、最終的にはそれが全て虫に食い穴を開けられて終わるのだ。葉=可食部の形においてはそれが致命傷になることを、いざ困ったことになるまで家族の誰も予期できていなかった。

 ……まぁそういうわけで、やがて我が家の家庭菜園はキュウリとトマトとナスがスタメンになり、めったにメンバーチェンジは行われなくなったのだ。

 アドバイス通り、そのスタメン組三つを抱えてレジに向かったルカトゥの背中を見守る。これが継承というやつなのかもしれない。いずれは彼女も父と同じように、無謀なチャレンジ精神を発揮するようになるのだろうか……。

「買っちゃいましたぁ」

「じゃあ次は鉢と土だね。あぁそれとジョウロか」

「肥料? とかはいいんですかぁ」

「……ググってそれは」

「あ、先生ぇ、そこはご両親に任せてたんですねぇ」

 バレた。しかし親の影響で何かに触れたことのある経験者なんてそんなものである。たとえば私はほかにも父の影響で釣りをしたことがあるけれど、エサの付け方さえ未だに知らない。

 家庭菜園についてググッた結果、必要な物がいろいろと把握出来てきた。鉢、肥料的な物が元々混ざっている土、水捌けをよくするため土の下に敷く砂利(そんなの父使ってたかな……)、茎にまっすぐ上へ伸びてもらうための支柱(これはそういえば使ってた)、あとジョウロ。……分かってはいたことだけど、全て買っていると物理的な量もお値段も結構えげつないことになってくる。どの分野に行っても、初期投資の概念からは逃れられないものだ。

 少しくらい私も出資すると申し出たけれど、「わたしの趣味なんだからいいんですよぉ」と断られてしまった。最初に否定的な態度を見せてしまったこともありそれ以上強くは押せず、私はルカトゥの背中を、または彼女の手元の財布から出てくる紙幣を、うだる空気の中でぼーっと眺めていた。

 ……その時だった。

「あれっ? ウズラ先生じゃないすか?」

 背後から、やけに気安い男性に声をかけられる。警戒心が一瞬でマックスまで引き上げられたことで、自分の中に仕事関係者への負い目がまだ残っていることを知った。

 私のことをペンネームで呼ぶのは同業者だけだ。私の血縁関係以外の男性の知り合いも、同業者だけだ。……いや、もう同業者とすら呼べないのだったか。

 きっと彼だろう、という当たりをつけて振り返る。するとそこには予想通りの、黒いマリモみたいなボウズ頭があった。

「……誰かと思った」

「お久しぶりっす。先生、こんなところで何してるんすか」

 野球部みたいな髪型の、実際に元野球部だった体育会系エロ漫画家、ツチノコヤグラ。彼の本名を私は知らない。歳は私より下だけど、それとは関係なく、彼の口調は万人に対して平等に今のような調子である。

「私だってホームセンターくらい来るよ」

「いや、外でぼーっと立ってるんで何かなぁと思って」

「ぼーっと立ってるわけじゃ……」

「あれ、先生ぇ、お知り合いですかぁ……?」

 ルカトゥが諸々の必要品を抱えて戻ってきた。……つまり重そうな土と砂利を数袋どっさりと、重ねた鉢の中に入れた状態で、それを軽々と抱えてやって来た。

 一瞬だけ、ヤグラ君が目を見張る。ルカトゥの腕は、彼のと違ってか細いのだ。

「あっ、どうも初めまして。ウズラ先生の同業の土屋っていいます」

 今度は私が目を見張る。

「えっ、キミ土屋っていうの……?」

「えっ、知らなかったんすか……? 言ってなかったかな……」

「先生ぇ……?」

 三者三葉の困惑が広がる。私の漫画を読んでいたルカトゥならツチノコヤグラのことも知っているかもしれないけど、いかんせん本名では分かるまい。

 それが私の人生で初めての、知り合いに知り合いを仲介じみて紹介する機会だった。

「あーじゃあ土屋くん、彼女はルカトゥ。話すと長くなるけど、私の友人であり同居人でありスポンサーであり、サキュバスなの」

「……え? ちょっと頭が追いつかないんすけど……」

「ルカトゥ、彼はツチノコヤグラってペンネームで描いてる同業者。漫画が描ける野球部だよ」

「あっ、へぇ〜!」

「微妙に変なこと吹き込まないでくださいよ。……で、えっ? サキュバスなんすか? その、ルカトゥさんは」

「そうですよぉ? わたしの顔、見たことないですかぁ」

 ルカトゥがそう言ったことで、私は自分の失言に気がつく。

 しまった! そうだ、彼女にはもっと名乗るべき名前があったじゃないか。「本名では分からない」のはお互い様だったのだ。

「見たこと……?」

「あぁそうだ……、彼女、空色月(そらいろるな)って名前で活動してるの。AV女優」

「えっ!? うそっ!?」

 彼はルカトゥの顔を見たまま、その場で小さく飛び上がって驚く。リアクションが大きいことに定評のある男なのだ。

「本物っすか……?」

「ですよぉ」

「えぇっ、いや〜……へ〜……。あの、ぶっちゃけ最初から似てるなぁとは思ってたんすけど、AV女優に似てますねとは中々言えなかったっんすよね……。すげぇ本物だ……」

 それを聞いて、ルカトゥはわざとらしく頬を膨らませた。

「む、言ってくれたらいいじゃないですかぁ。AV女優も女優ですよぉ、女優。褒め言葉ですぅ」

「あ、それもそうっすよね。すいません。……握手とかってダメっすか?」

「いいですよぉ?」

 ヘビーな鉢を足元に置いて、初対面の男と両手で握手をするルカトゥ。具体的な意味合いは違えど、お互いその手で性的コンテンツを生み出してきた者たちの奇跡的な邂逅である。

 ルカトゥがそういうファンサービス的なことをしているところは、初めて見た。なんだか新鮮だ。

「うおお……」

 己の両手を見つめながら謎の感嘆を呟くヤグラ君。余計なことを言いふらされないかちょっと心配になる。いや、言いふらされても開き直るしかないのだけど。ウズラ先生、空色月に養われてるんすよー! と言われたら、そりゃもう開き直る以外にない。

 ……で、エロ漫画家と元エロ漫画家とAV女優は、どうしてこんなクソ暑い日中に立ち話をしているのだろう?

「それでヤグラ君こそどうしたの。家庭菜園?」

「あぁ、いや、うち熱帯魚飼ってるんで。エサを買い足しに来たんすよ。そしたらなんかウズラ先生っぽい人が立っててびっくりって感じで」

「なるほどね」

「……それでスポンサーってどういう意味っすか?」

「頭が追いついてないんじゃなかったの……?」

 面倒なので、全てをざっと説明することにした。ルカトゥが私のファンで、数年前に向こうから接触して来てくれたこと。仕事で漫画を描くことが嫌になってしまった私を彼女が養ってくれていること。その流れで今は彼女と同居していること。

 全てを聞き終えた彼は、わざとらしく手のひらをポンと拳で打った。

「はぁ〜なるほどそれで、颯爽とアマチュアに戻ったんすね」

「颯爽って……。……なんか変な噂とか流れてたりする?」

「何があったんだろう、くらいは言われてるっすよ。スランプに入ったのかと思ったら突然デカい漫画を上げて、そのままもう描かないとか言い始めたんすもん。しかも最近はなんか全然普通に漫画上げてるし」

「すいませんね……」

「いやいや、いいじゃないっすか。俺も養われたいっすよ出来るなら」

 彼がチラとルカトゥの方を見る。見られた当人の方は、もうすっかり鉢を抱え直して帰る気満々の様子だ。私と同じ分野の創作者とはいえ、ヤグラ君のことはあまり気に入らなかったのかもしれない。

 あるいは単純に暑さのせいだろうか? 実際、私もそろそろ帰りたくなってきた。雑談というものは、汗を流しながらするものではないはずだから。

「先生のファンってことは、もしかしてついでに俺の漫画も見てたりします……?」

「ツチノコヤグラさんですよね〜? 見てますよぉ。定点カメラ的な演出に〜こだわりありますよねぇ」

「うおっマジで読んでくれてる!」

「先生の漫画ほどじゃないですけどぉ、結構好きですよぉ?」

「ウズラ先生には負けたかぁ〜。いやでも光栄っすよ! あっ、あとこう言うのもなんかもしれないっすけど、俺も(るな)さんの作品いつも見てます、応援してます!」

「ありがとうです〜。近々ヤグラさんが好きそうな物も出ますよぉ」

「えっ、マジすか! 楽しみにしてます! ……それじゃ俺そろそろ行きますね。月さんも先生も、また!」

 馴れ馴れしく手なんか振っちゃって、ヤグラ君は涼しい店の中へと消えて行った。きっと彼もルカトゥの早く帰りたいオーラを察知したのだろう。

 ……そのルカトゥが、やけにトゲトゲしい目つきで自動ドアの先を見ていた。熱帯魚のエサは奥まった場所にあるのか、ガラスの先にもう彼の背中は見えない。

「さて、帰ろうか」

「……先生ぇ、気をつけてくださいねぇ」

「え? なにが」

「あの人、性欲の塊ですよぉ。先生のこと狙ってますぅ……」

「はぁ? んなわけないでしょ」

 たしかにエロ漫画家なんてものは、少なくとも平均以上の性欲の持ち主の集まりかもしれないけど。そうでなくても男性なんてそんな物なんじゃないか……という気はしないでもない。けど、それと「狙っている」とかそういう話とは全然別の問題だ。

「先生だって、一回体験したんだから分かるでしょう……? サキュバスには人の性欲が分かるんですよぉ」

「それは、空色月が来たからとかじゃないの?」

 サキュバスは、周囲の性欲を察知することができる。ルカトゥの言う通り、私はそれを、知識を超えた体験として知っている。だから察知した物自体が気のせいだとは思わないけど……。

 ヤグラ君とは、今までにも同業者の横の繋がりで何度か会ったことがある。そういう集まりを主導してくれる人がいたのだ。そして大人がプライベートに集まる時、そこには半分を遥かに超える確率で酒が置いてある。

 一度だけ、ヤグラ君の前で結構な酔っぱらいになってしまったことがあった。本当に狙われていたなら、その時点でとっくに無事では済んでいなかっただろう。

「わたしが来る前からですよぉ。レジから振り返ったら、すごい性欲の人が先生に話しかけてるんですもん……。絡まれてるのかと思いましたぁ」

「ホームセンターでナンパもないでしょうよ……」

「そうですけどぉ……」

 百戦錬磨のサキュバスがびびるレベルの性欲モンスターだったのか……? ツチノコヤグラは……。

 彼がその気なら私をお持ち帰りできる機会は過去にあったけど、実際には彼は無害な男だった……という話をルカトゥにすると、彼女は見たこともないくらい訝しげな顔をしながら、

「だとしたらタダ者じゃないですよぅ……」

 と呟いていた。そんな男が近くにいたとはつゆ知らず、知らない方がいいことというのはあるものだなぁとしみじみ思う。まぁ、偶然なんか早々起こるはずもなく、もうヤグラ君に会うこともないのだろうけど。

 帰り道は私がルカトゥのかわりに日傘を差して相合傘をした。重い荷物のほぼ全ては鉢を容れ物にして抱えられ、魔法を使えないモヤシ女の腕では、片手に傘、片手に苗と花火のビニール袋……それが精一杯なのである。

 早く帰らなければ、さっそく苗が萎びそうな暑さだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベランダに横長の鉢が三つ、三角形の陣で並んでいる。トマト、キュウリ、ナスの苗は、無事にそれぞれが植え付けられたのだった。やや不便だったのは、ベランダに水道がないことだろうか。台所か洗面台までジョウロを持って行って往復することになる。それは実家での水やりと全く同じことだった。

「先生ぇ、わたし明日からしばらく仕事なんですよぉ」

 夕飯を食べながらルカトゥが言った。

「そうなんだ。……お疲れ様です」

「ふふ、いえいえですよぉ」

 間抜けな相槌を打った私にルカトゥがくすくす笑う。その彼女が稼いだ金で今まさにご飯を食べさせてもらっているのだから、正しい相槌なんて物はきっと存在しないのだろう。

「それで先生ぇ、今日のうちに花火やっちゃいませんかぁ」

「あぁ、花火。そうだね。食べたら行こうか」

「火つけるもの、ありましたっけぇ」

「あ、ないかも」

 誰もタバコを吸わない、仏壇もなければロウソクに火もつけない。喫煙者の父がいる実家には当然のようにライターがあったから忘れていたけど、そういえば花火に着火する手段がなかった。コンビニでライターを買えばいいだけなのだけど、買ったそれは間違いなく今後どこにも出番を持てないだろう。

「付けておいてほしいですよねぇ、ライターとかぁ」

「電池が入ってないオモチャみたいだね」

「ですねぇ。……あ、それとぉ、バケツとかも持っていかないとですよねぇ」

「バケツか、あったかな……」

「なかったら買わないとですねぇ」

「またホームセンター……?」

 ライター、バケツ……。実家にいた頃は、それがなくて買いに行くなんて考えたこともなかった。なんだか一人暮らし始めたての頃を思い出す。爪切りを買わなければならないと気付いた時に、あぁこれって買わないと手元にない物なんだな……と当たり前すぎることを思ったのだ。

 満腹になった後探してみると、ライターもバケツもこの家にはなかった。何に火をつけようとも溜めようとも思ったことがなかったらしい。コンロと風呂桶で十分だったのだ。

「今度は自転車で行こう」

 日が沈みさえすれば、昼間の灼熱地獄は嘘のようになりをひそめていた。ちょっと生暖かい空気も、風が吹けばむしろ心地よい物に変わってくれる。自転車で走ってしまえば道のりはあっという間だった。

 ちょうどホームセンターからの帰り道に、面積に対して遊具の少なめな公園がある。子どもがサッカーをするには十分そうなスペースが公園の中心に空いており、しかもその足元は芝生ではなく砂と土で出来ている。おあつらえ向きの花火会場だった。

 広い分、中心地から住宅の類とは距離があり、近隣住民から文句を言われる可能性も低そうだ。そう思いながら水道でバケツに水をくみ、花火の袋を開封し、さっき買ったライターを握る。子どもの頃にした花火といえば、そんなに世間体に怯えながらやる物ではなかったのだけど。

「あ、あれ……? 嘘でしょライターってこんな固いの……?」

「ロックとか、かかってるんじゃないですかぁ」

「……いやどう見ても外れてる」

 着火しようとしても、ボタン部分が押し込まれるより先に親指が反る。わざわざヤスリのタイプは避けて買ったのになんという体たらく……。世の喫煙者たちはみんな剣道部みたいな握力をしているのか……?

「もう〜先生ぇ、かわいこぶっちゃってぇ」

「いやマジなんだって」

「貸してくださいよぉ」

 手のひらにライターを受け取ったルカトゥがしゃがみこむ。カチッという音があっさり鳴って、街灯の足りない公園の闇の中に小さな火柱が灯った。……なんだかそれ自体がすでに美しく見えた。

 一旦火を収めたルカトゥがこちらを見上げて言う。

「先生ぇ、花火花火〜」

「あぁ、はいはい」

 詰め合わせの中から適当な一本を手に取る。ライターの火が差し出されたので、私はおそらく十年以上ぶりにその先端を燃やした。

 線香花火の持ち手のようなひらひらの紙部分が焼けて、焼けて、……ある時突然に火を吹き出す。シュウゥーという音と共に、思ってたより激しい勢いで火花の細い激流が放たれた。

 ちょっとびびってしまう。赤白い光と熱が、一度始まれば止めようもなく溢れ出し続けるものだから。

「おお〜」

 ルカトゥがせかせかした動きで自分の分の花火を握って来て、私の持つ花火から放たれる火をライター代わりに着火した。

 ルカトゥの花火からは、こちらよりもずっと真っ白い光がススキのように降り始める。……浴衣でも着ていれば様になったのだろうなと、照らし出される私服姿の自分たちを見て思った。

 久しぶりの手持ち花火に、私は豪快なイルミネーションのような印象を持った。

「綺麗ですねぇ」

「そうだね」

「わたし、これ初めてなんですよぉ」

「え、そうなの?」

 人間界に来た頃の彼女はすでに花火をするほどでもなく大人だったのだろうけど、魔界に手持ち花火はないのだろうか? 口から火を吐く奴がいてもおかしくない世界観の常識は私には分からない。

 どんな顔をしているのだろう、とルカトゥの方を見ると、瞳の中に花火を光らせる彼女と目が合った。ほほえまれる。慈しむかのように。

「あ、先生ぇ、次つぎぃ。消えちゃいますよぉ」

「そんな急がなくても」

 燃え尽きてしまった一本目をバケツの水に放り込む。ジュッという音がした。

 連鎖が途切れないように急いで次を手に取って、ルカトゥの持つ花火に添え着火する。カラフルな火花が吹き出す瞬間は、何度見てもちょっとだけドキドキするものだった。

 ルカトゥが、わくわく顔で両手に花火を持って来た。きっと誰しも一度はやる二刀流だ。

 私の持つ花火からそれらが一気に着火されると、溢れ出る火花はススキを超えて滝のようになる。絵の具と違って、いくらカラフルでもそれらの色は混ざらない。そこがまた魅力的に映るのだ。

「先生ぇ〜見て見てぇ〜。オタ芸っ」

「火傷しないでよー?」

 ルカトゥは二刀流の花火を持って乱舞している。煙を伴うどこか原始的な光が彼女を包み、楽しげな笑顔と、舞い散る熱による近寄り難さが、ただの悪ふざけを何か神聖な物のように仕立てあげていく……。

 美人は何をしても絵になるからいいなぁ……、なんて月並みなことを思った時だった。ルカトゥが、二つの花火を両手で束ねて持ったのは。

「ヒノカミ神楽、円舞〜!」

「ちょっ、マジで危ないからやめなさい!」

 魔族特有の余裕なのか!? 彼女は火花吹き出るその棒を何の躊躇もなく上段から振り下ろしていた。良い子は真似しないでください案件すぎる。

「大丈夫ですよぉ〜。ちょっとくらいアレしてもぉ、すぐ治りますもん〜」

「ダメ! そういう問題じゃない! そんなことするなら私もヒノカミ神楽するよ!?」

「先生はダメですよぉ〜危ないですぅ。……あ」

 お互いの花火が鎮火する。そういえばライターはどこにやったんだっけ……と思ったら、ルカトゥがポケットからそれを取り出してしゃがみこんだ。

 次は私も二刀流にする。花火同士のやり取りを経たあとで改めて見ると、ライターで着火する行為は相手の手に火が近すぎて冷や冷やするものだった。

 私は吹き出す二本の花火を振り回して、空中に残光の円を描く。正面に∞のマークが浮き上がるように。

「ダブルオー!」

「あぁわたしも〜、オリンピックぅ〜!」

「描ききれてない描ききれてない!」

 必死に五輪の残光を浮かべようとするルカトゥに思わず笑ってしまう。風情も何もあったものではないけど、でも楽しかった。

 夜の公園の真ん中で、光と熱と煙と音に巻かれる成人女性が二人。誰もそれを叱りはしなかったけれど、ある時遠くから、幼い女の子のような声が聞こえた。

「なんか人いるよー!」

 二人して我に返って花火を下ろす。するとちょうど四本とも燃え尽きた。

 公園の入口の方で警戒心をあらわにこちらを見ているのは、まだ声変わりのコの字も知らない小さな男の子だった。四〜五歳だろうか、私たちの半分程度しか背がない。……その両手には手持ち花火のセットが、セット自体を二刀流にして握りしめられていた。

 少年はしきりに後ろを振り返る。その視線の先には両親と思わしき男女二人がいた。向こうがこちらの存在を認識するとペコリと頭を下げてきたので、私も反射的に会釈する。

 ルカトゥは、子どもと大人……どちらに向けて言ったのか分からない風な声音で言った。

「こんばんはぁ」

 キョドる子ども。「ほら、こんばんはーでしょ?」と母親にうながされて、彼は聞こえるか聞こえないかの声で「こんばんは……」と言った。

 燃え尽きた花火をバケツの中に慎重に浸けてから、ルカトゥは残りの花火を袋ごと持って行く。

「お姉ちゃんたちねぇ、もう帰るんだ〜。だからこれをキミにあげよう〜」

 両手がすでに花火セットで埋まっている少年はあたふたする。父親が彼の手の中の花火を引き取り「もらったら?」と言うと、言われた通りにした少年は、今度は自分から「ありがとう」と言ったのだった。

 手ぶらになったルカトゥがとてとて走ってきて、私に微笑む。帰りましょうか、と。

 もちろん異論はなかった。いい歳した大人が二人、あの家族と一緒に遊ぶわけにもいかないだろう。

 バケツを持って、再びの会釈をしながら私たちは引き上げる。ルカトゥは少年に「ばいばい」と手を振っていた。少年もそれにおずおずと振り返している。……将来の彼はきっと、今日の記憶が人生初のサキュバスとのやり取りだとは気付くまい。

 帰り道は、自転車のカゴにバケツを入れて、乗らずに押して歩いた。何かの拍子にひっくり返したくはなかったから。

 ほどよくぬるい風の中で、ルカトゥが茶目っ気を出した声で言う。

「勝手に切り上げちゃいましたぁ」

「いいよー。ていうか、そりゃそうするでしょ」

「先生ぇ、子ども苦手ですよねぇ」

 図星。

「まぁね」

「それとぉ、よその家の親も苦手ですよねぇ」

 図星ダブル。

「そんなにコミュ障出てた……?」

「あはは、そんなことはないですけどぉ」

 バケツを積んだ自転車を押し夜道を行く私たちを見て、すれ違った通行人たちはどう思っただろう。あぁ花火帰りか、と分かるものなんだろうか。

 ……夏の夜は、昼間よりも楽しそうな顔をした人たちが行き交っているように見えた。

 ルカトゥは明日からしばらく仕事が続くのだという。いくらサキュバスに合った分野だからといって、彼女も仕事が楽しくて仕方がないというわけではないだろう。かつての調子がよかった頃の私だって、さすがにそういうわけではなかった。

「ねぇルカトゥ、私これでいいのかな」

「え? なにがですか〜……?」

「楽しいから。働いてないのに」

「ふふっ。じゃあ最高じゃないですかぁ」

「私は、ぶっちゃけそうだけどさ……」

「わたしもですよぉ」

 さっきまではしゃいでいた彼女とは、まるで別人のような落ち着きようになって。諭すようにルカトゥは言う。

「ずっと今みたいな生活がしたいんですよ、わたし」

「それは、私もだよ」

 同じことを思う二人の心が、同じように尊いとは私には思えない。結局のところ自分は楽をしたいだけなのだと、頭の片隅ではいつも自覚しているから。決して、ルカトゥを喜ばせるために全力で今の生活を楽しもうだとか、そんな殊勝なことを心の底から思っているわけはない。

 けれど、じゃあ仮に私が働いて、漫画を描く余裕を失い、疲れた顔をして帰ってきては生活費を入れていればそれでルカトゥが喜ぶのかというと、そうも思えないのだ。……それは、偶然都合よくそうなっているだけなのだけど。

「先生ぇ、また暗いこと考えてるでしょう?」

「え?」

「分かるようになってきましたよ〜?」

 横から顔を覗き込まれる。私には、ルカトゥが何を考えているのかは正直分からない。それとも全ては見たままなのだろうか? 彼女にとっては、これが一番幸せなのか……?

 そうであったらいいのにと思うこの心が、彼女に対する愛だとはとても思えなくて、申し訳なかった。彼女が私にくれているものは紛れもなく愛だろうに。

「……水やりはやっておくよ」

「え?」

「この暑さじゃ、朝に一度あげるくらいじゃ足りないでしょ」

「あぁ。それなら、お願いしますねぇ」

 そんな話をしているうちに、私たちは私たちの家へと帰り着いた。

 花火の燃え殻が刺さったバケツを持ったままエレベーターで他住人と鉢合わせるのは、妙に気まずいものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リットルのペットボトルに水を入れてキャップを閉める。ジョウロで直接往復していてはいつか必ずつまずく日が来ると、私は己のどんくささを確信していた。

 ペットボトルからジョウロに水を移し、ジョウロで野菜に水をやる。……私はこの地味に時間のかかる作業が好きではなかった。だから子どもの頃はよく水やり係をしぶっていたものだ。……あの頃に比べて私が得た物といえば、それは植物を慈しむ心ではなく、「自分は養われている」という自覚だろう。

 ルカトゥは朝食を終えると仕事に出て行った。道中のスマホから送信されたのか、彼女のツイッターアカウントに更新がある。URL付きのツイートだ。

「あぁ、今日発売か……」

 そのURLは、元々告知されていた彼女の出演作の購入ページに飛べる物だった。

 そこで買える物が、度々仕事で家を空けていた彼女がはたしていつのタイミングで撮っていた物なのかは、私は知らない。私がルカトゥとそういった話をすることはない。でも、発表される作品の購入ページにはいつも目を通している。……今回のそれは盗撮ものだった。

 昨日、ホームセンターでヤグラ君に初遭遇した彼女が言っていたことを思い出す。「近々ヤグラさんが好きそうな物も出ますよ」……と言っていたあれは、本当に近い出来事だったのだ。

 ツチノコヤグラ……彼の作品には必ずといっていいほど「定点で映される長時間のセックス」が描かれる。盗撮ものはそのシチュエーション上視点がある程度の定点になっている物だから、たしかに彼の好みに近しい雰囲気はあるようだった。

 ……が、そのAVが実際にどんな内容なのか、詳しいところは私には分からない。サンプル動画で分かるだけの範囲が、今や私の確かめられる範囲の全てだから。……まさかルカトゥが稼いだ金で、そのAVを買うというわけにもいくまいし。

 ワンチャン、ヤグラ君が買ってないかな……。なんてことを考えながら、いつもの執筆作業に戻る。読者ウケを考えなければ、そしてエロ漫画の定義に悩むことをしなければ、私にも描ける漫画はまだあるようだった。アイデアは浮かんでくるのだ。

 前回描いた巨乳の話が比較的短い物だったこともあり、ルカトゥが仕事も家事もやってくれるおかげで毎日呑気に一日中作業をしていた私の新作は、もう完成が見えてきている。タイトルは「みんな空の下」。内容は、もしかすると私史上初かもしれないサイコホラー作品だ。

 今作のヒロインは明確な理由があってサキュバスになっている。あらすじはこうだ。

 サキュバスの「エイ」との同棲を初めて久しい男主人公の「あっくん」は、実家の方で何かのっぴきならない急用が出来たらしいエイを、しばらくの間の魔界帰省へと見送ることになる。エイは出掛けの土壇場で、彼にある物を手渡してきた。

「ほら、あっくん、わたしがいない間寂しいでしょ? これをわたしだと思って使ってね!」

 彼が受け取ったそれは、どう見てもただのオナホールだった。たしかに今までエイと毎日セックスをする生活をしていたから、「寂しくなる」と言えばその通りなのだけど……。

 彼は、エイの言っていた「わたしだと思って」の意味を正しく理解していた。現物を手に取るのは初めてだったけれど、彼はエイの使う魔法の話を以前に聞いたことがあったのだ。

 数年ぶりに長期間家で一人になることが決まり、がらんとしてしまった部屋でソファに腰を下ろした彼は、手元のオナホを見ながら昔を思い出す。それは何年か前に彼がエイと交わした、なんでもない雑談の一環だった。

「なぁエイ、お前ってどんな魔法を使えるんだ? 俺まだ見たことないよな」

「えー? 教えてもいいけど、笑わない?」

「笑うような内容なのか……?」

「うん。えっとね、わたしの魔法は……。オナホールってあるでしょ? あれと「自分」の感覚を連動させる魔法なの」

「……え、なんて?」

「だから、オナホールとおまんこの感覚を連動させる魔法なの!」

「な、なぜそんな魔法を……。男が使いたがるならまだしも、サキュバスの魔法ってある程度自分で望んだ物を身につけるんじゃなかったか?」

「そうだよ? わたしはこの魔法がよかったの。だってこの魔法があれば、離れていても一緒って感じがするでしょ?」

「するかなぁ……」

「まぁわたしは出来るだけあっくんと一緒にいるし、魔法の出番なんてないと思ってるけどね。あっくんはオナホなんか使うくらいならわたしのことを使ってくれたらいいんだから」

 ……という会話を思い出しながら、プレッシャーを感じるあっくん。彼はこんなにも丁重に扱わなければならないオナホールを手にするのは初めてだった。

 とはいえエイはのっぴきならない急用で帰省しているわけで、あまり勝手なタイミングでその魔法のオナホを使うわけにはいかないだろう。というかそもそも、本当に感覚の連動なんて起こっているんだろうか? 半信半疑で彼は一人の時間を過ごし、やがて日が暮れる。……月が明るくなるにつれて、そろそろ使ってみてもいいかな? という気分になってきた。

 LINEでエイに「例のやつ、使っていい?」と聞いてみると、「あっくんが使いたいならいつでもいいんだよ〜♡」とのこと。さっそくお言葉に甘えることにした彼は、数分後、「魔法のオナホ」がそれ自体はそこらへんで手に入れられる市販品とまったく変わらない物であることを知る。

 つまり、連動していると言ってもそれは「エイの感覚」だけの話で、その他諸々の部分はただのオナホだったのだ。ローションがなければ使えたものではないし、感触自体も、エイのそれとは似ても似つかないものだった。

 が、あっくんは妄想力が高いタイプなので、おそらくは実家の寝室あたりで悶えているだろうエイを精密に想像しながら、三回もそれを使った。すっきりしたあとでオナホを水洗いしながら、この洗われる時の感覚って向こうにはどんな風に伝わってるんだろう……と素朴な疑問を持ち、それをきっかけにまた妄想の世界に旅立つ……。

 ……と、そんな男の一人暮らしの夜に、スマホの着信音が鳴り響いた。エイからの電話だった。出てみると、ぜーはーぜーはー……と息を切らしたエイが、妙に艶っぽい声で言う。

「あ、あっくん〜……。ごめんっ……も……寝かせてぇ……」

「あ、ごめん……」

 しっかり感覚が連動していたことを察した彼は四回目をしたい衝動に駆られたけれど、さすがにそれは我慢して寝た。

 翌日、家で掃除機をかけていた彼は、ふと「自分はエイの部屋に入ったことがなかったかもな」と気が付く。お互いの部屋とは別に共同の寝室があるものだから、普段は家の掃除なんかしない彼は今まで、エイの部屋にあえて入ろうと思ったことがなかったのだ。

 いい機会のような気がする……と、大義名分の掃除機を片手に彼はエイの部屋に踏み入った。すると彼はそこで、クローゼットの戸に貼り付けられた「開けないで!」の紙と手書き文字を見ることになる。彼はそれを見て一瞬でピンと来た。

 以前、リビングに置いてある共用のパソコンのデスクトップに「こういうのが好きなんだ♡」という名前のフォルダーが突如出現したことがあった。それはエイが作った、うっかり検索履歴を消去し忘れたあっくんの性癖に沿う作品をまとめた画像リストだったのだ……。まったく、あの時は頭を抱えたものだ。

 自分と違い、エイは性的コンテンツを物理媒体で持っているタイプなのだ! そう確信した彼は、その「開けないで!」を清々しい速度で無視した。どんなマニアックな物がそこに押し込められているのか、確認してやろうと思ったのだ。ちょっとした仕返しのつもりだった。

 ……クローゼットの中、ハンガーで吊り下げられた衣服の束の下に、それは無数に転がっていた。それはエロ本でもなくDVDでもない。

 そこにあった物は、彼がエイから受け取った物とまったく同じ見た目のオナホールだった。空き缶みたいに乱雑に、五〜六個のそれが捨て置かれている。

 そのオナホールには全て、深々と果物ナイフが突き刺さっていた。

 ナイフの刺さったオナホールにはそれぞれ、女性の顔写真が貼られている。全員別の顔で、全員、同じ制服を着ている。まるで卒アルから切り抜かれたような写真……。

 彼の脳内に、エイとの会話がよみがえる。エイはなぜそんな魔法を身につけたのか……と。その本当の答えは、目の前の光景を見るにきっと……。

「…………」

 彼はそっと戸を閉じた。そして何も見なかったことにしたのだ。…………おわり。

 ツイッターに投稿したその漫画は意外と評判がよかった。面白いとかエロいという感想は聞かなかったけれど、「怖い」という感想はいくつか見た。

 私がそれを投稿したのは夕方頃だったけど、ルカトゥからの反応はすぐには付かなかった。きっと仕事中だったのだろう。完全に日が沈み、月が空に上ってから、彼女のアカウントからのいいねは思い出したかのように飛んできた。

 それから間もなく帰宅したルカトゥは、第一声とは裏腹にわくわくした顔をしていた。

「先生ぇ〜新作見ましたよぉ。怖すぎますよぉ!」

「どやぁ〜!」

「ふふっ、さすがですねぇ……! あ、すぐ晩ご飯作りますからねぇ」

 ルカトゥは仕事の疲れをいつもおくびにも出さない。いや、仕事以外の疲れに関してもそうだ。それは魔力で体力を補っているからなのかもしれないし、単なる演技なのかもしれない。真実が何なのかは知らないけれど…………どこか私には見えない場所に彼女の「闇」が溜まっているような気がして、いつも深く考えたくはなくなってしまう。

 夕飯を食べながら、ルカトゥは改めて詳しい感想を言ってくれた。今日は冷しゃぶだった。

「でも先生ぇ、今回もなかなか目のつけどころが鋭いですよねぇ」

「そう……? どのへんが?」

「サキュバスは望んで魔法を覚えるってところですよぉ。本当にその通りなので、あぁなるほどぉってなりましたぁ。そこがなお怖いんですよねぇ……!」

 怖い怖いと言いながら、なぜか高揚しているようなルカトゥ。ホラー系が趣味に合うのかもしれない。そういえば彼女と一緒にホラー映画を見たりお化け屋敷に行ったりしたことはないなぁ……とぼんやり考える。どちらも、あまり私の趣味ではないのだ。

「ルカトゥも望んで魔法を覚えたの?」

「そうですよぉ」

「どんな魔法?」

「秘密って言ったじゃないですかぁ」

「むぅ、うっかり喋ったりはしないか」

 しつこくしすぎたかと思ったけど、ルカトゥは「ふふ、残念でしたねぇ」と、べつに機嫌を損ねたわけではないようだった。

「ところで先生ぇ、今日発売したわたしの出演作〜、見てくれましたかぁ」

「あー見た見た、サンプルだけ。ヤグラ君の好みに合うって言ってたのはあれのこと?」

「そうですよぉ。……お気に召しませんでした〜?」

「え、なんで?」

「だって先生ぇ、興味のある物は買ってくれるじゃないですかぁ」

「いやいやいや」

 たしかにかつての私は彼女の出演作を何本か、いや、何本「も」購入していた。サンプルを見て気に入った物を……と彼女には言っているけど、ぶっちゃけネットに転がっている権利的に真っ黒なエロ動画を見て、そこで気に入ったから誠意として商品を購入したことも多々あった。

 しかし何にせよそれは、私が生きていくための金を自分で稼ぎ、その稼ぎの中でやりくりしていた頃の話である。今はもうすべて過去のことだ。

「私はもうロクにお金持ってないんだよ? 買えないって」

「あ、しょうがないですねぇ。じゃあ今月から先生にはお小遣いをあげましょう」

「いやそういう問題じゃなくて。ルカトゥの稼いだお金でルカトゥの出演作を私が買うって、さすがにおかしいでしょ」

「そうですか〜……? わたしは、全編見てくれた方が嬉しいですけどぉ」

「うっ……」

 出た、ルカトゥの「わたしはその方が嬉しい」だ。

 それは悪魔の誘惑であり、わたしはすでに二度その誘惑に乗ってしまっている。一度目はヒモになること、二度目は、その上ロクに家事もせずに趣味としての漫画を描き続けること。

 三度目ともなれば、誘惑の抗い難さには追加の倍率がかかる。「もうこの手の誘いには全て乗ってしまった方が楽ちんで、幸せなんじゃないか……?」という思考が湧くのだ。……一方で、自分が人としてどんどんダメになっていることも痛いほど実感している。

 これが、人間相手なら話は違っていたのかもしれない。仕事から帰ってきたら多少なりとも疲れた顔をしていて、漫画ばかり描いていたら「少しは家事も手伝ってよ」と言ってきたりして、そして自分の出演するAVについてはどことなく話題を逸らすような、そんな人間が相手だったら、私も今とは違う生活をしていたのかもしれない。

 とっくに発売された「ルカトゥの体に入った私がAVに出演した時の映像」を、ルカトゥが嬉々として購入し視聴していた時のことを思い出す。あろうことか彼女はそれを、私と同室の真昼間から自らのタブレットで鑑賞し始めたのだ。それもスピーカーで。

 

「へぇ〜、先生ってこういう喘ぎ方なんだぁ……かわいい……。あ、ここ緊張が出ちゃってますねぇ、ふふっ」

「静かに見てくれないかなぁ……!?」

 

 ……そんなルカトゥなら、全編見てくれた方が嬉しいという言葉も本気で言っているような気がした。

「……本当にいいの?」

「買ってくれるんですか〜?」

「うん。正直、やっぱり見たいし」

「やったぁ〜!」

 というわけで、パソコンの中に私のお気に入り動画が一つ増えたのだった。私にはさすがに、出演者本人の前でそれを再生するような勇気はなかったけど。

 次の日もルカトゥは朝から仕事に出ていった。昼過ぎになったら彼女の用意してくれていた昼食をレンチンして食べ、外の熱気にうんざりしながらベランダの野菜に追加の水あげをする。そしていつもならそこから執筆に向かうところを、今回は別な理由でモニターの前に座った。……当然、買った物を見るのだ。

 AV特有のラノベじみてクソ長いタイトルのそれは、サンプル動画から察せられた通りやはり盗撮ものだった。ラブホの一室にいくつかの隠しカメラが仕掛けられており、女優が犯される様子をそこから眺める仕様になっている。

 視聴してみると、本作には、同ジャンルの中でも特徴的な点がいくつかあった。一つは舞台がラブホであるのに、盗撮されている状況が和姦ではないということ。ラブホでセックスをする男女のシチュエーションで無理やり感があるのは珍しいことじゃないだろうか? その手の盗撮ものといえばカップルのセックスを盗み見るだとか、不倫絡みだとか、そういう設定の物が大半のような気がするのだけど、今回画面の中のルカトゥは明らかに相手の男を嫌悪していた。

 そしてもう一つの特徴。それは時間経過の演出だった。映像には頻繁にカットが挟まれるのだけど、それによって時間が飛んだ際に、明確に「あ、飛んだ」ということが視聴者に伝わる作りになっている。と言ってもそれは不自然なカットという意味ではない。「行為は長い時間ずっと途切れなく続いている」ということが、カットを挟んだ映像からでもひしひしと伝わってくるという意味だ。

 男優は、バイブに始まり様々な玩具を持ち込んでは女優の体にそれを使い始めるわけだけど、使い終えた道具は全てカメラに映る範囲に捨て置かれる。場面が先に進めば進むほど、汚れた玩具の類はベッドの上へ増えて行き、そのうちベッドから溢れ落ちたかのように床にも転がり始める。いくつかある隠しカメラの中には時計が映る角度の物も用意されており、二時間三時間と過ぎていく時間をそれが淡々と表していた。

 そしてそういった舞台道具の描写に比例して、ルカトゥは見るからに弱っていく。初めの頃は「やっぱり嫌だ」「やめて」と頑なに抵抗していた彼女が後半へ行くほど無口になって、そのうち抵抗もやめて、うめくような声しか上げなくなる。泣き叫ぶ気力も消え失せ、汗でべたべたになった髪を顔に貼りつかせながらなおも弄ばれる彼女は、静かにその目から涙を流すばかりになる……。

 最終的に満足した男は相手をいたわることもなくその場を去り、汚れた玩具だらけの部屋に精液まみれでボロボロの女が横たわる悲惨な絵が無機質な定点カメラの目に映る。肩で息をするルカトゥを映したまま画面は暗転して、その作品は完結した。

 ……なるほど、これはヤグラ君の趣味にドンピシャのはずだと思った。彼のルカトゥに対する態度が社交辞令でなかったとすれば、彼はこの作品を見なければ人生をいくらか損してしまうだろう。というのも、彼の描くエロ漫画はいつも大体こういう感じなのだ。趣味の悪い男だ……なんて、私が言えた立場でもないのだけど。

 ともかく、今回の作品は私としても非常に満足のいく出来映えの物だった。性的な趣味にドンピシャ……というわけでは全然ないのだけれども、それでもクオリティの高い作品を見るのは良いものだ。いわゆる「実用性」の有無に関わらず、やっぱり自分は性的なコンテンツが好きなんだな……ということを自覚させられる。そしてそれはまた、漫画を描くモチベーションになったりもするのだ。

 ……とはいえ、執筆作業に入る前に、少し息抜きをしておこうと思った。その「息抜き」をできるタイミングは、ルカトゥと暮らし始めたことで激減したのだ。したい時にできるとは限らない分、できる時にしておいた方がいい。

 私は、三次元の作品をオカズにしたことがない。見ているとどうにもその生々しさが現実ぶりが、結局のところ自分の快楽とは無縁なのだと感じてしまって、気分が乗り切らないのだ。私自身にとって本物のセックスとは、どこまで行っても苦痛を伴うものでしかないから。

 けれど二次元作品であれば、そういった感覚とはどこか違った視点から「性」を見ることができる。そしてそんな二次元の中でも特にお気に入りの……つまり性癖に当たるジャンルが私にもある。強引だったり無理やりだったりする男が、しかしきっちり女性側を気持ちよくさせてくれるような、そうあることを至上としているような……そういう価値観の漂う作品がそれだ。

 スマホ片手にベッドに寝転がり、電子書籍でお気に入りの作品から今日の気分に当てはまる物を選ぶ。嫌だと言ってもカメラを向けてくるけど、そのかわりめちゃくちゃに気持ちよくしてくれる男の話があるのだ。

 ……執筆作業に戻ったのは、それから大体三十分くらい後のことになった。

 ルカトゥは、自分の出演作を私が「使って」いないと知ったら悲しむだろうか? 冷めた頭がそんなことを思いついては、本人の心の内を聞いたわけでもないのに、胸の中にモヤモヤした物を残していく。そんな胸中に言い訳をするかのように、私はさっさとペンを握る。

 これが賢者タイムというやつなのだとすれば、やっぱり人は適度に馬鹿な方が楽でいられるものなんだろうな……と思ってしまう。その楽さは別に、周囲の人間を悲しませないようにする物ではないのだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい漫画が完成する頃、三つの野菜たちはそれぞれ花を付けていた。ルカトゥはどの花も見るのは初めてだという。というかむしろ、野菜の花自体を今まで見たことがなかったかもしれないと、ある朝の本人が言っていた。

「へぇ〜、キュウリって黄色い花なんですねぇ。トマトも黄色いけど、なんかヘタみたいな形してる〜……。ナスビはイメージ通り紫かぁ。なんかスミレに似てますねぇ」

「スミレは真ん中そんなに黄色くないでしょ」

「じゃあ全部黄色が特徴だ〜。野菜の花ってそうなんですか〜……?」

「いや、そんなことはないと思うけど。たしかピーマンは白いし」

「へぇ〜!」

 なんだか子どもの自由研究に付き合っているみたいな気分になる。そんなことをした経験はないけれど。

 しかし実際、しゃがみこんで野菜の花を観察しているルカトゥは、途端に幼く見えてくるものだった。……セックスの猛者にはとても見えない。

 私は子どもの頃、花の色一つにそこまでの興味を示すことはなかった。いや、「そこまで」どころか「皆無」だった。今のルカトゥくらいの反応を私がしていれば、あの頃の父もそれを喜んだのだろうか。

 野比のび太の名言に「もっと上手くなってから練習しよう」という物があったことを思い出す。あれは怠け者のとんちきな言葉のように見えて案外真理だ。特に子どもにとっての様々には、時間経過で自動的に上手くなるということが大いにあり得る。花の色を知ることにありがたみを感じられるようになるのもその一つで、それを出来るようになるには、ただ歳を重ねるしかないように私は思う。どんな風流も早くに知りすぎると、それが当たり前に感じてしまうのだ。

「それじゃあわたし〜、そろそろ行ってきますねぇ」

「うん、行ってらっしゃい」

 ひとしきり観察を済ませたルカトゥが仕事に向かう。玄関で足元も見ずに靴を履くその背中に、私は声をかけた。

「もしかしたら今日あたり、新作完成するかも」

「わぁ、楽しみにしてますねぇ! ……お昼、ちゃんと食べてくださいよぉ」

「うん。水もあげとくよ」

「は〜い」

 まるで友達の家に遊びにでも行くかのように軽い足取りで、ルカトゥは暑くて厳しい外の世界に出て行った。

 玄関の鍵は、すでに合鍵を持っている彼女が自分で閉めた。そのガチャンという音をゴング代わりに私は自分の作業に戻ることにする。新作は今日完成するかも……ではなく、完成するのだ。もう作業進行度は九割を超えている。

 今回描いた漫画のタイトルは「アブノーマル・アクティビティ」。いつか見たルカトゥの盗撮ものAVから着想を得て描き始めたその漫画の作風は、白か黒かで言えばまたしても黒いものになっている。その内容はざっとこのようなものだ。

 彼女持ちのイケメン創作家「川井」はいつも、その彼女「黒須」から茶化すようにして「芥川」と呼ばれている。黒須は川井本人がいない場でも「昨日、芥川がさ〜」とニックネームを使って彼氏のことを話すから、そんな黒須からいつも惚気話を聞かされている女友達の「入野」は、噂の芥川君とやらがどんな小説を書いているのかにそれなりの興味を持っていた。入野は一度も彼の作品を見たことがなく、また、一度も彼本人に会ったことがないのだ。

 しかしそんな入野はある日、知り合いとの何気ない会話から自分の勘違いを知ることになる。

「私、芥川くんの小説をまだ一度も読んだことがないのよね。彼女の友達のよしみで見せてくれたっていいのに」

「え? 芥川くんって小説家なの?」

「……は? ちがうの?」

「だって黒須さんこの前、芥川くんの絵柄がどうとかって言ってたよ。漫画家なんじゃないの?」

「マジで……?」

 後日そのことを問いただすと、黒須は「言ってなかったっけ」とすっとぼけた返事をした。入野の中でただでさえミステリアスだった芥川という男の存在が、さらに未知の度合いを増していく。

「え、じゃあなんで芥川って呼んでるの……?」

「それは……まぁ話すと長くなるんだけど。そうだ、ちょうどいいし今度うちに遊びに来てよ。その件について見せたい物があるんだ」

「ふーん……?」

 いよいよ芥川の作品を見られるのだろうか……と期待しながら、入野は次の週末に黒須の家を訪ねる約束をした。

 そして当日、一人暮らしをしている黒須の家に入野が赴くと、通された私室には彼女と芥川のツーショット写真がいくつも飾られていた。仲が良いようで何よりだと思う一方で、異性との交流に欠ける入野は若干の嫉妬も覚える。

 お茶とお菓子を出しながら、黒須はおもむろに言った。

「芥の意味って知ってる?」

「え?」

「ゴミとかクズって意味なんだけど。……これ、見て」

「なにこれ?」

 ある動画ファイルを再生した状態で黒須からスマホが手渡される。入野は初め、そこに映っている人物が誰なのか分からなかった。

 画面の中で、一人の女が複数の男に押しつぶされるかのように強姦されている。下卑た笑みを浮かべる屈強な男たちの中心にいるのは、それは黒須だった。

「……なにこれ」

 動画の中で泣き叫ぶ彼女と対照的に、目の前の黒須は涼し気な顔で茶を飲み、クッキーをかじっている。……漠然とした恐怖を感じて、入野の全身に鳥肌が立った。

 レイプ動画の舞台は、見間違いでなければ、今二人がいる黒須の私室だった。芥川と彼女のツーショット写真もきっちり映り込んでいる。

「あの芥川は、見たものしか描けないんだって。で、恋人がレイプされる漫画を描きたくなったからって、その男たちにわたしの家の合鍵を渡して……。……事後承諾だよ? ひどいと思わない?」

「ひどいって……そんな、ひどいなんて物じゃない! なにこれ、いつのこと!? あんたいつこんな目に遭って……」

「結構前だよ。三ヶ月は前かなぁ」

「……なんでそんな平気そうなの?」

「え? だって最後にちゃんとネタバラシしてもらえたから。分かってみればそんなに騒ぐことでもないでしょう?」

 その時、玄関の方で鍵が開く音がした。恐怖に歪んだ顔の入野が振り返ると同時に、ガタイのいい男たちが何人も部屋に乗り込んでくる。

 全員、動画の中と同じ下卑た笑みを浮かべていた。

「でね、彼、次は「友達に騙された女の子」が見たいんだって」

 ……おしまい。

 描き終えてから時計を見ると、ちょうど昼過ぎだった。

 冷蔵庫を開けて、皿に盛られた大量のスイカを持ってくる。それは今朝ルカトゥがカットしておいてくれた物で、食べやすいようにサイコロ状になって積み重なっていた。爪楊枝でそれを口の中に放り込みながら、完成した漫画の投稿作業を進めていく。

 こういう風な切り方で食べれば下へ行くほど味が薄くなることの悲しさも感じずに済むし、手も汚れない。切る側の手間以外は完璧な方法だなぁ……と思いながら画面を眺めていると、投稿完了した漫画にぽつぽつといいねが付き始めた。ルカトゥからの反応はない。仕事中なのだろう。

 ……と、流し見していた通知の中に、ある人物からの反応を発見した。危うく見逃すところだった。

 そのアカウントのアイコンには見覚えのある絵柄で、肉感的な美女のイラストが使用されている。

 

『ツチノコヤグラ(作品集「昼夜不退転」発売中!)』

 

 ……彼からいいねをもらったのはこれが初めてだ。私と同じく、彼も社交辞令でそれを押すタイプではないのだと思っていたけど、なら今回は特別に気に入ってくれたということなんだろうか?

 その数時間後にルカトゥからの通知も入って、夕日が地平線の彼方に沈むのと同時くらいに、彼女は家に帰ってきた。

 なぜかその「ただいまですぅ」という声に、どことなく不機嫌なニュアンスを感じる。

「なにかあったの?」

「何かってほどではないですけどぉ」

「けど……?」

「……あの土屋って人が先生にいいね押すの、今回が初めてですよねぇ……?」

「えっ」

 この子、そんなところまで毎度確認しているの……? と思わず若干引きかけてしまう。根拠はないけど、ルカトゥなら本当にそれくらいの監視をしていてもおかしくないような気がした。

「そうだと思うけど、なんで……?」

「やっぱりあの人、先生のこと狙ってるんじゃないですかぁ……?」

「いやいやいや」

 そんなことはあるはずもないけれど。しかしルカトゥにとっては、すっかりあの男が警戒対象になっているようだった。

 夕飯を食べる時に、雑談の一環として聞いてみることにする。今日は焼き魚だ。

「仮にだけどさ、ルカトゥ的には、私がヤグラくんとホテルに入ったら嫌なわけ?」

 ルカトゥの箸が止まる。

「……行くんですか?」

「なわけないでしょ」

「ですよねぇ……。……でも、それは正直嫌ですよ」

「どうして?」

「先生に嫌な思いをしてほしくないからです」

 私が首をかしげると、ルカトゥは言いづらそうに続きを切り出す。なぜ言いづらそうだったのかは、聞いているうちに分かった。

「だって、その、先生は……。……根拠はないですけど、でも、先生のことを気持ちよくさせられるのがあの人だとは、とても思えないんです」

「あ、そういうこと」

 つまりルカトゥは、私がより一層セックスのことを嫌いになるのではないかと心配してくれていたのだ。何かあれば、文字通り痛い思いをするのは私だろうと。

 ……本当にそれだけなんだろうか? と疑う自分がいる。ルカトゥは、どんな女性でも気持ちよくさせられる男が仮にいたとすれば、私がその男と寝ることを歓迎するのだろうか……?

 そのあたり、彼女のことは未だによく分からない。不服そうにする図も大歓迎で見送る図も、むしろ自分がその男とシようとする図も、どれも容易に想像できてしまう。

「そういうことか〜って、どういうことかと思ってたんですかぁ……?」

「いや、ルカトゥはもしかして、私が誰かと寝ること自体が嫌なんじゃないかなって。自意識過剰なこと考えちゃった」

「えっ?」

 キョトンとした彼女の顔を見て、ちゃんと自虐的な言い回しをしたのに今の自分の言葉が恥ずかしくなってくる。もしかして自分は本当に思ったより自意識過剰になっているのか……? サキュバスとして性に奔放なはずのルカトゥが私とヤグラ君の関係にいやに興味を示すものだから、何か特別な意味があるのかもと思ったのだけど……。

 悟られないようにこっそり恥じる私に、ルカトゥから続けてごもっともな言葉が送られる。

「え、それだったら、先生と体の入れ替えっこなんかしてませんよぉ。AVなんてなおさら」

「あぁ、それもそうか」

 そうだった。かつての彼女は、私(の魂)を男に抱かせることについて積極的な立場にいたのだった。今さら私が誰かに抱かれることについて嫉妬(?)なんかするはずがなかったのだ。

 そうするとつまりルカトゥは、私がルカトゥの体を借りている状態(=セックスに耐性がある状態)にさえなれれば、ヤグラ君を警戒することもなくなるのだということになる。……言い換えれば、おそらく一生彼女はヤグラ君を警戒するのだろう。若干面倒な人間関係が生まれてしまった。

 私がそんなことを考える一方で、ルカトゥはどうやら、数瞬前に私がこっそり終わらせたはずの羞恥を見逃してはいないようだった。

「もしかして先生ぇ、わたしが嫉妬するとか思ったんですか〜……?」

「え?」

「土屋くんのことなんか見ないで! 先生にはわたしがいるでしょ! みたいなぁ」

「あはは、ちょっと思ったかも」

「……じゃあ逆に聞きますけどぉ、先生はわたしが嫉妬したらぁ、わたしのことだけ見ててくれるんですか〜?」

 ルカトゥの箸が再び、今度は緩やかに動きを止めた。……私の箸が止まったから、それに連動したのだ。

「……いいよ?」

「えぇ〜、本当ですか〜? そう言ってくれるのは〜、嬉しいですけどぉ」

「そう? でも、だってもう実際、私にはルカトゥしかいないからね」

「あはは、そうかもですねぇ」

 私の人生の命運を握る彼女は、その自覚が有ってか無くてか、そうやって私の言葉を受け流した。いや、受け流すというか、全てはほとんど冗談だったのだろうけど。

 骨だけになった魚を前に、二人同時に「ごちそうさま」と手を合わせる。皿を水につけて、漫画も描き終わったし今日くらいは私が洗うよと告げると、ルカトゥは「わぁ、ありがとうございますぅ。じゃあお願いしますね〜」と嬉しそうにしながら、自分は風呂場を洗いに消えていった。本当によく働いてくれる子だ……。

 ……何ということはない一日だったのに、この日を境に、私は再び漫画が描けなくなった。シンプルにネタが切れたせいだと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に漫画を完成させた日からはたしてどれくらい経ったのか……。数えることもやめてしまって久しい。

 仕事のスケジュールが落ち着いたらしいルカトゥはその週、一日中家にいることが多かった。いや、正確には毎日一度は必ず「食事」に出かけていくのだけど。

 そのルーティーンとは別に、彼女は朝と昼過ぎの二回、毎日機嫌よく野菜に水をやっている。いよいよそれぞれの実がなり始めてきたようで、「トマトってぇ最初はこんなに緑なんですねぇ」と、また子どもみたいなことを言っていた。

 一方で漫画のアイデアが浮かばなくなった私は、毎日ひたすらアニメを見たりゲームをしたりして過ごしている。ルカトゥと一緒に遊ぶこともしょっちゅうある。特にスマブラの実力は拮抗していて、一日中タイマンしていても飽きはこなかった。……同じくらい一向に、漫画のアイデアも天から舞い降りて来てはくれなかったのだけど。

 アイデアとはどこからやって来るか分からないものだ。探せば見つかるとも限らず、その逆もまたしかり。少なくともスマブラは創作を助けてくれないようだったけど、じゃあ今まで描けた物のアイデアはどこから来たのだったか……と、一度振り返って考えてみることにする。私は少しだけ焦っていた。

 アマチュアに戻ってから初めて描いた漫画は巨乳にまつわる話だったけれど、描くのではなく「思いつく」ことからしてアマ後初めてだったのは、オナホと感覚を連動させる魔法の話「みんな空の下」だ。あれを思いついたことには理由がある。

 今ルカトゥと一緒に住んでいるこのマンションの一室は、元々は私が一人暮らしをするために借りたものだ。だからこの部屋はそれ相応に狭い。そしてその狭さが何を意味するのかというと、ルカトゥに私室というものを用意してあげられる余裕がないことを意味している。もちろん私にも私室はない。一人暮らしを始めるにあたって「自分の部屋」なんて物が必要になるとは思わなかったのだから当然だろう。

 そこで、もしルカトゥに部屋があったら、彼女はそこをどんな風に使っていたのだろう? と考えた日があった。そしてその考えの中で、彼女の魔法の内容が今も秘密にされていることを思い出して、もしも恐ろしい「秘密の正体」が部屋の中に眠っていたら……という発想をするに至ったのだ。その結果あのホラー展開が生まれた。

 その次に描いた「アブノーマル・アクティビティ」は、あれは見て分かる通り、「私がやっていたことって、人間相手だったら非道すぎるよなぁ」という発想から来ている。

 腕を縛った状態での騎乗位の話に始まり、私は今まで何度かルカトゥに「実験」を依頼している。ツインテールを手網のようにして後背位をやるのは人間の首の耐久度的に無理なんじゃないか……とか、他にも色々な案件を彼女に「実録」してきてもらったことがあったのだけれど、それはあくまでも彼女が乗り気なサキュバスで、なおかつ同意を取っていたから許されたことだよな……と改めて思い、じゃあ逆に許されないパターンの方を漫画にしてみようと試みたのだ。

 また、なぜ今になって「実験」に関することを思い起こしたのかというと、そのきっかけは二つあった。一つはルカトゥのAVを見たこと。私はルカトゥに漫画のネタを求めていろいろしてもらったけれど、彼女を盗撮したことはない。盗撮は「同意を得る」と矛盾するからだ。でも、だからこそ盗撮もののAVを見た時にピンと来た。次の漫画はこれだな、と。

 そしてもう一つのきっかけは、私自身がルカトゥに養ってもらっている上に家事まで任せきりである件について、はたしてそれは同意を得ているからといって許されるものなんだろうか……と、客観的な現状のダメっぷりを何度か思い出していたからだった。

 私は、それぞれの漫画の出来にはとても満足している。というのは、片方はサキュバスがヒロイン、もう片方は人間がヒロインになっていて、そのどちらにも「そうでなければならない理由」が備わっているからだ。

 オナホの話はサキュバスがいなければ成立しなかった。芥川の話は人間相手でなければ笑い話で済みかねないものだった。自分の創作はサキュバスと人間を使い分けられているのだ! と、まだたったの二作だけれど、かつての苦悩を克服できるような気がしたのだ。

 ……その調子で三作目以降が続けば、もっとよかったのだけれど。仕事で漫画を描くことを辞めたはずの私の心には、義務がなくてもなお焦りが湧きつつある。なまじこれまで調子よく描けていたばかりに、描けなくなることそれ自体が怖いのだ。

「先生ぇ! ちょっと大変ですよぉ!」

 ある日、私がアニメを見ていると、おもむろにスマホをいじり始めたルカトゥがなぜかURLを送信してきた。画面を見せてくれればいいのに……と思いつつそれを開くと、ある一つのツイートが表示される。

 

『RTにインスパイアされて続きを描いてみました』

 

 その一行と共に、二枚のイラストが投稿されていた。投稿者はツチノコヤグラ。あの時押したのはいいねだけだったのに、彼は今日になって……というか今まさにこの瞬間になって、「アブノーマル・アクティビティ」をリツイートしていた。

 投稿されたイラストはどちらも漫画形式だった。同じ大きさの横長のコマを四つ積み重ねた彼お得意のコマ割りで、計八コマを使い黒須と入野が犯されていく一部始終が描写されている。……無論それは、私とは全然テイストの違う彼の絵柄で描かれていた。

 黒須が慣れからか終始淫靡な笑みを浮かべ、性欲まみれの屈強な男たちと親しげに会話しながら犯されている一方、入野は初め泣き叫びながら、黒須に助けを求めていた。しかし彼女の声は誰にも届かず、コマが先へ進むほど、入野だけが惨めに弱っていくことになる。彼女の台詞から「言葉」はなくなり、その分悲鳴にも似た苦しそうな喘ぎ声が増える。表情には明らかに疲弊の色が浮かんでいった。

 これはきっとヤグラ君もあのルカトゥのAVを見たんだな……と、そう感じた。理屈ではなく直感で、彼と心が通じ合った気がした。

「おお、すごいねこれは。二次創作に当たるのかな」

「言ってる場合ですかぁ! 先生の漫画に勝手に続きを描くなんてぇ、なんなんですかあいつぅ!」

「まぁまぁまぁ」

 たしかに同業者としては、人の漫画の続きを勝手に描くというのは中々リスキーなことであるような気がしなくもない。けど今回の彼に関しては、私がその手のことで気を悪くするタイプではないと見抜いた上で決行したのだろう。監視するルカトゥの存在が誤算だったというだけで。

 ヤグラ君から寄せられた「続き」を見て改めて思う。私は性的なコンテンツが好きだ。より正確に言うと、性的なエンタメ作品が好きだ。だからヤグラ君が私の作品を気に入ってくれて、その勢いで続きまで描いてくれたことは素直に光栄に思う。良い物を見せてもらった。

 けれどそれと同時に、私は自分の創作についてあることを気付かされた。それは、ヤグラ君の描いたような「続き」を、自分で描こうとはこれっぽっちも思っていなかったということ。それを再認識させられた。

 考えてみればおかしな話だ。エロ漫画家が、ストーリー上自然に導入できる濡場を描かずに作品を切り上げるだなんて。考え方によっては本末転倒とさえ言えそうな事だと我ながら思う。

 私も一応そのおかしさを、ヤグラ君のファンアートを見るよりも早く自覚してはいた。だから好調に漫画が描けたところで「こんなに描けるなら商業誌でもやっていけたのでは?」とは思わなかったのだ。アマチュアとして描いた漫画はどれも、商業誌にエロ漫画として載せるには足りない内容だったように思うから。……けれどそれが、漫画としての質に劣ることだとは私は思わない。

 これが「月光の体験」の影響なのだろうか……? あれを描いたことが、自分の創作のターニングポイントになったような気がしている。ストーリー偏重……それが今の私の作風なんじゃないか?

 ただエロいだけのシーンは他人に描いてもらう。いざ味わってみると、それが一番理想的であるような気さえした。

「苦労せずに自作のエロシーンを描いてもらえるなんて、ありがたいことじゃない」

「でも先生は、それを描かないことで「完成」にしたじゃないですかぁ。描こうと思えば描けるのにぃ」

「まぁね」

「蛇足ですよぅ、冒涜ですよぅ」

「ルカトゥは、私の漫画のエロ以外の部分も気に入ってくれてるんだね」

「当たり前じゃないですか〜。わたしは先生の漫画の全部が好きですよぉ」

「信者だな〜。ありがとね」

 ルカトゥが私の「エロ漫画」ではなく「漫画」に興味を持ってくれていることは、実はずっと前から知っている。彼女は「月光の体験」を気に入ってくれているのだ。

 ヤグラ君は、月光の体験にはいいねを押していない。彼はイチャラブを好まないからそれが理由だろう。彼の作風の特徴といえば「長時間のセックス描写」だけれど、きっと本質はそこだけではないのだ。

 私は、今のところほとんどのことに気付けているように思う。ヤグラ君の趣味、自分の作風の変化、ルカトゥの信者っぷり、……そして、アマチュアになってから描いた作品の「きっかけ」の共通点にも。

 巨乳もオナホも芥川も、アイデアが湧いたきっかけには全てルカトゥがいる。いつか次作が描ける時がきたとしても、きっとその時はまたルカトゥがきっかけになっているのだろう。そんな予感がする。

 けれど、何がきっかけになって何がそうはならないのか、それだけが私には把握しきれないことだった。家庭菜園も花火も、漫画のアイデアには繋がっていないのだ。きっかけの塊であるルカトゥと一緒に暮らしているはずなのに、漫画を描かないままもう何日が過ぎたのか覚えていない有様になっている。いったい何が今までと違うというのか……。

「…………」

「……先生ぇ?」

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「またエッチな妄想ですか〜?」

「いや違うけど……」

 ふとデジャヴを感じる。いつだったかも同じようなやり取りをした気がした。

 ……あれは、そうだ、ルカトゥに正面から抱きつかれた時のことだ。その時の感触をきっかけに「巨乳かー……」と漫画のことを考えていた時に、彼女と同じようなやり取りをしたのだった。

 その時の私は、たしかルカトゥから「先生のえっち」と言われてこう返したんじゃなかったか。……そうじゃないと漫画は描けないでしょ。

 私は性的なコンテンツが好きだ。かといって、必ずしもそれが漫画のアイデアの種になっているとは限らない。現に「みんな空の下」を思いついたことに性的なものは関係なかった。……が、「アブノーマル・アクティビティ」はルカトゥのAVがきっかけになっていたし、巨乳に触れることだって性のうちだと思えば、今のところ三分の二の作品はルカトゥ+性がきっかけになっている。……確かに百発百中ではない、けれど無視もできない数だ。

 そして、そのルカトゥは今も目の前にいる。

 魔が、お天道様とは反対の方向から頭の中に差し込んでくることが分かった。

「ルカトゥさ」

「は〜い?」

「私の漫画のためなら脱げる?」

 口に出してみて、馬鹿なことを聞いたと気付く。聞くまでもなく彼女はいつもそれをしてくれているじゃないか。私が買ったAVはまさにその形跡だ。

「いいですよぉ? 久しぶりに実験したいことが見つかったんですかぁ」

「うん。漫画のアイデアに繋がるかは分からないけど、パッと思いついた物なら一つ。……いや正直ただの興味本位だけど」

「いいじゃないですかぁ。どんなことですか〜?」

 できるだけ努めて、きりっと真剣な面持ちを作って言う。

「……ルカトゥ、私におっぱい揉ませてくれない?」

「……え、先生にぃ?」

 実験を依頼していて始めて、彼女の表情が汲み取りきれないほど複雑に移ろった。今までは笑顔の二つ返事で、なんならおどけて敬礼して見せてくれる時もあったのに、同棲している身であることもあいまって今回のこれはさすがにまずかったのか……。

 嫌ならいいんだ忘れてほしい……と即座に引き下がろうとした時、ルカトゥの口から先に出た言葉は予想外のものだった。

「先生ぇ、無理はしなくていいですよぅ……?」

「え?」

「漫画ならいつか描けるはずですし、もし描けなくても、わたしは先生とずっと一緒にいますからぁ」

「いや、え、うん、ありがとう。でもなんでそういう話になる……?」

「え? だって先生言ってたじゃないですかぁ。友達とそういうことするのは嫌だって〜」

「……あ〜」

 光の速さで記憶がよみがえる。

 そうだ、初めての依頼で騎乗位の話をした時に、ルカトゥは実演の相方として真っ先に私を指名したのだった。女同士でもペニスバンドを付ければ出来るだろうと。そして私はそれを断った。友達とそんなことをするのは御免だし、友達のガチオナニーを横で見るのも嫌だと。

 そう、確かに私はそう言った。そしてその気持ちは今も変わらない。漫画のためならレズセックスくらいするぜ! という気持ちになったわけでは断じてない。……ただ、胸くらいならいいかなと思っただけなのだ。

「胸もダメ?」

「ダメって〜……?」

「私としては、それくらいならセーフかな……みたいに思ったんだけど。あ、それから他にも理由があって」

 己がただのスケベではないことを弁明する男もそうなるのではないかというくらい、私の舌は妙に早く回った。

「今まで描いた漫画ってルカトゥとエッチなことの組み合わせがきっかけになってたことが多かったから、試しにちょっとそういうことしてみたら新しいアイデアが浮かばないかな〜みたいな、せっかく目の前にいるしサッと試せないかな〜みたいな、出来心っていうかさ、そういう感じなんだけど……。……すいません舐め腐ってました」

「ふ〜ん……?」

 いつの間にかルカトゥは、いつか私も漫画で描いたことがあるような淫靡な笑みを浮かべていた。そのまま瞳を覗き込まれると、思わずドキッとして身を引きそうになってしまう。

「そんなこと言ってぇ、先生は〜、ただわたしのおっぱいに興味があるだけなんじゃないですかぁ?」

「そ、そんなわけないでしょ」

「いやらしい先生ぇ〜、まだお昼ですよぅ」

「だから違うってば! 私はヘテロだっての! もう、別にダメならダメでいいよ。普通に失礼なこと言ってるのは分かってるし……」

「あっ、あ、先生ぇ、ダメなんて言ってないじゃないですかぁ」

 微妙な気まずさを感じてその場を離れようとした私を、ルカトゥがすがり付くように引き止めてくる。それを引きはがすほどには私も意地を張っているわけではないから、まるで今の言葉を待っていたかのような雰囲気が出てしまうことに心外さを覚えながらも、おとなしくその場に座り直すことを選んだ。

 ……実際、ルカトゥの胸に興味があるという話も、完全な見当違いではない。私は彼女と体を入れ替えた際に「自分のもの」としてその胸に触れている、揉んでいる。だからこそ気になるのだ。それは「自分のものとして触れる」のと「他人のものとして触れる」のでは別なものなのだろうかと。

「じゃあ、いいの?」

「はい、もちろん」

 ルカトゥは床の上に正座したまま、躊躇なく服の裾を下着ごとめくった。

 映像で見慣れたはずの胸がいざ目の前に現れると、でっか……という感想が頭の中を埋め始める。服の上から見える物は真実の半分でしかないことを思い知らされる……。

「……どうぞ〜?」

「あ、うん」

 数度まばたきをして、半ば思考停止していた脳みそを叩き起こす。

 私は、どうせなら一番贅沢な感じの触り方をしてやろうと思って、両手を伸ばして左右の胸を鷲掴みにしてみた。

「んっ……」

 ルカトゥの口から小さな喘ぎが漏れた気がしたけれど、気のせいだと思うことにする。

「おお……」

 他人のものとして触れたそれは、触れているもの自体は同じはずなのに、以前よりもっとやわらかい物として私の手に感触を伝えてきた。下から抱えるような触り方をしているわけでもないのに、すでに重量感もしっかりある。同性とはいえ「貴重なものに触れてるなぁ」という感覚があった。

 やや遠慮しつつ何度か適当に揉んでみると、重さから想像するよりも遥かに軽くふわふわとした感触で、しかし吸い付くように指が沈み込む。それについては自分のものとして触れた時とほとんど同じ感覚だったけれど……、「触れられている側の感覚」がこちらに来ない分、なおのこと手のひらの感触にだけ集中できる。

 つまりは、それは入れ替わりの時に触れたものとは全く別物のように感じられる物だった。

「ん……はぁ……」

「…………」

 しばらく無心で揉んでみる。残念ながら、別にそれで漫画のアイデアを思いつくわけではなかったけれど。

 揉まれた乳の形が指に合わせて変わるたび、何かを誘うようにその胸の先の突起が視界に揺れる。……私は出来心で、そこに指の先を押し込んでみた。ポチっとスイッチでも押すみたいに。

 指先に、思っていたより固い感触があった。

「んんっ……!」

 嬌声としか思えない声が、真昼間の部屋に響く。

「あの、ルカトゥさん」

「はぁい……?」

「喘がないでもらえますか……?」

 ルカトゥの目が、いまだかつて見たことがないほど泳いだ。

「え、べつにぃ……? そんなにあんあん言ってましたぁ?」

「あんあんは言ってないけど……」

 試しにもう一度乳首を押し込んで、ぐりぐりと渦を巻くように指を動かしてみる。

「んぅっ……ふぅ……!」

「…………」

 ……何かがおかしい。

 私は興味本位で、ちょっと罪悪感が湧きつつも、その豊満な胸を思い切り握りしめて……いや握り潰してみた。

「あぁっ……!」

「痛い……?」

「い、いたくは……ないですぅ……」

「そう……?」

 そう、彼女の体はそれくらいでは痛みを感じない。いや、感じてはいるのだけど、それを悪い物とは認識しないのだ。入れ替わったことがあるからそれは私も知っている。

 痛みについては自分の体に耐性がなさすぎていまいち参考にならないのでネットで調べてみたけれど、インターネット上での人間の女性の見解を見る限り、痛みへの耐性はやはり完全にサキュバス特有の物らしい。いやむしろ、サキュバスでもそれは痛いという意見もそれなりの数見かけたので、ルカトゥの体はサキュバスの中でもそれなりに特別な可能性もある。

 ……ともかく、当たり前といえば当たり前だけれど、少なくとも普通の人間は、体の一部を握りつぶされると普通に痛いのである。けれど、ことルカトゥ相手に関してはその理屈が通用しないのだ。

 ……だから、ルカトゥにならこうしても大丈夫だろう。そう思って、今度は彼女の乳首を思い切りつねってみる。

「んあぁっ……!」

「ルカトゥ、気持ちいい……?」

「うぅ……」

 こくこく、とルカトゥはうなずく。彼女は、なぜかあっという間に涙目になっていた。

 彼女の体のことを文字通り自分のもののようによく知っている私からすれば、それは「痛いけど気を遣ってそう言っている」という方がまだ納得できることだった。

 ……いや、痛いはずはないのだ。私の時はそうだった。「この体は何か様子が違うぞ?」と気づいてから、一人でいろいろと触ってみたのである。思い切り握りつぶしたり、つねってみたりもした。自分の体だから無意識に手加減してしまっていたのだろうか……? かなり無茶なことをしても、涙が出るほど痛いなんてことは絶対になかったのに。

 けれどそれ以上に、仮に彼女が今「気持ちいい」と感じているなら、それもおかしいはずなのだ。いくらサキュバスの体とはいえ……、いくら性行為に適性のある体とはいえ、いくらなんでも胸だけでそこまで気持ちよくなるなんてことは私はなかった。全く同じ体を自分のものとして体験したはずなのに……。ルカトゥだって私の体でオナニーしようとしてドン引きするに至ったはずなのに。違うというのは、おかしいじゃないか。

 でも、だとしたら、今のルカトゥの反応はいったい何なんだろう……? 予想だにしない謎に対面して、私の好奇心は急加速しはじめる。

「痛かったら言ってね……? やめるから」

「は、はい……。……えっ、先生……?」

 私は、彼女の胸に口をつけてみた。舌を這わせて、そこを無遠慮にぬるぬると唾液まみれにしていく。

「んっ……あっ……先生ぇ……」

「なーに?」

「な、なんでも……ないですぅ……」

「……ルカトゥ、痛かったら本当にごめん」

 私はそこで、その胸が「自分のもの」だった時には絶対に出来なかったことを試してみた。……乳首に歯を立てたのだ。もちろん加減はしたつもりだけど。

「んぃっ……!? あっ、やっ」

「痛かった……?」

 ルカトゥはぶんぶんと首を振る。まるでそれだけは絶対に否定しなければならないという風に、とにかく勢いよく。

 彼女に、サキュバスでも泣いてしまうくらいの痛みに耐えてまで私に好き勝手させる義理はあるのだろうか……? そうではない気がして、私はもしかしての思いで尋ねてみる。

「……もっとしてほしい?」

「…………うぅ」

 まるで恥じらいを伴っているかのような、静かで小さなうなずきがコクリと一回だけ返された。

 私はもう一度彼女の胸に舌を這わせ、歯を立てる。そしてその敏感そうな突起を前歯で挟んで、すり潰すようにギリギリと左右に動かした。

 ルカトゥは、やはり喘いでいたと思う。

「あっ、あぅぅ……、先生ぇ……先生ぇ……」

「なーに……?」

「……も、もっとぉ……」

「……いいよ?」

 これ以上強く噛んでは怪我をさせてしまいそうだったので、私はひたすら同じことを繰り返す。加減した噛みつきで彼女の胸の先をいじめて、舌先でその形を確かめたりする。

 その間ずっと、ルカトゥは明らかに喘いでいた。もはや言い訳のしようもなく、そのうちそれこそアンアンという気持ちよさそうな声が頭上から響き始める。

 ……そしてある時彼女は、びくっと全身を跳ねさせたかと思えば、そのまま体をこわばらせた。……空耳でなければ、直前に「イク」と言っていたように聞こえた。

 淫靡……と表現するには弱々しすぎる顔をしたルカトゥと、彼女の胸から離れた私の目が合う。かつてないほどか弱く見えた彼女の肩を、私はポンと突き飛ばしてみた。何の抵抗もなく彼女は背中から床へ落ちていく。

「あっ……」

 紅潮した顔ではぁーはぁーと肩で息をするルカトゥを、見下ろす形になる。……いつかの冗談を思い出した。体を入れ替えた日、偶然彼女を押し倒すような形になってしまった時、私は言われたのだ。先生にだったら……と。

「先生ぇ……?」

「……ルカトゥ」

 なんとなく、唇を奪うべきなんだろうなと思った。そして意外なことに、今の私にはそれがべつに嫌なことのようには思えなかった。

 ……けれど、そんなことをする覚悟は持ち合わせていない。

「ありがとう、漫画のアイデアが浮かんだよ」

「あ……」

 ルカトゥは、明らかにつらそうな顔をした。

「アイデア……そうなんですねぇ……。それは、それはよかったですぅ」

 我に返ったかのように身を起こした彼女が服の裾を下ろして、他人の唾液に濡れたままの胸をさっと隠す。よっこいしょ〜、なんてわざとらしく言いながら立ち上がった彼女は、そのまま玄関へ向かった。

「先生ぇ、わたし「ご飯」食べてきますねぇ。なんか今のでお腹減っちゃいましたぁ」

「え、あ、うん」

「漫画、楽しみにしてまぁす」

 急ごしらえしたような笑顔を浮かべて、ルカトゥは逃げるように家を出て行った。すぐにガチャンと鍵の閉まる音がする。

 唐突に一人になった私は、……しかし液タブの前には向かわなかった。漫画のアイデアが浮かんだというのは嘘じゃない。だけど今は、頭の中がそれどころじゃなかった。

 ソファ代わりのベッドに座り、背もたれがないからそのまま寝転んで、この数分の間に何が起こったのかを頭の中で整理しようとする。……が、上手くいかなかった。漫画のアイデアと思考がごちゃ混ぜになってしまう。

 結局その日の私は漫画を描かなかった。そして帰宅したルカトゥがまったくいつも通りの様子になっていたことに内心ひっそりと安心して、彼女の作った夕食を食べ、彼女の洗った風呂に入り、彼女が布団を敷いた隣のベッドで眠った。

 床につくまでの間に一度、ルカトゥから「なんか元気ないですか……?」と聞かれた。別にそんなことはないと答えると、多少訝しげな顔をされたものの、それ以上のことはない。

 暗い部屋の中、天井を見上げながら私は再び考える。今日の出来事は……ルカトゥのあの反応はなんだったのかと。気が落ち着いたのか、今度は上手く考えられた。

 まず一つ思いついたのは、あれは演技だったんじゃないかということ。どう見てもそのようには見えなかったけれど、それはAVの中の彼女の演技を見ていても同じことだから、演技説を否定する理由にはならない。……その説を否定するのは、ルカトゥにはそんなことをする理由がない……という点の方だ。が、それは逆に言えば、仮に私の気付けていない「理由」がどこかに存在しているなら、前提から話が変わってくるということでもある。

 ルカトゥが演技をするに至る理由はまったく思いつかないので一時保留にするとして、もう一つ考えられるのは、彼女はあの時本当におかしなくらい敏感に感じていたのではないか……という説。ひいては、なぜそうなったのか? という理由について考えられること。

 彼女の魔法が不明である以上、どこかに魔法が絡んでいる可能性もゼロではない。がしかし、どんな魔法を持っているにせよ、あのタイミングで「いつもより気持ちよくなるため」にそれを使ったということはあるまい……。それとも別な理由で魔法を使い、副作用的な結果によって表面上はただ過剰に感じている風に見えただけだったのだろうか……?

 一度はそんな風に考えてみもしたけれど、やはりそういった説は無理筋であるように思う。というのも、なにせ彼女がされたことといえば、ただ同意の上で胸をいじられたというだけなのだから。どんな魔法を使うまでもなく、それが彼女の体にとってはなんてことのない行為であることを私はよく知っている。こちらはその体でAVにまで出ているのだ。

 とすると、ルカトゥが普通以上に感じていた理由があるのだとすれば、その理由は魔法以外の部分にあったと見てほぼ間違いないだろう。なおかつ、体の方にも特に問題があったとは思えない。大体、仮に急に感じやすくなる体があるのだとして、それっていったい何なんだ……? 体を入れ替える時や、今日のような実験に付き合ってもらう時に、彼女がそういった重要事項(しかもすぐバレる)を伏せていたとは思えない。ルカトゥはいつだってどこまでも私に協力的なのだ。

 魔法は関係なく、体の方に何かがあったというわけでもないと思われる。……ということは、消去法で考えて、事の理由は「意識」とか「精神」といった方面にあるはずだと考えるのが普通だろう。では精神的な理由とはいったい何か? 人間は……いやサキュバスは、精神的な理由でそんなに簡単に感度が上がったりするものなのか……? そんな話は聞いたことがないけれど……。

 ……ただ、非現実的な考えだと分かった上でなお思い当たることを挙げるのだとすれば、あともう一つだけ私は仮説を思いついている。しかしそれは私のメルヘンぶりと自意識過剰ぶりが赤裸々となってしまうような、口に出すのもはばかられるような一説だった。ルカトゥ本人に「もしかしてこれ?」と確認することなど出来るはずもない。

 確認できないことなら考えても仕方のないことだ……と判断して、私は目を閉じる。慣れるようなことはない完全な暗闇の中で、そのまま段々と眠りに落ちていく。

 ……夢と区別のつかなくなった意識の中で、私は昔見た映画とそれに関するメタファーの考察を思い出した。「あらしのよるに」のことだ。狼とヤギは男と女のメタファーなのではないかという、小学生の頃には思いつきもしなかった話……。

 ……もしも万が一、仮に私の「口に出せないような仮説」が「正解」だった場合、本当にそれを黙っているままで居てしまっていいのだろうか? このままルカトゥを放置してしまっていいのだろうか……?

 水面下で進行しているかもしれない事態のことを考えると、途端に不安になってくる。けれど不安は、羞恥心を打ち消す薬でもなければ、勇気の原料でもない。私は思考を放棄したい気持ちに駆られた。明日の自分に全てを任せてしまおう……と。

 次の日のルカトゥは仕事に出かけた。私の選択したことは、何事もなかったかのようにペンを握ることだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漫画が完成した頃、テレビの天気予報は大衆の期待に反してまだ一ヶ月近くは暑さが続くであろうことを報じていた。

 ベランダでは三種類の野菜がそれぞれ食べ頃になっている。無農薬で素人が育てたキュウリの形を見て、ルカトゥは案の定無邪気に驚いていた。

「先生〜見てくださいこれ〜! キュウリ〜すっごい曲がってますよぉ! ブーメランみたい〜!」

「そうそう、家で育てるとよくそうなる」

「へぇ〜! じゃあ農家さんは真っ直ぐになるように工夫してるんですねぇ」

「そういうこと。薄切りにしようとすると農家さんのありがたみがもっと分かるよ」

「わ〜、たしかにこれは切りにくそう〜」

 ブーメランのような弧を描いたキュウリの地味な切りづらさは、タコの足の先を彷彿とさせるものがある。

 けれど台所からはさっそく、ルカトゥのいかにも機嫌の良さそうな鼻歌と、キュウリが切られていく子気味良い音が聞こえてきた。サクサクサクサク……と、およそ不便そうにしているとは思えないハイペースなリズムで。

 私も同じくらい好調に漫画の投稿作業を済ませる。今回のタイトルは「頭の先からキスの雨」だ。

「ルカトゥ〜、漫画投稿したよ」

「えっ、すぐ見ますぅ!」

 ルカトゥが自分のスマホのパスワードをものすごい速度で解除してツイッターを開く。薄切りにされたキュウリはひとまず塩を振られたようだった。そのうちしんなりしたら何らかの味付けをされるのだろう。別にそのままで食べてもいいけど。

 ところで、彼女が今まさに読んでいる漫画の内容はまとめると大体このようなものだ。今回も捉えようによっては若干物騒な内容になっている。

 不感症に悩むヒロインは、その天才的な頭脳を駆使して「不感症を治す装置」を発明する。それはヘルメットのような形をしており、体から脳に送られた信号を元に、そこへ快楽を付け足す機能を持っていた。要するにそれを被れば誰でもセックスで気持ちよくなれるというわけだ。

 がしかし、その装置には一つ致命的な欠陥があった。いかにも「脳波を測定しています」といった感じの、小さくてカラフルな小型アンテナ状の機器がトゲトゲと飛び出ているそのヘルメットは、男女のまぐわいにとって絶望的に場違いな見た目をしているのだ。事実、ヒロインは彼氏から早々に「萎える」と苦言を呈されてしまう。

 そこから改良の日々が始まった。どうにかベッドの上で被っても自然なデザインの範疇に収めようと試行錯誤が繰り返される。やがてそれは普通のハットの見た目にまではたどり着いたが、彼氏はそれを「単純に趣味じゃない」と一蹴した。

 とはいえ、彼氏だって文句を言っているだけではない。彼もヒロインと同じく頭脳明晰な人物だったのだ。不感症改善装置の試行錯誤は次第に二人で共同して行われるようになる。ファンタジー感のある角みたいな見た目に出来ないか……だとか、逆に相手のメットだけが見えなくなるゴーグルを発明できないか……だとか。

 しかしそれらの案は、どれも芳しい結果として形になることはなかった。それでも二人は諦めなかったが、そうして改善案を試す研究に明け暮れるあまり、本末転倒なことに、お互いの体を求める時間は減っていった。

 ……そしてそんな日々を繰り返した先で、ある日彼氏の方が、寝不足で血走った目のまま呟いた。

「そうだ、元々のデザインでも萎えずに済む方法がある。あくまでも個人的な趣味の話だが……、もうそれで手打ちにしないか? 疲れたよ」

「そうなの……? そういえば、もうしばらくご無沙汰だったかもね……。じゃあもう、ひとまずはその案でいいわ。どうすればいいの? さっさと完成させましょう」

「いや、君は何もしなくていい。シャワーでも浴びておいてくれ」

「そう……?」

 疲れていたヒロインは深く考えずにシャワーを浴びて、バスタオル以外には何も身につけないままベッドに向かう。そのまま彼女がうとうとし始めてきた頃、初期作とまったく変わらないメカメカしい見た目のメットを持って彼氏が現れた。言われるがままそれを頭に被る。

「結局これでいいの……?」

「あぁ、大丈夫」

 そして彼は、前戯もなしに自分のモノを彼女へ挿入した。

「あ゛っっ♡ …………えっ?」

 感じたこともない、まるで電流のように激しい快楽が全身に走り彼女の体が跳ねる。彼氏のピストンはそれに構わず始まった。

「いぎぃっ!?♡ な゛っ、な゛にこれっ……!?♡ しらない゛ぃ!!♡ こんなのじらないぃ゛……!♡♡」

「メットの出力を上げたんだよ。この見た目には、こっちの方が合うだろ」

「ちょっ……まっ……!♡ まっで……!♡ と、止めっ……♡ はぁぅ゛!?♡ あぁ゛っ!?♡ じ、死ぬぅ……!!♡♡」

 彼氏は満足げな笑みを浮かべ、決して腰の動きを止めなかった……。…………おしまい。

 もちろんこれは、胸を触られただけで異様に感じていたルカトゥを見て思いついた漫画だ。これを咄嗟に思いついたということは、私は第一印象からしてルカトゥのあの反応の理由を「体」ではなく「頭」に見ていたのだろう。

 それからまだいくつか、この漫画を思いついた理由には心当たりがあるのだけど……。それらはどれもくだらない自分語りのようなものだった。たとえば、そんな装置があれば自分だって……だとか、そんなような理由もある。……しかしまぁとにかく確かなことは、またしてもルカトゥがきっかけになったということだ。

 スマホに何件も通知が入ってくる。ツリー状のツイートにルカトゥが順々にいいねを押しているのだ。そして全てのページ読破した彼女は顔を上げて、感想を述べた。

「いや〜先生ぇ、面白かったですよぉ! それに感慨深い漫画ですねぇ」

「感慨深い……?」

 言葉の意味するところが分からず、感想文にダメ出しする教師のように聞き返してしまう。するとルカトゥは、さも何でもないことのように言った。

「先生の初めて上げた漫画ってぇ、キメセクの話だったじゃないですか〜。似てますよねぇ」

「……え?」

「えっ?」

 ルカトゥの言ったことが、あり得るはずのない言外の意味を含んでいたような気がして、一瞬、私の中でだけ時間が凍りつく。

 今、彼女はなんて言った……? 「初めての漫画」だと……?

 私はちょうど、自分が書いた「初めての漫画」を二種類覚えている。一つを忘れているだけで、それは本当は三つある物だ。一つ目は内容はおろか、もはやいつ描いたのだったかも忘れてしまった「人生で初めて描いた漫画」。もう一つはデジタルでの作画を覚えて「人生で初めてネットに投稿した漫画」。そしてもう一つは…………私の創作のターニングポイントになった漫画だ。

 けれど三つ目の漫画が「初めて」であると認識しているのは、全人類の中で私だけであるはずだった。その漫画はエロ漫画だったけど、私はそれ以前からずっと、短い物とはいえエロ漫画を描いてネットに投稿していた。だからたとえ途中から作風がガラッと変わったからといって、その変化を「初めて」と表現する読み手はいないだろう。……いないはずなのだ。

 ルカトゥは中途半端に私の過去作を漁って、その漫画が最も古い漫画だと勘違いしたのだろうか? ……人が学生時代に上げた作品まで掘り返すような執念深い奴が、そんな凡ミスを犯すだろうか?

「ねぇルカトゥ」

「はぁい?」

「私、もしかしたらキミの魔法の正体がちょっと分かったかも」

「えっ……?」

 ルカトゥはただとぼけた顔をした。失言の心当たりなどまるでないという風に。

 私はたたみかけることにする。別にルカトゥが私のことをどれだけ監視していたって構いやしないと今まで思っていたけれど、ちょっとだけ事情が変わった。ちょっとだけ、薄ら寒い感じがした。きっとそれがルカトゥの恐れていた「知られると嫌われる」というやつなのだろう。

 彼女のことを嫌うつもりは毛頭ない。けど、はっきりさせておく必要はあると思った。

「初めての漫画って、なに……? たしかに私は昔、学生の頃にキメセクの話を描いて投稿したことがあるけど、あれの何が初めてなの……? エロ漫画自体はもっと前から投稿してたよ。あれは全然、単なる投稿作のうちの一つだったでしょ?」

 今度は彼女の中で一瞬時が凍ったのだろう。とぼけた表情は一変して、「まずい」という心境を吐露する物になる。

「あ、えっと、それは……、ほら、先生あの頃から急に作風を変えたじゃないですかぁ。だから、なんというかその、転機……みたいな。チェックポイントから見て初めての……みたいな?」

「そういう意味?」

「そうですよぅ……?」

「……なんだ、私はてっきり、キミが「私がいつ処女じゃなくなったのか」を知ってるのかと思った」

 うぐっ……と、ルカトゥの喉に何かが詰まるような音がした。

「…………」

「当たってた?」

「…………はい」

 そうだと思った。私も、あの漫画のことは「初めての漫画」だと思っているから。

 私が創作の作風を変えた日とは、処女喪失から数日後のことだった。現実のセックスの有り様にひどくショックを受けた私は、それまで描いていた普通のイチャラブエロ漫画を二度と描かなくなって、今のように偏屈だったり過激だったりする作風にシフトしたのだ。それは私なりの現実との向き合い方だった。

 第三の初めての漫画とはつまり「処女を卒業して初めて描いた漫画」だ。私にとってそれは大きなターニングポイントだったけど、他人の視点からその転機が「初めて」と表現できるほど明確に見えるとは思えない。……そして実際、ルカトゥは「知るはずのないこと」を知っていた。

「ご、ごめんなさい……」

 スマホ片手に棒立ちになったままのルカトゥが、震える声で絞り出した言葉は謝罪だった。

 ……人間、いくら生来の性格が無愛想でも、そういう状況にあれば自然と微笑むことができるものなのだと私は知った。

「怒ってないよ、ルカトゥ。キミが何を知ってても、私は全然気にしないよ」

「……何を知っててもですか?」

「うん、何を知ってても。何を知られてても、別にいいよ。でも今のは急だったからびっくりしちゃった」

「すみません……」

「いいよ、大丈夫。……そんな顔しないでよ〜」

 安心させるために抱きしめてみようかなとも思ったけれど、それはさすがにキャラじゃなさすぎて気が引けた。

 私は冷蔵庫から紅茶……ミルクティーを出して、二つのグラスに注ぐ。とてつもなく久しぶりな感じがした。もう何ヶ月もの間、こういったことは全てルカトゥがやってくれていたから。

 キュウリでは合わないだろうと思って、お菓子入れのカゴに突っ込まれていたポテチを持ってきてパーティ開けにする。相変わらずこの家に座布団の類はなく、クッションをそのかわりにして座ることが当たり前のままだ。

「ルカトゥ、ちょっとこっち来て」

 ゲームのキャラみたいに棒立ちになったままの彼女を、ぽんぽんとテーブルを叩いて呼ぶ。言われるがまま神妙な面持ちで座った彼女と対面しながら、私はコンソメ味のポテチを一枚かじった。

「まず私から一つ、確実に約束しておきたいことがあるんだけど」

「はい」

「私は私の何を知られていても、絶対にキミのことを嫌いになったりしません。絶対です」

「絶対……」

「そう、絶対。……ただ!」

「はいっ」

「理屈がよく分からないまま、急に知ってる(てい)で話されるとそれはちょっとびびります……! ……というわけで、出来ればルカトゥの魔法のことを教えてほしいんだけど、どう……? イヤ……?」

「……イヤではないです、けどぉ」

 菓子にも飲み物にも手をつけないルカトゥが、そこである種可愛らしいことを言う。

「先生は……、……もしも私がストーカーみたいなことをしていても、嫌いにならないでいてくれるんですか……?」

「うん、もちろん」

 それは今までも薄々感じていたことだし、とは可哀想なので口にしないことにした。

 私が即答したことで、どうやら少しは安心してくれたらしい。ルカトゥは紅茶を一口飲んでから、噛み締めるように言う。

「先生のこと、信用しますね」

「ありがとう」

「……話すと長くなりますけど、まずは結論から言います。わたしの魔法は、「通知の魔法」です」

「通知?」

 思わぬ単語だった。過去を洗う魔法とか記憶を覗き見る魔法とか、そういう物を予想していたから。

「はい、通知です。わたしがアンテナを張っていること……つまりわたしが予想していることが実際に起きると、それが起きましたよという報せを、頭の中にもたらしてくれるもの……。それが私の魔法です」

「ほう……。……ん? えっと、じゃあそれだと、その魔法でどうやって私の過去を知ったの……? しかも結構詳細な」

「過去を知ったんじゃありませんよ、先生。昔、リアルタイムで知ったんです。あぁ、ウズラちゃんは今初めてのセックスをしたんだなぁ……って、私の頭の中に通知が来たんですよ」

「……えっ? それってつまり」

「はい。私はずっとずっと前から、先生のことを知っています。ずっと見てました。先生のツイッターと作品を、先生がアカウントを開設したばかりの頃、先生が中学生の頃から」

「……マジぃ?」

 信じがたい……と咄嗟に思いかけた私の脳が、それを即座に否定する。そして今最も必要な記憶を的確に呼び覚ました。

 サキュバスたちが人間界に初めて現れたのはいつだった? 忘れもしない、私が小学四年生の時だ。初めてオナニーを覚えたその翌日に性を司る魔族が現れたものだから、当時の私はその偶然にめちゃくちゃびびったことを覚えている。

 あの時にこちらの世界へ来た「最初のサキュバスたち」の中にルカトゥが含まれていたなら、またはそこから数年以内の時期にルカトゥがこちらの世界へ来ていたなら、あり得ない話ではないのだ。彼女が偶然にも当時中学生だった私のツイッターアカウントを見つけ、それを補足し続けたことは、時系列的にはあり得る話だ……!

「はい、マジです」

「え、な、なんで? なんでその頃の私のアカウントなんか見つけたの? 漫画家になってからならともかく、当時の私はただの陰キャの中学生なのに。わざわざ見るような物じゃ……」

「正直なところ、わたしも最初はそう思ってました。何かの拍子に先生の絵がタイムラインに流れてきたんですけど、その時のわたしにとってはまだ、それは「たくさんあるイラストのうちの一つ」だったんです。……でも、なんだか少し惹かれる部分はあったんですよね」

「ほう……?」

「なんとなく惹かれて、なんとなく、イラスト以外のツイートも見てみたんですよ。先生の日常ツイートを」

「げっ、それは……。くだらないことしか書いてなかったでしょ」

 中学生の日常ツイートのクオリティなんてたかが知れている。今になって掘り返されるのは普通に恥ずかしい。

 耳を塞ぎたい気持ちを、ポテチに手を伸ばすことで誤魔化した。

「いいえ、とっても興味深いことが書いてありましたよ」

「どんな……?」

「当時の先生は…………エッチなイラストを上げてるのに、自分が未成年であることを隠そうともしてなかったんですよ」

「……あー」

 心当たりがあった。学校での出来事を書いたツイートにも、当時自分の中にあった「年齢制限なんてクソくらえ」の精神にも。

「学校の放送でボーカロイドが流れた〜とか、美術の授業は工作系をなくして絵だけ描かせてくれ〜とか」

「あーはいはいはい……心当たりあります……」

「それがきっかけでわたし、先生に興味を持ったんです。こんなエッチな絵を描くのに子どもなんだぁ、どんな子なんだろう、可愛いんだろうなぁ……こんな無防備なツイートをしちゃうんだもんなぁ……って。それで、ずーっと見てたんです。先生のことを、ずーっと……」

「おお……。それは、実物を見た時さぞガッカリしたでしょう」

「なんでですかぁ、期待通りでしたよ〜。先生はかわいいです」

 ……あの日、私の視点からは、空色月のアカウントから突然のDMが飛んできたかのように見えた。けれど空色月は、ルカトゥは、ずっと私のことを見ていたのだという。かつての私のフォロワーのうちのどれか一つが、彼女の裏垢だったのだろう。たしかにAV女優のアカウントで、見るからに未成年らしきアカウントをフォローするわけにはいかないだろうし。

 ルカトゥのことを薄々ストーカー気質だなぁとは思っていたけど、実態は予想を遥かに超えていた。あぁそういえば確かに、彼女からのファーストコンタクトであるあの長文DMにはこんな趣旨のことが書いてあったような気がする。「アマチュアの頃からずっとファンです」と……。

 ……そんなことある? そんな、それじゃまるで、初対面のあの日自体が大団円みたいじゃないか。そんなドラマチックなことがこの世に実在するのか……!? 十年近く溜めていた思いの丈が、あの長文DMだったのか……?

 突如現れた自分のファンから今や養ってもらっているという奇跡のもとに生きているはずの私は、ドラマチックすぎる出来事をなせが未だに上手く受け止めきれず、困惑の最中にあった。

「……まぁそういうわけなので、わたしは昔からずっと先生に興味があって、いろいろなアンテナを張っていて、そこから来る通知でいろいろなことを知っているんです……。先生の「初めての日」を知っているのも、そういう理由なんです」

「なるほどね……。……素朴な疑問を聞いてもいい?」

「なんでしょう?」

 紅茶を飲み飲み、自分の記憶が間違っていないことを確認しながら聞く。

「ルカトゥがすぐに私に会いに来なかったのは、私が学生だったからだよね」

「はい」

「初めてDMをもらった日って、漫画家になってから結構経った時期だったような記憶があるんだけど、あれはどういうタイミングだったの?」

「あ〜……。……語弊のある言い方になってしまうんですけど」

「うん」

「先生が実家暮らしのうちは、ちょっと気が引けていたんですよ。先生のお部屋とか見たかったんですけど、いきなりご実家に向かうっていうわけにもいかないでしょうし……」

「なるほど、なかなか正直ね」

 親の庇護から離れ、隙を見せたところを見計らって接触して来たわけだ、このサキュバスは。どうりでよく家に来ると思った。あちこち連れ回されるより楽で助かるけれども。

「あれ? でもたしか、私が一人暮らしを初めてすぐにってわけでもなかったよね。それなら印象に残って覚えてそうだし」

「え? だってそんなすぐの時期にお声かけしたら迷惑じゃないですかぁ。まだ生活に慣れてもいないのに」

「急な気遣いっ」

 魔界からこちらへ来たばかりの頃はルカトゥもいろいろ大変だったのかな……と想像することができた。

「まぁいいや、なるほど大体分かった。まさかキミがそんなに古参のファンだったとは……」

「えへへ」

「けど、それがどうして嫌われる魔法だと思ってたの? 別に通知くらい気にしないけどなぁ私」

 セックスをするタイミングにアンテナを張られているなら、どうせオナニーをするタイミングとかにだって張られているのだろうけど、そういうことを知られたところで「だからどうした」って感じだ。私はそういうタイプであり、古参を極めているルカトゥが、そのことを分かっていないとはどうにも考えづらかった。

 気まずそうに、すーっと私から目を逸らしたルカトゥが、念を押すように言う。

「先生は、絶対に何を知られてても、わたしのこと嫌いにならないんですよね……?」

「うん、ならないよ」

「……じゃあ話します。通知の魔法は、ある程度心を読むこともできるんです。「予想していたことが、実際に起こったこと」を報せる魔法なので、答え合わせができてしまうんですよ」

「ほう……?」

 つまり、たとえば「赤い果物を想像してくださいと言ったら、リンゴを思い浮かべるだろうなぁ」と予想しながら実際に相手に想像を促し、そして案の定相手がリンゴを思い浮かべた場合、本人がそれを口に出さなくてもルカトゥには「奴はリンゴを思い浮かべたのだ」と把握することが出来る……ということだろうか?

 それは…………確かに「心を読む」と言えなくはないけれども。しかし日常生活の中でそれを「心を読む能力」として使えるのは、よほど相手の性格を熟知した使い手だけだろう。そしてそういう使い手というのは、もはや魔法の有無など関係なく擬似的な半エスパーである。

「予想の答え合わせが出来るって、大体は「ハズレ」にならない……? 人の心なんて多様だし、心を読むっていうほどのことじゃ」

「いえ、もっと良いアンテナの張り方があるんです」

「っていうと?」

「……私は、先生が嘘をついたら、「嘘をついた」と分かります」

「…………ああっ!」

 その「魔法の使い方」を聞いた瞬間、私に見える世界は一変した。

 つい最近だって、彼女は私に「なんか元気ないですか……?」と聞いてきたじゃないか。あれは、あれは、そういう意図のある言葉だったのか……! 私はイエスかノーで答えられる質問をされた時点で、揺さぶられていたのか! あの時は別に「元気がない」というわけではなかったから「嘘」にはならなかったのかもしれないけど、何にせよそんな意図のある問いかけだったとは夢にも思っていなかった。

 ルカトゥと喧嘩してしまった時だってそうだ。彼女が急に家を訪ねて来た時は何かと思ったけれど、あれも私の「元気」という嘘に反応してのことだったのか。……いや違う、あの時は文章のやり取りから少し間があった。なんだ……? 何が彼女のアンテナに引っかかったんだ? 何か違和感が……。

「ルカトゥ」

「は、はい」

「体を入れ替えたあとに、私たちちょっと喧嘩しちゃったことがあったよね」

「あ、あぁ……。まぁ、そうですねぇ……」

「あの時、私の家に来てくれたのは何だったの? あれもアンテナ? 魔法?」

「あ〜、あれは、……言っても怒りませんよね?」

「おこるわけない」

「あの時は、先生がわたしの質問をのらりくらりと躱すからびっくりしちゃって……。……でも、意外なところで「あ、元気ないんだ……」って気付いたんです」

「のらりくらり……? そんなことあったっけ?」

「ありましたよぅ! 「大丈夫?」って聞いたら「なんで?」って言うし、「元気なさそう」って言ったら「そう?」みたいな返事するし……」

「あぁ……そうだっけ……」

 そう言われると、奇跡的にイエスもノーも避けた返答をしていたような気もする。まったく気付かないうちに神回避をしていたのか私は。

「いや、でもだとしたら、なんで元気ないってバレたの?」

「それはだって先生、ご飯を食べなくなっちゃったじゃないですか」

「あ〜! それか!」

 そういえばあの時のルカトゥは来て早々に「ご飯ちゃんと食べてますか?」なんてことを言っていたような気がする。そう言われてみれば、それのなんて白々しいことだ……! そうか彼女は、私がご飯を食べたという「通知」が日に一度しか入らなくなったから来てくれたのか……。そんなところにまでアンテナを張っているのか……。なんというかもう、頭の下がる思いだ。

 そして、一度そういったことを思い出し始めるとキリがなかった。ヤグラ君が私の漫画の続きを描いた時、ルカトゥはそのことにマッハで気付いて報告してくれた。あれはきっと、ヤグラ君が私のツイートに対して何らかのリアクションをすることにアンテナを張っていたからだろう。

 普段の私のツイートへの反応が、本人の手が空いている限り爆速なこともそうだし、……いや、というかそもそもルカトゥは、着信音はおろかバイブ音さえしないスマホをおもむろにいじり始めることがなかったか? あれはまさか、スマホではなく頭の中に直接「通知」を入れているからなのか……?

 体を入れ替える話をしていた時、凡ミスの発覚したルカトゥが珍しく泣き出してしまったことにもこれで合点がいくような気がする。彼女はあの時「ウズラ先生のスケジュールが三日間空白になるタイミング」を通知で知って、その通知が来た瞬間に自分のスケジュール帳を確認し、運命的な空白を目の当たりにし、大興奮のまま私のところへやって来たんじゃないか? なのに凡ミスが発覚したのだから、それはもう余程のショックだったのだろう。

 他にもいろいろと魔法の片鱗……ヒントはあったのかもしれないが、もはや思い出しきれない。きっとルカトゥの白々しい台詞だってもっとたくさんあったのだろう。彼女がその時何を知っていて、何を知らなくて、その上で何を言っていたのかなんて、今さら全ては思い出し切れるわけがない……!

 でも、一つだけ確かなことがある。それは彼女が「予想通り」でもなく「嘘をつかれた」でもないことに関しては、本当に無防備だということ。だから漫画を楽しめるのだろう。だから「月光の体験」を読んで、大慌てで私のところへ駆けつけて来てくれたのだろう。彼女にとってあれは本当に予想外、アンテナの圏外のことだったのだ。

 そう考えるとやっぱり、彼女の魔法は「心を読む能力」と呼ぶには不完全であるような気がする。何も知らない一般エロ漫画家に神回避を決められてしまうくらいだし。……まぁそれにしたって「ルカトゥに見えている世界」は、私にとってそれこそ予想外だったわけだけれども。

「いやー……なんか見える世界変わるなぁそれは……」

「す、すみません……。本当ならずっと秘密にするはずが……。いい気分しませんよね……?」

「いや、そうでもない」

 ルカトゥの、魔法を使ったこと自体は悪びれないところに「使い手」っぽさを感じた。私だって、例えばルカトゥの出演作を見ることに罪悪感なんてものはない。けれどルカトゥがそれを気にするような性格をしていたのなら、私も「隠すこと」を選んだだろう。「知る行為」とはそういうものだ。

 ルカトゥにとって魔法を知られる気持ちは、絶対にバレてはいけない検索履歴を見られた時のような気持ちなんだろうか? ……とにかく彼女は、心底安心したようにハァ〜と息を吐いていた。

「そうでもないなら、よかったですぅ」

「うんうん。ていうかさ、もっと早く言ってほしかったくらいだよ、超面白いじゃんその魔法。嫌うどころかますます好きになるって」

「えっ、えっ、本当ですかぁ」

「嘘だったら分かるんでしょ?」

「えへっ、ですねぇ。えへへへへっ」

 珍しく、その時のルカトゥの笑い方はほんのちょっとだけ気持ち悪い感じだった。……この感想もアンテナに引っかかってしまうのだろうか? だとしたらごめんなさいだ。

 ……と、そこで私は自分の描いた漫画のことを思い出す。オナホールにおそろしい魔法を付与する漫画のことだ。

「あれ、ところでルカトゥ」

「はぁい?」

「サキュバスの魔法って、ある程度は意図した物を身につけるんだよね? 通知の魔法は、なんで欲しいと思ったの?」

 それは純粋な興味による問いかけだった。が、べつに、自作の話のように恐ろしい真実を目の当たりにする可能性について覚悟を決めていたわけではない。もしそれらしき予兆が見えたら、待って言わないでと彼女の口を塞ごう……と、私は問いかけた後から心に決めた。

 そして幸い、そんな予兆は欠片も見られなかった。ルカトゥはなにやらもじもじしながら、

「え〜、きっかけはくだらない理由ですよぅ。言ったら笑われちゃいますぅ」

 という感じで、とても言いたそうにしていた。一生隠し通さなければいけないと思い込んでいた秘密があっさり受け入れられて、ルカトゥだって安堵に舞い上がっているのだろう。可愛らしい。

「なにそれ気になる〜、聞かせて聞かせて」

「下ネタですよ〜?」

「なおさら気になる」

「じゃあ言いますけどぉ……。……中出しって、いつ出されたのか分からなくないですか……?」

「え? あー、全然分かんないね。………えっ?」

「伝わりました〜……?」

「えっそういうこと!?」

 セックスの時、いつ出されたのかを「通知」で知るために……というのが、通知の魔法のきっかけだったっていうこと!?

 私がそれを理解したことが、どうやらルカトゥのアンテナに引っかかったようだった。苦笑いのような、けれど楽しそうな顔をしてコクコクとうなずいている。

「あはははっ、なんじゃそりゃっ。そんな理由で、なんかすごい魔法になったんだね……!」

「そうなんですよぅ、なんか上手くいっちゃいましたぁ」

「やっぱりルカトゥは天才だなぁ」

「えへへ〜、そんなことないですよぉ〜」

 はっはっはっ、と二人して笑い合う。ポテチによく手が伸びた。あぁこんなに面白い秘密だったなら、もっと早く明かしてくれればよかったのに。いやそれよりも、そんなに昔から私のことを見ていてくれたなら、それこそ言ってくれればよかったのに。

 ルカトゥが私に尽くしてくれる理由も、今までよりはなんとなく分かった気がする。美しい容姿を持つ彼女が、人間より遥かに長い時間を生きる彼女が、いま何歳なのかは知らないけれども。私が中学生の頃からずっと私のことを見ていたというなら、数々のアンテナを張って興味を持ち、多くを知り、心配していてくれたというなら。……ルカトゥはもはや、半分私の親みたいなものじゃないか。私は、そういう存在に甘えていたんだなぁ……。

 なんて、だからって養ってもらってもいいという話には全くならないのだけど、とにかくしみじみそんなことを思っていると、指についたコンソメの粉を舐めながら、ルカトゥが言った。

「ところで先生ぇ、何かわたしに言いたいことがあるんじゃないですか〜?」

「え?」

 なんのことだろう? と思った矢先、まっすぐにこちらを見つめて来る瞳と視線が合って、……そこからなんだか殺気のようなものを感じた。

「先生ぇ、わたしに何か言いたいこと、ありませんかぁ」

「え、えっ……? なに……? ごめん、何か嫌なことしちゃった……?」

「ちがいますよぅ、わたしは「質問」してるんですぅ。先生ぇ、わたしに何か言いたいことはありませんかぁ……? ハイかイイエで答えてくださぁい」

「あっ……」

 そういうことか、とようやく気付く。あっという間に、私はルカトゥのアンテナのテリトリー内にいたのだ。

 元気ない? と聞いてきたことがあったくらいだから、ルカトゥは最近の私の様子にいくらか違和感を覚えていたのだろう。けれどその正体までは把握されていない。だから「自分に関することではないか」と予想を立てた彼女が、それを確かめにかかっているわけだ。「嘘」にアンテナを張って、質問をすることで。

「……ないといえば、嘘になっちゃうね」

「そうなんですねぇ。何でも言ってくださいよぅ、先生ぇ。私だっていろいろ話しましたし〜、それを全部受け入れてもらえたんですからぁ」

「うーん……そうねぇ……」

 たしかに今の私は、ルカトゥに対して悩みの種を持っている。これまでは漫画を描くことでそこから目を逸らしてきたけれど、いよいよと言えばいよいよのタイミングになってしまった。

 その悩みの種というのはもちろん、ルカトゥの胸を揉んだあの日の、あの反応はなんだったのかということ。そしてそれに関する、私の仮説のことだ。

 ……彼女の魔法の性質を知った今、今後一生の隠し事をしようにも、それを死守できる気はしなかった。きっといつか口が滑る。秘密を隠すために咄嗟に嘘をついてしまう。……そうなるくらいなら、それは今正直に話しておいた方がいいのだろう。

「……この話をすると、最悪また私たちの仲がギクシャクしかねないんだけど、それでも聞く……?」

「えっ、な、なんですかぁ……? 聞きますよぉもちろん。そしてギクシャクさせません〜」

「そうなってくれると私も嬉しいんだけど……」

 仮説を話すに当たっては、一つ疑念のような物がある。それは、私がそれを話す流れになるということ自体が、ルカトゥの魔法を知った後だとおかしく思えてくるということだ。

 私の仮説がもし当たっているなら、それについてはルカトゥが先回りして予想し、というか危惧し、アンテナを張って警戒しているのが普通なのではないか……? という思いがある。そしてそうでないということは、私の仮説は無事に間違っているのではないか……と。

 私は私の仮説に間違っていてほしいのだ。ギクシャクなんかしたくないから。だから「ルカトゥがアンテナで警戒していないということは大丈夫なんだ」と、そう思いたい。

 しかし……、なるほど魔法の使えない人間風情には、「予想を信じること」が完全にはできないものだった。不安が拭いきれない。だからといって黙っていても、私の思考はいつかきっとバレてしまうのだけど。

 あぁもうなるようになれと、単刀直入に言うことにする。

「ルカトゥさ、この前私に胸を揉ませてくれた時、いくらなんでも感じすぎじゃなかった……?」

「えっ」

 彼女の目が再びあの時のように、ものすごい勢いで泳ぎ始める。もしかするとルカトゥは、演技は得意でも隠し事は苦手なのかもしれない。

「私もその体のことは知ってるけどさ、いくらなんでもあんなには感じないでしょ」

「……ですねぇ、普通ならそうですぅ」

「あれは、いったいどういうことだったの?」

「あれは……」

 もごもごと、ルカトゥの口が言葉を探し求めてうごめく。何かを声にしようとしては思いとどまり、声にしようとしては思いとどまり……。

 そして、最終的に彼女が選んだ言葉は…………自意識過剰な私が予想した通りの物だった。

「……あれは、先生だったからですよぅ」

「私相手だったから……って、それは、あれな感じ? こう、気持ちの問題的な、好きな相手だから……みたいな」

「…………」

 コクン、とルカトゥがうつむきがちに頷く。

 私は、なんてことだ……と天を仰ぎたいような気持ちになった。けれどそうしてしまってはルカトゥを傷つけてしまう気がして、紅茶を飲むことで必死に誤魔化した。平静を装った。

 ……私の発想した仮説とは、恋愛感情の説だ。よく言うじゃないか、好きな人とするから気持ちいいのだとか何とか。「精神的な理由」なんて、私にはそれくらいしか思いつかなかった。

 ルカトゥは私のことを好いてくれている。けど、「好き」の意味がそういう感じだとは思っていなかった。だってそれはそうだろう、彼女に対しても言い放ってしまった通り、私はヘテロ……異性愛者なのだ。だからそんな意味の「好き」は、想定できるわけがない。失礼を承知で言えば、私にとって同性愛は、漫画の中の出来事なのだ。

 しかし考えてみれば、納得できるだけの理由はある。ルカトゥがおかしなくらい献身的に私に尽くしてくれる理由をさっき私は「親みたいなもの」と思ったけれど、別にそれは恋愛感情でも問題なく成立してしまうのだ。……あまつさえそれが十年越しの愛だというのなら、私にはその重さを想像することすらできない。

 ……が、問題は、もはやそんな段階にすらなかった。というのは、私たちは事実として、すでに数ヶ月の同棲をしてしまっているから。その間私は一度も、ほんの少しのセクハラ程度のことまで含めて一切、全く、ルカトゥから襲われたようなことはないから。

 ルカトゥはサキュバスである。その彼女がもし私のことを「そういう対象」として見ているなら、この数ヶ月間にあった平穏は、いや、あるいはもっと前からずっとあった平穏も、彼女のどれだけつらい我慢の上に成り立っていた物だったのか……私には想像しきれない。私が「あらしのよるに」を思い出したのはそのためだ。

 人は、たとえばレイプされたからといって、それだけで狼に食い荒らされたヤギのように血を流して死んでしまうわけではない。……けれど、「命以外の部分」を食われた人間は、「命以外の部分」が死んでしまう。それは私にも分かる。心の殺人というやつだ。

 でも、高校時代に彼氏と別れてからの私はずっと、そういえばもう一つ、大事なことを忘れていた。……狼は、食わなければ飢えて死んでしまうのだ。狼は、命以外の部分を食わないままでは、命以外の部分が死んでしまうのだ。

 だから、この仮説は間違っていると信じたかったのだけれど。ルカトゥは家でも演技のプロなのだとは、思いたくなかったのだけれど。

「……単刀直入に聞くけど」

「はい」

「ルカトゥが私に言ってくれる「好き」って、そういう意味なの?」

「そういう意味……?」

「恋愛感情とか、性愛のそれなのって」

 ルカトゥは、思いのほか余裕のある表情で宙を見上げた。言い当てられてはあまり気分のいいものじゃないだろうと思ったのだけど、そうでもなかったのだろうか。

「うーん……。……まず一番大事そうなところからお答えしますね」

「うん」

「まずわたしは、先生にエッチなことをしたいとは思ってません」

「えっ」

 それじゃ理屈が通らないじゃん、というこの心情は、アンテナにかかっただろうか。

「たしかに先生のことはすごく好きですし、かわいいと思いますけど、同棲に乗じてあわよくばとか、そういうことはないので安心してください」

「えっ、いや、うん。それはまぁなんというか、これまでの信頼と実績もあるからいいんだけど……。……えっ? じゃあ理屈に合わなくない?」

「何がですか〜?」

「だって、私のことを好きだから、その、そういうあれだったんでしょう?」

「ですねぇ。お恥ずかしい……」

「え、ど、どういうこと……?」

「どういうこと〜、と言われると、わたしにも全部がちゃんと分かるわけじゃないんですけど〜……。ざっくり言うと、エッチを気持ちよくするのは、性欲だけじゃないってことですかねぇ」

「ほう……?」

「だって先生ぇ、理屈に合う合わないの話をするなら、考えてもみてくださいよぅ。先生はわたしの、サキュバスの体になってみた時に、わたしから性欲を感じ取れましたか〜……?」

「え? …………あっ、たしかに」

 言われてみてびっくり、まさにその通り、それは私の仮説を否定するに足る「証拠」だった。

 そうだ、私はあの日、サキュバスの体が他者の性欲を察知するものだということを、AV撮影の段階になって初めて知ったのだった。入れ替わった時点では、ルカトゥが私の体に入ってべたべたと全身をセルフタッチしていた時点では、それをうっかり押し倒す形になってしまった時点では、私は「サキュバスは性欲を察知する」という性質に気付きもしなかった。

 あの時、ルカトゥは性欲などこれっぽっちも持っていなかったのだ。

「え、じゃあなんで? なんでキミ、私の体でオナニーしてたの?」

「それはもちろん、人間の体を、先生の体を知るためですよぅ。……つまりは実験ですねぇ。先生だって、わたしの胸を揉む時、性欲なんか全然なかったじゃないですか〜。一緒ですよぅ」

「一緒……? ……そっか、なるほど、たしかに……」

 それなら、理屈に合う。かつて小学生だった頃の私がそうしたように、ルカトゥだって新しい体を手に入れれば「好奇心」でオナニーをすることがある……。それは何もおかしなことじゃない。

 でも、じゃあ、ルカトゥが私に対して性欲を持っていないことは分かったけど、それならあの感じ方はいったいなんだったんだ……?

「えーとつまり、ルカトゥは、……私のことを好きでいてくれて、でも性欲的な意味ではなくて、なおかつ、好きだからこそ……触られるのがよく感じたってこと?」

「そうです〜! その通りですぅ」

「……そんなことある?」

「ありますよぉ?」

 信じがたいけれど、理屈が「それしかない」と言っている。なんだったか、ミステリの界隈に、今の状況にふさわしい言葉があったはずだ。全ての「あり得ない事」を除外して最後に残った物が如何に奇妙であってもそれが真実である……とか何とか。

「あ、でもですねぇ、先生ぇ」

 愕然として、自らに言い聞かせながらもなお真実を飲み込みきれていない私に、ルカトゥがついでのように付け足す。

「わたしも昔は、先生とエッチしたいって思ってたんですよ〜……?」

「えっ」

 混乱は倍になった。

「じゃあなんで……、えっ……? 消えたの……? 性欲……」

「消えましたねぇ」

「マジで……?」

 もしかするとそれは今日一二を争う「そんなことある?」かもしれなかった。

「だって先生ぇ、わたし、先生の嫌がることは絶対にしたくないんですよぉ。……それで、実際に会ってみた先生が完全なヘテロだってことは、すぐに分かりましたしぃ」

「あ、そっか……」

 私がかつてルカトゥからの性欲を微塵も探知できなかったように、ルカトゥもずっとそれを知っていたんだ。自分にそういう興味を持っている相手からは湧くはずの性欲が、私の中にはいつも皆無であることを、肌で感じていたのだ。

 いや、それだけじゃない。きっとルカトゥはいろいろなことにアンテナを張っている。私が彼女の出演作をオカズにしたことがないことだってきっとバレているだろう。私はそれを「バレたら傷つけちゃうかな」なんて考えていたけれど、話はそういうレベルではなかった。

 つらかっただろうと思う。期待して張ったアンテナから、一向に通知が届かないのは。……だとしたら私はやっぱり、彼女になんて残酷なことをしてしまったんだろうか……。

「この際だからもう言っちゃいますけどねぇ、ずっとずっと、襲っちゃおうかなぁって、何度も思ってたんですよ……? でもそのたびに、わたしに組み伏せられた先生の反応が、想像できちゃったんです。本気で嫌がるか、しぶしぶ付き合ってくれるかのどっちかだろうなぁ……って」

「…………」

「どっちにしろ、本当に嫌なんだろうなぁってことが、わたしには分かっちゃうんですよ。……そんな先生に何をしたって悲しくなるだけだって、分かるんです」

「……そっか」

「それで、何度も「押し倒そうかなぁ……」「いや悲しくなるだけか〜……」って考えを繰り返してるうちに、気付いたら、別にエッチなことをしなくても仲良くできてたらそれでいいかな〜って、思えるようになってたんですよぉ。……そしてそう思った途端、たとえば先生の裸を見たりしても、何も感じなくなったんですよねぇ」

「……そっかぁ」

 やっぱりルカトゥは演技の天才なんだね……という言葉は喉に引っかかって、そのまま外に出て行くことはなかった。

 ……分からなかった、そんなことは、彼女の話してくれたようなことは少しも。性欲の存在を肌で感じられない人間の身では、鈍感な私の目と心では、そんなことはまったく察してあげられなかった……。

 ルカトゥが今まで背負ってきてくれた物の重さが、私には上手く想像できない。そんな想像、できるわけがない。それは私がヘテロだからか? ……違う。私が、彼女に対して何の我慢も遠慮もせずに、ちゃらんぽらんに生きてきたような人間だからだ。

 自分が今まで何をしていたのか、私はまるで分かっていなかった。

「ルカトゥが性欲をなくしたのって、いつ頃のこと……?」

「え、性欲をなくしたわけではないですよぉ? 先生に対してだけです。……けどそうですねぇ、あのまっずいカレーを食べた時とかは、もうすっかり忘れたあとでしたねぇ」

「そうだったんだ……」

「……あっ」

 さすが私のことをよく知るルカトゥが、私の思考を先読みしてアンテナで拾い上げたようだった。

「ごめんなさい、先生の考えた通りです。初めて先生から「実験」の話をされた時には、まだちょっとだけ性欲が残ってましたねぇ……」

「……うん、そうなんだ」

 初めての実験、腕を縛った状態で騎乗位はできるのか? ルカトゥはそれを初め、私と直接試そうとした。あれは「あわよくば」だったのか……。そしてそうだとすればなおのこと、彼女のなんと聞き分けのあることだったろう……。

 ……いや、聞き分けるしかなかったのだろう、ルカトゥは。私からあんな風に拒絶されてしまっては、そうするしかなかったのだ。

 ……私は薄情な人間だから、涙のかわりにため息が出てしまった。自分に対するため息が。

「……………………ごめん。今まで、ごめん」

「えっ、いいんですよぉ、先生ぇ、勘違いしないでください〜。わたし言ったじゃないですかぁ、花火をした日に……」

「花火……?」

「ずっと今みたいな生活がしたいって、言いましたよ〜……? あれは本当の気持ちです。わたし、毎日が本当に幸せなんですよ。……だから謝られるとちょっぴり悲しいですぅ」

「……ほんとに?」

 私も思い出した。ルカトゥはあの夜の帰り道、たしかにそう言ってくれていた。……そしてそもそも彼女は、私に嘘をついたことがない。隠したり、知らないフリしたり、うっかりしていたことはあったけれど、嘘をついたことはない。教えたくないことは「秘密です」とはっきり言うような正直者なのだ、ルカトゥは。

 これは、信用なのだろうか? それとも、甘えなのだろうか……? ……私はルカトゥの言うことを全面的に信じてしまいたくなった。

「ほんとですよぉ! わたし、隠し事はしても嘘はつきませんっ」

「……たしかに、それは知ってる」

「えへへ」

 ルカトゥは心底嬉しそうに笑う。それが演技ではないと私は信じる。

 片付けちゃいますねぇ、とルカトゥが空のグラスやポテチの袋をまとめて立ち上がる。私はなんとなく、座ったままそれを見上げていた。……改めて見ても、ルカトゥはルカトゥにしか見えないものだ。見える世界は大きく変わったはずなのに。

 あ、忘れてたっ、と台所のキュウリを再発見したルカトゥが、しんなりしたそれを一度水で洗い、ボウルに入れて味付けしていく。ごま油が合うらしかった。

「あ、そうだぁ、先生ぇ、わたしからも実験結果を報告していいですか〜?」

「実験結果……?」

「先生に胸をさわられてみて、初めて分かったことがあるんですよぉ」

 ドキッとする。薄々そうなんじゃないかと思っていたけれど、やはり彼女がわざわざ一度封印してくれたはずの「それ」を、私が呼び起こしてしまったのではないかと……。

 もしそうだったら、どうなるのだろう……? 彼女の言う「しぶしぶ付き合う」をするくらいで全てが丸く収まるならいいけれど、そうなるくらいなら、ルカトゥはとっくに私を押し倒していたのではないか……?

 まったく予想がつかずに、漠然と悪い予感ばかりがする。ギクシャクどころでは済まないような、そんな予感が……。

 台所に立つルカトゥの後ろ姿を見ながら、おそるおそる聞く。

「分かったって、なにが……?」

「それが〜、わたしですねぇ、好意の区別がつかないみたいなんですよぉ」

「……どういうこと?」

「先生は〜、わたしのこと、友達としてなら好きですよねぇ……?」

「うん」

 正確にはもう少し複雑な好きである気はするけれど、話がややこしくなるから今は「うん」でいいだろう。

「友達として好きでいてくれてる先生から、実験対象としてああいうことをされるのと〜、仮に、仮にですよ〜? わたしのことを恋愛対象として見てる先生から、愛情によって体を求められるのってぇ、「好き」と「触られる」って意味ではどっちも一緒なんですよぉ」

「……いやどういうこと?」

 聞いても分からなかった。

 キュウリ入りのボウルを冷蔵庫にしまったルカトゥがこちらを振り返る。そして気まずそうに笑って「言い方悪くなっちゃいますけどぉ」と前置きした。

「例えるとですねぇ、いわゆる本物の愛と、体目当ての好きが、わたしには同じような物に思えちゃう……みたいな話ですよぉ。性欲ゼロの先生にああいうことされて、わたし、ちゃんと嬉しかったんですよねぇ……。自分でもびっくりでしたぁ」

「……ルカトゥ、もうなんか、ごめん。全部ごめん……」

 体目当て、という言い回しが心に突き刺さる。ルカトゥが私のことを恋愛対象として見ているなら、私が今まで彼女にして来たことは、もはやそれ以下のゴミみたいな行為だったから。

 芥の意味って知ってる? という台詞が唐突に頭の中によみがえる。そうだ、あの漫画はルカトゥも読んだのだった……。

 困った風に笑いながら、ルカトゥはわたしの向かいへ戻ってきた。ストンとそこに座る。魔法のことを問いただしている時とは、まるで立場が逆になっているように思う。

「もう〜、だから謝らないでくださいってぇ。……先生ぇ、わたしですねぇ、花火の日の夜は本当に思ってたんですよぅ? ずっとこのままで……って」

「……今は違うの?」

「違いませんけどぉ、……ちょっとだけ、付け足したいなぁって」

「付け足す……?」

「…………先生はもう、わたしの体で試してみたいことはないんですか?」

「……あぁ」

 そういうことか……と、心が痛む。

 彼女が言っているのは実質、愛人でもいいから……みたいなことだ。恋愛対象になれなくてもいいから……ということだ。

 鈍感な私にも、ルカトゥがとても分かりやすく振る舞ってくれるので、これだけは分かった。……結局のところ彼女に対して本気の性欲を向けられない私は、彼女のことを恋愛対象どころかセフレとしても見れない私は、それができないのにカッコつけて「そんなひどいこと出来ないよ」などと言っても、これっぽっちも彼女の心を救ってやることなんて出来ないのだろう。

 それならいっそ……と、思ってしまう。すでに私の前科は数え切れないのだから、いっそ……と。

「ルカトゥが思ってるより私ってクズだよ」

 努力もせずにニートになっておいて今さら何を、と我ながら思う。

「そんなことないですよぉ」

「そんなことあるよ。…………試したいことなんか、山ほどあるに決まってるじゃん」

「えっ! ということは〜!」

「……でもルカトゥはそれでいいの? 私がそれを試すってことは、キミの気持ちを踏みにじるってことだよ? 弱みにつけこむってことだよ……?」

 自分で言っていて、それはべつに体の問題に限った話じゃないのでは……ということに気付いてしまう。ルカトゥが私にくれる献身の全てが、同じことなんじゃないかと。

 ルカトゥは、本当に悲しそうな顔をした。

「むぅ……。あんまり意地悪言わないでください、先生ぇ。……好きの区別がつかないことって、そんなに悪いことですか……? 責められてるみたいですよぅ……」

「ちがっ、責めてはないけど、でもさ……」

「ねっ、先生ぇ?」

 小さなテーブルの横を回って、ルカトゥがこちらへ這い寄って来る。きっと男に媚びる時もそうするのだろうと思ってしまうような、しなやかで慣れた動きでもって、彼女は私の腕に絡みつく。……けれどどうやら、彼女の恋愛対象は男だけではないらしい。

 柔らかい感触が腕に当たっていた。あの巨乳にまつわる漫画を発想した経緯も似たようなものだったけど、そういえばあの時の彼女はどういうつもりで私に抱きついてきたのだろう? いや、あのタイミングでの彼女は私への性欲をすでに失っていたのだったか? じゃあなんで? そもそも今、彼女の性欲はどうなっているんだ? 今はどういうつもりで私に密着しているんだ……? 性欲がないならなぜこんな話をする……?

 分からない。人間の身では、私ごときでは、そんなことは何も分からない。けれどきっと、ルカトゥの中で何かが変わってしまったのだろう。私が変えてしまったのだ。私が、彼女に「味」を教えてしまったから。

 ……けれど彼女は、その味を知ってなお、今日までこの話を心の内にしまってくれていた。秘密にしてくれていた。ない物にしてくれていた。……彼女は決して、一度たりとも、理性を失っていない。むしろ誰よりも強いそれを持っているように思う。

 その彼女が、今こうしてこのタイミングで、私に密着する理由はいったいなんだろう……? 押し倒したい気持ちが漏れ出ているだとか、そういう類のことではまったくないように思う。けれどそれと同時に、何か「本気」としか言いようのないものが伝わってきていた。

 ……私の混乱を知ってか知らずか、ルカトゥの瞳は私のことを覗き込んでくる。どこか魅惑的で、それでいて、すがるような瞳……。

 ルカトゥは、耳元でささやくような、優しくて小さな声で言った。

「わたしはですねぇ、先生ぇ。先生がしたいことをしてくれた方が、嬉しいですよぅ……?」 

 ……それは、今までに何度か聞いたことのあるような言葉だった。何度か聞いたことのあるような、……キラーフレーズだった。

 もう一度だけ、直感が私に語りかけてくる。カッコつけたって誰も幸せにならないんだぞ……と。

 それは太陽とは反対の方向から差し込んでくる、暗いささやきだった。

「……悪魔だね」

「サキュバスですよぉ」

「知ってる」

 その悪魔から目をそらして、カーテンの閉まったベランダ窓の方を見る。分厚いカーテンに遮られて見えはしないけれど、外にまだ灼熱の太陽が昇っていることは、確かめるまでもなかった。

 お天道様の目も、まだ育ちかけの実を残した野菜たちの目も、もちろん近所の人の目も、……誰の目も、この部屋の中にまではとどかない。

「……唇の感触ってさ、男女で違いがあるのかな。私、男としかキスしたことないんだよね」

 私に絡みついて離れないルカトゥが、満足げな笑みを浮かべたような気がした。人の身では魔法のアンテナなんか張れやしないのに、見るまでもなくそれが分かる。

「知ってますよぉ。…………ちゅーしますか?」

 デジャヴを感じる。いつかの夜にも、同じ台詞を同じ口から聞いたような気がする。……彼女の体を借りて確かめたはずなのに、本当に、にわかには信じられないことだ。性欲が、失われるだなんてことは。

 あの夜の彼女は、ならば普段の私のように、純粋な好奇心でそれを言っていたのだろうか? そして、今はもう違うのだろうか……? ……分かるわけがない。ルカトゥの頭の中のことは、説明された方が余計に分からなくなっていく。

 けれど、だから私は、もうそんな余計な思考はそもそも捨てることにした。意味がないから捨てる。彼女の何を探れるような立場にもないのだ、私は。

 私はもう、自分のしたいようにするしかない。ルカトゥが私のことをどう思っているのかなんて、仮に分かったところでどうせ尊重してやれないなら、気にしたって仕方ないじゃないか。……そんなことを気にする暇があるなら、私はルカトゥのことを盲信してしまえばいい。

「んっ……」

 悪魔の唇は、私の記憶の中にある物よりずっと柔らかくて、いい匂いがした。

 

 

 


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