拝啓もう会えないお母さま、そしてパパへ。
お元気ですか?先日お母さまの遺骨を聖堂の最上階から散骨して以来ですね。パパの方は船底の冷蔵庫にいるのでお元気も何もないとは思いますが。わたしは元気でやっています。3食きちんと食べて、ときどき好き嫌いをし、夜8時にベッドに入り、毎日パパの図鑑を読んでいます。うそです。あんまり元気ではないです。規則正しい生活を送ってはいますが、現在進行形で痛い目にあっているため、ぜんぜん元気じゃないです。それでは聞いてください、あなた方の娘は今、
「ゔぎゃあぁああぁぁあいだいよぉぉあお」
「しっかりせい!じゃなくてして下さい!傷かどうかは分からんが多分浅い!」
「バカ言ってないで押さえて下さいガープ中将!ヨルムンガンド宮、申し訳ございませんがどうか今しばしの辛抱を!大丈夫、痛いのは一瞬だけです!」
「いたいのイヤぁああぁあ」
「そうしないと腕が動かせないままですよ!?」
「もうそれでいいもんんんんん」
––––––両肩の関節が外れて、大泣きしています。
見渡す限り水平線までくっきりと見える、北の海近海。雪がちらつき始める海域は本日晴天、ときどき幼児の絶叫轟く空模様である。
巡礼のためのファースト・ホップ
「イヤじゃ!」
「まだ何も言うとらんだろうが!」
どどーん。と、擬音がつきそうな調子で、内容を言いもしていないのに断り文句を出してきた男を、センゴクは間髪入れずに怒鳴りつけた。
海軍元帥の執務室、数々の勲章やトロフィーが規則正しく並べられた、部屋の主の性格を表した部屋のソファで我が物顔で寛いでいる同期–––––モンキー・D・ガープはセンゴクに怒鳴られても何食わぬ顔だ。それどころか皿に盛られたおかきをぼりぼり溢しながら、また一枚貪り食っていやがる。
いい加減頭にきたセンゴクはガープの手元から皿を奪い取ろうとし、それを阻止しようとガープは皿を引っ張ったため、たかだか陶器製の皿は哀れにもあっさり砕けた。センゴクの眉間には青筋が浮かび上がる。
普段ならここで言うことを聞かないガープにセンゴクが折れる、という海軍上層部のお決まりパターンになるはずだったが、今日のセンゴクはちょっと違った。なぜなら彼はつい最近大将から元帥へと昇格したばかりで大変ストレスが溜まっており、ガープの利かん坊っぷりへの怒りは3倍増しだったのだ。
「お前がそう言う顔してるときの任務は、大体面倒くさいんじゃい。わしにはよーく分かる。誤魔化されんぞ!」
「黙って聞け!!いいか、この仕事は本来なら別にお前でなくてもいい––––と言うか中将のお前には回せんし、回したくもないが他の大将は生憎全員出払っとる。残念極まりないことにな」
新元帥は本気で嫌そうな表情を浮かべていた。彼とて付き合いの長さからガープの向き不向きくらい知っている。知っているのだが、今回の任務に回せそうなのは、海軍広しと言えども現状名誉大将のような扱いであるこの『英雄』くらいなのだ。
『–––––おれの財宝か?』
海賊王、ゴールド・ロジャーの処刑。ついては彼が最期に残した言葉。
処刑台の上であの忌々しい、全世界を海へと駆り立てた台詞が残されてもうすぐ1年が経つ。
その期間、海へ出て海賊王の残した宝を得ようとする海賊の数は休むことなく増え続ける一方で、海軍はその討伐に大忙しだった。あちらは欲望を抱いて海賊旗を上げればいいが、軍人はそう簡単に増えてはくれない。起こされる被害と、その討伐数は明らかに海賊側に軍配が上がり、海軍は後手に回る屈辱を味わわされていた。
海軍側の最高戦力である大将たちも、ここ最近本部に顔を出す暇もなく軍艦に乗り込んでの海賊退治に明け暮れており、本来は大将以上にしか任せないような重要任務を一部の中将たちに割り当てなければ、とうてい仕事が回らないような状況にまで海軍は追い込まれていた。そのツケのひとつが、今しがたガープに任そうとしている任務なわけである。
もとよりガープは大将への昇進を断り続けて中将の座にある男。実力としても、ネームバリューとしても申し分はないのだ。性格に難があるだけで。
「お前に頼みたい任務は天竜人ビヴロスト・ヨルムンガンド宮の護衛だ。期間としては3日後から始まり、およそ3週間程度を予定している」
「ほれ見ろ、やっぱり面倒くさい任務じゃろうが。イヤじゃ、わし
「不敬なことを言うんじゃない!そもそも貴様の天竜人嫌いは私とて知っているが、今回はお前の言うような奴隷を買い付けに行ったりだとか、そういう“観光”目的の滞在ではない。行き先もシャボンディとは別の場所だ」
「ほーん?」
ガープはセンゴクのその言葉に初めて、ちょっと意外そうな様子で顔をあげた。たいてい、天竜人の護衛任務といえばシャボンディ諸島で、彼らが奴隷を買ったり機嫌を損ねた人物を撃ったりだとか、そういう非道な行いを黙って見て、危険が及ばないよう守るというカスみたいな仕事がお決まりなのだが、そうではないとはこれ如何に。あまり聞かない話だ。
「行き先は?」
「
「北の海、なあ…何しに行くんじゃ、どこぞの国の視察か?」
とガープ。視察なんか絶対行きたくないという顔である。
いいや、と疲れの滲む顔でセンゴクは首を振った。眼鏡を外して軽く息をかけ埃を払うと、すこしだけため息をつく。どことなくしんみりとしたような、彼には珍しい顔で窓の外に視線をやると、硬い口調で簡潔にこう言った。
「––––父君のご遺体を故郷に返しに行くのだ、と。そう仰っていた」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あ、と子供特有の高い声がちいさく吐き出されて、それからぱちりとつぶらな灰色の瞳と視線がぶつかった。
光源は申し訳程度に取り付けられた丸窓ひとつ。ほとんど暗闇に沈んだ船底の倉庫の中、貴人の少女の青ざめた顔ばかりが白く、淡く光っている。仕立てのよい、フリルのたっぷりついた喪服も、潮の匂いが染み付いたうら寂しい倉庫の中ではほとんどその輪郭を闇に溶かしてしまい、幼い少女はまるで闇を服として纏っているようにも見えた。
ガープはそのまま倉庫の中に入ろうとして、それから口酸っぱく言い付けられた小言のいくつかを思い出し「入っても?」と尋ねると、少女は素直にこくんと頷いた。
「あー……こっちは寒いじゃろう。船室に戻っ…戻られては?」
崩れかけた敬語を特に気に留めることもなく、ふるふる、とこれまた黒い髪が横に揺れた。
「…ううん…まだここに居るわ。こんなに暗い場所に1人だと、パパもきっとさみしいと思うもの」
「おう、そうか…」
すん、と鼻を鳴らす音が船底に響き、まだあどけない顔立ちには混じりけのない寂しさが浮かんでいた。死んだ父親を恋しがる少女の表情は、ひどく幼い。その幼さがどうにも哀れに見えて、ガープは目を瞬かせた。
(しかし本当にびっくりするくらい大人しい子供じゃな……ホントに天竜人かこいつ?)
ガープが渋々嫌々仕方なく、センゴクから言い渡された天竜人の護衛を了承し、北の海へ行くビヴロスト・ヨルムンガンドの護衛について今日で2日目。目的地である島には遠く、未だ三分の一程度しか進んでいなかったが、この短期間でもガープは護衛対象であるちんまい天竜人に驚かされることしきりだった。
なぜってこの少女、天竜人とは思い難いほど手がかからない。特に海兵たちに文句をつけることも無ければ、通行人を無闇に奴隷にしたりも銃で撃ったりもせず、こうして船底の倉庫に入り浸るか船室で静かに図鑑を眺めている。食事を残すこともなく、『ありがとう、とても美味しいわ』と毎回感謝をする。部下たちには『ガープ中将もこれくらい大人しくして欲しいもんですね』と嫌味を言われたくらいだ。出会い頭に、喪服姿の少女が手ずから父親の遺体が入っている棺を台車に乗せて転がしていたのはちょっと変だったが、相手が奴隷であることを考えれば慈悲深いと言っても良いだろう。
センゴクから『大人しく、礼儀正しいご令嬢だ』と聞かされたときには鼻で笑ったものだが、センゴクすまん、前評判はガチだった。
ガープが黙っていると、少女のあわい、プラチナクォーツみたいな瞳の先はガープから興味を失ったように逸れて、倉庫の真ん中に置かれた冷蔵庫にすいっと戻って行った。
業務用の大きな冷蔵庫だ。真新しい、運び込まれたばかりのそれは闇の中で薄緑を霞ませたまま、じっとそこに立っている。人1人分入りそうな–––––というか今現在実際に入っているので、ような、と付けるまでもない。ガープ自身も黒い棺をこの中に入れる光景を昨日、目の当たりにしていた。
「お前さん、腹は空いとらんか」
「ううん」
「暖かい飲み物は?」
「大丈夫」
「あ〜〜船酔」
「船酔いもしてない、というか……」
ヨルムンガンドは立て続けの質問に答えながら、椅子に座る己の3倍以上ある巨漢を見上げて、くすくすと笑った。ちょっぴり腫れたまぶたがきゅっと細まって、子供らしい軽やかな声が上がる。
「うふふ、ガープ中将ったら昨日からそればっかり!ここに居て欲しくないなら、そう言ってくれればいいのに」
「ヴ」
でも気にしてくれてありがとう、とにこにこしている少女に図星を付かれたガープは言葉に詰まった。別段、この幼い貴人が倉庫に入り浸りなのを咎める気はない。というか、咎める手段も権利も彼は生憎と持ち合わせないので。
ただ、一応人の親であるガープにしてみれば、まだ10歳にも満たないような子供が–––彼は子供は外で走り回っていればそれで良いというような雑な思想の持ち主だ––––こうして日の当たらない船室で、父親の遺体が入った冷蔵庫と睨めっこしている状況というのはどうにも不健全で、危なかっかしいように思えてならず、護衛につく前のあれこれはどこへやら、こうしてたびたび足を運んでは少女を何とか外へ連れだそうと画策していた。
(ここまで慕われてるっちゅうことは、奴隷と天竜人とは言えども父娘の方は良好な仲だったんじゃろうが、なあ………。母親の事件の方は事故か故意かはっきりせんまま父親が死んだんじゃったか)
聞き分けのよく、至って大人しいヨルムンガンドは天竜人嫌いで有名なガープの目にもごく普通の育ちのよい少女にしか見えず、そんな彼女が暗い船底でまんじりともせずに冷蔵庫を眺めている光景には、どうにも不安が募る。例えば冬の崖の上で、今にも飛び込みそうな顔で海を見つめる人間のような、音の無い、しんとした–––死と生のあわいにふらふらと近づいて行くような気配。
しかしガープの気遣いも虚しく、というか幼い女児と触れ合ったことの少ない彼ではヨルムンガンドの気を引くような台詞が出てこないのも悪いのだが、ガープの『お誘い』が成功した試しは今のところない。いつもにこにことした顔で「ここにいる」と言って聞かないので、一体どうしたものか、とガープが考えたところで、ごと、ん–––と鈍い音が鳴って軍艦全体が僅かに傾いた。手近な椅子に腰掛けていたヨルムンガンドがたたらを踏む。
「何事じゃ!報告せい!」
咄嗟にヨルムンガンドに駆け寄って周囲を警戒し、追加の衝撃がないのを確認すると手元の電伝虫に向かってガープは大音声でそう問いかけた。
「も、申し訳ありません中将!現在前方500メートル付近で大型海王類がおよそ3体ほど浮上しておりまして」
「こっちへの敵対行動は?」
「ありません!こちらにはまだ気付いていない模様ですが……迂回しますか?」
「そうじゃなァ…」
ふと、横目で窺ったヨルムンガンドの顔がそわついていることに気づいて、ガープはにんまりした。青白い幼子の顔には、先程までの笑っていてもどこか沈んでいた暗さの中にとは打って変わって、隠しきれない好奇心が頭をもたげていた。好きなオモチャを目の前にぶら下げられた猫のような、分かりやすさ。
(………なんじゃ、こんな顔もできたんじゃな、こいつ)
「…いや、万が一のこともある。凪の帯方面に追っ払うから、このまま接近せい。せっかくじゃ、“お客さま”にええとこ見せんと損じゃろう。わしもすぐ行く」
「かしこまりました!」
電伝虫を切ると、足下で期待の眼差しで見上げている幼い少女と目線を合わせてガープは悪い顔をした。
「と、言う訳じゃ。海王類、見に行きたいか?」
「行く!行きたいわ!すっごく!」
「よーし、そうと決まったら急ぐぞお嬢様!」
ぴょんぴょんと跳ねている華奢な少女を片腕で抱え上げると、おっそろしいほどの軽さにガープは内心たまげながら甲板へ続く階段を上がった。遠い昔に抱き上げた同じ年頃の息子と比較してもかなり軽い。人型をした紙風船でも持っているかのような重量に驚いて、それからガープはそういえば己があまりこれくらいの年の女の子と関わったことがないことを思い出した。手を離れた息子も––––ついこの間一歳になったばかりの義理の孫も、みな男ばかりだ。
そうか。この年の女の子はこんなに軽く、柔らかいのか。その軽さを改めて感じながら、ガープはヨルムンガンドが失ったばかりの両親のことを考え、それからもう彼女の軽さを味わうことのない両親の悲痛に束の間思いを馳せた。
わあ、と甲板に出たヨルムンガンドは顔面に吹き付ける潮風の冷たさに身を震わせ、そうして見渡す限り一面を埋める海に目を輝かせた。思えば船に乗り込んでからも、ずっと船室か倉庫に入り浸っていたのでこうも海をまじまじと見るのは初めてのことだ。
とりわけ今は、3メートルを超える巨漢の腕に乗せられているので、いつもより遥かに見晴らしがよい。
水平線まで広がる深い青と、北の海に近づいている証でもある鈍色が混じり始めた紫混じりの濃い空色。雲一つない、澄み切った2色に分けられた夕刻の世界の全てが、今はヨルムンガンドの視界に収まっている。
北へと近づくにつれて風は冷たく透き通ってゆき、空は高く、遠くなっていくようだ、とヨルムンガンドはぼんやり考えた。
1番見慣れたマリージョアは世界でも有数の高所にある都市だからか、空は近く、月も星も飛ぶ鳥も頑張れば手が届くように思えるが、この海でそんな思いはまるで湧かなかった。
空はこんなにも遠く、飛ぶ鳥もその影が捉えられないほど高い所を飛んでいるのだ。そのことを今初めて、思い知ったような気になった。父であるロプトも、マリージョアに来る前はこんなに高い空を眺めていたのだろうか。
空から下に視線を戻したヨルムンガンドは、抱っこに慣れてないことも相まって足が地面に着いていないのが急に不安になってしまい、ガープの腕の中でジタバタと暴れた。
「ガープ中将、下ろして。わたし、自分で歩くわ」
「ン?じゃがお前さん、それじゃあお目当ての海王類が見えんぞ。そう怖がらんでも落としやせんわい!」
「うう、それは嫌だけどだってあし、足がついてないからスースーするんだもの…」
ガープはもう聞いちゃいなかった。大股でずかずかと部下たちが慌ただしく走り回る甲板を進み、砲台の周りで忙しくしている海兵たちに近づくと海王類はどこじゃ、と尋ねた。日に焼けた年嵩の兵の1人が双眼鏡を覗き込みながら進行方向からやや右にずれた方角を指差した。
「砲弾用意急げ!弾は音と光のデカさ優先で持ってこい!」
「向かって2時の方角です。先程から急浮上と潜行を繰り返しており、……体長約90メートル前後の鮫型2体とイカ型です。比較的小柄な個体ですね」
「凪の帯から迷い込んだか?交尾中には見えんな」
「いえ……恐らくは–––––狩り、かと」
その言葉が終わるやいなや、前方の青の海面を割って、巨大な白色の生き物が波間に飛び出して来た。水上に見える部分だけでも、軍艦と同じくらいのサイズを誇る、海の王者たち。ガープに抱えられたヨルムンガンドの目にその生き物の輪郭が映り終わる前に、それはまた海へと戻って行った。
その衝撃の余波でパタパタと雨のような飛沫が水面に白波を作り出し、渦巻いている。白い巨体は海へと戻った後も水の下で泳ぎ、身をくねらせながら大きさに見合わないスピードで泳ぎ回っているのが、少女の目にも映った。
「………ダイオウイカ?」
「おや、ヨルムンガンド宮はたいへん博識でいらっしゃいますね」
ガープの側で控えていた下士官の1人が、少女を見上げて薄くほほえんだ。ガープより一回りほど年下に見える彼が、降りかかる波飛沫を避けるようにヨルムンガンドに傘を差し掛けた。
「パパが教えてくれた図鑑に載ってたから…」
「ああ!そう言えばお父君はこの分野の権威であらせられましたね。ご存知なのも納得です」
「そうなんか?わし、初知りなんじゃが」
「中将、貴方はもう少し護衛対象の情報を頭に入れておいて下さい…というかその前に常識ですよ。とは言え、あれは厳密にダイオウイカではないのです、ヨルムンガンド宮」
夕方の風はかなりその冷たさと勢いを増しており、吹き付ける轟音に負けないように喋る誰もが半分くらい怒鳴っているような調子だった。ヨルムンガンドは暖を求めてガープの腕にきゅっとしがみついた。
その視線の先、どんどんと輪郭をはっきりしていく海王類たちは軍艦を気に止めないで絡まるように、はたまた逃れるように動きながら、海面を荒らし回っている。
「違うの?あ、でもそうね、大きすぎる気もする、かも」
「よく似てはいますがね。通常のダイオウイカは14〜18メートル程度ですし、こんなに浅いところで目撃することは難しいでしょう。触腕の構造なども同じですので血統としては近いと思われますが、どのような進化を辿ったのか、無脊椎であの巨体をどうやって維持しているのかは一切不明…海王類はまさに、海のブラックボックスというわけですな」
そして軍艦の目と鼻の先までその海王類たちが迫ったとき、ヨルムンガンドは初めて「狩り」の言葉の意味を理解した。たしかにこれは、狩りだ。
ドン!!!!
巨大なダイオウイカがもう一度水面から飛び出し、今度はそれを追いかけてもう一体が出現し、そこから遅れてイカを挟撃するような形でもう一体が現れた。
こちらは緑がかった灰色の鮫に近い姿だが、背鰭から体の中心にかけて黒い縞が入っており、普通の鮫よりやや丸っこいフォルムだからか、どこかスイカのようにも見える愛嬌がある。とは言え。
ぐあ、と口を開ければ三重になった牙とその奥に広がる無限の闇のような口が丸見えになり、深く裂けたそれがイカの腕に食いつく––––その寸前で触腕がしたたかに鮫の鼻を打ち3体ともがまた海中へと戻った。
ざぶん、と大きな波が立ち、差し掛けられた傘を超えてヨルムンガンドの顔にも塩からい水が落ちたが、そんなことも気にならないくらいに、少女の灰白色の目はきらきらと興奮に輝いている。
(……す、すごい!かっこいいなぁ…!!)
ヨルムンガンドはこの瞬間ばかりは父のことも頭から忘れ去って、目の前で繰り広げられる巨大な生き物たちの迫力満点のショーに夢中だった。海王類たちが立てる高波、身を切るような潮風の冷たさ、巨体が命懸けでぶつかるたびにびりびりと伝わる肌の感触……あらゆる娯楽があると豪語するマリージョアでさえ、こんなものを見ることはできやしない。ばちん、と生き物たちの肌が触れ合う音がして、スイカ鮫の牙が今度はイカのヒレのような部分を食い千切った。
ところでふと、ガープや控えている下士官の方を見れば、ヨルムンガンドほどは興奮も驚きもしていないようで、ガープに至っては少女を抱えていない方の手で鼻をほじっている。その視線に気づいたのか、ガープは慌てて手をスーツの裾で拭った。
「あなたたちは、あんまりびっくりしてないのね。海軍のひとはこんなにかっこいい……やつをいつも見てるの?」
子供らしい語彙の少なさに下士官の方が生温い笑みを浮かべた。
「いつも、というわけではないですが…やはり宮さまよりは見る機会も多いものですから。それにここは、北の海へ向かう主要航路のひとつですからね。海王類が目撃されるのはあまり良いことでもないのですよ」
「…ふうん?」
「"ここは人間の使う場所で、お前らが来ん方がええぞ"、というのを連中にもよくよく理解してもらわにゃならん、と言うことじゃ。どんだけお前さんにはかっこよく見えようとも、こんな狩りを四六時中やられちゃこっちが困るからのう。おい!砲弾は準備できたか!?」
「はっ!現在100発まで投擲も砲撃も可能です!」
口の端を上げたガープはその返事を聞くやいなや、ヨルムンガンドを片手に抱えていることもお構いなしに、差し出された大砲の弾をお手玉よろしく二度三度ひょいと放ってはまたキャッチして弄んだ。そうして嫌な予感がした部下が「中将、宮さまを下ろしてから投げてくださいよ」と言おうと口を開くより一瞬早く–––––老いた英雄は思いッッきり砲弾をフルスイングして投げていた。
ガープの腕に抱えられているヨルムンガンドには、その投擲の瞬間に、それでいて英雄と呼ばれる男の凄まじさが、五感の全てを通じてはっきりと理解できた。みちみち分厚い筋肉の束が盛り上がり、貯められた力が一気呵成に膨れ上がると、それが一瞬の内に肩から腕に、そして砲弾へと伝播し、ボッッッッ!!と冷たい空気を突き破りながら黒い弾は音を超えて空を疾った。
ついでに断っておくと、片手で抱き上げたヨルムンガンドの髪の毛をちょっと掠めてのことだった。
轟音を立てて、海面に姿を出していた海王類の体表にぶつかった砲弾は、派手な光と共に炸裂し、高い水柱と水蒸気が上がった。スコールのような勢いで水の粒が甲板を叩く。急襲した光と音に、揉み合って互いを食いちぎらんとしていた海王類たちはのけぞり、驚いたように軍艦に意識をやったことが分かった。ぐるり、と巨大な瞳孔がこちらを捉える。
しかし、英雄の代名詞でもある『拳骨流星』はその一発にはもちろん留まらず、体表や鱗を飴細工のようにちぎり取っていく砲弾の雨は容赦なく続き、ヨルムンガンドはこっそりとこの軍艦に取り付けられた砲台が無駄に綺麗な理由に見当がついた。単純に使っていないのだ。そりゃ、大砲より高威力で砲弾を投げられる人間がいるのなら、そちらを使う方が効率的ではあるだろう。
一発、二発、五発、十発、二十発………雨霰と降り注ぐ砲弾の数が、用意した分の折り返し地点にたどり着く頃には、一旦狩りを止めて軍艦に牙を剥いていた海王類たちもとうとう畏れをなしたように海中へと深く潜り、後には逆立つ波だけを残して姿は見えなくなった。
ふふん、と片腕に乗せたヨルムンガンドをガープは得意げに見た。
「どうじゃ?初の海王類見学は?」
「………す」
「す?」
「…………すっっごい!すごいすごい、かっこよかった〜!砲弾もすごいし、海王類があんなに近くで見れるなんて思わなかったわ!ガープ中将、ありがとう!」
「ぶわっはっはっは、そうじゃろそうじゃろ」
興奮しきりで、きらきらした灰色の目で己を見上げる少女に、ガープは満面の笑みだ。人間、乳歯しか生えてないような年頃の子供に褒められると、何とも嬉しいものがある。星の数より多くの賞賛を浴びてきた英雄にとっても、それはやはり同じことだった。
が、しかし。その後に続けられた言葉には、周囲の部下たちはおろか、歴戦の英雄すら困惑させる無理難題が付随していた。
「わたしも投げたい!ガープ中将みたいに砲弾、えいってしたいわ!」
「「「えっ」」」
––––––やばい。どうしよう。
甲板に出ている人間たち全員の感情が一致し、切実な感情の込められた視線が素早く交わされた。はっきり言ってヨルムンガンドの体重の5倍くらいある砲弾を持たせるのは危ないし、かと言って仮にも天竜人である彼女の願いを断るのは色々とまずい。後ろの方で控えてる世界政府の役人が「さっさとしろ」みたいな目でこっち見てるし。
お前がいけよ、いやお前がと意見の押し付け合いをアイコンタクトでガープの麾下たちはそれぞれ行っている。
海王類バトルを見せたのは軽率だったかもしれん、とガープが後悔しかけたところで、可哀想な部下の1人がおずおずと切り出した。
「…宮さま、この砲弾は中将が持つと軽そうに見えますが、実際には貴方様の体重より遥かに重いので、恐らくお一人で持つのは難しいかと思われます」
「そうなの?じゃ、投げられないのかしら」
「そう、ですね…ですので、中将に支えてもらうのはいかがでしょう?それでしたら投げているような気分、くらいは味わえるかもしれません」
「え、わし?」
と、言うわけで。折衷案として編み出された「なんかそれっぽく砲弾投げ気分を味わわせて誤魔化しとけ作戦」はただちに遂行された。
船縁に足台を乗せてヨルムンガンドがその上に乗り、身を屈めたガープが持つ砲弾に、少女がちんまりとした手を添える。冬の空気の中、外気で冷やされた鉄の塊は体温を吸い込んでいくような感触を備えていた。自力で持っているわけではないので重さは感じないが、未知の感触に喜んでいるヨルムンガンドはそれだけで大体満足していた。7歳の女児はこんなもんである。
「いいか、せーので投げるぞ。ええか?」
「ええ!大丈夫よ!」
「それじゃ、行くぞ…せーの、」
––––ここでふたつ、誤算があった。
まずは、両者の体格差を彼らが正確に把握していなかったこと。一応台の上に乗っていることで多少マシにはなっていたが、それでも3メートルを超える巨漢と、1メートルギリギリない幼女。その上、砲弾を投げるときには思い切り腕が振られてしまったため、台を持ってしてもガープの投球フォームはヨルムンガンドの肉体的な可動範囲を超えていた。
次に、ガープの動きで体勢を崩したヨルムンガンドが、そのままちょっと踏ん張ってしまったこと。2メートル差の動きについていけなかったとして、転べばそれで終わる話なのだが、少女が台に踏ん張ろうとし、逆に腕だけは砲弾に添えたままだったため、腕と体で相反するベクトルの負荷がかかったヨルムンガンド少女の腕は––––
–––––かこ、というような間抜けな音を立てて伸びた。要するに肩関節がすっぽ抜けたのだ。ここで話は冒頭へと戻る。
ヨルムンガンド宮の名誉のために詳細は伏せておこう。最終的に彼女の関節は元に戻り、大泣きしたことを心底恥じたが、学びはひとつだけあった。それは、関節は抜けるときより嵌めるときのほうがもっと痛い、ということだ。
ガープ(57)
初顔合わせ。天竜人の肩関節を抜いたのでついて来た役人に怒られた。ヨルムンガンドが26になってもまだこのネタを擦っている。まだ総白髪じゃない。
ヨルムンガンド(7)
間近で見る大怪獣バトルに興奮したが、肩関節を抜かれた。まだプリン頭じゃない。
海王類たち
イカの方は決めてないが、スイカっぽい鮫は『ウォーターメロガドン』という馬鹿みたいな名前がある。
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