竜血濁らずとも腐るべし   作:メラニンEX

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遅くなりました。断っておきますが、私は尾形百之介と花沢勇作の異母兄弟が大大大好きです。よろしくお願いします。


フォース・ハイ・ジャンプ、初雪に寄せて

 

キングズ・セメタリー諸島の中で最も格式高いホテル、現在世界政府が貸し切り中のハップス・リーガロイヤル(築80年)の一室には、重苦しい空気が立ち込めていた。窓の外では相も変わらず、身を切るような寒々しい風が吹いているが、その北風の軽やかな足取りとは真逆の、澱んだ水のような沈黙。

その空気を生み出しているのは、テーブルに座る2人の男だった。

 

「あの方は神です」と、政府役人。

「そう言われとるな」と、ガープ。

海軍の英雄はその空気の重さなどまるで関係ないと言う様子で、煎餅をぼりぼり齧りながら答えた。白いテーブルクロスには細かい食べかすが散っている。とても汚い。役人はその呑気な仕草に更に怒りを煽られたようで、神経質にテーブルを2本の指で叩いた。

 

「そして、ウートガルズ・J・アイノはその現人神に危害を加えた人間です。即刻、議論の余地なく殺害する必要があり、我々の職責としてそれは許可されている行為です。止める意味は?」

「そりゃお前さん、」

ぼりっとまた一口。物を食いながら話すなという基本的なマナーを無視して、老兵は口の中の煎餅を見せびらかすように笑った。

 

「あの小娘は確かにまずいことをしたが、何も殺すほどじゃなかろう。こっちが島を出るまで牢にでも入れときゃいい。お嬢様が殺せと言ったわけでもあるまいし」

「中将!我々の責務は天竜人の意思を慮って行動することですよ、あの方に言われる前に先んじて殺しておくべきです。ヨルムンガンド宮とてそうお望みのはずだ。…だいたい護衛として来ておきながら、軍人でもない人間にみすみす宮様を殴らせた貴方にだって責任はあるのですよ。このことは元帥閣下にも報告させていただきますからね」

「お、そりゃ悪かったの。まさかいきなり殴るとは思っとらんかったもんで反応が遅れてもうたわい。スマンスマン」

 

 

世の中広しと言えども、英雄モンキー・D・ガープに止めることのできなかった拳はそうない。その数少ない例外はついさっき鍛えたこともなさそうな少女によって成し遂げられており、先刻からそのことでガープは役人にねちっこく責められているわけだ。

 

まあ、ガープとて幼い身空で鼻骨にヒビが入るほど殴られたヨルムンガンドを気の毒に思わないでもないし、役人が言っている理屈が海軍、ひいては世界政府でまかり通る正義であることくらい長年の海軍勤めで骨の髄まで叩き込まれている。

 

––––創造主の末裔である天竜人は神だ。

––––神に逆らうことは許されない。いわんや神に危害を加えることも。

 

 

そんなことは知っている。知っていて、気に食わない。聞けばヨルムンガンドの父は、ヨルムンガンドの母親に無理やり聖地に連れてられて奴隷となった男らしく、聖地に来る前には普通に家庭を持っており、それが先程ヨルムンガンドに殴り掛かったアイノという娘とのことだ。殺される寸前でガープに止められ、現在近場の留置所にブチ込まれている彼女のパンチは恨みの籠った激烈なもので、真正面から食らったヨルムンガンドの鼻にはヒビが入る羽目になっていた。

 

ガープとしては、アイノを殺すことには反対だった。殴られたヨルムンガンドに非はないし可哀想であるが、彼女がヨルムンガンドに恨みを抱くこと自体を否定はできない。ある日突然父親を奪われ、死んだと聞かされたと思ったら父と父を奪った張本人との間に子供ができていたと知った時、彼女は父との思い出全てを踏み躙られた気分にもなっただろう。

 

(そういや……)

「……あのアイノとか言う小娘、母親はおるんか?父親が聖地に連れてかれたのはええとしても、あんだけ騒いでも家から誰も出てこんかったな」

ガープの言葉に、役人が僅かに頷いた。

「ああ……彼女の母親でしたら……おや。お戻りでしたか、ヨルムンガンド宮。お体の具合はいかがでございますか」

むっつりした口調で役人が答えかけたところで、入り口の海兵たちがざわめく声がした。ふと彼が腰を浮かせると慌てて頭を下げたのでガープがその視線の先を追えば、鼻を大きなガーゼで覆い、脱脂綿を鼻の穴に詰め込まれたヨルムンガンドがよろよろと部屋に入ってくるところだった。

 

「…らいじょうぶ……あとちょっとしたら鼻血も止まるでしょうって、お医者さまが……」

明らかに大丈夫ではない。大きなガーゼの端っこからは青黒く変色した肌が見え隠れしてしており、鼻声と相まってひどく痛ましかった。

「おう、お嬢様。泣かんかったか?」

「泣いてない………」

「えらいえらい、よう我慢したのう」

ひっく、としゃっくりしながら答えたヨルムンガンドの頭をガープがわしわし荒っぽく撫でてやると、少女はちょっとイヤそうにそれを避けた。それで、ガープは思ったよりは元気そうなヨルムンガンドの意見を聞いておくべきだと思って、尋ねた。

 

「のう、さっきのことじゃが……お前さんを殴った奴がおるじゃろ」

「………、うん」

きゅっと口が窄まって、少女はこっくり頷いた。

「あの小娘は今、近くの牢屋に入れとる。処遇はまだ決めとらんがお前さん、あいつをどうにかしたいか?」

「…どうにかって……何を?」

「何でもじゃ。そうじゃな、殴り返したいとか、罰金とってやりたいとか、謝ってほしいとか。お前さんはそういう物事の一切を許されとる」

望めば、何だって。親類全てを殺せと命ずればその通りに、この島を更地にしろと命ずればその通りにできるだけの権力が、この少女には宿っているのだから。

 

 

ヨルムンガンドは青ざめた顔で、ガープから目線を外すと自分の靴の爪先をじっと見つめた。雪にも対応している革製のショートブーツは、キラキラと室内の電灯を滑らかに跳ね返している。

それから、幼い少女は蚊の鳴くような小さな声で呟いた。冬の風に晒されてすこしひび割れた唇が、拗ねたように尖っている。

 

「……そんなの、全然考えてなかったわ。パパの家族ならきっと、わたしが来たこと喜んでくれると思ったのに………」

「…………」

蓋を開ければこの通り、父の遺族には殴られるし、父にはヨルムンガンド以外の子供がいるし踏んだり蹴ったりだ。海兵たちも、その現実離れした夢を何と言ってやるべきか迷って口をつぐんだ。そこへ、役人がずい、と身を乗り出す。

 

「大変失礼ですが……ヨルムンガンド宮、私はあの女性の処刑をお薦めいたします。玉体に傷をつけた罰は厳格であるべきかと存じますが…」

その言葉にヨルムンガンドはちらりと顔を上げて、また俯いた。ふるふると、頭が横に振られる。

「………いい」

「しかし」

「……わたし。わたし、そんなことをしたくてここへ来たんじゃないもの」

ヨルムンガンドが呟いた言葉に、役人も言葉を失った。

「できれば仲良くして欲しかったし、叩かれちゃったのは痛かったけど……痛いことしたいわけでもないし……別に、罰とか……そういうのは無しでいいと思うの」

「じゃ、釈放か?」

「しゃくほう?」

ガープの言葉に、ヨルムンガンドが少し首を傾けた。まだがんぜない、幼子そのものの仕草だった。

「うちに帰してやるっちゅうことじゃ」

 

少女の視線が、つかの間宙を仰ぐ。少しして、首が縦に振られる。

 

「…………そうしてあげて」

 

かくして、神の沙汰は下された。ガープは一度、小さな頭をわしゃりと撫でてやってから、部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「…おや。ヨルムンガンド宮はもうお休みに?」

「あ、ボガード大佐。お疲れ様です」

「お疲れさまです。あの方ならさっき浴場から戻ったきり部屋出てませんね。寝てるのかも。何か御用でもあったんですか?」

 

時刻は少し進む。場所は全館貸切になっているハップス・リーガロイヤルホテルの4階の階段である。今回のキングズ・セメタリー滞在期間中、この階だけは天竜人であるヨルムンガンドのみが宿泊する手筈となっており、役人や海兵たちが下の階に詰めて警護に当たっている。本来なら天竜人付きの奴隷は彼らと同じ階で宿泊するらしいが、ヨルムンガンドがそれを断ったため、4階は正真正銘1人の少女の貸し切り。なんともまあ贅沢な話だ。

 

そんな訳で、3階と4階を繋ぐ階段で警護に当たっている2人の海兵たちの元を、上官の1人であるボガードが訪れたのはちょうど午後9時頃のことだった。階段の窓からは冬島の夜らしい、すこんと抜けた星明かりが眩い夜の風景が広がっていた。

 

「いや、大したことじゃないんだが…さっきホテルのスタッフから食堂で落とし物があったとこれを渡されてな。流石に海兵の持ち物とは考え難いし、お年頃からしてヨルムンガンド宮の持ち物じゃないか、と思ったんだが」

「お?あ〜……確かに。あのくらいの女の子、こう言うの好きそうですよね。というかおれらみたいなむさ苦しい連中にはちょっと可愛すぎますよね」

「確かに、今ここ貸し切りですし。でもクマじゃないんだな…」

 

ボガードが取り出したのは、大人でも一抱えくらいあるカメの縫いぐるみだった。もっちりした素材に、淡いモスグリーンを基調としたカメはお子様向けのデフォルメが効いたものではなく、しっかり鼻やヒレの細部まで刺繍の入ったリアルなものだった。顔つきも中々迫力がある。その上に何故か、黒い毛糸のセーターを着せられているのでちょっとシュールだ。少なくともおじさんのボガードが持つには可愛すぎる縫いぐるみだった。

 

「おれらから直接渡して大丈夫でしたっけ。ガープ中将か、宮様付きの奴隷の彼呼んで渡した方がいいんですかね?」

「正式にはな。まあ見る限り、そんなことで気分を害するような方ではないだろうが……」

幼く気安いとはいえ天竜人。顔を突き合わせた海兵たちがちょっと迷ったところで、もう1人の下士官がいや、と首を横に振った。

「…や、でもほら宮様、朝っぱらからぶん殴られたり大変そうだったし、そーいう時は慣れた縫いぐるみが手元にあった方が嬉しいんじゃないですか?ウチの姪っ子とかもそうでしたよ。時間からしてもう寝ちゃうんでしょうし、チャチャっと渡してあげたら喜ぶんじゃないですかね」

 

その言葉に、3人の男共は顔を見合わせて「それもそうだな」と合意し、ヨルムンガンドの宿泊している部屋までぞろぞろ歩いて行った。フロアには彼ら以外誰もおらず、その僅かな足跡も厚い絨毯に吸い込まれてひどく静かだった。少女はフロアの1番端にある角部屋に泊まっており、代表してボガードが扉をノックするとぱたぱたと物音がしてから、「はーい」と幼い声が返ってきた。

ややあって。

 

「……はあい、どなた?……あれ、貴方たち……」

「夜分遅くに大変申し訳ございません、ガープ中将麾下のボガードと申します。先程ホテルのスタッフからこちらの縫いぐるみが落ちていたと渡されたのですが、もしや宮様の持ち物ではないかと思いまして伺った次第です」

「ぬいぐるみ…?」

 

開いた豪奢なドアの先、きょとん、と屈強な男たちを不思議そうな顔で見上げたヨルムンガンドは白いネグリジェに黒い上着姿だった。ほかほかと上気した顔は子供らしく薔薇色に染まっているが、その鼻頭にはやはり大きなガーゼがぺたりと張り付いている。

こちらの縫いぐるみ、と差し出されたカメを見て、少女はぱっと目を輝かせた。

 

「あっ!セーター!いないと思ったら…落ちてたのね、持ってきてくれてありがとう。これ、うん、わたしのよ」

「左様でしたか。スタッフから聞いたところによると、食堂に落ちていたそうで……宮様の持ち物が戻って何よりでございます」

(このカメ、セーターって言うんだ……)

(『タートル』ネックからか?そのまんまだな…)

 

下士官たちの感想はさておき、ヨルムンガンドは受け取ったカメを抱きしめてにこにこした。ボガードでも一抱えくらいあるので、当然幼い彼女には抱き抱えるのもやっとの大きさではあったけれど、その抱き慣れた様子から見るにお気に入りの一品らしい。その姿はなんとも年相応で、3人はこういうとこは天竜人も一般市民の子供も変わらないのだなあ、とちょっとほっこりした。

 

「……?ヨルムンガンド宮、もしや空調の温度などに不備などございましたか」

「?ううん。べつに、大丈夫だけれど…暖炉もつけてるし。どうして?」

「いえ、不備がなければそれで良いのです。北の海の夜は聖地に比べてかなり冷え込みますので……もし寒くなれば直ぐにお申し付け下さい」

「分かったわ、ありがとう」

「では。我々はこれで失礼します」

 

そう言って敬礼をした上官に倣い、部下たち2人も慌てて敬礼をしたところで、彼はふと思いついて閉まりゆく扉に声をかけた。普通なら腐敗した権力層のトップにそのような言葉をかけるなど思いもよらなかったけれど––––彼はこの船旅を通して、ヨルムンガンドの持つ人並みの善性をきちんと知っていた。

 

「おやすみなさい、ヨルムンガンド宮!」

その言葉におさない少女はすこし、びっくりしたようにぴっと目を開いて、

「––––ええ。おやすみなさい」

ちょっとはにかむように、柔らかい笑みを浮かべた。7歳の女の子が浮かべるに相応しい、たんぽぽの綿毛みたいな、メレンゲみたいな、ふわふわの、へにゃっとした笑顔。腕にはセーター(カメ)(ぬいぐるみ)をぎゅっと抱きしめちゃって。

ドアがバタン、と閉まる。そしてまた何故か開いた。慌てた様子のヨルムンガンドが口早に捲し立てる。

「あっ!そうだ、言い忘れてた!わたしすごい寝起きが悪いから、朝起こさないでね!わたしが自分で起きてくるまでドア開けたらダメ。分かった?」

「かしこまりました。………………全く。他の天竜人にやったら死んでたぞ、お前」

 

 

ドアが今度こそ閉まった後、ボカン、と一発殴られて、下士官の青年は飛び上がった。

「ってえ!分かってますって、やりませんよ!」

「まあまあ大佐、夜のご挨拶だって一応礼儀のうちじゃないですか。しかしまあ、天竜人にもあんな方いるんですねえ……旅の間も驚かされっぱなしでしたけど……いやーウチの姪っ子の100倍可愛い気あるなあ……」

などなどぐだぐた話しながら階段の警備に戻るべく廊下を歩いていたところで、部下の片方がボガードに尋ねた。

「そういや大佐、なんだってさっきヨルムンガンド宮に空調がどうの、なんて聞いたんです?部屋普通に暖かそうでしたけど」

「ああ、そのことか。宮様は先程寝巻きの上から外用のコートを着ていらしただろう。だから寒かったのかと思ったんだが……どうも違ったようだな」

「え?あー、あれガウンじゃなかったんだ…」

 

思い起こせば確かに、着ていた黒い上着は部屋用には多少ごつかった気がする。あれコートだったのか。風呂上がりで一瞬寒かっただけなのか、はたまた厚着するのが好きなだけなのか。あれ、そういえば––––

 

(あの方、髪の毛結んでたな)

 

にこにこカメの縫いぐるみを抱っこしている少女の頭には、黒いポニーテールが結ばれていた。寝る前なら普通、ほどいていそうなものだけれど。

結んでいた髪の毛。何故か着ていた外用のコート。それはまるで––––今からどこかへ出掛けてくるときのような格好にも思えた。

 

(……いや、まさかな)

 

ヨルムンガンド宮、寝るって言ってたし。頭を振って、浮かんだつまらない考えを彼は一蹴した。彼のその思い付きを攫うように、窓を叩く木枯らしの勢いは、夜の帳が落ちてから増す一方だ。ガタガタ、ヒューヒューと、想像するだけであの痛いほど冷たい風は、雲の足取りをも早め、月は束の間分厚い雲の向こうへと姿を隠した。

––––夜が、深くなって行く。

 

 

 

 

 

 

 

海兵たちが部屋を去って行った後、少しして。

ホテル4階の北側に面した窓がカラカラカラ、と微かな音を立てて開いた。途端に吹き込む血管まで凍り付きそうな風に、窓を開けた少女は身を縮めて震え上がったものの、思い切って窓の枠に足をかけるとそこから外をキョロキョロと見渡した。もこもこに着込んだ格好では大変動きづらく、ホテル周囲を警備する海兵たち全てを見ることは叶わなかったが、少なくとも1番気になる真下には現在誰もいない。そのことを確認した少女は–––天竜人ビヴロスト・ヨルムンガンドは信じ難いことに–––窓枠から暗い宙へ、えい、と身を投げ出した。

 

重力から切り離される感覚に、臍の下の方がぞうっと寒くなり慌てたヨルムンガンドだったが、予定通りに頑張って手を伸ばすと何とか硬い棒状のものに手が触れ、それをぎゅっと掴むと落下の勢いを殺すようにしてずりずりと、雨樋や壁に擦れながらスピードが落ちていく。その動きに従って、黒いコートにも埃の跡がくっきりついた。

少女の手袋に包まれた、ちいさな両手で握っているのは、ホテルの建物側面を這う雨樋の一本だった。何で出来ているのかは不明だが、少なくとも今のヨルムンガンドの命綱であることには変わりない。

 

5メートルほど勢いのままひんやりした管を伝ったところで動きが完全に止まり、そこからは猿よろしく手と足を使ってそうっと地面まで近づいて行き、足が届く範囲まで降りてくると、少女はぴょんと霜の降りた地面に足を付けた。足が空を泳ぐ感覚からやっと慣れた地についたことで、ほうとヨルムンガンドは大きく息を吐く。

 

全く、何ということだろうか。古今東西7歳でこのような脱出劇に及んだ天竜人はいないに違いない。このことを後から知った英雄に言わせれば、『あいつは26になっても似たようなことしとるんじゃ。7歳のころから性根が変わっとらんちゅうことじゃろ』とのことである。

 

ともあれ。世紀の脱出劇を終えたヨルムンガンドは微かに震えている足をさすりながら、額の汗を拭って出てきたホテルの4階の窓を見上げた。思ったよりずっと上にある窓からはひらひらとカーテンが木枯らしに舞っているのが見える。

 

(………あら?そういえば帰るときってどうすればいいのかしら………)

 

計画性ゼロで窓から出てきた少女は今更のように大事なことを思い出したが、『ま、登ればいいか』と直ぐに納得すると、警備の兵に見つからないようにそーっと、辺りを見渡しながらホテルの敷地外へと歩き出した。幼女はまあまあ身体能力が高かった。STB(流石は天竜人)、創造主の子孫は4階からの落下・脱出・登攀など余裕なのだ………いややっぱりこいつだけかもしれない。

 

 

 

 

そわそわして落ち着かない、とヨルムンガンドが自覚したのは風呂を出て髪を乾かしてもらっている最中だった。朝にすったもんだがあってから夜までホテルに閉じ籠りっぱなしだし、ヒビの入った鼻は痛い。本当はウートガルズ家を訪ねたあと、街の観光スポットを多少案内してもらうはずだったのに、どこへも出かけられていないし––––それに、ひとところに落ち着いてじっとしていると、あの、アイノから投げつけられた手酷い言葉や、憎悪で沸騰するような眼差しや……あるいは、自分の生まれにまつわるあれこれが頭をよぎってしまって、ヨルムンガンドはそれらを脳から追い払うのにずいぶんと苦労した。

 

–––パパはお母さまに無理やり連れてこられたんだって。

(どうしよう?)(どうもできないわよ)

–––『あんた、頭おかしいんじゃないの!?』

(どうしよう?)(ごめんなさいって言えばいいの?)(どうせ許してなんかくれないよ)

 

ぐるぐる。頭の中で声が渦巻いている。ヨルムンガンドにはどうにもできない、ただ思い悩むことしかできない物事が、どんどん増えていくばかりだ。食べられない料理が、どんどん上に積まれていって、押しつぶされた肉の汁がテーブルクロスにシミを作っている。

 

 

「………ダメダメ、ヨルムンガンド。そういうことは考えちゃダメよ」

ヨルムンガンドは手袋を嵌めた両手で、ぽむっと顔を叩くと山積みの問題から頭を切り替えた。そう、そうだ。ヨルムンガンドは頭をすっきりさせがてら、ちゃんとした"目的"があって部屋から抜け出したのだ。どうにもならない問題に頭を捻っていてはいけない。それに––––

 

(………きれい…マリージョアにいたときは、こんな風に1人で出歩くなんて考えもしなかったわ……)

 

少女の見上げる先、速い雲の流れに時折その姿を隠しながら、月がしらしらと冬景色を静かに照らし出している。霜の降りた土地、遠く灯りのついた街並みは、その輪郭を闇に溶かしており、ただオレンジの淡く暖かみのある光のみがちらちらと濃紺のしじまを彩っていた。痛いほど澄んだ天は、水晶の破片をばら撒いたような、強い輝きの星々がきらめいて、それはもう言葉で言い表すことのできないほど美しい夜だった。

 

ほう、とヨルムンガンドは白い息を吐き出した。鼻から息を吸うと、凍りつくような澄んだ空気が体内に侵入し、足の爪先は僅かに感覚がないほど冷え切っていて、結構な厚着をしてきたにも関わらず北の海の寒さはおかまいなしに骨身に染みるようだ。

 

こうやって美しい夜に、マリージョアではない場所で、1人で出歩くことができるのも今だけのこと。彼女のやんごとなき身分ではその方が正しいのだし。聖地に戻ればしばらくの間外出は難しいだろうし、母の跡を継ぐことも多いから忙しくなる。束の間の夜の冒険を心ゆくまで楽しんでおかなければ。少女はまた一息、両手の間に吹きかけてかじかんだ手を温めた。

 

 

 

 

さて。やんごとなきこの少女が、海兵の目を掻い潜ってまでホテルを抜け出してきたある“目的”とは一体なんであろうか。それを説明するためにはまず、彼女がついている嘘について述べておかねばなるまい。

ビヴロスト・ヨルムンガンド少女はこの旅の目的を、『父の遺体を、ウートガルズ家の墓地に収めること』と、海軍や政府には伝えていたが、これが実のところ全く違う。にも関わらず、少女は自分以外の誰1人にも真実を教えていなかった。実際の文面はこうである。

 

 

『(前略)そして私の遺体のことですが、◆月の満月の夜––––恐らく×日になると思いますが–––先述したキングズ・セメタリーの第1島(キングズ・セメタリーは6つの島が環状に連なっており、時計回りに数字が割り振られている)の岬から海に流して欲しいのです。島の北岸には私の研究所があり、ちょうどこの季節であれば海王類が流れ着いているのが目印になるでしょう。』

 

付け加えて最後の方には、

 

『また、海に流したということはできれば内密にしていただけると助かります。埋葬したい、と言えば渡航の許可は降りると思いますので、そこからできるだけ他の人の目には付かないよう、お願いします』

 

とのことである。ヨルムンガンドが嘘を考えたというよりは、父の謎めいた手紙の指示に従って思いっきり海軍と政府に虚偽を言っているのであった。ともあれ、手紙を読んでから7歳児なりに色々考え、頑張ってバレないように計画も立てた。あとは決行の日である明後日を待つのみ–––だったのだが。

 

ヨルムンガンドは父の遺族にぶん殴られ、観光は中止になり、寝付けない夜。どこかへ行きたいような、落ち着かない時間ができた少女はふと、思った。計画には下見が何より大事、とこの前本でも読んだし………遺体を流すと言う岬まで行ってみてもよいかもしれない、と。そんなわけでえっちらおっちら海兵たちの目をかいくぐって4階から降りてきた少女は、計画の目的地であるキングズ・セメタリーの第1島目指しててくてくと歩いているのであった。

 

 

 

歩きながら、微かな街灯を頼りに読んでいた手紙に何か透明なものが落ちてきて、ヨルムンガンドは何かしら、と思って触れた。途端にそれは水滴となって溶けてしまい、手紙に小さなシミを作った。もしかして、と顔を上げれば、やはり予想通り、ちらちらと細かな雪が空から舞い降りてくるところだった。初雪だ。夜になって気温が下がったことによって雪になったのだろうか。さらさら、ひらひら。淡い月の光に反射しながら、空と地面の間を落ちて行く白に、ヨルムンガンドは少しの間目を奪われ、そうしてまた、歩き出した。

 

少女の小さな夜の冒険はそんな風に、初雪の降る冬の夜に始まった。静かで、誰もいない、骨が軋むほど寒くて美しい、紺色の時間。ヨルムンガンドの人生の大きな転機であり––––同時に、破滅への第一歩であることなど、まだ誰も知らなかった。

 

 

 

 

 

ついでに、加えると。

ホテルのある第5島から目的地の第1島までは、島同士を繋ぐ橋を渡る必要があり、その合計距離なんと片道約8km、往復16km。とてもじゃないが冬の夜に7歳児に歩かせる距離ではない。生物学者でフィールドワーク必須、かなりの健脚だったロプトはここらへんの価値観が大分バカだった。のちのち振り返ってヨルムンガンドは言う。

 

–––私の父親、7歳児を過剰評価してたわね。私じゃなきゃ途中で死んでたんじゃないかしら、と。




ヨルムンガンド:往復16キロ歩いて普通に帰ってきて4階まで登った人。いやでもミョスガルド聖も鍛えてなさそうなのにクソデカ棍棒とか振り回してたし………生まれつき体が頑丈ってことで…

ロプト:シンプルにガバ計画を立てるんじゃない!!
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