竜血濁らずとも腐るべし   作:メラニンEX

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よろしくお願いします。


2.嘘・カレーパン・天竜真拳

 

ごと、と軽い音を立てて一枚の皿がヨルムンガンドの目の前、白いテーブルの上に置かれた。黒地のシンプルな皿には、目玉焼きとレタス、やや歪に歪んだトマトと、端っこにポテトサラダが置かれていた。いろどり鮮やかな組み合わせが、明かり取りの広い窓ガラスから差し込む光によっていっそう美味しそうに輝いていた。

が、それを黙って眺めているヨルムンガンドの顔は、いつも通りの仏頂面ながらどこか不満そうである。皿を置いてやった中年男性–––天竜人ドンキホーテ・ミョスガルド聖は、それなりに付き合いの長い若き同族の顔から、あわい不満の色を嗅ぎ取って尋ねた。

 

「どうした、ヨルムンガンド?」

「………」

金と黒の入り混じった髪の女は、じっとりとミョスガルドを見上げる。まだ寝ぼけた顔のヨルムンガンドの斑の頭は寝癖だらけだったし、サングラスをかけていないせいか黒目がちな灰白色の瞳はぼやっとしているが、元来人相が悪めな彼女は、そうしているだけでも謎の迫力がある。

 

「………ミョスガルド」

「な、何だ」

「………私、カツ丼が食べたいのだけれど」

「自分で作れ!!!!小娘が!!」

 

朝の聖地マリージョア。その北西に位置するビヴロスト家のキッチンでミョスガルド聖は思いっきり怒声を上げて卓上の皿を投げつけたが、当たり前のようにヨルムンガンドはそれを涼しい顔で受け止めると、黙ってフォークを向けてきたので可哀想なミョスガルド聖は逃げ回る他になかった。朝食のメニューで揉めている天竜人、というのはなんともチグハグな言葉だ。濃縮還元搾りたてジュース、というのと同じぐらい違和感があるが、残念なことにこれは嘘ではない。マリージョアに存在してはいけないレベルで庶民的な朝の風景が、悲しいことに今のビヴロスト家には存在していた。

 

 

 

 

嘘・カレーパン・天竜真拳

 

 

 

大体毎日やってる争いを今日も今日とて繰り返した両者は、適当なタイミングで矛を収めると、渋々2人で使うには余りにも広いテーブルに離れて座り、もくもくと食事を始めた。互いに世界最高のテーブルマナーが一応叩き込まれているため、咀嚼音も食器同士が触れ合う音もなければ頬袋を膨らませることもない。食べているものが目玉焼きとか焦げたトーストでなければ、高価な身分に相応しい食事風景だったことだろう。

 

閑散と、している。

 

朝のだだっ広いキッチンとダイニングルームには、2人の他には誰もいない。天竜人なら殆どのものが部下として、使用人として、家具として、乗り物として、肉の盾として多くの奴隷を傍に携えているのが普通だが、それすら誰一人としてこの場にはいない。生活の匂いがあまりしない、淡い緑の壁にはきっかり2人分の影しか映っていなかった。そしてそれは、ダイニングだけではない。大理石の廊下に、暖炉のある居間に、広々としたプールにも、家中どこにもミョスガルドとヨルムンガンド以外の人影はひとつもない。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンド。

ドンキホーテ・ミョスガルド。

 

性別も年齢も朝食の好きなメニューも全く異なる両者だが、唯一『奴隷を1人も持たない』という天竜人には極めて珍しい共通項があった。生活には雑務がつきものだ。奴隷がいない2人は天竜人にはあり得ざることに、自分の手で料理をし、クソデカい邸宅の掃除をし、洗濯物を洗って干し、ときどき家の修繕をせねばならない。その上2人は生まれつき奴隷なしの生活を送っていたわけではなく、途中から路線変更した身なのでお世辞にも家事に慣れているとは言い難く、従って奇怪な生活スタイルを貫くもの同士協力し合うことは必然の流れだった。

 

 

こうして異端天竜人の2人が朝食の当番や掃除などを互いの家に行き来しながら交代で行うようになって、既に5年以上経つ。指を危うく切り落としながら料理をしていた頃とは打って変わって、多少凝ったものを作ったり掃除にも慣れたミョスガルドとヨルムンガンドではあるが、互いに食の好みがさっぱり合わないために、やいやいと下らない争いを繰り広げるのはほぼ日常茶飯事である。争いは同じレベルでしか発生しないという真理は、ここマリージョアでも同様だった。

 

「ごちそうさま。来週は私の番だから、カツ丼にすることに決めたわ」

ヨルムンガンドはまだカツ丼にこだわっていた。

「まだ言ってるのか、ヨルムンガンド!…だいたい、あんな脂っこいものをよく朝から食べられるものだ。私など最近はこの量ですらきついんのだが」

「それは貴方が運動不足だからよ。私のように毎日マリージョアから逃走していれば自然とお腹も減るし、代謝も良くなるのに」

 

別にマリージョアから毎日逃走してまで代謝を良くしたいとか全然思わないミョスガルド聖は、その言葉を無視した。

綺麗な仕草でフォークを置いたヨルムンガンドは、椅子にかけていたジャケットに袖を通すと皿を持って立ち上がった。他の天竜人の女性のように髪を結っていない彼女の動きに従って、金黒入り混じる髪がさらりと肩から滑り落ちる。

 

「今日もまたマリンフォードへ?」

「いえ。今日はシャボンディにでも行こうかと思って」

「ああ…確か今はロウェナたちが滞在していたはずだ。海軍もかなりいると思うが」

「別にいいのよ、そんなことは。明確な護衛対象がいる以上、優先されるのはそちらになるのだし」

 

彼は呆れた顔で、この生意気な小娘をまじまじと見た。天竜人の中で特異な思想ゆえに孤立する2人は、それなりに仲も良いのだが、この女の脱走癖だけは未だに理解できていない。

ドンキホーテ・ミョスガルド聖はかつて魚人島の亡き王妃–––オトヒメに出会って諭されたことをきっかけに、奴隷制度や魚人に対する差別に反対する立場を取っていた。その後も魚人の立場向上のための活動に協力したりと、天竜人としてはかなり珍しい行動をとりこそすれ、殆どマリージョアから出ることはない。

 

ミョスガルドは痛感している。天竜人が民衆に対して積み上げてきた負債や圧政は想像を絶するほど根深く、なおかつ民衆の怒りは正当だ。例えミョスガルドが改心したところで、民衆が天竜人への怒りを捨てるほど生易しいものでないことは、親類のホーミング聖の例を出さずとも明白だった。

ミョスガルドは理解している。自分が下界の人々の為にやれることというのは、『天竜人』という身分に依存していて、それは殆どマリージョアという隔絶された聖地でしか役に立たない脆弱なものであるということを。

 

それらを理解している彼はきちんと生きて、天竜人としてやれることをやるために身分を捨てずマリージョアでこつこつと生活している。

–––だと言うのに、この小娘と来たら!

マリージョアから何の躊躇もなく飛び出しては魚人だの海賊だの海軍だのと顔見知りになり、誘拐され、暴行騒ぎを起こしながらも奴隷市場への規制法案を作って通したりしているのだから、ミョスガルドは時折自分の思案が馬鹿馬鹿しいものに思えて仕方がなくなる。

 

「ミョスガルドも良かったら行く?」

「結構だ。君が頻繁に下界に降りて行っている功績はよく知っているが、君のせいで最近マリージョアのCP0は無能呼ばわりされていて可哀想だからな。彼らの新たな胃痛の種となるのは本意ではない」

ミョスガルドは口が裂けても、かつて無理やりマリージョアからの脱走に付き合わされて、凄まじい高度からの落下で吐いたことなど言えなかったので事実混じりの嘘を言った。

「ひどいこと言うのね。ここのCPが割と無能なのは私のせいじゃないわ、鍛えてない彼らの問題なのに」

「やめろ。彼らは充分超人の部類だ、君の逃げ足がその想定より速いのが唯一の敗因だろう」

「そうかも」

 

シンクで雑に皿を洗い流し、洗い物カゴに立てかけたヨルムンガンドは、ジャケットのボタンを留めてダイニングルームから出ようとして、ふと振り返った。朝の清浄なひかりが、女の顔を漂白したように白く照らし出している。サングラスのないその面差しは、年齢に反して存外幼い。細かな埃の粒に乱反射する光線に、黒目がちな灰白色の瞳は殆ど融けて見えなくなっていた。

「予定次第ではもしかしたら魚人島行くかもしれないけど、伝言はある?」

「いつも通りに。ネプチューン王とお子様方によろしくお伝えしておいてくれ」

「了解」

 

その言葉を最後にヨルムンガンドの足音は規則正しく遠ざかり、やがてバタンと何処かの扉が閉まる音を境に聞こえなくなった。鍵を閉める音はなかった。ここは聖地マリージョアだ。盗むほど渇望する人間も、保護するほど物に執着する人間もそうはいない、静謐な退廃の中にあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

––––ひらり。

あと一歩のところだった聖地護衛のCPの腕を軽く蹴り上げると、ヨルムンガンドは躊躇うことなく高い壁を飛び越えて、「神の地」から身を投げ出した。

足元が消えたことで身に掛かる重力がぐん、と重くなり、下界へと押し付けられるように、引き寄せられるように体が落下していく。気圧の急激な差に耐えられなくなった鼓膜からぶつりという若干の嫌な音が鳴り、それを契機にCPの悔しげな声やびゅうびゅうと通り過ぎる風の音が、遠くこもったものへと変じた。

視界にはほとんど何もない。反転した空の青と、海の青だけが混ざることなくヨルムンガンドの灰白色の瞳を埋め尽くしている。かなりの速度で落ちているはずなのだが、高度が高度ゆえまるで時が止まったようだ。天壇青と紺碧しか色の無い、寂しげな世界に閉じ込められるような、そんな錯覚。

 

ヨルムンガンドは、この瞬間がたまらなく好きだ。

毎日毎日逃走経路を変えながら神の地の壁を飛び越えたり、パンゲア城を迂回したり色々な方法を使うことはあっても、シャボン玉の昇降機やトラレベーターを使ったことがないのは、捕まりにくいこともあるけど、空中落下の感覚が好きだと言う方が大きい。

ざわりと巨大な空気圧で骨が軋む感触。反転した世界と連動して、血液が泡立つ。鳩尾が薄ら寒くなって、鼻の奥がきんと痛むこの瞬間は、ほんとうに、何物にも代えられない時間だと思っている。

 

飛翔ではない。ただ、高さにして数キロ近いだけの、墜落。

 

(…ミョスガルドにも、この楽しさが分かるといいのに)

 

時々ヨルムンガンドはそう思う。自分の倍近く歳を食った天竜人は、数少ない同志だ。まともな感性を持つようになったきっかけも、望む未来も微妙に異なっている彼は、ヨルムンガンドのように下界に降りて何か大きなことを行おうとはしてくれない。

彼は聡い。自分にできる範囲を決して凌駕しないし、その中でできる最大限を見極めて動く。そして多分、明言したことはないが、うっすらとは気づいているのだろう。ミョスガルド聖がヨルムンガンドのような行動を取り始めたら、最悪の場合『証明チップ』を剥奪されかねないが、ヨルムンガンドにはその心配はない。彼女にはこれまで積み上げてきた蛮行を許され、海軍に–––延いては五老星すら黙認させるだけの理由があることを。その有無は、両者の確かな差でもある。彼がこの落下を楽しんでくれる日がこないことも、ヨルムンガンドの共犯者になってくれないこともよく知っていた。

 

「フィッシャー・タイガー…貴方なら、」

どうかしらね。

女はそう、ちいさくつぶやいた。彼はヨルムンガンドと違って落下を楽しむような馬鹿な真似はしなかったし、あの時はそんな余裕もなかったけれど。でもきっと、1度くらいなら付き合ってくれたんじゃないかと、時折考える。ビヴロスト・ヨルムンガンドの、生涯たった1人きりの共犯者。海から引き摺り出されてヨルムンガンドと出会い、海に帰って行ったあのひとなら。

海の青はかなり近くなっている。潮の香りが淡く鼻腔を撫ぜ、マリージョアへと登る入口『レッド・ポート』が遠くに見えた。多分もうすぐ、ぶつかるだろう。青い水を湛える、雄大な世界に。

 

 

–––ああ。海が、呼んでいる。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

正午、シャボンディ諸島。

 

今日も今日とて聖地から抜け出したヨルムンガンドは、若干の海水浴を経たのちにシャボンディ諸島のカフェに居た。

こじんまりとした、個人経営のその店は内装やちょっとした茶器に至るまで店主のこだわりが詰まった品らしく、全体に木目調の雰囲気がなんとも可愛らしい。店のテラス席に陣取ったヨルムンガンドは、寄せ木細工風の机の上に書類を広げ、緑と白のパラソルを透かした陽光の下で眉間にシワを寄せていた。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンドの辞書には「仕事」という言葉は存在しない。なぜなら別にやらなくても金は手に入るし、生活の糧にもならないので。あるとすればそれは仕事ではなくて「趣味」の部類になる。

 

そしてその趣味を存分に楽しみたい場合、聖地にいてはなにかと不便だ。聖地にはまず、流通の経路がほぼない。不純なもの、高価でないもの、天竜人が好まないもの。それら全てが排除された聖地は隔絶された空の孤島だ。電伝虫は繋がるけれども、それでは何かと足りないことも多いし、聴かれたくない内容もある。こうしてヨルムンガンドがマリンフォードやシャボンディ諸島、政府庁舎のあるテーチスに脱走しているのにはちゃんとした理由があった。決してマリージョアが嫌いだとか、飽きてるとか、空中落下が楽しいからとかそんな理由だけではない。

 

 

「意外と回収率は良かったわね。もっと長期的な計画になるかと思ってたのだけれど」

『…お褒めにあずかり誠に恐縮でございます、ヨルムンガンド宮』

 

屋台で買ったキュウリ味のフローズンドリンクをちびちび飲んでいたヨルムンガンドは、手元の資料を覗いてふむ、とひとつ頷いた。電伝虫の向こうから聞こえてくるのは壮年の男性の声だ。すこし震えていて、媚びの色がある。

 

 

天竜人は一切の例外なく金持ちであり、所有する財産を一生のうちに使い切れるものはおそらく存在しないだろう。ヨルムンガンドももちろんその内に含まれ、毎日ガレオン船を10隻買ったとして、財産の僅か何パーセントになるかどうか、というレベルである。そんな彼らはマリージョアの邸宅をしょっちゅう改築したり、珍しい奴隷や食べもしない悪魔の実を買ったりするのに金を使うのだが、ヨルムンガンドはそんな中でかなり毛色の違うことにつぎ込んでいた。

 

ずばり、投資である。

有り余る財産を使って、大型のプロジェクトや見込みのある会社の設立をしたいが資金がない、というところに資金援助を行う代わりに、売上の何パーセントや新開発の商品を貰ったりというシステムとなっており、個人で国家規模の財政を動かせる上にコケても全く痛くない彼女にとってはかなり面白いものだった。最近ではヨルムンガンドが言いくるめて出資させた天竜人たちが、ゲーム感覚で会社に金を出したり潰したりと新たな問題が出てきてはいるものの、会社側からは新たなる資金援助の市場として悪くない評判が出ていた。

 

 

天竜人(わたしたち)というカモから、出来るだけ上手く金を搾り取ることね。』

 

ヨルムンガンドがかつて業者たちに言い放った言葉は、徐々に効果を出し始めている。最近かなり業績の良いプロジェクトの主催者の声を聞きながら、今後の展開についての報告を受けていたところで、ふと背後でどよめきが起こった。

 

「お、お許しください、それだけは…どうか…どうか…!」

その時、耳にタコができるほど聞いた悲鳴が飛び込んできたので、ヨルムンガンドはいい加減にうんざりとして背後を振り返った。人だかり–––でもない。辺りには声の出所だけを避けるように流れが形作られている。舌打ちしたヨルムンガンドは、通話相手に『また明日かけ直して』とだけ伝えて電伝虫を打ち切ると、買ったばかりのカレーパンとフローズンドリンクを携えたまま椅子を引いて立ち上がった。

 

シャボンディ諸島でよくある悲鳴には、2種類ある。大別して「お許しください」と「人攫いだ!!」に分けられているのだ。なんという治安の悪さだろう。その内でも「お許しください」とかなんとか聞こえる場合は彼女の同族–––天竜人たちが揉め事を起こしている証左だ。ここヤルキマン・マングローブの楽園は、面倒な手続きなしでも天竜人が降りたてる数少ない下界であるため、その被害も凄まじく多い。

 

ヨルムンガンドの視線の先ではちょうど、金魚鉢のようなシャボン玉を頭に被った幼い天竜人の少女がそっくりかえって地団駄を踏んでいるところだった。周りには海兵がおろおろとした様子で右往左往していたり、どんよりとした顔の奴隷たちがぼんやりと主人を見上げたりと人数はいるのだが、誰一人として天竜人に意見しようとするものはいない。

 

 

「…天竜真拳」

「モガ!?熱っつ、やめ、モグガ!?!」

 

つかつかと少女の後ろに歩み寄ったヨルムンガンドは、目にも止まらない速さで少女の被っているシャボン玉に手を入れて、その小さな口に手にしていたカレーパンをねじ込んだ。追加でもう一つ加えてから、油ぎった口の周りを拭いてやる。側に控えていた海兵たちがギョッとした顔で彼女に武器を向けたが、その人物がヨルムンガンドであることに見るとたちまち武器を下ろした。

ヨルムンガンドは顔を白黒させながらカレーパンを飲み込もうとしている幼い同族を見下した。まだ13、4才のはずなのにその顔は不健康そうに弛んでいて、華やかな衣服に包まれた体も全体にふっくらとしている。間違いなくヨルムンガンドの(一応)顔見知り、エルムス・ロザリエ宮だった。

 

「な、な、何するんでアマスこの『ギョルイビーキ』!?わちきの口に下賤の食い物を入れおって!」

「?下賤じゃないわ。高貴な私が手にしているのだから、高貴な食べ物に決まってるでしょう。なかなかイケてる味じゃなくて?」

「イケて…?なぞおらんえ!大体ヨルムンガンド、お前なんでここにいるんだえ?奴隷を買いに来たんだえ?」

「違うわ。ただの脱走」

 

何とかカレーパンを飲み下すと喧しい声を上げ、ヨルムンガンドをぽかぽかと叩いてくる同族を放って横を見ると、地べたに這いつくばっている中年の夫婦とその子供らしき3人が藁にもすがるような目で、割り込んできた彼女を見上げていた。見たところごく普通の通行人と言った風態で奴隷でもなさそうだが、どうやら彼らがロザリエのお怒りの原因らしい。

 

「今日はギルバートとロウェナはいないの?」

共に来ているであろう両親の名を出すと、少女は首を横に振った。

「パパ上とママ上はオークション会場アマス。今日はわちきの好みの奴隷が出品されておらなんだから、先に出てきたんだえ。それでこの顔が好みな下々民を見つけたから奴隷にしてやろうと言ったら断ったんでアマス!ヨルムンガンド、その銃を貸すアマス。この無礼な下々民は撃ち殺さないと気がすまないえ!」

「なるほどね。残念だけどロザリエ、私の猟銃は貸さないわよ。海兵、貴方たちも渡さなくて結構」

 

ぷりぷりと怒りながら、ロザリエは地面に平伏している渋い感じの男性を指差した。その上にヨルムンガンドが肩に引っ掛けている猟銃を要求してきたが、ヨルムンガンドがそれを無視して童女の手のひらに、カレーパンをもう一つ置くと黙って食べ出した。どうやら気に入ったらしい。

 

「ふうん。今回は彼?貴女の中年好きも相変わらずね」

「はあ〜〜?これだからコンケツのギョルイビーキは困るんでアマス!下々民の男はこれくらいの歳が1番いいんだえ!」

「…ちょっと何言ってるかわかんないわ…」

 

ヨルムンガンドは眉を顰めた。この幼い天竜人は、趣味が良いのか悪いのか齢13のくせになぜか中年の渋い男を奴隷にするのをことの外好んでおり、彼女の屋敷には好みによって集められたイケオジがやたらといた。正直に性癖を教育を疑わざるを得ない趣味だが、チャルロスのように第〇〇夫人とか作ってないだけまだマシな方だった。ちなみにロザリエは連れてきたイケオジ奴隷と結婚したいらしいが、親が止めているらしい。当たり前である。

 

とは言え。

ヨルムンガンドへロザリエが気に入ったらしい男に視線をやった。震えながら俯いてはいても、身なりはきちんとしており、聡明さのにじむ落ち着いた風貌の男性である。はっきり言って美人でもないロザリエには本来なら不釣り合いなほどだった。それが、『天竜人である』ということを理由に、まだ年端も行かない小娘が、妻子もあり、羽振りもそれなりに良さそうな男性を『奴隷にしたい』と喚き、それが罷り通らないことに憤慨している光景というのは中々に異常だった。ヨルムンガンドはため息をつく。

 

「…ロザリエ。熟年趣味はこの際置いておいてとしても、貴女、まさか知らないの?彼のこと」

「?何のことアマス?」

唐突に妙なことを言い出したヨルムンガンドにロザリエはもちろん、周りではらはらしながらも口を挟まずにいる海兵たち、まるで面識のない天竜人に何やら言われている男自身も、一様に怪訝そうな顔をした。

「嫌だ、不勉強。ヘーゼルの髪にワインカラーの瞳、ツイードのスーツを着た40代の男性…間違いないわ。ロザリエ、この人はね。近頃奴隷ブローカーの間で心底恐れられている『厄災のジョン』よ」

どどん、と効果音の付いていそうな仕草で、ヨルムンガンドは男を指差した。サングラスで顔が程よく影になっているせいか、女の顔は謎の迫力がある。

「古今東西彼を奴隷にしようとしたブローカーたちは皆、ある時から家族が伝染病にかかって次々となくなったわ。その上持っていた株価は暴落し、生殖能力を失って–––そして…」

「そ、そして?」

「…家に幽霊が出るようになるのよ。血塗れの女、頭が半分崩れて脳がはみ出しているミイラがブローカーたちを次々襲って…」

 

ついでにわっ、と脅かしてやればロザリエは半ば本気で目を潤ませ始めた。いくら醜悪な権力の頂点に立つ天竜人とは言えど、幽霊は怖い。幽霊を海軍は追っ払ったりできないし。そんなわけでガタガタ震え出したロザリエは、態度を一変させてヨルムンガンドの背中に隠れると、奴隷にしたいとまで抜かした男から隠れようと必死になった。

 

「そ、その話はもうや、やめるんだえヨルムンガンド!あとそんなやつはやっぱり早く撃ち殺すべきアマス!」

「いいえ。貴女の脳味噌で思い付くことを、歴戦のブローカーたちが試さなかったわけがないでしょう。彼を殺そうとしたあるブローカーはね、銃弾を暴発させて腕が吹き飛んでしまったわ。また別のブローカーはナイフが腹に……ってあら、行っちゃった。ちょっと血生臭い嘘にしすぎたかしらね」

 

13歳の世間知らずには話が重かったらしい。さっきまで地面に転がって喚いていた少女は(彼女なりの)全速力で走って行ってしまった。ぷよぷよしたその体を追いかけるように、海兵も慌てて走ってゆく。ヨルムンガンドの謂れなき嘘に救われたんだかなんだか分からない男性を見ると、おそるおそるヨルムンガンドを見上げていたので「立っていいわ」と許可を出すと、感極まったように男は何度も頭を下げた。ぼろぼろと、安心ゆえか涙が男や周りにいた家族の頬を流れている。

それほどの恐怖。それほどの絶望なのだ。天竜人に奴隷にされるということは。

 

「……ありがとうございます、ありがとうございます、尊き方、一体何とお礼を申し上げたらよいのか…」

「不要よ。私は貴方の礼を必要としたから、ロザリエを止めたわけじゃない。私が必要としないものを渡したりしないで。次からは目が合った瞬間に走って逃げることだけ意識するのね」

ぴしゃりと言ったヨルムンガンドに、男はそれでも、と家族ともどももう一度頭を下げて、それから立ち去って行った。

 

 

 

 

ざわざわと、騒動が去ったあとの人混みをするりと通り抜けながら、ヨルムンガンドはカレーパンを口に入れようとして紙袋が空になっていることに初めて気づいた。さっきロザリエの口に突っ込んだので最後だったらしい。口寂しさを紛らわしがてら、胸ポケットからタバコを一本出すとライターで火をつけた。その煙が充満するのと同じくらいの速度で、ヨルムンガンドの顔を見た通行人が天竜人だと気づいてそそくさと避け、人だかりは1人の女を境としてさっと開けた。彼女はある程度人望がある天竜人ではあるが、それでもやはり恐怖と圧政の対象であることに変わりはない。

 

(面倒くさいものね。一発殴ってやればよかった)

ヨルムンガンドは内心で舌打ちした。相手がチャルロスのような男だったら躊躇なく手にした猟銃の銃床で殴打していたのだが、流石に一回り以上も年の違うロザリエを殴ると後々厄介なことになる。それでわざわざ妙な嘘までついた。

 

ヨルムンガンドは天竜人、という己の属する身分について、いつか滅ぶだろうという確信に近い予感を覚えている。年月はある程度の悪行を薄れさせてくれる。実感がないことについて民衆は無関心になるからだ。それでも800年の歳月ですら、天竜人が積み上げてきた負債を押し流してくれはしない。むしろ膨れ上がり、煮詰まった憎悪はいずれどこかで限度を超えて、己へと牙を剥くことは確実だ。

 

それを理解していないのは天竜人だけだ。ロザリエもその親も、チャルロスやロズワードたちも誰一人、迫り来る終焉に気づいてすらいないまま、聖地で飼い殺しにされて貴族ごっこに興じている。

 

(‥まあ、それでも)

滅びるまでに時間はあり、天竜人という身分でできることはまだある。その為には天竜人内部でそれなりに人望を持つことも必要だからロザリエのような幼児を殴らなかったし、最近天竜人内で興味のある人間を集めて勉強会などを開いている。

 

–––まだ、利用できるものがあるうちは。

牙を剥かないでいてやろう。五老星にも、虚の玉座の王にも。そんな考えを顔にも出さず、ヨルムンガンドは黙ってタールとニコチンの匂いしかしない息を吐き出した。白く濁った煙が、薄い唇から天に登っていく。小さな竜にも似た白煙は、わずか数秒でマングローブの林の中で形を失い、とろけて消えて行った。




ビヴロスト・ヨルムンガンド
天竜人。趣味の一環として投資に精を出している。チャルロスのことをしょっちゅう殴っている。マリージョアから毎回飛び降りているため、周りからは奇異の目で見られる26歳。ミョスガルド聖とは朝ごはんを作り合う仲。実はフィッシャー・タイガーの元主人。

エルムス・ロザリエ
ロリのオリジナル天竜人。イケオジが好きで、幽霊が苦手。トンタッタ族の半分くらい嘘を信じやすい。

『厄災のジョン』
災難だったおじさん。

ミョスガルド聖
ヨルムンガンドとは奴隷持たない同盟(嘘)を組んでいる。友人というより姪っ子に振り回させる叔父って感じ。アグレッシブすぎるヨルムンガンドに引き立つも、ちょっと憧れたりもしてる。
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