「王子、ここいらでもう結構よ」
ヨルムンガンドのその言葉に、数メートル後ろを粛々と着いてきていたフカボシはぴたりと歩みを止めた。6メートル近い視座から天竜人を見下ろした人魚は、ふるふると首を横に振った。
「いえ。船着場までお送りします。御身に何かあれば、父に叱られましょう」
そう、と金黒入り混じる髪の女はひっそりと頷いた。纏っている灰色のジャケットに、ゆらゆらと漂う海中の光が柔らかな紋様を描いている。長い白のスカートが今は、薄青に染まっていた。
「世話になったわね。予定より長い逗留になったこと、謝っておくわ」
「そのようなことはありません。貴女の滞在は妹にとってこれ以上ない喜びですし、我らにとってもそれは同じこと。またいつでもいらして下さい。出来ることなら、次からは海賊船での密航だけお控えいただければ……」
己の5倍以上ある巨躯の王子の言葉に、ヨルムンガンドは「善処するわ」とだけ返してから、ふうっと頭上に灰白色の視線を向けた。動作につられて、フカボシ王子の目が上を向く。
深海10000メートル。受光層、薄明層の下に存在し、本来であれば1センチ先すら見えないはずの場所でありながら、陽樹イブの恵みを受けて光差す海底に築かれた奇跡の楽園–––『リュウグウ王国』。
地上とは違い、水によって、潮のうねりによって屈折し、その眩さを減らしつつも遠い太陽の存在を感じ取ることができる奇跡の場所が、ヨルムンガンドの現在の所在地である。視界の先では巨大なシャボンの膜が、遥か彼方より届く陽光を滑らかに反射してきらきらと輝いていた、ぴかぴかとひかる泡の中に閉じ込められた街並み、海草の林、その向こうをゆったりと泳ぐ巨大なクジラたち。その光景は、ともすれば大きなスノードームのよう。向こうに見えるサンゴの林も、泡の周りを泳ぐクジラたちも皆、太陽の恩恵を体全体で受けてこの上なくすくすくと。楽しげに、伸びやかに生を満喫しているように見える。
–––まあ、今は若干そうでもないのだが。ヨルムンガンドは腕時計に目をやった。午後2時。地上と殆ど変わらない昼夜を持つリュウグウ王国ではあるが、本来王国全域を照らし出す陽樹の恩恵は僅かに翳っている。
「今回は幸運だったわ」
「え?」
王宮で借りてきた鮫の上で何やら動きながらの言葉に、フカボシは不可解そうに首を傾げた。鞍の上に器用にも立ったヨルムンガンドは首をぐるぐると回している。
「『蛇』。早めに逸れてくれてよかった、って話」
「ああ…そうですね。この前–––2年ほど前でしたか、あの蛇は完全に陽樹すれすれを通っておりまして、通過するのに3ヶ月程度もかかったこともありました。それに比べれば此度はかなりよい進路をとっている」
骨張ったヨルムンガンドの指の先を見て、王子は納得したように頷く。
竜宮城から見下ろすに、魚人島のおよそ3分の1程度は切り取られたように光が当たっておらず、しんとした闇に隠されていた。これが地上であれば、雲が太陽にかかったのだとでも思うだろうがここは海底。遮る雲も、雨も存在していない。では、一体何が陽樹イブの恵みを不躾にも奪い取っているのだろうか。その答えは島も、そして竜宮城をも飛び越した深い水の中を悠々と–––静かに泳いでいる。
奇妙な風景だった。青々とした深海の一部を、巨大な、辛うじて楕円形と分かる程度の何かが覆っている。一目見て、分かるのはそれだけだった。海と溶け合うような濃く鮮やかな青色をして、真珠のような光沢が表面を覆っている。ヨルムンガンドの視界の端から端まで使っても、その何かの輪郭すら見えてこないが、多分フカボシ王子の体格であれば見えるのだろう。この巨大な楕円が1枚、2枚、連綿と、延々と続いている光景が。それでもこの巨大な生き物の、僅か何百分の1に過ぎない。存在する「らしい」腹や、鬣の部分など想像することすら難しかった。
「……いつ見ても、これが生物であるとは思い難いものですね」
フカボシの呟きに、ヨルムンガンドも軽く頷いた。生き物というよりは、動く海底山脈だとかなんか生き物っぽい潮の流れだとか、そう言われた方がよほどしっくりくる。あるいは偉大なる航路ゆえの自然現象だとか。あまりにも巨大であるという事実は、生き物に独特の無機質感を与えてしまう。
世界蛇。
太古の昔より、そう呼び習わされてきた海王類である。海色の鱗に覆われた、西の海と東の海で同時に観測されるほどの巨体によって畏れられる、まさに生きた伝説だった。鱗に覆われた部分の内側には柔らかな腹部があり、トカゲのようなトゲが鱗の上部を飾る構造になっている、と言うこと以外には殆どその生態も分かっていない。というか蛇であるのかどうかも怪しい。
何を食べるのか。–––頭部を確認できた事例がほぼ無いため、不明。
雌雄はどちらなのか。–––現状生存するのが一体のみのため、不明。生殖器らしきものも未確認である。
意思疎通は可能なのか。–––不明。
寿命はどれほどか。–––最古の記録では700年程度と見られているが、おそらくそれ以上前から生きているというのが主流である。
体長はどれほどか。–––観測不可能。ただし有史存在した海王類の中で、最大で在ることは確かである。
要するに、世界最大の生き物であること以外は全てが不明。探せば足やら尾やらを目撃した人間もいるのかもしれないが、それは殆ど与太話に等しいものだった。それ故に、この蛇は魚人島において『尾を頭で咥えており、それを食べ物としているのだ』という都市伝説すら罷り通っている。
ただ、この不気味な世界蛇は幸運なことに、その巨体の割には被害を起こすことが少なかった。何年かに一度、海上に身体の一部分が浮上して津波の原因となることはあっても、それ以外の大半の年月は意志を持って他の海王類を捕食することも、島を沈めることもなく静かに深海を泳ぐのみ。こうして魚人島付近に近づいて船の邪魔になることはあっても、島に危害を加えることもない。頭部が未確認な現状ではどうやって周囲を知覚しているのかも不明だったが、何らかの手段を使って避けているのだろうか。あるいはただ、700年の中で奇跡的な偶然が続いているだけなのか。
–––記録上、おそらく無害。ただし一度意志を持って動き出せば、世界を沈めうる、不気味な海王類。それが今、魚人島の僅か1000メートル付近を、泳いでいた。
ヨルムンガンドの予定外だった長期の滞在も、世界蛇の身体の一部が付近を通過したせいで潮の流れが一時的に変わり、船の往来が禁止されたために起きたことだった。ただ泳ぐだけで潮も光も歪めうる、自然現象に等しい生き物は悠々とそこにある。恐らくあと1時間程度すれば、少なくともあの鱗は島を通り過ぎるだろう。完全に見えなくなるまで遠ざかるにはどれほど掛かるのか、ヨルムンガンドには予測すらつかない。
「まあこれが雌雄どちらであれ、繁殖することがないってのは救いね。これが世界の海を何体も泳ぐなんて考えるとゾッとするわ」
「ええ…この蛇が一族最後の生き残りと考えると、哀れな気も致しますが……700年も生きているとなると、そもそも種として繁殖の必要がないのかもしれませんね」
「……ん、海賊船。『鱗削り』かしら」
ヨルムンガンドの言葉通りに、海色の壁にへばりつく砂つぶよろしく、船が3隻ほど何やら奇妙な動きをしていた。彼らの船の何百倍とある海色の鱗は、地上ではそれなりの価値を持つ品である。物好きにはこれで混ぜた材料で家を建てるようなものもいるほど、世界蛇の鱗は人気がある。
別段、水害に強いこと以外には大した効果もなく、コーティング船であれば採取は容易なので言うほど高価ではない。が、万が一の危険性を考えて魚人島では世界蛇への接触が禁じられていることもあり、鱗の粉や破片の闇ルートでの流通は後を絶たなかった。
「あれ、意外と楽しいのよね」
「おやりになったんですかヨルムンガンド宮!?」
ぎょっとしてフカボシは足元にいる小さな貴人を凝視したが、彼女はどこ吹く風という顔でしれっと頷いた。紫のサングラスに覆われた瞳が、面白そうに細くなっている。
「ええ。この前密航した船が鱗削りで稼いでるところでね。ちゃんとお金も払ったのに、『乗るなら働け!』って言われてしまって……こう、大きなドリルを使うんだけど」
ヨルムンガンドは手でこうやって、と回す仕草をしてみせた。
「……貴女のような貴人に取り締まれ、とは言いませんが……今度からは報告していただけると……いや海賊も一体何をやらせているのか…」
「ああ、安心していいわよ。着いた後に約束反故にされたから、全員半殺しにして海軍に突き出しておいたし」
フカボシはもう何も言わなかった。もう10年近い付き合いがあり、世界会議や署名運動のいざこざでも彼女に世話になっている身ではあるが、こういう天竜人として明らかにおかしな行動力は、ときどき彼の想像の斜め上を行く時がある。間違いなく、誠実な人柄ではあるのだが時々なんともズレているのだ。箱入りの妹姫–––しらほしとこの破天荒な天竜人が何故仲が良いのか未だに分からない。
「それじゃあ、ここら辺で」
「ええ、お帰りの際もお気をつけて」
両者の足がぴたりと止まった。シャボンの膜はもう間近であり、リュウグウ王国唯一の出入り口は目と鼻の先に見えている。降り立った王子と天竜人を目にして、辺りの魚人や人魚たちがぱっと道を開けた。王子さまだ、という黄色い声、歓喜や尊敬に彩られた声とともに、若き天竜人へ向けられた視線には薄暗い色が宿っている。建物から、物陰から除く眼差しには、不審の色合いが未だに濃い。
(あの天竜人だ)
(人間だ)
(あ、ヨルムンガンドさまだ!)
(また来てるのか、あの女……)
(オトヒメ王妃の事件で懲りてないのか?)
(早く帰ってくれ……)
ヨルムンガンドは魚人島でも顔が知れ渡っている貴重な天竜人で、リュウグウ王国への貢献から彼女は好意的に見られている方ではあるが、それでもなお、彼女の「人間」「天竜人」「世界政府の上に立つもの」という肩書きは魚人島の住人の目を濃淡さまざまに濁らせる。多分、地上の人間が魚人や人魚に抱く偏見と全く同じように。その仄暗い色が、フカボシにはどうしても悲しい。周りの民たちにやんわりと注意しようとしたところで、軽やかな声がかかった。
・・・・・
「兄ほし王子、次のお土産は何がいい?」
「……結構ですよ、もう私たちも小さな子供ではないのですから…。それと私の名はフカボシです、ヨルムンガンド宮」
「そうね、フカボシ王子。じゃあ欲しいものが決まったら、また連絡をちょうだい」
「かしこまりました。またしらほしにも聞いておきましょう」
その返事を聞くと、彼女は船着場に向かって振り返ることなく去って行った。人間特有の固く、軽い靴の音があっという間に遠くなっていく。黄金と墨色がまだらになった髪が、淀みない足取りにつられて右に、左に緩やかに波打った。
それからフカボシは、ヨルムンガンドが乗った船が光の差さない海中へと出港するまで船着場でじっとしたまま見送っていた。警備の時間は迫っているが、リュウグウ王国の恩人でもあり彼の親しい友人への心遣いとしてそうしていたかったのだ。恩人、と言うと彼女はとても嫌がるけれど。
『……結局、オトヒメ妃殿下は亡くなった。私がたかだか一発撃たれたという過程を、誇張しないで欲しいの』
いつだったか、ヨルムンガンドは呆れたようにそう言った。でもあれは、大きな一撃だったのだ。フカボシたち兄弟にとって、父にとって、集まった観衆にとって。死んだ母にとっても。
フカボシは黙って目を瞑った。そうしてつい先ほど去っていった友人の、金髪に縁取られた真白い額のことを考えた。滑らかで、日焼けひとつしない–––10年前に母を庇って銃弾が貫通したはずなのに、その傷をひとつも残さなかった額のことを。
◇◆◇◆◇◆
マリンフォード島、海軍本部で野暮用を終わらせた王下七武海・海侠のジンベエが違和感に気付いたのは、もうすぐ正午に差し掛かろうかという時刻のことだった。
空を見上げればすこん、と抜けるような晴天。雲一つない鮮やかな天壇青のもとで、潮の匂いがする風が海から陸へと吹き抜けている。ちょっとしたことで本部からの呼び出しを終えた彼は、どうせマリンフォードかシャボンディでぶらついている不良天竜人の顔でも拝んで帰ろうか、と考えて食堂方面へと向かったのだが、何だかおかしい。
大抵は本部に居座る下っ端海兵たちが、2、3人ほど暇を持て余しながら彼女のいる食堂付近を見張っているだけなのだが、ほとんどの場合だらけきっている彼らがどこか不安げに、冷や汗まじりにそわついている。誰かに指示を仰ぐべきか、黙っておくべきか–––そんな感情がはっきりと出た顔をお互いに見合わせていた。
「‥‥お前さんたち、どうかしたか?またヨルムンガンド宮が脱走でもしたんかい」
そうでないことは薄々察しながらジンベエが海兵たちにそう話しかけると、尻の青い兵士たちは飛び上がって敬礼し–––それから何とも言えない顔をした。
「うおっ『海侠』様……これはええと、いや今日はまだいるんですケド」
「むしろ来た奴が問題というか」
「ていうか脱走はいつものことだし……」
「?まあええ、ちょいと失礼するぞ」
どうも要領を得ない。ジンベエはのっそりと食堂の入り口から顔を覗かせ、ヨルムンガンドの定位置となっている奥のボックス席の方を見た。人払いされたのか妙に広々とした食堂の中、見慣れた色落ちしまくりの金髪頭が、こちら側に背を向けている。前に会ったときより根元の黒い部分が広がっているのを見るに、また毛染めを疎かにしているらしい。そしてその向かい側に座る人物が目に入ったジンベエは、『来た奴が問題』という海兵の言葉にははあ、と納得した。
(なるほど、これは確かに)
–––危ない組み合わせじゃのう。胸内でひとり呟く。
ヨルムンガンドの後ろ姿の向こう。彼女の倍近くある巨漢が、身体を折りたたむようにして行儀悪くボックスソファに腰掛けていた。その名を示す通りのピンク色のファー、吊り上がったサングラス。午前の光を跳ね返しているのは、ヨルムンガンドとは違う天然の金髪だ。
ジンベエと同じく王下七武海に名を連ねる海賊、元懸賞金3億4000万の「天夜叉」ことドンキホーテ・ドフラミンゴだった。
ドレスローザ国王も兼任する珍しい七武海であるドフラミンゴは、王国の英雄だと語られどもジンベエ自身、怪しいものだと睨んでいた。違法ルートでの武器の密輸や血生臭い闘技場、人工の悪魔の実からはたまた人身売買など、確証はないながら黒い噂が絶えず付き纏う人物であり、奴隷制度の改革を巡ってヨルムンガンドとは対立する立場にある。表立って不仲だとは聞かないが、ジンベエのよく知るヨルムンガンドはあのような人物を毛嫌いするタイプだし、こうやって2人きりで話すところを見るのは初めてだった。
「–––それで、職業訓練所の額は–––」
「来年からは–––」
「そりゃあ手厳しいもんだ–––」
「文句があるなら世界会議で–––」
吹き込む風と潮騒に掻き消されつつ、漏れ聞こえてくる声はジンベエの危惧するほどには険悪でもなかった。ヨルムンガンドの声は平時と変わらず落ち着いたトーンであり、会話には時折ドフラミンゴの特徴的な笑い声すら混じっている。
杞憂だったのだろうか。互いに歳を食った大人であるし、ジンベエが心配していた『一方的にドフラミンゴに絡まれて困っているヨルムンガンド』というのではなく、もしや何かの商談か個人的な会談なのか。もしそうなら、ヨルムンガンドに挨拶するのはいつでも可能なのだし出直すべきかジンベエが迷ったところで、ふと気づいた。背面しか見えないヨルムンガンドの手元には陶器製の灰皿が置かれてあり、その上にはこんもりと煙草の吸い殻が小さな山を築いていた。ヘビースモーカーでもない彼女は、普段それほど量は吸わない。
(……ありゃあ相当苛立っとるな)
ヨルムンガンドの感情表現は分かりにくいようでいて、意外と分かりやすかったりする。長年の付き合いから彼女のストレス値が限界に近づきつつあることを悟ったジンベエは、黙って食堂の中に踏み込んだ。ちらり、とサングラス越しにドフラミンゴと視線が合う。年齢不詳の口元が、意地悪く上がったのが見えた。「宮様」と呼びかけようとしたところで、距離が近づいたこともありドフラミンゴが発した言葉がはっきり耳に届いた。
「フッフッフッ!しかしヨルムンガンド、お前の奴隷制への執心も大したもんだ。そりゃあなんだ、"ご立派なお生まれ"を恥じてのことか?」
「おい!!」
「珍しいな海侠のジンベエ…どうした?おれたちは仲良くお喋りしてただけなんだが……」
恩義あるヨルムンガンドへの明らかな侮辱に、ジンベエは反射的にきつい声で怒鳴っていた。その声に初めてジンベエの存在に気付いたのか、ヨルムンガンドがちょっとびっくりした様子で振り返ったが、また直ぐに顔をドフラミンゴの方に向けて、長々とニコチン臭い白煙を吐き出した。ふう、と最後の一息を吐き切った顔には、怒りの色はない。けれども先刻の発言が彼女の特大の地雷であることをジンベエはよく知っていた。
「……やめなさいなジンベエ、いちいち腹を立てる方が無駄なんだから」
言いながらヨルムンガンドは手元の灰皿を引き寄せると、結露でビショビショになったグラスを持って立ち上がった。
「もう行くのか?おれとしてはもう少しお喋りを楽しんで欲しいんだがな」
「そう思うのなら口の利き方に気をつけておくことだわ。せめて相手を不快にしない程度の気遣いを覚えないとね」
席を立った若き天竜人はスカートを叩いてから男を一瞥して、それから目にも留まらぬ速さで灰皿をドフラミンゴの爪すれすれ、僅か1センチも離れていない場所に叩きつけた。ガン!!!!!と硬質な音が食堂に響く。当たれば爪どころか指がひしゃげそうな、覇気の込められた一撃により机にはクレーターが空いていた。そのまま、首を傾げるとよく通る声を落として囁く。
「お前は喧嘩の売り方が安っぽいのよ、天夜叉。私に喧嘩を買って欲しいのならせめて年齢相応の挑発でも覚えてからにしてちょうだい。それもできないなら奴隷市場から手を引いて、一生果物の密輸ごっこでもして遊んでるのね」
・・・・・
チップ無し。
凄まじい罵詈雑言だったが、台詞にまるで感情が乗っていないのが何とも不気味だった。ひたすらに静かで、温度が低い蔑み。
黙ったドフラミンゴを尻目に、吐き捨てたヨルムンガンドはつかつかとジンベエに歩み寄ってくると「行きましょう」とだけ短く言って食堂を出た。
「…‥……宮様」
「何かしら」
不機嫌です、と額に書いてありそうな顔のヨルムンガンドに、ジンベエはため息をついた。普段喜怒哀楽が削げ落ちたような無表情の彼女だが、意外とキレると子供っぽい一面が今のように表に出るのは、長らく付き合ってもかなり慣れない部分だ。むすっと口を尖らせたヨルムンガンドの顔は、ドフラミンゴにどうこう言えないほどに幼かった。彼女の義弟の不貞腐れた顔とそっくりである。
「喧嘩を買う相手は選んで下さいや。わしも肝が冷えた」
「選んだわ。あれは私に手を出すほど馬鹿じゃないから言ったの。他の七武海なら同じこと言われても無視してたわよ」
10年来の貴人は今年で26歳。色んな意味で規格外なこの天竜人の数少ない未熟な部分が、時折ジンベエには可哀想に思えて怒るに怒れない。天竜人という世界の文字通りの頂点に立ち、その身に流れる血と身分を理由にあらゆることを許容されてきたはずの彼女は、生い立ちにコンプレックスがあるからこそ魚人たちや奴隷への差別に敏感だ。
『ひねくれたガキだよ。どうしようもないほど』
–––ええ、タイの大アニキ。最近それを痛感しとります。
ジンベエはひとりごちた。
人物紹介
ヨルムンガンド:ネプチューンさんちの4兄妹とはかなり仲良し。音貝とか地上にしかないお土産をちょこちょこ持って行ってる。魚人島では顔が売れてるが、そこまで人望があるわけではない。ジンベエ親分の言うことは割と聞く。ママが天竜人でパパが奴隷。
フカボシ王子:実はヨルムンガンドより2歳下。ヨルムンガンドには密航をやめて欲しいと本気で願ってる。
ドフラミンゴお兄さん:出自と思想の面でマジで反りが合わないし、ヨルムンガンドのせいで奴隷市場がかなり縮小されて営業妨害されてる可哀想なひと。
ジンベエ親分:ヨルムンガンドには恩があるのであんまり強く出れないが怒る時は普通に怒る。魚人空手の基礎を教えた人。ヨルムンガンドは触りだけ使えるが「四千枚瓦正拳」「いやその威力は二百枚!」という謎の過剰申告をするので困ってる。
世界蛇:クソデカオリジナル海王類。観測史上こいつよりデカい海王類は存在してない。頭もしっぽも殆ど目撃例がないため、蛇かどうかも怪しいが細長いので何となく蛇呼ばわりされてる。一時期本気で討伐が検討されたこともあったけど、デカすぎてだめだった。