––––作法とは即ち、心の持ちようを表す鑑である。
ジンベエはふと、そんな事を考えながらもずく酢の最後の一口を咥内に運んだ。すっきりとした濁りのない酸味が柔らかに舌を撫ぜる。後味が消えないうちに徳利に注いだ清酒を流し込むと、胃の腑が僅かに熱くなり、もずくの余韻と混じってえも言われぬ風味を醸し出した。
寝酒にもならぬほどの弱い酒精だが、よい味だ。
故郷で採れるものとは流石に鮮度が違えど、地上で食べる海産物としてもそう悪くない部類である。ジンベエは満足して箸を置いた。
場所は、シャボンディ諸島の5番グローブ。海軍本部を出た2人は、久しぶり(とは言っても1ヶ月ぶり程度だ)に食事でも、ということでヨルムンガンドが行きつけのレストランに落ち着いていた。樹木の集合体であるシャボンディ諸島は、その木に刻まれた番号が若いほど治安が悪い。その例に漏れずこの店舗の周りには人攫いらしき目つきの悪い男がたむろしていたし、遠くから銃声が響いていた。しかしそれに反して店内は比較的健全な賑やかさに満ちていて、魚人であるジンベエを見ても特に何の反応も起こらず、柄の悪そうな客もいなかった。
「店主が元腕利きの賞金稼ぎなんですって」
とはヨルムンガンドの言である。確かにその言葉通り、強面のマスターは手練れの雰囲気があった。そんな店主のおかげか、比較的この店は治安も良く料理も美味しく、海兵の巡回ルートから外れているため、ヨルムンガンドは海兵と鬼ごっこをしてお腹が空いたらこの店に時々逃げ込んでいる。禿頭の店主もプリン頭の天竜人を見ると、うんざりしつつも慣れた顔で奥の個室に2人を通した。
ジンベエを連れてきたヨルムンガンドと言えば、ゆっくりと皿に盛られたバジルソースのパスタを行儀よく巻いて黙々と食べている最中だった。ちんまりとした量の麺を銀の匙の上で絡め取り、飲み込んで咀嚼した。相変わらず、フォークやスプーンが皿に当たる音が一切しておらず、ほとんど無音に近い食事風景は、喧騒が聞こえて来る店内でどこか浮いている。たらり、と麺から翠緑のソースが皿に着地した。
「んむ。私の顔に何かついてる?」
「ああ、いや。宮様は相変わらずお綺麗に召し上がるもんじゃなァ、と」
「……ああ……そうね。私、と言うか母が細かったから。その名残かも」
「ほう。御母堂さまが?」
ええ、とヨルムンガンドは頷いてまた、ちゅるんと飲み込んだ。安っぽい緑色の麺が皿から少しずつ減っていく。が、遅い。ジンベエからすると若干、遅すぎるくらいに彼女は食べ終わるのに時間が掛かるタイプだった。この癖を熟知していたジンベエは懐から煙管を取り出すと、ヨルムンガンドがすかさず『いいわよ』と許可を出した。有り難く、と一礼して煙管に火をつけた。いがらっぽい匂いを纏った紫煙が、シャボンディ特有のベタついた空気に立ち昇ってゆく。
ヨルムンガンドの食事風景の上品さは、単に作法が整っていて(ジンベエが詳しくは知らない)細やかなルールに則ったものである、ということのみには由来しない、と彼は常々思っている。ヨルムンガンドは例え骨つき肉に素手で齧り付いていようが、食べ終わって指についた脂を舐めていてもどこか上品で、行儀良く、整然としている。
多分、『余裕』故なのだろう。
ビヴロスト・ヨルムンガンドは生涯で一度も、飢えに苦しんだことも無ければ明日のご飯の心配もしたこともない身分だ。幼少期のジンベエのように今食べておかなければ、次にいつ食べられるか分からないという切実な悩みを持ったことがないのだ。だから落ち着いている。心の底からゆっくりと、何に急かされるでもなくきちんと、咀嚼することができる。だから、彼女の食べる姿は多分美しいのだ。ひどく静謐に、音もなく。
「昔はね。ちゃんと食事マナーを仕込んであげようと思ったことも、あったんだけど」
「?そりゃあ誰のことで…ああ、」
唐突に放たれたヨルムンガンドの言葉に対し、疑問を口の端に乗せたところで、誰を指しているかはすぐに分かった。彼女の義弟のことだろう。もっとも2人いる(らしい)うちの片方しか、ジンベエは面識がないのだが。
「ええ。でもあの子、そういうの嫌がるタイプだったし。5分で諦めた」
「でしょうなァ……目に浮かぶようじゃ」
「結局あの子も末っ子の方も、ナイフとフォークを同時に使ってることすら、ろくに見ることなく終わってしまって……徒労という言葉の意味はあの時初めて実感したわ」
ヨルムンガンドは表情を変えることなく、唇だけをちょっとだけ持ち上げて淡く微笑むような形にした。笑っているのか無表情なのか、判別のつきにくいものだったが、慣れれば薄い懐古と親愛の色を読み取ることができた。
「そういえばこの前、竜宮城に行ったときもパスタだったわね。しらほし姫に『そのような量では足りないのではありませんか?わたくしの分も差し上げますよ』って言われて…」
下手くそな声真似にゴフっと、ジンベエが咽せる。ヨルムンガンドはちょっと嫌そうな顔をしたが、黙って手元のおしぼりを滑らせてくれた。
「…召し上がったんですか?わしは久しくお会いしておりませんが、今頃は成長なさっておいででしょうから、宮様より上背がかなりあるのでは……」
上背どうこうの次元ではない。今年で14歳になる国王ネプチューンの掌中の玉、しらほし姫はビッグキスの人魚であるため、既に全長は10メートル近い超・巨体の美少女である。訳あって世間知らずの彼女はまともに人間と触れ合ったことがないため、平均的な食事量を摂取するヨルムンガンドを見て不安になったらしいが、維持する肉体のサイズ差からしてそれはかなり無茶苦茶な申し出だった。何せ彼女の食べるパスタは、部屋一つ分くらいのサイズの皿に乗ったものなのだから。うぷ、と思い出したヨルムンガンドは若干顔を青くして腹をさすった。
「あの子が100%の善意で言ってくれたのは分かるから、麺一本分だけ食べたけど……それだけで次の日の夜ご飯まで持つくらいの量だったわ。太いし、もちもちしてる排水管齧ってる気分だったわね」
「断っても姫君なら怒りゃあせんでしょうに。腹八分で留めておくのがよろしいと思いますがね…」
むっと、ヨルムンガンドは不満げな表情になった。
「仕方ないでしょう。あの子、私が必死に麺齧ってるのを見てニコニコしてるから断れなかったのよ。硬殻塔で1人で閉じ篭ってる子のお願いくらい、叶えてあげるのが年上の友人の務めだわ」
ようやくパスタの最後の一口を食べ終わったヨルムンガンドは、皿を横にやって『マンゴー風青汁』をぐび、と一気に煽った。結露で湿ったグラスをテーブルに置くと、サングラス越しにも分かる据わった灰白色の目で呻く。
「………これもすべて、あのバンダー何とかと言うロリコンキモストーカーのせいよ」
「宮様ァ〜〜っ!?それは流石にまずい!!もうちょっとこう、柔らかい言い方して下さいや!」
身も蓋もないスラングに、ジンベエは目が飛び出んばかりにびっくりした。
「?年齢1桁時代から女児に求婚してくる年齢不詳の男、ロリコン以外に言い方なくないかしら。あの子が大人になったらただのストーカーで済むんでしょうけど……やっぱりただのストーカーでもキモいわね」
「気持ちは分かりますが!」
恩義ある天竜人の口からロリコンとかいう単語を聞きたくないんじゃ!
ジンベエの悲痛な叫びをあんまりちゃんと受け止めていないヨルムンガンドは白々しい顔をした。口の悪さは裏を返せば、彼女がそれだけしらほし姫を可愛がっている証左ではあるのだが、色々とマズい。こいつネプチューン王たちの前でこんなこと言ってないじゃろうな……とジンベエは不安になったが、きちんとTPOを弁えているのはヨルムンガンドの美徳である。いや、どこでもロリコンとか言ったらダメなのだが。
「………まっこと、宮様はしらほし姫を可愛がっておいでですなァ…」
求婚者をストーカー呼ばわりするくらいに。ジンベエの最大限オブラートに包んだ嘆きに、ヨルムンガンドはけろりと頷く。
「小さい頃から見ているもの。そりゃあ可愛くもなるわよ。あんな風に素直に慕ってくれるとやっぱり嬉しいものがあるし」
意外と、と言っては失礼かもしれないがヨルムンガンドは姉気質だ。王宮を訪れる度に、12歳も年下のしらほし姫が住む硬殻塔に侵入しては地上のお土産や珍しいニュースを持ち込んだり、2時間かけて髪の毛を編んでやったりとその猫可愛がりには枚挙に暇がない。フカボシやリュウボシら王子たちとも仲良くやってはいるのだが、末妹への接し方はやはり格別だった。
しらほしの方も、6歳の頃から付き合いのある天竜人のことを『ヨル宮様』と慕っており、彼女が帰った後はしばらく泣きやまないと言うのだから、その親しさはひとしおである。
(このお人がいなければ、魚人や人魚に親身な天竜人なぞ、リュウグウ王国の誰にも想像もつかんかったじゃろうなァ……)
まずそうな色のドリンクを啜っているヨルムンガンドを見ながら、ジンベエはひとりごちた。
「可愛い……妹分、といった所ですかな」
ジンベエの言葉に、ヨルムンガンドはちょっと面白そうな目で下から見上げた。サングラスを通さない、あわい灰白色の目が光っている。
「まさか。私に妹はいないし、いたとしたらもっと雑に扱ってるわ。しらほし姫にやるほど優しく接さないと思う」
「あァ、なるほど」
割と説得力のある答えに、ジンベエは納得がいってしまった。記憶にあるだけでも、ヨルムンガンドの義弟に対する扱いはかなり粗雑だった。逆もまたしかりではあるのだが。
「私にとってあの子は妹でも姪でも孫でもない、ただの友達だけど…私も母が死んだの、ちょうどあれくらいの年だったから。勝手に共感してるのかしら。あるいは……」
ジンベエの空になったお猪口に、ヨルムンガンドはとくとくと清酒を注いだ。馬鹿でかい徳利から一雫、透明な粒が落ちてテーブルを濡らす。鼻の奥底を揺らす匂いが、シャボンディの空気を薄く染め上げた。
「……同情してるのかしらね?」
オトヒメ王妃とはまるで違う、典型的な天竜人で、ヨルムンガンドの家の支配者だった母。ヨルムンガンドの大嫌いな人。あの人の喪失は後にして思えば大したものではなかったけれど、当時のヨルムンガンドにとっては大事件の始まりだった。
独り言のようなヨルムンガンドの呟きに、ジンベエは黙って杯を干した。
◇◆◇◆◇◆
『以前融資いただきました件について–––』
『灌漑事業の進行度は––––』
『未払いの督促対応に関しては––––』
『設置した海水濾過システムの試案なのですが–––』
『奴隷に関する最低限の待遇の文書化は–––』
『世界政府への加盟希望国から相談が入っており–––』
がやがや、わいわい、やいのやいの。
アラディンに呼び出されてジンベエが席を外した後の部屋は、先ほどの比ではないほどの騒々しさに満ちていた。声の出所はテーブルの上、ずらりと半円状に並べられた10体の電伝虫たちである。
どれもヨルムンガンドへの相談や融資の願いを中心とした内容を口にしており、ヨルムンガンドが雑な相槌を打っているのも気にしないほど必死に捲し立てていた。
ビヴロスト・ヨルムンガンドは毎日毎日懲りずにマリージョアから脱走しているせいか、遊んでいると思われがちだが、全くそんなことはない。彼女の『趣味』は多くの国、多くの法律、多くの事業と市場に関わっているため、こうして食事中にも時間を割かねばとうてい捌ききれないほど膨大な量があった。現在は非加盟国だが加盟国になりたいという国家からの相談や、新しい事業への投資の願い、大規模な飢饉とそれを解決するために投入された機械に関する質問–––数え上げればキリがない。マリージョアの自宅に積んである未処理の案件を完全に整理する日は来ないだろうな、と彼女自身諦めている。
『未だ収穫量の増加は想定を下回っており–––』
『来月の資金は–––』
『子会社のストライキのため納期が–––』
時々、うんざりしてしまう。ヨルムンガンドは子供の頃に願った奴隷制度の撤廃を実現させるために動いているはずなのに、気がつけば魚人島の移住だの天上金の法案だの、面倒くさい多くの問題に首を突っ込んでいるし、その多くは未解決だ。
–––世界が少し、良くなればいいだけなのに。
その少し、が果てしなく遠くて嫌になる。
こちとら天竜人の権力と財力をフル活用しているというのに、同族の多くは奴隷遊びに耽ってるし、ヨルムンガンドが奴隷市場を縮小させたせいで叩かれてるし。底の抜けたバケツで、沈む船の水を抜こうとしているような気になってしまうのだ。
「ダル……」
『何か仰いましたか、ヨルムンガンド宮?』
「…いいえ、何にも。灌漑事業については、収穫量の増加はまだそこまで焦る段階じゃないわね。まだ始めて2ヶ月でしょう、そこまで劇的な効果が見込める時期じゃないし、節約の為に型落ちした機械を使っているんだからその分のリスクには目を瞑ってちょうだい。それと、◆■国の加盟はまだ早いと思うわ。少なくとも次の世界会議は見送ってもらうつもりで予定を進めて。今の財政状況だと、天竜人にちょっと額の嵩増しされただけで国が傾くレベルなんだから–––」
–––ぎい、ばたん。
舌が攣りそうな勢いでヨルムンガンドが電伝虫に向かって回答していると、不意に部屋の扉が開いた。ジンベエが戻ってきたのか、と思ったが、ずかずかと踏み込んできたのはまるで面識のない男たちだった。どいつもこいつも真っ黒な上下に身を包み、扉を後ろ手に閉めるとヨルムンガンドが座るテーブルの周囲と、彼女の背後に立った。横に2人、後ろに1人、そしてテーブルの向かい側に1人の、計4人。後頭部には硬い感触。恐らくは銃口だろうか。
めっちゃ不審な者たち、略して不審者である。
(……何でこういう奴らって、揃いも揃って黒服を着るのかしら?)
あらゆる組織からの軟禁・監禁・乱闘・脱出の経験に事欠かない女ヨルムンガンドにしてみれば永年の謎だ。目立たないためなのだとしたらそれは単に本の読み過ぎ、黒服なんぞ着て目立たないのは葬式と結婚の場くらいなのだが。
テーブルの向かい側の男が椅子を引いて座り、神経質そうな声でヨルムンガンドに向かって口を開いた。
「五老星直属諮問機関『
ヨルムンガンドが黙っていると、男は彼女に指図した。
「電伝虫を切れ。不愉快だ」
逆らうと面倒だな、と判断したヨルムンガンドはおとなしくぽちっと電伝虫の電源を落とした。ただし、1番どうでもいい内容を話していた1個だけ。
『ヨルムンガンド宮、どうかなさったのですか?』
『それより来年の予算を増やしてほしいのですが……』
『本当ストライキするのやめてほしいんですよう…うう…』
『ヨルムンガンド宮、頼みますから納期の延長を』
『そこを何とか、次の世界会議に参加させてほしいのです』
当然、ほかの9体の電伝虫は喋りまくっているため、部屋は普通にうるさい。がやがやわいわい、ヨルムンガンドがそれなりにピンチな状況下にあると言うのに、電伝虫のせいで部屋にはまるで緊張感がなかった。
「………いやいやいや!普通切れっつったら全部だろ!テメェ何一個だけ切って後は普通につけてんだ!状況分かってんのか!?あァ!?」
ヨルムンガンドの右手側に座る男が急にキレてきたので、彼女は迷惑そうに顔をしかめた。
「貴方たちが電伝虫の電源を切れとだけ言ったのに……個数指定をしなかった責任を私に求めないで欲しいのだけど。––あ、オズワルド、言っておくけど来年の予算は増やさないわよ。お前のところ、この前の決算表で粉飾してたもの。別に私に何のダメージもないけど、決まった額内できちんと目標を達成することをいい加減覚えなさい」
「ダメだこいつ、めちゃくちゃ普通に会話続ける気だ〜!?」
「くそっ、これだから天竜人は嫌いなんだ!テメェ以外の生き物に興味なんざないってか?舐めやがって……!!」
今度はヨルムンガンドの左手側にいる男も何故かキレ始め、懐から何やら取り出してテーブルに置くと同時に、ヨルムンガンドが話していた電伝虫の声にじじ…とノイズが混じりだし、ものの見事に5秒もすれば完全に沈黙してしまった。無音に近くなった部屋の中、会話する相手がいなくなったヨルムンガンドは、ちらりとその原因を伺う。男が取り出して置いたのもまた、1匹の電伝虫だが通常のものとは様子が違っていた。
(……あ、あれ妨害用か。ひさしぶりに見た)
先程までは電伝虫たちが口々に捲し立てていたせいで状況に似合わず賑やかだった室内が、ようやっと静かに温度が下がって、ゆっくりと張り詰めていく。会話ができなくなったヨルムンガンドはそのとき初めて、物凄くしぶしぶ不審者たちのことを視界に入れた。
「ハア……ビヴロスト・ヨルムンガンド、私たちの話を真面目に聞け!私たちは皆、誇り高き改革者だ。憎き天竜人であろうとお前が質問に正しく答えさえすれば、危害を加えることはないと約束する」
「………」
別にお前らでは危害加えられないから、そこはどうでもいいかなとヨルムンガンドは思ったが、流石に空気を読んで口を閉じた。それにしても、ヨルムンガンドを捕まえて『お前』呼ばわりはめちゃくちゃ久しぶりである。ちょっと感動すらしてしまった。
「私たちはとある組織に所属を置く者だ。実は我が組織内では近頃、悲願である壮大な目的を達する為、天竜人であるお前に協力を仰ぐべきではないかという意見が上がっている」
「……とある組織とか言う分かりやすいぼかし方はやめたらどう?革命軍ならそう言ったらいいじゃない。別に海軍に通報なんかしないわよ」
「んな!?」
ぎょっとした様子で部屋内の男たちは、揃ってヨルムンガンドを見つめたが、まあこんなにバレバレなこともない。これで分からないと言う方がよっぽどの問題だろう。後頭部に突きつけられている銃口も、動揺したのか思いっきりブレた。
「海賊なら自分の所属する海賊団を指して『とある組織』とか勿体ぶった言い方をしないでしょうし、その上で改革者なんて自称してるのなら選択肢はひとつに絞れると思うのだけど……それに貴方たち」
唇に挟んだ煙草を離し、白濁した煙をゆっくり吐き出してから、ヨルムンガンドは口角を僅かに上げた。ジンベエが吸っていたいがらっぽい匂いとは異なる、ミントのような香りの混じる副流煙が部屋を満たす。その中で女がすん、と一度鼻を鳴らす音が部屋に大きく響いた。
「–––潮の匂いがしないもの。これで海賊は無理があるわ」
ぞっとするような沈黙が、狭い個室に降りた。正体不明である、というアドバンテージを開始早々に破られた男たちは、それぞれに顔を顰めていたが、ヨルムンガンドも革命軍と直接接触するのは意外にもこれが初めてだった。前から興味はあったのだが、しかし。
(こいつらがどの程度の立ち位置なのかは知らないけど……末端まで教育が行き届いてるってわけでもないのか。規模の問題?)
ヨルムンガンドという『天竜人』への反発心を隠すこともない態度や、自分たちの所属組織を隠蔽もできない話術。それに、男の話が本当であれば、彼らは秘匿すべき革命軍の上層部の意向を此方にわざわざひけらかしているのだ。少なくとも真っ当な交渉窓口だとは考えにくい。政府転覆を企むとは言えど、全てが精鋭でもないらしい事実に、ヨルムンガンドはちょっぴりがっかりした。
「……………それが分かっているのなら話は早い」
「いや絶対早くないでしょ。正体バレがそんなに嫌だったの?」
「やかましい!!……いいか、今言った通り組織–––世界政府転覆を目的とする我々革命軍の中では、魚人島の活動や政府非加盟国への援助、天上金のシステムを改革したお前であれば、政府の動向を読むためにもコンタクトをとるべきではないかという意見が出ている。しかし……しかしだ」
ヨルムンガンドの向かい側に座る男が–––察するにこの男がまとめ役のような階級なのだろうが–––ずい、と身を乗り出した。
ヨルムンガンドと同じく20代半ばか、もう少し上だろう。頬がこけていて、不健康そうだったが、目の色がギラギラと輝いている。天井から吊り下げられた白熱灯に照らされた濃い青色の瞳の奥には、分かりやすい憎悪と懐疑の色が宿っている。合図としてヨルムンガンドは2度、海楼石を入れたローファーの踵で床を打った。コツコツ、と硬い音が響く。
「お前が天竜人の中では、異端にも–––そして本来はやってしかるべき義務を為している人物であるとは認めよう。しかし、それでもお前は天竜人……聖地に住むもの以外の全てを見下し、隷属するものと考え、権力を振りかざす側にいることに違いはない。お前はその特権を手放し、我らの思想を共にするに相応しいのか……私たちはそれを見定めに来たのだ」
つまり、今目の前にいる男たちはどうやら、革命軍上層部の意図とは別に動いているらしい。それだけでヨルムンガンドには男たちと会話をする気が完全にゼロになってしまった。
どうやら天竜人に個人的な恨みやらなんやらがあるのだろうが、それははっきり言ってヨルムンガンドの知るところではない。可哀想ではあるが、いちいち構うほど暇な身分になった覚えはないのだから。
「……ずいぶんまた、勿体ぶった言い方をするのね。貴方たち、要するに上が天竜人と接触しようとしてるのが気に入らなくて、正式な指示もないのに私に会いに来たんでしょう。見定める、だなんてそんな……」
馬鹿みたいな言い草、よしたほうがいいんじゃないかしら。
表情のない能面じみた白皙に、見下したような色が浮かんだ。流石に聞き捨てならない台詞に、男たちの雰囲気が一気に冷え込んだ。両隣の2人が椅子から腰を浮かして武器に手をやり、ヨルムンガンドの後ろでは突き付けた拳銃の安全装置を外す音がした。
「…………貴様。我々革命軍を嗤ったな」
「苦笑しただけ。決めつけは良くないわ」
「何だとォ!?」
部屋の緊張感が高まり、矢を離す直前の弓弦のごとく一触即発になったところで、部屋に入ってきた5人目から唐突に声が掛かった。
「–––お兄さん方。ご注文はお決まりかい」
「あァ!?何が注文、で………誰だてめェ?」
どしん、と地に足のついた重々しい声音である。ヨルムンガンド以外の4人が一斉に、新しい声の主に取り出した銃口を向けたが、向けられた方はぴくりともしなかった。
禿頭に、いくつもの傷痕を走らせた50前後の偉丈夫である。ざっくりとしたシャツにエプロン姿という簡素な格好からは、厚い筋肉の盛り上がりが窺え、老いてこそいるが一目で卓越した腕前の武人であることが分かる男だった。片手には台詞の通り注文用紙を持っていたが、もう片方にはがっしりとした槍が握られている。
「見りゃ分かンだろ、おれはここの店主だ。入って注文もしねえ無礼な客がいるってんで来てみたら、物騒なオモチャ持って遊んでんじゃねえか。ここはレストランだ、飯食わねえんなら出ていっとくれ」
「…………それは失礼した。我々は崇高な話の最中で注文をするつもりはないが、そう時間は取らず出て行くつもりだ。だが邪魔をすれば……どうなるか、分からんわけでもあるまい」
ヨルムンガンドの正面の男は、最新式の拳銃を見せびらかすように動かした。ヨルムンガンドの合図に従って来てくれた店主は、面倒臭そうな顔でぽりぽりと頭を掻いた。
「崇高、ねェ……そりゃいいが、相手は選んだ方がなおいいね。お前さんの前にいるのは、そんなナリをしてるが名高き不良天竜人だ。そいつが傷付けばどうなるか、偉大なる航路育ちなら誰だって知ってるはずなんだがな……」
「安心しろ、連絡用の電伝虫は全て落としてある。海軍に連絡を入れたくとも不可能だ」
「はァ?違えよ、そっちじゃなくてだな…………おい!!てめェこのクソ野郎、やめろ!!!」
突如として大声を出した店主に、びくりと男たちが身を震わせた。理由なき大音声に訳もわからず顔を一瞬見合わせて、それから声の対象が自分達ではなく奥に座るヨルムンガンドであることに気づくより一瞬速く、巨大な何かが振り回されて男たちが吹っ飛び、銃声と轟音と共に店の壁に穴が開いていた。
––––ズドン!!!!!
凶器として振り回されたのは、ヨルムンガンドたちが囲んでいたアンティーク調の重厚なマホガニーテーブルだった。魚人であるジンベエには座卓程度の高さでしかなかったが、それでも巨体の彼が食事をするのに不自由ない大きさのものである。万が一を想定されて床ときっちり接着されていた細工も美しい分厚いテーブル、重さにしておよそ––––80キロ。人間が一人で動かすのもやや厳しいそれは、細身の女によって床から引き剥がされ、片手で軽々と投げられていた。男3人をテーブルで掬い上げるようにしてぶん投げるが早いか、しゃがんで銃弾を紙一重でかわしたヨルムンガンドはそのまま裏拳の要領で、後ろにいた男の顎をしたたかに打っていた。
叩く、ではなくて打つ。そして揺らすのだ、世界に満ちる水を。
–––魚人空手『
大気中の水と共に、男の脳ががくん、と揺さぶられてそのまま体ごと崩れ落ちる。水を制圧する技術と、80キロを振り回す腕力を存分に発揮されたことで、その一撃には顎の骨が割れるほどの威力が出ていた。男の後頭部がぶつかった壁が見事に凹んでいる。
「……ふう。妙な連中だったわね。あ、マスター。これ弁償代」
「『マスター、お勘定』みたいに言ってんじゃねェ!!いい加減にしろてめェこの、腐れ天竜人!この前はグランドピアノ、その前はくそでけェ人間、1番初めは銃撃戦ときて今回はうちのテーブル!!外壁を壊すなとなんべん言やァ分かる!?」
「それは本当に申し訳ないのだけど、この店で襲って来たやつに言ってちょうだい……いやでもごめんなさいね」
「クソっ今回と言う今回は出禁だ!!!2度と来るんじゃねえ!」
札束は受け取ったのに青筋を立てて怒る店主に、長居すると殺されそうだと判断したヨルムンガンドは珍しく申し訳そうにしながら、右手に荷物を、左手に伸びた男の襟首を掴むと壁に開いた(開けた)穴からそそくさと店を出た。後ろからはまだ怒り心頭の声が聞こえていた。
店の外は剣呑な賑わいでうるさいほどだった。そりゃそうである。なぜってヨルムンガンドが投げたマホガニーテーブルは店の外壁を破った後、通りを横切って向かい側の壁にめり込んで止まっていた。シャボンディの5番グローブにいる人間にろくなやつなどいないが、そんな柄の悪い連中だとしても目の前をいきなりテーブルとそれに引っかかった男が通過すれば怖い。「おい、テーブルと男が吹っ飛んできたぞ!」「何だ何だ、能力者連中の喧嘩か?」と騒いである周囲をよそに、ヨルムンガンドはテーブルの近くに歩み寄ると一緒にめり込んでいる男をよいしょ、と引っ張った。
(またあの手配書持ち天竜人かよ?)
(何か揉めたのか?大将呼ばねえだろうな!?)
(そこは大丈夫だろう、あいつはそうそう呼ばねえらしいし……)
(クソ、誰だよ楯突いた命知らずは)
周りのノイズを丸切り無視して、壁から意識を失った3人の男たちを壁から救い出したヨルムンガンドはふむ、と考え込んだ。どの男も、重たいテーブルで殴られた上にまあまあの速度で壁に衝突しただけあり、何本かの骨が折れており頭から血を流しているものもいるが、命に別状は多分なさそうである。このまま海軍に引き渡しても問題ないが、そうなるとちょっと可哀想な気もした。天竜人が嫌いで、上の指示に反抗してわざわざヨルムンガンドに接触するような、恐らく下っ端構成員。ヨルムンガンドに何か傷を負わせたわけでもないし、聞かれて困るような情報を教えてもいない。
そろそろ時刻は夕方に差し掛かる頃。天蓋は東の端からほんのりと夕闇に染められつつあり、夜の気配を感じてかシャボンディの賑わいはいっそう活気を取り戻しつつあった。欲望と希望にぎらぎらと目を輝かせた人間たちは、しゃがんでいるヨルムンガンドを避けるようにして足速に進んでいく。
(……このまま放置がベストかしら…)
そんなことを考えつつ、橙混じりの蜂蜜の光に照らされた、鼻の骨が折れて不細工になった男の1人をしげしげ眺めていると、しっかりとした足音がひとつ背後で止まり、至って気さくに呼び掛けられた。
目的が自分であることを薄々察しながら、ヨルムンガンドは振り向かなかった。相手は恐らく、若い男。身のこなしが軽くて、自分より背が高い。
「なあ、そこのアンタ。悪ィんだけど」
思った通りの、若々しい青年の声。
「そう思うのなら、武器を下ろしてから喋りかけるのね」
「あー……そりゃ失敬。ウン」
がらん、と音がして棒状の何かが地面に置かれた。横目で確認すると、鉄パイプである。配管工ではないだろうに、随分使い込まれた一品。
夕闇が迫る時刻、地面に映る影は長くなるときだが、それにしても後ろから喋りかけてくる男のそれはうんと縦に伸びたものだった。
「貴方が上官?」
地面でぴくぴくしている男たちを指差して言うと、地面の影はこっくり頭を縦に振った。
「そうだ……まあ直属じゃないけど。こいつらから話は聞いたか?それともいきなり殺し合いになったのか?」
「両方。話はざっくり聞いたけど、最初から後頭部に銃が当てられてたわ」
ヨルムンガンドの答えに相手は答えに窮したようで、あーとかうーとか唸っていた。彼女は続きがないことに若干苛ついて振り返り、その時初めて男の顔を拝んだ。
かっちりとした服に身を包む、金髪の青年である。襟元をクラバットで飾っているせいか、革命軍所属という割にはどこか貴族じみていた。ヨルムンガンドより10センチ以上背が高く、ゴーグルを付けたシルクハットを目深に被っていることもあってひょろんとしている。まだ背が伸びる途中のような、伸びやかな体つきからして年下だろう。20に届くか、届かないか。そのくらいの年頃と見えた。ヨルムンガンドを見据えている丸っこい目が、どこか幼げな印象を与えている。
どこかで会った、ような?ヨルムンガンドは僅かに首を傾げた。心のどこかがざわりと音を立てる。
「……悪ィな。うちの部下がどうも先走ったみたいで、アンタに迷惑をかけた。報告聞いて来たんだが、遅かったな。あー、おれは、」
「謝らなくていいし、名乗りも結構よ。天竜人への敵意を抑えるのが難しいことを私はよく知っているし、天竜人排除を掲げている上層部が選りによって対象と接触しようとしてるとなれば猜疑心が働くこと自体を責めはしないわ。愚かな行為だとは思うけれど」
青年は物言いたげにそのつぶらな目をぱちぱちさせたが、ややあってそうか、と言った。複雑そうな色の浮かんだ顔でためらった後、こほん、と咳払いをして彼は口を開いた。
「本来ならアンタとはもっと穏便に接触するつもりだったんだが……順序は逆になったし、重ねてのことにはなるが––こいつらから聞いた話を、おれは受けてほしいと思ってるんだ。『六梯席』が1人、ビヴロスト・ヨルムンガンド、アンタに。時間はあるか」
「それについて今やるべきではないわ。私、彼らが来るまで海侠のジンベエと楽しくご飯をしてたの。ついでに言うと彼はもうすぐ帰ってくると思うから、私とお喋りがしたいのなら日を改めなさいな」
鞄から出したメモ帳に電伝虫の番号のひとつを書いて、ピッと指で弾くと青年は慌てた様子でそれをキャッチした。その後、彼の番号であろうものが書かれた紙を手渡される。
それから青年は4人の伸びた男たちを軽々と背負い、意識を取り戻しかけた男(魚人空手で殴ったやつ)には肩を貸し、最後にヨルムンガンドに礼を言ってから茜色のシャボンディを足速に去って行った。
そうして。
よろけながら、青年に肩を貸されて立ち上がった男の放った呻き声に、ヨルムンガンドはしばらくの間、固まることとなった。
「……すみませんサボさん……ご迷惑を…」
「いいさ、あの天竜人はそこまで怒ってなかったし、これからのコンタクトを断絶するようには見えなかったから。でもドラゴンさんには報告を入れるから、そこは覚悟してくれよな」
(サボ。–––––サボ?)
かちん、と体の深い部分で嫌な音がした。どこかで錆び付いていた何かが、軋むような。
誰がサボ?決まってる。ヨルムンガンドに喋りかけてきて、今しがた去って行った青年の名前だ。
奇しくもそれは、10年前に死んだヨルムンガンドの義弟の名前とまったく同じ響きだった。
視界がちかちかと明滅した。
ただの同名だ、そこまで珍しくもない名前なのだし、という心の声を掻き消すように、だとしても、と反論する声が泡のように次々と浮かんでは消えていく。あの子も似たようなシルクハットを被っていたじゃないか。あんなの、どこでだって売ってる。あの子も同じようにクラバットを結んでいたじゃないか。そんなの、ただのスカーフの結び方に過ぎない。服の好みが似ている。そんなの、そんなの––––エトセトラ、エトセトラ。
久方ぶりに聞いた懐かしい響きに、あらゆる特徴をとんでもない陰謀論と結びつけようとしてくる思考を振り払うように、ヨルムンガンドは血の気の失せた顔で頭を2度、3度、ふるふると小刻みに振った。
別人だ。ただ、死んだ義弟と同じ名前だというだけ。
冷や汗がとめどなく脇を伝う感触がひどく不愉快だった。不自然に固まったヨルムンガンドを一度だけ振り返った後、遠ざかる青年を追いかけて尋ねなければ、と思うのに足が地面に根を張ったようにぴくりとも動かず、結局ジンベエが戻ってくるまでヨルムンガンドはまんじりともしないまま、青い顔で固まったままになっていた。
(…ば、かばかしい……あの青年が本物のサボなら、私のことを分からないはずがないのに)
夢だったのだろうか。何か似たような名前を聞き間違えたとか。
あるいは、あの日のことが悪夢だったのか。サボの乗った船が天竜人に沈められて、ヨルムンガンドがジャルマック聖を半殺しにして、壁に飛んでいた血飛沫のことだとか、末弟のルフィが泣きじゃくっていたこととか、10年前のあの思い出のすべてが夢だったのか。
傾き始めた太陽に照らされて、地面に落る自分の影は妙に長い。べたついたシャボンディの空気の中、ぐらりと平衡感覚が狂っていくような感覚が、ひたすらに気持ち悪かった。
–––ビヴロスト・ヨルムンガンド。
五老星直属諮問機関『六梯席』所属。
4/10生まれの26歳。牡羊座。
現在の懸賞金額、1000万ベリー。
身長170センチ、体重56キロで利き腕は右。
好きな食べ物は微妙な味のドリンク、嫌いな食べ物は脂っこいもの。
特技は速読と権力争い、趣味は高所からの落下。
家族構成、両親ともに19年前に死去。三親等以内の血縁関係なし。
–––追記。
脱走の最長期間は
ヨルガンドさん
弟全員反政府という事実が発覚した女。今は半信半疑。この後エースに連絡入れようとしたけど、追跡中なので連絡つかなくてバチギレした。「鑓水」はオリジナルの空手技。というかジンベエの「槍波」の劣化バージョン。ガープの伝手でダダンさんちにしばらく住んでた。義弟たちと結構年が離れてる。
六梯席
五老星直属の諮問機関。他の目的としては「世界会議の効率的な運営」を掲げており、自分達の担当する国からの相談事や問題点、相応しい天上金の額などをあらかじめ調査して報告しているため、各国の王ともそれなりに仲が良い。ヨルムンガンドみたいに個人でやっているやつもいれば、部下に全部丸投げしてるやつもいる。ただし、世界会議での発言権そのものは、一般天竜人と変わらない。
ジンベエ親分
ご飯食べに行ってた。食べるのが遅いヨルムンガンドに、出会った当初はイラついてたけど今は慣れた。親分が煙管使ってるの、めっちゃ好き。
襲撃者たち
身内に天竜人に連れてかれた人がいるかもしれない。下っ端だけど、正義感に駆られて行動したら不良天竜人にボコられた。
サボくん
まさかの関係。こっちは「なんか見たことあるな……」くらいで終わってしまった。大体ヨルムンガンドのグラサン・タバコ・ピアスというチンピラ欲張りセットのせい。6歳差の姉弟。