1.欠けたる竜の仔
『天竜人の血統保護に関する五箇条」
第一条
天竜人と非天竜人の間において、婚姻及び子を設けることを認める。
第二条
天竜人と非天竜人の間に生まれた子の親権は天竜人である親に一任される。またその子を嫡出子として認め、天竜人として扱う旨の申請についても同様である。
第三条
天竜人である親が、非天竜人との間に設けた子に対して天竜人として扱う申請を出した場合、その子は天竜人としての全ての権限を使用することが可能である。しかし、天竜人である親が申請を取り下げた場合はその限りではない。
第四条
天竜人として扱う申請を出すことは義務ではない。また、天竜人と非天竜人の間に生まれた子が申請を出されなかった場合においては、血統保護のためマリージョアから出ることは許可されない。
第五条
天竜人と非天竜人の間に生まれた子同士では、申請が出されているか否かに関わらず結婚が許可されない。また、非天竜人との婚姻及び子を設けることも許可されない。
『……嘆かわしい。天翔ける竜の血は下々民の血が混じったところでその高貴さを濁らせることはないが、何物とも混ざらぬ純血を守り抜いてきた歴史を我らの代で絶つことになろうとは……父祖の誰一人予想しえなかっただろう。一体何と言って創造主たる王たちに詫びればよいのだ?』
–––「天竜人の血統保護に関する五箇条」の可決に対して1人の天竜人のコメントより抜粋–––
◇◆◇◆◇◆◇◆
––––父の部屋には、扉がなかった。そのことに気付いたのは、いつだったのだろう。
聖地マリージョア。創造主の末裔たちが暮らす、選ばれし地。
赤い土の大陸の文字通り頂点に位置し、只人では入ることは疎か近づくことすら許されない場所である。入り口に存在するパンゲア城までは七武海や世界会議に列席する王族などの限られた人間が足を踏み入れることが許されるが、その奥、天竜門を超えた先には海軍すら立ち入り不可能の神聖なる「神の地」が広がっていた。
「神の地」は見渡すかぎりに、当代の建築技術の粋が詰め込まれた絶景である。大陸の頂上に築かれたマリージョアは、それゆえ太陽に近く、照らす光もまた地上よりずっと強く眩しいものとなる。その熱に考慮して聖地の邸宅の壁の殆どは白い大理石で作られていた。かつては19の王国の創始者が移り住んでいたがゆえ、異なった建築様式の宮殿が19個存在していたと伝わっているが、それももはや昔の話。血統の細分化に従って宮殿の集まりだったマリージョアは、壮麗な邸宅の立ち並ぶ都市へと変貌を遂げていた。
磨き抜かれた色とりどりの屋根瓦は、白っぽい朝の光に照らされて漂白されたように褪せていた。住まう天竜人の好みによってカスタムされた屋敷の群れは、さながら時間ごとに色を変える雲のようである。神が手ずから雲を捏ねて形作ったような幻想的な光景には、早朝のぼやけた陽光によって淡い虹のような光沢が掛かって見え、人の手によるものとは思い難いほどだった。滑らかで、太陽の恩恵を跳ね返して輝く、天上の王国。濁りなく、曇りのない雲で作られたようなその街並みの中で、中心部にある邸宅の一面のガラス窓から、男が1人家々の屋根をぼうっとした様子で眺めていた。
痩せた、初老の男である。白髪の混じり始めた長い黒髪をひとつに結んでおり、簡素だが清潔そうなシャツとスラックスに身を包んでいた。聡明そうな飴色の瞳が印象的な顔立ちには、昔はさぞかし美形だっただろうと伺える端正さが老年に差し掛かった今でも残っている。若々しくもなく、華やかな雰囲気は微塵もなかったが、しんと枯れた佇まいには見るものを落ち着かせるような静けさがあった。
男の視線の先を辿れば、屋根から吊り下がって瓦を拭く人間の姿があった。奴隷である。もっとも、ここ聖地マリージョアに住まう人間には2種類しかいない。天竜人か、奴隷か。そして天竜人が屋根拭きなどするはずもないので、答えは初めから決まっているのだが。
男の居る部屋は、壁一面に本と書類、標本や剥製の入ったケースやはたまた魚拓のようなものなど、全般に学術関係のもので埋まっており、ひどく生活の色が薄い。それらしいものなど、隅に置かれたベッドと、真ん中に位置するテーブルと椅子程度しかない。奇妙なことにテーブルは明らかに2人用なのに、椅子は一脚しか置かれていなかった。が、多分それは長年の習慣なのだろう、絨毯には椅子一つ分の凹みしかなかった。
男はしばらくの間、備え付けの家具のように一面のガラス窓の前でじっと動かなかったが、微かに聞こえてきたバタン、パタパタパタという物音に、ふっと顔を上げる。それからおもむろにカーテンを閉めると、電灯のスイッチを付けて、ゆっくりとした動作で彼は部屋の入り口を振り返った。
やはり、窓の向こうを眺めているときと変わらぬ静謐な表情だったが、部屋の光源が燦々と輝く陽光から電灯へと変わったせいか、どこかその顔は頑なで無機質なものにも見える。男がカーテンを閉めてから少しして、物音の主は勢いよく現れた。
「パパっ、おはよう!」
「はい。おはようございます–––––ヨルムンガンド宮。う、ぐぐぐ…本日もお元気で何よりでございますね」
男は部屋に凄い勢いで走ってきた少女の姿を見るや、跪いてきちんと両手を揃え、頭を床につけようとした–––のだがちょっと間に合わず、ネグリジェを纏った弾丸は中途半端な姿勢の男に飛びついたので、男はあわてて抱き止めた。寝起き特有の暖かい体温が、ずっしりとした重さを伴って男にのしかかってきた。甘い、ミルクのような匂いが鼻腔をくすぐる。
まだ子供とはいえ、じき7歳を迎える大きさの人間に飛びつかれた首はぐき、と嫌な音を立てたが、男は呻き声をなんとか飲み下すと体勢を立て直して少女を床に立たせてやった。
ぽんぽんと背を叩いてやると、大人しく離れた少女は床に膝をついている男に顔全体でにぱ、と笑いかけた。
「いやだ、パパったら。毎朝毎朝そんなに大げさな挨拶、しなくったっていいのに。ほらほら立って立って!」
ぐい、と少女は無遠慮に男の首を飾る硬い首輪を小さな手で掴むと、立ち上がるよう促し、男はその動作に従ってのろのろと立ち上がった。
見下ろした少女の顔は、恐ろしいほど男とそっくりだった。ウェーブした黒髪、ぱっちりとした二重の吊り目、目鼻立ちの配置や顔の輪郭まで写し取ったように似ていて、両者が同じ年、同じ性別であったら殆ど見分けはつかなかっただろう。ヨルムンガンド宮、と呼ばれた少女はそれほど父譲りの顔立ちだった。唯一似ていない、淡い灰色の瞳がきらきらと男を見上げて弓なりに細まった。
「そうは仰いましても……貴女さまは私の主君でいらっしゃるのですから。それに応じた挨拶をすべきでしょう」
「違うわ!シュクンじゃなくて、わたしはパパの娘なんだから!そんな大げさなことされたら、まるで家族じゃないみたいだわ。そうでしょ?」
男は困ったような顔で曖昧に、静かに微笑んだ。
「……ふふ。ではヨルムンガンド宮、貴女さまは私にどのような挨拶をお望みなのでしょうか?ぜひお聞かせくださいませ」
「?そうね……うーんと、まずパパに挨拶してほしいんじゃなくて……うん!わたし、パパが寝てるベッドに飛び乗って『おはよう』のキスがしたいの!わかる?わかるかしらこれ?」
寝起きでくしゃくしゃ頭の『娘』は、ぴょんとベッドに乗るとマットレスをぺちぺち叩いた。
ヨルムンガンド、と呼ばれた少女は父親の寝顔を見たことがない。生まれてこの方、どんなに早起きして父の部屋に飛んでいったとしても、変わらない穏やかな顔で書籍をめくっているか、窓の外を覗いているかのどちらかで、ヨルムンガンドに気づくと必ず跪いて朝の挨拶をする。それどころか歯磨きや顔を洗ったり、髪を梳かしているところすら一度も見たことがなかったので、少女は父はそういう必要がない人間なのか?と時々思ったりもした。もちろん、そうでないことは十分知っているのだけど。
6歳のビヴロスト・ヨルムンガンドは、自分にそっくりなこの父親が大好きだった。父の顔が自分に似ていることがまず嬉しかったし、何を聞いても答えてくれる博識なところであるとか、背の高いところだとか、抱き付くとひどく落ち着くにおいがするところだとか、穏やかな話口調だとか、その他にも数えられないほど好きな部分を持つ人だ。
「それはまた、何とも……」
「…子供っぽいかしら?」
「いいえ。たいそうお可愛らしいことです。また外の絵本から思いつかれたのですか?」
「うん。お母さまに買っていただいたの」
「さようでしたか。私は年のせいかどうにも眠りが浅い身ゆえ、ヨルムンガンド宮が起きる時間まで寝ていられるかは分かりませんが……これから肝に銘じておきましょう」
ヨルムンガンドはベッドから下りて窓に近づくと、父親が先程閉めたカーテンを開いた。シャ、とカーテンレールを滑る音と共に陽光が部屋の中を満たした。埃の粒に乱反射する、朝の清い光が部屋を洗い流していく。窓を背にしたヨルムンガンドの輪郭はきらきらとした逆光に縁取られて、白く光っていた。男が望んだことなど一度もないのに、年々顔つきが似てくる少女は、カーテンを体に巻き付けて何がおかしいのかけらけらと笑っている。
日焼けした真紅のカーテンに混じる、白い絹のネグリジェ。裾から覗く小さな足には、桜貝のように整えられた爪がちんまりと載っている。ヨルムンガンドが無邪気に踊るような足取りでカーテンと遊ぶ仕草に合わせて、差し込む光がするするとその形を変え、幼子を、傷ひとつない足を、書物に溢れた生活臭のない部屋を照らし出した。
どうしてか、その光景がひどく虚しくて男は目をすがめた。
「……ヨルムンガンド宮、あまり日光に当てますと書籍が傷みますので…」
「はあい、パパ」
素直に従ったヨルムンガンドだったが、カーテンに絡まって何やら出にくいらしい。複雑な形になったカーテンを解いて、うごうごしている少女を猫の子よろしく持ち上げたところで、灰白色の丸っこい瞳を飾る瞼がひくり、と震えた。男がその視線の先を追うよりも少し早く、背後から笑みの混じった声がかけられた。
「–––うふふ。おはようヨルムンガンド、それにロプトも。可愛い子、貴女ったらまた歯磨きや顔を洗う前にロプトの部屋に来てたのね?いけないわ、女の子ともあろうものがそのようなことをしては」
「…あ、ごめんなさいお母さま。それとおはようございます」
「分かってくれればいいのよヨルムンガンド。今日もいいお天気ね」
声の主を目にして、ヨルムンガンドは自分を持ち上げていた父の腕からするり、と抜け出した。
いつの間にやら部屋の戸口に立っていたのは、妙齢の女だった。年はロプトと呼ばれた男より、一回りかもう少し下だろうか。赤みの強い茶の巻き毛をゆるく結い上げており、至って地味な顔立ちの中、やや厚ぼったいの瞼に埋もれるようにして、ヨルムンガンドと同じ淡い灰色の目が光っていた。肥満と言うほどでもないが、手の甲や頬にぷくぷくとした肉がついているせいか、ふっくらとして見える。
その姿を目にした男はのろのろと、右足を僅かに引き摺りながら這って女の足元まで近づいた。白髪の入り混じったつむじを見下ろす、女の視線を受けて項垂れるように髪が一房、結い紐から女のスリッパにこぼれ落ちる。
「どうぞ。立っていいわ、愛しい貴方」
甘やかな声でつむがれた許しに、ロプトは絨毯から両手を離して立ち上がり、慣れた仕草でその体躯を緩く抱き締めた。肉付きの柔らかな女の輪郭に触れるとき、男の体から震えが消えたことはかつて一度もない。
「ありがとうございます愛しい方、麗しきアングレア様……今日も貴女の尊顔を拝せることを心より嬉しく思います」
すり、と猫の顎をくすぐるような仕草で、首輪を白い指が滑った。
「まあ。素敵な挨拶をありがとうロプト、私もよ」
ヨルムンガンドは抱き合う両親から視線を外していたので定かには分からなかったが、父の細い足が少し屈むために曲がったことと、微かなリップ音が聞こえたので多分、朝の挨拶にキスをしたのだろう、と確信していた。
「……お母さま、わたし顔洗ってくるわ」
2人の側を通り過ぎざま掛けた言葉に、返事はなかった。恐らくはヨルムンガンドの台詞と2人の『挨拶』が重なっていたのか。
パタパタと、急ぎ足で階段を上がって洗面所に急ぐ。
別にあの場にいたって、怒られることは何もない。けれど、あまり見たいものでもなかった。
ヨルムンガンドは6歳だけど、見ないふりをした方がいいものがこの家の中にも外にも、多くあることを知っている。
例えば、昨日近所に住むチャルロスが壊したけど、シャルリアのせいにしていた花瓶。
例えば、一昨日マリージョアから運び出されていった、大きくて腐った匂いのするシーツに包まれていた何か。
例えば、父の右足首を横切るような古傷。
例えば、父の左手薬指の不在。
–––例えば、父が母を抱き締めるとき、小指の後ろ側が引き攣るようにピン、と強張ること。
それらは自分の視界の真ん中で捉えないほうがいいことを、誰に教わらずともヨルムンガンドは悟っていた。わけもなく、心のどこかを引っかかれるように微かな不快感をもたらす何か。そういうものは、年々増えていく。ヨルムンガンドの背が伸びるたびに、顔が父親に似ていくたびに、斜面を転がる雪玉のようにどんどん膨れて、その数を増していく。その数を数えることからも、ヨルムンガンドはずっと目を背けていた。
マリージョアに住まう人間には、2種類の区別がある。
天竜人。そうでなければ奴隷。
ビヴロスト・アングレアは前者で、ロプトは後者。
その間に生まれたビヴロスト・ヨルムンガンドは前者に区別されている。母親の愛情が尽きていない間は、という注釈付きではあるけれど、6歳の少女はまだその肩書きを許されている。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
聖地マリージョアに、というか天竜人に法律が施行されることは基本的にない。何故なら、法を超越する絶対権力者が彼らであるからだ。彼らを縛り裁く法は存在せず、彼らの意志はあらゆるものより優先される。
その唯一に等しい例外が「天竜人の血統保護に関する五箇条」、略して竜血五箇条だった。これは権力を縛る方法ではなく、むしろ天竜人の範囲を限定的に広げるものではあるのだが。
800年。世界を作った20人の王のうち、アラバスタ王を除く19人の王が家族を連れてマリージョアに移り住んだ時からの歳月は、既に伝説を超え、風化の向こうにあるほどの長さを誇っていた。その間に、隔絶された聖地に住まう人々は互いに婚姻を結び続け、住人の全てが血族となるほどまでその交わりを濃く、確かなものとしていた。現在に至るまでもその伝統は脈々と受け継がれ、大体3代か4代まで遡れば、マリージョアに住むあらゆる天竜人との関係性を説明できることだろう。天竜人の家には必ずある一枚の系譜図がその証左である。
そうやって聖なる血を煮詰めてゆく伝統はしかし、明確な弊害を生んだ。時代が下るごとに増え続ける虚弱体質、白痴、生来の肉体的欠損、知的障害、未熟児、あるいはそれ以前の流産。既に今から数えて100年前には問題として五老星たちの俎上に上がっていたという。
分かりきったことである。19人の王とその家族が移り住んだとして、親族同士では結婚できないため、元より組み合わせには限りがある。その組み合わせの限界は長い歳月の間に使い尽くされて、マリージョアに住む天竜人たちの全ては親族となった。こうなると、だいたい従兄弟や再従兄弟同士、運が良ければもうちょっと遠い親戚との近親結婚となる。それが続けば近すぎる血によって生まれる子供とその健康が蝕まれるのも、当然の結果だった。
人間は多様な遺伝子の組み合わせによって、繁栄する確率を高める生き物だ。それを阻む近親婚は、生物的に向かないどころか害なのである。
天竜人たちは困った。高貴なる自分達の子供は健全で、五体満足でなければならないし、下界の血など入れたくはない。しかし、今のような親族結婚を続けていけば、健康な子供が得られる確率は減っていくという。まともな教育を受けない彼らなりに悩み、生まれてくる青白い顔をした子供を見ては泣き、虚弱な子供を死なせたと喚いて医師の屍が山と積み上がったところで、とうとう五老星たちは限界を悟った。
–––このまま続ければ、いずれ天竜人は滅ぶ。
それをなんとか解決するべく、打ち出されたのが『竜血五箇条』だった。施行されたのは、ヨルムンガンドが生まれるおよそ65年ほど前。天竜人と天竜人でないものが婚姻関係を結ぶことは一応以前から許可されていたのだが、新たにその間の子供を限定的に天竜人として認めることで何とか血脈を細々と広げよう、という目的が読み取れる。
いくつかの制限を持たせたにも関わらず、危機感のない天竜人からは大ブーイングと共に迎えられたこの法を持って、天竜人の濃くなりすぎた血の問題は多少進展を迎えることになっており、ビヴロスト・ヨルムンガンドもまた、その法の恩恵を受けて天竜人として生きる人間のうちの1人だった。
ざあ、と街並みを吹き抜けた風が、マリージョアの一角に作られた共同庭園の芝生に寝転ぶ、幼いヨルムンガンドの黒髪をさらさらと吹き上げた。
重たいハードカバーの本を、幼いヨルムンガンドは自分の頭の上にほとんど被せるような姿勢で掲げながら、ううんと一丁前に眉をしかめていた。
涼しい木陰にいるせいか、ツルツルピカピカのページの上を泳ぐ魚たちはなんとも陰気臭い。どんよりとして、生きていないみたいだ。それがなんとも不満で、寝転んだヨルムンガンドはつんつんと印刷されたヤリイカの写真を指でつついた。
やはり、一瞬ページに指紋が付いただけで、ヤリイカが動き出すことはない。
(パパが教えてくれる時は、泳いでるみたいなのに)
むう、とヨルムンガンドは穏やかな声で図鑑に載っている魚を指差して説明する父の姿を思い浮かべながら、白くまろい頬を膨らませた。
ヨルムンガンドの父、ロプトは海洋生物学者から母に見初められてマリージョアに連れられ、奴隷になったというちょっと変わった経歴の持ち主だった。母の溺愛ゆえに、父は奴隷となった今でも日常的な雑務をすることなく、与えられた部屋で本を読んだりヨルムンガンドに勉強を教えることが彼の暮らしの大半を占めており、一般的な奴隷、というイメージからはやや離れた生活を送っている。
名高い学術集団に属し、はるばる海を渡って様々な海域のフィールドワークに励んでいたロプトの教えてくれる話は、幼いヨルムンガンドに全て理解できた訳ではなかったけれど、それでも父の専門分野である海王類の起源や、それを育む青く広い海への興味を掻き立てるには充分だった。幼い子供が何かに興味を持ったときの行動は大抵大人の真似か質問攻めと相場が決まっていて、ヨルムンガンドもその例を免れてはいない。
こうして難しい顔で、大して内容を理解できない本を読んでいるフリをしているのも、大好きな父の真似事である。ヨルムンガンド少女は中々のパパっ子だった。
べらり、と傷ひとつない指がページをめくる。
次の項にはほとんど写真がなく、ぎっしりと文字が詰まっている中に父の筆らしき書き留めと、繊細なスケッチがいくつか描かれていた。
『オハラにて、ウェストナポレオンフィッシュの魚拓。貴重な資料だ。オハラの学者たちは世界や言語の歴史を本分とする印象を持っていたが、このように全く違う分野の遺物の保管も行っているとは。彼らの見識の深さには改めて感じ入る』
(パパ、絵上手いのよね…今度何か描いてもらおうかしら?)
不思議な形の骨格や、ひらひらとした襞の多いカサゴのような魚などざっくりとした線ながら、構成がきちんと分かるようになっている絵には華やかさことないが精密な美しさがある。どことなく描いた本人にも似ているような気がした。時間が経っているからか、かつては黒かったであろうインクの色も褪せたスケッチを、ヨルムンガンドはそっと撫ぜた。
その時にぴゅう、と庭園を吹き抜けた風がヨルムンガンドの前髪をくすぐるとともに何か小さなものを本の間から抜き取って、晴れた空に舞い上げてしまったので少女は慌てて立ち上がると、それを追いかけた。
失くしてもヨルムンガンドに優しいロプトは怒らないだろうが、父の本を持ち出してきた手前、欠けた状態で戻すのはなんとなくイヤだった。
–––ひらり。少女を揶揄うように、猫の鼻先を飛ぶ蝶のように、落ちそうで落ちないパピルス紙が風に遊んでいる。
ぱっと掴もうとした手がすり抜け、悔しさからちょっとムキになったヨルムンガンドがパタパタと花の咲き乱れる庭園を抜けて邸宅の間の道路まで全力でダッシュしたところで、手のひらより少し大きいくらいのそれは少女の目の前でぴたりと止まった。風は突然止まったりしないので、必然それ以外の理由によって。そのことに気づいたヨルムンガンドは急ブレーキにつんのめりそうになったのを、あわてて踏み留まる。
「………これ。お探しでしたか」
「あ、うん。そうなの、拾ってくれてありがとう……フェリクス」
少女の目的である小さな紙片を捕まえていたのは、ヨルムンガンドよりもう少し年上と見える少年だった。短い赤髪にくすんだターコイズの瞳のコントラストが映えていて、よれよれの服を着た体躯には布の上からでも分かるほど骨が浮いている。髪の生え際にぷつんとできた吹き出物も相まって、健康状態が良さそうには見えなかった。首元には奴隷の証である首輪が固く巻き付けられていた。
フェリクスと呼ばれた少年は、こちらに紙片を渡そうとしたのか近寄ろうと一歩踏み出し–––それから思い出したように、ぴたりと足を止めた。
奴隷は主人や目上の人間が呼ぶまで、動いてはならない。呼ばれれば駆けつける。第一の鉄則である。
ヨルムンガンドもそれを知っていたので、彼女の方から一歩近づくと少年は急いで跪いて紙片を恭しく掲げ、彼女がそれを受け取るとフェリクスは暗い目で少女を見上げた。
しん、と音のないターコイズの中で、ぐらぐらと小さな何かが煮えたぎっている。
「……あっ、えっと立って大丈夫!パパの大事な本のメモだったから、取ってくれて助かったわ!ありがとうね」
「……ああ」
「…あの、フェリクス、私はええと」
「……すみませんが、用があるので…」
少年は物言いたげに口を動かしたが、結局気まずそうに雑な返事をすると立ち上がって周りを見回し、それからパッと背を向けて走り去って言った。気の短い天竜人であれば、一発銃を撃っていてもおかしくないほど杜撰な対応ではあったが、ヨルムンガンドはそれを咎めるような気持ちにはとてもなれず、あっという間に遠ざかる後ろ姿をぼんやり見送った。
(……フェリクス、昔はあんなに足が速い子じゃなかったのに…)
ヨルムンガンドは胸内で呟いた。何せあの少年はかつて走る必要すらない身分だったのだから、当然だとも言えるが。
『竜血五箇条』は天竜人と非天竜人の間に生まれた混血児を、天竜人として認める法ではあるが、それには『親である天竜人がそれを望み、子供を天竜人として認める申請を出せば』という冠詞がつく。逆に言えば、親の天竜人が申請を出さなければ、子供はただの奴隷である。
ぶっちゃけ今のご時世、きちんと申請を出すのは母親が天竜人の場合がほとんどで、父親が天竜人の場合は申請など出す方が稀だった。お腹を痛めて産んだかどうかという違いは、如実に子供の身分差となって現れている。
しかも混血児は天竜人の血を引いているため、申請がない場合はマリージョアから一生出ること叶わず、万が一の事態に備えての『繁殖用』という意味も含むため、時にその過酷さは普通の奴隷を上回ることすらあった。普通の奴隷であれば、主人が飽きればマリージョアから出られるという低確率の賭けもできようものだが、混血児にはその万が一すらない。
そして、混血児にとって『竜血五箇条』の最悪な部分は天竜人としての申請が完全に親次第であり––––成人するまでは一度通った申請を親が取り消すことが可能、という点だった。理屈としては、混血である子供が天竜人として相応しくないかどうかを天竜人の親が決めるのだ、など嘯いているが、どうあれ子供にとっては悪夢のごとき屁理屈である。
申請が出され、かつては海軍大将すら顎で使える身分から、親の匙加減で跪く側の奴隷に。気分次第で天から地の底まで蹴落とされるがごとき無法は、ここマリージョアで当然のように罷り通っていた。先ほどヨルムンガンドから逃げ去っていった少年、フェリクスがそうであるように。
「……帰ろ」
ヨルムンガンドは、フェリクスから手渡されたパピルス紙のメモをきゅっと握ると、とぼとぼとビヴロスト家に向かって歩き出した。
どうにも、先ほど自分を下から見上げていた少年の、昏いターコイズの視線が眼裏に焼き付いて離れてくれなかった。ヨルムンガンドは、かつて、あの瞳がきらきらと輝いて奴隷に乗っかっていた時分をよく知っている。
彼の父親は、彼の母親をたいそう可愛がっていて、両親の容貌の良いところを掛け合わせたようなフェリクスは生まれてすぐに天竜人として申請を出され、舐めるように甘やかされていたものだ。それが覆ったのは、彼の母親が逃亡を図り、首輪が爆発して死を迎えたからだと聞く。つい1年半ほど前に起きたその事件をきっかけに、赤毛の可愛らしかった少年は申請を取り消されてチップが失われ、天竜人から一転して奴隷へと身を落としていた。
そして、あの少年の落ちぶれた姿にヨルムンガンドが気まずさを覚えていたのは、何も知己の少年の転落ぶりが悲しかったからだけではない。フェリクスに起こりうることは、ヨルムンガンドにも起こりうることなのだ。
いつか、ヨルムンガンドが成人するまでに母の愛情が枯渇する日が来たら。ヨルムンガンドや父のことが好きでなくなったら。そういう日が来れば、彼女もまた同じことだ。かつては遊び相手だったフェリクスがヨルムンガンドに跪いたように、自分は母に跪けるのだろうか。あんな風に、怯えた目で。
ヨルムンガンドはぼんやりそんなことを思って、マリージョアの空を眺めた。下界よりずっと、天に近い場所であるはずなのに、解放感はあまりない。そんな錯覚を覚えるのは、この場所がそう自由でないことを知っているからなのか、あるいは住む人間たちが堕落しているからなのか。
見上げた空の端には、雨雲のような暗い色をした雲が集まり始めており、少し前までは鮮やかな青だった天蓋は薄墨を垂らしたようにじわりと滲みだしていた。その色は、先ほど拾ってもらった紙片にスケッチされていた「世界蛇」の体の濃紺を、うんと薄めれば似ているだろうか。
『魚人島、古書店にて古代の世界蛇の全体想像図。伝承ではあるが、一考の余地のあるものだ。あの美しく雄大で謎めいた生き物の起源を探る上では、あらゆる情報は宝に等しい。私は知りたいのだ、あの巨大な生き物はどのようにして世界を感知し、大きな害を起こすことなく今まで生きてきたのだろう?何故あれほど巨大な海王類は、普通の大きさの海王類を従えていないのだろう?いつかこの謎が解明される日はくるのだろうか』
–––じきに、雨になるだろう。ヨルムンガンドは鼻を鳴らす。吸い込んだ空気には、遠くからやってくる土の匂いが混じっていた。
ヨルムンガンド
まだ黒髪の純粋ロリだけど、家のカーストをきっちり理解してるので、「お母さま」と「パパ」と呼び分けている。自分ちがにちゃ…としてることには何となく気づいてる。
ロプト
パパ。元海洋生物学者だったのが、偶然ママに一目惚れされて奴隷として連れてこられた。比較的好待遇な方だが、奴隷は奴隷。娘への感情は正直謎。顔が死ぬほど似てる。
アングレア
ママ。この頃のヨルムンガンドは恐れながらも好きだけど、じきにそんなぬるいことは言えなくなる。
フェリクスくん
可哀想。
竜血五箇条
カス法律。こんなに抜け道いっぱいあるのは、この程度でも導入反対する奴がいたから。