ビヴロスト・ヨルムンガンドは飲み下さなければならない。
何の変哲もないスケッチブックは、父の手にかかれば美しく広い海や、暗い月の夜や、美しい朝の川辺や、何にだってなることができた。さらさらと一切の淀みなく泳ぐ鉛筆たちは、青、紫、緑、黄色、黒、赤とたびたび持ち替えられながら、一つの風景を精密に写し取って、編み上げ紡いでいる。カーテンの隙間から差し込む細い光の下、父の節くれだった大きな手は、まるでどこにどの色を置くのが正解なのか分かっているかのように迷わず進んでおり、描き始めたときは真っ白だったページも、8割方完成に近い。
「パパ、ほんとに上手ね………」
呆気に取られて、ぽかんと空いたヨルムンガンドの口からは、そんな気の抜けた感嘆が漏れ出た。少女の言葉に、目を上げたロプトはありがとうございます、と薄くはにかむ。
時刻はもうすぐ正午。ロプトとヨルムンガンドの2人は、地下にあるロプトの部屋にて少女が唐突に言い出した『お絵描き』の真っ最中だった。
「お褒めにあずかり光栄です、ヨルムンガンド宮。そんなにお気に召しましたか」
「うん!ね、ね、パパ今度絵の具でも描いてくれない?色鉛筆でもすてきだけど、絵の具を使ったらきっともっとキレイだと思うわ」
「絵の具…と申しますと、水彩や油彩ですか?」
「そう、スイサイのほうならわたし持ってるし!」
床に座っているロプトがふむ、と少しばかり考え込んでいるそのつむじを、ヨルムンガンドは椅子の上からじっと見下ろした。ヨルムンガンドは父のかなり晩年の子供であるため、ロプトは年相応に頭髪にはかなりの白髪が混じっている。以前は母であるアングレアが毛染めにハマっていた時期があったため白髪など殆どなかったのだが、その熱が冷めた今は、髪全体における白の割合は日毎に増える一方だった。
毛先の方はまだ黒いが、遡るにつれて白の純度が高くなっている父の髪が、ヨルムンガンドは意外と好きだったりする。雪の降りた地面を引っ掻いたみたいで、とても綺麗だと思う。
「しかしですね、畏れながらヨルムンガンド宮。私は絵を描くこと自体にはそれなりに経験があっても、絵の具を使ったことがあまりないのです。ああいうものはやはり練習がものを言いますから……描けたとしても鉛筆よりずっとひどい出来になると思いますよ」
「こんなに絵がうまいパパでも?」
「ええ。ヨルムンガンド宮もクレヨンで絵を描くときと、鉛筆で描くときではやはり違うでしょう。上手く描こうと思えば練習は必須かと」
「ふうん………」
ヨルムンガンドは手元の自分の描いた絵を見下ろして、ちょっぴり口を尖らせた。輪郭も何もなく、黒色や肌色のぐるぐるとした線の集まりや歪んだ線のみで描かれた、年齢相応に下手な絵である。画用紙に家族3人を並べて描いたそれは、なんというか、自分ではうまく描けたつもりだったのだけれど、ロプトのそれを見てしまうと途端にただの乱雑な筆跡程度にしか見えなかった。
「いいなあパパ…わたしも絵が上手くなりたい」
少女の本心から出た嘆きに、ロプトは少し腰を浮かせてヨルムンガンドの絵を覗き込むと、微かに笑みを浮かべた。
その視線にヨルムンガンドが慌てて絵を隠すと、父は色鉛筆をまた持ち替えながら柔らかな声で諭すように言った。
「ヨルムンガンド宮は十分お上手な部類です。私が貴女さまと同い年の頃はもっと下手…というか描くことすら知りませんでしたよ」
「えっ!?そうなの?てっきりわたし、パパは生まれたときから絵が上手なのかと思ってたのに」
「…ふふ、まさか。私の幼い頃は貧しかったので、高級な鉛筆も画用紙も、ましてや絵の具など身の回りにありませんでしたから…単純に描く機会がなかったのですよ。初めて絵を描いたのは、もっと大人になってからでした」
鉛筆や紙の値段を知らないヨルムンガンドは曖昧に頷いた。
ビヴロスト・ヨルムンガンドにとって父は、万能に近しい人である。絵も描ければ文字も綺麗だし、難しい本も読めれば作る機会は少ないが料理の腕も確か。手先を使うことで、苦手な分野を探す方が難しいくらいだ。そんなロプトは、ほんの小さい時から今と同じくらいに何もかもに優れた人物だとばかり考えていたのだが、どうも違うらしい。
「じゃ、パパが初めて絵を描いたのはいつ?」
「ふむ。ええとそうですね、17くらいでしょうか。その頃に運良く海洋生物に関する勉強をする為の学校に通うようになって、標本のスケッチを描いたのが恐らく初めてかと……しかしもう遥か昔のことですから、記憶もずいぶん曖昧で…」
ロプトはちょっと視線を上げて、ふと遠くを見るような目になった。
老境に差し掛かった男の瞳がゆるく伏せられて、その色は淡い。ヨルムンガンドと瓜二つの面立ちの中で、唯一似なかった黒の眼差しは、ひどく透明に在りし日を思い起こしているようだった。
2度と叶わぬ夢を見ている、ような。
なんだかその透き通った墨色に決まりが悪くなって、ヨルムンガンドはもじもじした。
「…そ、そうなの。それにしてもパパ、また同じもの描いてるのね。飽きたりしない?」
ちびっちゃい指が指す先は、ほとんど完成しかけのスケッチブックだった。白い画用紙の中には、暗い嵐の海が描かれている。どんよりと落ちてきそうなほど濁った空の下、荒れ狂う高波や渦巻く水面の一様に底の見えない黒混じりの青や緑などが、実物をそっくり写し取ったかのごとき迫力で紡ぎ出されている。見るものの顔に当たる風雨の感触や、潮の匂い、遠くで鳴る雷の音まで聞こえてきそうな絵は、色鉛筆で描いたとは思い難いほどの写実的だった。
そして、荒れる海を割るようにして、絵の中央には鮮やかなコバルトブルーが使われていた。端っこに描かれた島をゆうに越すような巨大な青は、よく見れば楕円のような形を取っていることが分かるが、言われなければそれが鱗だと気づくものは少ないだろう。事実、少女も父に教えられるまでは海と共にいつも描かれる青の正体が「1匹の巨大な蛇」であることなど思いつきもしなかった。
「いいえ?ちっとも、飽きることなどありません。むしろ描くたび、絵が完成するたび、『ああ、この絵でも世界蛇の美しさを表現しきることが出来なかった』と己にがっかりするくらいです」
「へえ……パパこのおっきい蛇、ほんとに好きね」
「よく言われます」
父は元々海王類、その中でも特に世界蛇について研究していた学者である。母に見初められて奴隷となり、もはや研究から離れて久しい今でも、かつての研究対象への憧れや深い愛情は変わりないらしく、こうやって一緒にお絵描きをしようとねだれば、描くものの内約半分は途方もなく巨大な海王類の姿だった。
深い海の中、水面から差し込む日差しを受けて蛇がひかる絵。
世界蛇の体の周りに、小さな魚や鮫などが纏わりついている風景。
蛇の起こした高波が、街に流れ込む瞬間を切り取った絵。
ロプトは言葉通りまるで飽きることなく同じモチーフを描き続けているため、与えられているスケッチブックはめくってもめくっても、大体同じものしかないので若干つまらなかったりする。
「次は他のものも描いてよ。…例えばわたしとか!どう?」
「おや、ヨルムンガンド宮を?…たいへん光栄ではありますが…貴女さまのお可愛らしさを表現するには、もしかすると私程度の腕では難しいやもしれませんね…」
「ええ〜そんなことないわよ!パパに描いてもらったらきっと他のどんな画家に描いてもらうより嬉しいし、可愛く思えるに違いないわ!」
苦笑いしたロプトに、椅子を降りたヨルムンガンドは猫のようにじゃれついた。ほっそりと痩せた、肉付きの薄い父は少女を体温の低い腕でやや危なげに抱き止めたが、ヨルムンガンドがどんなに言ったって、彼女の絵を描いてくれないことは経験上よく知っていた。もう少し小さい頃には床をごろごろ転げ回って喚いてはねだっていたこともあったが、その我が儘に父は困った顔で決まって最後に同じ質問を投げかけた。
『ヨルムンガンド宮、それは命令でしょうか?』と。
そうするとヨルムンガンドはきまりが悪くなって口を閉じるしかない。家族は命令などしない、ということはまだ幼い彼女にだって分かっているから。ヨルムンガンドがロプトを父と慕う限りは、命令したくないのだ。だってそれじゃあ、奴隷と主人みたいだし。
そうやって悩んでいるヨルムンガンドの幼い葛藤を、ロプトはちっとも分かってくれない。あるいはヨルムンガンドが黙ることを分かった上でわざわざ言っているのか。どちらにしても意地の悪い問いかけだ。
だからヨルムンガンドは、『自分を描いて欲しい』とは長々頼めなくなった。その問いかけが、父の唇から吐き出されるたびに、何か心の奥の柔らかい部分がちくり、と後ろめたくなってしまうから。
ヨルムンガンドは口を尖らせたまま、何も言わずに硬い首輪の巻かれた父の首に擦り寄った。間近で伺ったロプトの眼は、相変わらずに透き通った飴色をしている。ヨルムンガンドの灰白色よりまるで違う、古い本のページみたいな色。
底が見えないほど深く、しんと冷たい温度を湛えた膨大な水。スケッチブックに描かれた嵐の海みたいな、腹まで届くような海嘯とどろく、極寒の世界。その向こうで、鈍い光が揺れている。瞬きのたびに揺らめくそれが、ヨルムンガンドを捉えてふっと静かに消えた。
父と目が合う。ヨルムンガンドは彼と良く似た苦笑いを浮かべて、しらじらしく目を逸らした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
はい、あーん。
ヨルムンガンドは食事のたびに聞こえてくるその声には目もくれず、手元のチキンソテーを凝視しながら無心でフォークを動かした。
親子3人で使うには明らかに広い食堂の広いテーブルの上、置かれたチキンからは肉汁とオレンジの混じった匂いが鼻腔を刺激するのに、どうもヨルムンガンドには美味しそうに思えない。白いテーブルクロスと皿の上で、ソテーは何故か雪が降りたように青白く見えるのだ。
ぷつり、と。左手に持った銀のナイフから、肉が切り離される感触が伝わった。柔らかで、ほどよく滑らかな切れ端となった鶏肉を少女は半ば義務感で口に運ぶ。
とろけるような舌触りのあと、パリパリとした皮の風味とオレンジソースの酸味が融合した味わいをさほども楽しむこともないまま、ヨルムンガンドは3度噛んでそれから飲み下した。
べたり、と香味のある脂の余韻が歯の裏側に残っているのを洗い流すように、コップの水を喉に流し込む。
(ごはん、ひとりで食べたいなあ……)
ヨルムンガンドはこっそりとため息をついたが、そのほとんど消えかけた音に母がちらりとこちらを見遣ったので、慌てて咳払いをして誤魔化した。
「どうかしたの?ヨルムンガンド」
「あ、ううん。これはね、『すっごくおいしいなあ』のうっとり溜息よ、お母さま」
頬に手を当ててわざとらしく頬を緩ませてみると、アングレアは僅かに目元をくつろげて、うすい微笑みを浮かべた。
「あら。うっとり溜息だったのね?なら、いいわ」
くすりと笑った母は、もうひと匙手元のリゾットを掬って、それを床に膝立ちの状態で待機しているロプトの口に運んだ。
促されて開けた口、銀の匙が突っ込まれ、頭を下げて礼を言った父はそれをゆっくり嚥下した。筋張った喉が一度、ひくりと動く。
「どう?ロプト、もう少し食べる?」
「………いえ、たいへん美味しゅうございましたが、もう充分いただきました。アングレア様、あとはどうぞごゆっくり召し上がってくださいませ」
「そう…あ、でももう一口で完食だから食べちゃいましょう。ほら、あーん」
また小さく開いた口が一度閉じて、また開き、おずおずと匙に乗ったリゾットをゆっくり飲み込んだ。白い歯並びの向こう、僅かに見える口内はひどく暗い。
ヨルムンガンドの母、アングレアの父に対する愛情は6歳のヨルムンガンドから見ても過剰なほどだった。奴隷である父に手ずから食事を食べさせ、1人用の部屋や書物を好きなだけ買い与え、病気になればすぐに医者を呼ばせるなど、天竜人が奴隷に対する態度としては破格の一言に過ぎる。仲間内でも『結婚しているとはいえ、さすがに奴隷を甘やかしすぎでは?』と苦言を呈されている母を目にしたのは、一度や2度ではない。
奴隷を夫や妻として迎える天竜人はそれなりにいるし、竜血五箇条が導入されて以後は子供を天竜人として認定することもできるようになった現在ではあるが、こうも奴隷に愛情と手間ひまをかけて厚遇している天竜人はそう多くない。たいてい可愛がっても性的奴隷がほとんどで、身なりをロクに整えさせないどころか、『ニキビができた』の一言で殺されるというレベルの話なのだから、それと比べればアングレアの夫への対応は健全で慈悲深いと言っても良いだろう。
––––でも、それは。ロプトが人として扱われているかという話とはまた別なのだ。
この家には、ロプトのための椅子はない。父が座る場所はいつも、磨き上げられた大理石の上だから。
この家には、ロプトのための皿がない。彼が口にしてよいのは、アングレアが手ずから与えるもののみだから。
この家には、ロプトのための扉がない。彼の部屋は、閉ざすことを許されていない。
にこり、とアングレアの灰白色の瞳がヨルムンガンドを捉えた。
「ヨルムンガンド、貴女ロールキャベツ好きだったでしょう?一口あげるわ。ほら、口をあけて」
「………、はあい」
ヨルムンガンドは口をあけると、母が差し出したロールキャベツの切れ端をフォークから歯で抜き取って口の中に入れると、5回咀嚼した。簡単に噛み切れる程よく柔らかなキャベツと、それに絡んだ中の肉汁がとけあった風味が鼻を抜けて喉を潤した。
ごくん、と飲み下す。あまり美味しいとは感じなかったが、ヨルムンガンドは逆らうことなく飲み干さなければならない。
さもなければ胃の腑から迫り上がるような何かを、一片のシミもない白いテーブルクロスに吐き出してしまいそうだったから。
ヨルムンガンド(ロリの姿)
パパのことは好きだけど、ちょっと見下してもいる。大人になっても「あーん」ができない。
ロプトさん
人権侵害されてるパパ。正直もう50は超えてるので、絵面的にもきついものがある。
アングレアさん
人権侵害してるママ。別に美人ではないのに美人しか許されないことをしているので、絵面にきついものがある。