––––つるり、と滑らかな質感。
撫ぜると丸いカーブが指に伝わってきて、ちょっと押すと人の体らしい柔らかさで凹む。軽くつまむと硬い骨が肉の奥にあるのが分かるけど、あんまり楽しいものでもないから、ヨルムンガンドはあまり真ん中を触らないようにしている。
何のことかと尋ねられれば、ロプトの左手薬指の断面のことだ。
少女の父の両手10本のうち、唯一欠けたそれは根本からさっぱりとその存在感を消しており、小さい頃には生まれつきの欠損なのかと思っていたがよくよく見れば抜糸の痕があるので、後天性のものらしい。
ロプトの利き手は右なので、左手の指が欠けた程度ではあまり生活に支障はないのか、特に困っているような場面に遭遇したこともなかった。
骨張っていて、鉛筆ダコがあって、でもごつごつとはしていない。枕元の小さなナイトランプの下、皮膚が薄いせいか骨や青い色をした血管が透けて見えそうな不健康さを備えた、深海魚のように神秘的な父の手がヨルムンガンドは好きだった。その一本が欠けていることだって、チャーミングポイントだと思えるくらい。
「–––こうしてお姫様と王子様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい。…………あの、ヨルムンガンド宮。それくらいにして頂けますと幸いなのですが…ふふ、あのくすぐったくてですね…」
「ええー、もうちょっとくらい…」
時刻はもう夜。
お風呂と寝る前のお肌の手入れや歯磨きを終え、絹のネグリジェとナイトキャップ姿になったヨルムンガンドは読み聞かせをしてもらいに父の部屋を訪れていた。
ほこほこと上気した少女の頬は、健康的な明るい薔薇色を染まっており、同じ色をした指先も燃えるように暖かい。ちんまりとした温い指が己の欠けた指の断面を行ったり来たりするのを、ロプトはしばらくの間我慢していたが、だんだんと耐え難いくすぐったさになってきたのでやんわりと制止した。
ロプト自身寝る前だったので、光源はベッド脇のテーブルに乗せられたオレンジ色のランプのみ。青い闇で満ちた部屋の中、柔らかに眠気と暖かさを感じさせる、とろりとした光に照らされて、少女を膝に乗せる父の姿は絵画のようでもあった。ガラスの反射故か、濃さの異なるオレンジの楕円が何層かに分かれてヨルムンガンドの顔を飾っている。
「でもパパ、もうすぐしたら指生えてきちゃうんでしょう?だったら今のうちに堪能しとかないと!」
ロプトはちょっと微妙な顔をした。男性にしては長めのまつ毛がランプに照らされて、色濃い影を顔に落としている。
「…………ええ、それは確かにそうなのですが…」
妻であるアングレアから欠けた指を再生すると宣告されたのはついこの間のことだった。ロプトとしてはもう8年も前に失って以来、そこまで生活に支障が出るわけでもなく、思い出深いそれの喪失は悲しかったけれどもう戻らぬものだと諦めていたので、その申し出には仰天した。
第一に切断された指が廃棄されていた場面もうっすら覚えているので、どうやって再生するのだという疑問も残る。
妻の答えは簡潔だった。『悪魔の実』だと。近頃知り合いの天竜人が、手持ちの奴隷に回復系に特化したものを食べさせたらしい。
確かにあの摩訶不思議な、時に物理法則すら無視したような現象を引き起こす果実であれば、指の1本や2本生やせても何らおかしくはない。おかしくはないのだ。ロプトが困るというだけで。
彼は自分をうっとりと見つめる妻の顔を思い出して、胸内で重たい溜息をついた。
(…今になって、何故………)
かつて8年前にロプトから左手の薬指を奪うよう指示したのは、アングレア本人である。彼は鮮明にその時の、麻酔を掛けられていたとはいえ己の体から指がずれて、台に転がる感覚をよく覚えていた。本来あるべきものが自分から離れていく、違和感。つきんと鼻を刺す麻酔薬の匂い、神経が麻痺する鈍い不快、薄暗い部屋に溢れた血液の赤さ、幻肢痛に眠れなかった夜の深さ、どれもまだ生々しい苦痛だというのに。
失ったのだから、もうそのまま放っておいて欲しい。どのみち失われてしまった、長い時を共に過ごしたあの指は帰ってこないのに、今さらおもちゃのように指を生やされるのは不愉快だった。
その苦い記憶を知らぬとはいえ、無邪気にはしゃいでいるヨルムンガンドにロプトは心の奥底がじじ、と音を立てて燻るのをぼんやりと他人事のように眺めていた。父親の指で遊ぶ少女の頬の産毛が光を受けて、内側から淡いオレンジ色に光っている。それを手の甲で整えるようにしてそっと撫ぜると、ヨルムンガンドは弾かれたようにぱっと顔を上げた。あまり触れ合いを自分からはしてこないロプトの珍しい仕草に少女は驚き、それから嬉しそうにはにかんだ。
「なっ、何かしらパパ?いきなりどうしたの?」
「……ヨルムンガンド宮、実は折り合って頼みがあるのです。どうか聞いては頂けませんか」
「ええっと。内容にもよるのだけど…」
ヨルムンガンドは首を傾げた。ロプトが少女に対して、頼み事をしてくることは少ない。大抵母にお願いすればなんとかなるからだ。不思議に思いつつも先を促すと、父はゆるやかに笑みを浮かべた。
薄青い闇に満たされた部屋の中、父の顔には濃い影が不可思議な紋様を描いている。
「先ほど、ヨルムンガンド宮はこの指がもうすぐ生えると仰いましたね」
「?うん。お母さまが能力者の奴隷を連れてきて下さるから、それで–––って聞いたわ」
ロプトはこの指、言いつつ薬指の欠けた左手を軽く振った。
「そのことなのですが……私はこの指が欠けて困ったことはないのです。むしろ無くなってからの時間が長いせいか、今から生やすと違和感が出てしまいそうでして…そんな私の為にわざわざ能力者まで呼んで頂くのは心苦しゅうございます」
「ええ〜っ、ホントぉ!?指、無いよりあるほうが絶対よくないかしら…でもパパは無い方がいいの?」
「ええ。アングレア様にもそうお伝えしたのですが、却下されてしまったのです。そこで、もし良ければヨルムンガンド宮からお母さまにお願いしては頂けないでしょうか。愛娘である貴女さまのお言葉なら、聞き入れてくれるやもしれません…不躾な行為であるとは重々承知しておりますが…」
何卒、と頭を下げた父にヨルムンガンドは困ってほっぺたに手を当てた。愛娘の言葉なら、とロプトは口にしたが、ヨルムンガンドが母にとってそこまで価値ある存在でないことくらい、少女にも薄々分かっていることである。アングレアにとって娘は、愛する人との子供であると同時に、いつでも奴隷にできる人間でしかない。矛盾しているようで、彼女の中では両立した存在こそがヨルムンガンドなのだ。
母が決めた決定にヨルムンガンドが逆らうことはこれまで殆ど無かったし、仮に言ってみたとして聞き入れてくれるかはかなり怪しい。
もし、母の機嫌を損ねてしまえば–––想像もしたくないような結果にだって、繋がりかねない。
ぐるぐると迷ってヨルムンガンドは俯いた。父の指から手を離して、緩く握り込む。大好きな父の願いなら、叶えてやりたい。けれど、母に意見するのは怖い。大体なんで、欠けた指を治療することが嫌なのかもよく分からない。
ヨルムンガンドの視線はうろうろと彷徨って、ランプの光の届かない床をなんとはなしに見つめた。濃い青闇がわだかまる、昏い木張りの地面は、ずっと見ているとすこんと底の抜けた途方も無い空に浮かんでいるような心もとない感覚に襲われるときがある。今はまさにそうだった。足元の感触が消えて、どこまでも落ちて行くような、根拠のない不安。
するり、と右手が取られた。自分より何倍も大きな、男の手。年老いて乾いた、温度の低い9本の指がヨルムンガンドの手のひらをなぞる。お風呂上がりで上気した手が、僅かに冷えるような感覚があった。
「ね、ヨルムンガンド宮。お願いです、アングレア様に一度頼んでくださるだけでよいのです。もし断られればそれまでの話、無理にとは申しません」
–––どうか貴女のパパのお願いを、聞いてはいただけませんか。
父の口から吐き出されたパパ、という響きはどこか白々しい。叩けばかつん、と軽い空洞の存在すら感じ取れそうだった。
ヨルムンガンドはそろそろと床から目線を上げて、父の顔を伺った。
部屋の唯一の光源に照らされて、オレンジの光沢を帯びたロプトはひどく暖かそうな笑みを浮かべている。とろりと優しい、ヨルムンガンドの大好きな父の微笑み。少女とよく似た面差しの中、飴色の瞳が弓形に細まってヨルムンガンドのことを捉えている。少女にはとても真似できないほど、慈愛に満ちた笑い方だった。
目が離せないまま、ヨルムンガンドは半ば無意識のうちにこくん、と首を縦に振った。
「………わ、分かった。お母さまに明日、頼んでみるわ」
「ああ、ありがとうございますヨルムンガンド宮…本当にお優しい方です、貴女は…」
父の両手に握った手が持ち上げられて、するりともう一度撫ぜられる。この時ばかりは左手薬指の欠損がやけに生々しく感じられて、ヨルムンガンドは唇をきゅっと小さく、父に気づかれないように引きむすんだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ヨルムンガンドは非常に忘れっぽい少女であるからして、就寝前に交わした父との密やかな約束を思い出したのは次の朝起きて、歯磨きと顔洗いを済ませ、朝食の席についてからだった。
起きてすぐに父の部屋にも寄ったのだが、大抵本のページをめくりながら朝を待っているロプトの姿は既になかった。もう起きて食堂に行ったのかとも思ったが、ベッドに寝た形跡がないので多分昨夜は母の部屋で眠りについたのだろう。きちんと整えられた白いシーツの上にはカーテンの隙間から差し込む細い一筋の陽光が、くっきりとした直線を描いているだけだった。
「おはようございます、お母さま。パパもおはよう」
「おはよう」
「おはようございますヨルムンガンド宮」
広いテーブルにはできたばかりの食事が運び込まれ、椅子には既に母が着席していた。ロプトはいつもと変わらずアングレアの足元に静かに座っている。
磨き上げられた白い皿の上、湯気を立てているのは黄金色をしたフレンチトーストである。バターの芳醇な香り漂う上からたっぷりと蜂蜜をかけてナイフとフォークで切り分けて、口に運ぶこと数回。
たいへんしっとりとした美味なトーストをもぐもぐと咀嚼しながら、何か忘れてるような…?と頭の上にハテナマークを浮かべたヨルムンガンドは、一拍遅れてやっと、昨日のやり取りを思い出した。
(…!あ、昨日パパに頼まれたんだったわ…)
「むぐ。あのね、お母さま…ちょっとお願いしたいことがあるのだけど…」
フレンチトーストを飲み込んでから母にそう切り出すと、ロプトの口にスプーンを差し出していたアングレアがちらり、とこちらを見た。
少女と同じ灰白色の瞳が、不思議そうにやんわりと細められる。
足元で膝をついているロプトは顔を向けることこそなかったが、横目でヨルムンガンドの方を伺っているのが少女には分かった。
「何かしら?可愛いヨルムンガンド、貴女が私にお願いするなんて珍しいこともあるものね」
「……ええっと。前にお母さま、パパの欠けてる指を再生させるって仰ってたでしょう?それ、もちろんとっても素敵なことだとは思うのだけど…」
「…………」
つっかえながらの説明に、母は無言で先を促した。
「わ、わたしパパの指が欠けてる手が好きだから、できれば今のままでいてほしいなあ、って……できればパパの指、治さないでほしいのだけど……ダメかしら?」
しん、と冬の朝の霜にも似た沈黙が、食堂に降りた。
やはりアングレアにとってあまり「嬉しくない」願いだったか、と少女は不安になって、窓から差し込む逆光に縁取られた母の顔を伺った。
別段怒っているような表情ではないが、朝の光を背にした母の顔はやや見づらい。少しだけ眉が困ったように下がっていることだけが、なぜかはっきりと読み取れた。
かち、かち、と会話の途切れた部屋の中で時計の秒針のみが規則正しく響いている。ややあって、アングレアの口紅の塗られていない唇が、緩やかに開くのが見えた。
「–––ね、ヨルムンガンド。お母さま、貴女のことが大好きなの」
「………?はい、ありがとうございます…?」
ちょっとおいでなさい、と言うように手招きされ、食器を置いて近づくと、母はぷくぷくした両手でヨルムンガンドの手をきゅっと握った。ヨルムンガンドと母の顔は似ていないが、こうして見ると爪の形がそっくりである。血のつながりをというものを場違いにも少女は実感した。
「貴女はどうかしら、可愛いヨルムンガンド。お母さまのこと、好き?」
「だ、わたしも大好き!とっても!」
「ありがとう。それでね、生活していく上でお互いのことを好きでいるためには、努力が必要でしょう?お母さまは貴女に好きでいてもらえるような行動をしているつもりなのだけど–––」
母は言葉を切った。ちらり、と目線が合う。
目の形は違えど、全く同じ色をした瞳に見据えられて少女は自然と俯いた。
「貴女はどう?その"お願い"は、私がヨルムンガンドのことをこのままずっと、好きでいさせてくれるものかしら?」
「えっ、あ……それは、ええと…」
すり、と指の背が撫ぜられる。
不意に強く、ヨルムンガンドは昨夜の父の仕草を思い出した。年も、性別も、身分も違えど、2人は時折似た行動を取ることがある。父が環境に合わせて似たのか、母が父を真似たのか。ヨルムンガンドにはよく分からない。
冷や汗が腋の下を一筋、つうと伝った。俯いているので、椅子を挟んで向こう側にいる父の顔が目に入った。指が欠けたままでいたい、とヨルムンガンドに願った父。ヨルムンガンドの大好きな人。そして、奴隷。
父は静かな目をして、それから視線を落とした。
「な」
口が乾く。張り付いたように舌が強張る感触があった。
「––––何でも、ないです、お母さま…お願いのことは忘れてもらって、だい、じょうぶ……」
母が微笑むのが、気配で分かった。ロプトは床に視線を落としたまま、それでも僅かに口を開けて、また閉じた。その仕草が、音を立てないため息だということを、ヨルムンガンドはよく知っていた。
結局、その会話から1週間の後に屋敷に能力者の奴隷は連れてこられ、父の欠けていた左手薬指の断面からは、新しいものが生えていた。
父の骨張って日焼けした指とはそぐわない、ピンク色で柔らかい、赤ん坊のようなもので、母は若干不満そうではあったものの、用意していた指輪をその新しい指に嵌めてやっていた。
ロプトは己の願いを握りつぶしたヨルムンガンドを責めもしなかったし、会話の後も何ら変わることなく少女に接した。けれどもヨルムンガンドは、父の目に一抹の失望が滲んでいるのを、肌で感じていた。
両親がこの世を去る、およそ半年ほど前のことだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(おまけ)
「あいよ!バニラアイスひとつ、お待ちどうさま」
「おお、ありがとう。こいつは美味そうだな」
「そりゃそうさ、うちは小さい店だがバニラビーンズの一粒まで拘ってるんだから味はお墨付きさね。しっかしまあ、海軍大将さまも大変だなァ。こんな寂れたアイスパーラーにまでお使いなんざ、ええ?」
揶揄うようににんまりした店主から、小さなコーンに乗せられたアイスを受け取ると、男は多めに代金をコイントレーに置いて歩き出した。
大柄な男である。こんもりしたアフロヘアによって身長が嵩増しされていることもあるが、スーツに包まれても分かる鍛え上げた筋肉は、鎧のように男の体をより大きく強靭に見せていた。
肩に掛けているのは白いコート。背中には「正義」の2文字。秋風に靡いているそれは海の達人を司る海軍の中でも、将校クラスにしか許されない選ばれた証である。
男はきびきびと歩きながら道中で一度、シャボン玉と激突しそうになって慌てて避けた。平素なら害はないが、このアイスとぶつかってしまうとちょっとまずい。行き交う虹色の泡をやり過ごした男はそのままマングローブの大地を通って、ベンチに座る小柄な人影に声を掛けた。
ヨルムンガンド宮、と声をかけると小さな頭が振り向く。
膝をついてご所望のアイスを渡そうとしたところで、幼い少女は首を横にふるふると振った。
「跪かなくて大丈夫…アイス、ありがとう。センゴク大将」
「いえ、大変失礼いたしましたヨルムンガンド宮。ご所望のお品はこちらでお間違いありませんか」
うん、と黒髪に縁取られた頭が今度は縦にこっくりと動く。表情の冴えなかった少女の顔が、センゴクの買ってきたアイスを目にして僅かばかり明るくなったことに男はホッとして小さな手にそれを渡した。
本当に小さな、白い手である。桜貝のような爪で飾られた指がきゅっとコーンを握るのを、センゴクはじっと見ていた。
初秋、シャボンディ諸島。午後2時。
秋の晴れた日にはお出かけしたくなるのは人間の性。酷暑が終わり厳寒には未だ届かぬ時期、透明な日差しと涼やかな風に誘われてお買い物に行きたい–––そんな気持ちに駆られるのは一般市民も天竜人も同じ。
それに付き合わされる海軍の悲哀はまあ置いておくとして、本日下界には多くの天竜人が降り立っており、その護衛として駆り出された大将はセンゴクだった。本来多忙な大将は天竜人直属とは言え、手出しなどがされない限り付き添うことは少ないのだが、今回はシャボンディにかなり沢山の天竜人が訪れているとあって、わざわざ出向いていた。
太陽の光は虹色のシャボンに邪魔され、カラースプレーがたっぷり掛かったアイスを舐めている少女の顔に淡い虹を投げかけている。高貴な身分にまったくそぐわない、安っぽいアイスをおいしそうに口に運ぶヨルムンガンドの姿に、センゴクはふと己の養子の小さい頃を思い起こしていた。
(ヨルムンガンド宮は確か今……7才であらせられたか?)
彼が養子を拾ったときと、そう変わらない年頃である。もっとも記憶のなかでべそべそに泣いている少年よりは、多少落ち着いてはいるのだが。
そう、落ち着いている。というか、センゴクが長い海軍務めの中で出会った天竜人のなかで、今日初めて邂逅したこの少女は年の割にもずば抜けて常識的、というか大人しかった。
道端で人を撃ったり奴隷にしたがることもなく、四つん這いの奴隷に乗ることもなければヒューマンショップにも行きたがらず、それどころか「跪かなくていい」とまで言うような天竜人はセンゴクの記憶にある限り初めてだった。その驚きに、ふっと自己嫌悪の念は湧いたけれど。
正義を遂行するために海軍に入り、その期間が長くなればなるほど目を逸らさなければならないものは増えていく。その最たるものが、天竜人たちに纏わるあれこれだ。創造主の末裔である彼らの横暴は、他ならぬ世界政府と海軍によって担保されている。秩序を守るために、秩序を乱す天竜人の行いを見逃し、彼らに逆らうものを悪と見做すことに、海軍は甘んじてきた。
大将に就任したときより、どのような専横をも心の中で噛み殺してきたセンゴクが、目の前の小さな少女のような–––何というか「ごく普通」の女の子のような振る舞いに、違和感を覚えてしまうほど。
「センゴク大将、今何時かしら」
コーンをポリポリ齧っているヨルムンガンドが、ふと真横で立つセンゴクにそう尋ねてきたので、彼は手元の銀時計を見下ろした。地面に届いていない、ころんとしたフォルムの革靴がぷらぷらと宙で揺れている。
「現在午後2時38分です、ヨルムンガンド宮」
「そう…ええっと、お母さまたちがオークション会場に行ったのがいちじかん前だから…」
「何事もなければ、間も無くお戻りでしょう」
センゴクの答えに、ヨルムンガンドは灰白色の目をぱちぱちさせて、それから残っているアイスクリームを、一息に飲み込んだ。
小さな口には厳しかったのか、ちょっぴりむせた少女に男は慌てて水か何かを持ってこようとしたが、ヨルムンガンド自身がそれを制止した。
「だ、げほ、大丈夫…ちょっとむ、むせただけ。うふふ、おいしくてむせちゃったの」
「そうお急ぎにならずともアイスクリームは逃げませんよ、ヨルムンガンド宮。そんなにお気に召したのであれば、もう一つ買って参りましょうか」
言ってから、天竜人に対して説教臭かったかとほぞを噛んだが、少女は特に気にしていなかったようだった。
「ううん、いい。もうお腹いっぱいだもの。でも特にあれが素敵ね。あの、アイスにかかってた色とりどりのちっちゃなチョコの粒……」
「カラースプレーですか?」
「そういう名前なの?可愛いわね…あれお母さまに買っていただこうかしら…ダメかなぁ…」
ヨルムンガンドはうっとりと、それでいて寂しそうな顔で頬に手を当てた。カラースプレーを欲しがるという何とも子どもらしい願いを口にしているのに、シャボン玉に囲まれた白いかんばせはどこか憂鬱そうだった。母親に物をねだって買ってもらえない子供、など世にあり溢れた光景なのに、ひどく少女の口にする言葉には寂寥感が滲み出ていた。
創造主の末裔。
天翔ける竜の名を冠する貴族。
聖地に君臨する、絶対権力者。
憐れむことなど誰にもできないはずの少女が、1人の親であるセンゴクにはどうにも可哀想に思えてしまって、彼はじっとシャボン玉の中で揺らいでいるヨルムンガンドの前髪を、意味もなく眺めていた。
ヨルムンガンド
両親に嫌われてるわけではないけど、軽んじられているロリ。
理由はそれぞれだけど、こいつにはこれくらいしてもいいだろう、まあこの程度許されるだろうという舐められ感がある。
別にいい子ではない。ロプトは切れていい。
パパ
可哀想だし被害者だが、必ずしも善行しかしないわけじゃない。
ママ
娘を可愛いとは思っているが、かなりペット感覚ではある。
センゴクさん
初出。息子がいるので、何となくヨルムンガンドの虐げられてる感を察知してる。まさかこの10年後に胃痛の種になってるとは思いもしていない。