竜血濁らずとも腐るべし   作:メラニンEX

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期間が空いてしまいました。次からやっと、ガープたちが出てきます。


4.花束の手向けどき

 

低く、高く、明確な言葉の形を成していない声の群れが、波打ちながら鼓膜を叩いている。重苦しくどんよりとした、嘆かされているものたちの響きだ。覚醒しかけのぼやけた意識の中、蜂の羽音や轟く海鳴りにも似たその声がわずらわしくて、ヨルムンガンドはベッドの上でううん、と呻きながら布団に頭を突っ込んだ。

 

子供らしい作りの部屋の中は、暗い。それも、まだ夜が明けていない故の暗さではなくて黒く不透明なカーテンが、ぴっちりと隙間なく陽の光を遮っていることによって作り出されていた。その証拠に、木製の壁掛け時計は午前10時20分を差している。ピカピカに磨かれた木目の上、数字の代わりに子供がご飯を食べたり着替えをしている絵が描かれた時計は、ヨルムンガンドの2歳の誕生日プレゼントである。

部屋の中に備えられた家具はどれも、明るい色をした木でできており、部屋の主に合わせてちんまりとしたものだ。それでもサイズに似合わない値段がすることは一目瞭然であり、特に部屋の端に置かれた白木のクローゼットを飾る彫刻と来たら、目眩がするほど緻密だった。

 

絨毯を柔らかく踏む足音。続けて、ノックの音。

「ヨルムンガンドさま、起きていらっしゃいますか?」

ビヴロストに仕える奴隷の声に、ヨルムンガンドはベッドの中で姿勢を変えてもぞもぞと動き、1分半掛けてからむっくり起き上がった。

「………おきてる…おはよう…」

「おはようございます。起きてすぐのことで申し訳ないのですが、お客さまがお越しです。いかがされますか」

「…だれ?」

「ヒルベルト聖であらせられます」

 

てん、てん、てん。

3拍おいてようやく覚醒した頭が、出てきた名前にずん、と重くなった。光の差し込まない寝室の中、目やにの着いたまつ毛をしばたかせたヨルムンガンドは、ゆっくりとお腹の底から息を吐き出して、ベッドからオフホワイトの絨毯に足をつけた。

 

「……会うわ。身支度を整えてからになるから、お待たせすると伝えてくれる?」

「かしこまりました。お伝えして参ります」

 

ヨルムンガンドはのろのろとした足取りで部屋の戸口に向かい、スイッチをひねって電灯をつけた。寝室の暗闇がさっと取り払われて、ペールピンクの壁紙が鮮やかに目に染みる。その子供らしい淡い色合いの部屋の中で、沈んだような黒いカーテンばかりが妙に浮いていて、ヨルムンガンドは寝ぼけまじりの頭でカーテンを開けようと考え、それから思い返して慌てて手を引っ込めた。

 

現在、「神の地」全域は喪に服している最中だ。尊き故人の遺体を特別な炎で天に還すこの期間内、天竜人たちは皆、家のカーテンを黒に変えて閉ざすことを規則として定めている。

–––特に、ビヴロスト・アングレアの死を最も嘆かねばならないヨルムンガンドにとって、哀悼の証であるカーテンを開くことは絶対に避けねばならないことだった。

 

昨日の寝る前に、奴隷が枕元に用意してくれた服も、すべてカーテンと同じ色。黒いドレスシャツ、ビスチェタイプのコルセット、足元まで届く丈のフリルスカート。電灯の光を吸収するように、黒く皺ひとつないそれを静かな目で見つめてから、ヨルムンガンドは顔を洗うために部屋を出ていった。

 

 

 

 

花束の手向けどき

 

 

 

 

 

喪服に着替えて、髪をきちんとポニーテールに結ってもらったヨルムンガンドが応接間に足を運んだのは、起きてから30分もしてからのことだった。

背の低いマホガニーのテーブルには特に頼んだ覚えの無い紅茶のカップが湯気を立てており、その向こう、真紅のソファーには客人が我が物顔で深めに腰掛けている。

ヒルベルト聖、とヨルムンガンドが呼び掛けると中年のその男は、鷹揚に手をひらひらとさせて挨拶した。

 

「おお、起きたのかえヨルムンガンド。大分顔が青白いが、具合はどうだえ?」

「大丈夫…ありがとう」

「うむ、ならばよしだえ…アツ」

 

猫舌なのか、優雅にすすっていた紅茶のカップを離すとヒルベルト、と呼ばれた男はソファーの上でむっちりした足を組んだ。

40代半ばか、それを少し超えた頃だろうか。くすんだ赤毛と、丸っこい頬のラインの組み合わせには奇妙な愛嬌と同時に、隠しきれていない若作り感があった。ヨルムンガンドと同じく喪服に身を包んだヒルベルトは、少女の母アングレアの従兄弟にあたる男性である。ついでに断っておくと、現状ヨルムンガンドと1番血の近い親類でもある。

 

「ヒルベルト聖はどうなさったの。何か式の予定に、変更があったとか…?」

「いや、特に変わったことはないえ。アングレアの体は……この話は止めておいた方がいいえ?」

「平気」

「気丈な子だえ。アングレアの遺体は予定通り、あと2日もあれば終わりだから、その時に2回目の式だえ。その時の手筈も変わらず、台本も用意してあると司祭も言っておったえ」

「そう………」

 

天竜人の葬儀は、下界のものとは少しばかり変わっている。

棺に入れて土葬という方針を取る島も多い中、マリージョアでは特殊な鉱石を燃料にした「竜焔」と呼ばれる薄い水色の火を使い、じっくりと遺体を荼毘に伏すと言うやり方で故人を送っていた。聖なる神の遺体を傷つけるその方針には、何でも煙とともに天へと昇り、駆けていくことを祈願する、という意味が込められているそうである。

そして遺体を火に焚べる前に一度葬儀を行い、遺体が完全に骨になればもう一度最後に皆で見送り、骨の一欠片を壺に収めてそれ以外はマリージョアの最も高い建物から散骨する、というのが一般的なやり方だ。

 

つい6日前に死んだヨルムンガンドの母、アングレアは現在1度めの葬儀を終えて現在遺体を竜炎で焼かれている最中であり、ヒルベルトの言葉が正しければ2日後に納骨、その後に残った骨を散骨、と言う流れとなるわけである。

 

こほん、と気まずげにヒルベルトは咳払いをして、向かい側に腰を下ろしたヨルムンガンドをちらりと見やった。すりすりと忙しなく、左手の親指と人差し指が交差されている。

 

「あー、なんだ。話は変わるがヨルムンガンド。お前が今アングレアを亡くしたばかりで大変なことは分かっとるえ。もちろん。お前の悲しみは胸を張り裂けんばかりなんだろうえ。しかしだえ……お前の奴隷の父親のことは決めておかねばならんだろうえ?」

「…………」

ヒルベルトの言葉に、少女は無言で喪服の上で手を僅かに握る。

ゆらり、と澱んだ色合いの瞳が男を捉え、そこに宿った鈍い光にヒルベルトは気圧された。この幼い少女の大人しさ–––言い換えれば抑圧に対して従順なはずの少女には似つかわしくない、威圧にも近い色合いがそこにはあった。

 

「…目は覚めたんだえ?」

ふるふる、と首が横に振られる。ヒルベルトはため息をついた。

「…いいえ。お医者さまは多分、あんまり長くは持たないしそれまで目が覚める可能性も低いって……」

「それならば……」

口を開きかけたヒルベルトに、ヨルムンガンドは俯いたままきつい声で遮った。

「それならば、何?ヒルベルト聖の言いたいこと、わ、わたし、皆からもう何回も聞いたわ!やめてちょうだい、それでもあの人わたしのパパなのよ…」

 

青白い顔の少女の頑なな言葉に、ヒルベルトはちょっと言い淀んでそれから口を閉ざした。

ヨルムンガンドは床に目を落とした。あれほどヨルムンガンドが怖がっていた母が、呆気なく死を迎えてからというもの、何もかもが7歳の少女を押し流して行こうとするばかりで、誰も少女の困惑や尻込みに理解を示そうとはしてくれない。

周りの大人たちは気遣うふりをしたり、葬儀を進めようとするものしかおらず、ヨルムンガンドはいい加減もう何もかもから逃げ出したい気分になっていた。

 

 

 

 

 

ヒルベルト聖が席を辞した後、ヨルムンガンドはしばらくソファに座り込んだまま動かなかったが、ややあって苛立たしげに床に降りると、地下にある父の部屋に向かった。ドアの無い戸口からは、ヨルムンガンドの部屋と同じくカーテンが引かれているせいで凝った闇しか見ることが叶わなかった。

 

「…………パパ、起きてる?」

 

返事はやはりない。部屋の隅に置かれているベッドに近寄ると、青白いを通り越して暗闇の中でも分かるほど土気色になったロプトが、体に何本ものチューブを刺した状態で横たわっていた。顔にはほとんど傷がなく、首から下が布団に隠されているせいか、そうしているとただ眠っているだけのようにも見えたが、実はそうではないことをヨルムンガンドは既に知っている。

 

部屋の中に響く呼吸の音は、ひどく浅い。

 

本当に、一瞬のことだった。

事件が起こったのは、シャボンディ諸島に両親と共に出かけていた途中、人間屋の階段の半ばだった。ヨルムンガンドはいつも通り、奴隷を買わないので近くのベンチで海兵と待とうと、両親と他の天竜人たちの後ろ姿を見送った、その後。

–––ふっと、柔らかで、滑らかな動作でロプトがふらりと立ち上がった。高級志向なのか長めに作られた石階段の半ば、母を背に乗せたことも忘れたかのように、躊躇うことのない仕草だったことを、ヨルムンガンドはよく覚えている。

 

ヨルムンガンドはその光景を、居並ぶ海兵の隙間から眺めており、なぜかその瞬間においてはするりと疑問もなくその動作を受け入れていた。明らかな違和感に気づいたのは次の瞬間、ロプトが振り落としたアングレアがだん、だだん、ごん、と何度も頭をぶつけながら弾みをつけて階段を転がり落ち、「こ、この奴隷を早く––––––!」と誰かが喚く声と共に銃声が鳴り響いてからだった。ぴしゃ、と父の胴体から噴き出した血が階段を汚して伝っていくのを、ヨルムンガンドは呆然と眺めていた。

 

合計、7発。

父の胴体に撃ち込まれた弾丸は、数だけでも即死に等しいものだった。何とか救命措置が間に合って命は取り留めたものの、ロプトが既に老境に差し掛かった年齢で、免疫機能が低下していることが災いし、未だ肉体は回復の兆しを見せてはいなかった。

 

(これから、どうしよう…………)

傷を負っていないロプトの太ももに、ヨルムンガンドはそうっと頭を載せた。少女よりもずっと体温の低い肌は、布団越しということも相まってごくゆったりとした脈拍を伝えてくる。

 

 

それならば、とヒルベルト聖は言いかけた。

多分彼が続けたかったのは、「早めに殺しておくべきではないか」とか、「延命措置を止めてもよいのではないか」とかそう言う類の言葉だろう。

 

今、ベッドの上の死の淵で眠っているロプトは、奴隷であるという事実に加えて天竜人を殺害した、という修飾語がつく男として扱われている。現状母が亡くなり、自動的に父の『所有権』を受け継いだヨルムンガンドがそれらを断っているからそこまで強くは言われないが、天竜人は元々同族に甘い傾向がある。その中でも純血のアングレアを殺した父は、植物状態だとしても生きることを良く思われないだろうことは、幼い少女にも理解できることだった。

母の散骨をする前に、殉死させておけばよいのにと他の親族たちにも言われて、ヨルムンガンドは内心でどろりと行き場のない感情が渦巻くのを自覚していた。

 

(…………わざとじゃない、よね)

 

何か踏んだとか、母がお腹を蹴ったところが悪かったとか、あと老眼で見えてなかっただとか。それに少し前まで父は病に臥せっていたから、その影響で意識がぼうっとしただとか………突然の凶行の言い訳のしようはいくらでもあるけれど、それらに納得できるかはヨルムンガンド自身怪しい。

あの時––––母を背から落としてなお、階段の上でぼうっと突っ立っていたロプトの後ろ姿は異様な静けさに彩られていた。思い返して、ゾッとしてしまうほど。

 

やめよう、と頭を振り払ってヨルムンガンドは父の体の上で頭を反対側に向けた。つん、と消毒液と血の混じった中に、優しい父の匂いが鼻をくすぐる。

 

いつか母が死んだら––––とまでは言わないが、似たような想像をしたことはある。明日から病気になってずうっとベッドで寝ていたらな、とか長い旅行に出掛けてくれないかな、とかマリージョアのどこかか下界に別荘を作って住まないかな、とかそういうの。

偶然にもまだ7歳のヨルムンガンドの拙い『いつか』は、今まさに叶えられているに等しかったが、そこに本来付随してくれるはずの解放感や父との穏やかな時間というものは存在していない。

 

今のヨルムンガンドの目の前にあるのは、死の淵にある父と、静かな家と、支配者の不在と、長々とした葬儀だけ。それらは、ヨルムンガンドに何も語りかけてはくれない。

それから一体どれくらい、ロプトの体を枕にしていたのだろう。ここ数日、長時間の葬儀もあって緊張していた少女はいつの間にかうつらうつらと眠ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、つむじに視線を感じた。

体はまだ覚醒しておらず、視界のほとんどは曖昧に輪郭の溶けた何かしか見えず、すべての感覚はレースカーテンを何層も隔てたように、ぬるいミルクの海を泳いでいるように、倦怠と眠気の中にある。視線の先を辿ろうにも鈍い体をひねるのが億劫で、ヨルムンガンドは父の太腿に頬をぺったりくっつけたまま、不透明な世界をぼんやり見ていた。

息を吸うと、不自然な姿勢で寝ていたせいで凝り固まった首と肩が僅かに軋んだ気もしたが、すぐに深い眠気の波に攫われては消えていく。

 

そうして次に、頭のてっぺんを幽かに指ですり、となぞるような感覚がしたので、ヨルムンガンドは濃くもやがかった頭で「これは夢だな」と結論づけた。屋敷に侵入者など入りようもないし、ロプトは死にかけの上に記憶にある限りヨルムンガンドの頭を撫でてくれたことはない。あり得ないことが起きているのなら、それは多分夢だ。そうと分かると、なんだかちょっと面白いような気がして、少女はのろのろと頭を逆側に向けた。

 

夢の中で、父の部屋はカーテンの隙間の、針より細いオレンジの光のみが差し込んでいる。暗い部屋を2つに分かつ、極彩色の橙の糸。

その中でどうしてか、ヨルムンガンドは父の目が開いている、とそう思った。現実とよく似た部屋の中、父の顔は闇に沈んでいるのに、何故かそれははっきりとした確信として少女の中に存在した。

 

(…………パパ?)

声を出さずに、唇だけ動かすようにして訪ねると、もう一度頭に置かれた指が、軽くヨルムンガンドの頭を撫ぜた。

目が覚めたのか。夢の中でも、とろけた頭の中の幻想でも、それは嬉しいことだった。

 

(………起きたの?よかった、心配したのよ…)

(…………)

 

返事はない。こひゅ、ひゅ、と掠れた空気の鳴る音が何度かしたので、喋ろうとはしているけれど声が出ないということだろうか。ヨルムンガンドはぼさぼさの髪の隙間からその音を聞いて、ぼやけた夢の中、特に躊躇うことなくそれでいてゆっくりと横にずれて、ロプトの首元に手を伸ばした。湿っていて温度の低い、弾力性に欠けた肌。もう少しで温度さえ失われることが確実なその上を、ヨルムンガンドの手がなぞると僅かに父が震えた。

 

かちり。夢の中にいるせいか、もつれて言うことを聞かない指先でたっぷりと時間をかけて、ロプトに嵌められた首輪が外れた。小さなヨルムンガンドの手が触れると、呆気なくシーツの上に墜落したそれには、薄い汗と血の滲んだ痕跡がある。

 

(パパ、これでおしゃべりできる?)

(…………)

 

やはり返事はない。見上げると、白髪混じりの黒髪の中で、明るい薄茶が開いているのをぼやけた視界でヨルムンガンドは知ったので、父の美しい亜麻色の眼を見つめた。

 

ヨルムンガンドと作りのよく似た顔の中で、唯一受け継がなかった瞳の色。古く色褪せた書物のページのような、年月が積もって風合いを増した木製の扉のような、重みのある透明な、きれいな目。ヨルムンガンドがそれを受け継がなかったことを母が嘆いたくらいに美しい、聡明なその眼差しには、少女が今まで見たことのない感情が浮かんでいた。

 

父はいつも、困っている。困っているのに穏やかに笑っていて、亜麻色の目は少し弓なりに細まっていた。ヨルムンガンドにとってむしろ、微笑んでいないロプトを想像するのが難しいほど彼は笑みを絶やさない人間であったのだけど–––––顔は土気色のまま、ベッドに横たわってヨルムンガンドを見返す今の父の顔にはひとつの笑みもなかった。

 

(…………パパ?)

(大丈夫よ…お母さまはいないから、パパの首輪を外してもおこるひとは……ふわ……いないの…)

 

夢の中、それがどうにも未知の表情だったもので、ヨルムンガンドは思いつくまま、寝ぼけたまま、特に深く考えることもせず少女はそう口にした。

その言葉に、すこん、と憑き物の落ちたような、純度の高い、混じり気のない驚きがベッドに臥すロプトの顔にはまず浮かび上がって、それから彼はほんの少しだけ、何か痛ましく、それでいてまばゆいものを見つめるように目を細めた。

 

ロプトの珍しい表情に、改めてヨルムンガンドは父はこういう顔もする人だったのだな、と今更ながらに思った。

穏やかで、優しくて、博識で、大好きで、海洋生物を愛していて––––いつも虐げられているひと。ヨルムンガンドが知っていることなど、突き詰めればその程度に収まってしまう、隠し事の多いパパ。

でも、驚いたりするんだな。こんな風に、何とも言えない顔をしてヨルムンガンドを見たりもするんだ。びっくりしたけど、ちょっと嬉しいような、不思議な感慨がヨルムンガンドの眠気に負けそうな頭の中をじんわり満たした。

 

ふと、珍しいものを見たついでに尋ねてみようと思って、思考能力がだんだん失われていく夢の中、ヨルムンガンドはあくび混じりに父の頬に触れた。

 

(…………ふわあ……あろね、パパ…。わらしの名前、パパがつけたんれしょ…)

突然の問いかけに、欠伸で潤んだ視界の向こう、ロプトが微かに頷くのが見えた。閉じた部屋の中、カーテンの隙間から差し込むオレンジの線が父の首元に落ちている。ちょうど、首を切りとる目印のようにも見えた。

(……なんれヨルムンガンドにしたの?この前シャルリアに言われたわ、女の子らしくない名前だって……せかいへびの別名なんてヘンらっれ……ぐう……)

 

ヨルムンガンドは世界蛇の、もう廃れた学術名である。遠い昔にそう教えてくれたのも、やはり父だった。ヨルムンガンド。海色の大蛇。雄大な水の中を泳ぐ、途方もない巨体を持つうつくしい生き物の名前。女の子につけるにはちょっぴりゴツいし、名前を書くとき長くてたいへんだけど、父が少女にくれた、たったひとつのプレゼントだ。

でもなぜ、この名前にしたのかは彼はずっと教えてくれないままだった。そうして、そのまま今にも逝こうとしている。

 

(…………ぃ、ウ、あい、………たか)

ひゅ、ひゅ、と笛のような呼気でかき消されながら、彼の口からは何か音がこぼれ出していた。なつかしい、聞き慣れた穏やかで低いものとは違って、掠れて途切れ途切れものではあったが、間違いなくロプトの声だ。

(…んえ?………パパ何か言った?)

聞き取れなかったので、ヨルムンガンドはずりずりと太ももから腹の方に頭を移動して何とかロプトの言葉を理解しようと耳を澄ませた。

夢の中だというのに、耳に伝わる鼓動の遅さも、じっとり冷えているのに汗が滲みでる感触もやけに生々しい。

(………おぃ、き、ぃら、いでし、あか)

もう一度、今度はもう少しはっきり発音しようという試みがあった。

おきいらいでしあか。おきらいでしたか。お嫌い、でしたか。

何が?たぶん、ヨルムンガンドの名前が。父はそう尋ねている。

 

 

(………ううん…ちょっと長いけど、パパがくれら名前らし…すきよ。わたし、この名前のころ…)

(…………そ、おぅです、か………なまえ、は、ね)

 

うん、そう。そうだよ、パパ。

呟いたはずの言葉は、押し寄せてきた頭痛がするほどの眠気に負けて、音にはならないまま、ヨルムンガンドの意識はざあ、と遠ざかっていく。とろりとした洛陽が差し込む、暗い部屋。日焼けした書物と、薬剤と、消えゆく命と薄い血の匂いがする、父の住む狭い世界のすべてから。夢にしてはやけに見慣れた景色が、すべての輪郭を無くして溶け落ちていった。

また頭のてっぺんを、乾いた指が撫ぜた。さっきとは違って、指がかすかに震えるような、動作ともいえない小さなものだったけれど、少女は確かに撫でてもらった、と信じ切っていた。

 

 

 

 

 

 

固まっていた体がずり落ちる感覚があって、その拍子に床に尻餅をついたヨルムンガンドは目を覚ました。

ごしごしと目を擦って目に入るものは、父の様子を見にきたときと変わらない、静寂に満ちた部屋である。床から立ち上がって、枕にしていた父の体にこぼしていたヨダレの跡をちょいちょいと拭ってやると、それからヨルムンガンドはううんと伸びをした。随分長く眠っていたらしく凝り固まった首筋からは鈍い音が鳴る。

 

カーテンの隙間からは濃い橙色を通り過ぎて、藍色の混ざり始めた細いひかりが部屋を一筋、飾っている。カーテンを開けようとして慌てて止める、という学習しない一連の流れをもう一回やったヨルムンガンドはふと、違和感に気づいた。

 

ロプトの眠るベッドの脇、忘れ去られたようにひっそりと備えられた、背の低いチェスト。ニスのはげたそれの、上から2段目の引き出しが僅かに開いている。普段父が開けるどころか、触っている記憶すらないチェストのその暗闇がどうしてか気になってしまって、ヨルムンガンドはとことこにそれに近寄った。

 

(部屋に来た時には、開いてなかった………よね?)

 

ヨルムンガンドが寝ぼけて開けたのか、父の手が当たったのか。動きの固い取手を掴んで引っ張り出すと、がこん、と音が鳴った。

中に揃えて置かれていたのは、2つの白い封筒だった。何か白い紙を折り曲げて、糊で形を整えたのだろうか。明らかに既製品ではない、やや歪な封筒の表面にはそれぞれ短い文章が添えられていた。父の筆跡だ。

 

ひとつめ。ヨルムンガンドから見て左側の封筒。

『もし海円暦〇〇〇〇年◆月以前に私が死去していた場合』

ふたつめ。ヨルムンガンドから見て右側の封筒。

『もし海円暦〇〇〇〇年◆月以降に私が死去していた場合』 

 

「………え?」

何故か足元に落ちていたペンを拾い上げながら、ヨルムンガンドの口からはそんな間抜けな声が溢れた。ロプトの愛用していた、飴色の万年筆は落ちた拍子にどこかが壊れたのか、ヨルムンガンドの手をとめどなく黒いインクで汚した。ぽたぽたと、まるで血を吐くように。

ヨルムンガンドは振り返って、ベッドに眠る父の顔を見た。布団に覆われた胸は既に動くのをやめており、薄闇に沈む老年の男の顔はひどく安らかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『–––––以上、貴方の提唱した血統因子の抽出及び操作のやり方は興味深いものでした。海王類のみが発症する血統病の治療として役立つ可能性は高いでしょう。有意義なご意見をどうもありがとう、治療データは次のフィールドワークが終わって研究所に立ち寄る際、持参します。

                   U.ロプト

追伸

またクラウンが私の荷物から海王類の細胞サンプルを勝手に持ち出しました。ドクター、申し訳ありませんが弁償と警告のほどよろしくお願いします』

 

–––北の海、とある古びた建物に置かれたままの便箋より抜粋。





ヨルムンガンド
いきなり天涯孤独になった7歳。

ロプト
死んだ。名前の由来はロキの別名。『ヨルムンガンド』の父なので。

アングレア
死んだ。名前の由来はアングルボザから。『ヨルムンガンド』の母なので。
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