私―――大江杏里の特徴は何かと問われたら、私の友達とか先生とかは大体私のIQが200を超えていることに触れる。
でもそのことは、私自身にとってはあまり意味がなかったりする。
謙遜しているわけでも、逆に鼻に掛けているわけでもない。
私は五年ほど前から、大きな問題を抱えていた。
そして私はその問題を、17歳になった今になっても解決できないままでいる。
友達が私のIQを話題にするとき、私はこう思ってしまう。
「IQ200なんておだてられても、解きたい問題一つ解くことも出来ない…。」
だから私のIQが高いということは、むしろ私を苛んでいた。
IQが高いと言うと、10歳になる前にどこか外国の大学を卒業…とか、10代でどこかの研究所に所属して研究を…と言う話をよく聞く。
でも私は日本から出るどころか、修学旅行以外で地元地域から出たこともない。
学校も、地元の公立高校に通っている。
「才能があるのに、勿体ない」と言う人もいるけれど、私はどうしても地元を離れたくなかった。
地元を離れたくなかった…と言うのは表向きの理由で、本当は幼馴染みのヨウ君と…鮎川陽太君と離れたくなかったから。
…そして、このヨウ君の存在が、17歳になった今になっても解決できない私の問題だった。
ヨウ君を私のものにするには、どうすれば良いのか。
私がヨウ君のものになるには、どうすれば良いのか。
私とヨウ君が結ばれるには、どうすれば良いのか。
私はこの問題に直面し続けて解決の糸口すら掴めないまま、17歳になってしまった。
ヨウ君…鮎川陽太君は私の幼馴染みだ。
家も隣同士だったし、幼稚園、小学校、中学校もずっと一緒だった。
小学校低学年の頃から、なんとなく自分はヨウ君と一緒になるのだろうとは思っていた。
そして12歳の時…気がつけば、私はヨウ君を想って自慰を…。
以来、自分はこのままヨウ君と一緒になるのだという予想は、ヨウ君と一緒になりたい、ヨウ君を私のものにしたい、私をヨウ君のものにしてほしいという欲望になり、未解決の問題になった。
今通っている高校に進学したのも、ヨウ君を追いかけてのことだった。
「アンリちゃんはもっと上を目指すのかと思ってたけどな。」
ヨウ君と同じ高校を受験すると言った時、ヨウ君からはこう言われた。
「私はここが好きだし、何て言うか、上を目指すだけが人生じゃないでしょ?」
「僕と離れたくないからって言ってくれたら嬉しかったんだけどな。」
…私はこの時、どうして本音ではなく建前を言ってしまったのか。
IQ200なんて、やっぱりお飾りにすぎなかったのか。
「僕と離れたくないからって言ってくれたら嬉しかったんだけどな。」
…ヨウ君はこう言ってくれたのに。
結局高校一年目の間私とヨウ君の関係に、これといった進展はなかった。
この一年、ヨウ君は変わらず優しくて…生真面目だった。
客観的に見れば、私とヨウ君の距離は適切な距離だったと思う。
…そう、あくまでも
二年生になってから、自慰の頻度が上がったと自覚できた。
ヨウ君が維持してくれている
私は今すぐにでも、ヨウ君を受け容れたい。
でもヨウ君は、私と
それとなく探りを入れてみて、ヨウ君がそう考えている…考えてくれていることはわかった。
考えてくれていることは嬉しかった。
けど、まだ先のことと言っても、それはいつのことなのか。
傍目にはともかく、私はもう限界に近づいていた。
…そんな時…須藤裕君が転校してきた。
私も須藤君を一目見て、彼が美男子だということは認めた。
彼が高い知性を持ち、社交的で、何と言うか女子を惹きつける魅力を持っていることも次第にわかってきた。
…そして須藤君は、私にも近づいてきた。
「人と人との距離感って、簡単なようでやっぱり難しいよね。」
須藤君は私に向かってこう言った。
私の理性に、感情に、ノイズが入った。
距離感…そう…ヨウ君と私の距離感…。
「…その人を大切にしたいと思って、その人との距離に気を遣ったつもりでも、その人はその距離を遠いと感じてしまう。」
「そして、遠ざけられていると感じて、傷ついてしまう…。大切に思っていたはずなのに、それでその人との距離には気を遣っていたはずなのに、そのことでその人を傷つけてしまう…。」
「もう一度チャンスが欲しい、やり直させてほしいと思っても…。」
「ごめん、話が重たくなっちゃったね。…それで、入江さんって、どんなドラマが好きかな?それとも特撮とか、アニメの方が…。」
それから須藤君と何か話をするときはいつも、距離感という単語が一度は出てきた。
会話を重ねるうちに、私の方から距離感という単語を出すようにもなった。
私は…ヨウ君との距離感に悩んでる…遠すぎると感じている…。
…須藤君も、距離感のことで失敗して、後悔してる…それで、須藤君自身も傷ついている…。
須藤君は後悔してる、やり直したいと思ってる。でもそんなこと出来なくて、苦しんでいる…。
私は須藤君を受け容れた。
ヨウ君ではなく、須藤君を。
須藤君を受け容れたときの悦びは、自慰のそれとは比べものにならなかった。
私は…須藤君の虜になった、虜になってしまった。
「…いいのかい、僕とこんなことになってしまって…。」
「いいの。私も、苦しかったから。」
「苦しかった?」
「好きな人と『距離』があるのは、私も辛かったから。」
「…ごめん、それと…ありがとう。」
「えっ。」
「僕を、慰めてくれたんだね。」
「………。」
「でも、君がこうして僕を慰めてくれたのに、僕の方からは何を返せば良いのかわからない…。」
「…こうして、抱いてくれたら…慰めてくれたら…。」
「…それで、いいのかい…僕と、一緒になってくれるのかい…。」
…私は、頷いた。
そして私は須藤君との情事に溺れるようになった。
須藤君と体を重ねる度に、私の心は須藤君の色に染まっていった。
私はヨウ君ではなく、須藤君と共に行くのだと思うようになった。
…後戻りは出来ないと感じた。
ヨウ君は…私との
こうして距離を保ち続けている所為で、私は苦しんでいるのに。
私はヨウ君に、怒りを感じるようになった。
…怒りを感じているのは、私の方…そのはずだったけれど、私はヨウ君の前に立つと、決まってヨウ君から目を逸らすようになった。
わかっていた。
目の前に居るヨウ君から目を逸らしても、どこに視線を向けても、目を閉じたとしても、現実から目を逸らすことは出来ないということは。
夏休みの頃、Umb.(ユーエムビー)社から、あるプロジェクトに参加してほしいという申出があった。
プロジェクトの内容は…植物の生育環境を人工的に制御するための研究、ということしか言えない。
去年ある科学雑誌に投稿した私の論文が、Umb.社の目に留まったということだった。
私は申出を受けることにした。
申出を受けることで、プロジェクトに没頭することで、私は目を逸らせない現実から、どうにかして目を逸らそうとしていたのだ。
プロジェクトはA山山中にあるUmb.社の地下研究所で展開されることになった。
研究所の入り口は…墳墓の入り口を思わせた。
一度この門をくぐれば、暫く須藤君とセックスは出来なくなる。
一度この門をくぐれば、暫くヨウ君とも会えなくなる…。
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.
私は、何か罰を受けるような心持ちで研究所の入り口をくぐった。
***********************
「はあ…そうですか…。」
コンクリート壁に囲まれた殺風景な部屋。
臙脂色のジャケットを着た髪の長い女性が、スマートフォン使って外部と連絡を取っていた。
頭の左側につけた艦橋のような髪飾りが特徴的な、清楚な印象の女性だった。
女性と言ったけれど、彼女は人間ではなかった。
彼女は艦娘で、戦艦の…確か扶桑、だった。
この扶桑さんは海神警備という警備会社から派遣された、この研究所の警備担当者の一人だった。
「よくわかりませんが…わかりました。大江さんには、私からお伝えします。」
扶桑さんはそう言って通話を終えた。
そして私の方に向き直って、こう言った。
「研究所入り口のシステムに深刻な障害が発生しているそうです。」
「えっ…それって…私たち、ここに閉じ込められたということですか?」
「はい。」
扶桑さんは平然と肯定した。
…私が研究所の入り口をくぐった瞬間、地面が大きく揺れた。
そして入り口の扉が閉まり、開かなくなってしまったのだ。
どうやら地震が発生したらしい。
入り口の所で戸惑っていたところに、扶桑さんが駆けつけてくれた。
扶桑さんはとりあえず私を警備室に案内して、外部と連絡を取り、状況確認を試みた。
…そして、私たちが研究所に閉じ込められたということを確認した。
地下に閉じ込められた。…息が詰まりそうになった。
…私は扶桑さんに尋ねた。
「…でも、もう出られないってわけじゃ、ないんですよ、ね…?」
「はい、現在復旧作業に取りかかっているそうです。ただ、私にはよくわからないのですけれど、深刻な障害というのが本当に深刻らしくて…明日の朝まで、私たちはここに閉じ込められたままになるそうです。」
…明日の朝には出られると言われても、息が詰まりそうな感覚は消えなかった。
このとき、どういうわけか―――本当にどういうわけなのか、研究所にいたのは私と扶桑さんだけだったのだ。
居ても立ってもいられなくなった私は、扶桑さんと一緒に研究所を一回りした。
何とか脱出する方法はないかと考えてのことだったのだけど…結局朝になるまで待つしかないということが確かめられただけだった。
そして私と扶桑さんは再びコンクリート壁に囲まれた警備室に戻ってきた。
状況に文句を言っても仕方がないとはわかってはいたけれど、私は愚痴をこぼさずにはいられなかった。
「やっぱり、明日の朝まで待つしかないみたい…それにしても…こういう施設で、人が二人しか居ない時間ができるなんて…そしてその時間にシステムに障害が生じるほどの地震が起きてしまうなんて。」
「こんなことが起こる確率って、どのくらいなのかしら。」
私たちは閉じ込められました、と平然と言い放った扶桑さんだったけど、確率という単語を聞くと、扶桑さんは少し動揺した風を見せた。
「あ…で、でも、障害が生じているのは出入り口のシステムだけで、電気も通っていますし、水だって使えます。食料も百人前で二週間分も備蓄されていますし、そもそも外部とも連絡は取れるのですから、そう悲観することも無いと思います。」
「研究施設で二人だけ閉じ込められるというのは確かに不運ではあります。それでも待っていれば大丈夫だということ、生存には特に支障がないという状態は幸運、そう、ご都合主義的とも見える幸運だとも言えますよ。」
私も扶桑という艦娘には一定のイメージを持っていたけど、不運や幸運について饒舌に語るこの扶桑さんは、何だかイメージと大分違って見えた。
…待っていれば助かることは理解できていたけれど、閉じ込められているという状況は私を息苦しくさせた。
待っていれば助かると饒舌に強調した扶桑さんも、その後全く喋らなくなった。
この扶桑さんは、話す必要がなければいつまでも黙っていられる
静寂に耐えられなくて、私は扶桑さんに話しかけた。
「あの…何か、話しませんか。黙っていると、息が詰まりそうなんです。」
「はあ…ですが、私はあまり話題が豊富な方ではなくて…お話と言われましても…。」
…それで、私の方から話を始めることにした。
息苦しい、息が詰まりそうという感覚に駆り立てられたのか、私は…自分の「罪」を、扶桑さんに告白し始めていた。
ヨウ君と一緒になりたい、ヨウ君を私のものにしたい、私をヨウ君のものにしてほしいと想い続けていたこと。
転校してきた須藤君に惹かれて、彼に身体を許したこと。
それから何度も須藤君と身体を重ねてきたこと。
そして…私は、ヨウ君とではなく須藤君と一緒になるのかもしれないと思い始めていること…。
軽蔑されるかもしれない、非難されるかもしれない。
それでも私は、扶桑さんに自分の罪を告白していた。
…そして、私は実際に非難されることになった。
扶桑さんの語り口は、どこまでも柔らかく穏やかだったけれど。
ヨウ君への裏切りや不実を単純に責められるよりもずっと厳しい糾弾を受けたと、私はそう感じた。
扶桑さんの糾弾は、私への質問から始まった。
「それで、大江さんはヨウ君と…鮎川さんとは肌を合わせなかったのですか?」
「そんなこと!できません!できるわけないじゃないですか!」
「どうしてですか?」
「だって、私は須藤君と…こうなってしまったら、私にはもう須藤君しか…!」
「セックスという営みは、愛するただ一人の相手とだけするべきことである。大江さんは、そうお考えなのですね?」
「でも、身体を重ねるっていうことは、そういうことでしょう?だったら、私はもう…!」
扶桑さんはいつの間にか用意していたコーヒーを口にして、話を続けた。
(コーヒーは私の前にも置かれていた。扶桑さんが、本当にいつの間にか用意してくれていたらしい。)
「私には山城という伴侶が居ます。」
山城…というのは、確か扶桑の姉妹艦だったと思う。
そう言えば、艦娘は艦娘同士で子を生すこともできるし、艦娘同士で…姉妹艦同士ででも
「山城は私と違ってとても情熱的で…それこそ二人きりになったときはいつも私を求めてくれます。」
「あの子の…山城の肉体に私の精と情欲を受け容れてもらえる感覚も、私の肉体が山城の精と情欲を受け容れる感覚も、本当に素晴らしい感覚です。」
「この感覚はまさに、血肉を備えたものでいられる喜び、生物で居られる幸せそのものだと言って良いと思います。」
「この感覚を交換し合うことで、私と山城は絆・繋がりを深め、強めてきました。」
「繰り返しになりますが、この感覚は本当に素晴らしい感覚です。」
「ですから、限られた相手とだけではなく、もっと色々な相手とこの感覚を分かち合って、色々な相手と良い繋がりを築きたいと望むことも、それほど不自然なことではないと思います。」
「そ…それって…二股を掛けたり、浮気したり不倫したりすることを肯定するってことですか?」
「まあそういうことになるでしょうか。」
「そ、そんなことが許されると思うんですか?」
「殆どの場所では許されることはないでしょうが、許される場所はあっても良いと思いますよ。」
「うちの武蔵さんには大和さんという伴侶が居るのですが。」
「武蔵さんは大和さん以外にも、少なくとも四人の人間や艦娘と日常的に肉体関係を持っています。」
「五…五股?」
「信じられません!その…大和さんはそれで納得しているんですか?何も言わないんですか?」
「うちには『Faites l'amour pas la guerre.』という…掟みたいなものがあります。」
「『戦争を止めて、恋をしよう』という意味だそうですが…うちでは『揉めるぐらいならセックスをしよう』という風に解釈されています。」
「だから大和さんは他の人間や艦娘とセックスした武蔵さんを、
「こうしてセックスで責め立て、責め立てられることを通して、大和さんと武蔵さんの絆・繋がりは深く、強くなっていきました。」
「武蔵さんは所謂『誰とでも寝る
「武蔵さんと大和さんが特に強く結ばれているということは、誰もが認めるところです。」
「セックスという営みは、艦娘と艦娘、艦娘と人間、そして何より人間と人間を結びつける営みなのです。」
「武蔵さんと大和さんの繋がりを見ていると、私にはそう思えます。」
扶桑さんはまたコーヒーを一口して、話を続けた。
扶桑さんの話は…私が目を逸らしたかった現実に、私の目を引き戻した。
「セックスという営みは、愛するただ一人の相手とだけするべきことである。大江さんは、そうお考えなのでしたね?」
「ですが、大江さんのお話を伺っていると、どうもそのお考えには無理が生じているように見受けられます。」
…やめて…わかっているんです…それは、わかってるんです…。
「ヨウ君と…鮎川さんとは、幼稚園の時からずっと一緒で、12歳頃からハッキリと性的に意識するようになってきた…愛していると自覚するようになった。」
「対して須藤さんとは、大江さんが高校二年生に上がってから知り合いました。」
「そして大江さんが実際に肉体関係を持ったのは、鮎川さんではなくて須藤さんでした。」
「どうして明らかに愛しているはずの鮎川さんとではなく、知り合って間もない須藤さんと肉体関係を持つことになったのでしょうか?」
「それは…。」
答えられない。
扶桑さんはさらに続けて、私を追い込み始めた。
「勿論、大江さんが転校してきた須藤さんに『一目惚れ』して、須藤さんを『愛する』ようになったのだと考えられなくもありませんが。」
「でも大江さんは須藤さんと知り合う以前から鮎川さんを愛し、性的に意識してきたのでしょう?」
「なら何故、大江さんの初めての相手は鮎川さんではなく、須藤さんだったのですか?」
「それは…ヨウ君が、私たちがそうなるのはまだ早いって、思ってたから…。」
「鮎川さんが消極的だからと言って、大江さんも消極的でなければならない理由がありますか?」
「大江さんは、それこそ熱烈に、鮎川さんと身も心も結ばれることを願っていたのではありませんか?」
それも…わかってるんです…わかっていたんです…けど…。
「あるいは、大江さんは須藤さんと肉体関係を持ったことによって、須藤さんを愛するようになり、須藤さんを『愛するただ一人の相手』と定められたのかもしれませんが。」
「これは『愛するただ一人の相手とセックスする』ということと『セックスした相手を愛するただ一人の相手とする』ことを混同しているように見えます。」
「何と言うのか…的に矢を当てて『当たった』と言うのではなくて、矢が当たった所を的だと言い張っているような…そんな感じがするのです。」
…………。
「大江さんは『セックスという営みは、愛するただ一人の相手とだけするべきことである』とお考えということでしたが。」
「大変失礼ながら、私からはどう見ても、大江さんがこの考えの通りに振る舞えているようには思えないのです。」
それ以上は…それ以上は…。
「それに…。」
ああ…。
「須藤さんと身体を重ねたことで、大江さんは鮎川さんとではなく須藤さんと一緒になる。」
「それは鮎川さんは切り捨てられるということなのでしょうか。」
「今年になって現れた須藤さんの下に走る大江さんは、幼稚園の時からずっと一緒だった鮎川さんにはどう見えるのでしょうか。」
やめてください。
わかってるんです、私が不実でふしだらな裏切者だということは。
絶対に裏切ってはならない人を、裏切っているんだということは。
「私は、伴侶以外の相手と身体を重ねること自体が悪いことだとは思いませんが。」
「須藤さんと肉体関係を持ったから鮎川さんはもう要らない、という振る舞いには、どうにも共感できません。」
「セックスは、人と人を結ぶ営みです。ですがそれは人を人に縛り付ける営みとは違いますし、ましてや、人と人を切り離す営みなどでは断じてありません。」
「大江さんは須藤さんと身体を重ねたことで、須藤さんに大江さん自身を縛り付けて、鮎川さんとの繋がりを断ち切ろうとしているように見えます。」
「私から見ると、どうにも嫌な感じがします。」
「須藤さんに対して操を立てようとしてのことなら。須藤さんに対して貞淑であろうとしてのことなら。」
「大江さんを須藤さんに縛り付け、大江さんと鮎川さんの絆を断ち切る『貞淑』は、本当に美徳と言えるのでしょうか。」
…息が詰まる。
息が詰まりそうだと言って、扶桑さんと話をし始めたはずなのに。
扶桑さんと話を始める前よりも、息が詰まりそうな感じがした。
私はヨウ君を裏切って、須藤君と身体を合わせた。
私はふしだらな裏切者だ。
それはわかっていた。
自分がふしだらな裏切者であるという現実から目を逸らそうとしていたのに。
扶桑さんはその現実に私の目を引き戻した。
伴侶以外の相手と身体を重ねることが悪いことではないとしても。
須藤君と身体を重ねて、須藤君のものになろうとする私は。
須藤君と身体を重ねて、ヨウ君への想いを断ち切ろうとしている私は。
どこからどう見ても、不実な裏切者なのだ。
扶桑さんの言葉は、さらにそんな現実を私に見せつけた。
どんな立場に立っても、どんな物の見方をしても。
私は不実でふしだらな裏切者だ。
…千々に乱れた私の心は、そんな結論にたどり着いた。
こんな私を擁護してくれる人は、庇ってくれる人はどこにも存在しない。
いるとすれば、その人は…その人は…。
「ところで。」
扶桑さんの言葉が、迷走する私の思考を止めた。
「鮎川さんとの距離感に悩む大江さんに、須藤さんが距離感の話をしたことは、
私は…裏切ってはいけない人を裏切ったのだ。
私は…信じるに値しない人を信じようとしたのだ。
扶桑さんのこの質問は…私の心を打ち砕いてしまった。
私は暫く沈黙した。
本当に窒息死してしまったかのように。
…なんとか息を吹き返してから、私は扶桑さんに問うた。
「それじゃあ…私はどうすれば、良いんですか…。」
「…どうすれば、と言われましても…。」
「信じるに値しない人を信じて、裏切ってはいけない人を裏切った私は…どうすれば…。」
「…よくわかりませんが、ご自分でそう思われているのでしたら、するべきことは最初から決まっているのではありませんか?」
「でも!」
「確かに九回裏ツーアウトで、確率から行けば勝ち目はない。でも、そんなもの『クソ食らえ』でしょう?」
「!?」
「確率がどうであろうと、打者が打席に立てばすることは一つです。」
「結果がどう出ようと、するべきことが決まっていれば…することは一つではありませんか?」
「…………。」
「Faites l'amour pas la guerre.」
「差し出口を挟んでしまいますが、如何でしょうか?この言葉を試してみる、というのは。」
「『扶桑』から『賭け』を勧められるというのは、あまり良い気分ではないかもしれませんが…。」
***********************
朝が、来た。
システムは復旧し、研究所の出入り口は開いた。
ほぼ丸一日ぶりに、私は陽光の下に出た。
出入り口の前には、Umb.社の人が集まっていた。
その人たちの間から一人、私に駆け寄ってくる人が居た。
…その人は、私を力強く抱きしめた。
「…よかった!…アンリちゃん、本当に…!」
「…ヨウ…君…。」
私を力強く抱きしめたその人は、他ならぬヨウ君だった。
集まっていた人の中には私の両親と、ヨウ君の両親の姿もあった。
…須藤君の姿はなかった。
ヨウ君に強く抱きしめられて、やっとの態で私は言葉を絞り出した。
「…一日待っていれば大丈夫だって…説明、されなかった?」
「Umb.社の人から説明は受けたけど…そんな説明だけで、言葉だけで安心なんて出来ないよ…!」
ヨウ君はさらに強く私を抱きしめた。
初めて会った時から十年以上の時を経て、ヨウ君はやっと私を抱きしめてくれた。
…ああ、私は何ていやらしくなってしまったんだろう。
ヨウ君に抱きしめられて…私は…濡れていた…。
情欲のままに、感情のままに、私はヨウ君を抱きしめ返した。
「アンリちゃん?」
「…ヨウ君、明日の18時に、一人で私の部屋まで来て。」
「言わなければならないことがあるの。してほしいことがあるの。」
「明日、18時…絶対に、来てね…。」
……そして私は、審判を受ける……。