「すみません、伊坂先生。少しお尋ねしたいのですが」
「なんでしょう?」
「我々、日本とアメリカを行ったり来たりしているじゃないですか」
「そうですね、反復しています」
「これでよく体調を崩さないなと」
茶化すように談笑して、目先のことに視線を移す。
「まあ、彼らが体調を崩さない限り、我々も大丈夫だと思います」
言われて、灰色の馬体を揺らすスペちゃんを、関係者専用スペースから眺める。
馬体はがっしりと引き締まっていて、まさに万全といえる状態だろう。
それに、鞍上もこの日を覚悟していたような面持ちで、手綱をしっかりと握っている。
「スペちゃんも、日原さんも気合十分のようですね。まるで最終決戦に臨むようですよ」
「まあ今日のレースはまさにそうでしょう。なにせ――」
――スペちゃんの相手となり得る馬も三冠馬なんですよ。
ああ、と内心で空を仰ぐ。
雲ひとつない晴天、燦々と照る陽光、そしてそれらをスポットライトにし、この魔境に降り立つ強豪たち。
強豪たちと一口にいえど、このレースは僅か6頭立て。
せっかくのBCクラシックだというのに、回避が続出してしまったことには、やや寂しさを覚える。
もちろんそれほどに出走馬のメンバーレベルが高すぎるのもあるが、それでも肩を竦めたくなる。
「フルゲートで戦えれば、なおさら燃えるんだけどなぁ」
誰にも聞き取れないよう小声でぼそっと。
まあ、結果的にはこうなってしまったのだから、仕方ないものは仕方ないのだが。
誘導馬についていって、一頭、また一頭とゲートに吸い込まれていく。
スペちゃん、いや、スペクタキュラービッドは6頭中の5番。係員に引かれて、オレたちもゲートに収まる。
と、すでに収まっている4番の栗毛馬を一瞥する。
あれが、今日オレたちが負かさねばならない絶対王者たる名馬。
確かに、日本馬ならシアトルスルーがあれを負かした。だが、その影響もあって、なおさらこちらを厳しく猛追してくるはず。
「アファームド……」
この大舞台で1番人気と支持を集めた、絶対的王者。
今年もドバイワールドカップを楽勝するなど、その実力を示している。
だが、オレは信じる。
オレが信じ、愛し、共に想いを背負う、絶対的愛馬を。
手綱を握りしめる。
鞭を持つ手に力が入る。
耳に入ってくる、風の音。
――一瞬だった。
『スタートしましたッ!』
ゲートが開く。手綱を押す。
押して、押して、押しまくる。
しかし先手は1番の鹿毛に取られた。ならばと、その馬体に外から並びかけていく。
だが。
「――ッ!?」
ほんの一瞬だった。1番とスペクタキュラービッドの間に割り込んできたのが、栗毛だとわかるのは。
唇を噛みしめる。相手に悟られないよう内心で。
マークされるのは確信していたが、これでなおさら悪い方向に理解してしまう。
――あんの野郎ッ、こっちの動きを完全に読んでやがったッ!
だが今思えば無理もない。
アファームドが米三冠馬ならば、スペクタキュラービッドは米四冠馬といえるのだから。
馬群は団子状態、本命馬は前目に固まっている。
800m、1000mと通過していくが、先頭にはまだ1番。それに内からはアファームドの徹底的マーク。
しゃーねぇ、と内心で毒づき、手綱の抑えを少しづつ緩める。
こんな展開になると、先頭が垂れるまで待つのは却って悪手。
こうなりゃ無茶だが、
――灰の怪物に鞭を、合図を入れる。
残り800m、最終コーナーから仕掛けてやる――!
『おーっと先頭は、最終コーナー付近、残り700mほどで、先頭は日本! スペクタキュラービッド! 鞭が入ってスペクタキュラービッド! 日原の鞭が! 躍動している! これは早いが、早すぎるが、どうなんだどうなんだ!? あっという間に先頭を躱してスペクタキュラービッド! 連れてアメリカ総大将アファームド! この気をつけなければならない馬もやってきました!
果たしてどうだ!? スペクタキュラービッド、保ってくれるか!』
オレとスペクタキュラービッドは全戦で共に勝ち抜いている。
初めて乗ったあの日から、今に至るまで、まさしく人馬一体。まさにパーフェクト。
そんなパーフェクトなオレたちを、負かせるものなら、
「――負かしてみやがれぇッ!」
喉は今にも張り裂けそうだった。だが自然と、気にもならない。
意識するのは、後ろから迫ってくる相手だけ。
鞭を入れ、手綱を押し、ひたすらがむしゃらに。
『先頭は、先頭はやや外を通りまして、スペクタキュラービッド! 残り200mを切って、スペクタキュラービッドが僅かに先頭! 半馬身ほど後ろにアファームド! じりじりと差を詰めに来ている!
しかしまだ先頭スペクタキュラービッド! まだスペクタキュラービッド! 日本馬がまだ先頭! 凌げるか!? 凌げるか!?
スペクタキュラービッドか!? アファームドか!? スペクタキュラービッドか!? アファームドか!?
二頭叩き合いになりながらゴールインッ! 勝ったのは、勝ったのは……!
スペクタキュラービッド! スペクタキュラービッドが半馬身ほど猛追を凌ぎました! 今年のBCクラシック、栄誉を手にしたのは日本馬! スペクタキュラービッドだ! まさに怪物! 鮮やかに! 鮮やかに勝ち切りました! 場内から『グレイゴースト』とコールが響き渡っております!』
この日――
――『二代目グレイゴースト』、だと。
【1979年BCクラシック 着順
1着 スペクタキュラービッド 1:59:2
2着 アファームド 半馬身
3着 アリダー 1馬身】