I
<さぁて、と。まずはどうしたもんか……>
ぽりぽりとこめかみの辺りを指先で引っ掻きながら、正樹と同じ姿の男――恐らくは『サイバスター』の幻像――は、思案げに呟いた。
その姿を、こちらは本家本元の安藤正樹が、半眼になって睨み付けていた。この虚像、ご丁寧にも思案するときの癖まで模倣していやがる。
「言いたいことがあるなら早くしろ。もう、ほとんど時間は残ってねぇはずなんだ」
焦燥と共に苛立ちを吐き出す。『サイバスター』に取り込まれてから何分経ったのか見当も付かないが、もたもたしていては全てが手遅れになりかねない。仮に『サイバスター』の力をものにできたとしても、『降魔弾』が爆発してからでは遅いのだ。
<ああ、それに関しては安心しろ。この中の時間と、外の時間は流れる方向がちぃっと違うから、向こうでは殆ど時間は進んでねぇはずだ>
『サイバスター』が、お気楽に応える。正樹には『なぜ』の部分は理解できなかったものの、取りあえず気にする必要がないと言うことだけ納得した。
<さて、それじゃラーマ>
――『ラーマ』と言う単語が自分のことを指していると、正樹が気づくのに数秒の時間が必要だった。
「……人をマーガリンみたいな名前で呼ぶんじゃねぇよ。俺は安藤正樹だ。てめぇが知らない訳もねぇだろうに?」
憮然とするが、『サイバスター』は非難などまさに『どこ吹く風』で続ける。
<お前が何と言おうと、お前がラーマなのには変わりねぇ……いや、カルキの可能性もあるのか? 今回はクリシュナじゃあなかろうが>
腕組みをして『サイバスター』が意味不明なことをぶつぶつと呟く様に、正樹の苛立ちが募る。
「魔装機神は眠らねぇから、普段から寝言を言うのかよ?」
<寝言じゃねぇさ。結構こいつは、お前にとって重要なことなんだが……ま、いい。風がどこに流れるかなんざ、風自身にすら判ったモンじゃないんだからな>
言って自分なりに何かを納得したのか、『サイバスター』はうんうんと頷いた。
そのどこか飄々とした仕草が、正樹に奇妙な感慨を浮かべる。もしかして、奴は自分自身よりも『安藤正樹らしい』のではないか……まさか。正樹は失笑し、益体もない考えをうち払った。
<なら、俺から言うことは後回しだ。俺に聞きたいことがあるんだろう?>
そう言って『サイバスター』は、両腕を組んで首を斜に構えた。
「聞きたいことは山ほどあるけどな……何より先に、てめぇにどうしても問いたださなきゃならねぇ事がある」
言って正樹は拳を握りしめた。ごきり、と関節が軋む音。
「てめぇは、魔装機神『サイバスター』だよな? てめぇは、調和の護り手として作られたはずだ。なのに、何でこの場で動かない? 何故、自分で動こうとしねぇんだ? 『降魔弾』はどこからどう見ても、てめぇが滅ぼすべき、調和の敵じゃないのかよ?」
自分が『サイバスター』に選ばれない事自体は、まあこれは自分の問題であるからある程度納得できる。しかし、正樹にとってこの事だけは、どうあってもそのまま看過する事ができなかった。大きな役割を課せられながら、それを果たそうともしないその存在が、自分が無力であることを痛感した直後であるが故に、どうあっても許せなかったのだ。
<馬鹿かてめぇは。手前勝手な考えを、さも当たり前のように押しつけてるんじゃねぇよ>
「な、何だとッ!?」
しかし、そんな正樹の言葉を『サイバスター』は鼻先で一蹴した。正樹の頭にかっと血が上る。
食ってかかろうと伸ばされた正樹の腕を、『サイバスター』はがっしと掴み、くりっと捻って放り捨てた。
「あ痛ッ……!」
<取りあえず、てめぇの考えには三つの間違いがある>
腕を押さえて呻く正樹を余所に、『サイバスター』はぴっと三本の指を立てて見せた。
<一つ。お前、『調和』って言葉を、『平和』と同じだと勘違いしてねぇか?
『調和』な状態ってのは、幾つもの要素が互いの力を授受して、その流れのぶれが最小限に抑えられる状態のことだ。まあ、大きな流れの乱れが生まれないって点では、『平和』にも近い概念と言えなくもねぇんだけどな。
精霊が『調和』の為に動く場合ってのは、この力の流れに極端な乱れが起きて、一部の力が突出したり、或いは欠落したりしたときだ。精霊は、この力の偏りを補正するために、力を使ってバランスを取り戻す。それが、精霊の『調和作用』な訳だ>
「……『降魔弾』は、その『極端な力の乱れ』じゃねぇのかよ?」
<『降魔弾』は、その作用領域のエネルギー偏差を全て平均化させて、精霊の調和作用から切り離すって代物だ。そこにはあらゆるエネルギーの授受が起き得ない。エネルギーの突出も欠落も、関係無しに切り離されちまうのさ。だから、精霊としては自分の役目の外の問題だから、『降魔弾』に関して動く理由がねーのさ>
言って、『サイバスター』は肩を竦めた。
<次に二つ……何で、自分の意志を持ってる俺が、生まれた目的とやらにそのまま従わなきゃいけぇねぇんだ?>
「何……だと?」
またも、正樹は驚愕の声を返してしまった。『サイバスター』は「してやったり」という表情の上で、にやりと口元を歪める。
<確かに、俺には『サイフィス』の精霊としての本能として、調和状態を維持するという衝動がある。お前が女を抱いて、種を残したいと思うのと同じようにな。
だが、俺には見ての通り、自分の意志がある。なら、どうして本能に従わなきゃいけない? どうして、『作られた目的』を遵守する必要がある? 俺は『サイフィス』である以前に、『サイバスター』なんだ。風の司である以上、俺は風の向くまま、気の向くままに生きるのさ>
――正樹は、唖然とする以外、自分のできることが思い浮かばなかった。
魔装機神は、全界の調和の使徒。つまり、人々を護るための存在。それは、正樹にとって絶対の真実であった。正樹がこの場に飛び込んだのも、その『彼にとっての真実』を大前提としての事だ。人々を護る魔装機神が、護るべきものの危機に際し、何も動こうとしない事への怒りが、彼をこの場へと誘った。
しかし、真実はどうだ。『サイバスター』の言うには、かの機神には必ずしも、人を護ろうという意志がない。ならば、自分は一体何のために怒ったのか。見当違いも甚だしい。ウェンディも、とんだ見込み違いをしたものだ。既に動いている魔装機神も同類だとするなら……。
(ん……待てよ?)
呻く正樹の脳裏に、疑問が差し込んだ。
「ちょっと待てよ。おかしいじゃねぇか。じゃあ、何で他の魔装機神は、操者に操られてるんだよ?」
<奴らは、各々の自我が俺より貧弱だってのもあるが、何より操者の願いを奴ら自身が認めてるからな。意志がある以上、その行動を他者に任せるのも自由……って訳だ>
「……操者の、願い?」
<世界を正しくあるよう導きたい。愛する世界を護りたい。護られた借りを返したい……ま、願いは人それぞれだな。奴らは、操者が願うことの実践のために力を貸して、操者が自分の願いから逸れる行動を取ろうとしたなら、それを是正するのを自分の役目にしてるのさ>
「………………」
正樹は絶句した。自分は、何という勘違いをしていたのだろうか? 結局、意志があるとしても……いや、意志があるからこそ、魔装機神は世界平和を護る戦神などでは必ずしもあり得ない。勇者の手に握られない聖剣が、何の役にも立たないように。魔装機神を平和の守護神たらしめるか否かは、あくまで操者のメンタリティ次第なのだ。
<当然、魔装機神が手を貸すくらいだから、奴らの願いは強く、そこから迸るプラーナも純粋だ。もし、お前が魔装機神に認められたいとして、お前の願いは、他の連中と少なくとも同じくらい強く、純粋でなきゃいけない。
……あるか? お前に。それだけの願いが? 日々を駄々と流され、他の奴との競争意識だけで戦っていたようなお前に?>
ずばり、ずばり。言葉の斬撃。目の前がぐらぐらと撓んでいく。自分は、何を望んでいたか。リカルド、ヤンロン、テュッティの力への憧憬。ウェンディの期待に応えて見せたい衝動。
――それはつまり、単に『自分を格好よく見て欲しい』という子供じみた虚栄心の発露ではなかったか?
(……違う)
魔装機に乗って戦い続ける事も、結局の所自分がこの世界に寄る辺としての意味以上のものではない。その証拠に、魔装機に乗れなくなった途端に、また地上へと逃げだそうとしていたではないか。
(……違うッ)
結局、自分にとってのラ・ギアスは、自分が楽に人に認められ、気持ちよく生きられる場所に過ぎな――
「違うッ!!!!」
激情が、吹き上がる。絶叫となって、迸る。『サイバスター』が冷ややかに見つめる前で、正樹の両拳の中に痛みが走り、ぱたぱたと鮮血がしたたり落ちる。
……血。死のイメージ。918事件の『ゲシュペンスト』墜落の写真で、大地を紅く彩っていたもの。基地外周で、物見の塔の瓦礫から生える手に散らばる紅。『デモン・ゴーレム』の腕から千切れ、鞠の様に弾んで潰れたものから飛び散った紅。紅、紅、紅!!
ウィノ=クオ=ザンバーと、アイリ=クオラ=リヴェルらの、ささやかな幸福。それを残酷に、冷酷に断ち切ったこの手。十数年積み上げられた幸せも、苦しみも、悩みも……そしてその上に成り立つ強さも、何もかもが空虚に回帰する、死。
「俺の願いは……こいつを見たくねぇ。こいつだ」
正樹は、拳を突き出して見せた。鮮血のしたたり落ちる、自らの左の拳。
「俺は……こいつが嫌いだ。親父が、お袋が、香苗が死んだときから。もしかしたら、それよりもっと前から。俺は、『死』そのものが許せない。
てめぇの言うとおり。俺は確かにまだガキだ。人が死ぬことで意味を遺せるとか、死んだ方が楽だとか、そんなのは理解できねぇ。俺には、人間は生きていなくちゃ意味がねぇとしか思えねぇ。
だから、俺は『死』を否定してぇ! 俺にとって大切な人、誰かにとって大切な人、何かの死で引き起こされる悲しみを、俺は見たくない! だから、俺は『死』を……『死』をもたらすものを否定してぇんだ! だから、お前の力が欲しいんだ!」
<魔装機神で戦うことは、結果的に何かの命を奪うことになるのにか?>
「殺すだけが、戦いじゃねぇだろ? 人を殺さず、脅威を殺す方法だって、あるはずだ。詭弁だろうと、偽善だろうと、俺は、人の命と、その世界を断ち切ることを認めない!」
<……逃げだそうとしていた奴が、よく言う>
「ああ、そうだよ。俺は逃げようとしてた。だけどな。今度のことで思い知った。俺は、逃げたら後悔して、駄目になる。俺の心は、どうしょうもないくらい、立ち向かうことを望んでる」
『サイバスター』の嘲笑を、しかし正樹は敢然と跳ね返した。
「だから、俺はもう逃げねぇ! 全ての苦痛と、恐怖と、ささやかな幸せを断ち切るものと、戦い続ける! 魔装機があろうとなかろうと、それが、安藤正樹って人間だ!
だけど、今は俺の力だけじゃ戦えねぇ。だから、俺に力を貸してくれ。戦うための力を。お前の……風の魔装機神の力を!!」
突きだした左の拳を真一文字に薙ぎ、正樹は吼えた。
手の中の紅が飛沫となって散り、宙にかき消えてゆく。その向こう側で、『サイバスター』は満足げに笑みを浮かべ……そしてこう答えたのだ。
<やなこった>
「…………!!」
絶句。喉の奥で、幾千もの言葉が一斉に湧き上がり、衝突し、意味のない呻きとなって飛び出した。
沸騰する驚愕と憤激、絶望。同時に、自分の拙い告解で、『サイバスター』を説得できるであろうなどと、甘い期待を抱いていた自分への羞恥が腹の中で燃え上がる。
「畜生……、そうかい。やっぱり人に力を貸すのはまっぴらか」
ぎり、と噛み締めた口元で、唇が切れて血が滲む。
身勝手な『サイバスター』に叩きつけたい様々な激情が吹き荒れるが、それもまた自分の身勝手には違いない。あくまで力を持つのは『サイバスター』自身であり、彼が望まない以上、正樹にそれを強要する権利はないのだから。
「……なら、今すぐに俺をここから出してくれ。お前の力を借りられないなら、ここにもたもたしている暇はないんだ」
吐き捨てながら、正樹は『サイバスター』に背を向けた。出口がそちらにあるわけではなかったが、ここが『サイバスター』の支配する空間である以上、彼から離れる意思を示せば、この場所から出られるはずだった。
そんな正樹に、『サイバスター』はとぼけた口調で言った。
<まだ、てめぇの三つ目の勘違いを説明してなかったな?>
「……?」
怪訝な表情で、ふと振り返る正樹。その視界の中で、『サイバスター』は、心底面白い玩具を見つけたような表情を浮かべていた。
<俺がお前をここに入れてやったのは、お前が言ったある言葉が気に入ったからだ。だけど、今のお前はそれを忘れちまってるみたいだな?>
「…………俺が、言った言葉?」
『サイバスター』に向き直り、きょとんとした表情を返してしまう正樹。
『サイバスター』はしばしにやにやと笑みを弄んでいたが、返答のない正樹に、呆れをこってりと載せたため息を吐き出した。
<お前な……人に期待させておいて、それか? お前は、自分で自分の道を選んだんだろが?>
そう言われても、見当も付かない。一体、自分の何を、『サイバスター』は気に入ったというのか? 自分の思いは、今し方ありったけを彼にぶつけたばかりだ。それでも「否」と答えられたというのに?
<一つだけ、ヒントをやる。お前、風の流れる向きを、風に祈って変えて貰うのか?>
「風の……向き?」
風。圧倒的な流れ。それは、人の祈りも届かず、ただ吹くだけのもの。その流れは、熱によって生み出され、大地に沿って流れてゆく。
もし、風の流れを変えたいならば、その風に打ちのめされてもなお屹立する障壁で、その流れを遮る他はない。つまり、より強い強固な力と存在をもって……。
「……てめぇのクソ惚けた『意思』に引導を渡して、俺がお前の力を使ってやる……」
呆然としたまま正樹の舌が、つい先ほど『サイバスター』の外で叫んだ言葉を再生する。
<そう言うことだ>
『サイバスター』が、満足げに頷いた。
世界が、変容してゆく。彼らの足下が堅いマットに変貌し、コーナーを結ぶロープが現れる。
『サイバスター』の姿が変貌してゆく。『安藤正樹』であることには変わりはないが、その装いが、ボクサーパンツとグローブ、ヘッドギア……つまり、ボクシングルックとでも言うべき代物へと変容する。
……流石に正樹にも、『サイバスター』が何を望んでいるのか理解できた。これが、『サイバスター』なりに、自分に与える最後のチャンスであることを。
正樹の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。すっと目を閉じ、自分の姿をイメージする。世界最速の格闘技を成す為の装いを。
<流れを変えたいんだろう? さあ、俺に引導を渡してみろよ!>
「……ああ。やってやるぜ!」
『サイバスター』の挑戦に、今や『サイバスター』と同じ装いを纏った正樹は、『ごっ!』と両のグローブを打ち付けた。
Ⅱ
ご丁寧にも、どこからともなくゴングの音が鳴り響いて。
最初に動いたのは、『サイバスター』の方だった。
(
正樹には、『サイバスター』の姿が揺らめいたように見えた。とっさにライトサイド・ステップ。奴が自分と同じ姿でいるならば、使う技もまた同一。それなら最初に切り出すカードは……
果たして、次の瞬間正樹の左頬を、肌を引き裂くような拳圧を纏った青いグローブが駆け抜けた。
疾風の左のファーストブレイク。正樹がボクシングの現役の頃、得意としていた技だ。戦闘の『気』を制するための見せ技。
<よくかわしたな。だが、遅ぇ!>
マウスピースが挟まっているはずなのに。『サイバスター』の声は、やたらはっきりと正樹の耳に届いた。
初手を外された『サイバスター』は、素早く体を捻ると右のジャブを続けた。
一発、二発。体を逸らすしてやり過ごす。三発。右腕を立ててガードする。しかし、四発目。
(……ぶっ!)
腕のカーテンをかいくぐり、正樹の視界を青いグローブが制圧した。一瞬遅れて暗転する視界。目の中と、脳の奥に飛び散る火花。
(や、ヤバ……)
とっさに、身を翻した。サイドステップ、サイドステップ、バックステップ。相手の攻撃圏から離れなければならない。せめて、視力が回復するまで。
衝撃でぼやけていた視界が、ようやくまともな像を結んだ。『サイバスター』は、先ほどのジャブを打ったそのままの場所で、悠然と正樹を眺めている。
(余裕こきやがって、畜生……)
内心で舌打ちしつつ、正樹は反撃に出た。ジャブ、ジャブ、ジャブ、フック、ストレート。何百・何千回と繰り返し、体に馴染ませたコンビネーションだが……。
(く……っ、スピードが乗らねぇッ)
正樹は、明らかな拳の鈍りを感じていた。思うように、筋肉が反応しない。ジャブに継ぐジャブが零コンマ2秒遅れる。フックに切り替える脇の筋肉に引きつれる感触がある。左ストレートを引き絞る力が、明らかに弱まっている。
それらのコンビネーションを、難なく上体のスウェイとサイドステップで受け流す『サイバスター』。しかし、一度解き放ったコンビネーションは途中では止められない。正樹は構わず、ストレートを解き放つが。
<遅い!>
(!!)
鳩尾を、ハンマーで殴られたような衝撃が貫いた。マウスピースの隙間から反吐が飛び散る。
身を屈めてストレートをやり過ごした『サイバスター』が、カウンターでボディーブロウを放ったと正樹が理解したのは、よろよろと数歩を後ずさり、呼吸を辛うじて整えた後だった。
(くそ……体が思うように動かねぇ)
完全に主導権を握られた。何とかして挽回しなくてはいけないが、どうすれば奴に対抗できるだろう? どうやら、身体能力、技術、戦術、正樹の持つ能力の殆どを、『サイバスター』は模倣しているらしい。
いや、模倣していると言うよりも、その動きの鋭さは、現役当時の正樹を再生していると言った方が近い。一年近くのブランクが、体力やカンの鈍りとなって、奴との戦力差を形作っている……このままでは勝てない!
<鈍いな? もっとガードは堅かったはずだがな>
正樹の額を、脂汗が滴り落ちる。自分以上の自分。目の前のそれが、さながらジェリコの城壁のように感じられる。あれを破壊できるホルンは、自分の手の内にあるものか?
<どうした、弱気じゃないか。このままだとお前、『サイバスター』を支配するどころじゃねぇぞ?>
嘲弄するように、『サイバスター』が言う。
――そうだ。このままでは勝てない。絶対に勝てない。ボクシングという領域において、自分と過去の自分を比べ、今の自分が勝っている所など、何一つとして思い浮かばない。
だが、ここで負けたら、自分は『サイバスター』の力を得ることができず、『降魔弾』の爆発を阻止することもできない。
そうなったら、ゼオルートやプレシア。ヤンロンやリカルド達、魔装機を駆り、バナンで戦う人々の命。そしてバナンに暮らしていた人々の生活の全てが消滅することになる。
――このままでは、勝てない。だが、勝てないからと言って、負けていい戦いではないのだ。
(そうだ、判ってたことじゃねぇか。勝つしか選択肢がねぇんなら、勝つために戦う以外はねぇだろう!!)
意識が収束していく様な感覚。額に滲んだ汗が止まった。拳が、腕が、肩が、心臓が。怯懦に震えていた何かが、ぴたりぴたりと静止していく。
すぅと、余りにも自然に。拳が胸の前に上げられる。脇がきゅっと引き締められ、掌の中に力が凝る。
<……ふん?>
倒すべき敵が眉を顰め、鼻からの呼気に疑問符を混ぜる。
そんな『サイバスター』を、正樹は漠と見つめた。今や、正樹の心に恐怖はなく、倒すべき敵と、それを倒す為に要される術。それだけを浮かべる蒼穹の如くだった。
びゅぅう。風が吹き抜けた。正樹の背中から、敵へと吹き抜ける風。戦の流れ。自身を勝利に導く凱風。
その風に、正樹の体は乗った。自然に、しかし揺るぎなく、一歩、二歩。
風が、背中を押す。いや、風と一体化する。凱風が吹き示す先へと、体が流れ……そして。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
風は、激風へと変じた。
<何だとッ!?>
『サイバスター』が思わず声を上げる。驚愕と戦慄の混じった声を。それを二つに切り裂きながら、正樹の体が迸る。
そは烈風。そは疾風。気流が山嶺を駆け下る定めの如く。
<う、うわっ……>
『サイバスター』は、確かに正樹を模倣していた。完璧なまでに、ボクシングに最適な体を作っていた時代の彼を。しかし、それは彼の心の弱さ……敗北を知らない、虚ろな勝利者たる彼の心までも模倣していたのだ。
『サイバスター』から怯懦の気が吹き上がった。恐慌に任せるままに、拳をゆらゆらと彷徨わせる。それはちょうど、『真剣』に恐れをなして、ボクシングから身を退いた瞬間の正樹そのままの姿だった。
『サイバスター』……いや、過去の正樹の残映の腕は、もはやガードと言うべきものを成していなかった。がらあきの顔面。凱風は、そこに向かって正樹を導く。迷う余地などどこにもない!
「もう、俺はお前じゃねぇ! お前にだけは、絶対に、負けねぇッ! 砕け散れェェェェェェェッ!!」
絶叫が迸る。臆病な過去との決別。
いつしか、正樹の体からヘッドギアも、拳を護るグローブも消えていた。素手の左が引き絞られ、解き放たれ、迸り、過去の残映を捉え――
砕いた。
まるで、そこが世界の中心であったかのように。正樹の拳を中心に、世界そのものに亀裂が入った。
砕ける。砕け散ってゆく。もう一人の正樹の姿が。ボクシングリングが。次々と亀裂の中に埋もれてゆく。バラバラに飛び散ってゆく。
世界のかけらが万色の海の中に吸い込まれてゆく。それを見送る正樹には、その様はさながら万華鏡の如く映る。
万華鏡。無数の世界が連なり、重なり、像を成す妖しの世界。過去が。未来が。あるいは別の可能性が。泡沫の如く浮かんでは消える。
(まずい……呑まれる!?)
徐々に細かさを増す万華鏡。今や、そこはぎらぎらと輝く光の海。光が、溢れる。
ひかる。ひかる。光が過ぎてゆく。正樹の意識が警鐘を鳴らす。しかし光は止まらない。光が。無数の光が。
目の中を――体の中を――意識の中さえも――光が。光が貫いてゆく――!!!!
それは、光の中に見た世界。万華鏡の中に語られる、英雄譚の飛沫。
それは、天空を翔る白銀の鳳。
その背の上で『彼』は雷の剣を手に、眼下の戦場を見下ろしていた。
眼下にあるのは、巨大な虫……と形容するのがもっとも適当だろうか。歪で禍々しいその姿。城塞一つに匹敵するほどの大きさを誇る巨大な魔物が、地を剔り、立ちはだかる人間踏み潰しつつ前進していた。
「行くぞ、ディシュナス! 『神の炎』を!」
<りゅりぃっ!>
『彼』の命じるに、白銀の巨鳥は鈴音を幾千も重ねたような嘶きを上げ、その翼から無数の銀光を迸らせた。
銀色の光は大きく弧を描き、巨虫の甲殻を貫いた。瞬間、弾ける衝撃。着弾箇所の甲殻が振動し、引き千切れ、粉砕される。青黒い異形の体液が飛び散る。
しかし、巨虫の背中の傷は、血泡がぼこりと吹き上がったかと思うと、次の瞬間には元の甲殻を取り戻していた。
「埒が明かん。一気に仕留めるぞ、ディシュナス。『神の裁き』を!」
<りいいいいいぃぃぃぃぃおおおおぅ!!>
ひときわ大きく、神鳥が嘶く。差し渡し
銀色が、溢れた。
銀のシャワー。銀の神気に覆われた翼から、幾千、幾万の銀光が降り注ぐ。それらは全て巨虫の背中に吸い込まれる。ゆがむ。ゆがむ。銀色が触れる端から、世界が歪んでゆく。
ゆがむ。ゆがむ。そして限界を越える。世界の因果の壁が壊れる。真空に満ちた力が解放される――閃光!
光が収まったとき、巨虫の背中には巨大なすり鉢状の穴が穿たれていた。その最深奥で、どくどくと青黒く脈打つものがある。
それは、巨虫の心臓。青黒い血泡がごぼごぼと吹き出してそれを覆い隠そうとするが、到底間に合っていない。
そしてその隙を、『彼』が見逃す道理もなかった。
「はあああああああああああああッ!!」
神鳥が、急降下する。巨虫の心臓めがけて。『彼』の気合の声に応える様に、振り抜く剣がばりっと雷を纏った。
『彼』は跳躍した。心臓に向けて、真っ直ぐに剣を突きだして。背後で神鳥がばさばさと翼をはためかせて滞空する。
脅威を撃ち落とすべく、心臓の周囲から無数の肉塊が飛び出して『彼』を襲う。しかし『彼』が愛剣『ガルナシア』を一閃させると、刃に両断され、雷に焼かれた肉塊が、ばしゃばしゃと飛び散ってゆく。
「終わりだ、『ヴォルクルスの魔獣』め!! 不易久遠流奥義がひとつ、雷冥剣!!」
言の葉に応え、雷剣が閃光を放った。それは雷霆そのもののように輝きながら、しかし剣士の手の中に踏みとどまる。剣士が剣を振り上げれば伴のように雷鳴が迸り、切り裂かれた空気の回廊に、剣士の身体が滑り込む。
そして、『彼』の刃が。ずぶり、と巨虫の心臓に深々と埋め込まれる。
雷が、解き放たれた。光が溢れ、雷霆が肉を焦がす。電撃が心の臓から巨虫の全身を、異形の体液を介して駆けめぐる。
巨虫が、断末魔の咆吼を上げた。
暗転――。
それは、暗黒に閉ざされた世界。荒れ果てた荒野に、異形の生物が犇めく。
『彼』は叫んだ。自らの眼前にそびえる、悪魔を模したような巨人と、その腕の上に立つ男に向けて。
「お前は、自分の事を完全な存在だと言ったな!」
「そうだ」
揺らめく髪と、虚ろな面。破滅を題材とした石像の如き姿の男が答える。その足下である巨人の右腕が、きらりとそこだけ清廉な光を返す。
「それは、成長しないと言う事だろう!」
「成長など必要あるまい 成長する事自体が、そもそも不完全であるという事なのだ」
男の嘲弄の言葉に、『彼』は激昂した。純白の機神が握る大剣を真一文字に振り抜き、咆吼を上げる。
「成長しないものに、何の存在価値がある!
そして、その価値のない存在が、なぜ人の価値を決められる!
お前は完全な存在なんかじゃない。ただ間違った存在なだけだ!
オレは、お前を……人の心を理解しないお前の存在を、オレは認めるわけにはいかない!
お前の存在を断つ!!」
激情を吐き出し、三機の巨神を従えて。群がる魔物を切り捨てながら、『彼』は飛び立った。
――しかし、事はそう簡単には運ばない。
「ちくしょ、これじゃ埒が明かないじゃんか!」
黄色の機体の操者が、光弾でまとわりつく魔物を迎撃しながら呻いた。異形の巨人に触れようにも、群がる魔物の数が余りにも多い。
「こう密集していては、我々の武器は役に立たない……! 君の技が頼りだ!」
「オイラの『レゾナンスプレッシャー』じゃ、みんなまで巻き込んじゃうからね! 頼むよ、兄ちゃん!」
赤と黄色の機体の操者が、手にした武器で迫る魔物を切り捨てながら口々に叫ぶ。それに『彼』は親指を立てて、了解のサインを送った。
「任せろ! 一気に片づけてやる!」
「援護は任せて! あなたは技に集中しなさい!」
青の機体が、ぴたりと『彼』に寄り添った。三叉の槍を一閃させ、群がる魔物を蹴散らしてゆく。
「了解、頼みます、隊長! ……いっくぜぇぇ!!」
青の操者が守りに付くなら、何も恐れる事はなかった。迫る魔物は全て彼女に任せ、『彼』は目を閉じ、意識を集中させる。
精霊と同調する意識。探るのは、周囲空間に満ちる『悪意』。闇夜の星のように、『悪意』は無数に散らばる。その一つ一つを意識に刻んで……『彼』はかっと両目を見開いた。
「見えたぞ、いっけえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
『彼』が咆吼すると同時に。『彼』が鎧う白い機神が、空色の輝きを放った。
清冽で、かつ苛烈な輝き。その光に触れるが否や、魔物達は片端からぐずぐずと溶け散ってゆく。しかしその光は、赤と黄色、そして白に寄り添う青の機体には、傷一つつける事はないのだ。
光が迸ったのは一瞬。しかしその一瞬だけで、四機の機神を取り囲んでいた魔物の群れは、その大半がその身を灼かれて蒸発していた。僅かに残った数体も、満身創痍で立っているのがやっとと言った風体である。
「ほぉう……」
黒い巨神の側に立つ男が、感心したように声を漏らす。その巨影に向けて、口元に会心の笑みを浮かべつつ、『彼』は叫んだ。
「さあ、お前への道は開けた! 断ち切ってやるぜ……■■■!!」
暗――転――
それは、天空に浮かぶ巨大な球体。無数の機兵が群れ飛び、炎を散らす戦場の奥で。
<時には人そのものであり、時には剣であり、時には思想であった……その時代に合わせたものが人類を救った。
何故、そんな都合のいい事が起きるか、不思議に思った事はないかい?>
球体の核を目前にして。白き巨神を身に纏い、雷の剣を手にして。『彼』は、恐らくはその『核』そのものであろう、あまりにも圧倒的な『質量』を持った『声』と対峙していた。
<全ては、私が用意した舞台の上の物語。いつでも私が危機を生み出し、危機を救う救世の存在をも生み出してきた。
今回は、君の乗る■■■■■■が『ヴォーリア』を止める唯一の存在。だから、君はここまで来る事ができた……>
凍り付いた時の中で。『彼』と『声』は対話する。世界の真実。英雄伝説の舞台装置。……真実の、一つの可能性。
<これは娯楽なのだよ。君たち太陽系人類の存亡と、私自身の存在を賭けたゲーム。だから、私を倒せば人類は救われる可能性があり、君だけに、私を滅ぼす資格が与えられた>
「……なら、こいつでお前を滅ぼして、全部おしまいにしてやるよ」
<フフ――いいぞ。その意気だ。そうでなくては私も面白くない>
『声』の傲慢な物言いに、『彼』は苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。しかし、それさえも『声』にとっては愉悦の源でしかないというのか。
気がつけば、凍り付いた時間は再び流れを取り戻していた。
「嘘……あれって――!?」
『彼』の前で、白い機神の副操縦席に座る女性が、驚愕に呻きを漏らす。見れば、『核』の表層が盛り上がり、その内から『彼』の纏う機神と同じ機神……しかしその色は相反するように漆黒……が姿を現していた。
女性を勇気づけるように。そして自らを奮い立たせるように、『彼』は宣言した。
「行くぞ! こいつを倒せば、全てが終わる!!」
<さあ、楽しい宴の始まりだ!!>
「せいっやああぁああああああっ!!」
白の機神と、黒の機神。全く同じでありながら正反対である二つは、雄叫びと共に剣を打ち合わせた。
再び――闇に――墜ちる!
それは、紅の星。青の星の兄弟として生まれながら、生命を宿すに至らなかった赤砂の荒野。
四本腕の、緑色の巨大人型兵器。数多くの超越的な力を持つ機械戦士によって間断なく攻められた結果、無窮の装甲を持つかと思われたそれは、今やその鎧の半ば以上を失っていた。
「き、貴様ら、武器を持った猿如きに、この私が敗れるものか!」
人が傷から血を流すように、傷口から絶え間なく火花を散らす。正しく満身創痍。しかしそれでも、その搭乗者の妄執は尽きる事はない。
「これで落ちやがれ、アァカシック・バスタァッ!!」
同胞の一機、魔装機神『サイバスター』が描く魔術炎の魔法陣。操縦者の呼び声に応え、その中央から炎を纏った巨鳥が現れ、満身創痍の巨大兵器に突き刺さる。激しく火花が散り、遂に四本の腕の内、巨大な一対の左が根本から吹き飛んだ。
「まだ落ちねぇのか! ■■■■! 止めは任せたぜ!」
胸の巨大な放熱版が特徴的な、漆黒の城塞を思わせる堅牢な巨人。その搭乗者が呼びかけてくる。その声に機体の腕を振って応え、『その人物』は思念を手元に集中させた。
戦闘に用いるには装飾華美とも思える柄だけの剣。その根本から、きわめて薄い……分子一個分の厚さしかないと言う刃が現出した。
それを真一文字に構え、『その人物』は自らの機体を奔らせた。今や三本腕の人型兵器の搭乗者が、恐怖の声を上げるのが聞こえる。しかし、容赦に手が止まる事はなく、『その人物』はそのまま断罪の剣を振り抜いた。
「計都・羅喉剣! 暗・剣・殺!!」
そして――再び――闇へ。
――気づくと、再び意識は光の奔流に溺れていた。
もはや、意味不明の幻影は影も形もない。今や光の粒子の一個一個にまで世界は裁断されてしまったのか。
何だったのだろう、今の光景は? 一体『サイバスター』は自分に何をさせたかったのか? 何を見せたかったのか? それ以前に、あの映像は本当に、『サイバスター』が見せたものだったのか?
……わからない。何も考えられない。意識の隅々、脳の襞の隙間にまで、光が割り込んでいる。思考が寸断される。
<――まあ、取りあえずは及第点をやっておくか>
明滅を繰り返す意識の片隅に、そんな声が聞こえた。
<正直なところ、この程度で認めてやるなんぞ、俺のプライドが許さない所なんだがな……まあ、勘弁してやるさ。元々同じ魂を分け合った仲だ>
――声の主は、一体何を言っているのか。理解できない。思考がループしている。
そんな相手の状況にも構わず、声の主は続ける。含み笑いをするように。
<だが、覚悟しておけよ……お前は、お前が考えてる以上に、厄介な運命に首を突っ込んだと言う事を。あのまま地上に逃げ帰ってれば良かったと、何回思うかも知れねぇが……もう、遅いからな>
――その声に、同情の気配を感じたのは、果たして錯覚であったのか。
<――さあ。目を覚ませ!>
まるで物理衝撃波のように。精神の奥の奥まで揺さぶる程に、高らかに。
<奇跡を起こすんだろう? 目を開け。指を動かせ。風を感じろ。風を謳え――それが、『風の司』であるということだ!>
それきり、声はぱったりと静まって。沈黙と、流れる光と、茫漠とした思考だけがその場に残されて。
光の海の中。夢の中を漂うように、あてどもない漂泊の旅。
だが、そこに正樹は風を感じた。自らを導く風。呼ぶ風。自らの勤めを果たせと、叱咤する風。
<さあ、目を覚ませ!!>
今一度、耳をあの声が揺さぶる。それとも、それは正樹の意識が再生した幻聴であったのか。どちらでも同じ。必要なのは、声が正樹を揺り起こそうとしている事実。
そして――安藤正樹は目を見開いた。
1秒が、まるで1時間にまで引き延ばされているような、そんな錯覚を覚える時間。
ウェンディ=ラスム=イクナートは、まんじりともしないまま、『サイバスター』の姿……厳密には、その胸部のコクピットハッチを凝視していた。
何秒が過ぎ去ったのだろうか。一つ呼吸をする度に、希望と絶望が入れ替わる。
見事『サイバスター』を操ってみせる正樹。『サイバスター』から放り出される正樹。次に呼吸をする時、見えるビジョンはどちらなのか。呼吸を終えるのが怖い。
「…………ッ!?」
これで幾度目の息なのか。ウェンディが深々と息を吐き出した時、隣から鋭く息を呑む声が聞こえ、彼女はぎょっとして振り向いた。
見れば、ウェンディの側で同じく、台座に座する『サイバスター』を見上げていた従姉妹アーネ=ラスム=ゼフィックが、その両目を見開き、まるで彫像と化したように凝固している。
「そ、そんな……まさか……」
ウェンディが声を発する前に。アーネが驚愕に震える声を絞り出した。見上げる目はふるふると揺らぎ、その手はわなわなと小刻みに震えている。
「どうしたの、アー――」
そう問うウェンディの声を遮るかのように。
りゅぅうぅ。ごおぉう。きぃぃいいいぃ。こぉぉぉぉう。一斉に異音が轟き渡る。
疾風の残響。機翼の咆吼。猛禽の嘶き。風穴の唸り。おおよそ全界に存在するあらゆる『風』の素を宿した存在全てが、一斉に鬨の声を上げたかのような。
その音に紛れて響く、しゅうぅという何かのガスの吹き出る音。次いで、白色の煙がどこからともなく湧き出して、整備棟に立ちこめる。
くんと鼻をひくつかせ、その奥にぴりりと差し込む刺激を感じたウェンディは、瞬時にそれが、慣れ親しんだ物体であることを悟った。――《魔装》式フィールドシリンダーの緩衝剤。
ガスに白く閉ざされる視界。その中で、ウェンディは自問する。何かの弾みに、緩衝剤の入ったボンベが破裂したのだろうか? 否。保存状態の緩衝剤は液化され、このようにガス状に散布される事はあり得ない。
ならば、どうやったらこんな形で気化緩衝剤が放出されるだろうか。緩衝剤は《魔装》シリンダーに注入される際に、液体から気体へと相転移させられる。つまり、仮にシリンダーから強制的に気化緩衝剤が排除されているとしたら、この現象も納得がいく……そしてそれはつまり。
次の瞬間ウェンディは、子供のように飛び跳ねて叫び出したい衝動を抑えるのに、その自制心を結集しなくてはならなくなった。
湧き上がる熱い衝動。その根底にあるものは、歓喜。
それは、『何故シリンダーの緩衝剤が吹き出しているのか』という疑問の解答によって産まれて。
それは、先の異音が、風の精霊があげた先触れの声であると思い至ったことで導かれて。
それは……煙の中で。静謐にして厳然、苛烈にして轟然や光を湛えて浮かび上がる、淡い緑に輝く双眸によって点火されて。
ウェンディ=ラスム=イクナートは、抑えきれなかった歓喜の爆発の仲で理解した。
自らの生み出した、白銀の機神が。真の意味で覚醒を遂げた事を。
この絶望を切り裂き、希望の風をもたらす奇跡が、目の前に降臨した事を。
そして何よりも、直向きに希望を目指す少年が、自らの願いをついに成し遂げたという事を。
純白のヴェールを引き裂いて。ゆっくりと立ち上がる白銀の機神……風の魔装機神『サイバスター』が、産声の如き嘶きを高らかに吟ずる下で。
Ⅲ
リィィィィィゥォォォォォォオオオオオオ!!!
今や完全に覚醒した風の魔装機神の咆吼。それは千の鈴の音を音叉で一つに束ねたように響き、山嶺の風穴を駆け抜けるが如く轟いて。
立ち上がった白銀の巨神。力強く伸ばされる四肢。縮められていた関節が解き放たれ、素体の継ぎ目から銀色の輝きが吹き出す。
銀色の輝きは、未収束の《魔装》だ。銀色は操者の想念に反応し、瞬く間に白銀の鎧へと姿を変える。素体の外観を映しつつ、より鋭角で、そして力強い白銀の体躯。
涼やかで、かつ決然とした意志を灯す双眸。ひとつそれが輝くと、関節に取り付いていた封印用の緩衝剤注入パイプや固定具が、一斉に「ばがん!」という音を立てて弾け飛んだ。
がしゃがしゃと騒々しい音を伴い転がる縛めの残骸。それには目もくれず、『サイバスター』は一歩を踏み出した。鳥類を思わせる独特のフォルムを呈する足が伸ばされ、踏みしめられる。緩衝剤の名残に混じって、圧縮・光遷移した《魔装》の飛沫が関節から吹き出す。
『サイバスター』が一歩を踏み出す度に、ゆらり、と背景の像が歪む。金色の輝きが舞い散る。その様はたまらなく神々しく、無神論者が揃う練金学士達でさえも、それが偉大なる戦神の降臨を意味すると確信し、その白銀と金色の輝きに見惚れていた。
そして、その戦神の母親たるウェンディ=ラスム=イクナートが、自らが成すべきを思い出したのは、『サイバスター』が四歩目の足を踏み下ろした瞬間だった。
「い、いけない。管制、魔装機用ゲートを開いて! 破られるわよ!?」
黙したまま歩みを進める『サイバスター』の足下に駆け寄りながら、ウェンディは手首の通信端末リストバンドに向けて警告を飛ばした。
「りょ、了解しました!」
スピーカーの向こうからの、泡を食ったような了解の言葉。そして、ぎゅるるるという重たい駆動音が壁から響くのを確かめて、ウェンディは今度は頭上の白銀の巨人へと目を向けた。
「ヴェラ・エス・エル・サイフィス!
天を仰ぎ。頭上の機神の双眸を見据えて。ウェンディは呪文を詠唱した。
魔装機開発者の中でも、魔装機神に対してはウェンディただ一人のみが行使できる、究極の強制制約呪文。それがウェンディの唇から放たれると、『サイバスター』は両眼を一つ輝かせて呪文の強制に応えた。
何だか不本意そうな光だ、とウェンディが思うや否や。ウェンディの足下に、白銀の光で描かれた魔法陣が現れる。それは目の端に捉える間もなく回転し、ウェンディの全身を走査するように駆け抜ける。
一瞬の視界の暗転。反射的に瞼を閉じる。浮遊感、続く失墜感。暗黒のままに落下し、何か柔らかいクッションに受け止められる。「おわっ!?」と聞き覚えのある声が聞こえたような聞こえないような。
三半規管がぷるぷると震えるような、独特の酩酊感。俗に『転移酔い』と呼ばれる不快感に眉を顰めつつ、ウェンディは閉じていた瞼を割り開いた。
視覚情報より先に最初に知覚したのは、ずしん、ずしんという規則正しい振動だった。
続いて認識したのは、目盛線に無数に分断された、薄汚れた整備棟の壁。そして、闇を割り裂くように口を広げる魔装機用扉。ずしん、ずしんと視界が揺れる度に、光の亀裂は視界を占める割合を増してゆく。
その視界の端で踊る、無数の情報ボックス。その文字の全てが、彼女の知らない言語……地上の世界共通語と日本語のハイブリッドで書かれていたが、ウェンディにはインジケータの動作を見るだけで、それが何を意味しているのか理解できる――全機能、何の問題もなし。
(それにしても、操者は……マサキはどこに……?)
はっと、ウェンディが思い至った瞬間。
「い、いい加減どいてくれるとありがたいんだが……」
彼女の尻の下で、椅子が正樹の声で喋った。
「え……あ、きゃっ」
やたら暖かくて堅い椅子だとは思ったのだが。一体自分が何、否、誰の上に座っていたのかを悟り、思わず悲鳴を上げ、ウェンディは飛び退いた。
「ご、ごめんなさい、気がつかなくて」
「しょうがねぇさ。強制転送は酔いがキツイし、融通がきかねぇからな」
飛びのいた拍子にシートから転がり落ちたウェンディは、恥ずかしいやらみっともないやら。頬を紅潮させて、懸命に謝罪の言葉を繰り返す彼女だったが、正樹は興味ないとでも言わんばかりに、視線を正面――今やそこに映るのは魔装機隊統合整備棟の薄暗い壁面ではなく、薄暗く曇が覆う空と、下生えがどこか不安げに揺れる光景――に差し向けた。
「い、いけない……
ウェンディが目を閉じ、意識を束ねて
「初めてのあなたが一人で空間転移は不可能に近いわ。ここから私が、制御をサポートする。いいわね?」
360度全方位を包むように現れた情報窓。視線を窓から窓へと八艘跳びさせながら、ウェンディが言う。
「あと十秒待って。『パラキス』から、中和モジュールを移植するわ」
言いながらウェンディの指は、立体映像コンソールの上で、鍵盤上のピアニストの指の如く踊る。外部システムへの接続解放。ニューロセンサー同調開始。連層環エーテル還元機構……取得完了。
めまぐるしく色を、形を変える立体映像表示窓。その中で踊るウェンディの腕と指。得てしてある分野に卓越した人間の作業は、舞踊の如き美しさを振る舞い、見るものに感銘を与えずにはいない……見ていたならば、の話だが。
そんな妙なるウェンディの指運びにも、正樹の意識はちらとも揺らがず、ただ真正面を見つめるのみだった。
いや、正確には見つめているだけではない。口元が、唇が小さく震えている。言葉には無しに、何者かと対話するように。
「……オーケー。あとは自分でやってみるしかねぇって事だな。やってやるさ」
唇がにやっと挑戦的に歪み、隙間からそれだけの言葉がこぼれ落ちる。ウェンディがいったい何事かと確かめる間もなく。
「さあ、ウェンディさん。
正樹が高らかにそう叫ぶのと、『サイバスター』の機体が大きく跳躍するのはほぼ同時のことだった。
『サイバスター』とそれに乗り込んでしまった従姉を追って、アーネは、整備棟の扉をくぐった。
「姉さ……うぷっ」
外の光に眩む目をしばたたかせつつウェンディを呼ぶが、瞬間轟いた爆音、そして一瞬遅れて顔面に叩きつけられた突風に口を封じられてしまう。
小さく咳き込み、改めて見上げるアーネ。その視界に映るのは、突き抜けるように青い空を背景に、燦然と輝く天球。そして、天球の光を浴びて輝く白銀の巨神。
「いくぜぇぇぇぇ!」
正樹の鬨の声と共に。天を舞う『サイバスター』が、左の腕をぐっと固めた。腕に填め込まれた大型の《魔石》が虹色の輝きを放ち、手のひらに銀色の《魔装》が凝集する。凝集して……凝集して……歪む。歪んで、掌中に万華鏡の如き像を結ぶ。
『サイバスター』は、その万華鏡へと、右の腕を打ち付けた……いや、突き込んだ。万華鏡はそれがそのまま別の世界に繋がっているかのように、『サイバスター』の右腕を飲み込んだのだ。
(局所空間歪曲!)
不可解な現象に、彼女と同じように天を舞う機神を見上げていた人々が、口々に驚愕の声を上げるのが聞こえる。しかし、ウェンディに『サイバスター』の機能の概要を説明されていたアーネには、正樹が一体何をしているのか理解できた。空間に穴を穿ち、遙か離れた場所との抜け道を作り出す能力。
『サイバスター』は、異空間に突っ込んだ右腕で、何かを握りしめるように力を込めた。そして、そのまま一気に腕を引き抜く。腕が現れ、握られた拳が現れ、そして、その腕に握られた、大振りの刀が姿を現す。
『ジャオーム』や『ギオラスト』などの風属性魔装機が標準装備する、『ディスカッター』と呼ばれる実体剣である。
しかし、他の機体のそれが格納性・携帯性を重視して、折り畳みなどの構造を持たされているのに対して、『サイバスター』の手にしたそれは、継ぎ目一つもない直刀であった。柄は精緻に彫刻され、刀身は質実剛健。しかしよく見ると、単純な鋼刀に見える刀身には、表面にびっしりと細かい魔術文字が刻まれているのがわかる。
『サイバスター』が、その刀を最上段に振り上げた。刀身に刻まれた無数の魔術文字が、銀色の輝きを宿す。剣の先端に、銀色の輝きが凝集する。ちょうど、先程掌中の空間に穴を穿った時と似て。いぃん、いぃん、という独特の軋みを轟かせて。
「おおおおぉぉぉぉぉりゃああああああッ!」
ぎしぃっと、一際大きな軋みと、正樹の雄叫びと、振り下ろされる『ディスカッター』の剣閃が轟いたのは、ほぼ同時。
ぎりりりり。鋼板を焼き切るような、ただ太刀を振り下ろしただけではあり得ない異音。剣の先端に凝集した《魔装》の銀色が、切っ先の軌跡に沿って、空中に大きく弧を描く。
(違う、あれは《魔装》の残映じゃないわ。それだけじゃない……!)
アーネがそう確信を漏らす前で、『サイバスター』は銀色の軌跡に、左の掌中に納めたままの、空間の欠落である万華鏡を叩きつける。
否や、鼓膜を引き裂く轟音が駆け巡った。
空中に刻まれた金色の弧月。その弓の中心に打ち込まれた万華鏡の輝きは、導火線上を駆ける炎の様に広がり、銀色を飲み込んだ。炎で描かれた弓。震え、燃え上がり、そして、弾けた。
ぎぃぃぃぃん!! 空間が断末魔を上げる。銀色の《魔装》が空間に傷を刻み、左手のワームホールが亀裂を穿つ。そして、ぴんと張った布に刻まれた傷がそうなる様に、空間の亀裂はぐぐっとその幅を広げ、瞬く間に真円へと形を変貌させた。
「いっくぜぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
覇気そのものを体現するような叫び。空気をびりびりと震わせながら、『サイバスター』は飛翔した。
自らが穿った空間の穴から飛び離れ、ぐんぐんと距離を空けてゆく。その速さ、正しく疾風。《魔装》の光の残影を残し、瞬く間もなく視界から消失する。
(一体どこに……?)
誰もが抱く疑問。しかし、彼らにそれを弄ぶ時間は与えられなかった。
飛び去った『サイバスター』の機影。それが、大きくブーメランの如き軌跡を描いて戻って来たからである。
大きく広げられた、翼状の推進機。そこから迸る光は、さながら鳳の翼のようで。
「まるで、『ディシュナス』みたい……」
光纏って天空を駆ける姿は、伝説に語られる神獣の姿を想起させる。
ラ・ギアスに存在するあらゆるものを越える速度を擁した風の魔装機神は、そのまま時空穴へと突き刺さって。
衝突の閃光が、全てを覆い隠し……そして、『サイバスター』の姿は、空間の穴もろとも、人々の前から忽然と消えた。
そして、空間の穴と、魔装機神が消え去り、その名残のようにはらはらと、金色の輝きが舞い落ちるを見上げつつ、アーネは確信した。確信する他はなかった。
ラングラン建国の祖マクレイル。戦国時代の雄クレオス。聖戦の天騎士ランドール……ラ・ギアスの歴史に数多く名を残す英雄達。その系譜に、新たなる名前が刻まれようとしていることを。
Ⅳ
バナン市中央公園……いや、今や『降魔弾』爆心地の中心。
『降魔弾』破壊による空間衝撃波が荒れ狂うを。三体の魔装機神、そして正魔装機八体が、自らの放出する《魔装》を格子とした檻の中に押さえ込む中で。
テュッティ=ノールバックは、ここに至って自らのプラーナ量への過信を悟った。
元々テュッティ自身、他の魔装機神操者――ほぼ操者中最高値を誇るリカルドやヤンロンと比較すると、プラーナ量ではいささか一歩を譲ると言わざるを得ない。
かつ、乗機である魔装機神『ガッデス』が、その装備の殆どを魔術的な装備に頼っている事もあり、プラーナの消耗は(比較的ではあるが)他の機体よりも激しい。
それに加え、先程のルビッカ=ハッキネンとの戦闘だ。長時間の交戦に加え、感情の爆発に任せて《昇位(レイズ)》を引き起こして機体を暴走させた結果、機体の右腕はへし折れ、目に見えない部分にも相当な負荷がかかっている。
限界は、唐突にやってきた。
ぐらり、と。単座型の車両を模した操縦席の情景が傾いだ。
(――目が……っ!?)
否。傾いだのは、テュッティ自身の身体だった。ハンドルを握りしめる手がぶるぶると震える。十分に湿っているはずなのに、口の中がからからに乾くような錯覚。自分の体重を押し返す座席の感触が、まるで自分を中に浮き上がらせているような感覚へと変貌する。
そしてその動揺は、彼女の駆る機体にも、確実に影響を及ぼしたのである。
がくん! 今度は錯覚でも何でもない。全身を揺さぶる振動。《精霊殻》に映し出された映像が、斜めに傾ぐ。
(あ……れ?)
テュッティの脳を、疑問符が埋め尽くす。何が起きたのか、認識できない。それ程までに彼女の神経は疲弊していたのだ。
(ああ、バランスが崩れたんだ。立て直さなきゃ……)
思い至るに、約三秒。眩む視界はさておいて、揺らぐ足下を支えるに集中する。
そして、それは致命的な結果をもたらす事になった。
意識が揺らぎ、圧縮する力の弱まった《魔装》の防壁。衝撃波本来の拡散しようとする力と、魔装機達がそれを圧縮しようとする力。辛うじて拮抗していたその力に、一点の穴が穿たれる。
そして。
テュッティが自らの失態を認識したのは、防壁を破って溢れ出した衝撃波と、それに灼かれて金色に輝く《魔装》の入り交じった濁流が、視界の全てを飲み込んだ瞬間だった。
ゴルド=バゴルドは、その瞬間を生涯忘れることはなかった。
三機の魔装機神が降臨した時、自らの破滅を望んでいたゴルドでさえも、思わず『助かった』と思った。魔装機神の力ならば、あの破滅の波動を抑え込むことができる。まして、七……ではない、八体もの正魔装機が加わったならば。そう無意識で確信していた。
彼をしてそうなのだから、無理もないのだろう。魔装機達の雄姿に見惚れるように、人々の視線がちらちらと背後と前方を往復し、知らずの内に駆ける足が鈍ったのも。
無論、全速力で駆け続けたからと言って、空間衝撃波の奔流から逃れられたとは限らない。しかし、人々の心に油断があったことも事実だ。
――だから、人々は見てしまった。
黄金色に輝く《魔装》結界。その一角……彼と《剣皇》の娘に最も近い頂点を占める青の魔装機神『ガッデス』が、ぐらりと膝を折る姿を。
『ガッデス』が纏う《魔装》の光が揺らぎ、結界に一条の亀裂が走るのを。
そして、結界のひび割れに、さながら堤防が決壊するが如く黄金色の奔流が押し寄せ、結界を引き裂き、溢れ出したその瞬間を!!
「ぬぉっ……!?」
喉の奥から、驚愕の声が絞り出される。その声に覆い被さり、結界の亀裂から黄金色が迸る。
凍り付いたゴルドの視線の先で、膨れあがる金の輝き。一瞬が幾千にも裁断され、膨張するエネルギーが大地を剔って迫る姿が、スローモーション映像のように網膜に焼き付く。
「……きゃ」
掠れた悲鳴が、衝撃波の轟音を掻き分けて耳に飛び込む。それは、傍らを走っていた《剣皇》の娘のものだ。
自殺願望。相反する衝動。破滅の光。《剣皇》の娘。幾つもの要素が、ゴルドの脳内を駆け巡る。溶け合い、 渦を巻き、そして一つの衝動を導き出す。
両足が、大地をしっかと踏みしめる。両腕を鳳の如く広げ、両眼を喝と見開く。
正しく仁王立ち。睨み据えるは黄金の波濤。背後に庇うは幼き少女。
――無論、そんな事をしても、圧倒的なエネルギーの波濤の前では何の意味もないことはわかっている。
それでも、身体は動いてしまったのだ。最後に残った矜持と本能が命じているのだ。
瞬く間もなく、黄金の波濤が迫る。もはや、為す術はない。 自らの無力に、ぎりぎりと歯を食いしばる中。
ゴルド=バゴルドは目撃した。
黄金の光の満ちる先で、空が裂ける光景を。
そして、空の裂け目をくぐり抜け、神々しき白銀の翼が舞い降りる瞬間を。
「そんな、もう『エーテルストリーム』が!?」
『サイバスター』が切り裂いた時空の穴。その奥に穿たれた異空間のトンネルの中で。
ウェンディは、通常空間から受信した現場の状況に悲鳴を上げた。
ウェンディにできるのは、あくまで発動前の『降魔弾』の無力化までだった。周囲空間に展開されてしまった消滅演算子には、ウェンディの準備できる手段では対処できない。破壊後に生じる『エーテルストリーム』についても同様だ。
即ち、ウェンディに打てる手は、既に失われたということだ。
「なんてこと。これじゃ、私が行っても意味がない……!」
口に出した言葉が、解き放たれないままに胃袋の奥に沈殿する。何という無力か。折角、正樹が『サイバスター』を目覚めさせたというのに。奇跡は、結局無に回帰してしまうのか。
「――わかった、やってみる」
絶望に麻痺した耳に、小さく呟く声が届いた。ふと面を上げ、振り仰いで声の主を見る。
呟きを発した正樹。その口元に未だ不敵な笑みが浮かんでいるを見て、ウェンディは息を呑んだ。
「ウェンディさん。『エアリアル・インフレート』の発動モジュールを、3ステップまで頼む。その後は3915と、7781、その後5548のモジュールを連動させてくれ。繋ぎ方は任せる」
「え……?」
「頼む。そこまでやってくれたら、後は俺と『サイバスター』で何とかする」
視線をちらと眼下のウェンディに向けて言う正樹。しかし、ウェンディは彼の言葉に狼狽した。
「ちょ、ちょっと待って? そんなものを使ったら、それこそ人質も、他の魔装機も破壊してしまうわ!」
『エアリアル・インフレート』とは、『ザムジード』の『レゾナンス・クエイク』などと類を同じくする広域殲滅兵器である。風の《魔装》を周囲空間に散布し、それを媒介として空間にストレスを加え、瞬間的に沸騰させるものだ。
確かに、これを最大出力で放てば、空間衝撃波である『エーテルストリーム』さえも相殺することができるだろう。だが、それは『エーテルストリーム』を封じ込めるために、結界を張っている他の魔装機をも纏めて吹き飛ばすことになる。
にもかかわらず……正樹は不敵な笑みを崩さないままで。
「大丈夫だ。『サイバスター』が、できると言ってる。信じろよ……あんたの産んだ風の魔装機神を」
言って、彼は視線を正面へと戻した。自分に何ができるのか。何をするべきなのかを全て知った目を。
「そして、信じろよ。あんたと『サイバスター』が認めた、この俺をさ!」
どくん。心臓が一つ弾み、頬にかっと熱い感触か生まれるのに戸惑う中で。
《精霊殻》の内殻モニターの光景が純白に満たされ、亜空間の終わりを告げた。
その瞬間を、ホワン=ヤンロンは見た。
テュッティ=ノールバックやリカルド=シルベイラも勿論、ファング=ザン=ビシアス、シモーヌ=キュリアン、アハマド=ハムディ、レベッカ=ターナー……その他の魔装機操者達も見た。
ゼオルート=ザン=ゼノサキス、そしてその娘プレシア。ゴルド=バゴルドを始めとする『ジラドス』残党と、かつて彼らの虜囚であった人々も見た。
EVを通して、フェイルロード=グラン=ビルセイアも、セニア=グラニア=ビルセイアも……そして、多くのラングランの人々も見た。
空を裂き、舞い降りる白銀の鳳を。
それが、空中で一回転したと思うと、人の形へ……魔装機神『サイバスター』の姿へと変じたのを。
そして、背に負う一対の翼状推進ユニットから銀色の輝きが迸り、それが瞬く間に鮮やかなスカイブルーの輝きを帯びるのを。
青空を映したような輝きは、幾条もの光の束となり、四方へと飛散して。
二本は『サイバスター』を中心に、バナン市全てを覆い尽くす巨大な二重円を描き、一本がその合間に複雑な魔術文字を描く。
さらに新たな二本は互い違いの方向に飛び、内円に触れては跳ね返り、二重円の中に巨大な六芒星を形作る。
火と水、肉体と霊魂、破壊と創造……相反する二つの存在を融和させるという六芒の陣が成った瞬間。
蒼の光が、弾けた。
魔法陣から解き放たれた輝きは、瞬時に天空を駆け抜け、エオルド大陸全域を包み込まんばかりに広がった。
ぃいん、ぃいん。光が駆け抜けた空が、唄うように震える。震動の隙間に見える淡い蒼は、疾駆した光の残滓だろうか。
否、そんなはずはない。残滓が、輝きを増すはずがない。最初の輝きは呼び水であったかのように、蒼の輝きは光を強めてゆく。そこここの空を埋め尽くし、溢れだし、エオルドの空を蒼の輝きで埋め尽くす。
そして、輝きが臨界を迎えたとき。
まるで、潮が退くように。
光が、収縮した。
先触れの光に、数倍、いや、数十倍する輝きが、発生点であるバナンに凝集する。
無数の輝きが、『サイバスター』の呼び声に応え、集まってゆく。
それは、渦を巻き、結界を割って溢れ出した『エーテルストリーム』を、そして《魔装》の結界そのものを包み込む。
溢れ出した僅かな『エーテルストリーム』は、瞬く間に蒼の輝きに分解され、虚空に黄金色の飛沫を散らして消える。
結界を張る魔装機操者達は、その手応えから、蒼の光に包まれた破滅の輝きが、その力を弱めたことを感じ取った。
とっさに、力尽きかけた自らを奮い立たせ、結界に《魔装》を送り込む。
万色の結界が、破滅の波を封じ込め、
蒼の輝きが、その波を浄化してゆく。
今や、明らかに《魔装》の結界は収縮しており、それは『エーテルストリーム』の弱体化を意味していた。
(このまま、行けっ!)
その光景を見つめる誰もがそう願い、それに応えるように蒼の輝きは力を増して。
リィィィィィィィィオォォォォォォォォォォォゥ!!
『サイバスター』が上げる、千の鈴を束ねたような凛とした雄叫びが轟き、
――そして、ついに。
断末魔のような輝きを、一つ放って。
破滅の波動は、消え去った。
結界を張る魔装機操者達は、自らの手に伝わる抵抗が無くなった事から、『エーテルストリーム』が消滅したことを悟った。
次々と、疲れ切ったように、膝を折る魔装機達。
呆けたように、しかしどこか誇らしげに見上げる空では、白銀の巨神が、凱歌にも似た咆吼を上げていた。
そして、改めて噛みしめる。
自分たちが、勝利したということを。
奇跡のように覚醒した『サイバスター』が、高らかに叫ぶ下で。
Ⅴ
ウェンディは、震える自らの手を、必死に抱き留めていた。
動悸が激しい。視界が揺れる。呼吸が定まらない。
(今のは――何!?)
ウェンディの脳を、幾重も幾重も、その言葉が駆け巡っていた。
たった今、『サイバスター』が放った輝き。それは、信じられないほど理想的な形で、『エーテルストリーム』を消滅して見せた。
そう、『サイバスター』を産み出した、ウェンディ自身に信じられないほどに。
(あんな機能、私は設計してない!)
元々、魔装機は《魔装》の制御法や、精霊との同調による魔術的な手段によって、攻撃手段の拡張が可能なように設計されている。
しかし、それはあくまで理論上のこと。余程操る魔装機と、精霊の特性を熟知しない限り、そのような機能拡張は不可能である。
もし、こんな機能拡張ができるとしたら、それは正樹が、『サイバスター』自身と一体化するほど精密な同調を果たす必要がある。
確かに、そう言う仮説はある。《
少なくとも――『サイバスター』に乗り込んで僅か数分の正樹に、できる芸当ではない。
(一体、何が起こったの……? 私は……私は、一体何を創ったの!?)
”そんな些末なことに拘っている場合ではないだろう?”
どくん。心臓が一つ脈打ち、深紅の血流を全身に流し込む。不思議と、全ての疑念や疑問、恐怖や戦慄が、血流の中に溶け去っていくようだ。
呼吸が落ち着き、周囲に意識を配る余裕が生まれる。ゆっくりと『サイバスター』は降下し、《精霊殻》に映る情景も少しずつ視点を低下させている。他の魔装機は膝を折っているのが見える。史上最大級の大規模戦闘の上、結界を張り続けた事による疲労が原因だろう。
ふぅ、と息を一つ吐き出す。経過はどうあれ、バナン市市街や人命への被害は、最小限に抑えられた。
無論、それはラングラン王国軍、そして魔装機神隊の必死の努力によって、辛うじて得られたものだ。だが、最後の瞬間に、全ての努力が無に帰しようとした瞬間に、正樹は『サイバスター』を覚醒させ、王手詰みの一手を打った。その功績を賞賛しても罰は当たるまい。
その時、《精霊殻》モニターの端から、呼び出し音が鳴り響いた。
「『サイバスター』応答しろ! 一体誰が操縦している!?」
応答信号を送る前に、モニター一部が四角く切り取られ、ホワン=ヤンロンの顔が映し出された。その目元は落ち窪み、彼が相当に消耗している事を示していたが、彼の態度はそんな事を露ほども感じさせない。
「ヤンロン、大丈夫? かなり無理していたみたいだけど……」
「ウェンディ!? あなたが乗り込んでいたのですか?」
応答したウェンディの顔に、ヤンロンは少なからざる驚愕を浮かべた。純粋なラ・ギアス人であるウェンディに、魔装機神を戦闘状態で起動できるだけのプラーナはない訳であるから、その驚愕も的外れなものではなかったのだが……
「違うわ。私はサポートしただけ。実際に機体を動かしていたのは……」
真実はそれはそれで、彼を仰天させずにはいられないだろう。その光景を想像してやや意地悪い笑みを浮かべつつ、ウェンディは操者の名を告げようとする。
と、ウェンディの声を掻き消すように、一斉に通信要請信号が鳴り響いた。
「おうぃ、最高のタイミングで出てきたヒーローさんよ! まだ生きてるか?」
「ハロー? 応答願うよ! あんた誰だい?」
「いやぁ、凄い光でしたねぇ。一体何をなさったんでしょうか?」
「『サイバスター』操者! 官・姓名と所属を返答しろ!」
魔装機操者というのは、揃いも揃って応答を待つという礼儀を知らないのだろうか? 思いの外元気そうに口々に問いを放つ操者達に、ウェンディは苦笑を漏らしつつ、全員に向けて労いの言葉を返した。
「みんな、ご苦労様。みんなのおかげで、『降魔弾』は完全に阻止されたわ」
「ウェンディだったのか!?」
「これは意外ね、てっきりあたしは……」
これまた揃って予想通りに仰天する。十人十色の表情変化を眺めつつ、ウェンディはそろそろ真実を開陳するタイミングであろうと判断した。
「私じゃ『サイバスター』を動かすなんてできないわ。『サイバスター』を起動させたのは……ほら、そろそろ自分で挨拶をしたら?」
悪戯っぽい笑みを浮かべつつ答え、ウェンディは背後に座る『サイバスター』操者へと声を送る。
返答がない。
「え……ちょっと、マサキ!?」
その時に至って漸くウェンディは、先程から正樹が一度たりとも声を発していない……それどころか身動ぎ一つしていない事に思い至った。
「何! 操者はマサキなのか!?」
「あの野郎、まさかこのタイミングを狙ってやがったのか!?」
ヤンロン達が口々に仰天の声を上げるが、相手にしている暇はない。取りあえず黙殺し、ウェンディは背後を仰ぎ見た。
そこには、確かに安藤正樹の姿があった。
ただし、がっくりと頭を垂れ、ハーネスによって辛うじて身体を座席に留めた姿勢で。
殆ど耳にも届かないほど弱々しい呼吸を繰り返し、両の手だけは辛うじて操縦桿に収めたままで。
ウェンディは、背筋を氷の塊がなぞって落ちるような悪寒を感じた。
「そんな……一体どうしたの!?」
悲鳴じみた声を上げつつ、正樹の身体を拘束するハーネスを取り外す。途端に、正樹の身体は力なく崩れ落ち、ウェンディの上に覆い被さるように倒れこんだ。
「きゃっ……、ちょ、ちょっと、マサキ!? マサキ!」
父親の他には殆ど触れた事のない男性の身体にどぎまぎしつつも、そこからひやりとした熱を奪われる感覚があれば、羞恥の念など些事に過ぎない。生命に危険なレベルにまで、体温が低下している。
脈を測る。弱々しく、回数が多い。小刻みに震える体躯は、悪寒によるものか、それとも別の何かか。
(この症状は……もしかしてプラーナ過剰消耗!?)
はっと脳裏に浮かんだ症状を確かめるため、オールレンジビューへと視線を移す。一画に暗褐色の光を宿すメーターが見える。これは、操者のプラーナ状態を示すインジケータだ。白から青、赤へと色が変化し、操者のプラーナの残量を表現する。
現在インジケータが示す色は、暗褐色。赤を通り越して黒に近い。それは、プラーナが生命の限界を超えて消耗していることを意味している。
「マサキ!? しっかり! しっかりして!」
さぁっと血の気が引く感覚に追い立てられる様に、ウェンディは正樹の肩を掴んで揺さぶった。力無くがくがくと傾ぐ頭が恐怖を煽り立てるが、構ってはいられない。プラーナを喪失した状況では、意識を失うのがもっとも危険なのだ。
「う……くぅ」
幾度目かの揺さぶりの衝撃に、血の色を失った唇から呻き声が漏れた。思わず、安堵の息をつく。意識が戻れば、まだ暫くは保つはずだ。
姿は見えないものの、ウェンディの声音から状況を察したらしい。ヤンロンが問いを放った。
「どうした、ウェンディ? マサキに何かあったのか?」
「ええ。ちょっと、プラーナの消耗過剰を起こしているみたいなの。今すぐ装置にかけないと危険だわ。悪いけど、先に王都に帰還させて……」
「…………待ってくれ」
問いかけに答えるウェンディの言葉を、彼女の腕の中から弱々しい、しかしはっきりと通る声が遮った。
「マサキ!? 喋ったら駄目よ!」
言って身を起こし、操縦席に戻ろうとする正樹に、ウェンディは慌てて制止の手を伸ばす。しかし、彼はその手首を握り、脇へと振り払った。そして、鈍い光を放つ操縦桿へと再び手を納め、
「地表に降下する。まだ、下でやらなきゃいけない事が……残ってるみたいだ」
言って、モニターの隅を凝視する。
その目元が秒単位で揺らぎ、定まりの間で揺れるのに青ざめつつ、ウェンディは彼の視線の行く先を追った。
そこには、二つの人垣があった。一つの小さな人垣があって、それに相対するように今一つの人垣がある。二つの間は、目に見えるかと思う程明らかな緊張の障壁によって阻まれ、見下ろすウェンディに、不幸極まる衝突の種の萌芽を嫌が上にも予感させた。
そして、その間に煌めく蜂蜜色を認めたとき、ウェンディは正樹が何のために、誰を救うために大地に降り立とうとしているのかを悟った……少なくとも、彼女はそう確信した。
Ⅵ
風が、火照った身体に心地よかった。
全界をあまねく照らす天球は既にして闇中に姿を隠し、今は月が、ラ・ギアス創世の瞬間からそうであるように、その周を囲む大地に満ちる生命を、微動だにせぬまま見守っている。
深く、静かな夜。かつて光照らす時間があったことが、まるで夢物語か何かであるように、深い。
まして、その昼間が幾人もの人の命を散らし、鋼と鋼が相打つ戦時であったなどとは。今の静けさの前では、それさえも幻想の欠片であるかの様に、遠い。
「……あ痛っ」
ついいつものように、未だ乾ききらない髪を指先で撫でようとして。爆風に転がされ、小石にぶつけて切った額の傷が、プレシア=ゼノサキスの夢見心地な思考に、忘れるなと言わんばかりに自らの存在を誇示した。
それを引き金に思い出す。浴槽で、湯を浴びた途端に全身に走った痛みを。熱風で縮れ、いくばくかの艶を失った蜂蜜色の髪を。今寝間着の下に隠れた四肢には、無数の傷が散りばめられていることを。
そうだ。あれは決して夢幻などではない。ほんの半日前まで、プレシア=ゼノサキスの身体は、死と破滅の跳梁する大地にあった。今の穏やかな時間に比べれば、ほんの僅かな時間だというのに、その間に一体幾つ、世に死線と呼ばれる陥穽を飛び越えたことか。
フラッシュバックのように思い起こす。造反者達の魔装機に取り囲まれ、囚われるに任せるしかなかった瞬間を。包帯まみれの姿が痛々しい、しかしその印象さえも一瞬で戦慄と嫌悪に塗り替える程冷たく歪んだ目をした男と、その手に握られた拳銃を。最愛の父の、鬼神の如き戦姿を。
天を覆った破滅の光を。そして、膨れあがるそれを阻む巨神達を。巨神の壁を破って溢れ出した黄金の奔流と、その瞬間自分を庇うように立ち塞がった男の姿を。
そして……天を裂き、全ての絶望を青の光で消し去った、あの神々しき白銀の翼を。
本当に……たった半日の間に、どうしてこんなにも色々なことが起きたのか。壮烈な非日常の嵐は脳裏を駆けめぐり、整然とした思考を阻害する。
しかし、そんな中でもある一連の事件に限っては、彼女の混濁した意識の中でも整然とイメージを結んだ。
それが彼女の中で一際鮮明なのは、自分自身がその当事者であったこともさることながら、一日の事件の中でもっとも、彼女の価値観で理解しやすい事象だったためだろう。
それは……あの英雄奇譚の一節のような半日の終末に。忌まわしい『降魔弾』が破壊され、その余波である衝撃波も、魔装機隊と魔装機神『サイバスター』の輝きによって消滅せしめられた直後のことだった。
「こんなの、絶対に違う! 間違ってますよ!」
気付いたとき、プレシアは殺気を漲らせる人々の前に、自らの腕を大きく広げて立ちはだかり、そう叫んでいた。
あたしは、一体何をしてるんだろう? 敢然と立ち向かう外見に反して、彼女の内心は目が眩むような恐怖と困惑に満たされていた。
プレシアがきっと見据える前にあるのは、十人十色、年齢、性別、着衣……全てがまちまちな人々だった。つい先程まで、『ジラドス』兵士達の銃口の前で怯えるしかなかった人々の群。
そして一方、プレシアの背後にあるのは、予想外の成り行きに呆然として、少女の背中を見つめる男達。心底予想外という表情を張り付けて立ちつくすゴルド=バゴルドを先頭に、怯えているとも見える振る舞いで身を固める男達。かつて『ジラドス』として人々を脅かし、首かいに裏切られ、上層に見捨てられ、あまつさえ身体にも負傷を負って、心身共に満身創痍で今や敗残兵と化した者達である。
(あたし、何でこんな事してるんだろう?)
今一度、疑問が脳を走り抜ける。殺気の束が全身を貫き、ほんの少し気を緩めただけで、腰から下がばらばらに砕け散ってしまいそうだ。生の殺意とは、これ程までに心を萎縮させる物だったのか。
だが、そんな恐怖に身を凍えさせつつも、プレシアはきっと前を睨み付けていた。自らその行動に疑問符を打ちつつも、沸き上がる衝動が、彼女にここで退くことを許さなかった。
「邪魔をするな! 何でそんな連中を庇い立てる!?」
元人質の人垣の先頭に立つ男――確か、赤い光が膨れ上がる直前、ゴルド=バゴルドに拳銃を突きつけられていた男だったはずだ――が、険気も露に怒鳴りつけた。
(そうだ、あたしは何をしてるんだろう?)
もうこれで幾度目になるのか。自問の言葉が脳で渦巻く。
発端は、あの清浄な光が『降魔弾』の光を拭い去った直後。確かこの男が、渋々という風で背負って走っていた『ジラドス』負傷兵を、投げ捨てるように放り出したことに端を発する。
いかに相手が犯罪者とは言え、仮にも負傷者に対しての行為としては非道である。本人としては、あわや銃殺される寸前だった事に対するささやかな意趣返しのつもりだったのだろうが、当の兵士が負傷箇所を手酷く打ち付け、傷口に巻かれた即席の包帯に新たな朱色が広がっているのを見れば、『ジラドス』側からも反発の一つも起きようと言う物である。
しかし、その反駁の声を上げたのが、奇しくも彼に銃口を突きつけていた男、ゴルド=バゴルドであった事が、事態を悪化の方向に加速させた。
過剰反応が過剰反応を呼んで。半日の間虜囚とされた事、あわや命を失う寸前まで追い詰められた事。鬱積した反発心は元人質の心に火種をまき散らし、連鎖を起こして爆発した。
その光景を、プレシアは何もできないまま見つめていた。どうして、辛うじて命が助かったばかりの今、わざわざお互いを傷つけなくてはならないのか。当事者であるが故に、彼らの感情がある程度理解できるだけに、なおプレシアは悲しかった。単純に許すことなどできはしないだろうと、彼女の理性も感情も冷徹に告げていたから。
そして、ゴルド=バゴルドも、同じ結論を持っていたのだろう。そして、彼は彼なりに、最善と思われる行動を取った。
「全ての責任は儂にある。だから、儂を貴殿らの好きにしてくれ。だがその代わり、傷ついた者には手を出すな」
そう言って、ゴルドは殺意の矢面に自ら身を晒したのだ。
殺意の矛先が、一瞬のうちにゴルドへと凝集するのが明らかに感じられ、人々が彼の提案を受け入れたことが……受け入れてしまったことが知れた。そして、彼の背後の兵士達までも、安堵の息を吐いてしまったことも。
何と言うことだろうか。魔装機隊が死を賭して、『降魔弾』の脅威から救ってくれた矢先だと言うのに。蒼く清冽な輝きが、全ての者を分け隔てなく護った下で。
どうしてこのような、たった一人を人身御供に差し出して、血祭りに上げて安堵するような。満足するような。そんな汚れた惨劇が行われなければならないのか。
恐怖が。疑念が。絶望が。……そして純粋な悲しみが吹き出した。子供らしい潔癖さに故してか、ただ自分自身の死以上に壮烈に。
そしてそれは、彼女自身の正義感と融和し……プレシア=ゼノサキスを、ある行動に駆り立てた。
思考が行動を理解する前に。衝動が全身を貫いて。
気付いたときには、彼女の視界からゴルド=バゴルドも、『ジラドス』兵士達もなくなっていた。
何故なら、それらの全てが、両手を広げて壁を成す自分自身の背後に隠れた……否、隠したからだったのである。
――あの時のプレシアは、何を考えて『ジラドス』の人々を庇ったのか、自分自身でさえ理解できていなかった。
何故、父は遠くから見守るだけで、手を貸してはくれなかったのか。それも、今ならばなんとなくわかる気がする。
本当に、人々が放っていた殺意が、恐ろしかったから。でも、それに耐えてでも、やらなくてはいけないと思ったから。
人に、罪を犯させてはいけないと思ったから。悲しみの連鎖が連ねられるのを、黙って見ていることはできなかったから。
だから、今なら想像できる。父は……教えたかったのだろうと。正しいと思うことを、貫くことの恐ろしさを。正しきを貫き、それを世に示すべき、《戦士》の背負う宿命を。
《戦士》とは、戦う存在である。《戦士》でない人々の代行者として、殺傷……もしくは殺戮の業を背負うべくして定められた。人として最大の咎を自らの務めとするが故に、数々の特権を認められている。
だが、務めとすると言うことは、裏を返せばその業を自らの一身に引き受け、他の人々にその咎を背負わせないように抑止する義務があるとも言える。人がもし、その咎を犯そうとしたとき。それを、全力を持って阻止する義務を背負っているとも。
言葉としては、プレシアも理解していた。しかし、実際にその義務を果たそうとしたとき、それがどれほど恐ろしく、そして寄る辺のないものであるかは理解できていなかったのだ。
あの時間……たった一人で人々の憎しみと殺意の矢面に立った時間。それがあと数分続いていたら、自分は恐怖に耐えられず、その場に崩れ落ちて泣き出すなりしていたことだろう。自らが《戦士》として護るべき人々の、怒りを解消する手段も、説得する言葉も持ち合わせていなかった自分は。
プレシアは思い起こす。ほんの少し、頬を火照らせながら。
自分の窮地を救って見せた英雄の姿と、そしてその後に続いたささやかな事件を。
緊張の糸は、限界まで張りつめていた。元人質であった人々が放つ殺意は、流れるべき道筋を妨げられ、障壁となっているプレシアの目の前で鬱積され、弾ける寸前だった。
そんな時、風が吹いた。
頬を撫でる風は、怒りも悲しみも、あらゆる火照った感情が冷まされるように涼やかで。
自らを貫く殺意の束がふっと薄れ、思わずその場にへたり込んだプレシアと、その側に知らぬ内に歩み寄っていたゼオルート以外の全員が、その涼風の源を見上げていた。
『よくがんばりましたね』と目線で語りかける父に、辛うじて笑みを返して見せて。プレシアもまた、風の源たる『それ』へと視線を向けた。
――銀の翼が、空を覆っていた。
翼の主は、騎士……そう、白銀の騎士と表現するのがもっとも適切であろう巨神であった。それが、白銀の翼を大きく広げ、彼女達の前に降り立とうとしているのだ。
目を凝らせば、翼は銀色の《魔装》が、収束不充分な状態で放出された結果、粒子が大きく翼状に広がっているものであると知れた。甲冑の外輪郭に時折ノイズのように揺らぎが生じる事にゼオルートはかすかに眉を顰めたが、プレシアを含めた殆どの人々は、遂に覚醒した風の魔装機神『サイバスター』の神々しき姿に目を奪われ、機体に生じているかすかな異常に気付くこともなかった。
彼らがその異常に気付いたのは、『サイバスター』が地上に降り立ち、操者が機体から転送されて姿を見せた時だった。
操者が安藤正樹であることは、人々にとってある程度予測できたことだったので、さほどの驚きはなかった。
むしろ、魔装機神の基礎設計主任者であるウェンディ=ラスム=イクナートが機体に同乗し、酷く衰弱した様子な操者マサキに肩を貸していることの方が、驚きの度合いは強かったかも知れない。
元人質と『ジラドス』を問わず、皆が固唾を飲んで見つめる中で。今や魔装機神操者となった正樹は、頼りない足取りをウェンディに支えられながら、彼らの方へと歩みを進めた。
そして、未だへたり込んだままのプレシアと、その隣のゼオルートの側に歩み寄ると、久方ぶりに顔を合わせることになった人々に小さく笑みを閃かせ、そして視線を周囲に一巡させた。
「あんたら……何やってるんだよ」
一瞥しただけで、正樹には何が起きようとしているのか理解できたようだった。その言葉は、問いかけではなくむしろ糾弾だった。
「お、俺達は、ただ……」
元人質の先頭に立つ男が、気圧されたように揺れる声音で答える。しかし、そんな弁解を正樹は平手を突きだして制した。
そして、問いかけた。
「あんた……殺しは好きか?」
弱々しくも、あまりに鮮烈な問いの言葉。耳に飛び込んだそれはまず人々に自らの耳の機能を疑わせ、続いて恐怖と動揺の漣となって、人々の頭上を駆け抜けた。
「そ、そんなはずがないだろう!」
問われた男が、ぶるぶると頭を振って否定する。そう、それが当然の返答だろう。この状況で、この質問に是と答える人間がどこにいるだろうか。
「そうか、じゃああんたは?」
正樹はその返答を聞き届けると、その隣に立つ今一人の元人質に問いかけた。そして答えを得て、また次へ。
その問いが、いったい何を意味しているのか。プレシアは勿論、正樹に肩を貸すウェンディにも理解できてはいなかったに違いない。
その瞬間の正樹の意図を理解できていたのは、恐らくはゼオルートただ一人であったことだろう。それも、少なからずの驚愕と共に。その行動が、彼の知るある逸話に、極めて酷似していたが故に。
問いを元人質五人ばかりに繰り返し、各々の口から『否』の答えを得て。人々の疑問の視線の中、正樹はくるりと振り向いた。
「…………む」
振り向いた正樹の視線がしっかと捉えていたのは、『ジラドス』幹部であり、この作戦の総指揮を(名目上とはいえ)執っていた男、ゴルド=バゴルドの姿だった。
「あんたは……どうだい? 殺すのは……傷つけるのは好きかい?」
今一度、正樹の口が紡ぐ問いの言葉。それまでに数倍する動揺が、人々の間を駆け抜ける。
そして、誰よりも動揺しているのが、問いを投げかけられた当人、ゴルドだった。
(何のつもりだ、この少年は……?)
ゴルドは黙考する。目の前に立ち、じつと自分を見据える風の魔装機神操者を見返し、その真意を探りながら。
もし、自分が『是』と答えたならば。
自分は、正真正銘の悪として、人間とは異なる、悪という存在としてカテゴライズされる。傷つけること、殺すことを嗜む存在は、メンタリティとして既に人間の範疇には分類できない。それが一般的な世界の常識である。
そして何より、正樹が幾度かの問いによって、『否』と答えることが正当な人間の答えであるという印象化を行っている。ここで『是』と答えれば、自分は正真正銘の悪魔……そう、例えばかのヴォルクルス信徒や、今はもう跡形もないガスパ=アルバレツのようになることができる。
全ての悪を体現するもの。それに自分がなってしまえば、人々は自分を処断する正当な理由を得ることになる。リンチではなく、純粋な悪の断罪。そうなれば、人々は自分を処刑することに、何の罪悪を感じることもあるまい。
つまり、この少年は、人々が自分を処罰することの正当な理由を作ろうとしてるのだろうか?
……では、その一方で。もしも自分が『否』と答えたならばどうなるのか。
人々はこれによって、鬱積した怨嗟の捌け口を失うだろう。たとえ自分を処刑したとしても、いつの日か彼らは、自らの手を汚してしまったことに心を苛まれることになる。相手が悪魔ではなく、人間であったなら。少なくとも、彼らは『ヒステリーによって人間を私刑にかけた』という咎に苛まれ、『善良な市民』の誇りを喪失することになるだろう。
そして、自分が得るものは何だ。何も得られはしない。そもそも、もはや誇りも目的も失った自分が、いったい何を得るというのか。得て意味があるというのか?
そもそも、ここで『否』と答えることは重大な矛盾だ。自分は、ラングラン王国に致命的な一撃を与え、魔装機という守護神を破滅させるために戦っていた。それでありながら、殺傷を忌むと言うならば、それは致命的な矛盾であり、なおかつ自分の背後に控える兵士達に対する裏切りとなる。
……意味がない。何の意味もない。ここで『否』と答えることは、人々に罪悪感を残し、兵士達を裏切る結果しかもたらさない。本当に皆のことを想うならば、ここで『是』と答え、生け贄となることが正しいのだ。
だが……それでもなお、ゴルドの口は誓約の言葉を紡ぐことを拒絶した。
どうしても、彼に残った最後の矜持が、殺傷を『是』とすることを認めなかったのだ。
だから、ゴルドは答えた。望まれざるべき回答を。
――瞬間。
何かが、ゴルドの頬を貫いた。
完全に虚を突かれた。殺しきれなかった衝撃で全身が空中でぐるりと回転し、地面に俯せに倒れ込む。
鼻の頭が地面に激突する。プレシアが、そして元人質の人々が息を飲み、兵士達がどよめく声が聞こえる。
一瞬の混乱の後、頬が痛みを主張し始め、ゴルドは自らが頬を拳で打たれたことを悟った。
「やりたくないことなら、最初から、やってるんじゃねぇよ!」
拳を突きだした姿勢のまま。ありったけの声をかき集めて、ゴルドの頬を打った張本人が吼えた。
酷く衰弱しながら、それでもなお覇気を失わない声。否応なしに、人々の意識が集まる。今、確実に安藤正樹は、世界の中心に立っていた。
「おまえは、罪を犯した。おまえのために、一体何人の人が命を失い、傷を負い、生活の場を失ったことか。おまえは、その罪を償わなくちゃならない」
そう、大地に転がるゴルドを見下ろして言い放つ正樹の声。しかし、それがゴルド本人よりはむしろ、その周囲を囲む他者にこそ向けられているように聞こえるのはウェンディの錯覚だったろうか。
「だ、だからこそ、儂は……それがしは、この命をもって全ての罪を償おうと……」
「もう一度殴られてぇか! それは償いじゃなくて、逃げって言うんだよ! 全部の罪も罰もうっちゃって、あの世にトンズラする……そういうのを償いとは言わねぇんだ!
命の代価は、命をもってのみ償われる! いいか、てめぇが少しでも罪を償う気があるのなら、生きて生きて、徹底的に生きて人のために尽くせ!」
「生き恥を曝せと言うのか……」
「そうだ! 生き続けて、罵倒されて、それでもなお生き続けて、自分を憎む人々に尽くせ! 本当に誇り高く死ねる瞬間までな! それが、命の贖罪だ!」
残酷なことを言っている。正樹の言葉を聞き、ゼオルートは思った。
『ヴォルクルス信徒』の教義に云々されるまでもなく、死とは終末であると同時に、全てのしがらみからの解放でもある。人一人の背に負いきれない咎を背負ってしまったとき。死は絶対の救済としてそこにある。死罪とはある意味では、極めて慈悲深い処刑法なのだ。
しかし、正樹はゴルドに『生きろ』と言う。生き続ける限り、疎まれ、糾弾され、貶められる生命を全うしろと言う。そのどれだけ残酷なことか。果たして、ゴルド=バゴルドにそれに耐えられるだけの強さがあるのか。
「……心得ました」
たっぷり五分近くを沈黙に費やして、ようやくゴルドは返答を絞り出す。
その言葉に、正樹は一転して穏やかな、満足げな笑みを返した。そしてぐるりと一瞥し、バナン全域に轟かんばかりに声を張り上げ、宣した。
「今の言葉を聞いたな!? この男、ゴルド=バゴルドは、生き続けて罪を償う事を選んだ! 俺は、俺の誇りと名にかけてこの意志を承認する! 誰にも、この意志を妨げることはゆる……さ……」
その言葉の末尾で、正樹の意志力は限界を突破した。
「マサキッ!? ……きゃっ」
上体をぐらりと傾がせ、その場に崩れ落ちようとする正樹の体躯を、ウェンディがとっさに抱き留めようとして……予想外の重さに悲鳴を上げた。意識を完全に失い、自らの肉体をコントロールできなくなった者特有の重さ。
「マサキ! 駄目、今気を失ったら、戻れないわよ! マサキ!!」
周囲の人間が何事かと見つめる中で、幾度も頬に平手を打ち付けながらウェンディは呼びかける。しかし今度は、一向に正樹の意識は戻るそぶりを見せない。焦燥感が沸き上がってくる。
「ね、ねぇ、ウェンディさん。マサキお兄ちゃん、どうしちゃったの?」
「だ、大丈夫。気を失っているだけ。何とかする、私が何とかするから……」
袖にすがりついて問うプレシアに笑顔を作って答えつつ、ウェンディの頭脳は必死に記憶棚を探り、正樹を救う手段を検索していた。
正樹の症状は、明らかなプラーナ過剰消耗だ。言うなれば、起電力まで使い尽くした発電機にも似ている。それを治療するには、プラーナの自己再生を促せるだけの、呼び水としてのプラーナを外部から補給するしかない。
プラーナは一種の生体エネルギーであり、それは当然生物であれば必ず体内に保有しているものである。つまり、プラーナの補給とは患者に健康な人間のプラーナを移植することで成される……のだが。
問題は、どうやって正樹にプラーナを移すか、と言う事だ。プラーナの移植に必要な条件とは、プラーナ波長の同調と、二者の物理的接続である。前者は魔術的なフィルターを介在することで解消できるため、練金学に長けたウェンディにとって苦ではないのだが……。
問題は、『物理的接続』の方法である。
(この衰弱状況と、私の知識と技術を考えたら……この方法しかないわ)
急がなければ、正樹の生命が危うい。逡巡はあったが、必要とあれば覚悟は決まった。誰かに任せると言うことは思いつきもしなかった。
「プレシア、少し離れて。応急処置をするから」
そう言って蜂蜜色の髪の少女を遠ざけて、ウェンディは意識を失った正樹の顔を真っ直ぐに見つめた。
口の中で小さく呪文を唱え、意識を研ぎ澄ましてゆく。両目を閉じ、正樹の額に左の指先を押し当てて、指先から正樹のプラーナを感じ取る。
音叉が共鳴するように。徐々に自らの精神を、正樹のそれへと同調させてゆく。常ならぬ意識の変質が、頬の火照りとなって現れる……のだが、果たしてこれは、それだけに起因するものであったのか。
呪によって収斂した意識の中で。正樹の額に触れた指先から、ぴしりと衝撃が走った。それは、二人のプラーナの波長が一致し、両者の間でプラーナの授受が始まった事を意味している。
――通常ならば、これだけでも十分な量のプラーナを補給できるのだ。だが、現在の正樹が意識を取り戻すには、ある程度以上のプラーナを一気に流し込む必要がある。より効率的な移送手段を採らなくてはならない。
”さあ、やれ。それがお前の役目だ”
戸惑い、躊躇、羞恥。渦巻くそういった諸々の感情を、意識の奥底から湧き上がる、紅い衝動で押し流して。
ウェンディは、『より効率的な移送手段』を実行した。
人が有する、最も勤勉な器官の一つ。生命活動の中枢であり、大気を取り込み、生命を取り込み、そしてプラーナを帯びた音を発する器官……すなわち、口吻を触れ合わせるという手段を。
ウェンディの応急処置によって、正樹は辛うじて一命を取り留めたらしい。
今、彼は王都の国立病院で、専門の治療を受けていると聞いている。魔術的・精神的な治療においてはラ・ギアス全界随一の設備と技術を誇るラングラン王国立病院だ。彼はもうこれ以上心配しなくとも、数日後には元気な姿を見せてくれることだろう。
「……でも」
プレシアが吐き出したため息が、空に満ちる夜気に失意の気配を散らした。
もう、今までのようには話もできないんだろうな。そう、漠然とプレシアは思った。
あの瞬間、奇跡のように現れた、魔装機神『サイバスター』と、その操者マサキ=アンドー。凄烈な輝きで破滅の波動を浄化し、人々の諍いの間を仲裁して見せた。
――英雄。そう、彼の活躍は、英雄のそれ以外の何者でもない。
あの瞬間マサキ=アンドーは、自分とは――血筋こそ過去の英雄の系譜を引き継ぐとはいえただの娘である者とは違う、一段上の世界に生きる存在へと昇華してしまった。
これから、彼の周囲の世界は大きく変化してしまうだろう。共に家族のように過ごしてきた日々が戻ってくることはあるまい。だからこそ、プレシアは正樹が『サイバスター』の操者となったことを祝福しつつも、それに一抹の寂しさを覚えずにいられないのだ。
(……だけど)
プレシアは同時に、先程の夕食の席で、ゼオルートが呟いた言葉を思い起こしていた。
「これから、マサキには色々な試練が与えられる事でしょう。彼が望む、望まざるに関わらず、ね」
そう言う父の口振りは沈痛で、これから正樹の身に何が起きるのかを悟っているかのようだった。
「マサキは強い人です。ですが、どんな強い人でも、戦うばかりではいつか疲れ果て、倒れてしまうでしょう。
彼には、帰る場所が……共に戦うのみでなく、暖かく迎える場所が必要です」
それだけ言って、父は皿の上の料理からアスパラを取り除く作業に復帰した。それをついいつものように追求してしまったおかげで、この話はそれきり有耶無耶になってしまったのだが……。
(暖かく、迎える場所)
それが具体的にどのようなものなのか。どうすれば、彼を暖かく迎える場所を作ることができるのか? プレシアにはよく判らなかった。
だけど。よく判らないなりに、プレシアは思った。
(一緒に、居たい)
短い間だったけれど、父と、正樹と、自分がいる家。それが、とてもとても楽しい場所だったから。
だから、プレシアは願った。
(お父さんと、マサキお兄ちゃんと、一緒に居たい。居ても良いくらい、強くなりたい)
それが、正樹を支えたいという願いによるものなのか、それとも逆に、支えて欲しいと思ったからなのか。それははっきりとしなかったけれど。
(もっと、強くならなきゃ。強くなりたい)
中点に輝く月を見上げる少女のその願いだけは、決して揺るがぬ想いを示していた。
そして、同じ夜の空の下。神聖ラングラン王国とシュテドニアス諸国連合の国境線付近。
「どうやら、今回はあなたの敗けのようですね」
もはや軍艦と言って良い程のサイズを誇る、大型の軍用フローラー。その甲板に設えられたテーブルで果実酒を楽しみながら、ルビッカ=ハッキネンが言った。
「ラングラン王国内での実行部隊を全て消費しての大作戦。新型機も大量投入して、成果がこの新型機の実戦データのみではね」
「流石にあのような事態までは予測できなかった。これでは、各国に潜伏させている工作員にも、動きを自重させねばこちらに累が及ぶ。その点では、確かに我々の勝利とは言い難いな」
明らかに嘲笑の混じったルビッカの言葉。しかし、その矛先である、テーブルの反対側に座る男は、これといって気分を害した様子もなく答えた。
折り目正しく、清潔な印象を与える軍服に身を包む、20代後半程であろう若い男。しかしその眼光は年齢不相応なまでに鋭く、全てを値踏みする様な冷徹な光を宿している。
しかし、そんな肉体的印象を全て払拭するほどに、彼の冠く額冠は装飾華美だった。まるで祭りの最中に被るような装飾を施された冠。
かつて、ラクスマンと言う名で、ゴルド達の前に姿を現した男である。
この男、本名をラセツ=ノバステ。シュテドニアス諸国連合軍特殊部隊デオ=シュバイルの指令を勤める大佐である。
「……あれだけの損害を出しておいて、それでも敗北ではないと?」
「私はな、ルビッカ。正直な所安堵しているのだよ。何しろ、これで魔装機神の基本的性能と傾向が明らかになった。
もっと致命的な瞬間に『サイバスター』が覚醒していたなら、我々の……シュテドニアス軍が被る被害はもっと甚大になっていただろうからな。
そう言う意味では、捨て駒同然の連中で、魔装機神の性能を見ることができ、不確定要素が減った事はむしろ喜ばしい」
果実酒を満たしたグラスが、船の動きに合わせて揺れるのを眺めて。その水面を僅かばかり唇に含んで、ラセツは不敵に笑みを浮かべた。
「……物は言い様、ですな」
「時として、敗北もまた勝利となる。ただ戦闘で勝利することが戦略的勝利とは限らん」
ルビッカの皮肉も、ラセツの額冠の下に覆われた顔には露程の揺らぎを生むことはない。舌先三寸では到底この男に対抗できない事を思い出したルビッカは、ふん、と鼻を鳴らし、自らのグラスを呷った。
「まあ、それでも……予定していたほどの利益が出なかったのも事実だ。その点は認めない訳にはいかん」
一人ごちるように。ラセツは視線を天に向け、中天から全界を見下ろす月をグラス越しに眺めた。深紅の果実酒の海に浮かぶ、白く真円を描く月。
「今回は、勝ちを譲っておこう。だが、最後に勝つのはシュテドニアス……いや、この私が、最後に全てを手に入れて見せる」
ぴしゃり。ラセツの指が触れ、水面が跳ねる。一説には調和神ラスフィトートの化身とも言われる白い月が、深紅の飛沫に染め上げられる。
「今夜だけは……ラングランの勝利と、偉大なる風の司の覚醒に、祝杯を上げさせて貰おうか」
甲板縁に歩み寄って、グラスを高く掲げて。
それは、まさしく世界に満ちる調和が引き裂かれ、血の色に染め上げられるかの様で。
ラセツは幾度も幾度も、グラスの中の月が深紅の海に沈む様を楽しんだ。
――そして、何処とも知れない場所。いや、場所という表現が適切かどうかすら明らかでない、空間の狭間。
ラ・ギアス世界と地上世界を繋ぐ空間の狭間。基本的な物理法則さえも崩壊しているその空間で、物質が存在を維持するには、結界魔術で自らの周囲空間を保護するしかない。
そんな空間を、結界なしで辛うじて伝播できるのが、超空間波……ハイパーウェーブ通信波である。
ラ・ギアス世界と、地上世界。ある程度ハイパーウェーブ技術が確立しているラ・ギアスはともかく、ハイパーウェーブの存在が未だ仮定段階までしか解明されていない地上では、ハイパーウェーブを送受信できる施設は数少なく、この空間を超空間波が乱すことは酷く稀なことである。
しかし、稀だと言うことは時折は通信波がこの空間を駆け抜ける訳であり、そして奇しくも今この瞬間、この異相空間をハイパーウェーブ通信が震わせていたのである。
<つまり、『降魔弾』は阻止されたのですね?>
地上側から送信されたのは、驚くほど穏やかで理性的な声。
<はい。『エーテルストリーム』の発生までは計算通りでしたが、予想外の『サイバスター』の覚醒によって、魔装機の破壊は阻止されました>
3秒の遅延の後に、こちらはどこか蠱惑的なアルトの声が返る。
<『サイバスター』……。このデータを見る限り、覚醒直後で既にして、予測最大性能を凌駕している様ですね>
また、3秒の遅延。
<はい。しかし、その直後に操者がプラーナ過剰消耗で倒れていますから、私は異常な機能相転移の発現と考えていますわ>
<この波形は、《
<《
<魔装機開発初期段階から、この事は予測されていました。それ自体は、さほど驚くべき事ではありませんよ。魔装機神ならば、精霊側から操者に波長を同調する可能性もありますしね>
ラ・ギアス側の絶句によるものか、異相空間を横切るハイパーウェーブが途絶える。
<それで、『あれ』の場所は判明したのですか?>
穏やかさを揺るがせぬまま、地上側の通信者は問いを発する。ラ・ギアス側の通信者が、はっと意識を取り戻した様子で答えた。
<は、はい。『サイバスター』の放った結界術が呼び水になって、全界の《調和の結界》が反応しました。フィルタの解析に手間取りましたけど、現段階で80%の確率で場所を特定できましたわ>
勝ち誇るように、ラ・ギアス側の声がトーンを上げた。
<――場所は、やはり南海の?>
<はい、あなた様の予測通りでした。ただ、空間歪曲場に隠匿されていますから、それを解除する何らかの手段が必要ですけど……>
<それはこちらで準備しましょう。幸い、丁度あれも組み上がった事ですし>
<――『グランゾン』。完成したのですか?>
<完成などしていませんよ。今のあれは、まだ『彼ら』の技術のコピーを組み上げただけに過ぎません。他人の技術を模倣した程度の代物で、『完成』などとは言いたくありませんね>
明らかに喜色を露わにしたラ・ギアス側の声に、地上側の声は、対照的につまらなさそうな音で答える。その声音に気分を害してしまったと思ったか、ラ・ギアス側の声が狼狽の色を帯びた。
<も、申し訳ありません!>
<構いませんよ。さて、仕上げはそちらで行うので、事前に連絡した量の
<了解いたしました。……お帰りはいつ頃になるのでしょう?>
<まさか地上を空にする訳にはいきませんしね。ダミーを仕込むのに、あと一週間は必要でしょう>
<……まだ時間がかかりますのね。早くお会いしたいですわ>
<私とて、万能の魔法の杖を持っている訳ではありませんよ。それに、必要量の
<は、はい! 直ちに取りかかりますわ!>
<それではまた一週間後に会いましょう、サフィーネ>
<お戻りをお待ちしております、シュウ様>
その言葉を最後に、ハイパーウェーブの接続が遮断され、再び異相空間に静寂が戻った。
ようやく、タイトル回収です。
記録によれば、これの投稿時期は2002年の3月。そろそろガンダムSEEDが始まろうとしている頃ですね。この後、あれの影響を受けつつさらにゼノサーガなどを遊んでいたものですから、色々物語を作るセンスが変わっていったのが筆致から感じられます。
この巻末で描かれたように、今回の作戦は『ヴォルクルス信徒』がデオ・シュバイルを焚き付け、『調和の結界』によるエネルギー相殺を行わなければ対処できないトラブルを引き起こすことで、結界の発生装置を特定することが目的でした。ここで座標が特定された事で、後のシュテドニアス侵攻の際の結界破壊が実現することになります。
フィニッシュブローから見えたいくつかの光景は、事前にサイバスターによって伝えられた『ラーマ』あるいは『カルキ』の呼称を裏付けるものです。様々な世界における『主人公』の姿ですね。第四次SRWに相当する戦場では、サイバスターが主人公ではないため、脇役のように描かれているわけですね。
この先も、正樹は様々な世界における『主人公』もしくは『英雄』の行いを追体験し、無意識に自分に取り込みを行っています。特に近似値を取るライブレードと真魔装機神、スーパーロボット大戦の経験はかなり色濃く影響を受けており、ちょくちょく無意識に彼らの技や装備を再現(一刀正伝・絶影など)してるわけですね。
さて、ここからは帰郷編。白河愁の本格的登場と相なります。