蒼穹の花嫁 ~ドラゴンクエストⅤ:parallel~ 作:イチゴころころ
3人の花嫁それぞれと結ばれたクリアデータがひとつずつ保存されているDS版のカセットは生涯の家宝です。みなさんは誰推しでしょうか。
あらすじにも書いたように妄想全開でお送りしますが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
1-0. イーサンの世界
暗く冷たい岩肌と、吐き捨てるような暴力。それがイーサンの見る世界のすべてだった。
目が覚めて、1日中ひたすら岩を運ぶ。ボロボロのカゴに岩を乗せ、横穴を進む。最初の分岐を右に、次は左。その次も左だが、ここには大きめの段差があるから気を付けなければならない。万が一躓いて倒れようものなら、新しいおもちゃを見つけた子供のような勢いでムチが飛んでくる。イーサンはムチに打たれるのが嫌いだった。いや、少なくともここには好きな人なんていないだろう。
そんな悪魔の段差を越えたら、ごつごつした階段を昇り、その奥の壁に沿わすように岩を置く。そうしたら最初の地点まで戻り、岩をカゴに乗せる。終わっていいと言われるまでこれの繰り返しだ。1日に何往復するのか数えるのはとうの昔に飽きてしまった。目の前を歩く名も知らない奴隷の首のしわを数える方が何倍も有意義に思えた。
1日中と言っても、実際にどこまでが今日でどこからが明日かなんてイーサンにはわからない。洞窟から出たことのない彼にとって、寝るまでが今日で、起きてからが明日だった。イーサンは空の色を知らないのだ。
「見ろ、イーサン。スコットのやつがきれいな布をくすねてきやがった。これで寝るときに凍えずに済む」
「ヘンリーさん……。大丈夫かな、奴らに見つかったりしたら……」
「わかりゃしないさ。教団の連中は俺たち奴隷の持ち物なんていちいち確認しない。作業に出るときも寝床の隅に丸めておけば見つからないだろ。ほら」
ヘンリーは布切れを差し出した。彼はイーサンと同い年の青年で、良き話し相手である。
「ありがとう……」
「……」
「なに……?」
「いや。……ほら、マリアも。2枚やるよ。他のやつには内緒な」
「そんな、いけないわ。私だけ……」
「左手、ケガしてるだろう? 1枚はそっちの分だ。目立たないように巻けよ」
「あ、ありがとうございます、ヘンリーさん」
マリアはあたりを見回し、受け取った布を腕に巻き始めた。彼女もイーサンと同い年で、ヘンリーも含めて若者同士3人でつるむことが多い。
「なあ、ふたりとも聞いてくれ。どうやら3日後、俺たちの配属が変わるみたいなんだ」
「ようやくこの不毛な岩運びから解放されるってこと?」
「どうせロクな仕事じゃないさ。いいか、大事なのはそこじゃない。噂によると、新しい作業場所は洞窟の外っていう話だ」
”外”。イーサンにとってそれは未知なる響きである。
「それは素敵な知らせね! 私、太陽を拝めるのはいつぶりかしら」
「ああ、これはチャンスだ」
「なんの?」
「なんのって、お前なあ……」
ヘンリーが身を屈めると、ふたりはそれに応えて耳をそばだてた。
「脱出だよ」
思わずマリアと顔を見合わせる。そして条件反射的に辺りを見回した。今の物騒極まりないセリフが、ムチの男たちに聞かれてはいないだろうか。
「今まではこの洞窟の出口も、そもそもここがどこの洞窟なのかもわからなかった。でも外の様子さえわかれば状況がわかる。いくらでも脱出方法を考えることができる。10年間ずっと待ってた。ようやく機がまわってきたんだよ!」
「待ってヘンリーさん。無茶だよ」
「イーサン……」
ヘンリーは心優しい青年だ。だが彼は教団には反抗的で、その態度はいつもイーサンを不安にさせていた。
「脱出できる保証なんてない。もし失敗して捕まったら、ムチで打たれるどころじゃすまないんだよ?」
「そんなこと10年も前から覚悟してるさ」
「ヘンリーさん。毎日、ボクらの寝床の顔ぶれは変わっているんだ。でも寝床はいつになっても満杯にならない。それは奴隷が増えるのと同じ速さで減ってるってことなんだ。どこから増えるのかは知らないけど、減った人たちがどうなったかは……君もわかるだろう」
「俺たちは減る側に回る。ただし、生きてここを出るがな」
「教団の連中がすんなりと出してくれると思う?」
「その方法を考えるって言ってるんだよ! イーサン、さすがにお前もこのまま一生ここの奴隷で良いなんて言わないよな? なあ!」
返答に詰まった。目の前で目を逸らすイーサンにヘンリーは怒りがこみ上げてくる。
「……まあ」
「まあ、なんだよ」
「死んでしまうよりかは、マシ。って思っても仕方ないんじゃない、かな」
「この……っ!」
「おい、なにをしている!!」
大声のした方を3人で一斉に向くと、ムチを持った教団員がずかずかとこちらへ歩いてきた。
「また貴様らか」
「スキンシップですよスキンシップ。お昼寝の邪魔をしちゃったのなら謝ります」
「貴様……」
「これは失礼。さあみんな、休憩も終わるぞ。お仕事お仕事っと……」
ヘンリーはムチ男を尻目に立ち去って行った。イーサンとマリアも男に平謝りをし、作業を再開する。
「ねえ、マリアさん……」
「ヘンリーさんのことですか?」
「あ、うん。ボク、また変なこと言っちゃったかな、なんて」
「ヘンリーさんは、君のことが本当に大切だから、ああやって怒ってしまうだけなんだと思います」
本当に大切だから、か。
「でも確かに、以前の君からはちょっと想像がつかないですね。その、今のイーサンさんの姿というか、性格というか」
「そう、なんだ……」
「あ、ごめんなさい。責めているわけではないわ。とにかく、イーサンさんも無理をしすぎないように。それこそ、死んでしまわれるよりは絶対、生きていた方が良いんですからね」
マリアが微笑むと、くすんだ金色の髪の毛が揺れる。
「ありがとう、マリアさん」
きっとここに来る前は、綺麗な金髪だったに違いない。
* *
イーサンにはここ1年より以前の記憶がない。当然、奴隷になる前の記憶もだ。
ヘンリーとマリアによると、執拗にムチで打たれる老人を庇い教団員と揉め、弾みで強く頭を打ってしまったらしい。イーサンはそのことを覚えていない。そもそも何があってここに連れてこられたのかも、奴隷になる前のこととかも何も思い出せない。唯一、奴隷以前の彼を知るのはヘンリーだが、過去のことを教える試みは何度も失敗している。教えようとするとイーサンはひどく錯乱し、会話すらままならなくなってしまう。傷付いたイーサンの心が過去を拒絶しているみたいだと、マリアは言う。そしてふたりの様子から、尋常じゃない過去であることは彼女にも察することができた。だから無理はさせず、自然に思い出すのを待とうと提案したのだ。ヘンリーは歯がゆくて仕方がない様子だが、他に打つ手はない。
イーサン自身も、そんなふたりに負い目を感じていた。ヘンリーもマリアも自分に本物の友情を向けてくれている。だが彼にはふたりに向けるべき友情が思い出せないのだ。自分がひどく情けなく思えた。自分のために彼らが傷付くようなことがあったら、いや、もう知らないうちに傷つけているかもしれない。そう思いながらも、ふたりとどう向き合ったらいいかわからない。友情も愛情も空の色も、洞窟の暗闇に落としたまま失くしてしまったのだ。冷たい岩肌と暴力だけが、確かにそこにあるイーサンの世界だった。
* *
それから2日が経ち、いよいよ明日が新しい仕事場への移動の日だと連絡があった。どうやら噂は本当だったらしい。
「外の世界か」
布団とは名ばかりの草の塊に寝転がって、イーサンは明日のことについて思いを巡らせる。
空と太陽。マリアは見るのは久しぶりだと言っていたが、今の自分にはまったく初めてのものだ。空が青く、太陽が赤いという知識はある。が、この目で見た記憶がない。楽しみと言えばそうだが、正直なところ不安の方が大きい。もし洞窟を出ても真っ暗なままだったら? 太陽は実は松明ほどの明るさしかなく、ここと同じように窮屈で冷たい世界が外にも広がっていたら? ……そのときボクは、一体何を思えばいいのだろう。
「おい、おい。イーサン」
「ヘンリーさん?」
「いい加減その気持ち悪いさん付けはやめてくれ。なあ、マリアがどこにいるか知らないか」
マリアさん? そういえば姿を見ない。
「今日の仕事は終わったはずなのに……」
というより、岩運び自体が今日で終わりで、ここでの作業はもうないはずだ。
ちくり、と嫌な予感がした。
「嫌な予感がする。イーサン、探しに行こう」
「え、ちょっと待ってよ。もう作業終了の時間だよ。ここから出られない」
作業以外でこの寝床を出るのは厳禁だ。昨日ムチで打たれたところが痛みを思い出す。
「だからこそマリアがいないのがおかしいんだろうが。大丈夫。見張りに見つからなければどうってことない」
「い、いや危険だよ。やめた方が良い。教団の人に探してもらった方が」
「――そうかよ」
ヘンリーが視線を落とした。その表情を見た途端、イーサンは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「そうだよな。お前にとって、誰が増えても、誰が減っても、関係ないんだもんな」
違う。違うそうじゃない。ボクはただ、
……ただ、何だろう?
俺一人で探す。とヘンリーは踵を返した。
違うんだヘンリー、さん。ボクはこれ以上、これ以上……?言葉に詰まる。言葉が詰まる。これだから記憶喪失はタチが悪い。自分の思っていることを上手に伝える手段さえ忘れてしまうのだから。
「待って。ヘンリー、さん……」
ただ、忘れたものは、思い出そうとしなければ思い出せないんだ。
「ボクも行く」
せめて、答えを探しに行ける自分で在りたい。
* *
洞窟の中には申し訳程度の松明しか設置されていないが、暗闇に慣れたイーサンたちには十分で、しかも毎日気が狂うほど通る道なので体が覚えているほどである。
「いないな」
「うん……」
悪魔の段差を越え、階段へ向かう。マリアの姿はない。
「あれ?」
「どうしたイーサン」
「こっちから何か聞こえた」
「マリアの声か?」
「わからないけど、たぶん人の声……」
ちくちくとまとわりつく嫌な予感は先ほどから膨れ続けている。
「ヘンリーさん……」
「行くぞ…!」
ふたりは細い横穴を駆けだす。寒さを無視して汗が噴き出てきた。嫌な汗と予感が、ふたりの足をさらに速める。
「マ――」
――ムチ男がふたり、ボロボロのマリアを担いで歩いていた。
「ったく暴れやがって」
彼女の服はずたずたに引き裂かれ、布切れとなってもはや体に引っかかっているだけだった。
「おい、どこでする」
「6番出口の方だ、あそこなら誰も通りゃしねえ」
男たちは下衆な笑みを浮かべながら、マリアの髪をくしゃくしゃと撫でまわす。
「マリアさ――」
「このやろおおおおおおおおおお!!!」
ヘンリーが雄たけびを上げ、男たちに飛び掛かった!
「な、なんだこいつ!?」
「マリアをはなせええええ!」
チャンスだ! イーサンも遅れて駆け出し、戸惑う男たちの隙をついてマリアを奪い返す。
「っ……」
彼女はひどい有様だった。意識はなく、顔は苦痛に歪んでいる。むき出しになった肌には何度もムチで打たれた傷があり、至る所から血がにじんでいた。しかし、今はとにかくここを離れるのが先決だ。
「イー、サン……!」
「え、ヘンリーさん!?」
振り返ると、ヘンリーが締め上げられていた。抵抗もむなしく、何度も顔を殴られ続けている。
まずい。と全身から血の気が引いていった。――彼が殺される。
「やめろおおおおお!」
近くの岩を掴み振り上げた。
これ以上、ボクの目の前で誰かが死ぬのは耐えられない!
「イーサ……うしろ……」
だがイーサンは、目の前に男がひとりしかいないことに気付いていなかった。
「このクソガキが!」
後ろから殴りつけられ、視界が眩む。岩も取り落としてしまう。
「う、く――!?」
振り向きざまにもう一発打撃を食らう。口の中に鉄の味が広がり、地面に体を投げ出した。
「どうなってんだよこれよお!」
「知るかよ。おい見ろ、またこいつらだ」
「クソが! おい、外に連れてけ。まとめて崖から突き落としてやる」
「女はどうする」
「白けた。一緒に突き落としてやろうぜ」
「はっ、いいねえ。ボコりすぎて反応もないのもどうかと思ってたしな」
男たちに髪を掴まれ引きずられる。抵抗しようにも力が入らない。
せめてヘンリーとマリアだけでもと必死に頭を働かせるが、殴られた痛みと恐怖がそれを阻害する。
どうすれば、どうすれば――?
「あ……?」
突然、イーサンの目の前が真っ白になった。柔らかな布の塊が、ばしーんと両目を叩いて弾けたような錯覚。ああ、
外に出た。外は昼だったのだ。
「――。―――!」
ムチ男の言葉はもう頭に入ってこない。イーサンはこの光景を知っていた。眼前の空の色を、彼は知っていた。10年も前の事なのに、はっきりと思い出せる。あの日、あの川辺で見た空を、無限に広がる空を、確かに、この目で、見たことがある!
――どうだ、イーサン。
――父さんは、ここから川を眺めるのが好きでな。
――おっと、すまん。この塀はイーサンには高すぎたか。さあおいで、肩車をしてあげよう。
イーサンが物心ついたとき、既に父とふたりで旅をしていた。行方不明の母を探す旅だ。ゆくえふめい、の意味はよくわからなかったが、母に会いに行くための大事な旅なんだと、幼いイーサンは誇らしく思っていた。
旅をしながら、色んな人と出会った。
幼馴染のビアンカとお化け退治に行ったのが、イーサンの初めての冒険だった。あんなにハラハラしたのは初めてで、父のそばを離れて遊んだのもあれが初めてだった。ビアンカのいる街を出るとき、彼女はまた一緒に冒険しようねと言ってくれた。誰かと約束を交わすのもまた、初めての事だった。
妖精の世界へ行ったことはイーサンの秘密の思い出だ。サンタローズの家の地下に降り、積み上げられたタルをどかすと光り輝く階段が現れる。妖精族のベラとともに春風のフルートを取り返す冒険は夢のような出来事だったが、あのあと確かに春は訪れたのだ。ベラは大きな瞳に涙を浮かべながら、ありがとう、イーサンが大人になったら今度はあたしが助けてあげるから、絶対絶対、また会おうと、そう約束してくれた。
その後ラインハット王国へと向かう関所にて、イーサンは初めて空の色を知る。いつだって顔を上げれば見られたはずの空なのに、その川面に映る空はどうにも特別で、どこまでも無限に続いているような気がした。
そして、そのすぐあとに父は死んでしまう。
ラインハットの王子が賊に連れ去られ、取り戻しに行くという父にイーサンは半ば強引についていった。しかし追いかけた先の遺跡で、イーサンはゲマと名乗る怪しげな男に王子ともども捕まってしまう。そして、目の前で父は殺された。イーサンは王子と共に洞窟に連れていかれ、10年もの間奴隷として過ごすこととなった。
父は、最期までイーサンに語りかけてくれた。母はまだ生きていると。だから、お前に託すと。それが、父との最初で最後の約束だった。
* *
ムチ男に放り投げられて、イーサンは我に返った。
隣には満身創痍のマリアが倒れていた。背後は崖。ヘンリーは今まさに突き落とされようとしていた。
ふらつく足を押さえ、立ち上がる。そうだ、“俺”はまだ何もしていない。あのときみんながくれた約束を、俺はまだ何も、果たしていない。
崖下には雄大な空が広がっていて、大地は果てしなく遠く見える。
イーサンはこの空の色を知っていた。いや違う、こんなものではなかった、あの日、父の背中越しに見た川面の空は、ここから見える景色なんかよりも、ずっとずっと、遠くまで広がって見えたんだ!
「ヘンリいいいいいいいいいい!!!」
ムチ男たちが驚いて振り返る。ヘンリーの腫れあがった瞼が開き、目が合った。
「全部、思い出した……!」
足に力を込めて踏み出す。もう、誰も死なせたくない。
「俺はイーサン……」
叫べ名前を。絶対に忘れてはいけない父の名前を。
「パパスの、息子だっ!!!!」
力を込めて男のひとりに殴り掛かった。単純に不意を突かれたからか、それともイーサンの気迫にたじろいだのか、ヘンリーを締め上げていた男は防御もままならず殴り飛ばされる。
「こ、いつ……っ!」
男は完全に頭に血が上り、ムチを引き抜き反撃した。だが――、
「――」
イーサンは襲い来るムチを難なく躱す。
……遅い。そう思った。
「全然遅い!」
そうだ。子供のころの冒険に比べれば。
レヌール城のゴーストたち。
氷の城のザイルに女王。
そして……
――上手になったなイーサン。さすがは父さんの息子だ。さあ、もう一本!
「毎日! 稽古をつけてくれた! 父さんに! 比べれば!」
奴隷たちを足蹴にすることに人生を費やしたゴミのような連中に負けるわけがない!
イーサンの拳が顔面に叩き込まれ、男は派手に倒れて動かなくなる。しかしその直後、イーサンは背後から迫ってきていたもうひとりの男に羽交い絞めにされた。
「クソガキがぁ!」
「ぐっ……!」
「ほらほらあ!背後には注意しましょうねえ!?」
「――お前こそだぜこのスカタン」
だがもうひとりのムチ男も、さらに後ろから迫っていたヘンリーに突き飛ばされた。ヘンリーの手には、先ほどの男が取り落としたムチが握られている。
「あぁ!? なんだよ! やろうってのかこのガキ! そりゃあ素人が易々と使えるモンじゃ……ひいっ!?」
ヘンリーの操るムチが閃き、男の顔のすぐ横にあった岩がはじけ飛んだ。
「なかなか上手いだろ? あんたらが使ってンのを嫌ってほど見てきたからなぁ!!」
「いいいいいいいい!?」
数秒後、その男は青年ふたりに袋叩きにされることとなった。10年という歳月に加え、毎日の力仕事が彼らの肉体を強靭に成長させていたのである。それこそ、痩せぎすの男などに負けはしない。
「「――よっしゃああああああ!!」」
* *
ふたりはマリアに駆け寄った。立ち上がる気力はないようだが、意識は回復していた。
「イーサンさん……、記憶が、戻ったのですね……良かった」
「おかげさまでね。というか、俺より自分の心配をしなよマリア」
イーサンは自分の手のひらを見つめた。少し意識を向けると、魔力が指先に集まってくるのを感じる。よし、覚えてる。
「“ホイミ”――!」
優しい光が彼女の体を包んだ。回復呪文“ホイミ”。初歩の呪文なのでキズを完全に塞ぐことはできなかったが、止血くらいにはなったはずだ。
「痛みが、引いていきました……ありがとう、イーサンさん」
マリアが笑顔を向ける。その表情にふたりは安堵し、緊張の糸が切れたように座り込んだ。
「てかマリア! これ、着ろ! ほら!」
ヘンリーが自分の服を破き、彼女に羽織らせた。イーサンもはっとして目を逸らす。マリアも顔を赤らめる。ついさっきまで、それどころじゃないくらいピンチだったのだ。
「……やったな、相棒」
「うん……。でも、ちょっとやりすぎたかな」
洞窟の中から足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた教団員たちだろう。
「同感だぜ。あーあ、せっかく空を拝めたってのに」
「わ、私たち、どうなっちゃうんでしょう……」
* *
イーサンたちは独房に連れていかれた。太陽の光を浴びたからか、洞窟の中がいつもより暗く感じる。
「なあイーサン。お前、本当に記憶が戻ったのか……?」
「……」
「な、なあ」
「うん。この通りだよ、ヘンリー
「……!!」
ヘンリーは感極まって立ち上がり、ふたりは拳を合わせる。今のやり取りに、マリアは首を傾げた。
「それよりヘンリー。おかしくないか、今のこの状況」
「……ああ、教団員をふたりもタコ殴りにしたもんだから即処分かと思ってたが」
「うん。俺たちはまだ生きてる」
教団員に肩がぶつかっただけで連れていかれた奴隷を何人も見てきた。彼らがどうなったか見たことはないが、誰一人として寝床には帰ってこなかった。
「まさかこのまま独房に放置じゃないよなあ。餓死だけは勘弁だぞ……」
「そんな回りくどいこと……待って、足音が聞こえる」
しばらくすると、仮面をつけた兵士風の男が現れた。何度か見かけたことのある、ムチ男よりも階級の高い格好だ。彼は独房の鍵を開ける。
イーサンは横にいる相棒に目配せをして、戦闘の体制をとった。
「待て、待て! 戦う気はない」
仮面の男は両手を上げてふたりを制す。どういうことだと不思議に思っていると、彼は仮面を外した。マリアが目を見開く。
「ヨシュア兄さん……!?」
「えっ」
「に、兄さんだぁ?」
「……3人ともついてこい。ただし、くれぐれも静かにな」
イーサンたちは顔を見合わせた。
「ここから逃がしてやる」
見覚えのない通路を抜けると、川の流れる開けた場所に着いた。あちこちにタルが転がされている。
「死んだ奴隷は皆、ここから海に流される」
ヨシュアが言うには、3人をタルに入れて外に出してくれるとのことだ。
「あなたは教団員、ですよね。マリアの兄さんだって本当なんですか?」
イーサンの問いに、彼は静かに頷く。
「悪いが、今は詳しく話している時間はない。さあ、タルに入るんだ」
「待って! 兄さんも一緒に」
「マリア、許してくれ。あのとき君の言葉をちゃんと聞いていたら、こんな、君だけが苦しむようなことにならずに済んだのに」
「いいの、いいのよ兄さんそんなこと」
「これは、兄さんなりのけじめなんだ。ようやく“仮面”の位を手に入れた。俺はここから、ひとりでも多くの奴隷たちを逃がす。だから、君は幸せに生きるんだ」
「兄さん……!」
イーサンとヘンリーには彼らの事情は知り得ない。ただ、兄妹の抱擁を静かに見守った。しばらくしてヨシュアはふたりに向き直る。
「妹を助けてくれて感謝する。俺も、間に合ってよかった。よければ頼まれてくれないだろうか、逃げ切った先も、妹のことを……」
「ああ、もちろんだぜ」
「俺の方こそ妹さんに助けられたばかりです。……必ず」
3人はタルに入る。蓋を閉じる直前、ヨシュアは小声で妹に話しかけた。
「良き友人を得たなマリア。大切にしなさい」
「ええ。兄さんもどうか元気で」
蓋が閉じられ、周囲が暗闇に包まれる。水上を流れる揺れと彼女のすすり泣く声がタルの中を満たし、イーサンは唇を噛み締めた。
しばらくすると、流れが急になっていくのを感じた。爆ぜるような轟音も近づいてきている。
「ふ、ふたりとも……。手、繋いでくれませんか……?」
マリアの不安げな声が聞こえた。
「え、て、手、繋ぐの、か? え、え?」
明らかに動揺するヘンリーの声を横耳に、イーサンは彼女の手を握る。
「待て、待てイーサン。お、俺も繋ぐから」
全員で手を繋いだ。絶対に離すものかと思った。離してしまえば、海の上で散り散りになってもう二度と会えなくなる。そんな気がした。
「イーサン! 俺たち、大丈夫だよな!!」
ますます流れが速くなる。不安を煽る轟音に、声がかき消されてしまいそうになる。
「大丈夫だよ!」
でも負けじと叫ぶ。根拠はないけど、叫ばずにはいられなかった。
「俺たちなら、大丈夫!!」
直後、浮遊感に襲われた。思わず目をつぶる。永遠にも思える落下の後、激しい衝撃と共に3人は意識を失うが、繋いだ手は絶対に離さなかった。
* *
これは『約束』の物語。
数奇な運命に弄ばれた青年の半生を描く、長い永い旅の記録だ。
あの日、川面の空に思わず手を伸ばした少年は、決して手を伸ばすことをやめなかった。そして数々の出会いを通じ、伸ばした手が天空へと届くその日まで、彼は前を向き続けたのだ。
後に晩年を迎えた彼はこう語る。若き頃と何も変わらない無邪気な笑顔で
――これが俺の物語だ、と。