むかしむかし、ある山の奥地に、怠惰な山の神様とその遣いが住んでいました。
神様は美と豊穣の神様で、人々の祈りに応えておりました。
山の恵みを授かった人々は、深く山の神様を敬い崇めていました。
けれど、時は流れ人々は変わってゆきます。
古い伝承や神様への信仰も薄れつつありました。
そうして、1000年の時が過ぎた頃。
古い神様の存在を誰も覚えていなかったのです。
陽の光の届かない緑豊かな森で、大狼ウロはゆっくりと目を開ける。
ウロは琥珀色の鋭い眼に、銀色の体毛に覆われた美しい狼だった。
彼の腹には幼子のような、あどけない寝顔の少女が乗っかっている。
「……(重い)」
ウロは前足を器用に曲げて、少女の頭を軽く叩く。
「起きてください。我が主。今日は山に帰ると仰っていた筈です」
狼に主人と仰がれた少女は、翡翠色の瞳を晒し、瞼を上げて。 ……また降ろした。
「昼まで寝かせるのじゃ〜……」
見た目に似合った子供っぽい返事が帰って来る。
少女は白絹の衣服がはだけるのも気にせず、ふわふわの毛皮に頬擦りする。
ウロの腹の上で寝返りを打ち、再び微睡みへと旅立つ準備を始めていた。
「主……起きましょう。もう昼です」
ウロは可愛らしい寝顔の主人を寝かせてやりたかったが、予定があるので仕方がない。
ゆっくりと立ち上がり腹から落とす。
とすっと軽い音がして少女は地面に尻餅をつく。
「痛っ……むぅ、もうそんな時間かぁ。
最近は眠気には勝てぬなぁ。
お前の上でもっと寝ていたかったが。
仕方あるまい」
明るい小麦色の髪を腰まで伸ばした少女は、大きな欠伸をしながら伸びをする。
ウロは寝ぼけ眼を擦る少女を眺め、隣に座る。
「森を見るのも今日が最後なのです。貴女が寝ることを好んでおられるのは重々承知しておりますが」
「あーあー、わかっておる。お前の小言は正しいから耳が痛い。早く出れば良いのじゃろ」
少女はウロの後ろに周り、ぽんぽんと背中を叩く。
言葉を発さずとも、合図だけで意図を察して少女を背に乗せる。
「では、行きましょうか我が主」
「うむ」
静かな森の中を2人で言葉も無く歩く。
小鳥のさえずりも虫の声も無い、ただ静寂に満ちた森の中を、2人はじっくりと眺めながら散策する。
「静かじゃな」
「えぇ」
明るい声で呟いた少女と対称的に、ウロの返事は素っ気ないものだった。
主従の関係にある立場では、少し無礼な口調だったが、少女は何も言わない。
「こんなに静かなのは我も初めてじゃのぅ。
我の好きなこの森を今は独り占めしている気分じゃ。長生きもしてみるものじゃな」
「……独りではありません。私も居ます。
私としてはこんなに静かな森は……やはり落ち着きません」
どこか寂しげな言葉を並べるウロを少女は優しく撫でる。
「図体のデカい割に可愛らしい事を言いおるのぅお主は…………。
なぁ、知っておるか? ウロ。今のこの状況。
人の子の間では『でーと』と呼んで、雄と雌がイチャイチャと乳繰り合うそうじゃぞ」
戯けたような口調で少女は楽しそうに話を振った。
「主……それは同種族の番での話でしょう。
私と貴女では『でーと』は成立しないように感じます」
ウロは主人の言葉を聞きながら、森の奥地へと歩を進め続ける。
「なんじゃあ〜? 山神である我とお主では釣り合わぬと思うておるのかぁ〜? ……くふっ、照れおって」
神を名乗る少女はウロの首元まで移動して、耳を弄り回しながら揶揄う。
「主よ、振り落とされたいのですか?」
「くふふふっ、怒った顔も愛いのぅ。
我はお主も種を越えても愛してやれるぞ?
我の懐は山のように大きく、広いからのぅ」
冗談めかした口調で少女は囁く。
ウロは耳を貸さずに無視を決め込む。
尻尾が揺れていなければ格好も付いたのだろうが、彼も主人である彼女の事を慕っていたのだ。
ウロの足取りはゆったりとしたものだったが、話をする内に時間の感覚など失せていた。
いつのまにか森の奥地を越えて、山中へ差し掛かろうとしている。
「懐かしいところに帰って来たのぅ。
ほれ、人の子が我の為に作った石段も、あの辺りじゃぞ」
主人は思い出のある場所を指差して、嬉しそうに毛を引っ張る。
対するウロは苦い顔をしながら、指を指された場所から目を逸らした。
「…………」
「あの奥には我を祀った社があるのじゃ!
お主は覚えておるかのぅ?
立派な鳥居が建てられておってのぅ、昔は人の子もよく足を運んでおったのじゃぞ」
「…………覚えていますよ。主に連れられて何度も足を運びました。あそこは嫌いです。
石畳で足が痛くなりますから」
ウロは言葉の内容とは裏腹に、怒ったような口調で言葉を放ってしまっていた。
それでも、彼の主人は話をやめようとはしなかった。
「嗚呼、懐かしいのぅ。
石段もお主の足には合わなくて、社に着いたらひぃひぃ言うておったのぅ。
子鹿みたいで可愛かった」
段々と日も傾きはじめ、山の中も段々と暗くなって来ていた。ウロの顔に影が差し、少女は木々の上の空を見上げる。
「……我はなぁ。あの場所が大好きじゃった。
人の子らが我の事を崇め、奉り、讃えてくれたのが堪らなく嬉しくてのぅ。
一時は大きな祭りなんぞも催したりしておって、煌びやかな提灯が並んで、何人もの人の子らが行き来して賑やかしかったな。
人の子らの知恵が立ち並ぶ屋台で、我を象った美しい飴細工は今でも鮮明に覚えておる」
心底楽しそうに、嬉しそうに思い出を語る。
その傍でウロは黙って歩き続ける。
主人の最も行きたい場所へ。
今日の目的地が、段々と近付くのを感じながら。
「なぁ、ウロ。主はあの時が楽しかったか?
人々が我らを謳い、共に在ったあの時間はお前にはどんな風に映ったのかのぅ?」
少女の問いは木枯らしの中に消える。
カラカラと少女を嘲笑うように、落ち葉が転がる。
ウロは寂れて廃墟同然の神社へ辿り着くと、主人を降ろして座る。
主人は問いに応えなかったことを責めたりはせずに、倒壊した神社の屋根に腰掛ける。
2人はお互い動かず、離れた位置で見つめ合う。
しばらくの沈黙の後口を開いたのはウロだった。
「…………貴女が此処を離れない理由は……なんなのですか?」
目を逸らさずに真っ直ぐな視線を送る従者に、雲のような柔らかい笑みを浮かべる主人。
「面倒じゃからじゃよ。わかるであろ、お主なら。
我がどれだけものぐさで、この地が好きなのかを」
「……貴女は間違った。この地の者を全て逃がし、此処にただ独り残ると言った。
この地を自ら手放し殺したのは貴女だ!」
ウロは主人に吠えた。
本心では無い言葉で憤りをぶつけるように。
「そうじゃのぅ。我がそうしたかっただけじゃ。
すまぬな、許せ」
少女の姿でありながら、彼女は子供をあやし、宥めるように言い放つ。
返す言葉の無いウロは牙を剥き出しにし、ギリギリと歯軋りする。
「何故謝るのですか! 私は貴女の声があれば」
「人なぞ食い殺してしまえる……か?
お主は人間の事が嫌いかのぅ?」
図星だった。
何処までも自分を理解し、愛を持って接してくれる主人。
彼女の悲しそうな顔が、ウロの胸には鋭い刃となって突き刺さる。
「…………この間、人の世に出たな。
人の子らは銃なぞを用意しておった。
森を開拓したいのだと口にしておったのぅ。
この山が向かいの街への道を通すのに、邪魔だとも言うておったな」
ゆっくりとウロの方へ歩み寄る。
ウロは主人から目を逸らす。
崩れた社は、もう取り繕えなかった。
「人の子には……我の力も地の恵みも、もう必要ない。人の子らの力だけで歩んでゆける。
立派じゃのぅ! この地の人は聡く逞しい。
我の誇りじゃ!」
少女の身体で、山の神は満面の笑みを浮かべる。
眩しい晴れ間を感じさせるような屈託のない笑顔。
心の底から人間を愛している主人に、ウロは耳を垂らして頭を下げ、背を丸める。
そんな従者に主人である彼女は、静かに歩み寄り身体を抱いてやる。
「これこれ、そう拗ねるでない。
お主がだんまりでは、我が寂しいではないか。
…………今日までお主が側にいてくれて、我は嬉しかったぞ」
少女はウロの背中を撫で、昼の時よりも深く毛皮に顔を埋め頬擦りしている。
「ん〜……良い匂いじゃ。銀の毛並みは金にも劣らず輝いておって、綿毛のように柔らかい。
美しいぞ、お主」
草や葉が揺られ山がざわつき、風の音が鳴る。
茜色の夕焼けが、木々の切れ間から光を差し込む。
少女は少しの間ウロから離れずにいた。
体毛を指で絡め取り、くるくると弄んだ後にウロの身体を離れた。
主人の手の温もりに、名残惜しさを感じる。
主人は自分の最後へと向かってそっと歩き出す。
「ゆこうか」
山の神である彼女は、静かに神社の裏手へ足を向ける。
彼女の足元からは幾つもの花が咲き始める。
桔梗の花と燕子花。
色の違うそれぞれが、枯れ葉の下から次々に芽吹く。
とても幻想的な光景だった。
「主よ! そんな事をしては、貴女は!」
飛び出して前に出たウロの口に、主人の人差し指が当てられる。
「大丈夫じゃ。元よりもう持たぬ」
信仰を失い、神としての命も消えかかった彼女は、もう山神と呼べるような存在では無くなっていた。
それでも尚、彼女は自分の存在を維持している命を、血に吹き込む。
彼女が通った後ろには、点々と花の道標が産まれて行った。
神社の社から登った坂道の先。
雨に打たれ、岩が剥き出しになった崖の上で彼女とウロは止まる。
崖の上から見渡し、目に映るのは、言葉など忘れてしまえる程の景色だった。
「どうじゃ……これが我の全てじゃ。
お主には……譲ってやれんかったがのぅ」
「私には…………この景色より、貴女の方が美しく見えます」
「……そうか」
2人の場所から見た森には、小さな明かりがポツポツと灯り蠢いていた。
ウロの目には″ソレ″がとても不吉に映る。
ウロの視界を遮るように彼女が目の前へ来た。
「賢狼ウロよ。よくぞ今まで我に仕えてくれたな。お前の忠義は誠、一途なものじゃった。
お主も我の誇りである」
毅然とした態度で己が従者の功労を讃える。
「……あるじ、さま」
「お主には我から最後の命を下す。
生きよ。神と共にでなく、自然と共に生きよ」
「そんな事はできない」そう言いたかった。
しかし、神との繋がりが薄れ始めた獣に言葉など在りはしない。
口を何度かパクパクと動かす姿を無視して、彼女は背を向けて崖の方へと足を踏み出す。
ウロは彼女の衣服を噛み、引っ張る。
彼女はウロの頭を優しく振り払う。
もう一度だけ振り返って、ウロ前足を掴み、自分の方へと引き寄せる。
ウロの頬に柔らかい唇が触れた。
「お主の名は……我が貰ってゆくぞ。ウロ」
流れる星のように彼女の頬に涙が伝う。
神ではなくなり、少女となった彼女が流した心の雫は、宝石のような輝きを放ちながら地面に落ちる。
狼はその光景に目を奪われて遂に止めることが出来なかった。
少女は自分の意志で、崖から飛び降りた。
太陽が沈み、夜の帳が下りる。
狼は未だ崖の上で佇んでいた。
何を想うでもなく呆然と夜空を見詰める。
誰も居ない山の上で一人静寂に浸り、夜を明かす。
そんなつもりだった。
ガサガサと不躾な足音が響く。
大勢の人間の足音。
振り返ると、火の明かりが人影を照らしていた。
人影は神社の方からこちらへ向かっている。
狼は目を逸らしたかった。
しかし、視界に入ってしまった。
社の方から出て来た男が、主人と狼が歩いた証の花を踏み潰しながら歩いて来るのを。
男の手には猟銃と松明が握られている。
(やめろ。それは主が、あの人がお前達にこの景色を見せる為に咲かせたのだ。
その汚い足で踏み荒らすな)
狼の心など梅雨知らず、男はズケズケと花を踏みながら此方を眺める。
「狼? いやにデカいな。
まぁ、軽く追っ払えば良いだろ」
男は適当な方向へ、発砲し威嚇する。
狼の目は憎悪で曇る。
主人の言葉が脳裏を過ぎる。
自然と共に生きること。
目の前の人も自然の一部である。
狼には彼女の意図は伝わっていた。
それでも、狼は、主人の意志を無為にして。
目の前の男を噛み殺した。
狼は男を殺し、その足で神社へと向かった。
神社の社は多くの人間が集まり、取り払う為に壊して、解体して出来た木材などを運び出していた。
「こんな神社、なんで今まで放っておいたんっすかねぇ」
「あぁ、なんでも山神様が祀られてるとかって言われてたっけな。まぁ、時代遅れの古い考えだよ。
そんなもん居るわけねぇってのに」
「ですね!」
作業着を着た人間達の何気ない会話。
しかし、不運にもそれは狼の耳に入ってしまう。
狼の視界は真っ赤に染まる。
憎しみに駆られ自らの誇りを捨てて、その場に居た人間全てを殺し尽くした。
独りぼっちの神様の遣いは、神様の為の社を壊され故郷を消された事に怒りました。
人を食べて、殺してしまった神の遣いは、もう遣いではありません。
人間を憎んで人里へ降りた狼は、人々と血みどろの争いを繰り広げました。
しかし、多くの犠牲を出しながらも、人間の知恵と数の力を前に、狼は敗れ、倒れてしまいます。
狼は人々から恐れられ、いつしか山の神として祀られることとなりました。
山神を愛した狼は、その愛の深さ故に
奇しくも、神様に成り果ててしまったのでした。