これは、ルドルフが悪魔と戦う話。寝る前にでも読んで頂けると嬉しいです。

1 / 1
無事5冠まで歩を進めたルドルフであったが、トレーナーとルドルフには最悪の運命が待っていて。。


シンボリルドルフの悪魔

 パラパラと、廊下の窓ガラスが雨粒に晒されている。

 いつまで経っても降り止まない。

 湿気が、肌に纏わりつく。

 過ぎ去ったはずの梅雨がそこにいる。

 誰しもが、鬱陶しいと漏らさずにはいられないだろう。

 そんなジメジメとした8月下旬。

 どうも、忘れ物を押し付けられた気分だ。

 額に滲む汗が首筋にスルリと滑り込む。

 粘度の高い汗は、いつぶりだろうか。

 私は丁度、そう思い返したところである。

 

「さて……」

 

 今日はどうしたって走れないのだ。

 こんな放課後こそ、溜まった事務を片付けるべきだろう。

 生徒会室のシングルチェアに、私は腰を落ち着けた。

 学園から与えられた椅子であり、数少ない憩いの場。

 そんな場所で仕事とは、どうも矛盾しているようで。

 手が、筆を執ろうとしない。

 当たり前か。

 眉間にシワを寄せるには、十分だった。

 

「……んッ」

 

 大きく伸びをしたら、背もたれがギィッと軋んだ。

 君も疲れているだろう。

 そうであろう。

 脊髄を介さずに腕時計を眺めていると、私は17時になる瞬間を確認できた。

 コンコンコンと3回のドアノック。

 きっかり時刻通り。

 

「会長、失礼します」

「やぁエアグルーヴ。毎度毎度すまないね」

「いえ、これも副会長の役目ですから。机の上に置いて宜しいでしょうか?」

「あぁ」

 

 彼女の手に紙束、もとい書類が握られている。

 まぁ、100枚は重なっているだろう。

 ふぅと息を吐き捨てると、表面の1枚が地面に落ちた。

 私のサインを心待ちにしているようだ。

 まぁ、待っていろ。

 私は万年筆をクルリと回してから、書類に名前を連ねる。

 サインした後にハンコを下ろす。

 書類の右下、正方形の枠に朱印をペタン。

 その寸時に密かな楽しみが存在することを知る者は、ほんの一握りであろう。

 インクを滲ませぬようどれだけ垂直にハンコを下せるか。

 ただピシリと、ただ赤々と。

 その朱印を押すだけの作業に僅かな遊び心があった。

 書類を片付け終えれば、グルーヴは決まってこう続ける。

 

「お疲れ様でした。綺麗に押せた書類はありましたか?」

「それが……手応えが無くてね」

「そうですか。それは些か縁起の悪い……」

 

 彼女が腕を組んでいる。

 トントンと、人差し指を刻んでいた。

 というのも。

 時にその遊びは占いのような役割を果たしていたのだ。

 押されたハンコが赤々と映えた日に、私はトレーナー君からアイスを貰った試しがある。

 グルーヴも良いタイムが出たと言っていた。

 しかし今日のような日は。

 

「何もないと良いのですが」

「所詮遊びさ、気にすることはない」

 

 それ以上でもそれ以下でも無いのだ。

 そう割り切れば案外、他の仕事も早く片付いた。

 私はクリップで留められた書類を片手に、下駄箱でトレーナー君と落ち合った。

 提出するために理事長室を目指す。

 1人で行ってもいいのだが、まぁ。

 胸がざわついていたから。

 

「やぁ。いきなり呼び出してすまないね」

「良いよ。俺も話したいことあったし」

「……いや……キミ顔色悪過ぎないか。何徹目だい?」

「2……、3……?あーダメだ。頭ボーッとして数えられない。んー、やっぱり5冠バにもなると取材が多くて寝られないんだよね」

 

 5冠。

 それはウマ娘にとって前人未到の成果である一方で、トレーナーが然るべく背負う期待だった。

──何冠まで獲るのだろう?

 彼は、流し込まれているのだ。

 そのコンクリートのような希望を。

 廃棄年数など、とうに過ぎている。

 ガチガチに固まってしまったさ。

 拘束時間はいざ知らず。

 寝ることすら許されないとは。

 

「……すまない」

「負い目を感じる必要なんてないよ。忙しいってのはトレーナー冥利に尽きるモンだ。ホラ元気だせ」

 

 垂れたミミ先をヒョイと摘まれた。

 そのままビロンと引き伸ばして「はい、ウサギの真似」と言われた。

 ミンミンと、アスファルトに染みるセミの鳴き声が、パチンコ屋のように煩かった。

 私達の足音もまた地中へと深く溶けてゆく。

 ギャグセンスとは、これ如何に。

 少なくとも、激励の旨は伝わったから、まぁ良しとする。

 白い静寂の中で、口を開いたのは彼だった。

 

「ダジャレのツボは浅いクセに、ギャグの沸点は高すぎるだろ、お前」

「私でなくとも、今のは笑わないだろうよ」

 

 彼はハハッと頭を掻いて、話題を逸らした。

 

「てか、何で呼び出したの?」

「……特別な理由なんて無いけどもね。強いて言うならば……そうだな、アイスでも買ってくれないかい?」

「へー、珍しい。良いね、じゃあ先に買っちゃおう。俺もエナドリ買うわ。素直なルナ君に免じて、カフェラテもオマケしようかな」

「ありがとう。だが幼名を呼ぶのはトレーナー室にいる時にしてくれと言っただろう?」

「ごめんごめん」

「それにエナジードリンクか……あまり感心できたモノではないな」

「お目々ぱっちりだよ」

「体調には気をつけることだ。ところで君は何を?」

「あぁ、レースのことね。いやさ、力量を測る意味で天皇賞・秋を走らせたのに勝っちゃうもんだから。いっそのことジャパンカップに出てみないか、っていう提案。あのトロフィーを握ってみたいなぁ、なんて」

「勿論出走するさ。だがしかし、天皇賞を勝てないと思われていたとは。私よりも速いウマ娘が走っていたのかい?」

「いやいや、……なんと言うか『意外』ってよりは『脱帽』ってかんじ」

「それなら良いさ。君の色眼鏡に敵うのは私だけだと、そう刷り込んできたのだから」

「今日ちょっと不機嫌じゃない?」

「そう見えるかい? そう感じるのは、きっと寝ていないからさ。帰ってさっさと休むといい」

「インタビューメモ考えたら寝るよ」

「ほらそうやって直ぐに仕事をする。コレは、私直々に寝かしつける必要がありそうだね」

「バカ言ってないでテスト勉強にでも集中してた方が良いと思うけどな。それと、購買で買うヤツ目星つけとけよ?」

「あぁ、もう決まっているさ。エナドリは見つけ次第に没収するから宜しく頼むよ」

「そんな殺生な」

 

 廊下を進むと、遠くに購買へと続く列が見えた。

 小麦の焼ける香りに誘われて、少し早く歩いた。

 ガヤガヤと人々の賑わいが溢れている。

 豪雨でターフが使えないからだろうか。

 普段よりも混んでいるな、と思った。

 トレーナーと共に並ぶウマ娘をチラホラと見受けられる。

──カフェラテ作っとくから先に食べてなよ。アイス溶けちゃうし。

 私は「そうか」とトレーナー室でアイスの封を切った。

 どうせ二口目を齧る頃には彼も来ているだろう、と推測を立てる。

 そう考えつつも、ソファに座って少し待ってみる。

 まだ来ない。

 一口齧る。

 されども。

 LANEに連絡を入れる。

 待てど暮らせど音沙汰無し。

 食べ終えても尚、既読すら付かなかった。

 妙だな、と尻尾をユラリ。

 

(さてはエナドリを没収される前に飲んでいるのか? 今、コチラに向かっているとして。2つ、両手にカフェラテを持っているのならば既読が付かないのも……)

 

 そう考えれば全て辻褄があった。

 合ってしまったから、私から出迎えてやろうと思った。

 口元から甘ったるい化学調味料が香ったら、少しばかり怒ってやろう。

 トレーナ室の枕は硬いだろうから、膝でも貸してやろう。

 そう考えていた。

 私はさっさと購買へと向かった。

 向かう道の途中で私と同じく、そこを目指す人がいた。

 それは別のトレーナーだったり、保健室の先生だったりした。

 すれ違った誰かが噂をした。

 

「購買でトレーナーが倒れたんだって」

 

 全力で、走った。

 そんなワケがない。

 あの場には私達以外にも居た。

 他人の不幸を願うほど落ちぶれていないが。

 それは確かに、私のトレーナーであってほしく無いと祈っていた。

 かつての活気は喧騒へ。

 購買にできていた人混みが、困惑に呑まれていた。

 その群れに飛び込んで、私は全てを理解した。

 店内を照らす白熱灯が、閃光のように白んでいた。

 

「トレーナー君!! なぜだ?!!!」

 

 わからない。

 それでも、最悪の結果が眼前に広がっていることだけは分かっていた。

 彼が、コーヒーマシンの前で仰向けに倒れていた。

 2人の生徒が上着を脱がそうとボタンを外していた。

 その時の私は、おおよそ平時とは言い難かった。

 冷たい汗が、首筋を伝うのがわかった。

 つとめて冷静であろうと振る舞った結果。

 私も処置に加わった。

 考えろ、今すべきことを。

 2つのカップからぶちまけられた液体が、ワイシャツに茶色いシミを作っていた。

 身体が、ビクンビクンと跳ねている。

 ハッ、ハッ、と繰り返される浅い呼吸。

 それは口から「ゲコッ」と。

 酷くカエルめいた音が、漏れた。

 

──死ぬ?

 

「誰か?!AEDは?!」

「今、取りに行ってます!!」

「急いでくれ、早く!」

 

 散らばった氷が溶けるまで。

 それが死ぬまでのカウントダウン。

 バタバタと天にもがく腕を、私は地に伏せた。

 まだ昇らないでくれ。

 私は掌に集めた全体重を、彼の心臓へと打ち込んだ。

 

「ヴォァッ」

 

 吐き出された体液は、書類の朱印よりも赤かった。

 

 

 

 運命の黒い糸を私は知っている。

 赤い糸の先に恋の果実が実るのならば、もう一方には不幸の種が埋まっていた。

 前者は努力して得られる結果ながら、後者は運が絡む。

 発芽したというべきか。

 言うなれば、外れクジだ。

 彼の小指に医療用の細いチューブが巻き付けられている。

 喉にも、手首にも、胸元にも。

 さながら命綱だ。

 意識不明はおろか、心肺機能の不全も明白だ。

 ハサミで切り離せば──考えたくもない。

 チューブの中をドロドロとした黒血が巡っている。

───黒い糸? いや、それにしても、だ。

 そんな糸ほど、か弱い命綱であってほしくないさ、私は。

 

「心筋梗塞です。……ストレスや疲労が祟ったみたいでして。延命措置が早かったからこそ一命を取り止めましたが、意識を取り戻すのはいつになるか。もしかすると寝たきりの可能性も──」

 

 ある病室の一角で、そう告げられた。

 フルフルと肩を震わせているのはトレーナー君の母親だ。

 握られたハンカチがギリギリと音を立てている。

 医者は気まずそうに、カルテへと視線を落とした。

 私はただ、天井を見上げるばかりだった。

 

「息子は、死んだのですか?」

 

 疑いようもなく生きている。

 だが、それは事実を確認しているのではなく。

 医者としての、専門職に対する諮問であると。

 そう理解できた。

 

「死んではいませんが──」

 

──植物のような者でしょう。

 言葉として形容されないけれど、真意はそこにある。

 彼女は答えることをせず、ただ1度だけ鼻を啜った。

 

「なんで……なんで息子がこんな目に遭わなきゃならないんですか?!! 何をしたって言うんです??!」

 

──「元はと言えば」

 彼女が何かを言いかけて吃った。

 黙っては、危うく溢しかけている。

 理性と欲望を天秤にかけていることなど、見てとれた。

 彼女は母親である前提として、人間なのだ。

 欲望に傾くのは早かった。

 

「元はと言えば、アナタがレースに勝ち過ぎたせいでしょう?!」

 

 アナタ。

 それは間違いなく私を刺している言葉だった。

 

「ねぇ、息子を返してよ。もっと調整とか出来なかったの?! 勝てば忙しくなるなんて目に見えてるじゃない!!そんなに仕事させたら、倒れるなんて分かるじゃないの!」

 

 わかる。

 けれど。

 

「早く返しなさいよ! 返せ!」

 

 胸ぐらをグッと掴まれた。

 抵抗は、しなかった。

 パチンと乾いた音が鳴ったら頬が激しい熱を持った。

 違うんです、お母様。

 一緒に玉座に座ろうって約束したんです。

 私こそがトロフィーを握らせる者だと、誓ったんです。

 

「黙れ、この悪魔!!!!!」

 

──ダメだ壊れる。

 

「ただ……喜んで欲しかっただけなんです……」

 

 右頬に、手のひらを当てて呟いた。

 

 

 

 

【もしも唐突に大切な人が倒れたとして、あなたは真っ先に何をしますか。運命を呪いますか? 仕方なかったと諦めますか? 必死に進んだその先で「悪魔」と責められたら、どんな気持ちになりますか?】

 

 

 

       †

 

 

 

 歳月が人を待たなければ、レースの開催時期もウマ娘を待たない。

 途方に暮れる猶予など残されていなかった。

 メディアが1番人気を予想したり、出走するウマ娘の概要を纏めたりする。

 もう、そんな時期だった。

 私は本来トレーニングに励まなければならない。

 それでも屋上を訪ねたのは、わだかまりを解消したかったからだ。

 

「やぁシリウス。私が悪魔に見えたことって、あるかい?」

 

 ここは彼女にとってのサボり場所だ。

 私は招かざる客だったらしい。

 隣に寝転んだら、ピクリと眉を顰められた。

 質問を投げかけたら、露骨に嫌な顔を向けられた。

 突拍子のない質問だとは理解している。

 当たりめぇだろ。

 そう言いたげだ。

 それでも、彼女からの返事は意外だった。

 

「…………無ェよ」

 

 誰が聴いたって、真偽を疑いたくなるような声だった。

 嘘だ。

 絶対に嘘をついている。

 正直に言ったらどうだい?

 

「……あるけどよ。まぁ流石の私でも、今回は同情するな。真正面から『あります』なんて言えっかよ。なんだ? こんな時って『ご自愛下さい』とか言うのか? 似合わねーったら、ありゃしない」

「キミまでそう温情的だと、なんだか調子が狂うな」

「人が心配してンのにそれかよ。てかトレーニングはどうした」

「今日は気分が乗らなかったんだ」

「お前も御サボりとは、なかなか素質あンな」

「そう言わないでくれ。考えることも多いんだ」

「皇帝サマが考え事だと? こりゃ傑作だな」

「どうとでも言ってくれ。だが1つ……これは生徒会長としてではなく、幼馴染としての頼みがあるんだ」

「なんで聞く義理がある?」

「もしも君が私に温情をかけたと言うのならば、コレだけは聞き入れてくれないだろうか」

「めんどくせぇな……」

 

 まぁ、断られてるだろうとは思っていた。

「ダメか」立ちあがろうとすると彼女が私の手を引いた。

 

「……ンだよ」

「乗ってくれるのかい?」

「これっきりだからな」

「ありがとう。言葉で表すのは少々難しいのだが……。私はどうすれば良いのだろうか?」

「アバウト過ぎンだろ。やりたいことやれよ」

「では、何をすればトレーナー君を救えるのだろうか」

「医者でも無ェんだから、せめて足繁く通うくらいだろ」

「それはそうなんだが。負担をかけたくなくてだな」

「ならさっさと契約解除しろ。新しい奴適当に見つけて代わりを立てちまえ。五冠バ様と契約したい奴なんて腐るほどいンだろ」

「しかし彼が良い。彼と走っていたい。ワガママなのは、重々承知している」

「本気か? 矛盾だってしてンじゃねぇか」

「それだって理解した上で、こうやって君に打診をしているんだ。トレーナー君と契約を続けつつ、彼に負担をかけない方法はないのか、と」

「アホらしい……。呆れた」

 

 シリウスが跳ね起きて嫌味を吐いた。

 普段の彼女が、そこに居る。

 皮肉を言ってアドバイスをくれる幼馴染が、そこに居る。

 

「おいおいマジか。『私は得しかしたくない』ってか?ハッ、傲慢だな。そんな夢物語を垂れ流すほど、皇帝の名は廃れちまったか」

 

 グゥの音も出ない。

 それでも両立したいと考えている。

 

「教えてやるよ。何かを得るためには犠牲が必要な時もあンだよ。まさか五冠バ様の悩み事ってのが、ここまで幼稚だとは。目も当てらねぇや」

「……やはりそうなのだろうか」

「下らねぇ。聞いて損した。じゃあな」

 

 地平線に沈む太陽と私だけが屋上に取り残されていた。

 雲が星に塗り替えられてゆく。

 うなじをヒンヤリと撫でられたようだった。

 

 

 

 生徒会室に戻ると、エアグルーヴが掃除をしていた。

 右手にハタキを握っている。

 黒ずんだ雑巾が、水汲みバケツの中で萎れている。

 部屋に漂うアルカリ溶剤の香りが、ツンと鼻をつく。

 これは彼女なりの息抜きだ。

 彼女は掃除でストレスを発散する、その典型なのだ。

 その規模は、そのストレスの大きさに比例する。

 ここまで大掛かりだと、ワケを知りたくなるのも必然だ。

 時間を共にすれば、いつか話してくれるだろうと思った。

 

「私も手伝うとするよ」

 

 私は雑巾を固く絞って、窓ガラスを拭いた。

 擦るたびにキュッキュッと磨きが掛かる。

 汚れだと思った丸い黄ばみが月影だと知って少し笑った。

 ひとたび手を動かせば、無心になれた。

 レースに、トレーナー君のことに。

 邪なことを考えずに、脳みそを空っぽに出来ていた。

 ストレス解消に繋がる理由が、わかった気がしていた。

 口を開いたのは、エアグルーヴからだ。

 

「悩みというワケではないのですが……気になることがあるんです」

 

 私の憩いの場に小さな段ボールが乗っている。

 彼女はそこへ視線を移して、睨みつけるようにキッとミミを絞った。

 中にファンレターが入っていることを、私は知っている。

 敵意を向けるべきではないだろう。

 ガムテープを剥がすと、やはり期待が詰まっていた。

 手紙は、茶封筒だったりカラフルな便箋だったりした。

 年端もいかない少女が書いたと分かるその文字に、どれだけの期待が込められているのだろう。

 それは、力になる。

 原動力となる。

 1つ1つ手にとって、目で文字を追いかける。

 声に出して、読んでみる。

 

「ルドルフさんもお身体に気をつけてください。トレーナーさんの快復を心より祈っております。頑張って下さいね」

 

 婉曲せずに言うのならば「嬉しい」の一言に尽きた。

 力になるな、言葉というものは。

 私は何枚も、寄せられた激励を心に染み込ませた。

 次々に手を伸ばして最後の1枚になった。

 真っ黒な便箋が、ポツンと残されている。

 差し出し人も宛先も明記されていない。

 取っておいたと言うには余りにも不吉で、歪な手紙。

 嫌な予感は、していた。

 彼女が「やはり」と続けた。

 

「私が先に確認しても宜しいでしょうか?」

 

 恐らく彼女も、私と同じことを考えている。

 悪意が綴られているのではないか、と。

 それでも私はファンレターを疑りたくない。

 

「いや、私から確認しよう。心遣い、痛み入るよ」

 

 接着は、甘かった。

 早く見てくれと言わんばかりだ。

 中には1枚の紙が内包されていた。

 ただ、一言だけ。

 

 

 

〈辞めろ〉

 

 

 

 その黒字が紙いっぱいに主張されていた。

 その文字に色ムラが無いことは、何度も上塗り直した証拠に他ならない。

 それこそ紙が擦り切れるほど強く、強く。

 その様子が頭の中で再生されるほど、クッキリと綴られていた。

 分かっていた。

 私がバカだったのだ。

 グルーヴが「ハァ」と漏らした。

 

「やはり……。トレーナーさんのファンからでしょうか」

 

 そうであろう。

 私にファンが付くのならトレーナー君を好む者だっている。

「5冠バのトレーナー」

 素晴らしいブランドだ。

 彼を潰した私が憎いか?

 一連托生。

 仮に私が壊れれば、彼にまで深く影響するということが。

 それすらも分からないか。

 互いに壊れても良い、と。

 そう覚悟を決めて、キミはこんな手紙を送ったのだな?

 

「……掃除に戻ろうか」

 

 私がポンと肩を叩くと、グルーヴは唇をギュッと噛み締めた。

──私が先に見ておけば──

 彼女の、心の声が聴こえたようだった。

 ありがとうグルーヴ。

 君が責任を感じる必要はないさ。

 先に見ると決断したのは、私なのだから。

 でも。

 

「言葉は、時に刃となるのだな」

 

 少しだけ、痛い。

 エアグルーヴは一度だけ頷いた。

 初めて切りつけられたのは「悪魔」と叫ばれた時だ。

 その時の私はまだ、そんなハズがないと思っていた。

 それは主観による一方的な呼び名だったからであって。

 独りよがりだと信じていたからであって。

 激情に任せた結果だったからであって──。

 それでも、まぁ。

 第三者に非難されてしまったら流石に。

──堪えるな。

 真っ先に頬を伝ったのは脂汗だった。

 初めて正面から受けとめた、明確な悪意。

 こんな手紙を寄越す人がいるのだと初めて知った。

 悲しさよりも、無力感の方が大きかった。

 その手紙に、ほとんど怒りだって感じていた。

 差出人を特定して真意を問い正そうとさえ思っていた。

 私は貰った激励を、素直に喜べなくなっていた。

 悪意がチクチクと、心臓の裏側に突き刺さっている。

 参ったな。

 当分は引き抜けそうにない。

 

 

 

    †

 

 

 

 東京競馬場が声援に揺られている。

 ハァハァと息を上がらせた私が芝に倒れ込む。

 勝負服の隙間から蒸れ出る酸っぱい汗の匂い。

 気化してユラユラと青空へ昇る。

 観客の視線が電子掲示板の「確定」に注がれている。

 結果から言えば、私はジャパンカップを勝利した。

 

 勝者以外は、皆等しく敗者だ。

 そこには芝の上で涙する者もいれば、ただ立ち尽くす者もいた。

 感情の整理を終えた者は皆、トレーナーの元へ帰る。

 私は──。

 

「なんと! 史上初の6冠バはシンボリルドルフさんです!」

 

 勝利インタビューで何と言ったかは覚えていない。

 確か「光栄です」とか「ありがとうございます」とかを繰り返していた。

「ウイニングランをお願いします」と言われた瞬間まで、私の記憶はスキップされている。

 それを撮影用だと知っていたから、私は大袈裟にフォームを崩して走った。

 走り終えた頃には両膝に手をついていた。

 

「撮影は以上になります。お疲れ様でした」

「ありがとうございました」

 

 場内に残されているウマ娘は私だけだった。

 残された者は、すべからく私の凱旋を見守った者達だ。

 控室へ帰る道の途中。

 スタンド席の彼らが、口々に叫んだ。

 

「ルドルフー!お疲れ様!!!」

「次も期待してるぞ!!」

「トレーナーの分まで7冠頑張れよ!」

 

 私は、手を振った。

 次も頑張るから見ていてくれ。

 円満に帰る、その瞬間のことだった。

 

「最低だよね」

 

──何が?

 ふと、耳に入った。

 あまりにも小さな声で、気のせいだとさえ思った。

 性別すら読みれないほどだった。

 それでもファンレターをもらった時のように、確固たる悪意がそこにあった。

 それは恐らく、私宛てではない。

 身内の話題。

 言ってしまえば独り言だ。

 それでも気になるのだ。

 どこだ、どこから聞こえる?

 

「強過ぎるっていうのも可哀想だよね」

「ねー」

 

 その会話がどこで行われているのか、分からなかった。

 いやもしかしたら、

 人の意識は都合が悪い。

 ある時イヤな言葉を耳にすると、その情報に支配される。

 たった1滴の墨汁を落としただけで、そのコップに誰1人として口を付けないように。

 その言葉が、激励の中で濁っていた。

 もう、やめてくれ。

 せっかく立ち直れそうだったのに。

 気にかけないつもりだったのに。

 

 

 気を遣ってやれよ。流石は皇帝。潰すなんて。楽しいのか? 植物人間。お前のせいだ。貫禄あるな。勝ったからだ。次で7冠バか。彼、死ぬんじゃない? 良いレースだった。だから倒れた。次も期待しよう。辞めろ。

 

 

 

──この悪魔が。

 

 

 

 脳裏に、浮かんだ。

 こびりついた悪意がハッキリと。

 声援が、誹謗へ。

 聞こえる。

 そう聞こえてしまう。

 いくらミミを塞いだって、頭の中から湧いて出る。

 むしろ、いっそう強く聞こえるのだ。

 私は貫禄など投げ捨てて、控室へと逃げ出した。

 そのフォームは数分前よりもよほど見苦しかったハズだ。

 知ったことか。

 私は予定を全て蹴り飛ばして、寮の布団にくるまった。

 否定しよう。

 私は皇帝だ。

 悪魔なんて、呼称されてなるモノか。

 涙は──不要だ。

 その涙腺が、玉座にしがみつく最後の防波堤だと思った。

 今泣いてしまったら、全てが崩れる。

 そんな気がした。

 喉に押し固めた虫唾を、私はグッと飲み込んだ。

 あの日病室で投げつけられたセリフを、今でもハッキリと覚えている。

──息子が何をしたっていうんですか。

 逆に問う。

 私が何をした?

 彼にトロフィーを握らせて何が悪い。

 貪欲に勝利へと食らいつくことの何が悪い。

 勝って、勝って、ライバルを喰らって。

 それこそ、ウマ娘らしく生きただけだ。

 なぜ非難を浴びねばならないのか。

 私に与えられた称号は、そんなにも醜いというのか。

 相対評価に興味は無い。

 私たる絶対評価も塗り替えられた。

 それならば終わりにしよう、お互いに。

 私は机から契約書を引き抜いた。

──もう、疲れてしまったよ。

 ビリビリに、破いていた。

 

 

 

【こんな思いをするのなら、契約など結ばなければ良かったのだ。――白紙撤回。不可能だ、全てのウマ娘が幸せに暮らせる世など。何が悪い。彼女が悪い。全て、彼女のせい】

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

 メディアによる私の評価は、つい先月まで一貫していた。

 曰く「最強」だと言う。

 私はその通りだと思っていた。

 全ウマ娘が幸せに暮らせる世を作る者として、相応しい称号だと、そう自負していた。

 その名に負けぬよう、一念発起。

 嫉妬を受ければ無視をして。

 恐れられれば、受け入れて。

 誰に後ろ指を刺されようと、臆せず我が道を進んでいた。

 それが仇となって彼は倒れたのだが。

 

〈堕落。トレーナーを苦しめる皇帝〉

〈長期休暇で有馬記念は出走取り消しか。失意のルドルフ〉

 

 街を歩けば、そんな記事をいくらでも目撃できた。

 有馬記念──放っておけ。

 無論、走るつもりではいた。

 仮に私が誰かと契約を結んだとして。

 その者がメディアの晒し者にされることなど、分かりきっている。

 良心が痛むのだ。

 到底、再契約を結ぶメンタルではなかった。

 走る必要なんてない。

 することべきことがない。

 いや、在るのだが。

 私には契約解除の旨を伝える義務があるのだけれど。

 まだ足踏みをしていた。

 

「寒いな」

 

 独りごちる。

 吐いた息が、煙のように白く濁っていた。

 その煙に巻かれながら、義務から逃れたくて。

 ただブラブラと府中を彷徨う。

 私だと発覚すれば騒ぎになるから、と。

 私はパーカーのフードを深く被ってミミ隠した。

 ヒト用のジーンズを履いて、尻尾をしまいこんだ。

 人間のフリをしたのだ。

 ウマ娘にもミミと尻尾が備わっているのだから、姿形は大して悪魔と変わらないではないか、と思った。

 人とすれ違う度に心が臆病になる。

 脚が、止まる。

 振り返って、バレていないかを確認してしまう。

 確認を終えて地面と顔を合わせる。

 トレーナー君が倒れた日以降。

 心なしか抜け毛が増えた。

 数値として目に見えたのは体重だ。

 抜けた毛のコンマ数ミリグラムでは、とうてい説明不可能なほど。

 それは確実に、減っていた。

 

 好きに嗤え。

 前進することを諦めた私など、王座に座る資格なんてないのだから。

 もう。

 後ろ指の代わりに、ナイフで刺してくれたら、どんなに楽だろうとさえ考えていた。

 なんだろう。

 胸にポッカリと空いた円い喪失感。

 どう考えたって、穴だ。

 まるで感情を欲しがる機械のように“彼”が欠けている。

 私を突き動かしていたのはトレーナー君への情慕だった。

 自然につま先が、彼の待つ病室へと向いていた。

 

 

 

 サッシに自殺防止のストッパーがついている。

 引っかかるまで窓をスライドさせて私は顔を覗かせた。

 ユラユラと、街が斜陽に照らされている。

 数羽のカラスが絡まりながらオレンジ色の空へと消える。

 くたびれたサラリーマンが、重い足取りで地下鉄の階段を降りて行く。

 階段を登ってきた者は皆、夜に誘われるようにして横断歩道の先を目指す。

 

「君も寒いかい?」

 

 白い壁と白い天井に守られた部屋は、四季が春に固定されたような空間だ。

 完備された空調は一欠片の寒気さえも許さない。

 一体誰が置いたのか。

 ジャパンカップのトロフィーが、パイプ椅子の上に乗せられていた。

 茶色い編み込みの竹籠が隣に添えられている。

 その中に彩豊かなフルーツが盛られている。

 りんごにバナナ、キウイにモモ。

 手を加えられた様子はない。

 その静謐を、私は美しくないと評していた。

 ベッドで眠りこけているのはトレーナー君だ。

 水色の患者服にはシワ1つついていない。

 最後に寝返りを打ったのは、一体いつ頃なのだろうか。

 

「君の声を聞かせておくれよ」

 

 機械の規則的な音だけがピッピッと病室内に響いていた。

 それはトレーナー君の心拍数を測っている。

 彼の生きている証拠だ。

 私は間を埋めるようにして、彼に話しかけていた。

 そうすれば、幾らか気まずさが柔らいだ。

 昨日の晩御飯はハンバーグを食べたとか、最近寒くなって手袋を買いに行ったとか。

 そんな他愛もない話をした。

 1人でブツブツと、虚空に語りかけていた。

 それでも黙っているよりか、よほどマシだと思っていた。

 色々な話を終えた後にジャパンカップの勝利報告をした。

 彼が起きていれば、する必要のない一報を。

──本来ならば、だ。

 勝利したあの日に、真っ先に「おめでとう」と伝えたのは彼であったハズだ。

 まさか、君が最後だとは。

 要らないことを考えて、天井を仰ぎ見た。

 

「ほら、君が握りたがっていたトロフィーだよ」

 

 彼の左手に携えた。

 支えられることもなく、5指からスルリと滑り落ちた。

 私のスニーカーにぶつかって床をカラカラと転がった。

 拾い上げたトロフィーの縁が、欠けていた。

 

「別人じゃないか」

 

 布団をめくって私は初めて気がついた。

 手の甲があかぎれて細かいヒビが割れている。

 私は、すぐさまハンドクリームを塗り込んだ。

 シーツよりも白い肌に、私よりも細い指。

 今にも折れてしまいそう。

 爪先から手の甲まで。

 滑らせた私の親指が、関節のくぼみに突っかかる。

 

「2度と帰ってこないつもりなのかい?」

 

 もう一度だけ黒塗りのスタンドに五指をかけさせた。

 私は欠けた縁を隠していた。

 本当は、その場で撮りたかったのだけれど。

 パシャリ。

 ホーム画面に設定して、これでお終い。

 私は手から外すためにトロフィーを引っ張った。

 

「……?」

 

 彼の手が、離れなかった。

 確固たる力でスタンドを掴んでいる。

 偶然引っかかっているなんて、そんな曖昧な力ではない。

 まるで宝物を見つけた少年のように、離すまいと、しがみついているのだ。

 私は測定器に目をやった。

 その波が数十秒前よりも強く、縦に振れている。

──彼が、ここに居る。

 私はそう確信した。

 夢の中からトロフィーを追い求めてきたのか。

 もしくは初めから定まっていたのか。

 正確な要因はわからない。

 どうでもいい。

 

 私は彼の手を両手でギュッと包み込んだ。

 なぁトレーナー君、私が理解るかい?

 居るなら返事をしてくれ、頼むから。

 言いたいことが、言うべきことが、山なんて表現では足りないくらい積もっているんだ。

 

「……ド、フ……?」

 

 私の名が、酷く掠れた声で呼ばれた。

「呼ばれた」ならば声をかけた第2者が存在していて。

 その者がトレーナー君だと気がついた瞬間に、私の意識は彼に注がれた。

 

 ただいま。

 聞こえたよ。

 呼吸器を外して、笑っていた。

 

 

 

 翌日になってから、やっと彼と話をした。

 元気になったようで、ベッドから半身を起こしていた。

 

「「ごめん」」

 

 一言目から重なった。

 彼の「ごめん」は理解できる。

 心配かけて、と修飾されるのだろう。

 それは私のせいさ。

 勝ち過ぎたがゆえに、君に負担を強いてしまったからさ。

 何故か彼は、たいそう寂しそうに目を細めていた。

 スマホをコチラに向けて「情けないよ」と溢した。

 液晶に、いつの日か見た新聞記事が映し出されている。

 彼は私の未来に謝罪する一方で、己の過去を責めていた。

 

「倒れてる間にこんなボロボロに……。本当に不甲斐ない。ツラかったよね。ごめんね」

「……全ては尻拭いさ」

 

 彼は「ねぇ」と続けた。

 

「最後に泣いたのは、いつ?」

「さぁ、いつだったか」

「じゃあ、泣きたくなったのは?」

 

 酷くイジワルな質問だな、と思った。

 なんだか、心の内を見透かされたみたいで、心臓がチクリと痛んだ。

 最後に涙を飲んだのは──ジャパンカップを獲った日だ。

 泣きたくなって堪えた、酸づいた記憶が鮮明に蘇る。

 評価が逆転したあの日から、私の涙は溜まり続けている。

──いや、もっと前からだ。

 正確に言えば、悪魔と呼ばれた日からだ。

 なぜ私は泣いてこなかったのだろうか。

 確か、理屈を捏ねていたからだ。

 玉座にしがみつくだとか、矜持を保つとか。

 外向きの顔を装うためだけに私は涙を押し殺していた。

 心に余裕が無かったから去勢を張ったのだ。

 そう自覚した途端に、目頭がじわりと激しい熱を持った。

 1人のウマ娘として、だ。

 唯一彼の前ならば、私は皇帝である必要がないと思った。

 

「ハハ。やはりファンの前で泣くワケにもいかないからな」

 

 ボロボロ涙こぼしながら。

 顔、胸にくっけて。

 

「ト、トレーナー君になら、少しなら、許して、もらえるかなっ、て」

 

 私は、わんわんと泣いた。

 守ってきた城壁が、ガラガラと崩れ去っていく。

 少しだけ、楽になった気がした。

 私は心が弱くて、トレーナー君に寄りかかって、泣きじゃくる、ただのちっぽけな存在であることを知った。

 私は全てを受け入れる器など、初めから持ち合わせていないのだ。

 だから。

 全部、吐き出した。

 契約書を破ったことも打ち明けた。

 悪魔なんて言われたくないんだ。

 私のせいじゃない。

 本当は「知ったことか」って言ってやりたい。

 一部の悪意に屈してなるものか。

 こんなことで長期休暇をとっている自分を変えたいんだ。

 どうしようもなく自分勝手だけれど。

 君に強い負担をかけるかもしれないけれど。

 

「頼むから、有馬記念を走らせてほしいんだ」

 

 そんなの当たり前じゃん。

 澄ました顔で、頷いていた。

 

 

 

 その日は雪が積もっていた。

 ニーソックスから覗く絶対領域が触覚を失っている。

 両手で筋肉をほぐすと、ヒンヤリと指先の熱を奪われた。

 踏み固められた雪が、蹄鉄の接合部に挟まっている。

 芝の上を歩くたびに足の裏でギュリギュリと軋む。

 シャクリ。

 地面を知らぬ牡丹雪がミミの産毛を白く染めた。

 

「うわっ」

 

 そうやってミミを震わせて、くしゃみをして、髪に絡まった雪は透き通る。

 さて、今日も勝ち切ろう。

 私は覚悟を決めて、ふぅと煙めいた息を吐いた。

 

「ほら、ボーッとしてると始まるぞ」

 

 見た目以上に、私は緊張しているらしい。

 トレーナー君がポンと、私の背中を叩いた。

 それでやっと、周りの声が聞こえた。

 中山競バ場が歓声に震えている。

 皆がスタンド席で私の名前を叫んでいる。

 あるいは旗を振り回す人もチラホラ。

 

「大丈夫。ルドルフを応援してる人は沢山いるんだから、全力で走っておいで。後のことは任せろ」

「ありがとう」

 

 正直に言えば、トラウマは克服できていない。

 心臓に突き刺さった悪意だって、まだ引き抜けていない。

 勝ったら何を言われるのだろうか。

 つい、そう考えてしまうけれど。

 私は腹を括ったのだ。

 臆病者とは、いよいよ決別せねばならない。

 堂々と1着を獲って、真正面から豪語してやろう。

 うん。

 大丈夫。

 空は、まだ青い。

 

 

     

      †

 

 

 

 私が7冠バになった知らせは、テレビの中継を通して全国に知れ渡った。

 最も早く祝福したのはトレーナー君だ。

 さぁやるぞ、と意気込んでいる。

 私は有り余る歓声の中で観客に手を振っていた。

 非難の声はない。

 代わりにミミを突いたのは、彼を心配する声だった。

 

──「また倒れないか不安だね」

 

 ひとつまみの悪意すらも感じられない。

 初めからそう言えば良いものを。

 言いたいこと言って、それで終わり。

 

「彼とのこれからの関係性について一言貰えますか?」

 

 インタビューを2人で答えることになった。

 先の熱狂が嘘のように、しんと静まり返っている。

 記者のその一言で、唐突に汗が冷えていく。

 1台のテレビカメラが、私達をじっと見つめている。

 その一眼は数万人の両目と繋がっている。

 会場の者はみな、今か今かと私の一言目を待っていた。

 思い切って言ってやった。

 

「トレーナー君には、更に負担をかけるつもりです」

 

 記者達が、ざわめいた。

 想定通り。

 あぁ、収集付かないな。

 トレーナー君はそれを無視して「少しだけ聞いてください」と遮った。

 

「俺はルドルフと、どこまでだって進むつもりです。まぁ、正直言ってキツい。まともに睡眠とれないし、食事の時間だってバラバラ。労働基準なんて合ったモンじゃない。それでも俺が頑張るのは、彼女に快く走ってほしいからなんです」

 

 彼は彼自身のファンに爆弾を投げつけた。

 

「つい先月、彼女宛てに手紙が届きました。『辞めろ』とだけ書かれた。えぇ、もう初めて聞いた時、卒倒しそうになりましたよ。責任をルドルフに求めようとしたんですか? 本当に愚かとしか言いようがない。聖人か何かだと思っているんですかね。違うでしょう。まだ年端もいかない女の子でしょう? 例え彼女が世間に悪魔と言われようと、俺にとっては目に入れても痛くない生徒なんです。可愛くて仕方ないんです。ですから、どうか暖かく見守って欲しいんです」

 

 なぁトレーナー君。

 恐らくあの手紙を送ったのは、君のファンなんだが。

 この放送だって、聞いてると思うんだ。

 

「応援だけとは言いません。批判が必要であることも理解しています。それでも、ルドルフを責めることだけはやめて下さい。全部俺に寄越して下さい。俺が望んで仕事してるんです。伸び伸びと走らせてやること、それがトレーナーの最たる使命です。それを妨害する奴は、例え厚意であろうとファンじゃない。それこそ本当の悪魔だ。今すぐに俺のファンを──。あー、敢えてこう言いましょうか。『辞めろ』」

 

 そう言って、彼はマイクの電源を切った。

 プツン。

 カメラの向こうから、ちゃぶ台のひっくり返る音がした。

 スタンド席からは、野次とヘイトが混ざったようなセリフが飛んでいる。

 だが少なくとも、どのセリフも「よくやった」と要約できた。

 君、こんなことをしたら仕事増えるぞ。

 

「おいおい、いつか言ったろ? 『忙しいってのはトレーナー冥利に尽きるってもんだ』って」

「君ってやつは、本当に……」

 

 救いようのないマゾヒストだ。

 また、倒れたいのかい?

 でも何故だろうか。

 私の口角が、ニヤリと半弧を描いているのがわかった。

 これでもう、2度と凹むことも無いだろうと思えた。

 

 

 

 

      †     

 

 

 

 

 あれ以降2つほど、彼との関係性に変化が生じた。

 

 1つ目。

 私はトレーナー君の家政婦を兼ねるようになった。

 とは言え、週に数回、彼宅にお邪魔するだけなのだが。

 今のところは、彼は元気ながら仕事に精を出している。

 まぁ、あれこれと思案した結果だ。

 彼が私を想うなら、私だって。

 

「トレーナー君。今日は何が食べたい?」

「んー、ルドルフの作るやつならなんでも」

「『何でも』が1番困るのだが」

「じゃあ肉じゃが」

「了解した」

 

 眼鏡をかけて、黒いエプロンをつける。

 ヘアゴムを口に咥えて、ポニーテール。

 なんだか奥さんみたいだな。

 

「手が空いているなら、お皿を並べてくれないかい?」

「おっけー」

 

 戸棚にお茶碗が1つ増えている。

 緑と焦茶のペアルック。

 彼が「勝負服をモチーフにした」と言っていた。

 私のお気に入り。

 今日も例に漏れず彼と夕食を共にする。

 

 

 

 2つ目。

 変わった点、というよりは然るべき結末と言うべきか。

 彼と契約書を書き直した。

 正確に言えば今から書き直す。

 

「どんなに蔑まれようと、君だけは私の隣にいて欲しいな」

「そんなの当たり前じゃん」

 

 言葉とは包帯にもなる。

 結局は、本人の使いようなのだ。

 確かに、それは時に唐突に。

 悪魔の持つフォークに変化して、ヒトの心を貫き得る。

 痛いさ。

 苦しいさ。

 臆せず、悩んで、壊れかけたさ。

 運良くトレーナー君に支えてもらえただけで、いつ壊れていたかも分からない。

 だからこそ私は後者でありたい。

 その痛みを知っているのだから。

 もう2度と、欠けたトロフィーなど見たくないのだから。

 酷く陳腐なセリフだけれど、言わせておくれよ。

 

「ありがとう」

「いいよ。俺もルドルフじゃなきゃ嫌だもん」

 

 涙が、溢れた。

 これで2回目だ。

 なるほど、案外私は情に弱いらしい。

 右の目尻を擦ると、さらにポロポロと零れ落ちた。

 

「契約後の苦労は等分するとして。それなら涙も半分こ。これからもずっと、よろしくね」

 

 トレーナー君は人差し指でスッと、私の左目尻を償った。

 病室で見た痩せて弱りきった彼は、もう居ない。

 太くて、逞しい指だった。

 

「うん……」

 

 震えた声で、頷いた。

 ポタリと、契約書に涙が垂れた。

「印」の文字がそれを吸い取って、2粒ばかりヨレている。

 私は構わずに、判を押した。

 その契約印がぼんやりと薄紅色に滲んでいる。

 ハンコ占いの結果は。

──最悪だ。

 トレーナー君が倒れたあの日に従えば、エアグルーヴが腕を組む結果だ。

 それなのに。

 中々どうして、幸福な未来が訪れるだろうと思えた。

 

 少なくとも契約を満了するまでは。

 まだ君が、トロフィーを握りたいと望むならば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフの悪魔‐fin-

 

 

 

 




このまま二人の道を突っ走ってほしいですね。次回作もお楽しみに!コメント、評価、何が来ても嬉しいのでドシドシ送ってくださいね!!

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。