身に着けていた腕時計の針は正午から二十八分が過ぎたことを示していた。おおよそ想定通り。待ち合わせの時刻まで三十分ほど余裕がある。早く着きすぎたと、普段ならそう思うところだった。
今回の待ち合わせ場所は広めの公園。私にとって馴染みのある場所で、最後に訪れたのはいつだったか。ざっと見渡してみると、遊具が塗り直されたこと以外に変わったことはないようだった。春の陽気は心地よく、元気いっぱいに遊んでいる子供たちはとても楽しそうだ。
ふわり、髪が揺れる。赤を基調としたジャージに身を包んだウマ娘が数人、久しい公園の様子を窺っていた私を追い越していった。準備運動だろう。彼女らは速度をかなり抑えて走っている。公園でするトレーニングといったら遊具を使った筋トレか持久走くらいのものだった。人の多い場所で全力で走ろうものならいつ大事故が起こるか知れたものではないので、学園外での選択肢は少ない。
背を見せて離れていく彼女らを見ていると、ただひたすらに走っていた日々のことが脳裏に浮かんだ。芝の匂い、汗のべたつき、途方もない疲労感とそれを補って余りある爽快感。どれも忘れられない感覚だった。
懐かしく、微笑ましい気持ちになる。私も彼女たちと同じ服装でこの公園を駆けたものだった。
「おーい、こっちだアヤベ。待たせちゃったかな」
そうして昔を思い返していると、私の名前が大きな声で呼ばれる。後ろから駆け寄ってきた男性はそうして私に存在を主張した。どうやら彼も公園をうろついていて、それですぐにはお互いの存在に気がつけなかったらしい。
腕時計を確認すると時刻はさっきとほとんど変わらず待ち合わせの三十分前。彼に聞こえないくらいのため息をつく。薄々わかってはいたけれど、こんなに早くから待っているなんて。
「待っていたのはあなたの方でしょう。……そんなに早く来なくていいって、前から言っているのに」
「俺が好きでやっていることだし、アヤベは気にしなくていいよ」
呆れが混じった私の声音に対して、彼の声音はあっけらかんとしたものだった。私の言葉に否定を入れなかった彼は、やはり今回も私より早く着いていたようだ。私は大学生で彼はトレセン学園のトレーナー。私の方が時間的な余裕はあるはずなのだけれど、未だに彼より先に待ち合わせ場所に着いたためしがなかった。一体どのくらい前からここで待っているのか、想像もつかない。
「別に気にしているわけじゃないわ。ただその必要がないって言っているだけ」
「そう?待っている時間だってなかなか有意義なものだよ。何にも急かされないから同じ景色でも普段とは違うように見えたりするし、新しい発見だって多いんだ。そうしてるうちに何か変わることだってあるかもしれないだろう?」
「そういうものかしら……まあいいわ。それより、予定より早くなってしまったけれどもう向かって大丈夫?」
彼の発言の意図は読めなかったが、それにこだわっていても仕方ない。とりあえず話を先に進める。太陽はほとんど頭上にあり、辟易するほどの暑さではないがそれでも汗が滲みそう。春の陽気も過ぎれば毒になってしまう。まだ五月だというのに、一足早い夏を感じる。
「問題ないよ。今日はアヤベが行きたい喫茶店があるんだっけ?」
「まぁ、そうね。行きたいって訳じゃなくて、人に勧められたからだけど。あなたの方は特に行きたい場所もないんでしょう?」
「うん、じゃあ決まりだね。行こうか」
携帯を通して既に大まかな予定は決めていたので、再確認じみた会話をしてから私たちは歩き出す。
大学で仲良くしている子が話していたカフェがここから歩いて数分のところにあることは事前に調べがついていた。その子によるとそこは少し前から期間限定でふわふわ感を売りにしたパンケーキを提供しているらしく、それがたいへん美味しいのだと熱弁を振るっていた。
今度お暇があれば是非食べてみてください!という勢いの強い勧めに押し切られてしまった手前行かないわけにもいかず、どうせならこの機会に行ってしまおうと思っていたのだった。
緩やかな風が通り抜け、足元で薄桃色の花弁がくるくる舞う。アスファルトの上には散った桜の花びらがまだちらほら残っていた。見上げてみると、ほとんど彩りのない桜の木は既に満開の時期を終え、一年先に向けて再び準備を始めているようだ。一年をかけて葉を茂らせ、芽をつけ、花を咲かせる。どれだけ年を経ても変わらないそのサイクルを見ていると、何故だか少し安心してしまう。その在りようが完成しているからなのかもしれなかった。
通路に沿って植えられた桜の木を見ていたときのこと。ワンワン、と元気な犬の鳴き声が公園に響いた。全力で喜びを表現するようなその鳴き声の元はどこだろうとあたりを見渡すと、私たちの歩いている道の先で老夫婦が犬を連れて散歩していた。仲睦まじい様子で話しているふたりのご主人の下でこれでもかと尻尾を振りながらはしゃいでいるその犬は綺麗な毛並みをしている。撫でたらもふもふしてそうだなと、ついそう考えて視線が吸い寄せられてしまう。
あまりじろじろ見ていたつもりはなかったが、そんな私の視線に気がついたらしい飼い主のおじいさんが軽く頭を下げて会釈してくる。続くようにして私の存在に気が付いたおばあさんも。すれ違いざま、若干の恥ずかしさと共に会釈を返す。すぐ隣の彼も私とほぼ同時にそうしたようだった。
くすくすと控えめな笑い声を耳が捉える。背後を歩く老夫婦のものだ。やっぱり変に思われてしまっただろうか。なんとなく真っ直ぐ前が向けず、わずかに俯いた視界は綺麗に舗装されたアスファルトの道を映す。後ろからもう一度、ワン!と元気な鳴き声がした。
「アヤベは犬が好きだね」
羞恥と後悔のふたつが頭を駆け巡る中、彼は老夫婦とすれ違ってからあまり間を置かずにそう言ってきた。こちらの気も知らずに呑気なことだ。せめてもの抵抗に彼とは反対の方を向く。赤くなっているかもしれない頬を隠す意図もあった。
「これくらい普通よ」
揶揄っているようなその言葉へ無愛想にそう返してみたが、彼はそうかそうか、と何故だか喜ばし気に言っただけだった。でも本当のところ、この人に揶揄っている気など微塵もないのだろう。そういうことはしない人だということくらいはわかる。それくらいには時間を共にしていた。
「というか他人事みたいに言っているけど、あなたが犬好きじゃない方がおかしいのよ……」
「俺は嫌いじゃないよ、犬。特段好きってわけじゃないだけで……あ、これ前にも言ったかな」
さらさらと答える彼の言う通り、その答えを聞くのは二回目だった。前に聞いたときのまま、嫌いではないが好きでもない、という無関心じみた犬に対するスタンスは変わっていない。そのことに私は呆れるというか、困惑するというか、とにかく本当に理解できない。
それというのも、だ。彼はこう言っているのにも関わらず、犬を飼っているのだ。
トレーナーが犬、というより動物全般を飼うのは簡単なことではない。
世話をするための時間の確保がそもそも難しいというのもあるが、なにより問題なのはトレーナー寮ではペットが禁止されている点だ。
そういうわけで、彼は犬を飼うため寮から少し離れたところにあるアパートに住んでいた。動物好きなトレーナーがペットを飼うためには多少不便ながらも寮に住まない選択をしなければならないようで、それだけにペットを飼うことを断念するトレーナーもしばしばいるようだった。
いつかの日、私は何の動物が好きなのかと彼に聞いたことがある。
返ってきたのはどの動物も特に好きじゃないけどトレーナーになってから犬を飼っている、なんてほとんど矛盾している答えで、思わず思考が停止してしまったことは今でも記憶に残っていた。好きでもないならなんでわざわざ犬を飼い始めたのか聞いても、なんでだろうね、なんて彼は聞き返してくる始末。そんなものこっちが知りたいと心底思ったものだ。彼は冗談でもなんでもなく、至極本気でそう言いのけていた。
そんな彼にとってペットがいるというのは不便なことが多いはずで、他にアパート暮らしをしている理由もないようなのに。
「やっぱり、わからないわ」
ため息交じりに零れ出た言葉は、最初に会った頃から変わらない彼に対する印象。彼についてわからないことはたくさんある。現役時代も、今も。
なんで必要以上に早い時間から待ち合わせ場所にいるのか、とか。どうして好きではないと語る犬を学園から離れたアパートに暮らすことにしてまで飼い始めたのか、とか。他だってわからないことだらけだ。
私の小さな呟きは聞こえなかったようで、彼は何も反応しなかった。変わらずそのまま、同じ景色を見ながら歩を進める。既に公園からは離れていて、次の角を曲がれば目的地が見えるはず。歩きながら、私は彼に聞きたいことを頭の中で纏めていた。歩いている間にすることといえばそれだけ。動く足とは対照的に、口はまともに動かない。
歩いている間、私たちに会話が起こることは少ない。カレンさんなんかは頻繁に彼女のトレーナーと遊びに出かけていたようだけど、私たちは滅多にそういったことをしなかった。私たちが一緒に歩く時のほとんどはレースに関わる時で、芝を踏むまでは集中を乱さないためにお互いに無駄話をしないようにしていた。移動中の会話がほとんどないのはその名残だろうと、私は推測していた。
なにか話してみようかと口を中途半端に開いて、やっぱり閉じる。
もどかしい、と身勝手なことにそう感じてしまっていた。
あまり悠長に時間を過ごしている余裕はなかった。そもそも私が彼とこうして顔を合わせられる頻度は少ない。聞きたいことなんてたくさんあって渋滞を起こしそうなくらいなのに、そのうちのひとつも口をついて出ることはなかった。今この時に私が彼に話しかければいいだけなのだけど、それは今まで彼と積み重ねてきたものをないがしろにしまうようでなんとも躊躇われる。
色々なことを話して、聞いて、考えて。そうしてもっと彼のことをわかりたい。
それがこうやって会っている理由だというのに、なんて錯誤だろう。
「ここかな?……ああ、ここかぁ」
足を止めた彼に合わせるようにして、私もその場に立ち止まる。彼の確認に私は首肯で返した。いつの間にか目的のお店の目の前まで来ていたようだ。大きめな窓で店内の様子が半分くらい見えるのが特徴的。そこはレトロかつシンプルな雰囲気漂う、お洒落なお店だった。
店先に出ている看板には、話に聞いたパンケーキが大きくプリントされていた。