「ねえ、お願いがあるんだけどいいかしら。レースには関係のない、個人的なものだけれど」
もうすぐ日が沈むな、と思ったのは夕陽が部屋を黄土色に染めたからだった。照明には電気を通していないので光源といえば窓から差し込むそれだけ。木枠の影が部屋に落ちていて、そこだけ特に暗かった。明かりをつけるためドアのそばにあるスイッチまで赴くか、本を読んでいたはずのアドマイヤベガにそれを頼もうか、しばし悩んでいて。彼女が声を発したのは、そんなときのことだった。
度肝を抜かれた、と言っていい。彼女の言葉を聞いた俺は思わず握っていたボールペンを落としそうになるほどで、伸びをしようとしていた肩が僅かに浮いたままの体勢で固まってしまう。
彼女の口から出たお願いという言葉はそのくらいの衝撃を伴って俺の耳に入った。
彼女はこちらの目をじっと見て、答えを待っているようだった。ソファーに座って首だけをこちらに向けた彼女は真面目な顔をしている。他のウマ娘ならいざ知らず、彼女が人にお願いするなんてことがあるなんて。予想だにしていなかったものだから、すぐには答えが返せない。トレーナー室には俺と彼女のふたりきり。誰に憚ることもないので、視線を合わせたまま場は硬直してしまう。
彼女の言葉に驚いてしまった理由はいくつかあったけど、一番大きいのは彼女が他人からの善意や気遣いに苦手意識を示していたこと。もちろんそれらを本気で嫌がっているわけではなく、人から善意を受け取ったところで自分には返せるものがない、という生真面目で誠実な彼女らしい思い込みが発端のものだけれど、それが理由で彼女から人に頼ったりすることがほとんどないことは今までの経験で知っていた。
借りはつくりたくない、返せるものがないから。
それが彼女のスタンスだった、はずだ。だから本当に彼女の方から借りをつくりにくるなんて、まず有り得ないことなのだ。
そもそも、彼女のお願いとは一体何なのだろう。前例がないので無理もないことだけど、想像もつかない。個人的なことのようだから天体観測に連れて行くことかなとも思ったが、仮にそうなら彼女一人でも遠くまで行けるだろうし、実際過去に何度かそうしている。他にもいくつか予想してみたけれど、どれも違う気がしていた。ぐるぐる回る頭は納得のいく答えを導いてはくれなかった。
「いいよ、俺にできることなら」
結局のところ、俺は彼女にそう言った。初めてのちゃんとしたお願いだったし、そうでなくとも断るなんて選択を選ぶわけがなかった。俺の返事はちゃんと届いたらしく、彼女は澄ました顔を崩さずに、でも耳だけ少しピコンと動かした。
「難しいことじゃないわ。……ただ、私が卒業しても月に一度くらい会ってほしいってだけ」
「……わかったけど、どうして?」
彼女の言葉を聞いて、肩の力が幾分か抜けていく。意外ではあったものの、思っていたより凡庸なお願いだったことに安堵したのかもしれなかった。
持っていたマグカップを傾け、唇を湿らせる。その動作によってできた時間で彼女の言葉を咀嚼してから彼女に理由を問う。気が緩んだからか、気兼ねなく聞ける関係になれたからか。普段なら理由なんて聞かなかっただろうけど、こちらのプライベートに踏み込んでこない彼女らしからぬお願いに思えたというのもあってついそう言ってしまう。
「……まだ、返しきってない借りが残ってるからよ」
一秒にも満たない僅かな沈黙。そののち彼女はそう言ったきり、もうなにも話すことはないと言わんばかりに黙ってしまう。目線も外されて、手元に置いていたらしい小説を開いていた。
本を読むなら明るい方がいいな。もう大分、暗くなってしまったし。
妙に冷静な思考が働いて、電気をつけようと再び思っておもむろに椅子から立ち上がる。のろのろと扉付近のスイッチへと向かう俺は困惑中。返しきってない借りと月に一度の交流にイマイチ因果関係を見出せずにいた。これがオペラオーなら「嗚呼、君は果報者だよ!このボクとこれからも月一で会えるんだから!」なんて言うかもしれないが、アドマイヤベガに限ってそんなことはないはずだ。
カチり、音が鳴って二秒ほど。天井の電灯がチカチカ光って部屋中を照らす。照明のスイッチを押し終えた俺は来た道をそのまま戻ってまた椅子に座る。ギシ、と軋む音が微かに鳴る。部屋にはそれだけ。なんとなく憚られて、出来るだけ音が鳴らないよう意識してしまう。
このトレーナー室には会話が絶えないような和気あいあいとした活気はないものの、ふたりで積み重ねてきた静寂があったはずだった。けれど今の静寂はそれとはちょっと違う。居心地が悪いというほどではないけど、そわそわしてしまうような感覚。決して、嫌な静けさではないんだけど。
「じゃあ私はこれで失礼するわ。……お疲れ様」
いつの間にだろう。俺が静かに困惑している間に彼女は帰り支度を整えて扉のそばにいた。簡素な挨拶をすると俺が返事をするのも待たず部屋から出て行ってしまう。横顔を拝ませるのも許さずに。
「………………」
バタンと扉が閉まる音がやけに大きく聞こえる。彼女は唐突に話を始め、唐突に帰ってしまった。なんだか嵐みたいだったなと、どこか他人事のように思う。
宙ぶらりんになった心地を味わいながら俺は部屋にひとりになった。見ると彼女が使っていたマグカップがテーブルの上にそのままになっていることに気がつく。いつもなら律儀に自分で洗ってから寮に帰るはずなのに。
自分のマグカップの中に残っていたコーヒーを飲み干して、立ち上がる。空になったそれを彼女のと一緒にシンクに置いて、洗剤を染み込ませたスポンジで洗い始める。冷たい水を手に浴びながら何度考えてみても、やっぱり今日の彼女はどこかおかしく、わからなかった。近頃、こうして彼女の行動が読めなくなることが増えていた。担当ウマ娘の精神状態の管理もトレーナーの仕事の一環なので、彼女の担当トレーナーとしては気を引き締めなければならない場面なのかもしれないな、と頭のどこかで考える。
でも、俺にはそれがとても喜ばしいことに思えて。
なんだか体の内が疼くような気分になって、鼻歌をしてみることにする。なんとなくで選んだ曲は、たしかアヤベが初めてGⅠで一着を取った時にウイニングライブで歌った曲。滅多にしない鼻歌はそのまま俺の心の表れで、愉快な気分に拍車をかける。なかなか難しい曲だからリズムも音程も滅茶苦茶だ。下手なりになんとかメロディーを響かせていると、頭に浮かぶのは曲に合わせて綺麗に踊るアヤベの姿。初めての大舞台上のライブだったというのに物怖じせずウイニングライブをこなした彼女が今ではもう懐かしい。
かけがえのない日々だった。誰もいない部屋でひとり、これまでを回想する。色んなことがあって、彼女はそのなかで本当によく成長した。最初に会った頃とは大違い。色んなものを抱えて、乗り越えて。わずかずつ、より良い方へと変わっていった。
それは、決して平坦な道のりではなかった。辛いことはたくさんあって、苦しいこともたくさんあって、悩んだこともたくさんあっただろう。知っている。全部ではないけれど、彼女の担当としてずっと近くで見てきたのだから。
彼女が歩んできた道がとても過酷なものであったことを、俺は誰より知っている。
でも、それでも。
楽しいことはきっとあって、嬉しいこともやっぱりあったのだ。妹のために走っていると、そう言っていた彼女自身も走るたびに何かを得ていた。そうでなかったらきっとどこかで折れていただろう。辛くとも、苦しくとも、彼女は前を向いた。ときに仲間ライバルに導かれて、迷いながらも進んでいくことを彼女は選んだ。以前から信じていたように、やはり彼女はそういう強さをもっている娘だった。
ちょっとずつではあるけれど、彼女は時折柔らかい笑みを見せるようになっていた。それはきっと、彼女の成長の何よりの証。何にも代えがたい、とても素敵なことだった。
そんな彼女ももうすぐ走り終える。引退レースは卒業式より少し早い時期に予定されていた。それは清々しいくらいに完璧な終わり。きっとどんな文句もでないくらい、素晴らしいものになる。アドマイヤベガは、そういう走りのできる娘になったのだ。
目を瞑ると思い出すのは、彼女に初めて出会った日や、レースで一着を取った瞬間でもなく、ただなんでもない日々の情景。ちょっとした雑談、レースの対策、ただ彼女が走る姿を見ているとき。特別なことがなくたって、過ごした時間は価値を持つものだ。印象的な名前はもたないけれど、それでもとても大切な日々。
この日々をなにかに例えるなら、一体どんなふうになるだろう?
鼻歌と水音に耳を傾けながらちょっとだけ考えてみたけれど、しっくりくる例えが浮かばずに思考は中断される。そもそも例える必要なんてあんまりないし、彼女が卒業するまであと二か月と少しあることを今更ながら思い出す。なんだか感傷的になってしまっているみたいだった。
でもそうなるのも仕方ない。だって俺の想像なんかよりも、アドマイヤベガが成長していることを知ったのだから。今日のお願いだって彼女の成長のひとつなのだ。それに感じるものがあるのは当然だった。
水で泡を流し落とす。じっくり洗ったふたつのマグカップには汚れのひとつも見られない。布巾で水気を拭い、いつもの位置に仕舞う前。蛇口を流れる水の勢いを止めようとした、そのときだった。
「今日は一段とご機嫌ですね、
「おっと聞かれてしまいましたか。これはお恥ずかしい」
他に誰もいなかったはずの部屋で名前を呼ばれる。横から発された声は緑の服に身を包んだトレセン学園の頼れる敏腕秘書、たづなさんのものだった。ノックの音に気が付かないほど水音も鼻歌もうるさくはなかったので、コッソリ忍ぶようにして入ってきたのだろう。彼女とはアヤベについて相談に乗ってもらっていたこともあってそこそこ仲が良く、実はこういう茶目っ気のある人だということを知っていた。
「それにしても珍しいですね、何かあったんですか?柏木さんがそこまで嬉しそうなところ、見たことないです」
「聞いてくれます?アヤベの話なんですが……って時間大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。お話、聞かせてもらいます。歌が聞こえたので立ち寄ってしまいましたが今日分の仕事は終わって帰るところでしたから……あ、お水止めないと」
指摘されて水が流れたままだったことを思い出し、慌てて蛇口をひねって水を止める。彼女はここで時間を過ごすつもりでいるようで、手提げのハンドバッグをソファーに置いた。急な誘いを受けてくれたたずなさんに心の中で感謝する。やっぱり、嬉しいことは誰かと共有するのが一番だ。
「コーヒー、飲んでいきます?」
「じゃあ一杯、砂糖二粒でお願いします」
俺の提案にたづなさんは頷いた。ちょうどマグカップを洗い終えたばかりだったが仕方がない。俺のマグカップは続投だ。アヤベ専用の夜空と星が描かれたデザインのマグカップを仕舞い、代わりに来客用の無地のマグカップを取り出した。
湯を沸かしている間にコーヒー用の紙フィルターをふたつそれぞれのマグカップにセットし、奥に仕舞いこんでいた角砂糖を戸棚から取り出しながら話す内容を考える。このところは少し立て込んでおり、こうして会話する時間が取れなかったこともあってたづなさんに話したい話題は多くあった。
トレーニングが好調でこの調子なら最高の引退レースが出来そうなこと。走り以外でも彼女が成長しているということ。最近、ますます友達と遊びに出かけるようになったこと。好きなことを見つけようと、様々なことに興味をもつようになったこと。
そしてなんといっても、自分からお願いをしてくれたこと。その内容は、たづなさんにだって秘密だけど。
要望通り砂糖を二粒いれたコーヒーを用意し終えて、たづなさんの前に置く。彼女はコーヒーで手を温めながら、俺が話し出すのを待ってくれているようだった。俺は彼女の対面に腰を落ち着ける。差し込む夕陽も弱くなってきた。できるだけ手短に話さなければなと思いながらも、そうならないことは想像に難くない。ちょっと苦笑しそうになる。あの娘のことを話したら、長くなるのなんて当たり前なのだ。話したいことなんて山のようにあるのだから。
望遠鏡の絵が描かれたマグカップの中身を啜る。湯気が立ち昇るそれは俺の体に熱を伝え、活力が沸くような心地がした。
さあ、何から話そうか。ちょっとだけ迷ってから、俺はこれ以上ないほど喜ばしい彼女の成長について語り始める。
暗い夜に身を置きながら、心はとても晴れやかだった。