話に聞いたパンケーキを広告する看板を横目で見てから、扉を開けた。
砂糖とヒノキのふたつが混じったような香りを鼻で感覚する。どちらも私を落ち着かせてくれるようで、未知の空間に入る緊張が僅かに緩和される。次いでカランカランと軽快な音。鳴っているのはベルの音だ。扉に取り付けられているらしいその音は高く店内に響き渡った。
お店はかなり盛況しているようで、既に席のほとんどは埋まってしまっていた。不安になって入り口近くを見てみると、他に席が空くのを待っている人はいないみたい。そこまで長い時間待つことにはならなさそうだった。彼は念のためか客待ち名簿に名前を書くらしく、備え付けのボールペンを手に取っていた。
「あ……まあいいか」
カリカリとペンの走る小気味の良い音が止むと彼は小さく呟いた。何かあったのだろうかと名簿を覗くと、
しばしの間待っていると、店員がひとりやってきて私たちを席に案内する。お店を回すのに苦労しているのだろうか。案内を終えた店員はほとんど駆け足で去っていった。
私たちが通された席は日差しが直接届かないようなお店の最奥に位置する場所にあった。なんとなく、懐かしさを覚える。昔、お店に入るときはいつもこういう人目につかない席を選んでいたことを思い出したからだった。
「運がよかったね、アヤベ」
「そうね。こんなに混むとは思っていなかったわ」
店員がお冷をふたつ置いて行ったあと、手持ちの荷物を端に寄せてから彼は店内を見渡した。ここ以外に空いている席はなさそうだ。彼の言った通り運がよかったのだろう。私が待ち合わせ時刻より早く来ていなかったら今日の予定は変更せざるを得なかったかもしれない。
「ここのパンケーキ、結構人気なのかな。店先の看板にも大きく載っていたし」
「多分、そうじゃないかしら。私は今まで来たことなかったけど大学の中ではそこそこ話題になっていたみたい。私がこのお店を知ったのもその話を聞いたからだし」
でもまさかここまで人気とは思わなかった。今回はお勧めされたお店だったし、あんまり時間に余裕がなかったので下調べをしていなかった。なんとか席に座れたからよかったものの、下手したら長時間待つところだった。私から誘っている手前、そうなるのは良くないだろう。自分の中でそう反省する。彼は気にしないだろうけれど、それに甘えてしまうのは嫌だった。
「アヤベは何頼む?」
「私はやっぱりパンケーキにしようかしら、せっかくだし。それとアイスコーヒーね」
「じゃあ俺もアイスコーヒーと……あとこのパフェにしよう。抹茶のやつ」
メニュー表を眺めている彼をちらりと盗み見る。やっぱり癖なんだな、と私は思う。人と一緒に何かを注文するときに少なくとも一つ、同じメニューを頼むのは彼の癖のようだった。彼の方に自覚はないようだけれど。
案外、自分にはわからないが他人には知られていることというのはあるのかもしれなかった。
カサリと紙の擦れる音に前を向く。彼は未だにメニュー表をめくる手を止めていないようだ。手持ち無沙汰になってお冷を二口飲んだ。氷が解け始めた水はほどほどに体を冷やしてくれる。店内に効いているらしい冷房も相まって暑さはほとんど感じない。
店員は彼が呼び鈴を鳴らして少ししてからやってきた。私たちの注文を聞いた店員はこれまた慌ただしく去っていく。転ばないか心配だ。あまりの危なっかしさに昔のドトウを思い出す。そういえば彼女とは連絡を取り合っているものの、しばらく会っていない。ちゃんと元気にしているだろうか。心配はしていないけれど、なんとなく気になってしまう。
私が卒業する前あたりから自分に自信を持ち始めた彼女。見違えるほど頼もしくなったその姿を頭に浮かべるだけで頬が緩む気持ちになってしまう。思えば彼女とライバルとして鎬を削っていたときでも、彼女の成長を喜んでいた自分がいた。それはなんだか矛盾しているようで、でもそうではないように思える。焦ったり妬んだりしてもおかしくないのかもしれないけれど、やっぱり親しい友人の成長は嬉しいものなのだ。
「アヤベは最近嬉しいこととかあった?」
「随分と急ね……ちょっと待って」
流石にメニュー表を眺めるのには飽きたらしく、世間話と言わんばかりに彼はそう切り出す。脈絡なんて全くないその質問にすぐには答えられなくて、テーブルに視線を落した。記憶を辿ってここ最近何があったかを細かく思い出そうとする。特段何もない日常しか印象になく、すぐには言葉が出てこない。
何か嬉しいことはあった、と聞くのはこれまた彼の癖というか、パターンだった。話しかけたいけど話題がないようなとき、よくこうして話を切り出してくるのだ。
なんでこの切り出し方なのかもいつか聞こうと思いながら、続けて記憶を辿る。これは私に限った話かどうかはわからないが、嬉しいことというのはなかなか見つけるのが難しいものだと思う。
「ああ、そういえば……嬉しいことかどうかはわからないけど、来週あたりにカレンさんと会うことになったわ」
思い出したのは話題にしようと前から考えていたことだった。元ルームメイトのカレンさんとは今でも交流があり、携帯越しに連絡を取りあっていた。彼女はまだまだ現役で忙しい身のはずだったが、なんとか空いた時間を捻出して会う話になっていた。
「カレンチャンかぁ、このところ忙しそうだったけど……うん、それがアヤベの嬉しいことなんだね」
「だから、嬉しいかはわからないと言ったでしょう」
そうは言ったものの、この状況でこの話題を出してしまった時点で私の言い訳は虚しいものだった。笑みを浮かべる彼を見ないように、もう用のないメニュー表へ視線を逃がす。なんだか見透かされているみたいだ。私は彼のことがまだわからないけれど、逆はそうでないみたいでなんだか悔しい。
……でも、まあ確かに、実際のところ。はっきりとはわからないけれど、嬉しいのかもしれない。事あるごとに私を気にかけてくれた、あのカワイイ元ルームメイトと会えることが。
一旦、会話は途切れる。彼が無理に次の話題を出すことはない。会話は各々の好きなタイミングで、というのが私たちの間での暗黙の了解だった。
変わらないな、と思う。現役の頃とさして変わらないもので、私たちの関係はいつも通り。流れゆく時間の中、変わったことは少なくないはずだけど。
十二回。それが今までこうしてきた回数だった。月に一度の集まりは未だに途切れたことはなく、私がトレセン学園を卒業してから季節は一周していた。
月日の中で私の背は少し伸び、顔立ちも少し変わった。後者は前にカレンさんに言われただけで自覚はないけれど。画面越しでもわかるものなのだろうか。
他に変わったこともあるけれど、何より最も変わったことはやっぱり人との関わり方だと思う。私は人との関わりを避けるのは止め、まだ積極的ではないものの以前より人と話すようになった。
それはきっといい変化なんだろうと、私はそう感じていた。
反して、一方の彼は全くと言っていいほどに変わっていないように思える。背丈も話し方も雰囲気も、どれをとっても初めて会ったときのまま。少なくとも私にはそう見えていて、そういうところも彼のわからないところのひとつだった。
でも、どうなのだろう?変わらない、というのは別段おかしなことではないのかもしれなかった。彼は私と違って、大人なのだし。
「お待たせいたしました。こちら――」
束の間の沈黙を縫うようにして店員が現れる。甘味がテーブルに置かれ、思考していた脳が現実に引き戻された。店内に漂っていた甘い香りが一層強くなるのを感じる。蜜がふんだんに塗りたくられたパンケーキは抜群に柔らかそうで、とてもおいしそうだった。
「それじゃあいただこうか」
「そうね、いただきます」
私はナイフで一口大にパンケーキを切り取ってから口に運ぶ。彼も抹茶パフェにスプーンを入れた。店内に流れるクラシックの音楽が私たちの間を満たす。コーヒーの香り、パンケーキの甘さと相まって心が安らぐ。お勧めされるだけあって、店内の雰囲気は優雅で静謐。名店というのはこういうお店のことなのかもしれない。
パンケーキにナイフを通しているとき、不意にスタンドに立て掛けてあった紙がハラリとテーブルに舞った。私の懸念とは裏腹に、それは床に落ちることなくガラスのコップにコツンと当たってテーブルの上にピタリと止まる。
開店半年記念直前!と見出しに大きく書かれているのがまず最初に目に入り、小さな文字でキャンペーンの情報が記載されていたことにも元の位置に戻す際に気がついた。綺麗な外観からも窺えたことだけれど、やはり新しくできたお店らしい。私がトレセンにいた頃はこのお店の存在を知らなかったので、そうではないかと思っていたのだった。
無言の時間が続くなか、私がトレセンにいた頃この場所になにがあっただろうと考える。ここら周辺に足を運んだことはあったはずだけれど、想像もつかない。景色は日々移り変わるもので、ひとつひとつをつぶさに覚えることは難しい。記憶を掘り起こしながら目の前の甘味に舌鼓を打つが、手がかりが少なすぎて答えには辿り着けなさそうだ。諦めて口を動かすことに専念する。店内は人のわりに騒がしさがなく、僅かに鳴る食器の音でさえ耳に届いていた。目の前の彼も喋らずに、黙々とスプーンを動かしている。
このままじゃすぐに時間が過ぎてしまうと、そう気づいたのはパンケーキの半分をお腹に収めてからだった。彼と話す機会は月に一度しかないというのに、パンケーキのあまりのふわふわ具合に完全に意識を奪われてしまっていた。こんな間の抜けた思考でせっかくの機会をふいにするわけにはいかない。口に運んでいたパンケーキを飲み込んで、ナイフとフォークを皿に置く。声を出すため、甘くなった喉をアイスコーヒーで流した。
「あの……」
「ん?」
パフェから目を離した彼は小首を傾げて私の方を見る。このままでは終われないという思考が先行してしまい、何も考えずに話しかけてしまったため二の句が継げない。聞きたかったことは多くあったはずなのに、今はそのどれもが頭から離れてしまっていた。
「…………どうして、私を担当しようと思ったの?」
突然の問いかけに彼は少し目を丸くして動きを止める。それは、とっさに出てきた問いにしては上出来だった。唐突で脈絡もなくて、彼には申し訳なく思ったけれど内容自体は悪くない。今の今まで聞くのを忘れてしまっていたけれど、よく考えればこれほど重要な質問もなかった。
「あぁそのことね、うん……少し長くなるけどいい?」
「構わないわ。時間はあるのだし」
彼の声音はそれを言うか言うまいか少し悩んでいるようで、歯切れも悪かった。だが、言いたくないということはないらしい。構わないと私がそう言うと、彼はアイスコーヒーを一口飲んでから話し始めた。何処に焦点を合わせているのかわからない、懐かしむような目をして。
「じゃあこれは昔の話になるんだけど……俺が小学生の頃にさ、じいちゃんが肺の癌になって入院してたんだ。俺はじいちゃんと仲が良くて、それで学校が終わったらたまに病院へ見舞いに行くようにしていてね。そこで出会った人との会話が一番の理由かな」
「…………」
彼の言葉に黙って耳を傾ける。彼はパフェに手をつけず、スプーンを置いて喋っていた。いつも飲食店にいる時は話している間にも適度に口に物を運ぶ時間を設けるのでこれは珍しいことだった。
聞いていると、彼の話はずいぶん昔に遡るみたい。幼い頃の彼の話はあまり聞いたことがなかったので興味がそそられる。だけどこの話がどうやって私のスカウトに繋がるのか、私には全く予想がつかないでいた。
「まあその人の名前とかは知らないんだけどさ。ある日俺が見舞いに行ったとき、検査か何かでじいちゃんが何処かに行っててさ。ベッドのそばでじいちゃんの帰りを待っていた俺に話しかけてきただけの人だったし」
「坊主友達はいるか?っていきなり聞いてきたんだその人。びっくりしたよ、ほんと。俺がいるよって感じに答えたらその人は、そうか友達は大事だぞ、俺はお金はたくさん持っているけど友達はいないんだって言ってきてさ。そこからも何か言ってたけど難しかったからあんまり覚えてなくて、それで最後に独りはつらいぞって言って去って行っちゃったんだ」
「で、なんで君を担当しようと思ったかというと選抜レースあたりで君を初めて見たときにそのことを思い出したからなんだ。十年くらいも前のことで、忘れていたはずなのになんでか思い出しちゃって。選抜レースでの末脚が凄かったっていうのもあるけど、やっぱり一番のきっかけはそれかな」
彼は言い終えて、置いていたスプーンを手に取った。もうこの話に続きはないようで一口、二口と深緑色のアイスクリームが彼の口へと運ばれる。
「……で、その思い出話と私のスカウトがどう関係しているの?今の話だけじゃよくわからなかったけれど」
「ん?えっとそれは……あれ、…………あれ?」
私の返しに、彼は唸るようにして首をかしげた。まさかとは思うが、あれだけ話をしておいて直接の理由についてははっきり覚えていないのかもしれない。腕を組んで唸り続けている彼はまだ納得のいく答えにたどり着けていないみたいで心底呆れてしまう。
「ごめん、忘れちゃった……えっと、なんでだったかなぁ。さっきのあれを思い出して、それで……うーん、単純に独りに見えたから?…………なんか、微妙に違うなぁ。ちゃんとあったはずなんだ、理由。なんというかこう……放っておけなくて、だから声をかけなきゃと思ったような……」
彼の言葉は尻すぼみになっていき、曖昧な答えを残して終わってしまう。
なんだか脱力してしまいそうな気分。肩透かしというかなんというか、前提の割に得られた情報は少なくて、結局聞けたことは彼の思い出話だけ。トレーナーにとってもスカウトは大きな出来事だと思うのだけれど、私をスカウトした理由はもう覚えていないようだった。得られたまともな答えといえば、放っておけなかった、というなんとも掴みどころのない答えだけ。
放っておけない。放っておけない、か。
私と彼は今ではこうして良好な関係を保っているが、担当契約を交わしたばかりの頃の関係性は決して良好とはいえなかった。私は彼との関わりを最低限のものにしようとしていたし、無許可で自主練もしていた。彼が歩み寄ろうとしてきても、それに応えようとせず、ずっと独りでいようと思っていた。
でも、彼はついてきた。愛想のない私に、ただひたすら。
カランカランと氷がぶつかる音がする。彼はなんとか忘れてしまった記憶を思い出そうとしているのか、頬杖をついて手に持ったコップをゆらゆら揺らしていた。
彼とこんな風に打ち解けられたのはいつからだったか。少し考えると、未だに悩んでいる様子の彼とは反対にすぐ思い至ることがあった。それが私にとって決定的な出来事だったからだろう。たくさんのことがそれを境に変わり始めた、そんな出来事。
そのときも、彼は私のことを放っておかなかったことを思い出す。
それは菊花賞を終えた頃のこと。私の精神は、ひどく不安定になっていた。
走る理由。私はそれをもういない妹のためと決めていた。そのはずだった。
そのためだけに、走っていたはずなのに。
それなのに、私は、妹を忘れそうになってしまった。
走ることを楽しいと思ってしまった。もっと先を見てみたいと思ってしまった。
――その日は、数少ない新月の日だった。他の人にとってはただの暗い夜の日かもしれないけれど、星をより近くに感じられるその日は、私にとって大事な日のはずだった。
新月の日に星を見ていると、なんだか妹の存在も近くにあるような気がしていたから。
だからそれは私がただの一度も欠かしたことのない習慣で。欠かしてはいけないはずの贖罪だった。
だけどその日、夏合宿の終わり際。新月の日。私は呑気に並走なんてしていた。
星を見ることを忘れて。その日が新月の日だったなんて、気づきもしないで。
大きな罪を犯したと思った。ただでさえ、背負うものは重いものなのに。
自分を罰したくて、赦せなくて。
私は、自身を使い果たそうとした。壊れてしまいそうなほど痛む身体を動かして、動かして。
心配そうに声をかけてくれたドトウやオペラオー達に気がついていないふりをして。トップロードさんが差し伸べてきた手を振り払って。
そうして、私の背を追うトレーナーさんも振り切ってしまおうとしていた。
走って、走って、走った。何処を走っていたのかなんてもう思い出せないくらい、走った。
痛む左脚は尋常ではなく、私はそれでいいと思った。
お似合いの末路、当然の結末だと。意識を失う直前まで、そう思っていた。
その次、意識が覚醒したのはベッドの上でも、夢の中でもなかった。
今考えてみても、あれは夢ではなかったと思う。だからといって現実でもなく、そこには私ともう一人いて、あとは全部まっさら。そんな空間で、私は目を覚ました。
最初、鏡をみてるんじゃないかと思ったことを、今でも覚えている。目の前に、触れられるくらいに近くにいた彼女は、それくらい私に似た容姿をしていた。
あのとき、会えるはずのない私の妹と同じ場所にいた。私と似た姿で元気に話していた彼女は確かに私の妹だったのだと、そう思う。
謝りたかったし、抱きしめたかった。たくさんたくさん話したいことがあって、してあげたいことがあった。
でも、そのどれも叶わずに、妹は私の運命痛みだけもって消えてしまった。
ずっと一緒に走れて楽しかったんだよ、と嬉しそうに笑いながら。
素敵なプレゼントをありがとう、と私への感謝を残して。
目を覚ましたとき、白いベッドの上にいた。酷い喪失感に襲われて、なにかが絶対的に欠けたことを悲しいくらいに自覚した。
そのあとはずっと泣いていたと思う。トレーナーさんの前で。
家族以外の人に涙を見せるのなんて、多分初めてのことだった。
妹が消えてしまったなんて言ってもわかるはずがないのに、彼は私のそばでずっと背を撫でてくれた。つい直前まで、ずっと酷い態度しかとってなかったというのに。
彼はずっと、私についてきてくれていた。
確か、このときからだった。出会った当初からわからないと思っていたこの人を、ちゃんとわかろうと、わかりたいと思ったのは。
「……あんまり、わからなかったわ」
「はは、まあそうだよね。アヤベを担当してた頃だったら覚えてたのかなぁ」
長い記憶の旅の末、出てきたのはそれだけの答え。それだけの答えしか出せなかったことが、とても悔しい。私がもっと前から人と向き合っていたなら、容易にこの人のことがわかるようになっていたんだろうか。
落ち込みかけた思考に蓋をした。叶わないもしもを考えるのはやめよう。顔を上げると彼は思い出すのを諦めたようで、ちょっとだけ険しくなっていた顔がいつも通りに戻っている。
結局私にはわからない。なぜ彼が私を見てその記憶を思い出したのかとか、その思い出話が私のスカウトにどう作用したのかとか。
私が彼にできたことなど何もないというのに、なぜ彼はずっと私を見放さなかったのだろう。
彼のことを知れば知るほどわからないことも増えていく。わかることも着実に増えてはいるが、それよりわからないことのほうが多くなってしまった。人のことを知る、というのは難しいことなのだと実感する。
でも、わかろうとすることを止める気にはならなくて。私はまた次も、彼と話をするのだと思う。こうやって変わらない距離感で。ちょっとずつ、時間をかけてもわかっていきたい。
それがいいことなのかどうかも、私にはわからないけれど。
名残惜しさを感じつつ、パンケーキ最後の一口を食べる。絶賛されるのも納得のおいしさだったのでまた食べに来てしまうかもしれない。彼もちょうど、似たようなタイミングでパフェを完食していた。
「そろそろお会計にする?」
「ん?ああそうだね、そうしよう」
声をかけると、彼はいそいそと帰る準備を始める。私もバックを手に取って、ふたりそろって席を立つ。伝票を取ってレジへと向かう最中に店内を見渡してみると、入店してから今までの時間で客の多くは去ったようだった。今埋まっている座席は半分ほど。お会計の場所には店員がひとり、暇を持て余すように立っていた。
「ええとアイスコーヒー二点と――」
「すみません、お会計を分けることはできますか?」
伝票を渡すと女性店員は器用に機械を操り商品の合計金額を表示させようとするが、その作業が完了する前に声をかける。店員はちょっとレジを操作してから、私の言葉に色のよい返事をして注文を分けてくれた。
各々自分の注文の代金を支払い、店を後にする。まだ夜になるまで時間はあったが、大抵の場合これで私たちの集まりは解散になる。今日これ以上彼から何か聞き出そうとは思わない。ずっと質問してばっかりでは彼もつまらないだろうし、これくらいで解散した方がきっとちょうどいいのだ。
「他に行きたいところはある?無いなら駅まで送るよ」
「特にはないし、今日は帰ることにするわ」
「そっか」
私の言葉を聞いた彼は太陽に背を向けて、駅の方へと歩き出す。追いかけるようにして、一瞬遅れてから私も動き出した。
辺りに人はさほどおらず、ふたり分の足音が響く。車が横の車道を走る。どこからか人の話し声。自転車のタイヤが回る音。草木をざわざわ揺らすそよ風。そんななんでもない日常のなかをふたりで黙って歩くだけ。こうしているだけで、なんだか落ち着く心地だった。
「そういえば、アヤベはあの喫茶店の場所に昔なにがあったか知ってる?」
「いいえ、知らないわ……あなたは知っているの?」
歩き出してから少しして、彼は珍しく話を振ってきた。声をかけてくるなんて思っていなくてちょっと驚く。話題は私がさっきお店の中で考えていたこと。彼もあのとき、同じことを考えていたのだろうか。思わず聞き返してしまう。
「うん。まぁアヤベが知らないのも無理ないかな、馴染みないだろうし……昔ね、あの場所には居酒屋があったんだ。焼き鳥が美味しい店でね、確か君が卒業した日にも行ったっけ。一年半くらい前に潰れちゃったんだけど」
「それは……残念ね」
ちょっと寂しそうにする彼に若干の申し訳なさを感じる。知らなかったとはいえ悪いことをしてしまったかもしれない。馴染みの場所、その跡地に建てられたお店に思うところがあるかもしれなかった。
「ん?……ああいや、別に大丈夫だよ。あの居酒屋が潰れちゃったのは残念だけど、だからって同じ場所に建ったお店をどうこう思ったりしてないから」
「…………そう」
私の方をちらりと見た彼は何かに気づいたようで、すかさずそう言ってくる。どうやら私の心配は杞憂だったらしい。安心しながらも、なんでわかるんだろうと疑問に思いつつ無難に返答をした。そんなにわかりやすい性格なのか、単に顔に出てしまっていたのか。どっちにしろ彼には私のことなんてお見通しらしかった。
「うん。なんというか、街の景色が変わるのって結構好きなんだ。通ってた店が無くなっちゃうこともあるけど、その分新しい景色も見れるわけだしね。変わらないって……えっとなんだろう、安心?しちゃうけど。でもやっぱりそれだけじゃダメだと思うんだ。あの居酒屋もよかったけど、さっきの喫茶店だっていいお店だった。だから、そうだな……上手く言えないけど、変わるのっていいことだと俺は思うな」
「そうね。私もそう思うわ……本当に、そう思う」
本心からそう告げる。じんわりと胸のあたりが暖かくなって、ほんのり自分が誇らしくなる。変われていなかったら、きっと私はここにいなかっただろうから。
独りで全部を抱え込もうとしていた頃を朧げに思い出す。あれを間違いだったなんて言うつもりは決してないけれど、でも私は今の自分を肯定できていた。自分のためにも生きてみる、なんて妹のためだけに生きていたあの頃の私では考えもしなかっただろう。その変化は私にとって、とても大きなものだった。
それきり会話はなくなって、いつも通りの静寂に耽る。そこからはただひたすら歩くだけ。互いの歩幅はわかっているのでふたりの距離は縮まらずとも遠ざからず。活気が鳴りを潜めた街を闊歩する。
しばらくして、私たちの足は駅の改札前で止まる。今日この時間はもう終わり。彼を追い越して三歩ほど進み、くるりと後ろを振り返る。最後に向かい合って別れの言葉を交わすのが私たちの常套だ。
「今日も楽しかったよ。じゃあねアヤベ、体に気をつけて」
「ええ、私も楽しかったわ……また」
大きく手をあげてそう言う彼に、小さく手を振って返した。私は彼に背を向けて、そのまま改札を通る。階段を下りていると体から力が抜けていくのを感じた。楽しかった、と彼の方から言われたからかもしれない。
見慣れた駅のホーム。電光掲示板を確認するともうすぐ電車が到着するらしかった。わずかな待ち時間。何もせず、風を感じながら目を瞑る。今日はどんな日だったろうと振り返るけれど、特になにがあったわけでもない。ただちょっと、彼と喋っただけの一日だった。でも、なんだかそれも悪くない。そう思えてまた頬が緩んだ。
電子音声が電車の到着を告げる。瞼を開くとちょうど電車がやってきて、厳かにその扉を開けた。時間帯がよかったのか辺りの人はまばら。おかげで座ることが出来た。なんだか、ちょっと得をした気分。やがて扉が閉まったのち、電車は大きく揺れて動き出す。数秒すると窓の外の景色は駅のホームから移り変わる。視界がひらけて、電車の中に差し込んだ光に目がくらんだ。目が慣れると見えるのは綺麗な夕陽。ビルの合間からちらちら覗くそれは昼と夜の境に見られる輝き。電車に揺られ、ただぼんやりとそれを眺め続ける。
辺りはまだ、暗くなってはいなかった。