一歩、あなたの方へと踏み出して   作:宵地

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産声あげて

 二度目の産声を聞いた。病院で、でも赤子のそれではなく。

 

 アドマイヤベガは泣いていた。妹がいなくなってしまったと言ったきり、ずっと。

 彼女が泣いているところを見るのは初めてだった。レースに負けたときでも、他のどんなときにも、彼女が泣いたことはなかった。だからこれが彼女にとってひどく重大なことであると、すぐに理解した。

 

 白いベッドの上の彼女から漏れる嗚咽が深い悲しみのよるものなのか、寂しさによるものなのか、はたまた別のなにかによるものなのか。俺にはわからない。

 もう既に亡くなっているはずの妹がいなくなってしまったという彼女の言葉。真実それがどういうことなのかだって、俺にはわからない。

 

 わからないまま、彼女の背を撫でた。怯えるように丸まった背をゆっくりと、あやすように。

 

 これでよかったのだと俺は思う。それは残酷なことかもしれなかったが、でも確かにそう思えた。誰にも悟られることのないようにほっと胸を撫でおろす。泣いている彼女を見ながら、なんとも酷いことだと僅かながらに自虐する。

 

 アドマイヤベガは泣いていた、泣けていた。空っぽにただ涙を流すのではなく、声を上げ感情をむき出して。

 泣けなかったんじゃないかと思う。出会った頃の彼女なら、きっと。

 

 彼女は今まで、妹のためだけに生きていた。それは誇張ではなく、そのまま文字通りに。だからもし彼女が最初に出会ったあの頃のまま、妹がいなくなってしまったと感じたなら。彼女は今頃、抜け殻のようになっていたんじゃないだろうか。ただ涙を流すだけの、虚しい抜け殻に。恐ろしいくらい容易にその光景がイメージ出来て、手が震えそうになってしまう。

 

 右腕に縋りつく彼女の背を撫でながら、想像するのも悍ましいそれを頭から振り払う。代わりに思いを馳せるのは、遠い昔の二つの記憶。

 ひとつはアドマイヤベガに初めて会った日の記憶。もうひとつは見知らぬ彼女を見て思い出した、幼い頃の病院での記憶。どちらも、彼女に関係のある記憶だった。

 

 なぜ彼女を見てその記憶を思い出したのかといえば、ふたりの目が似ていたからだと思う。その目はもう過ぎてしまった過去を嘆いているようでもあり、この先に希望はなく、されど道はこれしかないのだと。そう決めつけているようでもある、乾いた目だった。

 

 彼女のそんな目を見たとき、不意に心が痛んだことをよく覚えている。奥底に沈んでいた後悔が浮上する感覚があって、古い何かを忘れていたことに気づかされた。

 

 ある日ある時病院で、じいちゃんを待っている間に出会ったあのおじさんのことはすぐに思い出せた。物寂しい雰囲気の人だった。その人は唐突に、じいちゃんを待ちぼうけていた俺に話しかけてきた。語る言葉はどれも重いもので、幼い俺は淡々と、目を合わせてゆっくり喋るその人の姿がなぜか恐ろしいものに思えた。

 いくつも連ねていた言葉のほとんどはもう忘れてしまったけど、最後の一言だけはなぜだか妙に頭に残っていて、それはなんだか出来損ないの呪いみたいだった。

 

 でも、思い出したのはそれだけじゃなくて。もうひとつ、忘れていた言葉があることを知った。

 

 それは幼い頃に言えなかった言葉。見ず知らずの俺に、独りはつらいぞ、とひどく悲しそうに、諦めたように言ったおじさんに伝えたかった言葉。伝えようとして、結局できなかった言葉。なんで思い出せたのか不思議なくらい、なんの変哲もない普通の言葉。

 

 ただ一言、じゃあ友達になろうよ、と。

 

 そんな何でもない言葉がもし言えていたならと。あの日見たものに似た彼女の目を見るまで忘れてしまっていたけれど、でもその後悔は俺の中にずっと沈殿していたようだった。

 

 言えていたなら何が変わっていたのかなんてわかるはずもない。あのおじさんとは五十くらいは歳が離れていただろうし、友達になろうだなんて言ったところで一笑に付されていたかもしれない。

 

 でも、それでも思ってしまったのだ。もし友達になれていたなら。そうでなくとも、どうにかして関わることが出来ていたなら。あのおじさんが辿るはずだった孤独な未来も、ちょっと違ったものになっていたんじゃないかと。

 

 だから。

 彼女のあの目を見てしまったからには、もう放っておくことなんてできなかった。どうなるかなんてわからない。彼女が何を抱えてあんな目をしているのかだってわからない。わからないこと尽くしで笑えてしまうくらいだったけど。

 

 あの目を見て、あの言葉を思い出して。見て見ぬふりなんて、できるわけなかった。

 

 人は独りで生きていけないから、だから誰かが関わりにいかなくてはいけないんだ。

 

 そうするのは俺でなくともよかった。知っている。

 それは他の誰かにだってできることで、俺より適している人だって探せばきっといるだろう。

 

 けれども、俺は選抜レースを終えてどこかへ去ろうとする彼女を追った。古い後悔に、背を押されるようにして。

 

 ただのエゴだ、そんなものは。わかっている。

 乾いた目をした見知らぬ彼女が助けを求めたわけじゃない。俺がそうしたいから、という迷惑極まりない動機。

 

 でも、それが悪いことだとは思わなかった。人からエゴを排するのなんて不可能だし、それにそういうエゴから人の縁というのは繋がっていくものだと思うから。

 

 そうだ。だからあのとき、俺はくどいくらいに引き留めようとする理性に逆らって、きみに関わったんだった。

 

「…………っ」

 

 ズキン、と。右腕の痛みで回想から引き戻される。俺の右腕に縋りつくようにしていた彼女の指によるものだった。血こそ流れないが、かなりの力を込めているようだ。絶対に声が漏れないよう、唇を噛んで痛みに耐える。

 

 あのとき、彼女を追ったのはやはり間違いじゃなかった。彼女の涙が、手から伝わる彼女の体温が、この右腕の痛みが、その何よりの証拠だ。

 

 縋りつくようにして慟哭する彼女の顔は見えないけれど。

 でもきっと、涙に濡れる彼女の瞳は出会った頃とは違うものになっていた。

 

 声を上げて泣く彼女のこれからを想う。妹のために生きていた彼女は、これからどう歩んでいけばいいのか迷うことになるだろう。何のために、何処を目指して進むのか。それらを彼女自身がもう一度決めなくてはならないのだから。ほとんど伽藍堂になったその身を何で満たすのか、その答えを出せるのは彼女だけだ。

 

 たくさんたくさん迷って考えて、それで答えを出して欲しいとそう思う。

 道はあるんだ、どこにでも。今まで歩いていた道から外れたからと言って、全部がダメになるわけじゃない。今まで過ごしてきた時間を思い返して、自分のことを見つめなおして、そうして前を向いて踏み出して欲しい。それはとても難しいことだけど、アドマイヤベガはそれだけの強さを持てる女の子だと信じている。

 

 病室には変わらず彼女の声が響いている。あらん限りの感情を乗せた、悲痛な泣き声。

 ふと、これは産声なのではないかと思い至る。赤子の産声とは似ても似つかないというのに、何故だかその解釈はストンと心に落ちた。

 

 思うに、産声とは人生の一歩目だ。大きな声で自身の存在を主張して、誰も彼もがここから始まる。何処へ向かうのか、何を成すのかもわからない、可能性に満ちた存在の第一歩。

 

 だから、彼女のそれはきっと産声だった。自らに課した罪から解放されて、ようやく自分の人生を始める彼女の、一歩目だった。

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