一歩、あなたの方へと踏み出して   作:宵地

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確かにひとつ私の想い

 夏にしては暑さに辟易しない日だった。幾分か淋しい公園の中、見上げた太陽はもうじき沈むというのにまだ煌々と照っている。きっと暑くないのではなく、体が慣れてしまったのだろう。慣れというのは便利だが恐ろしいもので、それは様々なことに鈍くなってしまっているようだった。

 

 この公園に足を踏み入れるのは二ヶ月ぶりだった。自分でもよくわからない。今日の集合場所から少し外れたところにあるここに用があるわけではなかった。なら何故。そう問われても私に確かな答えはない。でも、もしかすると彼の痕跡を探しているのかもしれなかった。

 

 一歩ずつ、ゆっくりと歩く。少し前に来たばかりのここに変わったことはない。強いて言えば桜の木が緑に茂っているくらい。足元を見るともう薄桃の花びらはどこにも残っていなかった。それに、まだ少しばかり悲しさを感じる。変わるということは、きっとそういうことだろうけど。

 

「ちゃんと体ほぐしたかー?じゃあぐるっと一周走ってきてくれ。軽くだぞ!」

 

「わかりました、行ってきます」

 

 声がした方へ目を向けると灰色の髪を靡かせてウマ娘が走り出す。どうやらトレーナーと一緒らしい。ジャージ姿の男性がぽつんとひとり取り残されていた。トレセン学園でトレーニング場所の確保ができなかったのだろうと勝手に想像する。私がここに来るときは大体そうだったから。

 

 ちょうど近くに東屋があったのでそこで休むことにした。屋根で太陽から身が隠れ、ベンチに座ると幾分か涼しくなったように感じる。バックから水の入った小ぶりのペットボトルを取り出して喉を潤す。気づかない内に汗をかいていたみたいだ。首筋を伝うそれを持っていたハンカチで拭った。

 

 何をするでもなく、遠くにいるトレーナーであろう男性を眺めていた。バインダーに目を落としているその人はきっと担当の子のことを考えているのだろう。トレーニングメニューを考えているのか、タイムを参照しているのか。時折何か書き込んでいて、遠目からでもわかるくらいに真剣だった。ああいうとき、似たようなことを彼もしていたのだろうか。

 

 私と彼の関係って一体何なのだろう。ここのところずっと考えていたことが頭によぎる。私にとってトレーナーと担当ウマ娘という関係はとうに過ぎ去ったものだった。友達なんて関係でもない。どっちつかずに甘んじて、今日まで来てしまっていた。どうしたいのか、どうなりたいのかもわからない。

けれど今日はそれだけではなくて。私には、いくつか言葉があった。彼に伝えると決めた、私の思いが。

 

 ふと聞こえたのは地面を蹴る音。重い心持ちのまま右を向くと、さっき見たウマ娘が走っている。私にはあまり馴染みの無い、少し特徴的な走り方だ。芝ではなくダートに適性があるのだろう。ゆったりとした走りだが、どことなく力強さを感じる。前を向いて走る彼女はこちらに目もくれず、一目散に進んでゆく。いつかの私もあんな感じだったのだろうか。綺麗なフォームで迷いなく走るその姿は、どこか私を惹きつける。向かう先は何処なのか、何を見せてくれるのか。気にかかって目で追った。私はじっと見知らぬ彼女を見ていた。何かに期待するかのように、希望を見出すかのように。彼も、この感覚を抱きながら私のことを見てくれていたのだろうか。もし何かを期待してくれていたとして、私はそれに応えられたのだろうか。考えてもわからなかったから、きっと応えられたのだと信じることにした。彼といた日々は私にとってそれくらいに全力だった。彼がどう思っているかはわからなくても、そこを疑いたくはなかった。

 耳は次第に足音を捉えなくなって、彼女の姿はもうすっかり遠かった。

 小さくなりゆく背は、いつまでも見ていたくなるようで。でもそれだけではダメだと気づく。

 負けていられないな、と思い直すとちょっと心が軽くなった気がした。

 

「あら、この前のお嬢さん。今日はあの人とは一緒じゃないの?」

 

「……えっと」

 

 話しかけられたのは本当に突然のことだった。惚けていた私は見ていた方と反対を向く。そこにいたのは、深い皺が刻まれた顔をした柔和な雰囲気のおばあさんだった。優しい声音になんて返せばいいのかわからなくて、言葉に詰まってしまう。

 

「ああ、ごめんなさいね。前にここであなた達を見たとき、あんまりにお似合いのふたりだったからつい気になっちゃって。突然、驚いたわよね」

 

「あぁ、あのときの……どうも。……今日は、そちらもおひとりなんですか?」

 

 言われて思い出したのは、以前ここに来たときに見た、犬と散歩していた老夫婦。すれ違っただけで顔まで覚えてはいなかったが恐らく間違いないだろう。偶然か、目の前の彼女は前に見たような服を身に纏っていたというのもあって比較的すぐに思い出せた。

 どうやら彼女は私のことを覚えていたらしい。印象的なやりとりどころか言葉すら交わしていないというのに、よく覚えていたものだ。

 

「――ええ、そうなの。今はひとりよ」

 

 言って、彼女はベンチに腰掛ける。こちらに目を向けるでもなく、私と同じほうを向いて。ベンチを共有する私たちにほとんど面識はない。けれどなぜだか私は落ち着くようで。彼女は近くて遠い、いつかの誰かにちょっと似ている気がしたけれど、悩みの多い頭にその正体はわからない。

 少し離れて横に座る彼女の影は私の方に伸びていて、樹木から出ずる暗色もいくらか長くなっていた。草木をなぞるそよ風はぬるくとも涼しくて、いかにも夏の晩らしかった。

 

「ねえ、前に一緒にいたあの男の人とはどんな関係なのか、聞いてもいい?」

 

 ぽつり、と。目線の先を変えずに彼女は声を出す。どこに宛てたかもわからないくらいの静けさを伴った問いは、なぜだかするりと受け入れたくなるようだった。優しい声に絆されてしまったのか、どこかに吐き出したかったからか。答える必要のないその問いを、私は拒まなかった。

 

「そう、ですね……正直、自分でもよくわかっていないんです。昔から、ずっと良くしてくれた人で。とても、感謝していて。尊敬していて。でも、よくわからなくて。最近、親しい友人と話して、それからも色々考えたんですが……やっぱり、まだわからないままです」

 

 口からするすると流れる言葉はすべて私の真実だった。包み隠さぬ思いは今まで誰にも明かしたことのないもので、それを見知らぬ人に打ち明けるなんて思いもしなかった。

 年老いた彼女は私が今まで出会ったどんな人とも違っていた。すぐ隣にいるけれど、どこか離れているみたい。その息遣いも衣擦れも、私に届いているものの、彼女はもっと先にいるように感じていた。

 

 私の言葉を聞くと、彼女は少し黙った。どうしたのだろうとは思わず、代わりに頭に浮かんだのは見えないはずの彼女の表情。向き合っているわけでもないというのに、彼女が微笑んでいるのがわかった。懐かしむような、愛おしむような、そんな表情をしているのではないかと、彼女から滲む何かが私にそう思わせた。

 

「そう。とっても、大切な人なのね」

 

「……はい。とても、大切な人です」

 

 ゆっくり、一言ずつを大切にするように締めくくる彼女の言葉に、全く同じに頷いた。

 それだけは、疑いようもない私の確かな想いだった。

 

 日はそろそろ深まって、朱色の空は藍色に。私と彼女はちょっとだけ離れて言葉を交わす。見ず知らずだからこそ話せることというのも、きっとあるはずだった。

 

「少しだけ、お節介を言うとね。私はあの人……おじいさんと長いこと一緒に居たけれど、あの人のこと全部わかってるわけじゃないのよ」

 

「そうなんですか?少し見ただけでしたけど……お互い、わかり合っているように見えていました」

 

 そうかしら?彼女は嬉し気にそう言った。愉快気な彼女の雰囲気はやっぱり薄っすら誰かに似ていたものの、どこか決定的に違うのも確かだった。

 

「ちょっと前にね、あの人初めてつぶあんを食べたの。それまでずっと頑なにこしあんしか認めてない人だったんだけど、ほら、外目から見たらどっちかなんてわからないじゃない?だから間違えてつぶあんの方を食べちゃったの。そうしたらね、あの人、つぶあんもいいもんだなって言ったのよ。私、それにすごくびっくりしちゃって。だってずっとつぶあんなんて駄目だ!なんて言ってた人だったから、可笑しくってねぇ」

 

 思い出したように、彼女は控えめにころころ笑う。その目はどちらを向いているのか、何を映しているのか。気になってしまったけれど、横は向かないことにした。それは、軽い気持ちで盗み見ていいものではない気がして。まるで少女のように笑う彼女の話を、私は黙って聞いていた。

 

「だからね。人ってそういう風に、長いこと一緒に居ても案外知らないことがあったりだとか、ふとした拍子にコロっと変わったりするものだから。ちょっとくらいわからないことがあったって、めげることはないわよ」

「…………」

 

 言葉の代わりに、私は頷きで返した。やっぱり彼女は、私よりずっと立派なようだった。

 

「桜、咲くのが楽しみね」

 

「……ここの桜は綺麗ですから。私も、楽しみです」

 

 彼女は少し先にある桜をずっと見ていたらしい。まだ緑で覆われた木は、また薄桃色に彩られる日がやってくる。彼女はこれを見て、一体何を思うのだろう。同じ桜を見ていても、違うことを感じているのではないかと思った。きっと、彼女は無くなった薄桃を悲しまない。

 

「……すみません、私、もう行きます。色々、ありがとうございました」

 

「そうね、引き留めちゃってごめんなさい。私はもうちょっとだけ、ここでゆっくりしていくわ」

 

 カァカァと鳴くカラスは翼を羽ばたかせ飛んでゆく。物寂しい公園を歩く人はもういない。遠くの広場に、汗を拭う少女とそれを見守る男性が見えるだけだった。名も知らない彼女に別れと感謝を告げて、私は立ち上がる。こういう出会いも、たまにはあるものだ。

 

「頑張ってね。想ったことは、ちゃんと言うものよ」

 

 背中にかけられた言葉を受けて、歩き出す。その言葉は私に向けたものであったけれど、彼女が長いこと大事にしてきたものだとも思えた。褪せずに輝くような、そんな言葉だった。

 返事はしなかった。彼女がそれを望んでいるとも、思わなかった。

 のろのろ冗長に歩き続けていると、公園を一周してしまったようだった。時計を見ると、それでもまだ時間は残っている。見渡す限りもう公園に人はいない。あの東屋にも、広場にも。ここからは、私ひとりのようだった。

 このままもう一周してみるか、それともここから出るか。選択肢はふたつあった。一瞬だけ迷ってから、私はここから出ることを選んだ。もう一周することにも意味はあったのだろうけれど、そろそろ向かわなくてはいけないと思った。

 私は足の向く先を少し変えて、公園を後にする。暗い夜空に月はない。今日は新月。星を見るには絶好の日だった。

 

 付き始めた街灯が、淡く道を照らしていた。

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