一歩、あなたの方へと踏み出して   作:宵地

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動かぬはずの扉の向こう

 なんとなくで付けてみたテレビにやっぱり興味は向かなくて、リモコンを操作して電源を切った。

 時計を見るとまだ予定の時間は少し遠いことがわかる。窓の外はもう大分暗くなっていた。そろそろ街灯が付き始める頃だろう。ソファの背もたれに体を預けて上を見上げる。目に映るのは平坦な白い天井と、明るく光る蛍光灯だけ。上体に力を入れ、今度は前傾になってテーブルにリモコンを置いた。ぐるりと見渡したリビングには必要最低限の物しか置いていない。問題なく生活できているから十分ではあるけれど、物足りなさは感じていた。本当にここは何も変わらない。新しいものを買ったわけでもないから、当然と言えばそうだけど。

 

 ぼんやりするのにはもう飽きてしまった。次に何をしようかずっと考えているけれど、何も思いつかずのままだった。とりあえず立ち上がって、掃除でもしてみることにする。一昨日くらいにもしてしまっていたけど、何もしないよりはマシだった。大して汚れてもいない床に掃除機をかける。旧式のそれは騒音を伴いながら細々と仕事を果たす。なんとも意味の薄いそれは、現状維持というにも不相応だった。

 

 キッチン周りと寝室を兼ねた自室を一通り巡って、もうひとつ、持て余してしまっている部屋へ赴く。トレセン学園に近く、ペットが飼育可能という条件に合致するアパートが他になく、ここはひとりにしてはいくらか広すぎる。物欲はほとんどないので、部屋は余れども物置にすらなりはしない。

 

 入った部屋の中央には空のケージが鎮座している。ケージの主は開け放しの扉からどこかへ行ってしまったみたいだった。他の場所を掃除している間にリビングにでも移動したのだろうか。部屋には犬用のおもちゃがいくつか転がっているくらいで他にはなにもない。部屋の上手い活用法はないものかと考えるのを、かれこれ何年か放置してしまっていた。アイツには広すぎるけれど他に使い道がないのも確かだったし、困っていることもないので別にいいのだが。

 

 掃除機を片手に部屋を軽く歩き回ったのち、コンセントからプラグを抜く。僅かだけゴミを集めたそれを片して、さてと時計を再び見たところで大して時間は経っていない。どうしたものかとリビングに戻ったところ、黒と茶の混じった毛色が目に入った。

 

「お、ライサンダー。ここにいたのか」

 

 応えるようにワンと一言鳴いて、ライサンダーはこちらに近づいてきた。ソファに座った俺の膝の上に乗ったコイツをわしゃわしゃ撫でまわす。ひとりと一匹での暮らしも始めて五年ほど。不思議なもので、言葉は通じていないけれど、お互い思っていることがわかり合っている感覚があった。お腹が減っているときだとか、外で散歩したそうなときだとか。何が好きで何が嫌いかも、今ではおおよそわかっていた。長く生活を共にしていると、そういうことはなんとなくわかるようになってくるものだ。

 気になって観察してみたところ、今のコイツはただ眠そうにしているだけだった。今日に関しては都合が良い。今から元気に跳ね回られるのはちょっと困りものだった。

 

「さて、と」

 

 膝上で丸まっているライサンダーを片手で撫でながら、空いたもう一方の手でポケットからスマホを取り出す。確認するのはアヤベとのトーク欄。やはりというか、新しいメッセージは無いようだった。遡って会話の記録を見ていると、まだ記憶に残っているやりとりがある。

 

 一カ月前、月に一度のささやかなひと時は遂に途切れてしまった。詳しい内容は知らなかったが、どうやら彼女の方でやらなければならないことがあったらしい。丁寧な文面で少し過剰なほどの謝罪が送られているのが目についた。大方、話を持ち掛けておいて自分で断りを入れることに不義理を感じたのだろう。謝る必要なんてどこにもないというのに、律儀なところはやっぱり変わらないらしかった。そもそもの話をすれば、あのお願いがここまで続いているほうがおかしいのだろう。月に一度集まる、というのは簡単なことではないはずだった。大学はもちろんのこと、人付き合いだってあるだろうに。

 

 画面をスクロールすると、会話は流れてより最近のものが表示される。『今度は、どこかに星を見に行きませんか?』という一文が今回の発端だった。今までの十回と少しでは天体観測はおろかプラネタリウムにも行っていなかった。ちょうど伝手があり、良い感じのスポットを確保できたので今日は遠出して星を見ることになっていた。車の用意は既に済ませている。午前のうちにたくさん寝ておいたし、他の準備も万全。アヤベと色々相談して、夜から出発して朝方に帰る日帰りの予定になったのだった。画面はもうスクロールしないところまで来ていて、『明日は運転お願いします』という文言に俺が返信したのが最後になっていた。

「うーん、何をしようかな。ライサンダ―、遊ぶかい?」

 

 スマホを置いて呼びかけてみたものの、コイツは曖昧に鳴き声を漏らしただけだった。そこまでの元気はないようだ。眠たさ半分、面倒くささ半分といったところだろう。なんともコイツらしかった。頭のあたりを柔らかく撫でてその黒茶色の毛並みと体温を感じ取る。身動きせず、じっとしたまま。何かないかなと、それだけを考えて。

 

 そうこうしていると、突然ライサンダーは膝から降りて行ってしまった。冷めていく温もりを覚えながらどこへ行くのかと姿を追えば、向かう先は玄関の方。さっきまでの眠気はどこへやら、アイツは尻尾を揺らして歩いていった。

 もしかして、とそう思った矢先のこと。ピンポーンと間延びしたチャイムの音が静かな室内に鳴り響く。確認すると、アヤベと約束していた時間よりまだ幾分か早かった。珍しいこともあるものだ。重かった腰を上げて玄関へと向かう。チャイムと同時に起動したモニターは見なかった。こんな時間だし、ここに来る人物に心当たりなんて他にいなかった。

 リビングから移動すると、ライサンダーは一足早く靴脱ぎ場の手前で座っていた。横を通って扉に手をかけたそのとき、待っていたよと喧伝するようにワンと一度大きく鳴いて。

 

 決して重くない扉を開けると、その向こうに彼女はいた。

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