ずっとずっと考えている。ここに来てまだ悩んでいる。もう話すことは決めたはずなのに、それでも迷いは私に付き纏う。
窓の外の景色はどんどん流れてゆく。彼が運転する車はぐんぐん道を進んでいって、目的地まではもうすぐだった。月明かりのない夜の情景はどれも朧気で、見えるのは黒い輪郭ばかり。じっと目を凝らしてみても、それくらいしかわからなかった。
窓から目を離しても、右前方でハンドルを握る彼に話しかける気にはなれなくて。隣を見ると、そこには固定された空のゲージがあるばかり。彼の飼い犬であるライサンダーはここには来ていない。玄関先で出迎えた私と少し触れあった後、すぐに寝てしまったのだった。前に会ったのは大分昔のことだったのに、あの子は私を覚えていたみたいで心を開いてくれていた。彼によるとあまり人懐っこい子ではないようだけれど、何故だか私にはよく懐いてくれる。
あの子のいないふたりきりの車内はいつもの静寂に満ちていて、けれど私は落ち着かない。
まだ、この言葉のいらない関わりに浸かっていたくて、少し怖かった。慣れ親しんだいつも通りはひどく穏やかで優しくて、つい甘えてしまいそうになるけれど。私はここを行き止まりにはしたくなかった。伝えると決めた言葉は、きっと私と彼の関係を変えてしまう。いつも通りが崩れてしまうのはやっぱり怖くて、挫けそうになってしまうけれど。その度に、今まで貰ったいくつかの言葉を思い返してなんとか心を奮起する。
ゆらゆら揺れて、ざわつく心。だけど私は、目を逸らしてはいなかった。
だってそれは実のところ、これまで歩んできた道とそう変わったものではなくて。
きっと私が決心できたのは、そういう道を辿ってきたからだった。
「ん、そろそろ着くよ」
「……わかったわ」
久々に口を開いて、返事をする。車は坂を上ってほんの僅かに夜空へ近づく。長かった猶予期間ももう終わり。目的地に着いた車は駐車場にて動きを止める。ここは山中の小さなキャンプ地で、彼の従兄弟が緩く経営をしているらしかった。話を通してくれたのか、彼が言っていた通りそもそも知名度があまりないからか、辺りには私達以外誰もいないようだった。星を見るにしても、話をするにしても、ここは静かでうってつけだ。
「アヤベ、ちょっと手伝ってくれる?それとこれ虫よけスプレーね」
車から出ると、彼はバックドアを開けて積み荷を降ろしているようだった。手渡されたスプレーを使うと、次いで大きめのリュックを渡される。私がそれを背負うと、折りたたまれたアウトドアチェアを二つ持った彼は車に鍵をかけてからこちらの方を見た。
「じゃあ行こうか。こっちだよ」
それだけ言って歩き出す背に遅れないように、私もまた動き出す。涼しいとはいかないまでも、ここはほどほどに快適だった。吸う空気は澄んでいて心地よく、草木の匂いがそこらでしていた。彼の持つランタンの光を頼りにしばし歩くと、そこは開けた大きな広場だった。その中央らへんに彼は持っていたチェアを広げる。私は背負っていたリュックから水筒やら星の図鑑やらを取り出した。ほんのり淡く光を放つばかりのランタンは、辛うじてお互いの表情がわかるくらいで。
そうしていよいよ、私達の天体観測は始まった。
辺りを照らす明かりはひとつを除いて他になく、輝くは天上に満ちる数多のひかり。宵闇のなか、ふたりで星を眺めている。頭上にはたくさんの、本当にたくさんの星がある。それはとても長い間見てきた光景だけれど、決して飽きることはないもので。私は変わらず、新月の日に星を見る。
始まりは、きっと祈りのようなものだった。
ひとりではなく、いつもふたりで。瞬く星を寄り添って見ていた。同じ景色を見て、多くの話をした。星を見ていればあの子は傍にいるようだった。いつだって、星は私達を繋いでくれた。ずっと一緒にいられますようにと願いながら、星を見ていた。
でもいつからか、それは祈りだけではなくなって。
星座の本を買った。倉庫の奥から望遠鏡を引っ張り出した。星をもっと知りたくなった。あの空に何があるのか、どうしようもなくわかりたかった。
きっと、いつの間にか好きになっていた。だからわかりたくなった。本で読んだ知識をあの子に伝えてみたりして、空にはこんなにも星座があるんだよって自慢気に言ってみたりして。自分でも気がつかないうちに、必要ないはずだった星の知識を集めていた。
星はずっと遠くにあるけれど、いつでもそこに在ってくれた。私が迷うと、見上げた夜空に瞬いていた。私はいつも、誰かと星を見て語り合う。それはカレンさんだったり、ドトウだったり、オペラオーだったり、トップロードさんだったり。しるべみたいに、みんなと引き合わせてくれていた。もしかしたら、ひとりで星を見たことなんて、ほとんどなかったのかもしれなかった。
思い耽りながら、私は彼と言葉を交わす。星のこと、昔のこと、今のこと。話す話題には事欠かなかった。先月カレンさんと会った日のことだとか、あのたづなさんが今度結婚することだとか。そんな話をふたりでしていた。彼も私も星を見る。彼が用意してくれたコーヒーを時折飲みながら、図鑑に目を落としたりして。虫の奏でる音と風の吹く音を聞きながら、とりとめのない話を続けていた。心は落ち着いてはいなかった。星は輝いていた。
「ねえ、なんで星って綺麗なんだろうね。ほら、星っていつでも見られるし、たくさんあるから貴重なわけでもないだろう?それなのにどうして、綺麗だと思えるんだろう。何か、変わることがあるわけでもないのに」
会話の途中。話しかけてくる彼の言葉に答えを出せなくて、私は黙りこくってしまう。どうして星が綺麗かなんて考えたこともなかった。でも、眼前に広がる星空は間違いなく綺麗で。だから私は、その答えが知りたくなった。
「ああ、難しく考えなくてもいいよ。適当なこと聞いちゃったな、ごめん」
「いえ……ちょっと待って。ちゃんと考えれば、わかると思うから」
「……うん、わかった」
彼の言葉を片手間で聞いて、私はじっくり考える。私はどうして星を綺麗だと思うのか。ずっと星を見てきた私に答えは必ずどこかにあって、わからないはずはなかったから。
「そうね……星は、どれも同じように見えて、その実どれもが違うもので。特別なものがあって、そうではないものがあって。どれも身近でありふれたもので、でもどれもが輝いていて。そんな風に、星は私達が生きてきた日々にどこか似ているから。だから綺麗だと、そう感じるんだと思うわ」
自分のなかから精一杯を持ち出して言葉を重ねる。星には、たくさんの思い出があった。あの子と話していた日、みんなが私を連れ出して一緒に夜になるまで待ってくれた日。振り返ると眩しいくらいに輝いている、そんな日々の思い出。星は、そういうものに似ていると思った。
彼方遠くのひかりの全ては、私が生きた、輝かしいあの日々のようで。数えきれないくらいのありふれた日もきっと、輝いているのだと。そうやって示してくれているみたいだったから。
「……ごめんなさい、喋り過ぎたわ。忘れて」
言い終えて少しして、喋り過ぎてしまったことに気がついた。これは私にとってのもので、きっと彼に共有できるものではなかったというのに好き勝手語ってしまった。彼の方を向く勇気はなくて、私は視線を変えずに押し黙る。でも、やっぱり星は綺麗なままだった。
「そう?俺は素敵な考え方だと思ったけど。……そっか、アヤベはそんな風に考えるんだね」
「……あなたは、どう思うの?」
私の語り散らしの言葉を受け入れてくれたことに安堵しながら、聞き返してみることにする。彼はちょっと困ったように頭を掻いた。
「俺?俺は、そうだなぁ……これといった答えはないかな。でもアヤベの考え方は素敵だし、俺もそう思った。……うん、そうだ。星は確かに日々に似てる。星だって、ただそこにあるわけじゃなくて。ちゃんと生きて、輝いているんだね」
隣を見ると、図鑑を膝の上に乗せた彼は奇しくも星の寿命についてのページを開いているようだった。彼の言う通り、星は永遠に輝き続けるわけではない。まるで生きているかのように、日々を懸命に輝いて。だからこそ、綺麗に映るのだとも思う。
私は、どうだろう。未だ迷いの残る目に、星は変わらず映り続ける。
変わらないでいて欲しいもの、変わっていって欲しいもの。強欲なことだけど、きっとどちらの思いも本物で、矛盾しないものだった。
心がこんなに揺れるのは、向き合っているからこそだった。何度も通った道だけど、決して慣れはしなかった道。後悔はしたくなかった。でも適当な理由で向き合うのはもっと嫌だった。
見上げた夏の星空。そこは雲も月もない、ほんとうに綺麗なひとつの世界。
そんな世界でひとつだけ、私を見ていたものがあって。
およそ二十五光年の彼方。私にとって一際思い入れの強い星が、その輝きを増していた。
想いは変わる。私は変わる。きっとなんだって変わっていく。
星を見る、というそれ自体は変わらないけれど、それに抱いた想いは刻々と変わっていったように。変わらないものなんてないのだから。
どんなに変わらないように見えるものだって、どこか必ず変わっているもので。
日々を生きるということは、そういう連続だった。
――ああ、そうだ。
私は生きる、生きている。妹のため、私のため、そう在りたいと想った。
義務でも責任でも贖罪でもなく。ただ、生きてみようと。
それは当たり前のことでも、私にはいちばん大切なことだった。
多くの人に助けられて、他でもない私の意志で。そう、強く想ったのだから。
なら、ちゃんと生きないと。あの輝きにだって、負けないくらい。
ありがとうね、と心の中でだけ呟いた。きっと聞こえるはずはないけれど、でもまたあの子に助けられた気がした。私にとって、星とはいつもそういうものだった。
私は浅く息を吸い、同じ分だけ息を吐く。震える手は、心は、それでは収まらなかったけれど。けれど私は彼と向き合う。ここで向き合えなかったら、いつまでたっても変わらないままだ。
「あの……聞いて欲しい、話があるの。自分でも全部わかっているわけではなくて、ちゃんと伝えられるかわからないけれど。それでも、聞いて欲しいことがあって……」
「……わかった。ちゃんと聞くから、とりあえず話してみてよ」
不明瞭な私の言葉を彼はすんなり受け入れた。優しい言葉に頷いて、私はおもむろに口を開く。きっと紡ぐ言葉は拙くて、たどたどしいものになるけれど。彼なら、それを待っていてくれるのではないかと、そう思いながら。
「あなたは……あなたは、ずっと私についてきてくれたわ。ついてきて、待っていてくれた。私のことをちゃんと見てくれていて、すぐそばにいてくれた」
「ほんとうに、返すことなんてできないくらい、多くのものをもらったわ」
レースに出走する前のやりとり、トレーナー室でのひととき、私の背を撫でてくれたとき。他にも数えきれないくらいの思い出が頭を駆け巡る。ずっとずっと、彼からはもらってばかりだった。
「私はそのどれもが嬉しくて、大切だった。……あなたにとってはただのお仕事だったかもしれないけれど。私にとっては、かけがえのない日々だった」
「ううん、そんなことはない。あの時間は俺にとってもかけがえのない、とても大事なものだよ」
今まで口を挟まずにじっと話を聞いてくれていた彼は、ゆっくりとそう言い切った。優しい声ではっきりと否定してくれたことが、とても嬉しくて。あの日々を大切に思っていたのは、私だけではなかったのだから。
「……だから、私はあなたのことがわかりたかった。なんで私にそうしてくれたのか。あなたは、どんな人なのか。ちゃんと、自分でわかりたかった」
彼から直接、全部聞くのではなく。私は自分で彼という人をわかりたかった。それは遠回りで、必要のないことだったのかもしれないけれど、そうでなくては意味がなかった。
だって、彼はそうしてくれていたのだから。ほとんど何も語らなかった私を尊重して、それでもわかってくれたから。だから私も、そうしたかった。
「でもこうやって何度も会って、話しても。やっぱりわからないことは多くて。あなたは私のこと、ちゃんとわかってくれているけれど、私にそうはできなかったわ」
「ずっと考えて、悩んでも、確かな答えは私になくて。あなたのこと、どう思っているのかもわからないままなの」
いつだって思考は堂々巡り。あるのはわずかずつの前進だけ。それだけしかできなくて、それが私だった。
――でも、ひとつだけ。なんとか見つけたものがあったから。
「ねえ、
とうとう震えは声にまでやってきたようだった。掠れたような声は不器用に空気を揺らして、初めて呼んだ彼の名前には少しぎこちなさが残っていた。瞳に映るのは星だったけれど、私は彼に向き合っていた。
「私を、あなたと一緒の家に住ませてくれないかしら」
「私は、今よりもっとあなたの近くで、もっとあなたと時間を過ごして、そうしてあなたをわかっていきたいの」
言葉は頼りなく揺れていて。けれど確かに、私は彼にそう伝えた。
それは遠慮も何もない、ひどく強欲で独りよがりな願いだったけれど。
でも私の精一杯で、本心だった。
きっと、足りないのは時間だった。少しずつでもわかってゆけるのなら、その分だけ時間をかければよかった。一体どれだけの時間が必要になるかなんてわからないけれど、私にとっては至極些細なことだった。
世界から、まるきり音が無くなったよう。彼からすぐには言葉が返ってこなくて、その間、私は全てから切り離された心地だった。私は耐えきれなくなって、そうっと覗くようにして隣の彼を見る。物言わない彼の表情を、私は見ていた。
彼は、笑っていた。
その姿は嬉しそうで、安心したようで、驚いたようで。
何か、しるべを見たみたいで。ふとすると、泣いてしまいそうで。
暗闇のなか、そんな風に彼は笑っていた。彼のそんなところを見たのは、初めてのことだった。
なんだか特別なものを見た気がして、気づかれないうちに視線を戻す。溢れ出たようなその表情は、そっと私のなかに仕舞うことにした。
「うん、わかった。断る理由なんて、どこにもないよ」
「そう……ありがとう」
永遠にも感じられた時間のあとで交わしたのは、そんな淡白なやりとりだった。その言葉を受けて、私は長く息を吐き出した。なんとも呆気のない結末。でもこれが私達らしいのかもしれなかった。彼はまだ、私のエゴについてきて、私の答えを待ってくれるようだった。
見上げた空に、未だ星は輝いていて。でも、そろそろそれも終わりみたい。
暗闇は端から徐々に徐々にと明けていく。より大きな光に飲まれてしまうように、星がその姿を隠し始めるのも時間の問題だった。彼は図鑑をバタリと閉じた。それが合図になって、私達は悟ったように立ち上がる。座りっぱなしの体をほぐしながら惜しむようにちまちまと片づけをこなし、撤収の用意を進めていく。
「私、あなたのことが好きなのかもしれないわ」
そんななか、私は何でもない風を装って言った。とても不格好で、中途半端な言葉。吐き出した想いは崩れゆく夜闇に紛れて、漂うことなく霞んでいく。それは果たして彼に届いて、そっか、という。これまたすぐに見失ってしまいそうなくらいの言葉を導いた。
ただ、それだけ。それでよかった。
「今度は、私が持つわ」
片付けはすぐに済んで、あとは車に戻るだけだった。彼より先にランタンを手に取る。まだ明かりがいらないほど、夜が終わったわけではなかった。
「じゃあ行きましょうか」
「そうだね」
私は彼より前を歩いて道を照らす。後ろで聞こえる足音の間隔がいつもより長く感じていた。私が逸ってしまっているのか、彼が歩の進みを遅くしているのか。きっと前者だろうと思った。平静でいられるほど、伝えた想いは軽くなかった。
「あのさ」
「?」
声が聞こえたのと同時に、足音は聞こえなくなった。どうしたのかと後ろを見ると、彼は立ち止まって私を見ていた。私が首をかしげると、彼は迷うようにしながらも言葉を続ける。
「ああ、いや。大したことじゃないんだ、ほんとうに。大したことじゃ、ないんだけど……うん。代わりといってはなんだけど、俺からも君にもっと色んなことを聞いてもいいかな」
揺らぐような彼の言葉は見当違いのものに思えて、ちょっと戸惑う。私についての大部分はもう知っているはずなのに、それでも彼は大真面目な顔だった。
「え、ええ。もちろんいいけれど……でも、あまり意味はないかもしれないわ。だってあなた、私のこと、よくわかっているじゃない。何か聞かれても、あなたが知ってることしか答えられないわ」
そう言っても彼は全然気にする素振りをしなかった。それどころか、どこか満足したみたい。肩の荷が下りたみたいにふにゃりと相好を崩して、大事なものを思い出したかのように晴れやかだった。
「いいや、そんなことないよ。君がどんな理由で俺と会ってくれてたかも知らなかったし……ああ、そうだ。俺も君のこと、まだまだわかっていないんだ」
ひとり、納得したような声で頷いて。彼は止めていた足を動かした。いつもの彼らしくない気がして、少し不思議な感じがした。
それは、いちばん最初。私と彼が初めて出会ったときのような。そんな声で、言葉で、関わりだった。
「ありがとう」
律儀にそんな言葉を伝えて、彼はそれきり喋らなかった。
再び歩き出して、ようやく着いた駐車場。そこで車に諸々を詰め込んで、バックドアを勢いよく閉める。さっきまでいたあの広場の方を見て、またいつか来られたらなと、最後に思った。
「帰ろっか、アヤベ」
その言葉に返事して、ふたりで車に乗り込んだ。
ふたりきりの車内に満ちるのは、やっぱりいつもの静寂だった。そんなに急には変わらない、私と彼の空間だった。この静寂が移ろうなら、それは急激で特別な変化ではなくて。もっと緩やかでありふれた、そんな変化なのだろう。
脱力してシートに体を預ける。なんだか、どっと疲れたようだった。前日にほとんど寝られなかったのもあって、瞼も幾分か重い。
「……本当によかったの?もしかしたら、あなたに迷惑をかけるだけになるかもしれないのに」
気が抜けてしまった私は堪えきれずに、心の中の言葉を吐き出す。言ってもどうにもならない言葉は、それでも止まらなくて私を蝕む。
「それに私、きっとすぐにはわからないわ。長い時間をかけることになると思う。それでも……それでも、あなたは待っていてくれる?」
「もちろん。前にも言ったけど、待つのは割と好きなんだ。それに――」
「それに?」
私の卑怯なその問いに、彼は期待通りに返してくれた。最後に弱ってしまった自分を情けなく思いながらも、やっぱりその言葉は嬉しかった。聞く必要のなかった言葉に返されたものはそれだけかと思えば、まだ彼は何か言い残していたようで。だからつい促した。
「――それに、俺も独りはつらいからね」
何でもないようなその言葉に、私は不意打ちされたみたいに固まった。
そう、だった。なんで見落としていたんだろう。なんで気づいていなかったんだろう。ずっと彼には頼りきりだったからか、難しく考えすぎていたからか、そんな単純なことも忘れてしまっていた。
彼だって私みたいに何かに行き詰ったりする、普通の人だった。今までそんなところを見たことはなかったけれど、彼にだってつらいことはあるし、悩むことだってあるのだ。
遠く遠く、追いつけないくらい先にいると思っていたけれど。
そうではないのかもしれない。そうでは、なかったのかもしれない。
彼がライサンダーと一緒にいるのも、そういう理由だったのかも。それは間違いではないように思えて、少し彼に近づけたような気がする。そうしてまたひとつ、わかることができた気がした。
星は静かに朝に紛れて、気づかれることなく空を漂う。
車の窓を覗いてみれば、行きと違って様々なものが見えていた。木の葉は風に揺れていて、遠くに薄っすら山が見えて、小鳥は低く飛んでいた。まだ明るいわけではないけれど、ちゃんと目を凝らせば見えるくらいには夜は終わりを迎えていた。
もしかすると、私と関わったのも彼自身のためだったりするのかもしれない。彼には彼の事情があって、私に声をかけたのかもしれなかった。だけど、それでも構わない。だって始まりがどんなものであれ、私は彼にたくさんのものをもらったから。私にとっては、その方がよほど大切なことだから。始まりなんてなんだっていい、例えそれがどんなエゴでも。関わろうとしないと、何にもならないのだから。彼がそうしてくれたから、私は今ここにいる。
いつだって彼は私についてきてくれて、待っていてくれた。
進む私の背を見守って、止まる私の背を押してくれた。
だから私は走っていられた。
だから私は私のためにも生きてみようと思うことが出来た。
ああ、そうだ。いちばん初めから、いつもそうだった。
私はずっと、彼に支えられていた。
どんなときもそうしてくれていた。
だけどそんな彼にできたことなんて、ほんの僅かなことしかなくて。
今までずっと、支えられてばかりだったから。
だから、今度は私が。ちょっとでも、彼の支えになれるように。胸を張って、隣に立っていられるように。 そんな風に、
だって、私はこんなにも生きている。生きている限り道はどこにでもあるのだと。そう示してくれたのは、他でもない彼なのだから。
「アヤベ、眠いなら寝てていいんだよ」
「じゃあ……少し、眠ることにするわ」
言われて、体に力が入らないことに気がついた。瞼はもうほとんど閉じていて、意識は曖昧。そんな姿を見られていたらしかった。意識は次第に薄れて行って、やがて私は眠りにつく。私は最後にもう一言返事して、完全に瞼を閉じる。
「……おやすみなさい。また、明日」
何も映らぬはずの瞳にそれでも映るのは、私が見ていた満天の星空。これから先も褪せない輝き。私が思い悩んだいくつもの日々は、こうして今日に繋がった。それが誇らしくて、少し微笑む。でも、大切なのはこれから。だってこれで終わりじゃない。まだまだ日々は続いていて、道は先に続いている。どこに行き着くかなんてわからなくても、それでも私は前を向く。不安も恐れもあるけれど、歩みを止めることはない。そんなものじゃ止められない。だって、私はひとりじゃない。ちょっとずつでも、手を取り合うことが出来たなら。その先に見えるのは、見たこともないくらい綺麗な景色だろうから。そんないつかを夢に見る。それだけでは終わらせないと進みゆく。そうして明日へ向かってゆく。そうしてこれからも変わってゆく。
そうして、私は生きてゆく。一歩、あなたの方へと踏み出して。