どこかで見たことあるような光景。六五
◆◇◆
ポタ……ポタ……
水の滴る音がする。
──外は雨だろうか。
わからない。
いったいどれだけの時間が経ったのだろう。
数年?数か月?はたまた数日か。
明かりもなく音もなく、ただ鉄のさびた匂いのする部屋に閉じ込められて、時間の感覚すらままならない。
発狂してもおかしくないのに。僕の頭は至極冷静だった。
壁も檻も何も見えぬ暗闇で、閉塞感だけを確かに感じていた。
もしかしたらそこには自分を取り囲む壁も自分を閉じ込める檻も本当はないのかもしれない、なんてそんな幻想を抱く。
しかし手を伸ばせば簡単に知覚してしまう障壁。自分を妨げる物理的な壁。
頭がどうにかなってしまいそうだ。
むしろどうにかなって然るべきだ。
どうにかなるのが正解だ。
──なのに。
感じるのはただ漠然とした違和感。
あり得るはずのない冷静さ。思考の透明感。
どうして自分はこんな状況下で冷静なのか。冷静でいられるのか。冷静になってしまうのか。
「……会いたい……会いたいよ……フェリスに……クルシュに…──二人に……会いたい」
もはや叶わぬ願いだった。
ユウはここで一人死んでいくのだ。
心を満たすのは絶望か、憎悪か…──否。
──寂しい。
胸にあるのはただその想い──
思えば、一人になって冷静に考える時間は今までなかったかもしれない。
──いつも傍には誰かがいたから。
誰かが、いてくれたから。
この世界に来て、流されるままに何年も過ごした。
勉強もしたし努力もした。
自分なりに二人を守ろうとそう決意した。
でも、それはきっとそうするのが自然で、そうする他選択肢がなかったから。
だって、この世界には僕が縋れるものなんてなくて、でも『死ぬ意味』もなかったから。
だから。
流されるままに、怠惰にこの世界で過ごした。
両親のことも、元の世界のことも、考えないようにして、記憶に蓋をして、現実から目を背けて、そうして逃げてきた。
自分はこの世界の一部なんだ、
この世界に生きる一人のキャラクターなんだってそう演じてきた。
いい人を演じた。
それに意味がないことなんてとっくに知っていたのに。
あの二人に嫌われたくなかったから。
誰かを救いたかった。
救いを求めている人を僕は求めていた。
それがたまたまあの二人だった。
たくさん努力した。
頑張ってるふりをした。
自分に言い訳する為に。
生きていていいんだって自分を騙すために。
僕はこの世界の異物で、本来死ぬべき存在で、生きていること自体が『罪』だったから。
赦されたかった。認められたかった。愛されたかった。死にたくなかった。生きていたかった。一緒にいたかった。助けたかった。笑ってる顔が見たかった。抱きしめたかった。愛したかった。嫌われたく、なかった。
ただ。ただ、僕は、オレは、ただ──。
「本当に……何やってたんだろう、オレ」
もう何もわからない。
◆◇◆
悪い夢から覚めた。
いつも通り嫌な夢だった。
そうして感じるいつも通りの憂鬱。
ユウは当たり前に、目を開いた。
そこにはいつも通りの景色があるはずだった。
しかし、目を開いた先にあったのは…──目。
──目。目。目。
──メ、メ、メ、メ。
──眼眼眼眼眼眼眼眼眼。
ユウの視界に映るのは目。メ。誰かの『眼』。
「──はっ?」
至近距離といっても尚足りないほどに近い距離。
もはや眼と眼がぶつかりそうな距離、目が合うではなく“眼と会う”と言った方が近しいかも知れないそれは──。
まるでユウの心の奥底を覗き込むかのようにその瞳を蠢かせていた。
(──え、な、は……?)
不理解と狂気が心を潤す。
まだ夢の中だっただろうか。
そんな儚い願いを抱いてしまうほど、ユウの精神は、正気は、徐々に狂気に浸されていった。
だが、これは悪夢ではない。
──悪夢より尚も残酷な現実だ。
戸惑いを如実に示すユウに──声がかかる。
「目を、覚ましたか?」
瞳が少し引いた。
しかし未だに鼻先が振れるのではないかと言うほどの至近距離、そこに見知らぬ中年の顔があった。
「───。」
怖い、そう思うのが自然であるのに、寝起きで未だ活性化していないユウの脳は現状を把握できなかった。
「私はこの家の当主──ビーン・アーガイルだ」
ユウの理解をよそに、男は顔を引いて名乗った。
貴族風の男だった。
──誰。──ここはどこだ──何が、どうなって──誰だこいつは。──オレは何を──身体が動かない──どうして──どうすれば。──何を──何が──なんで──どうして──。
危機感が、恐怖が、緊張が、不安が、恐慌が、混乱が、動揺が、考えることを妨げる。
しかし現実は待ってくれない。
──狂気が蠢き出す。
「──痴れ者がァ─ッ!!」
沈黙から急変。
男はナイフを振りかざした。
「──ッ!!!ぐ、ア゛ァぁぁああああ゛ああ゛!!!」
──手の甲を刺された。
そう視認してから、遅れてソレがやってきた。
──痛いッ!!!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛!!!!!!!
脳内をその記号が埋め尽くした。
刺された手から腕を伝い、肩を過ぎ首を通って、脳に至る信号。劇痛。灼熱。脳内から思考は消え失せ、ただ熱が残る。
肉の焼けるような音が脳内で響き渡る。
脳が焼けるような痛みをユウは現実に味わっていた。
「この私が名乗ったというのにッ!名乗らないとは何事だッ!!何様のつもりだッ!無礼者めがッッ!!」
──怖い怖い怖い。なにが、なんで、どうして。どうすればどうすればどうすれば、どうすればッ!!
浮かび上がるのは根源的恐怖。
逃げなければいけないという危機感。
ユウは痛みと衝撃から覚めぬまま。
しかし本能が危機を脱しようと反射的に答えを導き出した。
「ユ、ゆゆゆゆ、あがっ!………はッはッ……ユウっですッ」
正常に舌が動かずどもりながら名乗るユウ。
途中刺されたナイフを揺り動かされ悲痛の声を上げた。
人は一瞬の痛みよりも痛む継続的な痛みを忌避する。
途切れぬ苦痛が一秒を無限にも思わせる故に。
継続する終わらない痛みがユウの集中をかき乱し、延々と思考を阻害する。
それでも本来なら名乗ることすらできなかっただろう。
それほどまでに状況は、ユウの脳内は混沌を極めていた。
しかしユウは狂気を飲み込んで行動に移せた。
それは五年の賜物か。
それとも別のなにかのおかげか。
少なくともまともな精神じゃない。
発狂していてもおかしくなかったのだから。
「ふん、貧相な名前だな」
「ッ!あ゛あぁぁぁあ゛!」
男はナイフを引き抜きそう告げた。
男はナイフを突き刺すことにまるで抵抗がなく、こちらの痛みなど気にも留めていなかった。
──狂っている。
「なぜ当家に侵入した。貴様は何者だ」
痛い。痛い。
目に見えて貫通している掌が、その穴から溢れ出る血液が、肉体だけでなく精神をも狂わせる。
しかしそれでも、先ほどよりは幾分かマシになった。
──考えろ。考えろ。考えろ。
限界状態に至って、生物としての本能が生き残る為にユウの思考を加速させる。
ユウは尋問されていた。
あまりの痛みと恐怖で頭がイかれそうな中、どうにか現状を打破しようと、ユウは素直に答えようとした。
なのに──。
「お、おオレは、ふぇり、を、え──っあぐあ゛ああああああ!!」
再び凶刃が振るわれた。
「誰が!いつ!発言する!許可を与えた─ッ」
「あ゛ッガッな゛ンッデッ!──ッ」
「私の許可なく発言するな。──二度はないぞ」
男は声を荒げ、その度にナイフを振り下ろした。
もはやユウの左手は見るに堪えず。
ユウは目を瞑り痛みを堪えることしかできない。
しかし沸々と心に湧き上がる──憎悪。
「貴様は何者だ。──答えろ」
──なんなんだ………なんなんだよこいつはッ!!!こいつが、当主???フェリスの父親ぁ??
──イかれてやがる。
男を睨みつける瞳に『殺意』が宿る。
それに呼応するように、周囲の気体が質量を纏って。
「はぁ……はぁ……」
「なんだその目つきは、──どうやら身の程というものを知らぬようだな」
「ちょ、ちょっと待っデ──ッッ!!ぐあ゛ああああああああああああああ゛!!!」
──痛い。痛い。痛い。
──また、また、また。
尋常ならざる痛みに殺意は乱れ、力をもった大気は霧散した。
これだけ途切れず痛みを与えられてはまともに魔法など使えない。
殺意は挫け、心が折れる。
あまりの痛みに際限なく溢れ出てくる涙。
しかしその甲斐もなく痛みは毛ほども和らがない。
「貴様は何者だ。言え」
知らない。そんなの、知らない。
なんで。なんで。なんで。
──なんでオレがこんな目に。
「お、オレは、ユウ……」
「それはもう聞いたッ!私を愚弄しているのかッ!」
「ぐッがッあが゛ッや゛や゛め゛ッ」
グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ
グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ
グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ
延々延々とナイフがユウを貫く。
もう両手の原型はなかった。
見るも無残な、ぐちゃぐちゃの手。
飛び散った肉片、数本の指。
血管が、神経が、腕の骨が露出している。
見ているだけで吐き気を催す光景。
もしもこのまま手を振ったなら、彼の手は明後日の方向に、遠心力のまま飛んでいくことだろう。
──熱い!熱い!熱いッ!!!
もはやどこが痛いのかもわからず、ただ熱いという信号だけが脳を占めている。
強過ぎる刺激が脳を麻痺させているのだ。
断続的で継続的な刺激が脳神経を圧迫し錯覚を引き起こしている。
熱という単純な信号に変換しているのだ。
熱くて熱くて仕方がないのに。
それと同時に感じる頭部の冷えていく感覚。
オーバーヒートしかけている脳を周囲の肉が冷やそうと躍起になっているのだ。
だんだんだんだん、脳という臓器に熱を吸われ、目から口から鼻から耳から頬から頭皮から喉から熱が失われていく。
──寒い。熱い。寒い─ッ。熱い─ッ。
「ハァ、ハァ」
「……ひゅー……ひゅー……」
何度も何度も腕を振り下ろした男は息切れしている。
対して、大量出血で貧血を引き起こし脳を駆け巡る寒暖の激しさに昏倒しかけているユウ。もはや呼吸もままならない。
それでも、尚も考える。
考えて、考えて、考えて、
考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても、何度考えても。
──意味がわからない。
──理解できない。
──死ね。
──死ねよ。
──死んじまえ。
もうすべてがどうでもよくなった。
オレは何をしていたのか。
どうしてこんなことになっているのか。
何がどうなっているのか。
オレはフェリスを助けに来たはずで、こいつはこの屋敷の当主、つまりフェリスの父親のはず。
冷静に高速で思考する。
死なない為、生き残る為、生存本能が彼の思考を加速させる。
オレは捕まった、フェリスにやられて。
そしたら知らない女が来た。
目が覚めたら捕まっていて、男がいた。
そして今、拷問されている。
どれだけ考えても、答えは一緒。
──答えなど存在しなかった。
「──聞いているのかッ!この小汚いカスがッ!私が、私がっ!私がッ!聞いているというのにッ!!」
「あ゛ぁあぁぁぁぁぁぁ!!!!!やめ゛ろッやめ゛てくれっ!オレは何も知らないッ!何も知らないんだ!オレはただフェリスを助けに来ただけだ!謝るから!もう諦めるから…ッもうやめてくれ!!」
『不理解』は『理不尽』は『本物の狂気』は──容易く人の心を折る。
心の弱い一般人なんて、その狂気の前では何もかも容易く捨ててしまう。
『夢』も『理想』も『希望』も、そんなものは残酷な現実を前にすれば無力なのだから。
限界まで加速し時間の引き延ばされた世界で、時間が止まったかのように思われるほどの空間で、無限に引き伸ばされた『痛み』を『苦しみ』を『絶望』を与えられれば、誰だって容易く己が心を握り潰すことだろう。
誰かを助けたいなどという思いは所詮余裕があるから生まれるもの。
心にもお金にも余裕がある人間が、哀れでか弱い人間を見下して救い上げて悦に浸りたいという本心を覆い隠して、声高に言い放つ戯言、『綺麗事』だ。
対等で平等で等価値でしかないはずの人間が、人間を救いたいなどというのはただの『傲慢』だ。
死の間際に瀕したとき、人の本性は現れる。
──つまり、所詮はその程度の男だということ。
口だけは一丁前で。
綺麗事ばっかり抜かして。
助けるだ救うだなんだ言っておいて、いざ自分が危険な目に合えばすぐさま諦めてしまえる。
──『ナツキ・スバル』とは違う。
『英雄』とは違う。『ヒーロー』とは違う。『主人公』とは違う。
単なる凡人。真なる凡人。
勘違いして思い上がってイキっていただけの小さくて、醜い、底辺のゴミクズ。
それが──七星憂という一人の男の正体なのだから。
「はぁ、はぁ」
言い切った。言ってしまった。仕方ない。こんなの耐えられるわけない。死んだ方がマシだ。なんなんだこれ。死ねよ。なんだよこの狂人は。死ね。死んじまえ。なんでオレがこんな目に合わないといけないんだよ。オレはただフェリスを助けに来ただけなのに。それがこの仕打ち?ふざけんな。ふざけるんじゃねぇよ。助けろよ。なんでオレを、攻撃しやがって。くそが。くそったれ。裏切りやがって。裏切りやがったんだ。もう知るもんか。あんなやつどうでもいい。ふざけやがって。死に絶えろ。馬鹿が、カス、死んじまえ。
溢れかえる罵詈雑言。
聞くに堪えない暴言の嵐。
人をこれでもかと不快にする腐った人間性の発露。
それはただの八つ当たりで、ただの言い訳に過ぎない。
まったくもって救えない。いなくなってくれた方がすっきりしそうなほど腐ったドブの臭いのする心の内側。
ああ、まったく救いようのないクズだ。
──なにせそれは、全くもって無意味な言い訳なのだから。
「……フェリス?──誰だそれは。──ほぉ……そうかそうか。私を馬鹿にしているんだな?嗚呼いいぞ。いいだろうとも。そんなに私の拷問が気に入ったんだな。よかろう。ならば本当のことを言うまで
はぁ……?
「フェリスだよッ!『フェリックス・アーガイル』!お前の息子だろ!?」
「フェリックス、だと……?」
男の態度が豹変した。
もはやどうにでもなれと達観していたユウが冷や汗を流すほどに。
その顔からは表情が消え、感情が消え、この場の空気を凍てつかせるほど冷え切った
眼。眼。眼。
その眼には生気がなく、光がなく、ただ闇があった。
その空洞とも思える闇の中で──ナニカが蠢いている。
ナニカが──ユウを見つめている。
「──何故。お前が知っている。お前は何を知っている」
──吐け。
その声に怒気はなく、力はなく、強さもなかった。
ただ──絶対に吐かせるという圧がユウに向けられていた。
「ふんッ!」
「あが゛ッ!!!あ゛ああああ゛ああァァァァアアア゛ッッ!!!」
潰れた。潰された。
──熱いッ熱いッ熱い─ッ。
その熱は、先ほどの比ではなかった。
素手で脳を
熱された
それはまさしく質量を持った熱。物理的な痛み。
──こいつッ!オレの──眼をッ!
「吐け。
「がはッぐはッげはッあがっ」
ガンッゴンッガンッガンッガンッ
何の遠慮もなく粗雑に頭を掴まれ叩きつけられる。
──狂ってるよ。こいつ、狂ってる。
「──何を笑っている」
──笑ってる?誰が。
「何がおかしい…ッ何がおかしい─ッ!」
「アハ。あはははハハハハハハハハハハハハハハハ!アヒ」
──オレ、笑ってる?なんで。
──もしかしてもう。
「笑うな゛ぁぁぁぁぁぁああ゛!!!!!!!」
頭を鈍器で殴られた。
しかし──もう痛みは感じなかった。
──もしかして、もう、とっくに。
──…オレも狂っているのだろうか。
プツンと、電源が落ちた。
これは、地獄の始まりに過ぎなかった。
◆◇◆
クルシュとフェリスと過ごした五年間のお話読みたいデスカ?
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ある程度
-
そんなに
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それより話を進めてほしい
-
どっちでもいい
-
お好きにどうぞ