私が憧れた景色は、なんてことない日常。
私が憧れた人は、顔も知らない人。
私は今日も、朝焼けに駆けている。

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朝焼けに駆けて

 

1LDKの室内。

薄暗い蛍光灯を浴びコタツで暖を取っていた。

室内なのに外気は嫌に冷たい。

半纏を首元まで上げてみる。

本日限定の特別番組を流し目に、卓上に積み上げた蜜柑を1つ手に取る。

確かな質量とヒンヤリとした感触。

爪を食い込ませて皮を剥くと柑橘類特有の酸味が漂う。

ツンっと鼻につく香りがするが不快感は無い。

皮を六芒星型に剥き終わる。

ソレを分けて小粒にし、一つ口へ運ぶ。

酸味と甘味。弾ける爽快感が口の中いっぱいに広がる。

思わず口を一文字に結んでしまった。

僅かな幸福感を味わいながら、また一つ頬張る。

 

すると、ポーンポーンと柱時計から音がした。

目を向けると時刻は12:00...いや、夜だから24:00だ。

おお、つまり新年だ。

リモコンで違う局の番組を付ける。

すると画面上に『1998年1月1日 謹賀新年』のテロップと、

『あけましておめでとうございまーす!今年も良い一年を!』

だなんて深夜なのにハイテンションなアナウンサーの一言が聞こえてきた。

 

そうか、もう新年か。

年の節目に立ち会ったのにお蕎麦も食べていなかった。

時間感覚が麻痺していたのだろうか。

それとも歳を重ねて祝日に対する特別感が薄れてしまったのだろうか.....いや、まだ21、若い。

 

.....私の一年、何か変わったかな?

 

ふと、そんな言葉が浮かんだ。

 

目を閉じ思考に没頭する。

数秒の思考の後、胸の奥から陰鬱な気持ちが込み上げてくる。

 

...嫌だな。何もできてないじゃないか。

 

若いと言っても21歳、春になれば大学4年生、大人の仲間入りだ。

単位は真面目に取得してたから、3年後半からは学園に行くこともなくニートのように暮らしていた。

バイトもせず、サークルにも入らず、本を読んでスマホを眺めて腹を空かせる日々を送っていた。

怠惰と安寧を貪っていた。

 

こんな私が、『大人』の仲間入りか...

 

昔。

子供の頃に考えていた大人は背が高くて、お金を持っていて、仕事ができて、キビキビ動けて、スーツが似合う人だと思っていた。

 

もしも。

子供の私に、今の自分を"大人"と紹介するのなら、胸を張って居られないと、そう考えてしまった。

 

 

変わりたいな...

 

 

焦がれるような衝動に背を押され、コタツから這い出た。

 

 

【1998年1月1日】 06:12

 

今日からランニングを始めようと思います。 

 

今のままは嫌だ!何か変わろう!

そう思ったは良いが、変わるための目標は立てて無かった。

何を実行すれば良いのか思いつかなかったので、『今までやっていない事に挑戦する』という名目でランニングを選びました。

 

日もまだ顔を出さない黎明時。

 

ジャージの上に、シャカシャカの薄い防寒着を被り玄関のノブを捻った。

瞬間、外気に触れた肌が刺されたような痛みに襲われる。

僅かに生まれた弱音を払い、追い出されるように家から飛び出た。

マンションの最下層まで階段で駆け降りて、軽いウォームアップを済ませる。

勢いそのままマンションの敷地内を出て、ランニングを始めた。

コンクリートの地面を蹴って、薄暗い住宅街を駆ける。

まともな準備体操などしてないので、間接が上手く動かない。

慣れない運動だから、あっという間にバテてしまいそうだ。

少しペースを落として小走りにしよう。

 

ホッホッホッホッ。

吐息が白い。

湯を沸かしたポットのように湯気が出る。

東の空には霞が白く掛かり太陽の到来を教えてくれる。

それでも白みがかかるのは夜空のほんの僅か。街は未だ醒めないきらない。

私の吐息と足音と鼓動だけが音を鳴らしている。

不思議な感覚だ。

活気付いてる街ばかり見ているので静かな街を見るのは初めてだ。

人工物はあるのに人の気配が感じ取れない。

例えば「私以外の人類は全員消えた」なんて突拍子の無い事を言われても信じそうなくらい。

 

...そんな初めての体験。

 

少しずつ息苦しさを覚えてくる。

喉から焦燥感を覚える。

人間は燃焼を行うので冬だろうと汗は掻く。

それがジャージに染み込む。

放熱と発汗。

排熱活動を繰り返すものだから衣服が汗で重たくなっている。

いつしか体も重たくなってきた。

 

そろそろ切り上げようか...と考えていると住宅地を抜けた。

 

目の前にはT字路、その前には横一直線に伸びるコンクリート壁が聳え立つ。

確か、この向こうには荒川があったはずだ。

なら、このコンクリート壁は堤防か。

ここに荒川が有るのは知ってたけど実際に直視したことはない。

折角の機会だ。ついでに見ておこうかな。

 

辺りを見渡すと堤防沿いにモルタル製の階段を発見した。

それを駆け上って堤防上に出る。

すると視界は開け、眼前は青で覆われた。

『おおぉー!おっきぃ!』

思わず感嘆の声を上げてしまう。

なんと大きい川だろう。

一見したら海かと見間違えてしまうようだ。

何より対岸線が見えない。

目を凝らすと地平線に棒のような出っ張りが見える。おそらく対岸に聳えるビル群が、ほんの少し顔をのぞかせているのだろう。

日本最大級の川幅を持つとは地理の授業で習っていたが、まさかここまでとは....

 

ボウッと、右頬に熱を感じる。

振り向くと、地平から太陽が顔を出していた。

朝日...いや、初日の出だ。

東から採光を受けた空は夜を押し退ける。

白く、明るく、朝を伝える。

追いやられた夜は西へ、西へ沈んで視界から消える。

地も熱を受けて眼を覚ます。

草木も朝を迎えて呼吸を始める。

風を受け水辺は波を生み出し唄い出す。

 

....朝って、いつ始まるんだろうと思ってた。

日付を跨いだ瞬間?起きた瞬間?ご飯を食べた時?家から出た時?

そう考えてた時もあったけど多分違う。

陽を迎えて始まるんだと、目の前でそう感じた。

 

なんだか、今年はいい事が起こりそうな予感がする。

理由は無いが、そう思った。

 

 

「.....ぅクション!」

途端、浮遊感のある思考から覚めた。

 

うぅ、寒い。風が身に染みる。

ランニングをして汗だくなのをすっかり忘れていた。

熱を奪われ汗が冷え、直に触れる肌から不快感が伝わる。

...もう帰ろうか。

テンションが下がりながらも、来た道へ引き返そうと階段方向へ振り向いた。

 

瞬間、突風が吹いた。

 

全身が強張り、反射的に目を瞑る。

風圧を受ける。

服が張り付いてくる。

突風は一瞬で終わり、駆けるような足音が残響した。

自然現象じゃない何かの現象だと理解できた。

音のする方向へ目を追わせる。

見えたのは背中。赤と白のジャージで、栗毛のロングストレートを靡かせて、日の出に向かって駆けて行く背中があった。

その背中は止まることはせず、川沿いに一直線に伸びる堤防上を駆けて行く。

背中は数秒のうちに朝焼けに溶けてしまった。

シンっと鎮まる空間に私1人が取り残される。

 

今の何?人?

 

顔は見えなかった。

ただ、速かった。

風圧を生じさせるほどの速力で朝日に駆けて行く人影。

その影は頭に二つ耳、下腹部に一束の栗色が見えた。

あれは...ウマ娘だ。初めて観た。

人より足が速いとは知っていたが、あそこまでとは.....。

地平線を眺め続ける。まだ見えるその背中が美しいと感じた。

 

「良いなぁ...」

感嘆の言葉を呟いた。

 

ドクンっと、鼓動を感じる。

音を立て強く大きく響く鼓動を重ねる。

胸が空くような、解放されるような。

何かを詰め込みたい想いが湧き上がってきた。

 

「あの人が止まるところまで。私も駆けたい」

 

今年の目標ができた。

 

 

 

 

.......

 

それから私は一月、二月、半年とランニングを続けた。

雨の日も、風の日も、猛暑の中でも続けた。

真面目なくせに根性無しで体力のない私がよくここまで続けられたと、自分でも関心するほどだ。

最初は家から堤防までの距離だったのが、今では倍の距離にある業務スーパーまでなら一息で行けるくらいに成長を実感できた。

 

あの堤防に行くと、日の出と共に背後から突風が駆けてゆく。

 

あの人はいつだって朝焼けを駆けていた。

毎日。毎日。

同じ時間に、同じ堤防の上を駆けている。

私も、負けじと毎日通った。

速さ比べをしているわけではないのだが意識をしてしまう。

脚ではウマ娘に人間は勝てない。

そんな事は知っている。

 

いつしか、あの背中を追い抜きたい...なんて願いを持つようになった。

「追い抜かれるのが悔しいから」じゃなく、もっと憧れに似た感情を抱いていたからだ。

 

 

言葉にするのは難しいのだが、

朝焼けに駆ける背中を、美しいと思ったからかな....

 

 

......

 

冬が明け、桜が舞い、日が長くなり、ひぐらしが鳴いて、草木が枯れた。

 

彼女は姿を見せなくなった。

 

1日だけ来ない日は偶に有った。

今回もそうなんだろうって考えていた。

翌る日も、翌る日も。

ついぞその姿を見ることはなかった。

 

それは1998年11月のことだった。

 

それでも、私はで駆け続けていた。

 

.....

 

白みがかった空の下、醒めきらない街に1つの呼吸が響いた。

 

私は今日も走る。

長く続いた習慣のおかげだ。

夜は早く眠れるし、朝もパッっと目が覚める。

走る事で体の覚醒が進むので、朝シフトのバイトでも、しっかり起きた脳で望める。

それに朝ごはんを食べる習慣がつき、バラバラだった食生活も改善された。

進んで消化のいい商品を買えるようになった。筋肉やエネルギーの栄養学も少し学べた。良い事だらけである。

飽き性の私が、本当によくここまで続けられたモノだ。

 

堤防に到達した。

間髪入れずに階段を駆け上り、そのまま鋪道を走る。

ランニングで熱を持った体が、冬の外気に晒される。

気持ちがいい。

 

風を切る。

風が凪ぐ。

鼓動がドラムのように重なる。

解放された心が風に溶ける。

体が融和して朝に溶けてしまいそうだ。

身体の輪郭が分からなくなる。

心地がいい。

 

.....すると、水平線が白くなってゆく。

日の出だ。何度も見てきた景色。

でも、今日だけは特別な光だ。

 

【1999年1月1日】

 

ちょうど、今日で一年だ。

 

去年の今頃は、私はようやく走り始めた頃か。

あの頃に比べたら、私はオトナになれただろうか。

胸を張って生きていけるだろうか?

春になれば晴れて社会人、私は大人に成れるだろうか?

 

...なんて、自問をしてみる。

 

目を閉じ思考に没頭する。

数秒後

『成れるよ、きっと』なんて自答をしてみる。

 

根拠は無いが大丈夫だ。

苦難だってなんだって、私は乗り越えて行きたい。

だって私は一年でこんなにも変われた。続けられた。強くなった。

その自信が、重ねた鼓動の数に現れている。

 

私が変われたのは_________

それもこれも全部、あの人が_________

 

 

______足を止める。

______日の出を眺める。

 

眩い日差し、芳る草木、凪ぐ風と、唄う水、朝を迎えた街並み、綺麗な朝焼け。

 

....一つ、足りない。

 

 

私よりも早くて、力強くて、綺麗で、美しい人が此処には居ない。

 

名前も顔も知らない。

背中しか知らない人を、私は目指して走ってきた。

 

その景色を私は欲していた。

 

もう何ヶ月も来ていない。

 

また、その背中を見たい。

ううん、今度は追い抜きたい。

そして、一緒に地平線の果てまで駆け抜けたい。

 

「...よし、走ろ」

 

 

私はまだ駆ける。

変われたこの場所を大切に想うように、

続けられた嬉しさを噛み締めるように、

大人になれた喜びを思い出せるように、 

新鮮な気持ちに還れるように。

あの突風が来ても良いように。

最後まで追いつけるように。

肩を並べられるように。

 

まだ先へ、

もう一歩先へ、

 

私は今日も、朝焼けに駆けている。

 


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