情けない悲鳴を上げて騒がしかった少年は姿をくらました。エントランスホールはレミリア一人だけが取り残された。
「どうやらいったようね」
もちろん“逝った”ではなく“行った”の意味だ。さすがに蒲公英にとっては命まで届くような一撃ではないと確信を持っている。致命傷になっているぐらいだ。
自分に残っていた魔力を全て出し切った後は、身体に疲労というおもりがのしかかっている。自らの背を天井を支える役目を失った石柱に預けた。そして透ける右手を顔の前に持ってくる。
「あの子も難儀なものね…」
濁った瞳で拳を振っていた彼は消滅の一歩手前だった。あの状態は外の世界で妖怪が人間に忘れ去られて消え去るのとほぼ同じであった。人間である蒲公英がそうなっているのは彼の持つ能力のせいだと見当をつけるのは容易い。
ただ、あの能力は個人が発現するには不可解な点が多すぎる。神と呼ばれる種族でも森羅万象の歯車を狂わせてしまう者はそうそういない。蒲公英はそのうちの一人に入っているのだ。だが力に弄ばれている。実際、彼の運命は破滅の道を辿っていた。人間には重すぎる運命だった。
しかし、運命を変えられるのも人間の力である。前に向いて運命を変えようとする彼の姿勢はこの私にとっては何よりも尊ぶに値するものである。
「ちょっと…疲れてきちゃったわね…」
ここまで全力を出したのは久方ぶりだ。指先ひとつ動かす力が出ず、身体が限界に近かった。寝室のベッドに飛び込むような真似は出来ない。こんなところで寝てしまえば風邪をひいてしまうかもしれないが、自慢のメイドが私をベッドまで運んでくれるはずだ。彼女の存在が眠気に抗うことはないと告げている。
何も不安を感じることなくゆっくりと瞼の幕を下ろした。
どこまで吹き飛ばされたのか、どれくらい気を失っていたかわからない。目を覚ませば、冷えた風の通り道である紅い廊下で大の字になっていた。
二度寝をしたい衝動の中で気を失う前のことを思い出し、すぐさま立ち直る。軽くなったように感じた身体は傷を持ち合わせていなかった。
「この恩は絶対に返すし、後悔はさせないぜ」
勝負に負けた自分の命を取らないどころか、再出発の機会をくれた吸血鬼の少女に聞こえてるはずのない感謝を述べた。彼女の器の大きさには頭が上がらない。あの人との出会いは自分にとってキーポイントとなったのは間違いないはずだ。
胸の内にほんのりと暖かい炎が宿っている。これはきっと彼女に対する憧れの感情なのだろう。レミリアになれなくとも近づきたいと思えてしまう。この感情を心のタンスに大切にしまっておこう。
「待っててくれルーミア。パーフェクトな俺になって会いにいくからさ」
自分に元気をくれた満月に負けないくらいの笑顔をもう一度目に写したい。あの娘との約束を噓にしないため、俺は一段と気合いを入れて歩き出した。
紅魔館で一つだけやることが残っている。まだここから出るわけにはいかなかった。
いくらレミリアと話をつけたとはいえ、これが咲夜に伝わっているか定かではない。次にエンカウントすればまた血で血を洗う戦いになってしまう可能性がある。レミリアを悲しませるようなことはしたくない。咲夜とは会わないことが一番だ。足音を立てないために抜き足差し足で廊下を進んだ。
「なんだこの変態は!!!!」
ある部屋の一室に差し掛かると半裸の男が目に写った。咲夜の前に変態にエンカウントしてしまった。
手持ちには防犯ブザーも電気スタンガンも持っていない。か弱き小市民である俺は両手をチョップの形にして臨戦態勢に入った。
「………鏡か」
変態の正体は壁に立て掛けられている姿見だった。自分の姿に驚いてしまったということだ。
改めて鏡に映る姿をまじまじと観察する。鏡の中の自分と見つめ合いになる。そんな目で見つめちゃイヤン。
紅魔館に来る前からボロボロだったズボンがさらにボロボロになっている。筋肉質な身体が余計にそれを際立たせている。さすがにこのままではいけない。
「ちょっと拝借するぜ」
俺の目に黒色の遮光カーテンが止まった。それを外套のように羽織っていく。寒さも防げて変態ポイントも下がっていいことづくめだ。衣服とはこんなにも素晴らしいものだったのか。
カッコをつけて首に巻いたカーテンを翻して歩みを再開させる。目指す場所はこの屋敷の地下室だ。
館の中を迷いながら一室一室の扉を開けていく。そうしていくうちに両開きのドアを見つけ、開閉する音を立てずに顔だけ入れて内部を見渡す。
中から古本の独特な匂いが鼻についてきた。インクと紙が混じり合った懐古に浸らせてしまう香り。
どうやらこの部屋はたくさんの本を保管する書庫のようだ。しかし、館の一室なのか疑うほどの広さであり、書庫と言うより図書館と言った方がしっくりくる。見上げる程の本棚がいくつも立ち並んでいる。
俺はこの部屋に身体を入れて進むことにした。もちろん、ステルス重視の隠密行動でだ。
本棚の迷路を進んでいくと少しばかりひらけたスペースに出た。そこで丸いテーブルに本を積み重ね、高級そうな椅子に腰掛けて読書をしている少女を見つけた。
分厚い本をペラペラとめくる少女は紫色の長い髪をリボンで結んでおり、三日月の装飾をつけたドアキャップに似た帽子を被っていた。髪色を薄めた色のパジャマのような服を身にまとっている。
俺はその少女を見つけると即座に本棚の影に隠れた。ここで騒動を起こせばメイドが飛んでやってきてしまう。
あちらの少女は俺に気がつかなかったのか、反応は返ってこなかった。これ幸いにと俺はここを迂回する別のルートに進路変更した。
この場所は本棚に挟まれた一本道が多い。書庫だから当たり前かもしれないが、部屋の広さがそれをより意識させる。
直近で大きな地震でもあったのか、本棚から本が何冊か抜け落ちている。空いた隙間が虫食いの絵画のように点々と見受けられる。
本の背表紙は日本語とも英語とも書かれていない、まったく知らない言語ばかりだった。それが自分にとっては未知の世界の符号と思えてくる。
知の結晶である本を汚れた素足で踏まないように避けながら歩いて行く。
すると一本道の向こう側から人が来る気配を感じ取った。ちょうど長い本棚の中間あたりに立っており、道を引き返そうにもこの距離では姿を見られてしまう。隠れる場所がどこにもない絶体絶命の危機的状況になってしまった。
慌てて辺りを見回していると本棚の最上段に空いている空間が目に止まった。俺はなるようになれと心の中で叫び、残っている本を横にずらして身体を本棚のそこにねじ込んだ。
ここにある本の大きさは大体三十センチ前後のものがほとんどだ。膝丈に届かない程度だと考えてくれればいい。どうやらこの部屋の本棚は本のサイズにほぼピッタリと合うように設計されているようだ。
俺は本の高さに合わせるために長座体前屈をしている。お腹と太ももをくっつけて足を伸ばし、本と本の間に収まっているすし詰め状態。このピーマンにハンバーグをぎっちぎちに詰めたような状態で向こうから来る気配が通り過ぎるのを待てばいい。
息を殺して迫りくる運命の時に備えた。
近づく気配を見れば、レミリアのによく似た悪魔の羽を頭と背中から生やしている少女だった。赤色の長い髪に黒のベストとロングスカートといった服装である。
彼女は本を数冊両手で抱えており、片付けもとい、司書のような仕事をしているようだ。羽を動かして地からほんの少しだけ浮きながら移動している。もう空想上の生き物に驚きも何も感じなくなっていた。
ばれるかもしれない緊張が心に駆け回る。加えてなんでこんなところで体前屈測定をしなきゃならないのか。息が止まるキツイ体勢を長く維持することはできない。少女が早く通り過ぎるのを願うばかりだった。
汗もにじみ出て苦痛に塗れるこの時間。関節が徐々に限界が近づくが、棚から出たい気持ちを抑える。
それは少女が俺に気づかずに真下を通ろうとした時だった。
限界の来た身体がピクリと勝手に動いてしまったことが足に接していた本を落とすことになってしまった。
「あっ」
「きゃんっ?!」
自由落下した本は少女の頭部へ見事に直撃した。彼女は抱えていた本を宙にぶちまけて派手に横転した。
少しの間が空き、ぶつけた頭をさすりながら涙目で起き上がってきた。
「痛った~!一体何がーーーって、え?」
目が合った。
悪魔風の少女は落ちてきたものを確認するために顔を上げたところ、視界に俺を捉えてしまった。半裸マントの男性が長座体前屈で本棚に詰まっており、目がガン開きで血走っている光景を。
少女の顔はみるみると青ざめていき、恐怖に染まっていく。わなわなと身体が震え出して口を大きく開こうとした。
それが悲鳴という名のサイレンを鳴らす前兆だと瞬時に理解した。男性が女性のこれを喰らってしまえば一発KOのブタ箱送りだ。
しかし、発射がコンマ数秒前となった今では彼女の口を塞ぐことは到底不可能である。
そうだ、大声出して音をかき消すナリ。
「「キャアアアアアアァァァァァァ!!!!!」」
野郎と少女の悲鳴による