朝の食事を終えた後、蒲公英は廊下で咲夜の背中についていきながら紅魔館での従者としての心得を説かれていた。
「いい?お嬢様の従者となったからには何事にもお嬢様を一番に立てるよう取り組みなさい。そして従者たる者、主人のために出来ないことがあってはいけないの。全て完璧にこなすのよ」
どうやら簡単にはいかない職場に来てしまったことは間違いないようだ。全てを完璧にこなせるのは咲夜だからできていることだろと内心で小さく毒をはく蒲公英であった。
「私たちの務めは掃除に洗濯、炊事、必要とあれば妖怪退治もして……あとは入り込んできたネズミの駆除ね」
「ネズミぐらいでそんな………って、ああ。ネズミってそういうことですか」
会話の中で咲夜の言うネズミが動物の方ではなく泥棒の比喩だと理解した。
「
「あなたもそれと似たようなものだったのよ。覚えてないの?」
「そんなこともう忘れたでチュウ」
『奇術“ミスディレクション”』
「ヂュウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ッッッ!!!!」
「次舐めたこと言ったら本気で当てにいくわよ」
「すみませんでした!」
ピカチュウの断末魔のような声を上げた後は見事な土下座を披露した。これでメイド長の怒りが収まるなら安いものである。逆に収まってもらわないと蒲公英にはもうどうしようもない。
咲夜は彼の謝意を汲み取ると振り上げていたナイフをエプロンにしまい込み、いつの間にか持っていた水の入ったバケツとモップを彼に手渡した。
「とりあえずはこの廊下を綺麗にしてみなさい。あなたでもそれぐらいできるわよね?」
「ちょちょいのちょいですよ!」
「私は妖精メイドたちに指示を出すのにちょっとこの場を離れるけど戻ってくるまでにはある程度終わらせときなさいよ」
それだけ言い残すと咲夜は少しの時間でも惜しいかのようにどこかへ姿を消してしまった。
「まったくあのメイド長も人使いが荒いというかなんというか…」
部下だから仕方がないと思う反面、もうちょっと優しくできないかと不満が湧いてしまう。ぶつくさと文句を垂れ流しながらも手に持ったモップで紅く薄暗い廊下の床をゴシゴシと磨いていく。
しかし、紅魔館の廊下は長い。無駄に長いのである。最初にここに来た時は館がこれ程広いことが不可解であったが、今の蒲公英はそこにレミリアの意向が含まれていることだけは推測できた。彼女は見栄にもこだわる性格だ。
だがそれは掃除をする身からするとたまったものじゃない。一区画の汚れを落とし終えても永遠に次の区画が残り続けるのだ。終わりがないのが終わり、まさに掃除をさせ続けるスタンド攻撃を受けているようだった。世界が一巡しても掃除をし続けていると思う。
疲れで少し重くなった腕を休ませて普段の紅魔館はどのようにして掃除をしているのかと考えを巡らした。
「そういえば…」
妖精メイドの姿が頭に浮かんできた。
結論はこうだ。咲夜の時間停止能力と妖精メイドという数の暴力で毎日の家事を押し切っていることになる。思っていたよりもパワープレイだった。
すると蒲公英はグイグイと後ろ裾を引っ張られる感覚を突然覚えて振り返った。
一匹の妖精メイドが自分のことを気付かせるために彼の服を引っ張っていたのである。噂をすれば影が差すというやつに近い光景だ。
彼女は蒲公英と目を合わせると彼の顔に容姿相応の短く僅かなふくらみを感じさせる腕を両手いっぱいに伸ばしてきた。
「だっこ」
まるで赤子が親に抱っこを求めるように妖精メイドからのおねだりがなされた。
その時、彼女の要求に蒲公英の心に葛藤が生まれた。任された仕事を放棄するような真似をして咲夜に怒られないか?と。こういう子どもの我儘には「お仕事中だから終わってからね」などと言って対処してやるのができる大人のやり方というものであろう。
「もぉ~仕方ないな~。咲夜さんには内緒だよ?」
「わかった!」
しかし、心にできた葛藤はものの数秒で無残に切り捨てられた。モップを近くの壁に立てかけて空いた両手で妖精メイドを優しく持ち上げる。そして彼女を胸元に抱き寄せて右腕全体を使って身体を支え、もう一方の腕を背中に添えて落ちないようにした。腕に妖精メイドが座るように収まった形だ。
蒲公英にとって母性本能は何事よりも優先されることのようである。彼は小さい子に甘々なのは自覚しているが、ルーミアやフランの例を見ても子どもにはどうしても「甘やかしたい」と気持ちが先導してしまう。
規則性を持ったリズムで抱き上げた彼女の身体を優しく揺らしていった。
「私は育児じゃなくて掃除を任せたはずだけど?」
「ワ、ワンオペ育児です!」
「言い訳になってないわよ」
何時の間にか蒲公英の背後に咲夜が立っており、彼は心臓が飛び出るような思いでなんとか言葉を絞り出した。神出鬼没にも程がある。
彼女はなぜか笑っているが、額には怒り表しているように血管が浮き出ていることを蒲公英は見落としていない。どことなくその笑顔には影が差し掛かっている。それに感づいてしまったのか彼の腕の中では妖精メイドが小さく震えている。
咲夜の顎を使った無言のサインで蒲公英はおずおずと妖精メイドを床に降ろした。
「パチュリー様があなたをお呼びよ。お説教はその後ね」
「ウッス」
下を俯きながらもしっかりと返事だけは返す。
凍えた空気の中、咲夜は蒲公英から妖精メイドの方に視線を変えて指示を飛ばした。
「あなたは代わりにここの掃除を任せるわ」
「わかりました…」
「悪いけど俺の分まで頑張ってもらえるかな?」
「まかせて!!」
「なんで蒲公英の時だけ返事がいいのよ」
蒲公英は道に迷いかけながらもなんとか図書館にいるパチュリーのもとまで足を運び終えた。紅魔館に慣れるのはまだまだ時間がかかりそうだ。
「お呼びですかパチュリー様?」
「ちょうど準備が終わったところよ。上を脱いでそこに座りなさい」
パチュリーは本が山積みになっているテーブルにスペースを空け、そこにタイプライターのような鍵盤を連ねた道具を用意して彼を待っていた。
突然脱げと言われたので蒲公英は反射的に両手で胸を隠した。
「あなたの能力云々を調べる前にあなたのことを調べなきゃ何もわからないじゃない。変なことしてないで早く脱ぎなさい」
「はーい」
蒲公英は就業前の健康診断のようなものかと勝手に納得した。ボタンを丁寧に外してシャツを脱ぎ、まだ腹の包帯が取れていない上半身をさらけ出してパチュリーの目の前にある丸イスに腰を下ろす。
パチュリーは傷跡によってパッチワークのようにところどころ皮膚が変色している蒲公英の身体を目に映した。
「…随分無茶をしたようね」
彼女が初めて蒲公英に会った時は今みたいに上裸であったが、傷跡のようなものは一切無かったのは記憶している。それだけでフランとの攻防がどれほど激しかったのかを物語っている。
「肉体なんて所詮心を包む殻でしかありませんから俺にはどうってことないですよ」
蒲公英自身はそこまで気にしてない様子だ。本人がその調子なら身体の傷跡のことに触れるのは野暮のように思え、パチュリーはそれ以上言及しなかった。
そして彼女は彼に懐から取り出したヒエログリフのような魔法文字が刻まれている円盤状の布帛を手渡した。
「それを胸に貼りなさい」
蒲公英は言われるがままにその布きれをぺたりと胸に貼っつけた。
するとそこから薄紫色のオーラのようなものが吹き出て彼の身体を包み込む。そしてそれと連動するかのようにテーブルに置かれたタイプライターの魔道具がひとりでに音を立てて動き出し、暗号のような文字を打ち出した。
パチュリーは彫りだされた情報に目を通していくと次第に瞳を大きくして食い入るように読むようになっていった。
「驚いた…あなたの身体のつくりはだいぶ特殊みたいね。人間よりも妖怪に近いと言っていいかも」
どうやらこの魔道具は心電計のように身体を細かく調べることができるものだそうだ。
パチュリーは読み取った情報を羊皮紙の手帳に羽ペンで流れるようにメモを取っていく。彼女にとって蒲公英の身体は完全に未知の領域となっており、知識を求める魔法使いとしては類ない研究対象として大いに興味を惹かれていた。
しばらくたって書くことがひと段落したのか、彼女は手帳とペンをテーブルに寝かせて蒲公英の目前まで歩いた。
「次はもうちょっと奥の方まで調べるわよ」
彼の胸に付着している布帛に直接手のひらを当てて魔力を注ぎ入れた。布帛を中間媒介にして生物の深層に位置する魂のレベルまでに探りを入れていく。パチュリーの魔法は顕微鏡で覗くかのようにそれを可能としていた。
そして身体の芯へ浸透していく彼女の魔力が蒲公英の魂まで到達した時だった。
「これは………どういうこと…?」
パチュリーの瞳には動揺が隠せなかった。
「みんなには秘密にしといてくださいよ?特にフラン様には。これを知ってるのはレミリア様だけですから」
彼の魂はまるで砕け散った跡が残るように亀裂だらけであった。軽い小石でも当たってしまえば粉々になってしまいそうに脆く危うい状態。どうして彼がここに生きてるのか不思議なほどであった。
魂は能力を有するための器の役割をしている。当然、ひび割れたコップに水を注ぐことはできない。このような状態で『否定する程度の能力』という桁外れの力を持って平気でいれるはずがない。
「フランを…恨んでないの?」
こうなっている原因はすぐに察しがついた。蒲公英はすでに人間としてのまともな生を歩めなくなってしまっているのだ。生きることすら困難にされたのなら恨みがあってもおかしくない。
「恨んでたら執事なんかなってませんよ。無敵の蒲公英にここまでの傷を負わせたんです。むしろたくさん褒めてあげたいぐらいですよ」
パチュリーには蒲公英の考えが理解不能であった。手のひらに伝わる彼の心臓の鼓動はリズムを崩さずに血液を送り続けている。これは彼が一切動揺していないことの裏付けとなる。
言動からしても彼が今置かれている状況を理解してないわけではない。一歩踏み間違えれば魂の消滅という冥界にも行けず輪廻から外れてしまう恐ろしい目に合うというのに、ここまで冷静でいられる理由がわからなかった。無数の疑問が彼女の頭を埋め尽くす。
彼の現状と運命を受け入れているような達観した心構えに対して経験によったひらめきを照らし合わせることでパチュリーには確信にも近い仮説が生まれた。
この仮説を立証するべく蒲公英に問う。真か偽かは彼の波打つ心臓の鼓動で判断する。
「答えなさい。あなたは死の淵で何を見てきたの?」