しばらくの間、蒲公英は上の服を着ないまま頭の痛みに悶えながら図書館の床に突っ伏していた。
「パチュリー様、そろそろ蒲公英を借りてもよろしーーー」
倒れている彼をよそに椅子に腰掛けて本を読んでいるパチュリーのもとに部屋の奥から咲夜が歩いてやってきた。彼女は床に落ちている蒲公英の姿が目に入ると喋る言葉を途中で吞み込んでしまう。
咲夜は状況だけで彼がこんな格好をしているのはパチュリーによるものだと瞬時に理解した。
「蒲公英が野生に戻ったらどうするんですか?!」
「心配するのはそこじゃないでしょ」
パチュリーは彼女が蒲公英に特別な感情を抱いていることはとっくに気づいているが、そのせいでおかしな方向に向かおうとしていることが心配になってきた。
「ほら、風邪ひかないうちにはやく服を着なさい」
咲夜は彼の両肩を持って上体を起こしてやる。
「クエッ!!クエッ!!クエーッ!!」
咲夜が即座に容赦ない平手打ちを彼の頬にお見舞いし、スパァンと風船が破裂したような乾いた音が鳴り響いた。
「返事は?」
「りょ、了解です…!」
「よろしい」
手渡されたシャツに蒲公英はプルプルと震えながら袖を通し始めた。その震えは寒さによるものなのか恐怖によるものなのかは誰の目にも明らかであった。
「おやつは用意してあげるからあと少しの間頑張りなさい」
「本当ですか?!」
おやつの言葉を聞いて彼の瞳にはキラキラと輝きが宿った。服を着終えると子犬が尻尾を振るかのように咲夜の傍についていった。
「蒲公英の扱いに慣れるの早くないかしら?」
もう飴と鞭がうまいこと使いこなされており、彼女に任せておけば色々と都合がいいだろうとパチュリーは図書館から去る二人の姿を見ながらそう呟いた。
蒲公英は咲夜に連れてこられるまま、多種多様な花が調和を持って咲き誇る庭園へと着いていた。
「ーーーてことがあって今日だけで何回死にかけたことやら」
「それはそれは、初日からもう大変なようですね」
彼はプラスチック製の象さんジョウロを片手に草木への水やりに美鈴と世間話を交えながら勤しんでいた。この広々とした庭園の管理は美鈴が行っており、蒲公英はそれを手伝っているかたちである。
咲夜は蒲公英に美鈴の庭の手入れを手伝うよう指示を出すとまたどこかへと姿を消してしまった。彼女が一日だけでここまで彼を様々な仕事場へ連れ回しているのは紅魔館に早く慣れさせるための思惑があったためだ。
「いやー、まさか蒲公英さんがお嬢様の執事になったなんてまだ実感が湧いてきませんよ」
「俺もこうやって美鈴さんと仕事できるとは思ってもみなかったです」
最初に会ったときの殺気交じりの雰囲気はどこへ行ったのやら。今の二人の間にはのほほんとした平和な空気が漂っていた。その空気に釣られてか、モンシロチョウがひらひらと辺りを舞っている。ついついあくびが出てしまいそうな程には暖かかった。
ふと蒲公英は気づいたかのように後ろにある門へと視線を向けた。彼の身長の倍以上あるそれを護ることが美鈴の本来の務めなのだ。
もしかしたらこの門を抜け出て森の方へ向かえばルーミアと会うことができるかもしれない。
(だけど今それをやるのは違うよな)
完全になった自分で会いに行くと心に誓ったのだ。欠けている己のまま会いに行くことは蒲公英自身が許さない。だからもうちょっとだけルーミアに待ってもらうことにした。
「その、聞きづらいことを尋ねるのですが蒲公英さんは………あの暗い場所にずっと一人でいたんですか?」
美鈴が恐る恐るといった感じで聞き込んできた。
“暗い場所”と言うだけでそこがどこなのかがわかるぐらいお互いが共通認識を持っていた。そして彼女が彼に向ける視線に宿らせているのは恨みでも怒りでもなく同情の想いであった。
「そうでしたけどレミリア様のおかげで能力は落ち着いてきたのでもう平気ですよ。美鈴さんの方こそ大丈夫でしたか?」
蒲公英は正面の花壇に生える草花から目を離さないまま質問に答えた。美術館の展示物のように咲き並んでいる花たちに目を奪われているようだ。
「あそこは…まるで極寒の山頂で吹雪を浴びているように凄まじいところでした。意識をはっきりと保っていないと自分が無くなってしまうんじゃないかと思うぐらいには」
蒲公英の持つジョウロとは対照的に鉄製のしっかりとしたジョウロで水やりをする美鈴は話を続ける。
「そのことで一つだけ確かめたいことがあるんです。そこに立っていてもらえますか?」
これといった断る理由もないので蒲公英はその要望を快く承諾した。ジョウロを置いて美鈴の方に身体を向けてピンと背筋を伸ばして立った。
すると彼女は注意深く蒲公英の腹を触り始め、肩や腕、脚なども揉んだりもしていく。身体中の筋肉を細かく調べているようだった。武の道を歩む者にとってここら辺の領域には精通しているのであろう。
美鈴は一通りに彼の身体を直接の手触りで調べ終えると最後にほっぺたを揉み始めて「おぉ、ここはモチモチ…」と感嘆の声を漏らしていた。
「ひょほひょほいいへふは?(そろそろいいですか?)」
「あっ、すみません。つい夢中になっちゃって」
美鈴は彼の声がかかるまで心地よい感触に自分だけの世界へトリップしてしまっており、軽い咳払いで気を取り直した。
「やはり蒲公英さんの身体はその若さじゃ考えられないぐらいに堅固なつくりをしていますね」
「そう言われると照れちゃいますよ」
褒められたことに嬉しい気持ちが湧き上がるが、一緒に恥ずかしい気持ちも上がってきて彼女から目を逸らす。
(蒲公英さん、あなたは気づいていないかもしれませんがその肉体はすでに
普通の人間よりも長い時を生きている美鈴ですらここまで研ぎ澄まされた身体は見たことがなかった。人生の全てを自己の鍛錬に捧げたとしても到底同じような身体が手に入るとは思えないほどである。
(だからこそわからないんです。あなたほどの力の持ち主が
彼と拳を交えた時も違和感を覚えていた。
際立っていたのが本人の力量に見合っていないのにどこからか湧く絶対的な自信のもとで攻撃を避けずに受けていたことである。咲夜はその行動を馬鹿の一言で済ましているが、美鈴はそれが身体に染み付いている“戦いの癖”であることは長年の経験で見抜いていた。記憶を失おうとも癖というものは簡単には剝がれ落ちないはずだ。
しかし、それはあまりにも実力と精神が不釣り合いすぎているのだ。
(
考えれば考えるほど彼の過去について謎が深まるばかりであった。
「何か気になったところでもありましたか?」
「いえ、特には。ただお腹の傷が治ったらぜひお手合わせをお願いしたいなと思っただけですよ」
「ありゃりゃ、やっぱり美鈴さんにはバレてましたか」
咲夜といい、隠しごとがなぜか見透かされてしまっている蒲公英だった。
蒲公英は美鈴と並んで水やりをしながら庭園の花々に興味津々といった様子で、指を指して一つ一つの種類を聞いていた。その中で彼女に「たんぽぽの花はないんですか?」と尋ねるが「ないです」とはっきりと答えられ、がっくりと表情がしおれてしまっていた。
「ふふふ、蒲公英さんって咲夜さんとあまり年は変わらないはずなのにどこか子どもみたいですよね」
蒲公英の一喜一憂に起伏する感情や好奇心に引っ張られている姿を見て美鈴は感じたことを素直に伝えた。
「む、美鈴さんもパチュリー様と同じようなこと言うんですね」
子ども扱いされることに不服を申し立てるように少しばかり頬を膨らませる。
「くらえっ」
「あっ、ちょっ!冷たッ!!」
手にあるジョウロの鼻先を美鈴の足元に向けて放水し、彼女の靴を濡らした。
「やりましたね…。では私も容赦しませんよ!」
「びゃッ!頭からッ?!」
今度は美鈴がお返しとばかりにジョウロのシャワーを彼に頭から浴びせた。蒲公英は一人だけ雨でも降られたようにぼたぼたと身体中から水滴を垂らしている。
「そっちがその気なら俺にも考えがあります!」
そう言うとその場から走って立ち去っていったが、ものの数分もしないうちに水を限界まで入れたバケツを持って戻ってきた。そして無駄に高い身体能力をフルに活かして水バケツを前方倒立回転しながら美鈴にぶちまける。
彼女はそれを避けきれず、蒲公英と同じようにびしょ濡れの格好になってしまった。
「これは負けっぱなしじゃいられませんね!」
水を浴びてスイッチでも入ってしまったのか、彼女の瞳にはメラメラと対抗の炎が宿った。
「ーーーで、あなたたちは仕事ほっぽり出して水遊びしてたのね」
「「はい…」」
水で水を洗う仁義なき戦いは咲夜の登場によって終止符が打たれた。バケツを掲げる二人は手を止めて彼女が身にまとう怒りのオーラの前では並んで正座をする他なかった。
そして手にナイフが持ち添えられて説教が始まる数秒前というところで美鈴が必死の表情で片手をピンと高く上げた。
「ま、待って下さい咲夜さん!言い訳をさせて下さい!」
「言い訳もなにも二人ともびしょ濡れじゃない。訳があったとしても同罪よ」
正座する彼らの服は多量に水を吸ってしまっており、そっと頬を撫でるようなやさしい風でも寒さを感じてぶるぶると震えている。だがこの震えは寒さのせいだけじゃないはずだ。
「ちょっと目を離したらこれなんだかーーー」
「隙ありぃーッ!!!」
蒲公英は突然立ち上がると足元にあった水入りバケツを掴んで咲夜に向かって中身を思いっきりまき散らした。
咲夜は降りかかる水を避けずにそのまま浴びてしまう。
「濡れてたら同罪?じゃあずぶ濡れの咲夜さんも一緒じゃないっすか!」
「ナイスです蒲公英さん!」
イエーイと二人は固まっている咲夜をよそに息の合ったハイタッチを決めた。崖っぷちに立たされた彼らによる苦し紛れの抵抗であった。
「あなたたち………私がどんな力が使えるのか忘れていない?」
「「あ…」」
咲夜は時間を操ることができるのをすっかり放念していたようである。彼女が能力で服の時間を進めるとあっという間にそれは天日干しの後かのように乾いていく。
こうなってしまった以上は蒲公英の泥水から掬い出したような頓知も儚く散ってしまった。むしろ咲夜という火山の噴火口にガソリン缶を放り投げてしまったことになった。
「違うんです。美鈴さんにやれって言われたんです」
「ちょッ?!?!」
まさかの裏切りに丸くした目を蒲公英に向けた。自分だけ助かろうと売ってきたのだから当然である。
「蒲公英さんです!蒲公英さんが勝手にやったんです!」
「俺が咲夜さんにそんなことしようとする訳がーーー」
「少しは静かにできないの?」
そのナイフのように鋭く冷たい声音で二人は急いで口を閉じて正座に座りなおした。
「この際どっちでもいいわ。今の私はちょっと手加減ができそうにないから」
ナイフを両手に持ってじりじりと近づいてくるメイド長に彼らは震えて恐怖に待つことしかできなかったのであった。