蒲公英が紅魔館の執事として働くこと数日の時が流れた。彼は咲夜のようにテキパキと仕事は片づけられず、寄り道をしてしまって彼女の雷が落ちることが当たり前になっていた。なのにご飯だけは一丁前に要求してくる。まるで穀潰執事の名を欲しいままにしていたようである。本人はいたって真面目なのだが。
ポジティブに言えば将来性のある彼でも少しずつだが咲夜の後を追うように仕事に慣れていた。
「どうですか俺の淹れた紅茶は?」
カップを傾けて紅茶を一口喉に流し終えたレミリアに自信ありげに尋ねた。
「最初の頃と比べてだいぶ良くなったじゃない」
その言葉が聞けて蒲公英はガッツポーズの代わりにティーポットを高く掲げた。
今は午後の優雅なひととき。アフタヌーンティーの時間帯であった。咲夜監修のもとに蒲公英はレミリアとフランに紅茶を振舞っていた。
「まだマシになったレベルよ。点数で言うと六十点てところかしら」
「六十点満点中?」
「百点満点中よ。なんでそんな中途半端な数字になるのよ」
レミリアの辛口採点に口を尖らせて不満を示す。
「蒲公英の紅茶はふんわりとした優しい味で私は好きだよ」
「フラン様~」
いつも自分の味方をしてくれることに抱きしめたくなる気持ちが湧いてしまう。
「でも、その………ね?」
「深みがないって言いたいんでしょ」
レミリアのその評価の言葉にフランはコクリと頷いた。普段から一級品と呼んでもいいような咲夜の紅茶を飲んでいるがために足りないものに舌が気づいてしまう。
「咲夜さんの紅茶と同じ種類のものを使ってますけど?」
「そこなのよね…」
咲夜は蒲公英の紅茶を一口飲み終えると首を傾げていた。
自分の教えた通りに淹れ方もお湯の温度もまったく同じに淹れているのにここまで味に違いが出ていることが不思議でしょうがなかった。蒲公英の淹れた紅茶は誰でも飲めるような口触りの良い風味であった。だがそれだけであるのだ。最初にやって来る香りと味わいで彼の紅茶は完結している。口に残る余韻が一切感じられないのがレミリアがないと言う“深み”の部分であるだろう。
彼女たちは紅茶の味を決める最後の一手が欠けていると思わずにはいられなかった。
「………そこにいるのはとっくに気づいてるわ。いい加減に姿を現したらどう?」
レミリアが突然何もない空間を睨めつけて冷たい声を発した。その目は蒲公英やフランに向ける暖かい眼差しではなく、怨敵と相対するように射抜く眼差しであった。蒲公英はレミリアのその理解不能な行動に「ついにイッたか…」と呟いて憐みの視線を送っている。
「やはり吸血鬼の女王さまの目は誤魔化せませんか」
レミリアが目を向けた場所に突如として空間を裂くように一本線が走り、そこから無数の目がこちらを覗かせるスキマが開いた。その不気味な穴から金色の髪をした道士服の美女が頭から足へと全身をゆっくり現してきた。
そのまま緩やかな足取りでレミリアの対面側にあった空席に腰を下ろした。
「うちに招いた覚えはないわよ。八雲紫」
「妖怪というのは常に神出鬼没。それはあなたもお分かりのことでしょう?」
“八雲紫”と呼ばれた女性はどこからか取り出した扇子を開いて口元を隠し、目だけを見せた笑みをレミリアへ向けた。ここにいる誰もがその笑みの瞳の向こう側は一切笑っていないことに気づいてしまうほどには据わった眼光であった。
「蒲公英、私の後ろにいなさい。あいつの狙いはあなたよ」
レミリアは視線を紫から離さずに蒲公英に自らの後ろに立つよう命令した。目を彼女から逸らせないままに言葉を下したのはレミリアの警戒が高いことの表れだろう。
「………」
しかし蒲公英からの返事は返ってこなかった。彼は瞳の焦点が合わずにボーっと天井を見上げていた。
返事の代わりに彼の身体からは人が発するとは思えないような電子音が漏れ出てくる。その無機質な音はエラーを伝達させるようなけたたましさがあった。
蒲公英の異常にレミリアは警戒よりも心配が勝り、顔を振り向くと明らかに普段の状態ではない彼が目に写った。
「お前!蒲公英に何をした!」
椅子から立ち上がってテーブル上のものを散らしながら片足を勢いよく乗せ、グングニルの矛先を紫に向ける。フランも姉に続いて牙を剝いて今にも飛び掛かりそうな姿勢であった。
「いえ………、私は何もしておりませんわ」
怒りを向けられた紫も何が起こっているのかわからずに困惑した表情を返す。レミリアの記憶では彼女は常に飄々とした話し方をしており、今のように言葉が止まるようなことは珍しい。様子からして本当に何もしてないようだ。
「レミリア様、フラン様。俺は本当に何もされてませんよ」
蒲公英は何事もなかった様子でレミリアの傍まで歩み寄ってグングニルに指先を置いた。すると深紅に輝く槍は夜闇の色の粒子となって霧散する。いつものようにどこか間が抜けた声で彼は姉妹の主人を椅子に座らせて落ち着かせていく。
その光景を見た紫の眼はまるで確証を得たかのように細くなっていた。
「今ので確信しました。………お久しぶり、“漂泊者”さん。それとも
「人違いじゃないですか?俺は執事の華月蒲公英です」
蒲公英の目を見てはっきりと“漂泊者”と紫の口から言表された。
それを聞いたレミリアと咲夜の眼はただでさえ警戒の色に染まっていたのに更に鋭くなった。
「面識があるのかどうか知らないけど、うちの子に用があるならまず私に話を通すのが筋ってものじゃない?」
「そうだそうだー」
「あなたは静かにしてなさい」
外野から野次を飛ばす蒲公英にレミリアはしっかりと釘を刺しておく。こいつは渦中の人物であるという自覚が足りていない。
「挨拶ならもう済んだでしょ?早く帰りなさいよ」
「いえいえお構いなく。私は一期一会の出会いを大切にする性分でして」
レミリアは紫をこれ以上この場にとどまらせておくわけにはいかないと追い立てるように言葉を使うが、彼女はそれをのらりくらりと言葉で躱していく。
フランは咲夜の服の裾を引っ張り、姉たちの会話を邪魔しない程度の声量で疑問を尋ねた。
「咲夜、漂泊者ってどういうこと?」
「蒲公英が
「それならば私がご説明しましょう」
「あっ、ちょっと!私との話がまだよ!」
レミリアと話していたはずの紫は彼女を置いてスキマに頭を通し、妹とその従者の会話に物理的に頭を出して割り込んできた。
フランが求めるような目を向けたことで紫は身体を元の状態に戻して一瞬だけレミリアに対して勝ち誇ったような笑みを送った後、スキマからティーカップを取り出して正面に置いた。
まるでこれから語り物でもするかのようにコホンと声を整えてから口を開いた。
「これは今より妖怪の全盛と呼ばれる数百年前、ある所の農村に暮らしていた少女のお話です。その少女は大きな怪我もなく元気に育ちますがある齢を境に突然変化が起こってしまいます」
紫は開いた扇子の扇面で顔を隠した。
「顔が無くなってしまったのです。まるで流し落とせない墨で塗りつぶしたかのように。変化はそれだけではありませんでした。人外とも対等に競える力も手に入れていたのでした。当時跋扈していた妖怪たちを黒い霧を纏って積極的に狩るようになったのです。そしてその変化の中で彼女は自らをこう称したのです………“漂泊者”と」
その少女の力が“否定する程度の能力”だと蒲公英は第六感的なシンパシーを感じて気づいていた。
「厄介なのはここから。なんと少女には存在を消し去る力が備わっていたのです。生きていることも生きていた証すらも忘れさせてしまう能力。それを危険視した妖怪たちは彼女を亡き者にしようと長い長い戦いを繰り広げました。そしてその末に手を組んだ
めでたしめでたし、と昔話を聞かせる語り口調で紫の話は終わった。
「随分そいつについて詳しいじゃない。ファンか何かかしら?」
「何もその彼女に引導を渡したのが私ですから」
まさかの執行人宣言に蒲公英は数歩後ずさった。
(間違いない…。この女、俺の命を取りに来やがった…!)
紫の言っていることに噓はないと断言できる。そう言えるのは胸のうちで聞いたことのある声がずっと彼に警報を鳴らし続けているからだ。『今の君では勝ち目がない。すぐに逃げなさい』と耳鳴りのように身体中に響いていた。
道を歩けば誰もが振り向きそうな美貌に得体の知れない恐ろしさを秘めた紫を蒲公英はまるで蛇のような女だと思わずにはいれなかった。
「お言葉ですがあなたの話す漂泊者が蒲公英と同一人物だと言うのはただの言いがかりに過ぎません。それに存在を消すだなんてそのような大層なことをふてぶてしさだけが取り柄の蒲公英にできるわけないじゃないですか」
「咲夜さん、それ普通にちくちく言葉です」
咲夜は手遅れかもしれないが蒲公英がそう名乗っていたことを伏せつつ、彼がそうではないと庇うように援護射撃をするがただ背中を思いっきり撃ってるだけであった。
「それならばご本人様に直接聞いた方が早いでしょう」
「だからその本人がいないってさっきからーーー」
「そこで隠れて見てないで出てきたらどう?」
ピシャリと閉じた扇子の先を蒲公英に向けると彼の頭はまるで銃弾でも撃たれたかのように突然のけぞった。
「………そのせっかちな性格は相変わらずのようですね」
「あなたこそ人の子を隠れ蓑にする陰険な性格は変わってないじゃない」
文章を読み上げるだけの感情のない声が蒲公英の口から発せられる。そして機械的な動作で徐々に頭を元の体勢へ戻していく。彼の変化にレミリアたちは戸惑いを隠せず、声をかけることすら頭から抜け落ちてしまった。
向かい合う紫の瞳と交差する蒲公英の瞳の色はラピスラズリのような瑠璃色から淡くきらめく翡翠色へと変化していた。