ふと暗い自室のベッドで目が覚めた。暗いと言っても分厚いカーテンで閉め切っているだけの部屋なので隙間から漏れ出ている日差しは外でお天道様が顔を覗かせていることを教えてくれていた。
耳を澄ますとすぐ隣からスヤスヤと小さな寝息が聞こえてくる。目をそちらに向けるとフランが幸せそうな寝顔を披露していた。そして布団の上には開きっぱなしの絵本が置いてある。
思い出した。
昨日の夜、一緒に寝る約束をしたフランは蒲公英の部屋で寝たいと言い出し、夜遅くまで同じベッドの上で本の読み聞かせをしていた。状況から察するにどうやら二人とも途中で眠り落ちてしまったようだ。自分なんて着替えも済んでおらず、執事服のまま寝てしまっていた。
仕事着にだらしない皺が入っていたら上司になんて言われるのやら。だがすでにやってしまったものは仕方がないときっぱり諦めることにした。
吸血鬼が起きるにはまだ早い時間帯だ。寝入っている彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
すると立ち上がる時に違和感を覚えた。それはコンマ単位での違和感であったが、いつも使っている自分の身体だからこそすぐに気づいた。
(もうガタが来たのか)
脳の信号が指先に届くまでいつもより若干のタイムラグがあった。胸の奥の方でギシギシと何かが軋む音がする。魂と肉体の不和。こうなる日が来ることはわかっていた。
(
実際にこうなると寂しさが勝ってしまって自分の心を埋め尽くしてしまう。わがままを言ってしまえばずっとこの生活が続いて欲しかった。
魂が崩壊すれば自分はこの後どうなってしまうのだろうか。今度こそ完全な消滅を迎えてしまうのか、それとも記憶を失ってどこかへ流れ着いてしまうのかわからない。運良く生きていればまたゼロの状態から旅に出よう。次こそはちゃんと服を着て。
残された時間は忠誠に身を尽くすことは決めていた。少ない時間であるが最後まで貫き通すことで自分は“完璧”を手に入れることを信じてやまなかった。
(とりあえず気分転換に水でも飲むか)
この鬱屈した心持ちを晴らすために喉を潤わせて落ち着かせようとした。一息ついたらまた寝よう。今はそれが一番良いと考え、キッチンへ足を向かわせるために部屋のドアノブに手をかけた。
「………ほお、面白いアプローチじゃないか」
扉の向こう側の異和感を感じ取り、すぐにドアを開けず手をかけたままに立ち止まる。だが蒲公英はこの異和感の正体を知っていたため、大した驚きはなかった。
「いいぜ、あんたとはいずれケリをつけなきゃいけないと思ってたんだ」
挑戦的な笑みを見ているはずであろう“境界の妖怪”へ送ると手をかけている扉をガチャリと開いた。
そこにはいつもの紅い廊下ではなく、海のように果てしない緑の草原の景色が広がっていた。自然に吹き渡る風からもそれは本物だと確信させる。
蒲公英はそんな非日常の光景に少しも臆することなく足を踏み入れる。そしてフランを起こさないよう音を立てずに閉めた扉は初めからそこになかったように消えていた。どうやらもう後には退けないようだ。
「おや、やっと来たかい。待ちくたびれてこのまま寝ちまいそうだったよ」
平野に立つ蒲公英のすぐ正面にある岩肌には幼女と言っても差し支えがないほどの背丈の少女が寝そべっており、彼を見つけると傍に置いていた瓢箪を手に取ってむくりと起き上がった。
まず目に入ったのはその特徴的な頭から生えている二本の角だ。そして腰と手首には鎖をぶら下げており、先に球体や立方体、三角の形をした分銅を吊るしている。
「お前が八雲紫からの刺客か?」
「そんなんじゃないよ。
蒲公英の推論にその少女はカッカッと笑った。先ほどまで瓢箪の酒を飲んでいたのだろうか、頬を赤くして身体をフラフラと揺らしている。
しかし、彼を見据える瞳だけは決して揺らいではいなかった。
「私ゃ“伊吹萃香”っていう鬼だよ」
「自己紹介どうも。俺はーーー」
「言わなくて結構。あんたのことは知ってるよ。なんたってずっと見てきたんだから」
伊吹萃香と名乗ったその少女の言葉に蒲公英は首をかしげた。見てきたと言ったが今までずっと紅魔館にいたため、彼女が中に入れば誰かしら気付くはずだ。まさか望遠鏡のようなもので外から覗いていたのか。それとも彼女も“程度の能力”の持ち主であるのか。
しかし、蒲公英にとってそんなことはどうでもよかった。
「鬼の萃香さんが俺になんのようだ?節分の時期にはまだちょっと早い気がするが」
「あっはっは!私を前にしてよく言うねえ!恐れを知らないのかそれとも馬鹿なのか」
萃香は蒲公英の小生意気な態度を笑って流すと瓢箪を口にかざし、ごくりと喉を鳴らした。
「ぷはっ………、回りくどいのは苦手でね、単刀直入に聞くよ」
「?」
彼女の目が細くなり、さっきまでの雰囲気とは一変して空気が凍りつくかのように冷たくなった。この先から冗談は許されないといったようだ。
「どうしてさっさと“漂泊者”に戻らないんだ?執事なんて似合わない真似してるから魂がボロボロになってるんだよ。それに気づいていないわけじゃないだろ?」
一方、紅魔館の図書館は緊迫した空気に包まれていた。
「急いでレミィを呼んできて!」
「は、はい!」
パチュリーは蒲公英にかけていた感知魔法が突然途絶えたのを不思議に思って水晶で彼の現在を映し出した。科学にも劣っていないその投影技術は青空の下に放り出された彼と対面する伊吹萃香を描写していた。
只事じゃないことを一瞬で悟り、そばにいた小悪魔へ切羽詰まった様子でレミリアを呼んでくるよう指示を出した。が、咲夜の耳にその言葉が届いており、先回りしてきたように時間を止めた世界でレミリアを連れて来た。
「パチェ、一体どうしたの?そんなに慌てるなんてあなたらしくないわよ」
「すみませんが私もまだ状況を把握していないものでして…」
咲夜もレミリアをとりあえず連れて来たといった状態であった。両者ともにパチュリーがなぜそこまで焦っているのか理解出来なかった。
しかし、その原因はすぐに把握することができた。テーブル中央に置いた水晶から二つの声が辺りへ響き渡ったためだ。一つはいつも聞いている声。もう一つは聞き知っている声だった。
『ほらどうした!あんたの力はその程度じゃないはずだ!』
『ガアッ!!!』
魔力を纏った水晶は映写機のような働きで、足を掴まれて何度も大地へ叩きつけられている蒲公英の姿を映し出した。
腕は折れ、頭から血を流しているその様子はなんともショッキングなものであった。それをしているのは身長に不釣り合いなほど伸びた角の少女。それだけでレミリアたちは何者なのか理解した。
伊吹萃香。この幻想郷において異変を起こした張本人の一人。それは彼女の『密と疎を操る程度の能力』で宴会を短期間に開かせるというはた迷惑な騒動であった。だがその実、彼女は戦闘種族の鬼である。性格は鬼の例に漏れず勝負好きだが、獰猛で残忍凶悪。赤子であろうと容赦はしない。
なぜかその危険な彼女が蒲公英に怒りでもぶつけるかのように暴力を振りかざしているのだ。加えて彼も紅魔館から遠く離れた草原にいる理由もわからなかった。
「助けにいきましょう!」
咲夜は考えるよりも先に自分でもびっくりするぐらいに声を張った。幻想郷の地理は大体頭にインプットされているため、そこがどこなのかは目星が付いていた。
今すぐにでも飛び出そうとする彼女をレミリアは手を握って静止させた。
「待ちなさい咲夜。今行ってはダメよ」
「な、なぜですか?!」
まさか見捨てるとでも言うのか。レミリアの指示ならばいつも従順な彼女でもそればかりは素直に聞き入れることは出来なかった。何か考えがあるのだろうか、自分には皆目見当がつかない。
そうこうしている間にも蒲公英は血反吐を散らしながら萃香の圧倒的な力を身をもって受けている。それが咲夜の心を焦りで溢れさせていく。
『ほらよ!』
萃香が叩き飽きたのか掴んだ彼の足を遠くへ放り投げると咲夜の疑問はすぐ解消されることになった。
蒲公英は生身で人間がされていいような速度じゃない速さで投げられると、ある程度のところで急に鈍い音を響かせて地面に垂直落下した。
『ふがぁッ!!』
その物理法則を無視した挙動に彼自身も驚いており、ぶつけた鼻を抑えながら手探りで当たったものを何も無い空間で調べ始めた。
そこには見えないが確かに透明な壁のようなものがあった。力で押すとまったく同じ力が手に返ってくる。
『結界ってやつか!』
内と外を隔てる境界線。蒲公英も話に聞いていただけで実際に見るのは初めてだった。目を凝らすと見えるその透明な壁はこの草原でドーム状のように彼と萃香を広く囲っている。まるで勝者が決まるまで出ることができないコロッセオ闘技場のようだった。
蒲公英は痛みに堪えながらも結界の曲線に沿うように視線を見上げた。するとそこには二つの人影がこちらを見下ろすように外側の頂点に浮遊していた。水晶の画面も彼の視線を追うように二人の人影を映し出した。
「どうして霊夢が………?!」
咲夜はその映像に驚きを隠せなかった。
なぜならば人影の一つは紅白色の巫女装束を身にまとった少女、“博麗霊夢”のものであったからだ。彼女が動くときは大抵異変が起きた時だ。しかし、蒲公英は何も幻想郷に影響を及ぼす異変らしい異変は起こしておらず、加えて結界で柵のように囲って逃がさないようして見ているだけというやり方も霊夢らしくなかった。
だが、その疑問に対しての回答のような人物が彼女の隣に立つ影であった。長袖ロングスカートに青い前掛けを被せた道士服を身にまとっており、被った帽子からは二本の尖った獣の耳のような形が突出していた。そして腰から見せる九つの狐の尾が人ではないことを明瞭にしている。
「“八雲藍”………!」
パチュリーが答え合わせのようにそう呟いた。
彼女の“八雲”という姓は八雲紫から授かったものであるからして共通なのだ。九尾の狐という強力な妖怪として名高いが、幻想郷においては紫の式神としても名が知られている。八雲紫の右腕的存在として彼女の行動の裏には主人絶対の思想が常にある。
博麗霊夢と八雲藍という幻想郷では重要人物に数えられる二人が並ぶだけで背後に何者がついているのかがすぐわかってしまう。
「これはどういうつもりだ八雲紫…!返答次第じゃただで済まさないわよ…!」
怒りを露わにしたレミリアは殺気をそこにいるであろう者へ向けるとぱっくりと空間にスキマが生まれ、紫が何食わぬ顔で姿を現してきた。咲夜も彼女を目に写すと怒りが抑えきれず、ナイフを持って飛び出しそうになるのを必死に我慢した。パチュリーと小悪魔も咲夜と同じ気持ちであった。
「あらあら怖い怖い。今すぐにでも帰ってしまいたいぐらいに」
「御託はいい!さっさと答えろ!!」
およよと扇子で口元を隠しながら披露した泣き真似はレミリアの怒りのツボを余計に刺激した。
しかし、紫は真似事を止めるとレミリアの怒気に負けないぐらいに、いや押し返すほどに怒りの感情を込めて睨みつけた。その威圧による空気の変わりようにレミリア以外の紅魔館の面々は少したじろいてしまう。
「どういうつもりはこっちの台詞よ。彼の危険性はあなたも分かってるはず。遊び半分で生かしていいものじゃないの。実害が出てからじゃ遅いのよ」
「私に黙ってやるやり方があるか!」
紫の口調が先日唐突にやってきた時と比べて荒っぽくなっている。それは余裕がなくなってきたせいで皮が剥がれ落ちてきているのかもしれない。
「言えば反対したでしょうね。あなたたち姉妹の我儘で愛しいこの地を危険に晒すなんてあってはならないことよ。それにーーー」
「これは彼が
蒲公英は結界を張っている二人組を突き止めるが、何者なのかはすぐに頭に浮かんでこなかった。誰かの恨みを買うようなことは行っていないために顔を見ても謎まみれだった。しかし、お祓い棒を担いだ巫女服でレミリアとの会話を思い出してピンときた。
「博麗の巫女か!」
考えを照らし合わせるように声を上げた。
話に聞いていたあの巫女ならば目的は異変解決であろう。つまるところ不穏分子の排除だ。この場から自分を逃がしたくないのは理解できるが、どうして萃香に任せて上空から見ているだけなのかは腑に落ちなかった。
「おいおい、よそ見とはいい度胸じゃないか」
飛ばされた蒲公英の後を追いかけるようにすぐ目の前で霧が凝集していくと萃香の姿を形成していった。
「つい力が入りすぎちまったよ。さてと、元の所に戻ろうか」
萃香は蒲公英の頭を掴んで地に叩き付けると、その状態のまま先程までいた場所を目指して彼の足が反り上がるほどのスピードで走り出した。彼の顔は地面に擦り続けられながらのため、摩擦や石の凹凸で表面の肉はとっくに裂けていた。
「あまり俺を舐めるなよ小娘が!!」
蒲公英は引きずられながらも萃香の手を払いのけ、逆に彼女の首を掴んで締め上げた。半分削り落ちてしまった顔面だが瞳の色はまだ輝いている。
そして能力を発動して皮膚のなくなった側の顔と首を掴んでいる萃香へ伝っていくよう黒色の霧を放出した。
「消えない程度に消してやるよ!お家に帰ってママにでも泣きつくんだな!」
しかし、萃香は何一つ焦った表情を見せず、それどころかやって見せろと挑発的な笑みを浮かべた。
驚くことに蒲公英の出した霧はシュルシュルと萃香の服の胸元に入っている何かに吸われていく。そのせいか彼女は能力の影響を一切受けておらず、欠伸でもだしてしまいそうだった。
「嘘ぉん」
「紫のやつがどうしても持っておけってうるさかったんだよ。まさか本当に効果があるとはねえ」
萃香は首を絞め上げられているのにどうってことない様子で服の中からガサゴソと人の形をした紙切れを取り出した。それは神社でもよく見られる形代であった。これが否定の能力を身代わりに受ける役目をしていたようだ。
考えてみればそれは当然のことである。種族としての天敵相手に対応策もなしに突っかかってくるはずもないのだから。
「ふん!」
「ぶべあッ!!」
萃香は振り上げた拳骨を蒲公英の頭に叩き込んで、再度地面に埋め込ませた。そしてうつ伏せになっている彼の前髪を掴み上げて無理矢理顔の前に持ってくる。蒲公英にはもう抵抗する力が残っておらず、頼みの綱の能力も効かずにされるがままであった。
「私はあんたみたいな噓つき野郎は大っ嫌いでね、もっと痛めつけてやりたいぐらいだよ」
「お、前に噓なんか、言ったか…?」
腹から汲み上がる血が口に残留して呼吸がままならず、言葉が途切れ途切れになってしまっている。
「それならもう重症だな。自分の心を噓で塗り固めているのに本人がまったく気づいていないようじゃ」
「俺は心に、噓はつかない…。ついていたとしても、お前に俺が分かるのか…?」
「ああ、分かるさ。私たちは同じなんだから」
萃香の瞳に宿る感情と声音に籠る想いが変化した。
それは仲間を見つけた嬉しさなのか、苦悩を分かち合う同情によるものなのか。先ほどまでの怒りとは打って変わった。
「血に生きて争い合うことでしか己を証明することが出来ないがらんどう。私たちは同じ穴のムジナさ」
まるでもう一人の自分を見ているかのように不思議な気分であった。