翼をはためかせることによって空を手に入れた今はとても良い気分だった。人間だった時の限界が吸血鬼となった今なら何でも成せそうだ。でんぐり返しだけで目を回さずに日本横断すら十二分に出来る気がする。吸血鬼の身体はそれぐらいに力が溢れて無限の可能性を思わせてくれていた。石仮面を被ったディオも同じような気持ちだったはずであろう。
「馬鹿だよな…。曖昧な存在の定義に縋ってまわりのことがなんにも見えなくなってた」
誰にでもない少し前までの自分へ向けた皮肉を込めた呆れだった。
存在の証明なんて必要なかったのかもしれない。本当の自分が何者だなんて誰にも解けない永遠の問いなのだ。『我思う、故に我あり』の言葉が示す通りに思う心がある限り自分がここに生きていることだけは確実なのだから。
「俺を見ろ萃香!俺はここにいる………ここに生きているぞ!」
みなぎる力に人だったときよりの生きていることへの実感に喜びが感情の蓋から溢れ出ている。
執事だった時の主人はこのような景色を見ていたと思うとより一層彼女への尊敬の念は強くなった。
「そんな御託はいいからさっさと始めようじゃないか!」
「もうちょっと余韻に浸らせてよぉ」
後先考えない刹那的快楽主義者は待ちきれない子どものように急かしてくる。しかしその気持ちは自分も同じであった。新しく手に入れたこの力を試してみたくて心がうずうずしている。
蒲公英は上空から流星の如く萃香へ急速落下して手刀を振り下ろし、彼女はそれに打ち上げた拳で応じ返す。二人の力と力の衝突は大地を捲りあげる程の衝撃波を生み出し、中心にいる彼らを数歩後ろへ引き下げた。
「我が群体は百鬼夜行、鬼の萃まる所に人間も妖怪も居れる物か!」
「夢想、空想、理想、幻想、何千年と歩み続けた人間の軌跡。想像の果てへ及ばぬことを知れ!」
「「いざ、尋常に!!」」
「え?え?蒲公英さんが吸血鬼になっちゃいましたよ?!」
小悪魔は水晶に映し出される蒲公英の姿に脳の処理が追い付かずに何度も驚きの声をあげていた。彼女と同様にその変化に図書館にいる面々はみな驚きで固まってしまっている。彼は見た目だけの変化ではなく先程までの萃香との力の差を埋めるかのように更なる力を身にまとっていた。人間である蒲公英がそれを突然自らの意思で手に入れているのは不可解なことだらけであった。
しかし、このなかで唯一レミリアだけは彼の身に何が起こったのかすぐに理解した。
「あの子ったら…自分を大切にしてって言ったばかりなのに………ほんとうにお馬鹿さんなんだから」
言葉とは裏腹に彼女の瞳は健気な子を慈しむような愛おしさと自分を信じて選んでくれた嬉しさでいっぱいだった。感情に揺さぶられて涙の滴が零れそうになるが、口元を隠してなんとか気丈に振舞おうとしていた。
そして彼女の様子を見たパチュリーもそれがきっかけとなって蒲公英の変化に理解が及んだ。
「まさか………噓でしょ!?可能であったとしてもそれを実行するなんてどうかしてるわ…」
パチュリーは理解してもなお信じられない光景に驚きを通り越して呆気に取られていた。
二人だけが蒲公英の変化を解していることに気付いたフランはせがむようにパチュリーの服の裾をグイグイと引っ張っる。姉は今にも泣きだしそうで聞ける雰囲気ではなかった。
「ねえパチェ、蒲公英はどうして突然吸血鬼になれたの?もしかしてお姉さまが何かしたの?」
「レミィは何もしてないわ。これは蒲公英の力よ」
「?」
それだけ言われてもフランには理解できるものではなかった。もう少し詳しく聞こうとするが、焦りから動揺を隠せていない声に意識をそちらへ向けた。
「ありえないわ………存在を自在に変えることなんて出来る訳がない…それも人間に…」
「八雲紫、あなたは蒲公英のことを調べてきたようだけど肝心なことを一つ抜け落としていたみたいね。妖怪の賢者と呼ばれるあなたほどの者が」
紫は目の前に広がる事実に能が理解することを拒んでおり、完全にさっきまでの余裕を失っていた。そんな彼女にレミリアは赤くした鼻を誇らしげに高くし、まるで我が子を自慢するかのように彼について語りだした。
「なにもあの子が持つ能力は“否定の能力”だけじゃないの。あの力は紫陽花の力、言ってみれば外部から付け足された力よ」
ここまで言えば周りも自ずと察していく。外付けされたのが紫陽花の能力ならば、本体である蒲公英自身
「蒲公英はね、限定的だけれど自他関係なく心の領域に足を踏み入れることが出来るのよ。本人に聞いてもこれは想いの力だって言うから私はその力をこう名付けてあげたの。“想いを辿る程度の能力”だとね」
つまりはその“想いを辿る程度の能力”が蒲公英の持つ本来の能力であるということだ。本人にはあまり自覚がなく、パチュリーとレミリアの下の身体調査でつい最近判明したことであったが。
もう一つの能力の存在。紫は蒲公英のことをただの否定の能力の器としか見ておらず、彼自身の力を見誤っていたことに気づいたとしてももう遅かった。彼女に向けた「私ばかりを見るべきでない」という紫陽花の忠告が現実になってしまった形だった。
「す、すみませんがその能力でどうやって蒲公英さんが変身できたのか私にはわからないんですけど…」
美鈴は失礼を承知でおずおずと会話に入って疑問を尋ねた。
それもそのはずだ。レミリアの言うその能力で吸血鬼になるなんて脈絡が無に等しく理解するのは困難であった。
「“想いを辿る程度の能力”。そのせいかあの子には心と体の区分が存在しないのよ。つまりは心の変化がそのまま体に現れるの」
「えっとそういうことは…?」
「
「「「「思い込みで!!??」」」」
これには流石に蒲公英の事情を知らなかった紅魔館の少女たちは驚くばかりであった。
この変身は“想いを辿る程度の能力”だけでは成し得ないものだった。人間がどこまで自分を違う存在だと思い込もうとも人間であるという事実は変わらない。しかしそこで“否定する程度の能力”である。これによって自身が人間であるという事実を抹消し、空白の存在に成ることができる。その前提条件が必要不可欠だった。そのおかげで自分自身の存在を思うように変えることが出来たのだ。
まるで否定の力で白紙に戻したキャンパスを想いの力で自由に描き換えるように、どちらが欠けても実現できない二つの能力あっての合わせ技であった。
どんな存在にもなれるということは膨大な数の選択肢があったはずだ。蒲公英がその中から迷わずに自らを指して吸血鬼を選んでくれたことがレミリアにとっては嬉しくてたまらないものであった。その力の
「………つまり、心だけじゃなく身体までも感化されやすい単細胞のお花畑野郎ということで間違いないのですね」
「合ってるけど言い方ね。本人が聞いてたら泣いちゃうから」
彼の行う破天荒を理解するのが馬鹿馬鹿しくなった咲夜は辛辣な物言いであった。
レミリアは彼女の少し不貞腐れた様子も分からないでもなかった。咲夜の向ける恋心に無頓着なくせしてフランへの愛はあれだけ語っていたのだ。愛は知ってるのに恋を知ろうとしない鈍感さに不機嫌になるのは無理なかった。
だが今この場で蒲公英の勝利と無事を願っているのは八雲紫を除いた皆と同じなのは変わらなかった。存在がどれほど変化しようが、その過程がどうであれ、彼が帰ってきたらまずはお説教だ。吸血鬼の力があれば萃香に簡単にやられるはずがないのだから、ここは
(なのになんでかしら………この言いようのない胸騒ぎは…)
蒲公英は萃香から繰り出される無数の拳の乱打に対して拳を重ねることでなんとか捌ききっていた。まるで鉄の塊を殴っているかのように硬い感触で、一度打つたびに指の肉が裂けて骨が折れる音が響く。だが拳を引いて再度繰り出す間には指は再生しきっており、吸血鬼の再生力をフル稼働させて拳を打ち返していた。
「ははは!借りもんの力を手にすることには代償がつきものだろ?一体何を捧げた!記憶か?寿命か?それとも魂か?」
「まさかの出血大サービスで全部乗せだ!有難く思いやがれ!」
「やっぱりあんたは私が見込んだ通りの男だよ!惚れちまいそうだ!」
その歓喜で高ぶる感情と同様に拳の暴風雨も激しさを増していき、まだ慣れない吸血鬼の力では捌ききれなくなっていった。完全に受けきれなくなる前に蒲公英は牽制の意味も込めて口の中に魔力を溜め込んでいく。
「半端なやつじゃ灰すら残らんぞ!滅べやあああああ!!!」
開いた口から解き放たれた魔力の光線は目の前の彼女を包み込み、勢いはそこで止まらずに地面ごと削り飛ばしてしまった。
「まだまだこんなものじゃないはずだ!」
しかし、萃香は光線の中から何事もなかったかのように顔を出して彼へ着実に一歩ずつ近づいていった。
そして彼の懐へ素早く潜り込むとガラ空きとなっている胴体目掛けて重い一撃を打ち込んだ。
「うぐぅッッッ!?!?」
内蔵が損傷したのか、喉へ急激に込み上げてきた血を頬が膨らむまでに口を閉じて抑えた。涙目でその血を飲み込まずに我慢しながら彼女の角を掴んで顔をこちらへ向けさせ、そこへ血を躊躇いなく吹き掛けた。
「惜しい、こればかりは経験の差だね」
数多の修羅場をくぐり抜けてきた萃香にとって目潰し攻撃への対処はお手のものだった。血はかかる直前に意思を持って真横へ方向転換したかのように、彼女の片手へ吸い寄せられたのだ。
だが蒲公英は空振りに終わったというのにニヤリとしてやったり顔を披露した。
「今の俺は吸血鬼だぞ。そんな風に俺の血に触れて大丈夫か?」
「何っ!?」
彼の血に触れた手が酸でもかかったかのような激痛が走って蒸気を立ち昇らせていた。萃香にとってこの程度の傷ならば数秒あれば鬼の再生力で治すことができるが、痛みに一瞬手に意識を向けてしまった。
「鬼の血とやらを堪能させてもらうぜ!」
その一瞬の隙を逃さずに彼女の顎を膝で蹴り上げて開いた首筋に剣よりも鋭い牙を突き立てた。吸血鬼と名に付いているように十八番の吸血だ。
(辛っ!?なんだこの血は………日本酒!?)
吸血鬼は美女の血が好物だと聞くが、萃香の血はドロドロで舌触りが悪く、挙句の果てには日本酒特有の辛味が感じられてとてもじゃないが美味しいと言える代物ではなかった。彼女は間違いなく酒の飲み過ぎである。想像以上にアルコール中毒者の血液だった。
「痛゛あッ!?やったなコンニャロォ!!」
しかめっ面で牙の力が少し弱まったところに萃香は口を大きくあけて同様に彼の首筋にかぶりついた。
「~~~ッッッ!?!?」
まさか噛み付き返されるとは想定していなかった。
彼女の歯が首の肉を持っていこうと喰いこんでくるが負けじと自分の牙を突き刺し続ける。嚙み合いで数秒間の膠着状態が続いたが
「ふんぬッ!!」
「ガアッ!?」
鬼の怪力は顎の力も例外ではなかったようで、彼の首の肉をごっそりとかじり取ってしまった。その激痛に思わず彼女から牙を離して痛みによる悲鳴をあげた。
すかさず萃香はそこを見逃さずに蒲公英へフルスイングの一撃を見舞った。
「グオァッ!?」
身体はボールのように飛ばされて先程の衝撃で遠く離れた場所で隆起していた岩盤に背中から叩き付けられた。
「ぐええぇ…伝説上の怪物なのは伊達じゃないか」
土煙を浴びながらもなんとか身体を岩から起こした。
やはり
完全な変身となればもう後戻りできなくなってしまうからだ。別の存在と変わり果ててしまえば、その時には自我を保てるのかどうか分からない。だからその境界線ギリギリのラインまで近づくのがこの漂泊者の変身だ。
だが今のままでは萃香に勝つことができない。不完全でありながら完全に近づく必要がある。
「もうちょっとだけ心のギア、上げてくぜ」
その境界線へもう一歩進む事を決め、自己暗示のために再度手で顔を覆い隠した。
今まで蒲公英さんが能力で傷を治していたのは、実は一回一回存在を作り変えていたというイカレ行動だったんです。