女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
──私の声が聞こえるのですか?
きっかけは、ふいに届いたそんな声。
日宮ゆかりは唐突に。自分が進藤ヒカルだったことを思い出した。
当たり前だがめちゃくちゃ戸惑った。
女子高生である。16歳の乙女である。
なのに「あ、オレ進藤ヒカルだ」と思ったことに、まったく違和感がないのだ。
「いや、それはどうでもいい。それよりあの声だ」
どうでもよくないことを放り投げて、ゆかりは自室から冬の淡い空をあおぐ。
「──佐為」
なつかしい名前だ。
平安の世で非業の死を遂げ、千年の時を過ごす棋士の幽霊。
そして進藤ヒカルにとっては、かけがえのない相棒だ。
ヒカルは佐為と出会い、二人三脚で碁と向き合い……そして永遠に別れた。
それが1年前──2001年春の出来事。
だがゆかりが知る現在は、1998年の冬だ。
進藤ヒカルからすれば、過去に戻っている。
それも、ヒカルと佐為にとって、重要な時代に。
「……そうだ。ちょうど、オレが佐為と出会った時期だ」
思い出す。
祖父の蔵でお宝を漁っていた時、投げかけられた佐為の声。
それは、さきほど聞いた言葉と、寸分違わない……ということは。
思い至ると、日宮ゆかりは即座に財布だけをひっつかみ、部屋を飛び出た。
──佐為が居る! ちょうどいま昔のオレに語りかけてんだ!
そう思うと、居ても立ってもいられない。
「ちょっとゆかり、あわててどうしたの?」
「ごめん、かーさ──じゃない母さん、待ち合わせしてたの忘れてた─っ!」
「ゆかり! 部屋着で行くつもり? 財布は?」
「時間ないからこのまま行く! 財布は持ったー!」
不審げな母にいろいろ誤魔化しながら、ゆかりは家を飛び出した。
佐為と会ってどうするか。
そんなもの、決まりきっている。
──もう一度、佐為と碁を打ちたい!
佐為が消えたその日から、ずっと求め続けてきた願い。
それを叶える、奇跡のような機会が訪れたのだ。
そうしてゆかりは、同じ区内にあるヒカルの祖父の家に向かい。
……ヒカルを乗せた救急車が、祖父の家から走りだしたところだけは、なんとか確認できた。
「ま、間に合わなかった……」
ゆかりは路上で、がくりとくずおれた。
間に合ったところで、そもそもどんな立場で突撃するつもりだったのか。
たぶん本人も知らない。
●
翌日の下校時間。
場所は進藤ヒカルの家から祖父の家に向う通り道。
こちらに歩いてくるヒカルを待ち構えながら、日宮ゆかりは遅ればせながら気づく。
「どうしよう。見ず知らずの小学生男子に声をかけていい理由が、欠片もみつかんねえ……」
あたりまえである。
いくら元進藤ヒカルだったとしても、いまの進藤ヒカルとは面識などないのだ。
「というか……うわー、我ながらクソガキだなあ」
幼いヒカルの姿は、やんちゃな小学生、という言葉がぴったりあてはまる。
かつての自分を客観的に見ることになったゆかりは、なんだかいたたまれない。
ヒカルの背後に佐為の姿は……見えない。
状況的に、もうとり憑いてるはずだが、姿はないし、声も聞こえない。
だけど、気配がある。
泣きたいほどに懐かしい、佐為の気配が、ゆかりには確かに感じられる。
──居るんだな。佐為……そこに。
心のなかで、呼びかける。
返事などない。
いや、そもそもゆかりの心の声など、届いていないのだろう。
──でも、いいんだ。佐為が見えなくても。佐為と話せなくても。お前と打つ方法はある。
塔矢アキラが、緒方精次が、塔矢行洋が、そうしたように。
ヒカルを通して、佐為と碁を打つことができる。
──まあ、いまの
なにせ佐為と出会った当初のヒカルは、囲碁にまったく興味がない。
塔矢アキラと出会って、筒井部長と出会って、ヒカルはようやく真剣に囲碁と向き合うようになったのだ。
──かまわねえ。待つよ。昔のオレが、ちょっとはマシな碁打ちになるまではな。
だから、いまはただ、声をかけよう。
自分の存在を記憶に刻ませるために。
思い切って一歩、前に踏み出す。
「こんにちは。今日はとってもいい天気だね」
女子高生が男子小学生に声をかける事案の発生である。
○
「……さて、ひとまず顔見せは終わり、と」
ヒカルの背を見送りながら、ゆかりは息をついた。
軽く挨拶を交わしただけ。
ヒカルもすぐに忘れてしまうだろう。
だが、つぎに出会った時、ゆかりが声をかける理由づけにはなる。どのみち事案だが。
「でもなー。やっぱふたりで碁を打つってのはハードル高ぇよなー」
ヒカルが囲碁部に入るのを待つ手もあるだろう。
その頃のヒカルであれば、対局を面倒くさがりはしない。
でもそれは何ヶ月も先の話だし、なにより碁に積極的なのが災いして、自分の力で打とうとするかもしれない。
──それより前で、ヒカルが絶対に打つってタイミングといえば。
ゆかりは記憶を掘り返しながら、考える。
塔矢行洋の碁会所に打ちに来たところに割り込む、のは、マズい。
塔矢アキラの存在は、進藤ヒカルが碁を打つモチベーションそのものだ。
ふたりの出会いを邪魔してしまえば、最悪ヒカルは、碁に対する情熱を持てないままになるかもしれない。
「……焦るな。いまはまだ、距離を縮めることに専念すりゃいい。仲良くなったら、佐為と打てる機会はぜってー来る」
ゆかりはぶつぶつとつぶやく。
たとえその気がなくても、言ってることが、まるきり男子小学生を狙う女子高生である。
「けど小坊の頃のオレだしなあ。高校生の、しかも女が近づいて、懐くかなあ……ラーメン奢ってくれたら懐くな、間違いなく」
脳内でシミュレートしてみて、思いの外上手くいってしまったことに驚愕した。
まあヒカルのチョロさは問題だが、ゆかりにとっては好都合である。おまわりさんこいつです。
「となると、まずはバイトしなくちゃな。ラーメン代に困らないくらいには稼いどきてーし……碁盤と碁石も欲しいもんな」
父に頼めば買ってもらえる気はする。
しかしモノが碁盤だ。そんなものを急に欲しがれば、不審がられる。
テレビゲームでハマって……という言い訳は使えない。
そもそもゲーム機を持っていないので、理由として持ち出すのは無理がある。
「とすると、やっぱりバイトに絡めるのがいいかもな。こう、碁会所でバイトを始めて、自分でも囲碁に興味を持って……ってことなら、不自然じゃねえだろ」
そもそも碁会所でバイトを始める事自体が唐突といえば唐突なのだが、そこは考えないものとする。
唐突ではあっても不自然ではないから押し切れる。いける。とゆかりは自分を励ます。
「ただ碁会所っつっても、河合さんたちの居る『道玄坂』みたいな煙モクモクなとこだと、親が心配しそうなんだよなあ。オレあそこ好きなんだけど、バイトするならもっとお上品なとこじゃないと……たとえば、塔矢先生の「囲碁サロン」とか?」
悪くない、と、ゆかりは思った。
「──実力を隠して、塔矢のヤツと関わらねーなら、進藤ヒカルと塔矢アキラの関係は変わんねえはず。そこさえ気をつけんなら……ふたりの対局を観戦できれば……布石としては悪くねえ」
ゆかりが「強いヒカル」を知っていれば。
対局になった時、ヒカルは佐為に打たせるだろう。
そこは自分だけあって、進藤ヒカルの心理は読み取れる。
なお囲碁サロンがバイトを募集しているか。
募集していたとして、採用されるかまでは、考えが及んでいない。
「──よし! 善は急げだ!」
と、気合を入れて。
日宮ゆかりはその場を後にする。
もう少し長居していたら、家に帰るヒカルと顔を鉢合わせて、不審者として覚えられたことだろう。悪運が強い。