女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
その日。
バイトから帰ってきて、プロ試験の最終結果をチェックし、ヒカルの全勝を知った後。
習慣でログインしたワールド囲碁ネットで、ゆかりは奇妙なメッセージを受け取った。
チャットしてきたのは、“zelda”──和谷だ。
それ自体は変じゃない。高段位帯でずっと打っている“zelda”とは、ゆかりも何度か対戦経験がある。挑戦してきてもおかしくはない。
だが、メッセージの内容は、想像したものと少し違った。
「アナタト ウチタイヤツガ……あなたと打ちたいヤツが居る。明後日16時に、“hikaru”の挑戦を受けてほしい……?」
ゆかりは軽く混乱した。
一瞬頭が真っ白になって……それから、衝撃がやってきた。
「“hikaru”を和谷が紹介!? ふたりは知り合い──ってことはひょっとして“hikaru”はヒカルか!?」
去年の夏休みに対局した“hikaru”は、院生レベルの実力者だった。
それが実は進藤ヒカルだったと言われても、急には受け入れられない。
なにせ同時期のゆかりは、三谷にも敵わなかったのだ。
いくら本腰を入れたのが半年近く早いといっても、あまりにも差がありすぎる。
「……でも、勘違いじゃない。日曜のバイトを避けて対局日を指定してきたことといい、当時打ち回しから感じた“sai”っぽさといい……間違いない。ヒカルだ」
ひとつひとつ考えてみて、ゆかりは確信に至る。
だが、ヒカルの方は、自分の正体がバレてるなんて思いもしないだろう。
“hikaru”が進藤ヒカルだと確信できたのは、ゆかりが“zelda”は和谷だと知っていたからだ。
その事を知らないヒカルは、和谷を介して匿名の挑戦者として、ゆかりに挑もうとしてるのだろう。
なぜか。
決まっている。とゆかりは歯を見せて笑う。
目の前に強い碁打ちが居る。
その強さを、進藤ヒカルは佐為の横でずっと見てきた。
「試したかったんだな……いまの自分が、オレ相手にどこまで通じるか」
ゆかりは、ずっと佐為の強さを追ってきた。
佐為と打ちながら、その強さに憧れ、追いかけてきた。上ばかり見ていた。
だから、いままで気づいていなかったのだ。進藤ヒカルが、後ろから追いかけて来ていたことを。
──まるで、オレが塔矢の立場じゃねーか。
そう考えると、断る理由はなかった。
こみ上げてくるのは、抑えていた得体の知れない感情。
ゾクゾクする感覚に、自然と口の端を吊り上げて。ゆかりは“zelda”に了承の旨を伝えた。
○
明後日、月曜日。
学校から帰宅後、ゆかりはコンビニの買い物袋を提げて部屋に直行する。
母には朝に、夕食がいらないことを伝えている。対局に邪魔が入ることはない。
部屋に入ると、そのままパソコンデスクの前に座る。
それから、モニタのまえにコンビニで買ったペットボトルの水とチョコレートを並べる。長丁場の対局では、脳への栄養は必須だ。
準備を万端に終えると、白扇子を持って、時間を待つ。
ログインは、まだしない。早く入りすぎて、他の人間からの対局申込みの対処で集中を乱されたくない。
16時になるのを待ってから。
ゆかりはおもむろに、ワールド囲碁ネットを立ち上げた。
“hikaru”──ヒカルは、すぐに挑戦してきた。
持ち時間は各自3時間。いまから打てば、終わるのは夜遅くになるだろう。
──こんな時間まで打つのは、ネットカフェじゃ無理だな……和谷ん家で打ってるのか?
ゆかりは推測する。
それなら、この勝負に“zelda”が絡んできたのも納得がいく。
先番はヒカル。
ゆかりは口角を挑戦的に持ち上げ、白扇子を手に宣言する。
「──さあ、好きに打ってこいよ、ヒカル。オマエのすべてを、見せてみろ」
対局は、序盤は穏便に進行した。
盤面深くから情勢をにらみながら、ゆかりはヒカルの仕掛けを待つ。
「状勢はオレが有利。つーかこのままじゃどんどん悪くなってくぞ──と、イヤなとこに打ってきたなあ」
ゆかりはわずかに眉をひそめる。
一見手損だが、穏当な変化を許さない絶妙な位置だ。
とはいえ、別方向に変化させればいいだけの話。白もそれなりに損にはなるが、形勢はまだ動かない。
ヒカルはさらに戦場を移しながら、白陣に切り込んでいく。
石が絡まりあって互いを侵す。ヨミは的確で早く、ゆかりの模様を食い破る鋭さを持っている。
感嘆の言葉が、ゆかりの口から漏れた。
「……ツエェ。北斗杯の頃の社、いや、
ゆかりはあわてて頭を振る。
すっかり保護者目線で見てしまっている。
小学生の頃から面倒を見てきたのだから、それも仕方ないが……碁打ちが勝負の場に持ち込むような感情じゃない。
「ヒカル。オマエは強いよ。おなじ頃のオレに、オマエくらいの力があればって思うくらいに……」
だが。
と、ゆかりはつぶやきながら、黒石にツケる。
ヒカルの手は、ここからの変化を考慮していない。ヨミ抜けがある。
そこから、ただの数手。
五分に傾き始めていた盤面は、一気に白優勢に引き戻された。
「──オレもあの頃のオレじゃねえ。佐為に学んだ、佐為と打ち続けた。塔矢先生からも吸収したオレの力、オマエに見せてやる」
ゆかりの打った手に、劣勢を強いられたヒカルは長考する。
その間にゆかりは水を飲み、チョコをひと欠け舐めて、脳に栄養を送りながら──盤面深くに沈み込む。
──掴むのは、ヒカルの応手と、そこからの変化。
そろそろ大寄せだ。
すでに大きく挽回する手は限られている。
ゆかりの勝利は動かしがたい情勢──いや。と、盤面の底から、ゆかりは否定する。
「二筋……いや一筋か。細く長いが、ヒカルの逆転の目はある」
だが、それを見つけられるか。
見つけられても、応手を間違わずに済むか。
未熟なヒカルでは、最初の一手ですら高すぎるハードルだ。
「先手をこっちに寄越したら終わり。ヨセを間違えても終わり。そこまで完璧に進めて、ようやく半目差の黒勝ちだ」
ここまで見えているのは、おそらくゆかりと佐為だけだろう。
いや。佐為とて、自分が対局していなければ、そこまでの深みに到れるか。
「さあ、どう打つ?」
ゆかりは白扇子を挑戦的に揺らしながら、ヒカルを待つ。
そして。
勝利につながる唯一の場所に打たれた黒石に。
ゆかりは──佐為の姿を幻視した。
心臓が、跳ね上がる。
息が荒くなる。痺れる思考で、ゆかりは無意識にモニターに映る黒石に手を伸ばす。
「佐為? ……違う。佐為じゃない。オレとヒカルの勝負に割って入るような佐為じゃねえ」
白扇子ごと、高鳴る胸を両手で押さえながら、ゆかりはつぶやく。
「だが、いまのヒカルに打てる手でもねえ……佐為だ。ヒカルの中で育った佐為の碁が、アイツにこの一手を打たせたんだ……そうだろう、佐為?」
自分の中の佐為に語りかけながら。
ゆかりは喜悦に震える指で、ヒカルの手に応じる。
静寂の中、パソコンから石を打つ音が鳴りつづける。
そして。か細く、長い道を、ヒカルはなんとか渡りきって形にした。
だが、代償としてヒカルの持ち時間は、ほとんどなくなってしまった。
「──焦るな。あとは一本道だ。たとえ持ち時間がなくても、ここまで打てたオマエなら、やれるはずだ」
励ましながら、ゆかりの応手に容赦はない。
失着があれば、即座に咎める。その準備はできている。
だが、ヒカルは間違えない。
限られた時間で、一本道を最後まで渡りきって……ついに半目の勝利を勝ち取った。
「ああ、ダメだなオレは……負けてクヤしいはずなのに……ヒカルが勝ったことを、喜んじまってる。最後のほうヒカルを応援しちまってた」
両手を肘掛けから落としながら、ゆかりは言葉を吐き出す。
悔しさと同時に、しびれるような充足感が、ゆかりを支配している。
「でも仕方ねえよ。あんなクソガキだったあいつが、こんな碁を打ってみせたんだから……」
思い出す。出会った頃のヒカルを。
海王中打倒に燃えていたころのヒカルを。
塔矢アキラに追いつこうと、必死に頑張ってきたヒカルを。
いつだって碁に真剣だった、進藤ヒカルと過ごしてきた日々を。
「──なんだ」
振り返って、ゆかりは気づいた。
「オレはもうとっくに……ヒカルのやつに入れ込んじまってたんじゃねーか」
佐為と打ちたいと願っていた。
ヒカルに優しくしたのは、そのためのはずだった。
なのに、いつのまにか。ヒカルの成長を楽しみに感じている自分がいた。
ヒカルがどこまで行くのか、このまま見守っていきたいと思う自分がいた。
左手で顔を隠しながら、ゆかりは天を仰いで告げた。
「負けました……すごかったよ、ヒカル」