女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい   作:寛喜堂秀介

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検討03 進藤ヒカルの場合

 

 

「しっかしわかんねぇなあ」

 

 

 プロ試験が終了した数日後。和谷の部屋。

 ワールド囲碁ネットでの、日宮ゆかりとの対局を控えたヒカルに、和谷がベッドの上から声をかける。

 

 

「──進藤、日宮さんとはずっと打ってるんだろ? なんでわざわざネット碁で対局するんだ? しかも名前を隠して」

 

「相手がオレだってわかると、ゆかり姉ちゃん手加減するだろうし……勝負したいんだ。全力で」

 

 

 パソコンデスクに座るヒカルは、静かに答える。

 集中しているため、視線はモニタを見据えつづける。

 

 

「オマエも強えけど、相手が段違いだからなあ……なあ、なんであの人プロにならねーんだ?」

 

「わかんねえ。姉ちゃん自身は、ずっとオレと打ってたいからって言ってたけど」

 

「なんだソレ。塔矢といい日宮さんといい、オマエどうなってんだ?」

 

「……オレのほうが聞きてえよ。本気で」

 

 

 わずかに眉をひそめて、ヒカルは答えるのを避けた。

 それを察したのだろう。和谷はため息をついて、それから別の問いを口にする。

 

 

「正直どうなんだ。日宮さん相手に、勝ち目あるのか?」

 

「わかんねえ。実力差は、和谷と森下師匠ほどは開いてないと思うけど」

 

「そこまで強えのかあの人……キツイな。オレも冴木さんとなら、5回に1回は勝ち負けの碁を狙えるけど、師匠相手だと勝てるイメージがわかねえ」

 

「オレとゆかり姉ちゃんの差はそこまでじゃない……いまのオレの、最高の碁を打って、その上でやっと10回に1回、勝ち負けの碁になる、くらいだ」

 

「どのみち絶望的じゃねえか」

 

「そうだな……でも、打たなきゃ始まらないんだ。オレとゆかり姉ちゃんの関係は」

 

 

 真っ直ぐ前を見据えながら、ヒカルは語る。

 

 その真意は、和谷には知りようがない。

 ただあきれた声で、和谷はヒカルに声をかけた。

 

 

「オマエのまわり、人間関係ややこしすぎないか?」

 

 

 反論のしようがない事実だった。

 

 

 

 

 

 

『ヒカル、いよいよですね』

 

 

 ──ああ、佐為。いよいよだ。

 

 

 対局を前に。

 背後から語りかけてくる佐為に、心の声で返す。

 パソコンのモニタを前に、進藤ヒカルは、武者震いを抑えきれない。

 

 日宮ゆかりと出会ってから、もう2年近くになる。

 最初に出会ったとき、佐為と彼女の対局の美しさに、思わず見入った。

 日宮ゆかりの本気の碁を見た時、その迫力に圧されながら……あこがれた。

 

 その強さに。

 そして自分よりもはるか高みに在る佐為(あいて)に、果敢に挑んでいく、その姿に。

 

 すごい。

 そう思う反面、悔しかった。

 

 

「ヒカルくんのこの手、すごいよね。一見手控えしたように見えながら、四方をニラんでこちらに良い変化を許さない」

 

「ここの打ち込みはすごかった。力づくで形にされたって感じで」

 

 

 日宮ゆかりはヒカルを見ていない。

 笑顔も、称賛も、すべては佐為に向けられていて、でも言葉だけは、ヒカルに向いている。

 横で話を聞いていた佐為は、無邪気に喜んでいたが、佐為の代理で返事しなくちゃいけないヒカルは複雑だ。

 

 だから。

 

 

 ──オレを見てほしい。佐為なんかじゃなく。

 

 

 そんな思いが、湧き出てくるのも仕方ない。

 

 

 ──だって、ずっと見てきたんだ。

 

 

 ゆかりと佐為の対局を。

 楽しげに打つふたりの姿を。

 

 うらやましかった。

 自分も加わりたかった。でも出来なかった。

 ゆかりが佐為に向ける情熱に、侵し難いなにかを感じて。

 

 考えて、ヒカルは身を震わせる。

 武者震いか、それとも悔しさからか。

 

 

『落ち着いて、ヒカル。ヒカルはずっと見てきたでしょう。私とあの娘の対局を』

 

 

 気を案じた佐為が、静かに声をかけてくる。

 佐為の励ましに、ヒカルは心の声にも出さず、ひそかに思う。

 

 

 ──そうだ。オレは見てきた。それしか出来なかったから。

 

 

 対局できないかわりに、ヒカルは見てきた。

 ふたりの対局を。そして、考えてきた。自分なら次にどう打つかを。

 

 ずっと考えてきて。追いかけてきて。

 日宮ゆかりの碁が、藤原佐為の碁が、おぼろげながら見えてきた。

 

 対局を重ねてきたからだろうか。二人の碁は似ている。

 まるで日宮ゆかりの延長線上に、藤原佐為が居るかのようで……だから、佐為の本当の凄さもわかってきた。

 

 

 ──佐為はスゲェ。ゆかり姉ちゃんが必死になるのもわかる。

 

 

 初めて対局したその日から。

 日宮ゆかりは、佐為との対局のことしか頭になかった。

 いや、ヒカルのことは気にかけてくれていたが、興味の中心はいつだって囲碁=佐為だった。

 

 

 ──でも、オレだって捨てたもんじゃねえ。

 

 

 ヒカルは口の中でつぶやく。

 佐為に対するゆかりの応手も、だいぶ見えるようになってきた。

 ゆかりが佐為と打った100回近い棋譜も全部並べて、佐為と検討してきた。

 そうするうち、いつのまにか。周りにいた強敵が、強敵ではなくなっていた。

 

 それは、ある意味当然。

 日宮ゆかりは進藤ヒカルだ。

 実力差、経験の差はあれど、思考の進め方はヒカルに極めて近い。

 そして、そんな日宮ゆかりが目指す碁の到達点──藤原佐為が、ヒカルを指導しているのだ。

 自分が通るべき筋道(ゆかり)と到達点(佐為)を示されて、進藤ヒカルは恐ろしい速度で強くなっていった。

 

 

『あの娘は、出会った頃よりはるかに強くなっています。いまのヒカルでも、勝機は万にひとつ。ですが──』

 

 

 佐為が語る。

 その判断は、ヒカル自身の分析と変わらない。

 そして、佐為が言葉を区切った、そこから続く言葉も、ヒカルにはわかる。

 

 ヒカルはマウスを握る手に力を込めて、強くうなずいた。

 

 

 ──ああ。たとえ万が一の勝機でも、絶対に手放さない……こっちを振り向かせて見せる!

 

 

 この日のために、できる準備は全てしてきた。

 あとは……打つだけだ。

 

 

 ──ゆかり姉ちゃん、見てくれ。オレはここに居る!

 

 

 そう、心のなかで叫んで。

“hikaru”は、“yukari”に挑戦を叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 ヒカルとゆかりの対局は、後半に入った。

 

 形勢は、はっきりとヒカルが悪い。

 じわじわと離されながら、序盤中盤となんとか食らいついてきたが、読んでいない手を打たれて、一気に劣勢に立たされた。

 

 

 ──考えろ。このままじゃ中押し負けだ。

 

 

 ヒカルは顔を歪めながら、思考を巡らせる。

 

 対局自体は、ヒカルにとって会心に近い出来だ。

 ゆかりの狙いをよく見極めながら、戦える形を作れていた。

 しかし、それでも日宮ゆかりの心に、ヒカルの存在を刻みつけられる碁ではない。

 

 

 ──もう大寄せだ。ここだ。ここで挽回の手を見つけないと終わっちまう!

 

 

 モニタの中の碁盤を見つめながら、考える。

 この盤面でゆかりなら、どう打つか。そして、佐為なら、どう返すか。

 

 ずっと見てきたゆかりの碁を、自分の中で描く。

 ずっと見てきた佐為の碁を、自分の中から引き出してくる。

 

 脳内の碁盤に、石が並べられていく。

 その変化は10を数え、20を超え、30に達し、まだ増えていき……あまりの負荷に、脳が悲鳴を上げる。

 

 だが、ヒカルは止まらない。思考を緩めない。

 無限に枝分かれする筋道を追って、追って……ついに、勝利に達する唯一の可能性を見出した。

 

 ヒカルは画面の端の表示を確認する。

 

 

 ──残り時間は……まだまだある。勝ち切れる!

 

 

 喜び勇んでマウスを動かして、石を置く、寸前。

 ヒカルはとっさに動きを止めた。

 

 

 ──違う!

 

 

 直感が全力で悲鳴を上げている。

 迷うな、という自分が居る。立ち止まれ、と叫ぶ自分が居る。

 葛藤しながらも、かろうじて思いとどまって。ヒカルは思い切り深呼吸して、脳に酸素を取り入れる。

 

 そうすると、頭が再び先程の勝ち筋の変化を考え出す。

 先ほどとは別の、ゆかりが打つであろう本当の応手を。

 

 

 ──そうか。ここのヨミ抜けだ。ヨセでこっちから応じられたら、さらに手が要る。この手筋じゃ半目負ける。

 

 

 どうする。と迷う。

 半目勝負に持ち込めたら、“hikaru”の、進藤ヒカルの存在は、ゆかりの心に刻みつけることができるだろう。

 

 だが、それで良いはずがない。

 勝利をあきらめた碁など、藤原佐為の、日宮ゆかりの、そして進藤ヒカルの碁じゃない。

 

 だが、いまから新たに勝利の手筋を読むにしても、時間がない。

 いや。そもそも、この状況から勝利に持っていける筋道など、あるのか。

 

 

 ──あると思って読むしかねえ。どんな馬鹿らしいと思える手筋だって捨てずに追って、探し出してやるんだ……最高の一手を!

 

 

 高く。高くまで意識を昇らせて、盤面を俯瞰(ふかん)する。

 無数に変化する石の筋道を。意識の中の無数の碁盤に並べていく。

 空気が薄い。酸素が足りない。進藤ヒカルには過ぎた領域なのだと、理解しながら……ヒカルは意識をつなぎとめ続ける。

 

 

 ──まだだ。まだ探せる!

 

 

 知らず拳を握りしめながら、ヒカルは心のなかで叫ぶ。

 

 たしかにここは、ヒカルだけでは過ぎた領域だ。

 だけど、ヒカルの中にはゆかりの碁がある。佐為の碁がある。

 二人の碁を翼として、ヒカルはその領域で思考を広げつづける。

 

 永遠にも思えた長い思索。

 意識を失いかけた、その末に。

 ヒカルは、ついに勝利への筋道を見出した。

 

 

「──っハァ、ハァ……」

 

 

 荒く息をつきながら、急ぎ確認する。

 持ち時間は、もうほとんど残っていない。

 

 この一手が、本当に勝利につながるのか。

 日宮ゆかりは、さらなる高みの手を持っているのではないか。

 よぎる不安をかなぐり捨てて、か細い勝利を掴み取るために、ヒカルはその一手を打った。

 

 その後はヨミ通りの進行。ヨミ通りの応手が続く。

 疲労しきったうえに、考える時間も残されていないヒカルは、当初のヨミに従って打つしかない。

 

 半ば意識を失いながらも、打ち切って。

 進藤ヒカルは半目の勝利をつかみ取った。

 

 

 

 

 

 

 その後のことを、ヒカルはよく覚えていない。

 

 

『見事です。この対局の最中(さなか)、ヒカルは大きく成長した』

 

 

 そんな佐為の称賛を聞いた気がした。

 

 

「すげえ……」

 

 

 そんな和谷の絶句を聞いた気がした。

 

 だが、そんなことよりも。

 日宮ゆかりに、自分の存在を刻みつけた。

 その確信に、ヒカルはしびれる程の満足感を覚えていた。

 

 

 ──実力差は、まだデカい。出来過ぎの碁だったのは、わかってる。半分勝たせてもらったようなもんだってのも……

 

 

 ゆかりの碁は、最後までヨミだけで勝とうとする、綺麗な碁だった。

 持ち時間を失っていたヒカルは、新たに読みが必要な、筋悪の一手を打たれるだけで、時間切れ負けか、応手を間違えて惨敗していただろう。

 

 

 ──でも、ゆかり姉ちゃんは“hikaru”を覚えた。だから、オレの勝ちだ。

 

 

 そう、心のなかでつぶやいて。

 ヒカルは、椅子にもたれかかって天を仰いだ。

 

 

 


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