女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
「しっかしわかんねぇなあ」
プロ試験が終了した数日後。和谷の部屋。
ワールド囲碁ネットでの、日宮ゆかりとの対局を控えたヒカルに、和谷がベッドの上から声をかける。
「──進藤、日宮さんとはずっと打ってるんだろ? なんでわざわざネット碁で対局するんだ? しかも名前を隠して」
「相手がオレだってわかると、ゆかり姉ちゃん手加減するだろうし……勝負したいんだ。全力で」
パソコンデスクに座るヒカルは、静かに答える。
集中しているため、視線はモニタを見据えつづける。
「オマエも強えけど、相手が段違いだからなあ……なあ、なんであの人プロにならねーんだ?」
「わかんねえ。姉ちゃん自身は、ずっとオレと打ってたいからって言ってたけど」
「なんだソレ。塔矢といい日宮さんといい、オマエどうなってんだ?」
「……オレのほうが聞きてえよ。本気で」
わずかに眉をひそめて、ヒカルは答えるのを避けた。
それを察したのだろう。和谷はため息をついて、それから別の問いを口にする。
「正直どうなんだ。日宮さん相手に、勝ち目あるのか?」
「わかんねえ。実力差は、和谷と森下師匠ほどは開いてないと思うけど」
「そこまで強えのかあの人……キツイな。オレも冴木さんとなら、5回に1回は勝ち負けの碁を狙えるけど、師匠相手だと勝てるイメージがわかねえ」
「オレとゆかり姉ちゃんの差はそこまでじゃない……いまのオレの、最高の碁を打って、その上でやっと10回に1回、勝ち負けの碁になる、くらいだ」
「どのみち絶望的じゃねえか」
「そうだな……でも、打たなきゃ始まらないんだ。オレとゆかり姉ちゃんの関係は」
真っ直ぐ前を見据えながら、ヒカルは語る。
その真意は、和谷には知りようがない。
ただあきれた声で、和谷はヒカルに声をかけた。
「オマエのまわり、人間関係ややこしすぎないか?」
反論のしようがない事実だった。
●
『ヒカル、いよいよですね』
──ああ、佐為。いよいよだ。
対局を前に。
背後から語りかけてくる佐為に、心の声で返す。
パソコンのモニタを前に、進藤ヒカルは、武者震いを抑えきれない。
日宮ゆかりと出会ってから、もう2年近くになる。
最初に出会ったとき、佐為と彼女の対局の美しさに、思わず見入った。
日宮ゆかりの本気の碁を見た時、その迫力に圧されながら……あこがれた。
その強さに。
そして自分よりもはるか高みに在る
すごい。
そう思う反面、悔しかった。
「ヒカルくんのこの手、すごいよね。一見手控えしたように見えながら、四方をニラんでこちらに良い変化を許さない」
「ここの打ち込みはすごかった。力づくで形にされたって感じで」
日宮ゆかりはヒカルを見ていない。
笑顔も、称賛も、すべては佐為に向けられていて、でも言葉だけは、ヒカルに向いている。
横で話を聞いていた佐為は、無邪気に喜んでいたが、佐為の代理で返事しなくちゃいけないヒカルは複雑だ。
だから。
──オレを見てほしい。佐為なんかじゃなく。
そんな思いが、湧き出てくるのも仕方ない。
──だって、ずっと見てきたんだ。
ゆかりと佐為の対局を。
楽しげに打つふたりの姿を。
うらやましかった。
自分も加わりたかった。でも出来なかった。
ゆかりが佐為に向ける情熱に、侵し難いなにかを感じて。
考えて、ヒカルは身を震わせる。
武者震いか、それとも悔しさからか。
『落ち着いて、ヒカル。ヒカルはずっと見てきたでしょう。私とあの娘の対局を』
気を案じた佐為が、静かに声をかけてくる。
佐為の励ましに、ヒカルは心の声にも出さず、ひそかに思う。
──そうだ。オレは見てきた。それしか出来なかったから。
対局できないかわりに、ヒカルは見てきた。
ふたりの対局を。そして、考えてきた。自分なら次にどう打つかを。
ずっと考えてきて。追いかけてきて。
日宮ゆかりの碁が、藤原佐為の碁が、おぼろげながら見えてきた。
対局を重ねてきたからだろうか。二人の碁は似ている。
まるで日宮ゆかりの延長線上に、藤原佐為が居るかのようで……だから、佐為の本当の凄さもわかってきた。
──佐為はスゲェ。ゆかり姉ちゃんが必死になるのもわかる。
初めて対局したその日から。
日宮ゆかりは、佐為との対局のことしか頭になかった。
いや、ヒカルのことは気にかけてくれていたが、興味の中心はいつだって囲碁=佐為だった。
──でも、オレだって捨てたもんじゃねえ。
ヒカルは口の中でつぶやく。
佐為に対するゆかりの応手も、だいぶ見えるようになってきた。
ゆかりが佐為と打った100回近い棋譜も全部並べて、佐為と検討してきた。
そうするうち、いつのまにか。周りにいた強敵が、強敵ではなくなっていた。
それは、ある意味当然。
日宮ゆかりは進藤ヒカルだ。
実力差、経験の差はあれど、思考の進め方はヒカルに極めて近い。
そして、そんな日宮ゆかりが目指す碁の到達点──藤原佐為が、ヒカルを指導しているのだ。
自分が通るべき筋道(ゆかり)と到達点(佐為)を示されて、進藤ヒカルは恐ろしい速度で強くなっていった。
『あの娘は、出会った頃よりはるかに強くなっています。いまのヒカルでも、勝機は万にひとつ。ですが──』
佐為が語る。
その判断は、ヒカル自身の分析と変わらない。
そして、佐為が言葉を区切った、そこから続く言葉も、ヒカルにはわかる。
ヒカルはマウスを握る手に力を込めて、強くうなずいた。
──ああ。たとえ万が一の勝機でも、絶対に手放さない……こっちを振り向かせて見せる!
この日のために、できる準備は全てしてきた。
あとは……打つだけだ。
──ゆかり姉ちゃん、見てくれ。オレはここに居る!
そう、心のなかで叫んで。
“hikaru”は、“yukari”に挑戦を叩きつけた。
○
ヒカルとゆかりの対局は、後半に入った。
形勢は、はっきりとヒカルが悪い。
じわじわと離されながら、序盤中盤となんとか食らいついてきたが、読んでいない手を打たれて、一気に劣勢に立たされた。
──考えろ。このままじゃ中押し負けだ。
ヒカルは顔を歪めながら、思考を巡らせる。
対局自体は、ヒカルにとって会心に近い出来だ。
ゆかりの狙いをよく見極めながら、戦える形を作れていた。
しかし、それでも日宮ゆかりの心に、ヒカルの存在を刻みつけられる碁ではない。
──もう大寄せだ。ここだ。ここで挽回の手を見つけないと終わっちまう!
モニタの中の碁盤を見つめながら、考える。
この盤面でゆかりなら、どう打つか。そして、佐為なら、どう返すか。
ずっと見てきたゆかりの碁を、自分の中で描く。
ずっと見てきた佐為の碁を、自分の中から引き出してくる。
脳内の碁盤に、石が並べられていく。
その変化は10を数え、20を超え、30に達し、まだ増えていき……あまりの負荷に、脳が悲鳴を上げる。
だが、ヒカルは止まらない。思考を緩めない。
無限に枝分かれする筋道を追って、追って……ついに、勝利に達する唯一の可能性を見出した。
ヒカルは画面の端の表示を確認する。
──残り時間は……まだまだある。勝ち切れる!
喜び勇んでマウスを動かして、石を置く、寸前。
ヒカルはとっさに動きを止めた。
──違う!
直感が全力で悲鳴を上げている。
迷うな、という自分が居る。立ち止まれ、と叫ぶ自分が居る。
葛藤しながらも、かろうじて思いとどまって。ヒカルは思い切り深呼吸して、脳に酸素を取り入れる。
そうすると、頭が再び先程の勝ち筋の変化を考え出す。
先ほどとは別の、ゆかりが打つであろう本当の応手を。
──そうか。ここのヨミ抜けだ。ヨセでこっちから応じられたら、さらに手が要る。この手筋じゃ半目負ける。
どうする。と迷う。
半目勝負に持ち込めたら、“hikaru”の、進藤ヒカルの存在は、ゆかりの心に刻みつけることができるだろう。
だが、それで良いはずがない。
勝利をあきらめた碁など、藤原佐為の、日宮ゆかりの、そして進藤ヒカルの碁じゃない。
だが、いまから新たに勝利の手筋を読むにしても、時間がない。
いや。そもそも、この状況から勝利に持っていける筋道など、あるのか。
──あると思って読むしかねえ。どんな馬鹿らしいと思える手筋だって捨てずに追って、探し出してやるんだ……最高の一手を!
高く。高くまで意識を昇らせて、盤面を
無数に変化する石の筋道を。意識の中の無数の碁盤に並べていく。
空気が薄い。酸素が足りない。進藤ヒカルには過ぎた領域なのだと、理解しながら……ヒカルは意識をつなぎとめ続ける。
──まだだ。まだ探せる!
知らず拳を握りしめながら、ヒカルは心のなかで叫ぶ。
たしかにここは、ヒカルだけでは過ぎた領域だ。
だけど、ヒカルの中にはゆかりの碁がある。佐為の碁がある。
二人の碁を翼として、ヒカルはその領域で思考を広げつづける。
永遠にも思えた長い思索。
意識を失いかけた、その末に。
ヒカルは、ついに勝利への筋道を見出した。
「──っハァ、ハァ……」
荒く息をつきながら、急ぎ確認する。
持ち時間は、もうほとんど残っていない。
この一手が、本当に勝利につながるのか。
日宮ゆかりは、さらなる高みの手を持っているのではないか。
よぎる不安をかなぐり捨てて、か細い勝利を掴み取るために、ヒカルはその一手を打った。
その後はヨミ通りの進行。ヨミ通りの応手が続く。
疲労しきったうえに、考える時間も残されていないヒカルは、当初のヨミに従って打つしかない。
半ば意識を失いながらも、打ち切って。
進藤ヒカルは半目の勝利をつかみ取った。
●
その後のことを、ヒカルはよく覚えていない。
『見事です。この対局の
そんな佐為の称賛を聞いた気がした。
「すげえ……」
そんな和谷の絶句を聞いた気がした。
だが、そんなことよりも。
日宮ゆかりに、自分の存在を刻みつけた。
その確信に、ヒカルはしびれる程の満足感を覚えていた。
──実力差は、まだデカい。出来過ぎの碁だったのは、わかってる。半分勝たせてもらったようなもんだってのも……
ゆかりの碁は、最後までヨミだけで勝とうとする、綺麗な碁だった。
持ち時間を失っていたヒカルは、新たに読みが必要な、筋悪の一手を打たれるだけで、時間切れ負けか、応手を間違えて惨敗していただろう。
──でも、ゆかり姉ちゃんは“hikaru”を覚えた。だから、オレの勝ちだ。
そう、心のなかでつぶやいて。
ヒカルは、椅子にもたれかかって天を仰いだ。