女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
塔矢アキラは悩んでいた。
14歳の多感な年頃。
そしてプロ棋士2年目、真価を問われる時。
一般的な少年としても、棋士としても、悩みの種は多い時期だ。
だが。
いまアキラの頭を悩ませているのは、思春期特有の懊悩でも、自身の棋士としてのあり方に関してでもない。たったひとりの女性が原因なのだ。
──日宮ゆかり。
彼女とアキラとの関係は、微妙に説明し難い。
端的に語るなら、父が経営する囲碁サロンに勤める少女だ。
3年ほど前、高校生の時に、彼女は突然アルバイトとして入ってきた。
アキラ自身、囲碁サロンに通い詰め、指導碁なども行っているので、顔を合わせることが多い。
気立てがよく、仕事も熱心。
常連の皆にも親しまれており、なにより囲碁を愛しているのがよく分かる。
春からは正規のスタッフとして働いていて、市河さんのように、姉弟のような距離感ではないが、感覚的にはほぼ身内である。
そんな彼女が、なぜアキラの悩みの種になっているのか。
原因ははっきりしている。そして、困ったことに、問題は複数ある。
●
ひとつ目は、アキラの
彼との因縁は、3年近く前、囲碁サロンでの対局から始まった。
石を持つ手もたどたどしい、見るからに初心者の男の子が、アキラに指導碁を施す。
その強さ、異様さに運命的な何かを感じて、アキラは進藤ヒカルを追いかけ続けた。
対局を拒む彼を、勝負の舞台に引きずり出すために、海王中の囲碁部に入り、そして大会で相まみえた。
荒々しさと神秘的なまでの熟練が入り混じった。
そんな奇妙な対局を終えて、アキラは進藤と、プロの舞台で戦うことを約束した。
その約束は、先日の若獅子戦で果たされた。
プロになった進藤ヒカルの碁は、3年前のものとは違う。
ともすれば以前より弱く感じることもあったが、それでも間違いなくアキラを凌ぐ実力を持っている。
そんな最高の
進藤に聞くと、彼女とは小学生の頃からのつき合いだという。
込み入った関係を聞くのははばかられるが、頻繁に会って対局する仲らしい。
自分とは打ってくれなかったのに、彼女とはなぜ。
そう思うと、非常に複雑な気持ちにはなるが、進藤と対局や研究する仲になった今となっては、まあいいと思える。複雑だが。
○
ふたつ目は、ひとつ目以上に、アキラにとって悩みの種だ。
緒方精次。
父の弟子であり、アキラにとっても頼れる兄弟子である彼と、日宮ゆかりの関係について考えると、正直頭痛しかしない。
きっかけは、少し前の、とある休日のこと。
その日は偶然緒方も囲碁サロンに来て、めずらしく長時間腰をおちつけていた。
そんな緒方が、日宮ゆかりが仕事終わりで帰るとなった途端、彼女の後を追うようにしてサロンを出ていった。
緒方の事を信頼しているアキラだが、さすがに動きが不審過ぎる。市河さんに声をかけてから、こっそりと二人を追いかけて──アキラは見てしまった。
日宮ゆかりに情熱的に迫る、兄弟子の姿を。
「オレじゃ不足か」
「頼む、一度だけでいいんだ」
「かならず満足させてやる」
アキラは尊敬する兄弟子のこんな姿見たくなかった。というか彼女居たよね?
あっけにとられていたアキラだが、我に返るとあわてて止めに入った……のだが。
「ゆかり姉ちゃんっ!!」
なぜか最高にややこしいタイミングで進藤が現れて、とんでもない修羅場になった。
怒り心頭の進藤と、必死で弁解する緒方と、あれだけ詰め寄られたというのに、よくわかってなさそうな日宮ゆかりが印象的だった。
アキラは二人を追いかけてきたことを後悔した。
アキラ自身は無関係だというのに、本気で居たたまれない。
「囲碁の話だ」
「あいつは“sai”かもしれないんだ」
「信じてくれ。本気なんだ」
落ち着いてから、あらためて緒方の言い訳を聞いたが、どこまで本当かはわからない。
というか、疑える余地があるとしても、彼女に迫る緒方の絵面がアウトすぎて、どうしても緒方に対する非難がましい気持ちが先に立つ。
まあ、それもいい。
ちょっと緒方を見る目が変わってしまったが、まだ理解の範疇だ。
だが。
みっつ目の──最後の問題に関しては、アキラの理解の、はるか彼方。
●
「日宮くんは、パスポートを持っているかね」
普段は対局に使われる、塔矢家の一室部屋。
偶然耳に入った、携帯電話で話す父の言葉に、アキラは思う。
いったい日宮さんはどうなっているんだ、と。
「──そう、中国だ。君もいっしょに行ってみないか」
未成年を海外旅行に誘う父が居た。
そして父の会話を盗み聞きする息子が居た。
いや、誤解だと思いたい。
だが、父が彼女を海外旅行に誘う必然的な理由なんてまったく想像がつかない。
あまりにショックで、アキラは部屋に戻った後も、しばらく頭を抱えて悶々としていた。
──もし緒方さんの言うように、日宮さんが“sai”なら……
ヒカルの棋風に“sai”の影響を感じたわけがわかる。
緒方精次が、塔矢行洋が彼女に執着する理由もわかる。
だが、彼女が“sai”だと言われても、いまいち信じられない。
彼女が強いのはわかる。
対局を見る彼女の目の配り方を見れば、プロ並みと言われても違和感がない。
だが“sai”とは。
碁界の頂点、塔矢行洋を破る実力者だとは、とても思えない。
むしろ……アキラのひいき目かもしれないが、昔の進藤ヒカル自身のほうが、“sai”のイメージに重なる。
彼女が“sai”だと思えないアキラだが、同時に緒方が“sai”を、彼女を口説く口実に使っているとも思えない。
ましてや塔矢行洋が、囲碁以外の理由で彼女に執着するなんて、ありえない。
だが疑惑を頭から否定もできない。
二人を信用していないわけじゃない。
いや、緒方はともかく父である塔矢行洋を、アキラは尊敬とともに信頼している。
その信頼をもってしても、完全には否定しきれないのは……日宮ゆかりが美人だからだ。
それこそ緒方精次や塔矢行洋が彼女を狙っていると言われて、笑い飛ばすことができないくらいには。
9割9分の信頼と、1分の疑惑。
それが、塔矢アキラの頭を悩ませる。
たしかめたい、という思いがある。
同時に、知ってしまうのが怖い、とも思う。
もし、緒方や塔矢行洋が恋愛的な意味で彼女に惹かれてしまったのだとしたら……アキラは平静でいられる自信がない。
だから、本人に問いただすことができないままに。
塔矢アキラは、今日も複雑な視線を日宮ゆかりに送るのだ。
「あの……塔矢くん、わたしになにか御用ですか?」
「お構いなく」
「あんまり見られてると市河さんの目が怖いんですけど……」
「お構いなく」
そんなやり取りは、常連の皆に生暖かい目で見られながら、進藤ヒカルがやってくるまで続くのである。