女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
「進藤くん。また会ったね」
時が過ぎ、中学の囲碁団体戦が終わってから、しばらく。
商店街を歩いていると、書店から出てきた進藤ヒカルを見つけたので、ゆかりは声をかけた。
声をかけるにはやや離れていたため、小走りに駆け寄る姿は、見様によっては少々危ないが、ゆかりにとっては大事の前の小事である。
「え、えーと……あ、塔矢の碁会所のお姉さん! 若い方の!」
ゆかりのせいで市河さんに深刻な風評被害が生じている。
「そうそう。碁会所のお姉さんの日宮ゆかり。こんなところで奇遇だね、進藤くん」
「え、オレの名前をなんで……あ、囲碁サロンで」
「うん。サインして貰ってたし……なんだか妙に縁があったからね。また会えそうな気がしてたんだ」
いけしゃあしゃあと言う。
実際はヒカルの生活圏も行動パターンも把握していて、会いに来ただけである。おまわりさんこいつです。
「ひょっとして、囲碁の本とか買いに来てたの?」
「あー、それとジャンプかな。おかげで今月ゲーム買えなくなったけど……」
「さすが。勉強熱心なんだね。わたしも囲碁の勉強中なんだけどさ。身近に打つ相手がいないから、なかなか苦労してるんだよね」
「へえ、おねーさんも碁、打てるんだ?」
「うん。こう見えてけっこう強いよ。でも友達みんな囲碁に興味がないから……せっかくこういうの持って行っても、五目並べしかやってくれないし」
言って、カバンからマグネット式の小さな碁盤を取り出す。
「わ、ちっちぇー! でも碁盤だ……佐為、騒ぐな!」
後半は小声だったが、ゆかりはばっちりと聞きつけている。
狙い通り、佐為が食いついてきた。あとはヒカルをその気にさせれば。
「そうだ! 進藤くん、わたしと打ってくれない? お礼にラーメン奢るから!」
「え、ホントに? やるやる!」
ヒカル用のエサを示すと、一瞬で食いついてきた。
そんなにラーメンが好きなのか。わかるよ。
ゆかりは内心で、深く同意した。
●
それから、近くの公園に移動して。
休憩所の石のテーブルで、二人は対局を始める。
碁盤を広げ、石をより分けて、対局の準備を済ませたゆかりは、懐から白扇子を取り出した。わざわざ棋院まで行って購入したものである。
ヒカルがゆかりと背後を交互に見ているのは、佐為の扇子と見比べているに違いない。
扇子を開いて口元を隠しながら、ゆかりは心のなかで手ぐすねを引く。口の端は、ヒカルにはお見せできない感じにつり上がっている。
──さて、ヒカルが出るか佐為が出るか。
この対局、佐為が出てくる公算が高い。
なにせゆかりは、塔矢アキラと佐為の対局を知っているのだ。
不審に思われないためには、佐為に打たせるはず……なのだが、ヒカルが「オレが打ちたい」という衝動に抗えない可能性も、なくはない。
──ヒカルが打つなら、オマエが囲碁を嫌いにならないよう、たっぷり甘やかしてやるよ。
ヒカルが碁を嫌いにならなければ、またチャンスは来るはずだから。
心の中でそう決めて、ゆかりは目をつぶる。
──でも、佐為が打つなら。
目を開き、マグネットの石を握る。
ゆかりは白。先番のヒカルが、左下隅小目の位置に、黒石を置く。
そこに佐為の気配を感じて──ゆかりは無意識に口の端をつり上げる。
──っと、あぶないあぶない。ヒカルを怖がらせちゃダメだ。
気づいて、ゆかりは自重する。
最初の一回は大事だ。
いくら佐為が望んでも、ゆかりとの対局に息苦しさを感じたら、ヒカルがおよび腰になってしまうかもしれない。
──会話は楽しく、笑顔は優しく。
そして、打つ手は美しく。
佐為の布石に合わせて、静かに白石を打つ。
白と黒、二色の石が、盤面を鮮やかに彩っていく。
戦いは静かに始まった。
左下隅から中央に広がる黒の一団に、ゆかりの白石が突き刺さる。
左辺全体を巻き込んだ戦いはたがいに譲らず、五分のワカレとなる。
──さあ、ヒカル。オレたちの
石の流れは綺麗でよどみない。
紡がれる棋譜の美しさは、いまのヒカルにも理解できるだろう。
これは指導碁だ。
佐為が厚意から始めて、ゆかりが精一杯に応えた攻防。
ゆかりの技量を量る一手が、次第に厳しいものになっていく。
すべての問いに、優等生のように答えて……最後は半目差の負けで決着がついた。
「……ふう。ありがとうございました」
「ビックリした。お姉さんスゲえんだな」
「ははは、それはこっちのセリフだよ。とんでもなく強いね進藤くん……やっぱり中盤のここで後手踏んだのが敗因かな?」
「えーと……そうだな。そこはノビて先手でこっちに手をつけたほうが大きかったかも」
佐為からの伝言なのだろう。
ヒカルが半ば棒読みで敗因を説明する。
その指摘に、在りし日の佐為を思い出す。
ヒカルの言葉が、佐為の言葉で再現される。
──ああ、佐為と打てたんだ。
ゆかりは感動に身を震わせる。
出来れば指導碁などではなく、自分のすべてを佐為にぶつけたい。
だけど、いまはまだ無理だ。準備が整っていない。
佐為の碁を現実のものにしている進藤ヒカルが、精神的にあまりにも未熟なのだ。
──早く熟せよ、進藤ヒカル。オマエの準備が整ったら……いまの佐為が知らない
白扇子を指先で撫でながら、ゆかりは心のなかで佐為に語りかける。
その視線は、獲物を狙う獣のそれで……そんな視線を男子小学生に向ける女子高生が居るらしい。
○
「進藤くん、今日はありがとうね」
ラーメン屋で注文を済まして、待つ間。
ゆかりはヒカルに、感謝の気持ちを伝えた。
絶対にかなわないはずだった佐為との対局を、実現してくれたのは、ヒカルだ。
たとえ本人が無自覚でも、ゆかりがそう仕向けたとしても、お礼は言っておきたかった。
「いいっていいって。佐為もよろこんで──違う違う。かわりにラーメン奢ってもらってるんだし」
「でもほんとに楽しかった。いままで打つ相手が居なくて困ってたから」
「……えーと、おねーさんはどうやって碁の勉強を? 師──先生とかいなかったの?」
この問いは、佐為がヒカルに頼んだものだろう。
「ゆかりでいいよ」と前置きしてから、ゆかりはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そうだね。しいて言うなら本因坊秀策かな」
「えっ虎次郎?」
秀策のことを幼名の虎次郎で呼ぶのは、わかる人にしか伝わらないんじゃないだろうか、と思いながら、ゆかりはうなずく。
「そう。秀策の棋譜は、ずっと並べてるから」
「キフ? なるほど、対局で打った手順……それで、虎次郎が先生なんだ」
「まあね。でも進藤くんも似たようなものなんじゃない? 進藤くんの打ち回し、ものすごく秀策っぽい」
「え? あー、そうそう。オレも虎次郎ベンキョーしてて。ハハハ」
盛大に目を泳がせながら、ヒカルは答えた。
そんな少年に、ゆかりはズイ、と身を寄せる。距離が近い。
「ねえ、進藤くん。これからもさ……わたしと打ってくれない? なんでも好きなもの、奢ってあげるからさ」
「えっなんでも──っ、佐為! よろこぶな! 騒ぐな!」
佐為が騒いでいるのか、目を輝かせたヒカルは次の瞬間、悶絶する。
ゆかりは佐為の姿を想像して、慈しむような目でヒカルの様子をながめている。
「わかった。そんなにオレと打ちたいんだったら、つき合うよ……ゆかり姉ちゃん」
「ありがとう進藤くん!」
感激して、ゆかりはヒカルの手をぎゅっと握りしめる。
さきほどからの様子に、通報したほうがいいのか迷いながら、店主は出来上がったラーメンをふたりに差し出した。
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