女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい【完結】 作:寛喜堂秀介
春、始まりの季節。
4月になって、進藤ヒカルは葉瀬中に進学した。
入学前から縁のあった囲碁部に入って、海王中打倒を目標に頑張っている。
なので新学期になってから、ゆかりはヒカルと会う機会がめっきり減ってしまった。
「春までは週に2日は会えてたのに半減状態……どうして……」
高校2年生になった日宮ゆかりは、悲しみに暮れた。
「週イチは会えてんじゃん」とゆかりの友人たちは思ったが、誰もツッコまなかった。もはや処置なしだと知っているから。
友人たちは、ゆかりのことをショタコンだと信じて疑わない。
女同士の友情を放棄して、男子小学生と遊び倒してる女への評価としては、極めて真っ当だろう。
しかも会計の類はすべてゆかり持ち。
ショタに貢ぐ女子高生がここにいた。
むしろ友達続けてくれてるだけ温情である。
そんなこんなで、新学期に入ってしばらく経った日曜日。
バイトの出勤で囲碁サロンにやってきたゆかりは、なんというか、どよん、と沈み込んだ塔矢アキラの姿を見つけてしまった。
市河さんいわく、ヒカルが碁を打ってくれない……どころか顔も合わせてくれないのが原因らしい。
──気持ちはわかる。オレもこのところヒカルと会う機会減ったし。
ゆかりはアキラに優しい視線を向けた。
週イチで会って対局している上に、いっしょに食事までしているくせに同類ヅラである。
「そういえばゆかりちゃん、買いたいって言ってた碁盤はもう買えた?」
淀んだ空気を変えようと思ったのか、ふと市河さんが尋ねてくる。
「はい。無事買えました。安いやつですが、脚付きです」
「素敵ね。いいお道具を買うと、打つのが楽しいんじゃない?」
「それはもう」
ゆかりは笑顔で答える。
実際、自分で働いて稼いだお金で手に入れたと思うと、碁石を触るのが楽しくてしかたない。
「でもうれしいわ、ゆかりちゃん。ここでのアルバイト続けてくれて」
「やっぱりここの雰囲気好きだし、他に欲しい物もありますし、ご迷惑でなければ、まだまだお世話になりたいです」
ヒカルとのラーメン代も稼がないといけないし、と言葉を続けるのは、アキラの手前自重した。
「へえ、碁盤の他に? なにが欲しいの?」
「いま欲しいのはパソコンかなあ……といっても、けっこう無駄遣いしちゃってるので、現在お父さんに融資を希望中です」
パソコンが欲しいのは、ネット囲碁を始めるためだ。
夏休みには、ヒカルは三谷のお姉さんがバイトしているインターネットカフェに入り浸り、“sai”として囲碁界に一大旋風を巻き起こす。
そんな“sai”と打ちたい。あるいは、上手くやればパソコンを使わせるという名目で、ヒカルを部屋に連れ込むことすら可能かもしれないと、ゆかりは目論んでいる。事案である。
「パソコンかー。いいわねえ。でも私はちょっと尻込みしちゃうかなあ……ゆかりちゃんはパソコンくわしいんだ?」
「実はあんまり。マウス動かしてネット囲碁するくらいなら、って感じですかね」
「──ふたりとも、こんにちはー」
そんな風に雑談していると、空気をふわふわさせることに定評のある芦原さんが入ってきた。
助かった、と思ったのは常連たちもいっしょだったようで、皆救われたように芦原さんに声をかける。
「はいみなさんこんにちは──おやアキラ。どうしちゃったのそんなに落ち込んで」
とりあえず芦原さんマジ救世主、とみんな思ったという。
●
「へえ。じゃあ囲碁部の男子、3人そろったんだ」
「ああ。しかも強ぇやつがな。これで団体戦に出れる。海王中打倒に向けて一歩前進だ!」
「即戦力の子なんてよく見つけられたね。どこで見つけたの?」
「こないだひとりでラーメン食いに行ったとき、碁会所に強い中学生が居るって話聞いたんだ。気になって行ってみたら、そいつ同じ中学のヤツだったんだよ。強いぜ。オレの次にだけど」
5月に入って何度目かの対局の日。
ヒカルは興奮気味に、囲碁部での出来事を語った。
ヒカルの次に、という言葉に、ゆかりは違和感を覚えた。
この頃のヒカルは、筒井部長にも負けて葉瀬中の三番手だ。
三谷とやったら10戦して10敗はカタい。それくらいの実力差はあった。
だがよく考えるとゆかりは
ここで「オレより強い」なんて言う方が、話がややこしくなるだろう。
──でもオレ、とっさに誤魔化せるほどアタマよかったかな?
そう思わなくもないが、ヒカルには佐為が居るので、不思議ではない。
「じゃあ頑張らないとね。打倒海王中、打倒塔矢くん」
「……ん? なんでソコで塔矢が?」
「だって塔矢くん、ヒカルくんと戦うために海王中の囲碁部に入ったみたいだから……」
「え、オレを追いかけて? 学校に押しかけてきただけじゃなく? オレと打つために? うっそだろ……」
どん引きするヒカル。
その心情はゆかりにもわかる。
団体戦の会場でいきなり塔矢がやってきて「海王中の三将はボクだ」とか言ってきた時は正直ビビった。
──いまなら塔矢の佐為への執念は、痛えほどわかる……佐為への執念ならぜってー負けねえけど。
妙なところで対抗意識を燃やしつつ、ゆかりはヒカルに微笑みかけた。
「それだけ惚れてるのかもね。キミの打つ碁に」
「はあー? 惚れてる? ないない」
「そうかな? そうじゃなきゃプロ行きをそっちのけにして、キミを追いかけたりはしないと思うけど」
「え、プロ? 塔矢が? たしかにそんなコト言ってたけど、そりゃもっと先の話だろ?」
「そんなことないよ。囲碁の世界って、強い人なら中学くらいでプロになっちゃうらしいし……塔矢くんはいまでも、低段のプロに混じって頭を取れるくらいには強いよ」
なにせ、プロ試験は欠席した初日以外全勝。
プロに入ってからも、無敗街道を突っ走り、一年半後にはトッププロに混じって打つほどになったのだ。実力も成長も飛び抜けている。
「まじで? そんなやつが佐為……オレを……」
ヒカルが身を震わせた。
だが、塔矢アキラが執着するのも当然だ。
佐為の実力は、現状でもトッププロレベル。
ネット碁の経験を経て強くなった佐為は、碁界の頂点──塔矢行洋に匹敵する。
自分と同い年でそれほどの実力者を見つけてしまったのだ。そりゃ脳も焼かれる。
──なんだろう。いまのオレになってから、塔矢の心理がわかるようになった気がする。
塔矢アキラと同じく、佐為を追いかける立場になったからだろうか。
負けないが。と、ゆかりはいちいち対抗心を燃やす。
「……なあ、ゆかり姉ちゃん。ちょっと公園に戻んない? 見てほしい棋譜があるんだけど」
「いいよ。でももう暗いから、喫茶店にしようか」
場所を喫茶店に移して、ヒカルはひとつの棋譜を並べた。
片方は三谷だろうか。
碁会所仕込みらしく荒いが力強い棋風。
もう片方は……かなり強い。
力強く、ぐいぐい押していく碁。
将棋部主将の加賀あたりかと、ゆかりは見当をつける。
「片方は囲碁部に入った即戦力の三谷だけど……こっちの方、どれくらいの強さだと思う?」
「……並の実力じゃないね。院生──プロの卵でもないと相手にならないと思う」
「じゃあ塔矢とくらべたら、どれくらい差がある?」
「3子……いや、4子。それくらい置き石がないと、まず勝ちの目が見えない」
ゆかりの言葉に、ヒカルは真剣な表情で考え込む。
「……なら、塔矢とオレの差は?」
塔矢と佐為の差は、ということだ。
おそらく定先か2子。ゆかりはそう判断したが、そのまま口にはできない。
「ごめんなさい。わたしはまだ、ヒカルくんの本気を知らないから」
ゆかりと佐為は、まだ真剣勝負の碁を打っていない。
勝負の場の空気は過酷だ。未熟なヒカルを気遣って、双方の暗黙の了解で、指導碁にとどまっている。
「だったら本気で打つ! それならわかるよな!?」
ムキになって、ヒカルはぐい、と顔を寄せてくる。
なぜそこまでこだわるのか、疑問に思うよりも先に。
ゆかりはヒカルの言葉に反応して、逆におでこをぶつけんばかりに顔を近づける。
「
その口は、歓喜の形につり上がっていた。
○
喫茶店のテーブルに置かれた小さなおもちゃの碁盤。
震える手でマグネットの碁石をつまみながら、日宮ゆかりは喜悦を抑えきれない。
──そろそろ大丈夫だよな? 実力はともかく精神的には……多少怖い目みたところで、碁を辞めたりはしないよな?
やっとだ。
やっと佐為に、自分のすべてをぶつけられるんだ。
ゆかりは手に持つ白扇子を、曲げ折らんばかりに強く握りしめる。
先番はゆかり。
抑えきれない衝動をなだめるように、深呼吸。
ゆかりはそれから、右上隅の星に、黒石を打ちつけた。
始まりは、いつもの指導碁のように、ゆるやかに。
だけど待ちきれない。布石を途中で放棄して、左下隅の白の模様に切り込む。
──佐為なら、厳しく咎めてくる。その一閃をサバいて白模様を荒らす!
「──っ!」
碁石を持つヒカルが小さく声を上げる。
囲碁の道を歩み始めたばかりのヒカルにも、激しい戦いが始まるのがわかったのだろう。
──地力じゃ勝てねえ。だからといって縮こまった手なんて見せられねえ。見ろ、佐為。これがいまのオレの碁だ!
左辺で激しい戦いが巻き起こる。
それは下辺をも巻き込んで、白黒の石が、死活定かならぬ混在状態で広がっていく。
──ははっ。この黒が死んだら即死だな……だが活かしてやる!
黒が生き残る筋道は見えている。
ここのヨミにはかなり時間をかけた。ヨミ抜けは絶対にない。
──つっても、戦場が広がりすぎたせいで右辺がずいぶん窮屈になっちまった。
盤面を
この攻防のワカレが黒得でも、地合いではまだ白が優勢だ。
戦局は、まだ佐為の手の内ということだ。黒はさらなる勝負を求められる。それを佐為は許すか。
──楽しい。
よろこびを、抑えきれない。
これが本気の佐為だ。進藤ヒカルが求めてやまなかった佐為の碁だ。
──だが、佐為。オレの中には、いまのお前が知らない佐為の碁が宿ってるんだぜ。
佐為が“sai”としてインターネットの実力者と打ち続け、磨き上げた新たな碁。
その佐為と一番多く、毎日のように対局を重ねて来たのは……進藤ヒカルなのだ。
──読みの深さじゃ勝てねえ。力戦でも勝てねえ。実力差は絶望的だ。だけどな佐為。オレはお前の実力の、一番深いところを知ってる。秀策の棋譜を飽きるほどに並べた。お前とは毎日碁を打ち続けた。お前がいなくなってからも、ずっとオレの中の佐為を追い続けた……だからな佐為。オレが一番お前を知ってるんだぜ。誰よりも。虎次郎よりも。いまの進藤ヒカルよりも!
マグネットの黒石が、碁盤を強く叩く。
この局面で、未来の佐為なら打っただろう、いまの佐為では届かない一手。
──見たか佐為。これが未来の
半目差。
それが勝負の決着だった。
●
「……強え」
震えるような声で、ヒカルはぼそりとつぶやいた。
「いや、言っちゃなんだけど出来過ぎ。普段の実力の倍くらい出せた気がする。もうこんな碁は打てない……進藤くん強すぎ」
心身ともに消耗し尽くして、テーブルに突っ伏しながら、ゆかりは言葉を返す。
「ゆかり姉ちゃん、ほんと何者?」
「ははっ……本因坊秀策の生まれ変わり、って言ったら信じる?」
冗談交じりに返す。
秀策の碁そのものである佐為と一緒だったのだ。間違ってはいない。
「虎次郎の? いや、違う。虎次郎の棋風じゃねえ」
佐為がそう言ったのだろう。ヒカルが頭を振る。
「だよねー。じゃあその教え子ってことで……これからもよろしくね?」
信じられるとは思っていない真実を口にして。
ゆかりは疲れた顔に満足げな笑みを浮かべた。
この日ゆかりは門限を破って母に怒られた。
ラーメン屋で食事した後さらに一局打ったのだから当然である。
門限を破ったことより、どちらかというと女一人で夜道を歩いて帰ってきた、その自衛意識の低さが母の怒りを買ったようだが。
だからといってヒカルに家まで送ってもらってても、それはそれで説教されてた気がする、とゆかりは思った。
当然である。