女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
同じ週の日曜日。
ゆかりはヒカルを自宅に招待した。
この日のバイトは無理言って休ませてもらったが、かいつまんで事情を説明すると、市河さんにはむしろ応援された。
男子中学生を部屋に呼ぶことのどこに応援する要素があるのかわからないが、ともあれ都合はいいので、ゆかりは厚意に甘えることにした。
それはともかく。
ゆかりの部屋をひと目見て、ヒカルは歓声を上げた。
「うわ、本当にパソコンがある。それに碁盤や碁石も。すげえ!」
昔はもう少し女の子らしさの名残があった気がするが、部屋はすでに囲碁一色である。
おかげで友人を部屋に招いた時「女子高生の部屋か? これが……」とドン引きされたが大丈夫だ。犯罪者扱いじゃないだけいつもよりマシだ。
「ふふーん。なかなかでしょ? さ、パソコンデスクに座って。説明するから」
そう言って、ゆかりはヒカルを椅子に座らせる。
それから、パソコンを立ち上げ、ワールド囲碁ネットにアクセス。
「名前は……とりあえずわたしが使ってるやつで入るね」
「“yukari”……ゆかり?」
「うん。名前はわりと好き勝手入れていい感じ。わたしみたいに下の名前とか、イニシャルとか、アニメとかゲームのキャラとかバラバラ……ほら、リストの名前見てみて」
「いやぱっと見わかんねーよ。英語だもん」
「わかる。ローマ字とっさに頭に入ってこない」
低いところでわかりあっている中学生と高校生がいるらしい。
「──まあ相手は適当に選びましょうか。持ち時間はここで設定して……うん。オッケー」
試合をスタートさせると、早速相手が左下隅の星に石を置く。
「こんな感じでクリックして石を置いていって……マウス操作をしくじって別の場所に置いちゃわないように気をつけてね」
モニタの中の碁盤に、どんどん石が並んでいく。
「打つの早えな。早碁みてーだ」
「ゲームみたいなものだしね。こんな風に早い展開になることが多いよ。まあじっくり打ちたいなら、持ち時間を長めにすればいいと、思う、よっと」
「……なあ、これ相手強くねえか? ゆかり姉ちゃんにぜんぜん打ち負けてねーんだけど」
「うん、強い。早碁なのに読みが的確で手順も正確。ひょっとしてプロかもね」
「え、プロともやれん──っ!? 騒ぐな佐為!」
プロと打てるという言葉に佐為が食いついたのか、ヒカルが悶絶する。
佐為の姿を想像して微笑みながら、ゆかりはスルーして説明を続ける。
「日本、海外問わずね。アマでも強い人多いよ……ただまあ、あくまでゲーム感覚だからね。手合みたいな真剣勝負の碁になることは少ないかな……ああ、ほら。踏み込みから形成悪くして白が大きく優勢に……ああ、中押し勝ちになった」
「さらっとプロに勝つのすごくねえ?」
「“かもしれない”だし、早碁だし……まあこんな感じで世界中の強い人と打てるから、ヒカルくんにもいい勉強になるんじゃないかな?」
ゆかりの言葉に、ヒカルはキラキラと目を輝かせる。
「うん、ありがとうゆかり姉ちゃん! 次はオレが打っていい?」
「どうぞどうぞ。名前変えるならログアウトして入り直すけど」
「せっかくだからそうしようかな。名前は……うん。s、a、iっと」
「“sai”? “hikaru”じゃないんだね」
「それじゃゆかり姉ちゃんとおそろいじゃん……テキトーに漫画から取っただけ」
ゆかりが尋ねると、ヒカルはそんな風にごまかした。
「残念。おそろいにはなれなかったか──と、上手い上手い。そう、そこで設定して、スタートで」
「お、始まった。先番はオレ……行くぞ。右上隅小目」
対局は、中盤に差し掛かったあたりで形勢を覆すのは無理と投了してきて、中押し勝ち。
その後ヒカルは3度ほど対局して全勝。最後の対戦相手は一柳棋聖だった気がするが、ゆかりは見なかったことにした。
序盤の緩手が祟って最後まで挽回できずのいいとこなしに終わった一般通過棋聖は居なかった。いいね?
●
夏休みに入った平日の昼間。
ヒカルが来ない日もネット碁に勤しんでいたゆかりは、リストに“sai”の名前を見つけて苦笑した。
「あいつ、オレのとこで打つだけじゃ物足りなくなって、
おそらく三谷のお姉さんがバイトしてるインターネットカフェだろう。
即座に対局を申請したが間に合わなかった。
こんにゃろめ。と、ゆかりは抜け駆けしたおじゃま虫をにらむ。
「遠慮することないのに。別に休み中毎日来ても、迷惑どころか望むところだし」
まあ、母からはクドいほどに「犯罪は犯さないように」と釘を刺されているけど、風評被害である。
そんなことを考えている間にも、対局は進む。
対戦相手の腕は、そこそこ。情勢判断が正確だからこそ、あっというまに投了してしまった。
──強くなってる。
ネット碁を始める前の佐為よりも、明確に。
記憶にある未来の佐為の領域へと近づいている。
ゆかりとて、佐為との対局を重ねることで成長してきたつもりだ。
だがネット碁を始めてからの佐為の成長速度は、ちょっと異常だ。
「……負けてられないな。よし、次はオレだ──ああ、ログアウトしちゃった!?」
対局が済んだ“sai”に挑戦しようとしたところで、対戦相手の一覧から“sai”の名前が消えてしまった。
「まだ日も高いんだけど。もうちょっと打てよなー」
“sai”の消えた画面を指先でツンツンして抗議していると、唐突に対戦の申込み画面が開いた。
「──っと、ちょうどいい。消化不良だからつき合ってもらおうか。相手は……“hikaru”? ひょっとしてヒカルか? ええい佐為を出せ佐為を」
文句を言いながら対局を始める。
たがいにゆるりと石を戦わせ、布石が形になり始めたあたりで、ゆかりは口を結ぶ。
「……いや、こいつヒカルじゃねえ。いくらなんでも強すぎる。実力は、フクくらいかな? ……というかひょっとして本人か?」
福井雄太。通称フク。
早打ちが得意な、院生1組の実力者。
手応え的には彼に近い。棋風に違和感を感じるが……
「いや、フクでもねえ。でも、どこかで見たことあるような……と、強いな」
ヨミが深い。攻撃が鋭い。
果敢に打ち込んでくるその様は……どこか佐為に似ている。
「……ダメだな。キラいになっちまいそうだ」
たしかに強い。実力で言えば文句なしの院生上位。ひょっとしたらトップクラスかもしれない。
“sai”の碁を参考にしているのだろうか。棋風には佐為の色が濃く出ている……が、まだまだ研究が足りない。甘すぎる。
「佐為はそうは打たねえ」
踏み込んできた石をぶっちぎって、上辺の一団を巻き込んでコロす。
一刀両断。“hikaru”は挽回する手段を模索してか、ギリギリまで長考した後、やっと投了してきた。
終わってから、ゆかりは深く息を吐く。
「棋風をマネてくるヤツまで出てくるって……マジで“sai”、話題になってたんだな」
“sai”に関わる騒動について、ヒカルは後から知った。
プロもアマも巻き込んで、当時囲碁界で話題を席巻した、と聞いていたが……その兆候は、すでに出始めているらしい。
○
8月に入って、“sai”は、ますます存在感を増している。
インターネットの囲碁関係のサイトでは、“sai”の話題で持ち切りだ。
このぶんだとリアルの囲碁界も、さぞかし騒がしくなっていることだろう。
「“sai”ならオレの腕の中にいるよ」
「むぎゅ。なに言ってんのゆかり姉ちゃん」
掲示板を見ながら自慢気に胸を張ると、ヒカルがジト目で突っ込んだ。
椅子に座るヒカルの後ろから、ゆかりがマウス操作しているので、間違ってはいない。
正確には、佐為はヒカルの右側後方。ちょうどヒカルを挟んでゆかりの反対側にいるのだろうが。
「冗談冗談。でもほんとにすごいねヒカルくん。囲碁サロンでも、芦原さん……プロの人が、すごく強いやつがネット碁に居るって話してたよ」
「プロでまで? マジで?」
「ま、話題が広まれば強いヤツが挑戦して来てくれるから、いいことなんじゃない? “sai”はプロの誰だ? プロじゃないとしたらどこの何者なんだ? みたいな話にはなりそうだけど」
「そっか……謎の最強棋士“sai”。もっと広まるといいな!」
「うん。そのためには強い相手とどんどん打たないとね」
「──ああ!」
言って、ヒカルは再びワールド囲碁ネットを起動する。
その時、部屋のドアがノックされた。
ゆかりの母だ。おやつを持ってきたのだ。
この母、実の娘を信用しきれず、定期的に部屋の様子をうかがいに来ているのである。
「はいはい。いま開けるから」
ゆかりがドアを開けると、母は冷たいジュースとおやつをお盆ごと渡しながら、顔を寄せてくる。
「あんた、人様の子を、しかも子供を預かってるんだから、お天道様に恥じるような真似はしちゃダメだよ」
「しない。囲碁しかしてない。というか何度目? なんでそんなに信用ないの?」
「我が娘が小学生と、バイトした金で遊んでると聞いたときの母の気持ちを200文字以内で答えよ」
箇条書きにするととんでもねえショタコン野郎である。
くれぐれも、と念を押す母親を追い出して、パソコンデスクにジュースとお菓子を並べると、ヒカルがはたと手を打った。
「そういえばさ。三谷の姉ちゃん、ゆかり姉ちゃんのこと知ってたぜ?」
「三谷って、囲碁部の子だよね? その姉で、三谷……隣のクラスにそんな名字の子が居たような?」
ゆかりも、三谷の姉のことは覚えてる。
クラスメイトだったらすぐにわかっただろうが、さすがに隣のクラスだと自信がない。
「なんか、いろんな意味で問題ある子だから気をつけてねって言われた」
そりゃあかわいい弟の友達が、年上の女に狙われているとなれば、心配して忠告の一つもするだろう。
ゆかりにとっては心外すぎる話だが。
「ゆかり姉ちゃんの家に行くときは、必ず親に伝えて、帰る予定の時間もちゃんと言っておくこと。小銭は絶対持っておくこと。あと最寄りの公衆電話と交番の位置も教えてもらった」
「心配の仕方がガチ過ぎる……」
そのレベルで警戒されていることに、ゆかりはちょっと傷ついた。