女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
囲碁界が“sai”の話題に終始した夏も、もうすぐ終わる。
だが話題の当人はといえば、そんな様子も知らないまま、ゆかりと碁を打つ日々を送っている。
場所はいつもの公園……じゃない。
暑いのと、ちょうど気になるラーメン屋さんがあったので、その近くの喫茶店だ。
4人席にゆったりと座り、碁盤をはさんで対局と検討を終えたふたりは、まったり雑談を始めていた。
「ふーん。じゃあ塔矢はプロ試験、まだ無敗なんだ?」
「まあ実力が飛び抜けてるからね。むしろ黒星ついたら、いったいなにが起こったんだってレベルだし」
話題はプロ試験を受けている塔矢アキラについてだ。
塔矢のホームである囲碁サロンに勤めているゆかりは、彼の情報に困らない。市河さんも居るし。
「……なあ、院生って弱えの?」
「そんなわけないでしょ。院生のトップともなれば、実力的には弱いプロとそう変わらないよ」
「だよなあ。塔矢のやつは、そんなヤツらでも蹴散しちまうってことか」
「当然キミも、なんだけどね」
そんな話をしていた時だった。
「──なんだと? 聞き捨てならねえな」
とても馴染みのある声が、頭上から降ってきた。
振り向くと、間違いない。ゆかりの記憶よりいくぶん若い、かつての仲間──和谷義高がそこに居た。
なんでこんなとこに、と思ったが、考えても仕方ない。
不機嫌絶頂といった様子の和谷は、ヒカルに視線を向ける。
「──そこのチビが、院生なんか相手にならないくらい強いって?」
「チビじゃない! 進藤ヒカルだ!」
「進藤……聞いたことねーな。塔矢はともかく、オマエも塔矢並に強えってのかよ?」
──マズイな。
ゆかりはひそかに眉をひそめる。
ここでヒカルが佐為に打たせる展開は悪手だ。
なにせ和谷はヒカルと同期のプロになるのだ。
対局の機会も、観戦する機会も、無数にある。
いま佐為と打ったら、ヒカルの素の実力とのギャップに不審を抱く可能性は高い。
かといって、いまのヒカルの素の実力は……
同時期のゆかりだと、ようやく三谷と勝負になり始めた程度。
それよりは相当上だろうが、それでも院生トップクラスの和谷相手には歯が立たない。
──仕方ねえ。オレが矢面に立つか。
そう決めて、ゆかりは和谷に向けて言い放つ。
「──ヒカルくんは強いよ。それこそ院生じゃ勝負にならないくらい」
「なんだと? というか、てめーはてめーで誰だよ」
「ただの女子高生だよ……キミよりはよっぽど強いけど」
「言ったなおい! そこまで言うなら勝負しろ!」
狙い通り、挑発に食いついてきた。
口元を隠すように開いた白扇子の下で、ゆかりはほくそ笑む。
「いいよ。ここでやる? それともどこか碁会所行く?」
「ここで十分だ!」
怒り顔の和谷は、ヒカルを席の端に押しやって、どっかと座る。
ニギって、結果は和谷の先番。
小さな碁盤に、マグネットの碁石が打ち付けられる。
怒りで冷静さを欠いたのと、ゆかりの予想外の手強さに焦ったためだろう。
和谷の打ったマズい手を咎め、大勢を決するのに、それほど手はかからなかった。
負けて、頭が冷えたのだろう。
和谷は深呼吸してから、頭を下げた。
「負けました……すまん。口だけじゃねえ。あんたは強い──だが、ナニモンだ? プロじゃねえよな?」
「言ったでしょ、ただの女子高生だって。名前は日宮ゆかり」
「日宮ゆかり……ゆかり……? なあ、ひょっとしてだけど、ネット碁やってたりしないか?」
「ワールド囲碁ネットの高段位帯で、ローマ字で“yukari”なら、たぶんわたしだと思うけど」
「どうりで……冴木さんもヤラれてる相手なら、この強さも納得だ」
どうやら、ネット碁で対戦した相手に、同門の先輩でもあるプロ棋士の冴木さんがいたらしい。
「──あらためて、すまない。プロ試験中でちょっと神経質になってた。迷惑かけたな。お詫びになにかオゴらせてくれ」
ゆかりとしては、そこまでしてもらうのも気が引けるのだが、この言葉にヒカルが目を輝かせた。
「ほんとに? じゃあオレラーメンがいい!」
「おまえな、頼むならフツーここのメニューだろ……あー、わかったわかった。ラーメンだな? 日宮さん、も、それでいいのか?」
「もちろん。わたしもラーメン大好きだから、気を使わなくてもいいよ」
そう言って、ゆかりはえっへんと胸を張る。
「なら移動するか。この近くにラーメン屋あるけど、そこでいいか?」
「もちろん オレたちそのために来たんだ!」
和谷が席を立つと、上機嫌のヒカルが続く。
──なんかオマエら仲良くなるの早くねえか?
そんなことを思いながら。
ゆかりは伝票を持って、あわててふたりの背を追いかけた。
●
「え、じゃあ次の日には、また和谷くんと会ってたの?」
和谷に奢ってもらった、しばらく後。
ネット碁をやるため、ゆかりの家にやってきたヒカルは、真っ先に、和谷と会ったことを報告した。しかもうれしそうに。
「ああ。駅で待ち合わせて、それからいっしょに碁会所に行って対局して……碁会所のおじさんたちとも打ったよ! こういうとこで緊張するのなら、場慣れしたほうがいいって」
ゆかりは心のなかで歯噛みした。
たしかにゆかりも、プロ試験の時、初めて椿やおじさん連中と対局して、いつもの碁が打てなくなってしまった。
そこを鍛えてくれるのは、正直ありがたい。前世に続いて、ヒカルの世話を焼いてくれる和谷には、感謝すべきかもしれない。
──でも、ぜんぜん腑に落ちない。ヒカルの面倒はオレが見てたのに……和谷ぁ!
「それから、次の日にも会って、そん時は伊角っていう高校生のにーちゃんといっしょだったな。伊角さん、院生のトップクラスでつえーんだぜ!」
──伊角さんとも……和谷ぁ!
たしかにヒカルには、素のヒカルの実力を知る碁打ち相手が必要だ。
以前院生を勧めたのもそれが理由なのだが、棋院の外でまで打つとなると話が違う。ゆかりが佐為と打つ機会が減ってしまう。それはイヤだ。
感謝はあるが、恨みも深い。
和谷にどういう感情を向けたらいいかわからなくて、ゆかりは心のなかで叫ぶしかない。
「和谷たちには院生の話をイロイロ聞いたけど……やっぱプロの卵だな。オレ、プロのこと全然知らなかったよ」
──和谷ぁ!
「でも、和谷や伊角さんと打てるなら、正直院生にはなんなくてもいいかって思うんだよなー。和谷のやつ、また強いヤツ紹介してくれるって言うし」
「ソウカナー。その強い子たちとは棋院で打って、空いた時間はわたしと打ってくれたほうが、お姉さんウレシイカナー」
ちょっと顔をひきつらせながら、ゆかりは厚かましいことを要求する。
笑顔で流されたが。
「まあ、院生になるにしても、12月の募集だな。和谷に話聞きながら、ちょっと考えてみる」
──和谷ぁ! オレに知恵つけすぎだ和谷ぁ!
そのうち逆に教えられる立場になるんじゃないかと、ゆかりは恐怖を覚えた。
年下の自分にモノを教わっている姿は、想像するとダメすぎる。
「……そういや、ゆかり姉ちゃんってプロになんねーの? 和谷言ってたぜ。ゆかり姉ちゃん塔矢並につえーって」
と、そんなことを、ヒカルは尋ねてきた。
この時点の──まだトッププロとの対局経験もない塔矢と同格扱いはちょっと不満ではあるが、プロになってないのがおかしい類の人種ってことだろう。
だけど。
「わたしはプロにはならないよ。ずっとヒカルと打ってたい」
ゆかりは想いを伝える。
プロを志す者たちに、そしてプロ棋士に、自分が混じるわけにはいかない。
これからヒカルはプロへの道を歩み、佐為が他人と打つ機会はどんどん減っていく。
そんな佐為のことも考えずに。「ヒカルと打ちたい」って、「私はもう消えてしまう」と必死に訴えかけてくる佐為を、
──今度は、そうはさせねえ。オレは最後まで、佐為と打ってやれる存在になる。
ゆかりは決意を胸に秘める。
そのためなら、日宮ゆかりはプロには執着しない。少なくとも佐為が消える、その時までは。
最近母親の、将来どうすんのって圧が強くなってきたけど。おバカすぎて行ける大学みつかんないけど。
……オレの将来も、なんとかならないかなあ。
動揺を隠すためか、母が持ってきたジュースをあわてて飲む、ヒカルの姿をながめながら。
ゆかりは心のなかでボヤいた。