女子高生に生まれ変わったヒカルは佐為と打ちたい 作:寛喜堂秀介
「そういえば、この間芦原先生から聞いたんだけど……ゆかりちゃん、すごく強いんですって?」
夏休みも終わった、ある日曜の昼下がり、囲碁サロンにて。
市河さんは、邪気のない笑顔で、唐突に──そんな爆弾を投下した。
「市河さん! ちょっと! その話は! 別の場所で!」
マズイと思い、ゆかりはとっさに市河さんをスタッフルームに連れ込む。
「ちょ、急にどうしたの、ゆかりちゃん?」
「市河さん、その話……どこまで知ってるか、聞かせてもらっていいですか?」
戸惑う市河さんに、ゆかりは距離を詰めて問う。
芦原さんから聞いた。ということは、間違いなく和谷→冴木→芦原のラインだ。
和谷はゆかりとヒカルがよく対局してることを知ってるから、伝わっているとしたら、それだけは口止めしないとマズい。
「えーと、ゆかりちゃんが院生やプロに勝てるくらい強くて、アキラくんが気にかけてる進藤くんと頻繁に打ってるくらい?」
「オーケー、とりあえず芦原先生の口は封じておくとして……ヒカルくんとのことは、他言無用で、どうかお願いします」
ずい、と距離を詰めながら、ゆかりは頭を下げる。
その必死さに、市河さんは戸惑いを隠せない様子だ。
「な、なぜって聞いていいかしら?」
「別にヒカルくんと友達だってのはいいんです。でもわたしがヒカルくんと頻繁に対局してることがバレたら、塔矢くんがどうなってしまうか、恐ろしくて」
ゆかりの時と違い、いまの塔矢アキラは、すでにヒカルをライバルと見定めている。
それは普段から態度に出ているし、ヒカルがプロになるまでお預けになった、対局の時が訪れるのを、今日か明日かと心待ちにしている。
そんな彼が、ゆかりとヒカルがしょっちゅう対局してる事を知ったら……想像して、ゆかりは身を震わせた。怖い。完全にダメなやつだ。
理由を説明すると、市河さんは納得したようにうなずいた。
「ああ。アキラくん、あの子にご執心だものね……わかったわ。アキラくんには黙っておくから」
「ありがとうございます。さっきはあわてちゃってごめんなさい」
ゆかりは安堵した。
どうやら穏便に済みそうだ。
胸をなでおろしていると、市河さんは、菩薩のごときほほ笑みを浮かべた。
「大丈夫よゆかりちゃん。私応援してるからね」
「なんのですか!?」
とんでもない誤解をされた予感に、ゆかりは全力で突っ込んだ。
●
それから。
プロ試験が終わり、塔矢アキラの合格が正式に決まると、囲碁サロンは祝福ムード一色になった。
塔矢行洋が経営する碁会所とはいえ、小さい頃から囲碁サロンに通い詰めていた塔矢アキラは、常連にとって「我らが若先生」。皆のよろこびもひとしおだ。
「そうですか。塔矢くん、もうプロ棋士になるんですか」
皆が喜ぶ片隅で、ゆかりも感慨にふける。
塔矢アキラがプロ棋士になり、来年には進藤ヒカルも続く。
当面は棋士にならないと決めた以上、仕方のないことだが……ふたりが遠くへ行ってしまう寂しさは、どうしても感じてしまう。
「ゆかりちゃん、なんだか複雑そうね」
そう言う市河さんも浮かない顔をしているが、理由は絶対に違う。
どうせアキラくんが遠い存在になって、いまみたいな親しい関係でいられなくなるかも、とかそんなやつだとゆかりは確信している。
「いえ、おめでたいですし、お祝いしなきゃですけど……なんというか、中学生の塔矢くんはもう就職先が決まってるのに、わたしは、と思うと、手放しではよろこべないっていうか」
「そういえばゆかりちゃんも、もう高校2年生か。進路のこと考えなきゃいけない時期だものね。進路は大学志望?」
「いえ……わたしちょっとお馬鹿なので……」
ずーん、と沈むゆかり。
柔らかく言っているがちょっとではない。
「で、でもまだ2年生なんだから、いまから勉強頑張れば……」
引きつった笑みで励ます市河さんだが、ゆかりの勉強できなさを見くびっている。
「高校に受かったとき、周りから奇跡だって言われました。高校に入ってからも似たようなあつかいで……お母さんには、あんたお馬鹿なんだから、家事とか料理だけは頑張りなさいって言われて、かなり厳しく仕込まれてます……」
「すでに花嫁修行を……あ、じゃあ進藤くんと仲良くしてるのって……!」
「違います! とんでもない誤解です!」
ものすごい風評被害が生じそうになったので、ゆかりはあわてて否定する。
さすがに結婚相手を小学生のころからロックオンして将来の旦那に……とかいう女版光源氏みたいな評価はごめんである。
だが市河さんの視線は仲間を見るそれだ。おまわりさんこっちもです。
「就職先を探してるなら、ゆかりちゃん。よければ塔矢先生に相談してみましょうか?」
「え、いいんですか市河さん!?」
ゆかりは食いついた。
市河さんが妙に優しいのが気になるが、願ってもない話だ。
「ええ。あいにくここの人手は増やせないけど、先生ならお顔が広いから」
「あ、囲碁サロンは無理なんですね」
「フルタイムとなるとなかなかねえ……たとえばわたしがアキラくんと結婚して寿退社して、とかなら可能性はあるけど」
仮定が厚かましい。
ひょっとしてそれは無理なやつでは、と思ったが、ゆかりは賢明にも口にしなかった。
そんな風にふたりで話していると、ひょこりと。
常連の広瀬さんが首を突っ込んできた。
「ゆかりちゃん。よければ私がいい人紹介してあげようか? ゆかりちゃんくらい気立てがいい子なら、紹介する相手に困らないですし」
まるで紹介する相手に困る人間がほかに居るような口ぶりだと思ったが、ゆかりは賢明にも問いたださなかった。
「いえ、ありがたいんですけど、いまはほかに見ていたい子が居るので」
即答だった。
広瀬さんは、ゆかりと市河さんを交互に見て、残念そうにため息をついた。残念な生き物を見る目だったかもしれない。
一応、弁護の余地はある。
大前提として、ゆかりは「佐為と碁を打つ」ことを悲願としていて、他に目を向ける暇がない。
それ以前に男女のつき合いというものが、いまいちわからない。そもそも恋愛に関してそこまで情緒が発達していない。
だが、それを抜きにしても。
その誤解しか生まない言い方は大問題である。
○
「それで、和谷たちと碁会所で団体戦してさ。負けたら碁石洗いで、相手に石を置かせて!」
塔矢アキラの合格が決まった、しばらくあと。
対局後のラーメン屋で、興奮気味に語るヒカルに、ゆかりはうんうんとうなずく。
「そりゃあヒカルくんと院生の子だもんね。碁会所で一番強い人たちでも、置き石がないと勝負にならないか」
「その時に行った碁会所──道玄坂ってとこで、席料タダで打たせてもらってるんだ! オレと打ちたい人多いからって! 多面打ちとか、持碁狙いとか、いろいろ面白いこともやったぜ!」
「それは楽しそうだね。それにいい
ゆかりの時も、似たようなことがあった。
もっとも、時期を考えれば、半年以上前倒しになっているが。
それがいい影響になってくれるといいんだけど、とゆかりは思う。
すでに進藤ヒカルは、ゆかりとは違う道を歩んでいる。
囲碁に本腰入れだしたのも半年は早いし、この時期に院生や碁会所のおじさんたちと対局しているなら、成長もゆかりのときよりずいぶん早いはずだ。
ただ、ヒカルのいまの強さを、ゆかりは知らない。
気にはなるが、佐為と対局し続けるためには、知ってはいけないことだ。
もちろんゆかりも、プロ棋士を目指すヒカルのことは応援してるし、できる限り協力はしたい。
だから、院生の和谷が、なにくれとヒカルの世話を焼いてくれることには感謝している。それはそれとして、妙な納得のいかなさはあるけれど。
──碁を打つだけが練習じゃない。オレだって、いろいろとヒカルの役に立ってるから! 負けてないから!
「あ、ヒカルくん。お冷おかわりする? コーラ飲みたかったら頼んでいいよ?」
対抗意識から、普段よりもヒカルの世話を焼いてしまうのは、ゆかりにとって仕方ないことなのかもしれない。
そして。その光景が怪しく見えたラーメン屋の店主が、そろそろふたりの関係について尋ねるべきだろうかと迷うのもまた、仕方ないことだった。